いい人間というものが考えの隅にあったならば、少なくとも、こいつはいい人間じゃないという事がすぐに判るだろう。
悪い人間というものが判っていても仕様がない訳だ。何故なら、人間一般が駄目という事がいくら判っても、駄目な事に
詳しくなるだけだからだ。そして、駄目な事に詳しくなると気が滅入るし、それが習慣になると、駄目な事ばかりに気が
付くようになる。では、このような事をしているのはいいの部類に入れてもいいんなじゃいかと考えられる人間の話を
書いてみると、上等な人間というものに気が付きやすくなるように思う。そんな人間はいるのか書いてみてくれ。
2 :
考える名無しさん:05/03/14 22:41:21
プププタンでつか?
3 :
考える名無しさん:05/03/14 22:42:04
脳みそ腐ってないかい >1
ひき?
いいと人間が二つ含まれているから難しいかもしれない。
まあ、人間が基本だろ。
6 :
考える名無しさん:05/03/14 23:18:43
悪い人間をかいたら繁盛
7 :
考える名無しさん:05/03/14 23:25:28
人間は普通、その人の人格しか分析できないからしょうがない。
だから、悪いが判ってもだめでしょう。悪い事が意識の中に何かしらのあり方をして、
当然悪いからムカついて終わりだ。
いい人格というのはあるのかな。
金の払いのいいやつとかはいい奴だろ
たとえば、ボランティアなどをする時に、
「これは自己満足のためです」と言える人間は正直者でしょう。
間違っても、「誰かのために」などと言わない人のほうが信頼できます。
善良さと邪悪さのふたつの顔を人間は持ち合わせています。
もし、この世に真に善良な人間がいるとすれば「白痴」(ドストエフスキー)の
ムイシュキン公爵のような人物でしょうか。
つまり、一般人よりはある種のものが欠けている人物ということです。
自己満足はまだ別の事柄が含まれているように思われる。
それは自己の内部においての事柄であるのか、満足な事柄であるのか、
という事を考える事になるだろう。ボランティアが自己満足だと自分が
考えているならば、この二つに当てはまるものでないとボランティアで
ないと考えるようになるだろう。ボランティアは両方がそうであるもの
と考えるものは、自分の中から生じた事柄でないならば、満足できない
ならば、ボランティアをするのではなかったという事になるだろう。
或いは、ボランティアは善いものだ、と自分が考えているものは欠けて
いるとは思えない。
11 :
考える名無しさん:05/03/17 02:27:40
相手の心の底にあるものは誰にもわからない。
そうゆうことなんです。
「自分がされて嫌な事は、相手にもしないようにする」
いい人間てそれでいいんじゃない?
人間にしかそういう事考える事できないし。
違う板で見た言葉だけど、とっても良かったから。
全然、的ハズレな事いってたらゴメンネ。
『いい人間』というのに思わず反応してしまいました^_^;
「自分がされて嫌な事は、相手にもしないようにする」
こういう自分本位の考え方では駄目駄目です
自分がされて嫌な事は相手にもしない、というものは無限的な考え方ではないだろうか。
それは基準になるものではないという事しか表現してない。つまり、どうして相手に施すのか
、または施さないのかという事を説明する事にならないのだ。
自分がされる事じゃないというどこか別の所にあるそれは、相手にしてあげる事に含まれない
別の所にある何かである。何を言いたいのか全く判らん。
法則があっても、全く判断するものにはならないようだ。何故なら、法則に何があるかという事を
分析する事になるだろうからだ。相手に従う、というのは判断だと思うかね?
16 :
考える名無しさん:05/03/17 17:26:02
自分と他人を区別しない境地、それが善。
〜完〜
区別されているだろう。相手が何かを考える場合、対象が何であるかは自己という関係になるからだ。
従って、分析される事柄は統覚であるという判断になる。
これが相手に従う場合において、判断の述語は他者である。それを分析するならば、他者について考え
ている事になるという理屈にあるだろう。ただ、推理を交えるものは複雑になるのだろうけどね。
18 :
考える名無しさん:05/03/17 17:44:51
「俺は自己満足のためにボランティアをやってるんだ」と思いながら
ボランティアをやっても自己満足を得られない不思議。
19 :
考える名無しさん:05/03/17 20:54:05
そんな奴こそ、ドウデモいい人間よ。
いい人間は自分がされて嫌な事はしない者であるならば、自分が嫌な事を何一つ他人に行えない人になる訳だ。
美意識に基づいて行動を組み立てる事は、自分か、他人かという事になるだろう。
本当に自分がいいやつだと思えるやつがいたら手を挙げてくれ。
そうじゃないなら、なぜそうじゃないか語ってくれ。
俺は自分で自分はいいやつだとは思わない。
自分がどれだげ不完全で、どれだけ罪深いかを知っているのは自分ぐらいしかいない。
そもそも、存在している時点で(ry
人間は自分を判断するという能力を欠いているそうだ。
だから、自分をいいやつだと推薦する事はできないだろう。或いは、
このようないい集まりにおいて、自分は働いたくらいが精々だろう。
誰かが何であった、そして、それは良い、という感じで考えられるだろう。
そのように考えられるやつはいたかね。そして、そのような奴はあり得るかね。
24 :
?:2005/04/20(水) 00:12:46
「いい人なんだけどね」の
いい人とは?
全体の為に働いている奴はいい奴だと思うだろ。
或る部分の為に働いている奴は、自分を含めるならばいい奴だと思うだろ。
偶然なされたことは、自分が得したり、やって気持ちいいといい奴と思うだろ。
そして、これらは、或る時に否定的な結果にならないならば、いい奴だと考えるだろ。
いい人間とは
自分と意見を同じくするもので
かつ
自分より劣ったもののことを
そう人は呼ぶ
27 :
考える名無しさん:2005/06/10(金) 19:07:14
人は生まれながらにして「いい人間」なのだが、
なかなか気づかないね
残念なことだ
LOVE & PEACE
人間に即座に良いといったら何だろう。健康なヤツはいい人間と考えられるだろ。
または、若々しい、内省力のあるやつはいい人間と考えられるかもしれない。
このように考えると、美人というのはいい人間ではないということになるのかね。
コンテストや別の性別があるから、美人になるんだろうね。
人間でいいとなったら、健康、内省、若い、それくらいなのかね。
大体、健康、内省、若い、これくらいかね。
そして、それはいい人間と考えるかもしれないけど、いいものは人間と結びつけているけれども、
その人の外にあるものということになるのだろうか。じゃあ、その人の外にあるにしても、どうし
て善いのであるのかだ。また、それの外にあるものを探さなければならないのかということでしょ
うね。それは先送りで切が無いから、いいところで止める様に考えなきゃ駄目でしょ。
だから、いいは何であるのかでしょう、善いは位階でしょ、起源でも、程度でもいいから、とにかく
この場合、その人の外にあるもので上等なんだよと。すると、養老院なんてところだと、若いと善いか
善いものでないかになるのかね。病院なんていくと、怪我人が偉いなんていうのもこれかね、内省も
穴掘り現場じゃあいいにならないんだろうね、穴掘り場はいっぱい穴掘れることがすごいんだ。
そうすると、そういうのがいい人間になるんだろうね。
30 :
考える名無しさん:2005/06/11(土) 11:37:07
個人にとっての「良い人」というのは「自分にとって都合の良い人」という事であり、集団にとっての「良い人」とは「その集団にとって都合の良い人」(「個人にとっての良い人」とも共通しうる)だと思う
個人、集団は区別できないでしょ。相手の立場が矛盾するような個人の場合と
集団の場合を提出しているようなやつは悪い人間だろうね。君は何人いるの?
人間は法則と幸福のどちらが自分の方針であるかを考えなければならない。
幸福を採るとすると、人間は幸福であると考えられるが、その部分が法則で
ないものになり、どちらでも許されるものと考えられるようになる。人間が
どちらでも許されるようになると、不快なものを禁止する法則が無い事によ
り、人間は幸福でないと考えられるようになる。それ故に、人間が幸福であ
ると考えることにより、我々は幸福になることができない。人間は規則であ
るか、幸福であるかを考えるとすると、規則であると考えざるを得ない。
人間は法則と幸福のどちらが自分の方針であるかを考えなければならない。
法則を採るとすると、人間は法則であると考えられるが、その部分が幸福で
ないものになり、幸福であるか不幸であるかが判らなくなる。人間が幸福や
不幸どちらでもないと考えるようになると、何故法則を守らなければならな
いのかという理由が考えられないので、人間は法則が必要でないと考えられ
るようになる。それ故に、人間は法則であると考えることにより、我々は法
則を考えることができない。人間は法則であるか、幸福であるかを考えると
すると、幸福であると考えざるを得ない。
34 :
考える名無しさん:2005/06/13(月) 21:29:41
人間は法則と幸福のどちらが自分の方針であるかを考えなければならない。
幸福を採るとすると、人間は幸福であると考えられるが、その部分が法則で
ないものになり、どちらでも許されるものと考えられるようになる。人間が
どちらでも許されるようになると、不快なものを禁止する法則が無い事によ
り、人間は幸福でないと考えられるようになる。それ故に、人間が幸福であ
ると考えることにより、我々は幸福になることができない。人間は規則であ
るか、幸福であるかを考えるとすると、規則であると考えざるを得ない。
35 :
考える名無しさん:2005/06/13(月) 22:14:29
いい人間とは 世の中の人間の半数は救いがたい馬鹿だと知っている人間。
36 :
考える名無しさん:2005/06/14(火) 00:10:02
人間にいいもわるいもあるのかね?
動物にいいもわるいもあるのかね?
不毛だよ。君達やめたまえ。
E人間
38 :
カンガルー名無さん:2005/06/14(火) 00:26:46
何か?
39 :
考える名無しさん:2005/06/14(火) 00:57:32
善悪の判断ができる人。
>>36 「善さ」は人間の望ましさだとしよう。
健康は善い、自分の行いを省みて行動を組み立てることは善い、若いは善い、
その人において、これらは即座に善いと考えられるのではないだろうか。
何故、これらが善いものであると考えられるのか。この善さはその人という範
囲を成り立たせる善さと考えられるものなのだ。それが善いと考えられている。
これが他のものだと考えられるとすると、人間以外のことが必要とされるので
はないだろうか。人間はそのようなものにおいて考えられたものである、と言
われているという考え方があるだろう。それらは望ましいものでない、他のも
のであると考えられると、その人のみという範囲を超えて考えられたものであ
り、それに加えて、その人を成り立たせているものでないと考えられるだろう。
このようにして考えるときに、望ましさはそれ自体の範囲を維持するという
部分で善さを決めることができるだろう。若い、健康等はそれ自体の範囲を維
持するものであるというものでしかないのだ。それくらいのものでしかないの
だが、そこからそこまでの範囲を成り立たせている理由は或る種の善いものだ
と考えることができるのではないだろうか。そうでないとすると、確かに善い
のだが、それのみの範囲を維持するものを加えて考えられていない、言い換え
ると、その人は崩れてしまうものである。
人間は、他のものにおいて望ましいと考えられたとしても、善いものである
と考えられるものであるのか。他のことにおいて考えられたとしても、必ずし
も他のものを成り立たせるものでないけれども、他のことを成り立たせる基礎
のような望ましいものであるという考え方があるのではないか。それのみでは、
他のものにおいて望ましいものという訳ではないが、善いものだと考えられる
ものであると考え方があるのではないか。他のものにおいて考えられたとして
も、それは望ましさが矛盾しないのではないか。それが、望ましいものでない
とすると、人間的なものという訳ではない。他の言い方をすると、その人を成
り立たせるものでないと考えられるだろう。
その人のみで考えられるとすると、反復するものは善いものと考えられるの
ではないか。若さ、健康、反省、これらは反復するものだ。人間を維持してい
る或る種の望ましさは反復できることではないだろうか。例えば、その人を含
んでいることにおいてどうであるかはまだ考えないとしても、反復するものだ。
反復するものがこの人を維持するものであるのかは善さであると考えることが
できるだろう。善くないとすると、維持するものでないか、反復するものでな
いか、若さや健康や反省のようなものでないのだ。他の事が含まれているとい
うことが考えられるだろう。このように或る種の善さは考えることができるだ
ろう。言及し得ないものという訳ではないのではないか。
______ ______
r' ,v^v^v^v^v^il / ヽ
l / jニニコ iニニ!. / ジ き ぼ l
i~^' fエ:エi fエエ)Fi ! ャ れ く l
ヽr > V ! イ い は l
l !ー―‐r l <. ア な l
__,.r-‐人 `ー―' ノ_ ヽ ン /
ノ ! ! ゙ー‐-- ̄--‐'"ハ ~^i \_ _ノ
ヽ ! ヽ、_ _.ノ i \  ̄ ̄ ̄ ̄
ヾV / ! /.入
駄目な事は理由になるのか。
あなたが駄目である、とするとその人を駄目な事に従わせたいのか、というのだ。
駄目と言われるならば、駄目という事はあなたの具えている善いと思うことに従うべ
きであると主張される、と考えられる傾向になるようだが、そうであるとすると、駄
目なことではなく、自分の善いと思うことに従うべきであると主張されなければない
だろう、駄目であると考えられるならば、自分は駄目な事に従うものでなければなら
ず、駄目な事になってしまうのだ。駄目という事を言っては駄目なんだ。
ここには駄目と考えられるならば、善いような理由に従うことになるという考え方
が前提にされている。だが、駄目と考えられなくとも、善い理由に従うという帰結も
あり得るのだ。それ故に、何故、駄目だということから、善いような理由が生じるの
かということが考えられるのであり、駄目なことに善い理由が、決して気付かれない
のだが、含まれているから、善い帰結になると考えられる。そうすると、全く善いも
のが無いのに、駄目という主張から善い帰結が生じなければならないだろう。
そして、駄目な事は、善い事があるならば、それに伴われて必ずなければならない
のか、ということが考えられるだろう。だが、一緒に伴われなくとも、駄目な事は駄
目であり、善い事は善い事であると考えられる。従って、駄目な事と善いことはそれ
ぞれ独立なのである。
それ故に、あなたは駄目であるとすると、どうして駄目ということが理由になるの
か、ということが考えられるだろう。駄目な事には従えないのであり、駄目な事こと
から駄目な事が生じるのであり、駄目なことなど無くても善いのだ。それにも拘らず
、あなたが駄目であると言われるのは、駄目な事にさせることなのだ。又は、禁止で
あるのか、ということが考えられる。駄目であるから止めるようにせよ、従って、止
めたとしよう、一体、何をすべきであるのか、止めたとすると、全く無に帰結させる
ことが望みであったのか、駄目だから禁止するというのは何ら行動に指針を与え得な
いのではないか。駄目とされるとなると、何をしてよいのかが判らなくなるだろう。
だが、あなたは或る事柄でない、とすると、少なくとも我が従うべき事柄が明らか
である、つまり、このようなものであるべきであるのだが、そうでない、と主張され
ている。これは駄目や悪いと考えられるものとは異なるものになる。何故なら、これ
らのものには全く従うべきことが考えられていないが、或る事柄であるとすると、考
えられるべきことが含まれているからだ。つまり、前者は全く途方に暮れるか、駄目
になるか、駄目と伴にあることを強いられる関係にあるが、後者はそうであるか、そ
うでないかが考えられている。或る事でないから、そうでないものは禁止される、又
は、同時に伴われるものでないとすると、我が従う行動の指針になり得る。ただ、駄
目というのでは我に考えようがない、従って、駄目というべきではないのだ。そんな
こと言っては駄目だよ?
45 :
考える名無しさん:2005/06/18(土) 00:24:29
いい人間とは幼女だ。身も心も究極の美しさを持つ幼女。
幼女こそ汚れを知らず、美に包まれたこの世で究極のいい人間なのだ。
しかし、リアル幼女はいつかリアル婆になる。
身も心も社会や人間性に毒されて汚れて醜く老い、最後は土に帰るだけ。
ならば、飯を食べ、お腹が充ちれば後は寝て過ごすだけの赤ん坊こそ
この世で最もいい人間ということになる。赤ん坊こそこの世で絶対にして唯一の善人。
「ふっ、罪の無い人々?馬鹿馬鹿しい。この世に罪の無い者など
一人もおるものか!皆罪人ばかりよ。ふふ、だから俺たちのやっていることは
世直しよ。大平の世だ徳川の辞世だなどとほざいて のほほんとふんぞり返っている
連中の横っ面を引っ叩いてやってるのよ。ふふん、何が徳川の御世だというのさ?
流行病の一つも片付けられぬ癖して!」
>>45 幼女は他のことにおいて考えられるものじゃないのだ。
幼女に従う快感とかならあり得るかもしれない。
他のことにおいて考えられる年齢を区切る制度が若年までを含むものになっているんじゃないのかな。
その人が他のことに含まれるものでないところのものが幼女にするのかね、そして、そのなかで美しい
といったらどのあたりの年齢か、と。赤ん坊などはクシャクシャの言ってみればすごく不細工だけれど、
不細工なんて問題にならないでしょ。あれは赤ん坊のなかに何が含まれており、それが充たされるべき
ものとして考えられているのだ、だから、知能や飯やオモチャなどを買い与えて、我がうれしくなるの
だよ。まあ、どうあっても幼女が好きだという可能性は考えられるけれども、そんなものはこの世にな
いでしょうよ。
我が、感覚できて、それが何であるか判っちゃって、どこからどこまでかを設定できちゃって、
それがずっと続いちゃうなんて考えられるものはよさそうだ?でも、人間であるなら、我が、どこ
からどこまでかを設定されているものから始まって、感覚できて、それが何であるか判って、それ
がずっと続くかどうかと考えられるものを善いか悪いか考えるみたいだ?前者は物とかを考える仕
方だわな、後者は人間とかかね。二つはどこからどこまでにするかを我が設定できる可能について
各々の起源があるみたいけれども、物は金とかが範囲をどうすんのかを決められるけれど、どこか
らどこまでから始の始まりが人間を経験する仕方のようだ、これをどうにかするとなると権利とか
が必要になるんだろうね、ただ、人間あっても仕事とかになると前者のような扱いにするようにな
るけれど、仕事とかで無しにどこからどこまでかを変更してしまうようなやつは人間扱いしないの
か、と考えるだろうね。だから、どこからどこまでかから始まらないとなると、どこに制限が来る
のかね、その能力を使わないで生きているか、どこかで物のように扱われるかもしれないのかな。
初めに無く、そして、そのような能力があるとすると、何かがあると、それに従うものは制限され
ることになるんだよ。一見すると、前者のほうは理性的なようで、後者は遠慮しているようだけど、
どうなんだろうね、それともこのような考え方は合理論と経験論の違いなのかね。初めに制限があ
るなんて考えるのは経験に起源のない考え方だとされちゃうのかね。
ABCDE人間
談合が力を付ける一つの方法だわな、かっこわるいとかいわないで。
談合すると、押して、事実にしてしまう、
或は、談合するよりも、高い事柄において数を統御することが善いのか、
そうであるとすると、何がそれらを考えさせるのか。
それが統覚の役割であるのか、つまり、自分はどちらであるのかだ。
両立しないどちらかでしかないのだか、自分は一方であるはずだ。
従って、そちらであらざるを得ない。
もし両方であるならば、独断でどうにでもなるのだ。
52 :
考える名無しさん:2005/06/19(日) 07:06:49
いい人間ねーたぶん人畜無害
なひとだと思う
それはいい人間ではないでしょう、いい人間は人畜無害な人という訳ではないでしょう
張りのあるものは望ましさを感じられる、だが、内容があるとは限らない。
内容があるものは望ましいと感じられる、だが、将来があるのか。
将来のあるものは望ましいと感じられる、だが、他のものにおいて考えられるものでない。
それは発生するものとして考えられるのだ。
守るは制限であり、制限はそうであるものと、そうでないものから考えられたものだ。
それには、そうであるものとそうでないものと規定するような事柄が必要になるだろう。
何だ、自分か?
普遍性に加えて何が性質であるのか、単なる概念を知らないということ
だけなのか。
『優れているものは先であるのか』、『先であるものは優れているのか』
@或るものは優れている、優れているものが先だ
A或るものは先である、先であるものは優れている
@或るものは、優位を付ける事柄おいて位階が高いので、時間において先であ
ると考えられる。
;最大の範囲に時間が考えられているのか、従って、或るものは時間的であ
るということが考えたいのか。
A或るものは、時間において前であるから、優位を付ける事柄において優れて
いると考えられる。
;最大の範囲に価値が考えられているのか、従って、或るものは望ましいも
のであるという事が考えたいのか。
58 :
考える名無しさん:2005/06/27(月) 23:07:52
有益無害
無益無害
有益有害
無益有害
>>58 なるほど、普遍や常住というようなものは人間の認識がどうであろうとも、
そうであるのだから、個人的な認識の単なる仕方であるということが一行目
で、二行目は、だがしかし、ソクラテスを思い起こしてみよ、倫理について
君はどう考えているのか、三行目は、人間は構成物の集まりということなの?
四行目は何という意味?
60 :
考える名無しさん:2005/06/28(火) 00:06:05
いい人間。わるい人間。そんなのどの側から見るかで変わるからもうわけわからないねぇ。私は少なくとも同種からはいい人間と見られたいと思うよ。偽善やエゴだと思うけれど。同種に嫌われるのは悲しいよ。
時間についてどうかんがえているんでしょうか。
全てが全くその仕方で考えられるものという訳ではないのではないか。
例えば、映画でもいいのだが、心地よい場面の後で心が
晴れるでしょう、それ以後には楽しみで最後まで見入って
しまうでしょう、だが、これはいい場面が多く含まれてい
るのかを精密に調べて考えられるのだろうか、それがなし
得るのは素早く全体を見渡す仕方であるように思われる、
楽しみながら続けるものであるのかであると、価値的なも
のであると素早く見渡して考えられるものであるのか。
いい人間って言われたって、どうでもいい人間みたい
いい人はどうでもいい人だというのが真実。
いい人だから何?といわれたらお終い。
そうしたら、単に、それはどうでもいい人と考えられるようだ。
いいのもとに他のものが考えられているので、このようなことが
なすべし、となるでしょう。
何かを介することは人間的なものであるのか、
或は、或るものは人間的なものであるのか、
又は、或るものは何かであり、何かは人間であるのか。
人間性においてなされたことは人間的であるのか。
望ましさは常住不変であるのか。望ましさが生じたとすれば、望ましさは望ま
しいものかそうでないものから生じなければならない。望ましさから生じたとす
れば、望ましさの前に既に望ましさがなければならない。それ故に、望ましさは
生じたという訳にはいかない。或は、望ましくないものから生じるならば、望ま
しさは望しく無いものが全く考えられないものから生じていることになる、これ
は不合理である。しかも、望ましさは望ましく無いものになるということは不合
理である。それ故に、望ましさは常住不変である。
68 :
考える名無しさん:2005/09/07(水) 11:42:47
おれ、いい人間だよ。
サメの口は歯が折れても生え変わるそうですして、
話は代わりますが、彼の博覧会のドイツ展示場では、
鮫肌の水着が出展されたているそうですね。
まあ、完全にいい人間なんていないと思うが、
人を慰めたり、励ましたり、助けれるのは
いいタイプじゃないかな。
基本的に気遣いできる人は悪い部類には
入らないと思ってるよ。
美的感覚について知りたいならば、化粧が実践的な知識を与えてくれるのではあるまいか。
72 :
考える名無しさん:2005/09/23(金) 00:01:19
いい人ってどんな奴?
73 :
考える名無しさん:2005/09/23(金) 14:07:13
正常者とか名乗ってる人は別にいい人ではないよ。
話聞いてると論破大好きのぬるいさびしんぼうってのがわかるけど。
彼はなんか強烈な勘違いをしてるようなんで、
おいおい、そんなんじゃないよーと答えたいのだけど、
答えたくとも、スレが1000行ってもーた。…残念!
他者は、私とその他者の関係で我々のことを考えている、
私は別のものと関係しているところに、更に他者が関係しているのであり、
それにも拘わらず、
他者は、別のものに関係しているということが欠如したものとして、私に
関係しているのだ。
75 :
考える名無しさん:2005/09/28(水) 08:39:46
×助けれる
○助けられる
助けることができる
(´∀`)
力と徳
彼は知識があるが、徳が無い、
彼は徳があるが、知識が無い。
『犯罪者は何をしてもよい』という主張について
言い換えると、この人は何かしらの法則を踏み外したものである、
従って、この人は全ての事が許されている、と考えられているようだ。
犯罪者であるとしても全ての事が許されている訳ではない、何故なら、犯罪者は
悪いと考えられるからだ。
犯罪者は善いことも悪いことも含めるような全てのものであることになるだろう。
犯罪者は悪いと考えられる或る一部のものに関係するものである。そして、犯罪者は
制限を加えられるべきだと考えられるのである。
例えば、我々が、全ての事を望むとしたならば、犯罪者であるだけでよい、と考え
られる訳ではない。全てのことでは、何事か認識されているのだろうか、それに世界
の根源を見るということはないであろう。或る法則があって、その法則を守るべきで
あると考えられているのであり、それを超出しないように規定することが考えられる
わけである。関係のないものが施されるとすると、単なる圧迫であると考えられる。
制限というと庇護者であるということが考えられる。そういうものでないと、連鎖的
に触発されたものであるか、圧迫を加えることを好んでいるということが考えられる
。
そういうわけで、その人は何をしてもよいということで判るところがあるのか。
つまり、世界全体の法則に従ったことをなすべきであるということになるであろう。
そんなものにしたいのだろうか。法則に非ずということが言われているに過ぎない
のである。
78 :
考える名無しさん:2005/10/01(土) 17:36:55
私は尊属であり、君は従者であるとしても、
一体、何事においてあなたが尊属であり、彼が従者であるのだろう。
生まれながらに、あなたが尊属であるとすると、血族であり、兄である。
彼が従足であるとすると、弟になるだろう。
経験的に、あなたが尊属であるとすると、我々の内部ではなくて、我々の
外のところにおいて、優越だと考えられるのだろうか。
従って、彼は従者なのだ。
或は、あなたは彼に苦痛や避難が含まれているのを好むのだろうか。
だが、彼の苦痛があなたの昇進であるとすると、恒常的な保存法則がある
と考えられるだろう。例えば、仏教的な布施にみられるように、僧に施し
をすると善が与えられるということがあるのだ。
彼が劣っているとすると、どんなことで考えられているのだろうか。
生まれつき身体が小さいにしても、何かの競技があることで、私が優越で
あり、彼は下劣だと考えられるのだ。そうでないと、自己の範囲が広い人
になるのだろうか。
いい人間は存在しないと考えられているわけだが、
私が経験したことに限り、いい人間が存在しなかった、
ということなのだ。
全てを知っているならば、語り得る。
正々堂々の美意識はいい人間ですか
82 :
考える名無しさん:2005/10/16(日) 05:26:14
「いい奴ばかりじゃないけど、悪い奴ばかりでもない」
って言うじゃな〜い?
人間が理想的というとどうなんだろう。
女性は美だろうか、男性は何だ。
謹直、頑健、威厳、尊厳、自己実現、
なんでしょうか。
自由でしょうか。
共和制において『人が善い』
共和制
執政官 (2名) 任期1年
元老院 (300名) 終身制・貴族のみ
市民集会 市民全員
執政官は市民集会での投票で決まる。執政官はローマ市長であり、軍の最高司令官である。
世界が平和と紛争の場合が考えられる。
彼は、我々の市長であり、我々の戦争の最高者であるが、我々は誰にしたいのか。
平和の場合、我々が選ぶとすると、穏健な人と考えられる、
紛争の場合、我々が選ぶとすると、統一的な人と考えられる。
共和制では、その場合において、それぞれのいい人間が考えられる。
君主制において『人が善い』
君主制
君主(一人) 終身
臣下 君主の従者
君主が法を制定する政体は絶対君主制、君主が法の適用を受ける政体は立憲君主制と区別される。
絶対君主制では、絶対に君主と臣下である。
立憲君主制では、法の適用において君主と臣下である。
前者は、絶対的に君主であることが善い、絶対的に臣下であることが善い。
後者は、法の適用において君主であることが善い、法の適用において臣下であることが善い、と考えられる。
貴族制において『人が善い』
貴族制
貴族(複数人) 或ることにおいて優れている。それ故に、或ることの時間の期限。
複数人が或ることに従って優れている政体は貴族制、他のものを従えるが故に優れている複数人の政体は寡頭制。
前者は、或ることにおける善さである、或ることが都市であると、都市の役に立つ等。
後者は、従属させる卓越性。
民主制において『人が善い』
民主制
民(多数の集団) 現代
ギリシア語のデモス(民)とクラティア(支配)を合わせたデモクラティアが
デモクラシーの語源とされる。
多数の集団が彼らが民主であると考える政体は民主制、多数の集団が彼らが民主について無自覚である政体は衆愚制。
前者は、民主的自覚者が善い。後者は、無自覚な何かしらの善さ。
遊びは、彼らの間にあるものを目的にして遊ぶことがある。
同一のものの間でみられることがある。
異なるものは、私と彼の人の異なるところを確認することがある。
排他的であり、相互的であり、自発的であることがある。
共通が一般である、一般でないものは排除だという考えがある。
共通のものが一般的であるにしても、共通でないものが一般的であるのか。
一般的なものが基礎となり、共通のものが考えられるという逆転が起こっている。
それだから、本来、排除的なものが一般的である。
一般的でないものは排除という訳ではないと考えられる。
93 :
考える名無しさん:2005/11/13(日) 09:51:56
/:::::::|/::::::::::| ...|:::::|.i::::,,,---::::::::i:::::::i::::||:::iあっははは! なあに? この変なマンガ本の山は?
:|::::::::::::::::::::::i...ii .i::::::ii::/.,,─-,,"ヽi:::::::i:::ii:::::|「おにいちゃん、もうダメッ……!!」って、何これ?
:i::,,-""""-::::i..i:i |:::::::::::.i .. i...i:::i:::::i:::ii:::::iあんた、いつもこんなの見て、その粗末なモノを一生懸命こすってるの?
i:i .,-""..ヽ::::ii:::i ..i"".. "..,,__丿ヾ:i::::i:::ii::::::|道理でイカ臭いわけだわ、このマンガ本。ページもガピガピだし。
i,,i | ..|." ...i i ...i::i::::ii::::::|どうせあんた、現実の女と寝たことなんてないんでしょう?
i::",,,ヽ ,,/ ii ....i:::::i:::::::|こんな子供の裸見てオナニーなんて、人間として恥ずかしくないのかしらね。
::::::::"" i ...|::::::::::::::i……あら、どうしたの。私に罵られて勃っちゃったわけ?
:::" ..ヽ::::::::::::: i::::::::::::::|幼女趣味だけじゃなくて、そっちのケもあるの? サイテーね。
ゞ :::::::::.,,, --,," ,":::::::::::::|そんなサイテーなあんたは、せいぜいそこで一生しごいてなさい。え、何?
-".,, --,,," ./ .,"::::::::::::::::l私にやって欲しいって? あっはははは、冗談でしょ? 私が? あんたのを?
::|::::ヽ ."- .-"::::::::: /::::::::::::::::::::|誰がそんな汚いチンポに触ると思ってんの? 寝言は寝てから言いなさいよ。
::::i::::|:"--.,.,,, :::::::::::::::::::::::::/:|:::::::::::::::::::::::iこうして見てあげてるだけで有難く思いなさい、ロリコン童貞!
::::::::::::::::::_,r-┤"--.,,,,,:::::::::::,-":::├、,:::::::::::::::::::lほらどうしたの。さっさと出せば? いつもやってるでしょ? あっははは!
>>93 現実の漫画と現実の女は違うものなのだ。
目を使いながら、疲れて現実の漫画と寝る、
腰を使いながら、疲れて現実の女と寝る、
行いは一緒のようなものだ。
一緒のようなことをしているのだが、これが堕落していると考えられるにしても、
両者が一緒に考えられることなしに、前者と後者が区別されるのは何故か。
君は、現実の漫画がサイテーだ、と考えているのだ。
積極的な人間
彼が積極的であり、私が消極的である、私が苦手だと思うことがあるそうだ。
これは、彼が働きかけ、私が働きかけられるということである、
そして、私が働きかけられることが不愉快であったり、嫌なのだというわけなのだ。
働きかけられることが嫌だということについて理由を探すとすると、
何故、彼は働きかけているのかだ、
どのようなものであれ思いをもっている、それ故に、彼は働きかけ、私は働きかけられているのだ。
そして、働きかけられるのが嫌なのである。
理由であるが、彼は何かしらの思いをもっているので、働きかけているのだ。
これらが基本的な考え方である、
積極的について話題にするとしても、これと異なることが考えられるとすると、
この基本的なものにもう少し複雑な考え方を加えている。
例えば、
私が働きかけられることが嫌だということについて否定するとなると、
彼の思いが否定される、働きかけることが否定される、
私が働きかけられることが否定される、それとも、嫌だということが否定される。
彼のみが否定されたり、私のみが否定されるとすると、限定的な複雑さを示している。
The 日本論理学
宗教 神道 仏教 キリスト教 etc
国家 日本 韓国 北朝鮮 中国 アメリカ etc
社会 会社 学校 自治集団 同好会 友人 etc
家族 拡大[直系(核)]家族 隣家族 etc
個人 私 ○○さん △△さん etc
論理学は絶対主義が幅をきかせていた時代のものだろう。
現代はこんなようになっているのだろうから、このような論理があることで
判るに違いない。だから、日本論理学を作ってしんぜよう。
絶対前提
大前提
中前提
小前提
個前提
がんばって計算したまえ!!
97 :
考える名無しさん:2006/03/27(月) 10:13:03
断る
, '´  ̄ ̄ ` 、
i r-ー-┬-‐、i
| |,,_ _,{|
N| "゚'` {"゚`lリ
ト.i ,__''_ !
/i/ l\ ー .イ|、
,.、-  ̄/ | l  ̄ / | |` ┬-、
/ ヽ. / ト-` 、ノ- | l l ヽ.
/ ∨ l |! | `> | i
/ |`二^> l. | | <__,| |
_| |.|-< \ i / ,イ____!/ \
.| {.| ` - 、 ,.---ァ^! | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l
__{ ___|└―ー/  ̄´ |ヽ |___ノ____________|
}/ -= ヽ__ - 'ヽ -‐ ,r'゙ l |
__f゙// ̄ ̄ _ -' |_____ ,. -  ̄ \____|
A
わたしはきみにごちそうを用意しようと思う。わたしはきみにあらゆるものを用意することができるだろう。
調理場で用意するに伴い、すこし時間はかかるかもしれないけどね。なに、遠慮することはない、
なんでもきみは望んでくれたまえ。なんたって、この世には好きなだけものがあるんだからね。
B
うわー、本当でしょうか。でも、なんでもかなえてあげるなんて言われると、迷ってしまうなぁ。
だって、ぼくがなんでも食べたいからお願いしているのではないんですもの。そして、ぼくは
世の中のなんでも見てきたわけなじゃないから、なにが美味しそうだなんてわからないのです。
すると、ぼくがいままで食べてきた美味しいものを食べさせてもらうことができる、一方、ぼく
は食べたことがないので、全ての世の中のぼくが好きなものいうことはできない。
すると、ぼくがいままで食べたことがある好きなものを並べて食べさせてくれるってことなのでし
ょう。でも、ぼくが食べたことがあるものは僕自身で食べることができるでしょう。ぼくはわざわ
ざ望みどおりに叶えてもらうまでもないと思うのです。
しかし、世の中の大抵の料理をみることで、何が美味しそうであるとわかるでしょう。
すると、なんでもごちそうを食べさせてくれるというからには、できるだけごちそうを食べさせて
ください。
A
そうか・・・。すると、わたしは世界中のごちそうを食べさせる人である、一方、身近な好物を
食べさせてあげる人だったんだなぁ・・・。
こうして、Bさんは世界中のごちそうを生涯かけて食べました。だって、世界中にはそれは沢山の
ものが好きなだけあるんですから。今日も、Bさんはごうちそうを食べているんだとさ。
めでたし、めでたし。
蓬莱の玉、珊瑚の木、鳳凰の卵をおくれ?
誰かが彼を「いい人間だ」と言えば、「誰か」にとって「彼」はいい人間
たる人格を有していたのでしょう。ここで、「彼」の人格が「本当にいい
人間か?」という問いはあまり意味が無いように思います。(私にはね)
「誰か」は「彼」がいい人間だと信じている、この事実を持って「彼」は
「誰か」という特定の人物にとって「いい人間足り得る」。
ではなぜ「誰か」が「彼」をそう信じたのか?
…そんな話は当人たちにしか分かり得ないし、ここからは必要ないですよね
それっぽく書いてみたW
満漢全席は全部食べてみたいものだ。少なくとも、一品づつ味わってみたい。
これがいい人間だ。
おまえらなんて、脂っこいものは嫌いだから、高いものを食べてそれ以外は
食べないようにしよう、なんて考えるんだろうね。性根からして賎しいんだ
から、当然だろうけどね。
>>103 それで神を崇めるのだね?
自分の価値を信じたいが故に?
105 :
考える名無しさん:2006/05/07(日) 08:15:05
どうでもいいことはイイことなんだよ
それが幸せを陰から支えくれる。
いい人はどうでもいい人でもある
だってタッチする必要性を感じないからね。
その人(いい人)は自らの問題を内に抱えている。
外のことは全部澄んでいるから。
社会で何が今エリートかって・・・学歴でもなく
実績でもなく、財産でもなく、いい人がエリート(貴族)なんだよ。
すべてからみるとどうでもイイことなんてない。
個々の事象が繋がっているからね。
自分を犠牲にしいい人になるか?
幸せを求めて他を犠牲にするか?
どっちかな?
みんなは
ttp://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/siso/shushin.html 我が国の歴史には修身の教科があった。修身の教科には神話的な起源や現在の心の持ち用を説いている。
天照大神が降り、その孫が神武だ。以下略。(尋常小学校 5巻 第一課 我が国)
後醍醐天皇の御代に、鎌倉の北條高時が天皇の仰に従ひませんので、天皇は高時を
討たうとなさいました。高時は早くもそれを知つて、大軍を京都にのぼらせました。
以下略(尋常小学校 5巻 第三課 忠義)
神話的なことを教えて、神話において第一のものを教えるのである。
我が国にはどういうことがあるのかを知るにはこのような教育があったのだ。
そういうことが知りたいのなら、こういうことがあるのだ。
しかし、目の前の対象から子孫を考えたり、忠義を立てたくなることもある。
あなたから美の理念へ昇りあがるのである。
この考え方を区別すると、よい。
他人の欠陥を補える要素を多く持ち
それを無限に与える者
108 :
考える名無しさん:2006/05/21(日) 01:06:57
「よきサマリア人」
子供
あの子だけが他の子と違うのは駄目なのに、私が怒られた
大人
あの人だけが他人と異なるのは不正だ、私は正しい。
110 :
考える名無しさん:2006/06/03(土) 20:01:50
「善い人」「悪い人」というのはいない。
いるのは「好きな人」「イヤな人」である。
111 :
考える名無しさん:2006/06/03(土) 21:01:03
いい人だけどいやな人、いい人だから尚更いやな人がいる
得を願ってくれる事だな。
でももっと大事なのは損を伝え、それを避けるように教えてくれる事。
心配してくれる事だろう。
心配を感じればいい。それでずいぶん救われたし。
誰でも一人でも良いから長くその人と語れ。自分の組み立てた理論を伝えるだけで良い。
>1がんばれよ。ちょっと心配だ。 まあ、文章じゃ伝わらないが。
こいつの値打ちはどうなんだ、と思うだろう。
俺とこいつは友達らしいのだが、何だ一体。
同じ社会に暮らしている、つるんでる、一緒に遊びに行ったり、同じ物を集めたり
するけど、ペアルックまではしない、俺とこいつの好みは違う、精神も違うだろう
、そんなものを求めていやしない、別人でけっこうだ。
こいつは俺の上司じゃない、御付でぞろぞろついていくなんて関係じゃない、諸芸
の先達者ですばらしいというのでもない、何でももってる奴でもない。だいたい、大
して値打ちのある奴ではない。すごいものをもってるから、友達というのも変だ。こ
ういうところまでは友達でもなんでもないのだ。友人と言うと、俺に好ましく思われ
たり、高揚感をもてたりするのだ。
こいつはご近所さんなのか。たまたま、傍に居合わせただけで友達なのか。又、
たまたま離れ離れになると他人になる奴でしかない。こいつはどうも俺に好かれてい
る奴なんだなあ。