(( イエス・キリストは神ご自身 ))

このエントリーをはてなブックマークに追加
952考える名無しさん:05/02/25 23:14:47
三浦さん、いい加減に正体晒せよw
953小さなヨハネ:05/02/25 23:16:33
<なぜ、見える神でなくてはならないか>

スウェーデンボルグ・真の基督教786
 しかし上述したように、見えない神とは如何なる交わりも在り得ない。而
して見えない神が単に人間を贖うのみではなく、また見ゆる神になり給うた
めに、世に来り、人間性を取り給うた、何故ならかくしてのみ神との交わり
が在り得るからであろうということは未だ知られていない。

スウェーデンボルグ・真の基督教787
 この教会は前の凡ゆる教会の冠である、それは一人の見える神を―この神
の中に霊魂が身体の中に在るように見えない神が在し給う―礼拝するからで
ある。かくしてのみ神と人との間に交わりが在り得るのである、それは人間
は自然的であり、従って自然的に考え、交わりは思考と情愛の交わりでなく
てはならず是は人間が神を人間として考える時にのみこれは可能となるから
である。

見えない神との交わりは宇宙の涯しの無い拡がりを見るようなものであり、
または太洋の真中に在って涯しなく拡がっている空と水とを見るようなもの
である。
954考える名無しさん:05/02/25 23:20:36
無意味な言葉の堆積に隠れながら何をやっているのかな?
955小さなヨハネ:05/02/25 23:22:30
スウェーデンボルグ・真の基督教538
救い主に在す主なる神に近づかなくてはならぬ。それは彼は天地の神、贖罪
者、救い主にて在し、彼に全能、全智、偏在、慈悲、義が属し、人間は彼の
被造物であり、教会は彼の羊の檻であり、且つ彼は新約聖書に幾度も、人間
は彼に近づき、彼を礼拝し、彼を崇めなくてはならないと宣言し給うたから
である。

彼のみに近づかねばならぬことは、ヨハネ伝の以下の語によって宣言されて
いる。
「まことに誠に我汝らに告ぐ、羊の檻に門より入らずして、他の道より越ゆ
る者は盗人なり強盗なり。門より入る者は羊の牧者なり。我は門なり、我に
よりて、入る者は救われ、草を得べし。盗人のきたるは、盗み、殺し、亡ぼ
さんとするの他なし、我が来るは羊に生命を得しめ、かつ豊かに得しめんた
めなり。我は善き牧者なり。」(10・1,2,9−11)

人間は他の道より越ゆるべきでないということは彼は父なる神に近づくべき
でないことを意味する。それは彼は目に見えず、近づき得ず、また彼との結
合も在り得ないからである、それ故彼御自ら単に人間が救われんがために、
世に来り、自らを目に見ゆる者となし、これに近づき得る者となし、これと
交わることの出来る者と為し給うたのである。

神を一人の人間として考え、これに近づかない限り、彼に関する凡ゆる観念
は消滅する。何故なら、その時、その思いは空虚な空間の瞑想に陥るか、或
いは、自然とその対象とに向けられるかするからである。永遠から一人にて
在す神自らが、救い主なる主の誕生によって明白であるように、世に来り給
うたのである。

何故なら、彼は聖霊により至高者の力によって懐胎せられ、かくして彼の人
間性は処女マリアから生まれたからである。

956四式:05/02/25 23:23:48
「レッドキムチ、イリュージョン!!」
迫りくるコピペの嵐、小さなヨハネはキーボードを叩きつづけた、
「ぐわぁぁぁぁーー」僕は言葉を失っていた。
「赤い白菜がぁぁ、来る、来るよぉーーー、畜生、蓄生ぉぉぉーーーー」
その時だ奇跡は起こった、なんとブリーフが

957小さなヨハネ:05/02/25 23:24:48
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/

「かつて、ヒマラヤ山中にいたとき、わたしはサトレジュ河を渡ろうとした
が、橋がなかった。とても泳いで渡れる所ではなかった。どうしたものかと
考えていたときに、一人の男を見つけたので、彼に声をかけた。『向こう岸
に行きたいのだが、橋もなければ船もないのです』。すると、彼は『心配な
い。空気が向こう岸に連れてってくれるさ』と答えたので、わたしはびっく
りした。空気を吸うことはできるが、吸った空気で体が持ち上がり、対岸に
行けるわけではない。すると、相手は獣皮を取り出して空気をそこに吹き込
み、ゴムボートにして、それに乗れと命じたのである。こうして、わたしは
安全に向こう岸に辿り着けた。空気は、皮の中に閉じ込められることによっ
てのみ、わたしを運ぶことができた。同じく、神もまた、人を救うためには
受肉しなければならなかったのである。生命の言葉は肉となった。その方は、
この世の河を渡りたいと願う人々を、安全に天国に運んでくださる。『わた
しを見た者は、すなわち父を見たのである』。われわれは、イエス・キリスト
の化肉の中に、生ける父を見ることができる。」

958考える名無しさん:05/02/25 23:25:54
火病在○だったのか
959考える名無しさん:05/02/25 23:26:25
小さなヨハネさんのチラシの裏
960小さなヨハネ:05/02/25 23:27:06
(サンダー・シング/続き) 
「カシミールで起きたことを思い出す。その地方に、数百頭の羊を所有する男
がいた。使用人たちが羊を放牧する仕事についていたが、夕に羊を戻す度に、
二頭か三頭がいなくなった。主は、使用人たちに失せた羊を探すよう命じた
が、野獣に襲われるのを恐れて、誰も探しに出ようとはしなかった。だが、
主は羊に愛情を持っていたので、助けてやりたいと思った。『自分が行って
も、羊にはわかるまい。わたしを見たことがないのだから。使用人なら見分
けるだろうが、彼らは行きたがらない。自分が羊に変装するしかない』。彼
は羊の毛皮を被って羊に変装した。探しに出てゆくと、迷子になった羊数頭、
それに怪我を負った羊も見つけた。羊たちは、彼を仲間だと思い込み、後に
ついてきた。こうして、彼は羊を一匹残らず救い、家に連れ帰ることができ
た。同じように、神は人ではない。人を救うため、あえて人となってくださ
ったのだ」
961小さなヨハネ:05/02/25 23:33:18
イエズスの聖テレジア(アヴィラのテレサ)自叙伝9章・6

私は、ただ聖主をそのご人性において考えることだけができました。

同上・8
たぶん物体的なものをすべて捨て去るのはよいことに違いありません、この
ように霊的な人々がそう断言するのですから。しかしそれは非常に進歩した
霊魂の場合でなければならないと思います。なぜなら、それまでは霊魂は明
らかに、被造物によって造物主を求めるべきですから。それにこういうこと
はすべて主が各々の霊魂にお与えになるお恵みによります。そしてこれは私
が口だししたくない問題です。
私がわからせたいこと、それはキリストのいと聖なるご人性は、遠ざけるべ
きものの数に、はいるべきではないということです。この点をよく理解して
いただきたいので、私ははっきり説明したいと思います。
962508:05/02/25 23:33:29
神ご自身がが人となって地上に降りられている間。
神が不在となった宇宙はいったい誰が管理していたのか?
30数年の間、星たちは勝手に運動していたのか?
なんだってまた、宇宙の端っこにあるゴミみたいな冷たい星に
わざわざ神は目をかけてくださるのか。
963小さなヨハネ:05/02/25 23:33:55
同上・9
(前略)
しかし私たちのほうからこの聖なるご人性の現存を常に保つことを(どうか
私たちがこのご現存をいつも保ったのでありますように!)避けようとして
くふうしたり、気をつかったり、努力したりすること、それが、繰り返して
申しますが、私にはよいとは思えないのです。
こういう道を歩む霊魂は、いわゆる空を歩んでいるのです。

なぜなら、どんなに神に満たされていると自分では信じていても、支えを欠
いているように見えますから。この地上に生活している間、そして人間であ
る私たちにとって、聖主のご人性について考えることはたいへんたいせつな
ことで、私が言ったもう一つの不都合とは、この点をないがしろにすること
です。

964小さなヨハネ:05/02/25 23:37:44
私たち人間でさえ、寝ている間、無意識のうちに、呼吸し、鼓動し、生きていま
す。まして神は人間になっておられても、全宇宙を司ることは可能でしょう。
神は人類すべてを愛し、救おうとされるからです。
965小さなヨハネ:05/02/25 23:42:50
<主を認識することによって連結が生じる>

スウェーデンボルグ/神の摂理29
霊界では人は精神を集中させて他の者に会うことができる。もし誰かが他の
者を考え、これと語りたいと願うならば、その者は直ちに現れ、互いに顔を
合わせる。それは愛の情愛から他の者を考えても同じである。しかし後者の
情愛では結合が生まれ、前者ではただ現存が生まれるにすぎない。これは霊
界の特質である。なぜならそこでは凡てのものは霊的なものであるが、自然
界では霊的なものではなく、凡ては物質的なものであるから。

自然界でも人間の情愛と思考の中にそれと同じことが起こるが、しかしそこ
には空間が在り、これに反し霊界では空間はたんに外観にすぎないゆえ、そ
こでは人間の霊の思いの中に起こることが実際起こるのである。かく記した
のは、主の天使との結合と天使の主との外観上の相互的結合が如何にして行
われるかを示すためである。

なぜなら天使はすべてその顔を主に向け、主は天使の額を眺められ、天使は
眼で主を見上げるからである。それは額は愛とその情愛に、眼は知恵とその
認識に相応するからである。にもかかわらず天使は自らその顔を主に向ける
のでなく、主が彼らを御自身に向けさせられるのである。主はこのことを彼
らの生命の愛へ流れ入ることにより行われ、その愛を経て彼らの認識と思考
へ入り、かくて彼らを御自身に向けさせられるのである。
966考える名無しさん:05/02/25 23:44:23
いくら著作権ないからって、写し過ぎだぞ
967考える名無しさん:05/02/25 23:45:01
>>964
そんなことまで分かってしまう彼方って、、、素敵。
968小さなヨハネ:05/02/25 23:45:21
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/

新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主につい
てはこのことであり(主は父なる神であること)、その中にいることを望む
者はそのことを承認するのである。なぜならこの教会はキリスト教そのもの
であるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者は除
いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのであ
る。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されること
を知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその
性質についてしらべられるのである。なぜならその告白を通して連結が生ま
れるからであり、連結が生まれるとき、細々としたことにおいて明るく示さ
れるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことにかかっているので
あり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためであ
る。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することで
あり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。
969四式:05/02/25 23:46:56
地球の半径の一万倍が地球太陽間の距離、地球太陽間の距離の百万倍が恒星間の距離、
恒星間の距離の百万倍が銀河間の距離、銀河間の距離の一万倍が宇宙全体。
ゴッドから見れば人類と言うのは人類が見るバクテリア以下の命だよな。
970小さなヨハネ:05/02/25 23:47:58
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/

教会の本質的なものはその神を知り、認めることであり、この主要な本質的
なものが無くては神とのいかような連結もなく、かくて天界と永遠の生命と
は存在しないのである。その理由は以下のものである。すなわち、霊界にお
いては思考と意志とは、注視されて愛される者と連結するのであり、その注
視され、愛される者はその方向に身を向けるのであり、そのときまたその人
間に属している凡ゆるものも自らを向けるのである。それ故天界は凡て主の
方に向いているのである。(天界と地獄141〜153)

971小さなヨハネ:05/02/25 23:50:10
スウェーデンボルグ/神の摂理/326(イ)

 <神を承認することにより神の人間との結合と人間の神との結合が生まれ、
神を否定することにより分離が生まれる>
神を承認しない者も、道徳的な生活をするなら、神を真に承認する者と同じ
ように救われることができると考える者がいるかもしれない。彼らは言う
「この承認から何が生まれるのか。それは単に観念にすぎぬのではないか。
神は存在することを確実に私は知ったときに、私は容易に神を承認しないで
あろうか。私は神については聞いているが、神は見ていない。神を私に示し
なさい、そうすれば私は信じるであろう。」これが神を否定する多くの者が
神を承認する者と自由に議論することができるときの言葉である。しかし神
を承認することは結合を生み、神を否定することは分離を生むことは、今、
私が霊界で得た経験から説明しよう。

霊界ではもし誰かが他の者のことを考えて、その者と話したいと欲するなら、
その者は直ぐに現れてくる。これは霊界の普遍的な法則であって、決して犯
されない。その理由は霊界には自然界のような距離はなく、たんに距離の外
観が在るにすぎないということである。他の特質は他の者についての或る知
識と結合した思考によりその者が現れてくるように、他の者に対する或る情
愛と結合した愛により結合が生まれるということである。この結合の結果彼
らは共になり、親しく語り合い、同じ家または共同体に住み、しばしば会い、
互いに親切をつくすのである。その反対もまた起こっている。例えば、もし
誰かが他の者を愛さないならば、さらに彼らを嫌忌するならば、彼はかれを
見もせず、またかれに会いもせず、彼らは互いに感じ合う冷淡または憎悪に
比例して互いに遠ざかっている。実際、もし誰かが他の者とともにいて、そ
の心に嫌忌が生まれるなら、彼はその者の視野から消えて行くのである。
972四式:05/02/25 23:51:08
>>969
バクテリアは過大評価しすぎだった、クォークとかもう分割できないレベルにまで
行くかもしんない。
973小さなヨハネ:05/02/25 23:52:01
(続き)このわずかな事柄から、霊界の現存と結合の如何ようなものである
か、すなわち、他の者を思い出して、それと共にその者に会おうとの願いが
生まれるとき、その者は眼前に現れてくるのであり、また愛の情愛から結合
が生まれることが明白になったに相違ない。人間の心の中の凡ての物も同じ
である。それは無数の物を含み、その個々の物は一つの物の他の物に対する
情愛または愛に従って連なり、結合している。この結合は霊的なものであり、
全般的にも個別的にも類似した性質をもっている。それは主が霊界と自然界
に全般的にも個別的にも結合されていることから起こっている。それ故誰で
も主を知り、それにより主を考えるに応じて主は現れたまい、誰でも愛の情
愛から主を承認するに応じて、主はその者と結合されるが、他方、誰でも主
を知らないかぎり主はおられず、主を否定する限り、主から引きはなされる
ことが明白である。この結合の結果は主は人間を御自身に向けさせ、かくて
かれを導かれるということであり、分離の結果は地獄が人間を地獄自身に向
けさせて導くということである。これが天界の凡ての天使は太陽としての主
に面を向け、地獄の凡ての霊は主に面をそむける理由である。これらの考察
から神を承認する結果と神を否定する結果は明白である。さらに世で神を否
定する者は死後も神を否定し、かくて彼らは前述した記事に従って有機的に
構成されるようになり(319)、世で得た有機体は永遠に存続する。
974小さなヨハネ:05/02/25 23:53:30
スウェーデンボルグ/神の摂理/326(ロ)
 <人間は各々その生活の善に従って神を承認し、神と結合する>
何らかの宗教的な知識を持つ者は凡て神を知ることができよう。彼らはま
た知識からまたは記憶から神について語り、或る者は神につき知的に考える
ことができるのである。しかし人間は善良な生活を送らない限り、それはた
だ彼を神の前に連れ来るにすぎない。なぜなら彼は神の前にいるにも拘らず
神から面をそむけて地獄に向けることができ、もし邪悪な生活を送っている
ならば、そのようなことをするからである。しかし善良な生活を送っている
者のみが、心に神を承認することができるのであり、主はその生活の善に従
って彼らを地獄から連れ出して、御自身に向けさせられる。その理由は彼ら
のみが神を愛するということである。なぜなら彼らは神から発している神的
な物に対する愛をその神的な物を為すことにより示すからである。神から発
している神的なものとはその律法の教令である。教令は神である。なぜなら
神御自身は神御自身の発出している神的なものであり、教令に服従すること
は神を愛することであるから。これが主が「私の誡命を守る者は私を愛する
者である。しかし私の誡命を守らない者は私を愛する者ではない」と語られ
る理由である(ヨハネ14・21,24)。
975小さなヨハネ:05/02/25 23:55:33
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/

イエス自身がこう言う。「間違った解釈を避けさせるために説明する。祈る
とは神であれ、隣人であれ、それを思い出すことである。そして、この思い
出すこと自体が、それを愛すことである。私は、私を取り囲んでいたすべて
の憎しみに、愛と慰めとを望んでいた。いまでも私は人間が祈ることを忘れ
ないように望む。これはこの世が救われるために私を愛するようにである」
これを見れば、イエズスは友だちの愛と慰めとを望み、ゲッセマニの園で天
使からの慰めを喜んだのと同じように評価したと分かる。
976四式:05/02/25 23:58:53
管理している1/1000000000000000000000000000000のものにまで慈悲を忘れないとは
ゴッドパワーは凄まじい。
977小さなヨハネ:05/02/25 23:59:20
<多神教の起源>

スウェーデンボルグ・天界の秘義2724

「そこに永遠の神の御名を呼んだ」。これはそこから発した礼拝を意味して
いることは、『神の御名を呼ぶこと』の意義が礼拝であることから明白であ
る(440番参照)。古代教会に属した者たちは名により名を理解しないで、
あらゆる性質を理解したのであり(144、145、440、768、17
54、1896、2009番参照)、かくて『神の名』により、神が拝され
る手段となるすべてのものの一つの総合体を理解したのであり、従って愛と
信仰のあらゆるものを理解したのである。しかし礼拝の内なるものが死滅し
て、外なるもののみしか残らなくなると、そのときかれらは神の名により名
以外には何ごとも理解しはじめなくなり、それが、かれらが礼拝する源泉で
ある愛と信仰を何らかえりみなくなって、名前そのものを拝するほどにもな
ったのである。そうした理由から諸国民はその神の名によりかれら自身を区
別し始め、ユダヤ人とイスラエル人とは、エホバを拝し、礼拝の本質的なも
のをその名を口に出して、その名を唱えることにおいたため、彼ら自身を他の
国民よりもすぐれたものとしたのであるが、名のみの礼拝は真に何ら礼拝で
はないのであり、それはまた人間の最悪な者の中にすらも見出されることが
できるのであり、こうした者らはそのことによりさらに冒瀆罪を犯している
のである。
978小さなヨハネ:05/02/26 00:01:17
(続き)[2]しかし『神の名』により礼拝のあらゆるものが、すなわち神が
拝せられる源泉である愛と信仰のあらゆるものが意味されているため、それ
で主の祈りにおける『あなたの御名が崇められますように』という言葉に意
味されていることが明白であり(マタイ6.9)、また、主が以下のように
言われたものにより意味されていることも明らかである―
あなたたちはわたしの名のために憎まれるであろう(マタイ10・22)。
(中略)その外旧約聖書の非常に多くの記事の中ではエホバの、また神の
『名』により名が意味されてはいないで、礼拝が存在する源泉である愛と
信仰のあらゆるものが意味されているのである。
979小さなヨハネ:05/02/26 00:03:41
(続き)[3]しかし愛と信仰もないのに、ただ名を拝しているにすぎない者は、
マタイ伝に以下のように語られている―
その日多くの者はわたしに言うでしょう。主よ、主よ、わたしたちはあなた
の御名により予言しませんでしたか、あなたの御名により、魔鬼を追い出し
ませんでしたか、あなたの御名の中に多くの力ある業を為しませんでしたか、
と。しかしわたしはかれらに明らかに言いましょう。わたしはあなたたちを
知らない。不法を働く者らよ、わたしから去りなさい、と(マタイ7・22.
23)。
前に言ったように教会の人間が内なるものでなくなって、外なるものとなり、
名の中にのみ礼拝をおきはじめると、そのときは、かれらはもはや一人の神
を承認しなくなって、多くの神々を承認したのである。なぜなら古代人には
エホバの名に何かを加えて、それによりエホバの何かの利益を、または属性
を心に思いおこすことが普通のことであったからである。
(中略)
このことから名にのみ礼拝をおいた者は多くの神々を承認するようになった
のであり、また異邦人の間には、とくにギリシャとローマには多くの神々が
承認されて、拝されたが、それに反し、古代教会は―その教会からその形容
語が流れ出たのであるが−一人の神以外には決していかなる神をも拝しなか
ったのであり、その一人の神が非常に多くの名の下に崇拝されたのである。
なぜなら『名』によりかれらは性質を理解したからである。
980小さなヨハネ:05/02/26 00:07:30
<輪廻転生はないことについて>

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2./

「イスラエルは死なねばなりませんか。邪悪な木ですか」
「よみがえるために死ぬべきです」
「霊的な輪廻ですか」
「霊的な進化です。いかなるものにも輪廻はありません」
「輪廻を信じている人がいます」
「それは間違いです」
981小さなヨハネ:05/02/26 00:10:14
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/

なおかつ、この人たちは異教徒のように、異端者になりました。というのは、
輪廻説を信じる者や運命論を認める者まで現れたからです。




982小さなヨハネ:05/02/26 00:12:35
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/

知的困難を解決するために、プラトンもエジプト人もインド人も、多少の違
いはあっても霊魂の転生を説いた。ヒンドゥー教徒が教えているように、八
百四十万回もの転生があるとすれば、問題は解消するどころかますます増え
ることになるだろう。(中略)
天に入れるほど完全で聖なる人間であるなら、大変な苦労をして得たものが
すべて灰と化し、天から追い出されるなどということが起こるものであろう
か?(中略)また、このような短い人生の苦労で善い性格や生き方を培った
のであれば、天の完全な環境と聖なる交わりの中に生きていて、完全になれ
ないものだろうか?この世の苦労と邪悪な力のなかにいるよりは、天界で完
成へと進んでゆくことの方がずっと容易であろう。それが可能でないという
のなら、もはやこれは救いでも天界でもなく、ただの欺きと地獄にすぎない
のである。
983小さなヨハネ:05/02/26 00:17:31
<霊がしゃべるために生まれ変わりと勘違いしてしまうことについて>

スウェーデンボルグ/霊界日記2860
『他の人物を表象する霊たちは自分がその表象している者と同一であると信
じるようになることについて・・・』
以下のことがいく度もわたしに示された、すなわち、わたしと共に話した霊
たちは自分がわたしが考えているその者であるとしか考えなかったのであり、
他の霊たちもまたそのようにしか考えなかったのである、例えば、わたしが
生命の中で知っている或る一人の者が、昨日と今日わたしと話した者に、そ
の者である一切のものにおいて、わたしの知っている限り、何一つそれ以上
に似ることはできないほどにも似ていたのである。

それ故霊たちと話す者たちは、霊たちが自分はあなたたちに知られている者
であり、自分は死んでいると話すときは欺かれないように注意しなくてはな
らない。


スウェーデンボルグ/霊界日記2861

なぜなら同じような能力をもった霊たちにはいくたの種類と種族の者がいて、
類似した者が人間の記憶の中へ呼び出されて、かれらに表象されるとき、か
れらは自分らがその者である、と考えるからである。そのさい記憶から、か
れらを表象している物の凡てが、また言葉、音声、動作、その他多くのもの
が作り出されるのである。

さらにかれらは、他の霊たちから思想、感情といったものを吹き込まれると
き、そのようにも信じるようになるのである、なぜならそのときかれらはそ
の他の霊たちの幻想の中におかれて、自分がその者である、と考えるからで
ある。1748年8月19日
984小さなヨハネ:05/02/26 00:19:37
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのちY
主:
サタンの教義では輪廻を信じるように教える、だが輪廻はない。彼らは宗教
の外観を保っているが そのうちなる力:聖霊と聖体の秘跡 を受け入れな
い、我が子よ。サタンは光の天使をよそおい 多くの人を欺いている、そし
て反逆者をともなって 彼を認める人たちに大きな誉れを授け、気に入った
者には栄誉を与えて多くの者を支配させ、封土を与える。
しかしまことに言っておく、間もなく天が開かれ、私の火が襲いかかり 
彼らを焼き尽くそう、
私は(I am)、忠実で 真実な者、
私は(I am)、裁き主 全き者、
私は(I am)、神のみことば、
私は(I am)、王の王 主の主、
では約束をくり返そう:まことにもう直ぐ 私はあなた方を訪れる 
985小さなヨハネ:05/02/26 00:22:00
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち\・LA

 私(ヴァッスーラ)はどんな形にしろ輪廻転生を信じていません。それど
ころか私の著作は輪廻転生やニューエイジに反対です:サタンの教義では輪
廻を信じるように教える、だが輪廻はない。彼らは宗教の外観を保っている
が そのうちなる力―聖霊と聖体の秘跡を 受け入れない(99.4.19
前掲Y).
986小さなヨハネ:05/02/26 00:25:40
<外観の法則>

スウェーデンボルグ/真の基督教135
神は怒り、復讐し、試み、罰し、地獄に投げ入れ、罪に定め、否、悪を為し
給うとさえ言われている場合のように、神は聖言では外観に従って語り給う
たことが知られていますが、事実は神は決して怒らず、決して復讐せず、決
して試みず、罰せず、地獄に投げ込まず、また罪に定め給いません。このよ
うな事は地獄が天界から隔たっているように神から隔たっており、否、無限
に遠く隔たっており、単に外観に従ってのみ用いられた言葉の形式でありま
す。償い、宥め、執成し、調停の語もまた他の意味の外観の表現であります。
何故ならこれは神への近接と神からその人間性を通して来る恩寵とを表現す
る言葉の形式であるからです。これらの言葉は理解されなかったために、人
間は神を三人の神に分割し、そしてこの三人の神の上に教会の教義の凡てを
基礎づけ、かくして聖言を虚偽化してしまいました。これがダニエル書にさ
らにマタイ伝24章に主によって予言された「荒らす憎むべきもの」であり
ます。
987小さなヨハネ:05/02/26 00:27:12
スウェーデンボルグ/真の基督教256
然し、これは例を用いて説明することが出来よう。聖言の多くの記事に怒り、
憤り、復讐が神に帰せられ、神は罰し、地獄に投じ、誘惑し、その他そのよ
うな事柄をなし給うと言われている。これを子供のような単純さを以って信
じて、神を恐れ、神に向かって罪を犯さないようにと心をくばる者は何人も
罪に定められない。しかしこれらの観念を確認して、神は怒り、憤り、復讐
を、またそのような悪しきものを感じ給うと信じ、怒り、憤り、復讐から人
間を罰し、地獄に投じ給うと信ずるならば、罪に定められるのである。何故
なら、彼は神は愛そのもの、慈悲そのもの、善良そのものである故に、怒り、
憤り、あるいは復讐することが出来ないという純粋な真理を破壊しているか
らである。聖言にこのようなものが神に帰せられているのは、それらは真理
の外観であるからである。
988小さなヨハネ:05/02/26 00:28:58
スウェーデンボルグ/真の基督教260

聖言の文字的な意義はその内にある純粋な真理を危害から守るのである。何故
なら、読者はその霊的な意義に危害あるいは暴行を加えること無しに、己が
理解に応じて聖言を解釈し、説明し得るからである。文字の意義が異なった
人々によって異なった風に理解されることは何らの害を与えないが、神的真
理に相反している虚偽がもたらされるとき、害が生まれ、これは虚偽を確認
した者によってのみ行われる。かくして、聖言は暴行を受けるが、宗教的な
虚偽に取り憑かれてはいるものの、これを確認しない者たちからは何らの暴
行をも受けない。此処に、その文字的な意義は全き警備者となっている。こ
の警備者はアダムとその妻がエデンの園から追放された後、その入口に置か
れたケルビムによって意味されており、また我々は神エホバは「その人を追
い出し、エデンの園の東方にケルビムと、自らまわる焔の剣を置いて生命の
樹の道を守りたまう」ことを読むのである(創世記3・23,24)。
989小さなヨハネ:05/02/26 00:31:48
スウェーデンボルグ/天界の秘義2209[3]

合理的なものは、それが感覚的なものから賢明になって、その感覚的なもの
の迷妄に浸透しているさいには、こうしたものを考えるとき、それがそうし
たものでありうることを信じはしないのである。なぜならそれはそれが内な
る感覚かまたは外なる感覚かその何れかによって認めることのできるような
ものによらなくては、それ自身に対してはいかような観念[考え]も形作るこ
とができないからである。それならそれがさらに高い天的な霊的なものにつ
いて考えるときは、その場合はいかようなものになるにちがいないであろう
か。なぜなら思考が(その思考のために)依存していなくてはならないとこ
ろの感覚的なものから発した何かの外観が常に存在していなくてはならない
のであって、この外観が取り去られると、観念は消失してしまうからであり、
そのこともまた霊界に入って間もない霊たちからわたしに明白にされたので
ある。
990小さなヨハネ:05/02/26 00:34:17
スウェーデンボルグ/天界の秘義4768

神的諸真理を否定して誤謬を確認することは聖言の文字の意義から理論によ
り提示されるいくたの外観により行われる。聖言の文字の意義から発した解
釈より誤謬を確認するものはことごとく外観である。

黙示録講解719
その中の大半のものは真理の外観となっており、それらのものが同時に霊的
な理解からすなわち明るくされた理解から認められない限り、それらは誤謬
となるのである。
991小さなヨハネ:05/02/26 00:36:42
<悪がエホバに帰せられる理由>

スウェーデンボルグ/天界の秘義7632
エホバが「パロの心を頑にされた」と言われていることは、内意ではパロが
自分自身の心を頑にしたことを意味しているのである。
古代では単純な者たちのために、悪はすべてエホバに帰せられたが、これは
起こるようになったものがエホバ以外の源泉からいかようにして起こること
ができるかを単純な者は知ることはできず、その大半の者は悟ることもでき
なかったためであり、またエホバが悪魔の一味が悪を作り出すのを許される
ことをいかように理解しなくてはならないかを、またエホバは凡ゆる力を持
っておられるのに、なぜなそれを許されるかを悟ることもできなかったため
である。
単純な者はこれを悟ることはできず、理知的な者さえもまたこれを悟ること
ができなかったため、それで多くの者から信じられているように、悪でさえ
もエホバから発生したと言われたのである。これは聖言では普通のことであ
って、その文字の意義は単純な者の信仰に従っているのである。
2447,6071,6991,6997,7533
992小さなヨハネ:05/02/26 00:39:01
スウェーデンボルグ/天界の秘義245
神エホバはその面をそむけられる、怒り、罰し、試みられのみでなく、殺し、
呪われると聖言のここにもまた他の部分にも言われている理由は、主は宇宙
の凡てのものを、また個々のものを支配され、処理され、悪そのものをさえ、
刑罰、試練をさえ支配され、処理されていることを人間が信じるためであり、
また人間がこうした最も全般的な考えを受け入れて、後になっていかにして
主は刑罰と試練の悪を善に変えられることにより凡てのものを支配され、処
理されるかを学ぶためである。聖言を教え、学ぶに当っては、最も全般的な
真理が先ず来なくてはならないのであって、それで文字的な意義はそうした
ものに満ちているのである。

天界の秘義6914
エホバまたは主から命じられた非常に多くの事柄は内意ではそうしたことが
命じられたことを意味しないで、それらが許されたことを意味していること
を知られたい。

天界の秘義9849
人間が悪を行うとき、主から面をそむけると、そのときは主は人間の背後に
おられるため、恰も主はかれを見られはしないし、聞かれはしないし、知ら
れはしないし、また覚えられもしないかのように見えるものの、それでもそ
のことは人間から起こっているのであり、それで外観からそのように聖言に
言われているのである。
993小さなヨハネ:05/02/26 00:41:57
天界の秘義4397

かれらが罰せられたときは、かれは怒られ、激怒されていると信じた。

天界の秘義6997

怒り・・・寛大、慈悲
聖言にそのように言われているのは、かれらが神を恐れることを知って、か
れら自身が行う悪により滅びないためであり、後になって神を愛するためで
ある。なぜなら愛の中に聖い恐れが愛に先行しなくてはならないからである。
なぜなら恐れが愛の中に注がれると、それは愛の聖いものから聖いものとな
って、そのときはそれは主が怒られ、罰せられるのを恐れる恐れではなくな
り、自分達が善そのものに反したことを行いはしないかとの恐れとなるから
である。それはそのことが良心を苦しめるためである。
人間はその感覚的なものから見、また把握するものは信じるが、その感覚的
なものから見ないし、また把握もしないものは信じないし、かくて受け入れ
はしないといったものであるという理由によっている。
994小さなヨハネ:05/02/26 00:44:46
<エホバが悔いる>

天界の秘義10431

同様に以下の記事に『エホバは悔いられる』と言われているが、事実はエホバ
は決して悔いられはしないのである。なぜならエホバは凡ゆる事柄を永遠から
先見されているからであり、ここから聖言を読んでいるときその文字の意義
以上のことを考えない者らは、かくてかれらに実相は真にいかようなもので
あるかを教えている聖言から発した教義なしに聖言を読む者らは、いかに多
くの過誤に陥るかを認めることができよう。なぜなら教義に従って聖言を読
む者たちは、エホバは慈悲そのもの、善そのものであられ、無限あな慈悲と
無限な善とについて、それは怒りにもえて、やきつくしてしまうとは到底言
われることができないことを知っているからである。それでこの教義からか
れらはそれが人間に示されている外観[現象]に従ってそのように言われてい
ることを知るのである。(怒りと悪とは人間から発し、主から発してはいな
いものの、それらが主に帰せられていることについては、9306番に示さ
れたところを参照されたい。『怒り』は、主について言われているときは、
人間が主から離れ去ることを意味していることについては、5034、
5798、8483、8875番を参照されたい。)
995小さなヨハネ:05/02/26 00:47:45
<エホバが命じる>

天界の秘義6914[5]
このことがイスラエルの子孫がエジプトから手を空しくして出て行かないこ
と、女がその隣人とその家に宿っている者とに銀の器、金の器、着物を求め、
かくしてエジプト人から掠奪すること(出エジプト3・21,22)により意
味されている事柄である。こうした事柄が表象されなかったかぎり、イスラ
エルの子孫がエジプト人に対しこうした策略を用いることを神的なもの[神]
から決して命じられはしなかったことをたれでも認めることができよう。な
ぜならこうした事はすべて神的なものからは非常に縁遠いからである。しか
しイスラエル民族は全く表象的なものであったため、かれらはそのようなこ
とを為すことを神的なものにより許されたのである。なぜなら他生では悪い
者にはそうしたことが行われたからである。エホバまたは主から命じられた
非常に多くの事柄は内意ではそうしたことが命じられたことを意味しないで、
それらが許されたことを意味していることを知られたい。
996小さなヨハネ:05/02/26 00:50:20
<主もまた外観に応じて話された>

天界の秘義3857
主は聖言の中で人間の把握に順応し、また人間が把握している外観に順応し
て話された。主がそのように話された理由は、かれらが外なる真理を受け入
れ、そのことによって内なる真理へ導き入れられるためであったのである。

天界の秘義3387
真理の外観がおのおのの者にその者の把握に応じられてあたえられており、
主もまたかれらの把握に応じて、かくてかれらに思われたことに応じて答え
られたのである。
997小さなヨハネ:05/02/26 01:01:20
<父の右に座す>

天界の秘義8281
[一]「ああ、エホバよ、あなたの右手は強さにより讃えられます」(出エジプト記
15・6)。
これは主の全能が示されたことを意味していることは以下から明白である、すなわ
ち、「エホバの右手」の意義は全能であり―そのことについては以下を参照―「強
さにより讃えられます」の意義は示されることである、なぜなら神的な力は強さを
もって示され、その強さで讃えられるからである。「エホバの右手」が全能を意味
していることは、聖言の「手」により力が意味され、かくて「右手」により卓越し
た力が意味され、従って「手」または「右手」がエホバについて言われるときは、
それは神的な力を、または全能を意味するのである。(「手」と「右手」は力を意
味していることについては、878,4931〜4937、6292,6947,
7188、7189,7518番を参照、それがエホバについて述べられていると
きは、全能を意味することについては、3387、7518、7673、8050、
8069、8153番を参照)。
998小さなヨハネ:05/02/26 01:03:53
[二]「エホバの右手」は神的な力、または全能を意味していることもまた聖
言の以下の記事から明白である―
 イエスは言われた、いまから後あなたらは人の子が力の右手に座って、天
の雲にのって来るのを見るでしょう。(マタイ26・64、マルコ14・62)

 いまから後人の子は神の力の右手に座りつつあるでしょう(ルカ22・69)

エホバはわたしの主に言われる、わたしがあなたの敵をあなたの足台とする
まで、わたしの右手に座りなさい、あなたはメルキゼデクのさまに従ってと
こしえに祭司である、主はあなたの右手におられて怒りの日に王らを打たれ
た(詩篇110・1,4,5、マタイ22・44)

「右手」は、エホバについて言われているときは、全能を意味していること
を知らない者は、主のこれらの言葉から、主はその御父の右手に座り、地上
の王の右手に座っている者のように統治されるであろうとしか考えることが
できない。しかし内意はこれらの記事の中で「右手に座ること」により意味
されていることを、すなわち、神の全能を教えており、従ってまた「力の右
手に座る」、「神の力の右手に座る」と言われているのである。
999小さなヨハネ:05/02/26 01:05:48
[三]全能を持たれるのは主であることは明らかである、なぜならそれは主に
ついて言われ、「ダビデの書」の中の「主」により神的な真理の方面の主が
意味されており、また福音書の中の「人の子」によっても意味されているか
らである、なぜなら神的な真理は神的な善から全能を得ているものであるか
らである。(神的な真理に全能があることについては、6948,8200
番を参照、全般的に力は善から発した真理に属していることについては、3
091、3563、4231、6344、6493番を参照、従って「手」
は真理について述べられていることについては、3091、4931番を参
照し、「人の子」が主から発出している神的真理を意味していることについ
ては、2159、2803、2813、3704番を参照)。
1000考える名無しさん:05/02/26 01:08:24
聖霊に従い、おのれの言葉を述べよ。
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。