「まあ取り敢えず奴の話を聞けよ。」
その言葉を受けて、男は軽く笑みを浮かべながら口を開いた。
「幸せに暮らす為の智恵というものがある。
その智恵を深く、深く、深く自分の中に積んでゆくのだ。
物も、感覚も、想いも、意志も、気持ちも、
全てが不確かなものだと、そのように受け止める。
そうすれば、普段辛いと思ってることも、きれいさっぱり流れてしまう。
それをやってのけるのだよ。
どうだ、解るか?
人はな、様々な情報を受け留めて生きているのだよ。
対象があり最終的にそれを受け止める自分の意識がある。
けどな、サーリーの子。
対象となるもの、言うて見れば物質的なものも概念的なものも、
実際の所そんなに確実ではないのだ。
感じることも―
それにより想いが浮かんでも―
意志が生じても―
ハッキリ自覚できたとしても―
それら全て、一時もとどまることなく常に変化し続け、確たる姿を持つことはない。
また、変化し続ける物こそが、対象であり、感じたものであり、想いであり、意志であり、認識なのだ。」
何を――
何を言い出すのか。
この男は何を言っているのか。
「そのような顔をするな。」
男は見透かしたように、考える隙を与えることなく次から次へと言葉を重ね始めた。
「こうしたもの――全ての存在と言ってもいい――はな、
皆不安定で、頼りなく、移ろうものなのだ。
もしそのように世界を見るならば、
およそ確かな実体などないのだと見るならば、
生じるということもなければ滅するということもない。
穢れることもなければ浄くなることもない。
増大もしなければ減少もせぬのだ。
ここだ。ここからが肝要だぞ。
その故に、この移ろい易い性質の故に、
対象も、感じたものも、思い描いたものも、意思というようなものも、わしらの認識も、
極論すれば、無い――と言ってよいであろう。
そうであろう?人の心のなんと目まぐるしく転げ回ることか・・・。
続けるぞ。
もっと言ってしまえば、眼も、耳も、鼻も、口も舌も、この身体も、
そして、ワシやおぬしのこうした想いも、心もまた無いも同然なのだ。
であるならば、色や姿形も、音も、香りも、味も、この身体で触れ得る物も、様々な概念というものも、
また同じように無いものとしてみることができるであろう。
なぁ、サーリーの子よ。
お前さん、賢すぎんだよ。どっちかっつーとあまり利口ではあるまい。
怒るなよ。これでも褒めてるんだぜ。
けどな、そんな、人としての愚かさもまた無いと見るんだ。
生まれて、老いて、そして死んでゆく――
ワシらの人生もまた、シャボンの泡のようなもんだ。無いも同然よ。
縁起の理法も、四つの真理も、固執しちまったらおしめぇだ。
そんなもんありゃしねぇ。
世間じゃ、悟り悟りと大騒ぎするが、そんな大層なものはねぇんだよ。
況や悟りを「得る」なんてことがある筈がねぇ。」
男の口調が変わっていた。
口調が乱暴になっただけではない。
その眼の奥で、何か怖いものがぞろりと動いたような気がした。
この男は何かやりそうだ――そんな予感のようなものが、背筋を走り抜けた。
「けどな――
得たところが無い――その視点を持つが故に
求道者は、智恵の完成――ここまできたら悟りと言ってもいい――に依って立てるんだよ。
何のこだわりもしがらみもねぇ。
何に縛られることも無いからこそ、怖いもん無しだ。
今のお前さんみたいに、あれこれ悩み惑うこともなくなるだろうよ。
これが畢竟、涅槃って奴だろうな。
大昔から仏さんってのは、このとんでもねぇ智恵のお蔭で最高の安心を手にしてきやがったのさ。
さて――
変に小賢しいおめぇさんには却って難しかったかもしれねぇが、
これだけは憶えときな。
この智恵の完成はな、
――咒よ。
――真言(マントラ)よ。
それもとびきり上等のな。
最上にして、比べるもののない、人類最強のマントラよ。
嘘じゃねーぜ。
今から唱えるからついてこいよ。
咒?
真言?
マントラ?
この21世紀の科学万能の時代に、何を言い出すのか?
身じろぎ一つできずに男を見つめる舎利弗に構わず、男は声を上げた。
「ぎゃてぇ!ぎゃてぇ!はらぎゃてぇ!はらそうぎゃてぇ!ぼおぢぃそわか!」
風に乗って届く、むせ返るほどの蓮華の匂いが、
舎利弗の身体をねっとりと包みこんでいた。
たまらぬ観音様であった――。