ハイデガーとサルトルの哲学の違いを教えれ

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197考える名無しさん:2005/12/08(木) 18:23:32
哲学の問いが存在の本質の問いだとすれば、
実存と本質を入れ替えただけでは乗り越えにはなりませんよね当然。
198wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2005/12/08(木) 18:40:34
「世界内存在」というハイデガーの存在規定に触発され、
サルトルが、対自、対他、即自などの意識の有り様の解きほぐしと敷衍を行ったのは確か。
だから、サルトルの「まなざし」の概念も、「存在と無」ではかなり重要。
「本質論」に関しては、ことサルトルの哲学にとっては、重要な意味は持っていないと思う。
単純化し、そのつどのアンガジュマンを実存とすれば、「本質」などは二の次。
199考える名無しさん:2005/12/08(木) 21:19:42


サルトル   =  流行哲学(風)
   

ハイデガー  =  現代思想の源泉



これは定説でしょう。
200考える名無しさん:2005/12/09(金) 00:22:44
>>194の前段について、追加、
ハイデガー「存在と時間」の当該箇所の記述には、
(少なくともフランス語訳には、)説明(条件)があって、
「本質と存在から伝統的な意味を剥奪することによってのみ、
そしてとりわけ、存在に〈現存在〉の存在形態を取って
おくことによってのみ、理解されうる」のだそうな。

現存在の投企(Entwurf,pro-ject)について、ニュアンスとして、
ハイデガーは、世界−内との受動的な関わりとし、
サルトルは、それを能動的な行為として批判的に誤読している。
詳しくは、ハイデガー「ヒューマニズム書簡」を読みませう。
201考える名無しさん:2005/12/09(金) 17:25:25
>>199
定説を疑うのが哲学のはじめではないのかね?
定説を信じるというのはDas-Man(世人)の中に自分を見失うことだよ。
202考える名無しさん:2005/12/09(金) 17:57:42
二人はほぼ同時代を生きていますね。死はハイデガー1976年、サルトル1980年。しかしハイデガーの思索が例えば酒鬼薔薇の事件等に応用可能であるのに比してサルトルの仕事を今にどう生かすか。〈有の忘却からの奪取〉というタームは今も有効性を失くしていないと思えます。
203考える名無しさん:2006/01/10(火) 17:56:50
超初歩的な質問してスミマセン。
「絶望のうちにあって死ぬ。諸君は今でも、この言葉の意味を理解することができるであろうか。
それは決して単に死ぬことではない、それは生まれ出たことを後悔しつつ恥辱と憎悪と恐怖のうちに
死ぬことである、というべきではなかろうか。」
というサルトルの言葉の、出典を教えていただけませんでしょうか。
書名、版元、何ページの何行目、など、出来るだけ詳しく。
204考える名無しさん:2006/01/11(水) 00:12:59
マルチキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!
205考える名無しさん:2006/02/08(水) 19:24:03
>>199
「サルトル=流行哲学(風)」「ハイデガー=現代思想の源泉」は、定説ではなく、
ある時期以降の“流行”にすぎない。
サルトルは、わかりやすい(そうみえる)ために軽く評価されがち。ハイデガーは、
難解で渋く、いかにも玄人すじが喜びそう。しかし、どちらが“有効”か、まだ
決着がついたわけではない。
206考える名無しさん:2006/02/08(水) 20:01:20
>>205
どうなんだろうね。ドゥルーズがすべていいとは思わんけど、
ドゥルーズが昔の哲学者について書いたやつ(カント・スピノザ・ベルクソン等)は
かなりドゥルーズ自身の哲学に引き寄せて書かれている。
だからサルトルが考えつかなかったサルトルが今後出てくることは大いに考えられる。
逆に、ハイデガーの良いところははだんだん織り込み済みになってきてる気がする。
それをサルトルの偉業、とは言わないかもしれないが、
じゃあ哲学者の偉業って? という話にもなる。
207考える名無しさん:2006/02/09(木) 04:14:38
《世界は全体性として、如何なる有るもので「有る」のでもなく、現有がそれ自身を如何なる有るものへ関わり合せ得るか、そして如何なる仕方でその有るものへ関わり合せ得るかということに関して、そこから現有がそれ自身に指示を与えるところのものである。》
208考える名無しさん:2006/02/09(木) 04:23:43
(『根拠の本質について』より)だが『存在と無』中に、《世界はいかなる有るものでもない》とする世界概念はない。『存在と無』にこう書かれてある。《周知のように、ハイデッガーにあっては、人間存在の在りかたは《世界-内-存在》として定義づけられる。
209考える名無しさん:2006/02/09(木) 04:38:32
しかもその世界は、道具存在の綜合的複合である。》(『存在と無』T92頁)サルトルに於いて世界とは、有るものの全体、に留まっている。世界は、単に乗り越えられるべき有るものである。一方、ハイデガーに於いて事情はまるで異なっている。《世界は如何なる
210考える名無しさん:2006/02/09(木) 04:43:16
有るものでもなくして、現有に属する筈であるから、この関連が、或る一つの有るものとしての現有とそれとは別の有るものとしての世界との間の関係として、思惟され得ないことは明白である。》(『根拠の本質について』より)
211考える名無しさん:2006/02/09(木) 04:51:01
サルトルがハイデガーから継承したつもりで書いていたことが実は遥かに隔たっていた事がここに伺われる。サルトルの哲学は自分とは関係ない、と後にハイデガーに言われてゆくその差異が既にあからさまに出ている。
212考える名無しさん:2006/02/09(木) 05:04:31
>>207-211
改行のやり方も知らないマルチポスト荒らし乙ww
213考える名無しさん:2006/02/10(金) 20:34:31
馬鹿だなあ。お前↑よりはずっと「Mr.改行しらず」の方が面白いよ。死ぬまで改行を気にしてろW
214考える名無しさん:2006/02/10(金) 21:18:29
>>213
自作自演乙。
215考える名無しさん:2006/02/10(金) 21:36:05
ハイデガーはナチスに肩入れでいいじゃねーか
216考える名無しさん:2006/04/17(月) 01:58:41
道元の正法眼蔵を読んだ人いますか?
感想聞かせて
217考える名無しさん:2006/06/21(水) 22:15:03
ハイデガーとサルトルの違いを印象的にいうなら、
ハイデガーの立論には、現存在に張り付いてはなれない死に至っているというあり方がベースにある。だから、ハイデガーの物事へのまなざしは観想的なところがある。(死者の視点)
サルトルはもちろん死が絶望をもたらすものだとの論点はあるが、行動(アンガージュマン)でまぎらわせろ、といった雰囲気がある。
218wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/06/24(土) 13:50:25
>217
サルトルは死を即自存在(物自体)として、対自/対他存在である実存とは無縁のものと規定しているよ。
死が絶望をもたらすなどというヘタレの思考など無いよ。
219考える名無しさん:2006/06/25(日) 14:09:01
サルトルの実存主義は現存在の存在的哲学で、
ハイデガーのは――『存在と時間』が現存在を中心に書かれているから
誤解されるのは仕方ないかもしれないけれど――実存一般の存在論。。。

俺、何言ってんだろう・・・正直分からないんだ、ごめんなさい。
220考える名無しさん:2006/07/01(土) 17:03:15
サルトルのエロス論について知っている方いませんか?お願いです!!教えてください
221考える名無しさん:2006/07/04(火) 23:14:22
未だこのスレ残っていて良かった。昨日はアニメ版の涼宮ハルヒスレで書いていたんで来れなかったんだ。
ハイデッカーの思想は唯一の存在が全ての存在者の裏にはあるよというプラトンみたいな考え。
それに対してサルトルはその存在を無化して対自へと流出してゆくという思想。


問題はサルトルの「対自」とはなんなのかだな。それは意図的に行われるものなのか、人の意図を超えたドゥルーズの「欲動」みたいなものなのか
それは選択なのか、多様性への拡散なのか。デリダの「脱構築」との関係も気になるところ
222考える名無しさん:2006/07/04(火) 23:19:17
自分は「対自」は一つの立場の選択だけど個人の意思を超える側面もあると思っている。「脱構築」との関係で見ると
晩年のデリダ(「有限責任会社ABC]の頃)はサルトルの対自に近いことを言ってると思っている。
223考える名無しさん:2006/07/10(月) 01:48:14
>>221
ハイデガーの存在(作用)の概念はそのようなものではない。

>>222
まてまて。
「有限責任会社abc・・・」は全くもって晩年のものではないぞ。
224考える名無しさん:2006/07/10(月) 02:50:29
>>222
デリダはあくまで主体性を事物性に解体するから、サルトルの対自とは
相容れないだろう。
225考える名無しさん:2006/07/11(火) 01:20:11
>>サルトルは形式から実在性を切り離し、実存とした。
>>実存において即自と対自は存在であり、存在は無を含む。
>>即自の無化が対自であり、無が存在を生む。
>>

226考える名無しさん:2006/07/11(火) 01:31:59
>>存在は形式であると同時に形式化されるものであり、形式化するものである。
>>絶対知は、絶対的なものにおいて、形式化されるものと形式と形式化するもの
>>とが一致する。絶対的なものが実在を生み、実在が絶対的なものとなる。
>>
227考える名無しさん:2006/07/11(火) 01:34:43
>>実存は形式が形式化し、形式化が形式となる。形式が存在、形式化が無、
>>形式化される形式が即事、形式化する形式が対自である。
>>
228考える名無しさん:2006/07/11(火) 11:12:48
三宅先生乙w
229考える名無しさん:2006/07/16(日) 01:07:36
で、ハイデガーとサルトルの違いを教えれ、20字以内でな
230考える名無しさん:2006/07/16(日) 02:37:43
じゃあ質問も20字以内にしろや、ぼけw
231考える名無しさん:2006/10/12(木) 04:35:12
保守あげ
232考える名無しさん:2006/10/14(土) 03:09:12
>>221
ハルヒってなんか現代思想してんの?
あと「灼眼のシャナ」の「存在の力」とその抜け殻にすぎない「トーチ」って
やっぱりハイデガーからきてんのかな。
233考える名無しさん:2006/10/14(土) 03:15:23
>>232
何でもかんでも哲学者に結びつけるのはどうかと思うが。
哲学なんて学んでない中学生の妄想でも、偉人の大した概念に関係付けることは出来なくもないし。
234考える名無しさん:2006/10/15(日) 00:47:00
ハイデガーは解釈学、サルトルは現象学。
235氏名黙秘:2006/10/28(土) 02:03:42
この両者の本、「存在と無」と「存在と時間」が家にたまたまあったのですが、
どちらから読んだほうがいいのでしょうか?
馬鹿な大学一年生からの質問ですません。
236考える名無しさん:2006/10/28(土) 02:07:35
>>235
存在と時間の方が有名
237考える名無しさん:2006/10/28(土) 15:34:22
>>235
その二つの本がどっちもあるって凄いな。存在と時間はともかく、サルトルの方は高いし分厚いし。
哲学の知識ないならどっちよんでもわけわからんだと思うけど。
238氏名黙秘:2006/10/29(日) 00:20:23
存在と無読んでます。最初から難解です。
239考える名無しさん:2006/10/29(日) 00:48:53
緒論は難解でフッサール、ハイデガーなどもある程度読む必要があると
思いますが、飛ばしてもいいのではないでしょうか。
240考える名無しさん:2006/10/30(月) 00:12:50
 ハイデガーをサルトルがまともに読まないまま『存在と無』でハイデガーの名前や概念の名称を頻繁に援用しているのは『存在と時間』を読めば明らかな話で、例えば〈世界〉、〈存在〉と〈存在者〉の違い、などですね。〈超越〉も違う。全部違うんです。笑→
241考える名無しさん:2006/10/30(月) 00:18:47
→で、どちらから読めばよいかといえば、『存在と時間』を読まないとサルトルの誤解が訂正されないままになるから『存在と時間』が先、と言いたいところです。あと、『存在と無』を真に受けると、先の、誤読がそのままになるという→
242考える名無しさん:2006/10/30(月) 00:26:22
→問題の他に、まだ問題が生じる。『存在と無』で描かれる人間像ですが、僕はあれは超人に近いと思います。到る所にその記述はあり、どこでもいいですが例えば《一つの存在は、たしかに、たえず自らを無化することができる》(旧版T114頁)だとか、→
243考える名無しさん:2006/10/30(月) 00:31:35
→《それゆえ、意識的存在は、自分の過去に対して、この過去から無によって切り離されたものとして、みずから自己を構成するのでなければならない。》(同116頁)とか。読んでいて、人間の業とは違うのではないか、と言いたくなることが書いてある。→
244考える名無しさん:2006/10/30(月) 00:45:18
→否定についてのこのような考えはサルトルの独創であり、ハイデガーとは違う。否定や超越は、より現有であるための条件、というのがハイデガーだと思います。つまりサルトル的な無は問題にしてない。
245考える名無しさん:2006/11/06(月) 21:14:01
→さんは、
ヘーゲルの「否定」について、両者の解釈の差異をどうのように捉えているんだろう
と疑問に思ったよ。
246考える名無しさん
そういうのは病気なんだから医者に行って適切な治療を受けてください。
貴方の調子の悪い精神をどこまで掘り下げても、宗教的哲学的文学的真理なんて見えてきません。

どんなに深刻に哲学思想をこねくって観念遊びをしたところで、
それだけでは「嘔吐」のようにはおかしくならない。

あれは嘘なんです。

サルトルはメスカリンでトリップ体験をしたときに「自明性の喪失」を味わい、
それを何か哲学的な真理に通じるものだと勘違いしちゃったんでしょう。

宗教的神秘体験と似たようなもんですな。

砂漠で遭難して半死半生意識朦朧になって悪魔や天使と問答しちゃったイエスや、
合法ドラッグで宇宙の真理を悟っちゃった「NHKにようこそ」と同じようなもんです。

人は哲学や思想では狂わない。
一方でちょっと薬物を入れれば割と簡単に調子悪くなるもんです。
麻薬である必要さえない。
俺なんかカフェイン錠剤飲みすぎて一時的な不安神経症っぽくなったことあるよ。
いや、その時は確かにすごい怖かったんだけどね。

貴方の心の中、貴方の実存のあり方に、世界の秘密なんて隠れてません。
それは全部貴方サイズの出来事、貴方の都合に収まる小さなこと、世界の広さを前にすれば、
吹けば飛ぶような砂粒に過ぎません。