感情自己責任とはいえ、それを表現すべきではないという事では全くない。感情が湧いた時は己(の固定観念)を知る絶好のチャンスなので、寧ろ積極的に感じたままを間を置かずに表現すべきである
実際、感情の自己責任が取れていない人ほど表現の自由を制限したがる(自分が傷付かなくて済むように)
何を見てどんな印象を抱きどう感じるかは個人の自由。もし貴方がその自由に制限を与えようと(例えば自分の理想を押しつけようと)すれば、その瞬間に貴方も不自由(苛立ちなど)を感じる羽目になる(人を裁けば自らが裁かれる)
それがこの宇宙の「貴方が与えたものを貴方が受け取る」仕組み(仏教で言う因果応報、物理学で言う作用反作用)である
逆に貴方が誰かを怒らせたり悲しませても、相手が自前の了見・価値基準で勝手に感じている事なので、貴方が後悔や自責の念を感じる必要は一切ない
相手が幾ら貴方に罪悪感や劣等感を感じるよう仕向けても、上述のように御門違いなのでどんな言い分も貴方が自己嫌悪を抱く理由にならない(反省しなくて良いという事ではない)
気の合わない人に対して「相手が私に嫌悪感を抱かせる」という認識は誤りである。個人の中にある「嫌な人」の定義付けが、相手を通して本人にそう見せているのだから、正しくは「私の中の固定観念が私に嫌悪感を抱かせる」である
人は100%自分が与えた定義付け通りを体験する。「人生は必ずしも思い通りにならない」と定義していれば完璧にその通りの(必ずしも思い通りにならない)体験をする
常に本人の現時点の固定観念が、過去や環境を定義している。従ってどんな過去や環境も、自分の固定観念を変えなくていい理由にならない
「体験が先で観念が後という観念」も含めて、「観念が先で体験が後」である
勿論、生後暫くの観念を持たない、自意識が芽生えていない期間は、誰しも周囲の他人の観念をほぼそのまま反映する(子は親の鏡)。また願望は思考と同じく「観念から生じる行為」である
続く(あ、スレタイ間違えちゃった。まいっか)
観念が具現化するのは個々人のみならず、集団・社会においても同様である。グループ全体が抱いている固定観念はその中で起こる出来事となって具現化される。例えば貧困は人々の中にある「飢餓への恐怖」、犯罪は「自己存在否定への恐怖」が具現化したものである
殆どの犯罪は、現状に不満がある人が行う。人々が「〜すべきでない」という固定観念で自由を抑制すれば、その反動で不満が生じ犯罪に繋がる(不満は不満を呼ぶ。但し、自身の不満は自身の責任)
繰り返したくない体験に出会ったら、「一体どんな固定観念がこの体験を見せているのか」「その固定観念は執着に値するのか」と考えてみると良い。原因となっている観念を変えれば、似たような体験をしなくなる(観念を変えなければ、似たような体験を繰り返す)
感情に限らず人生で体験する全て(外界)は「体験者がどんな固定観念を持っているか(内界)」を映し出す“鏡”に過ぎない。従って感情的な批判や非難は全て自己矛盾する
例えば極悪非道な犯罪者に対して「あんな思いやりのない人間がいるなんて信じられない」などと責める人ほど、その人を思いやれていないように
何かと差別問題化する人の心の中にこそ根深い差別心があるのも同様。内部に矛盾がなければ外部に矛盾を見る事はできない
何かを批判するということは、その対象に対して中途半端な知識しか持っていない証拠である(本人は知識があると思っているが)。それ故に批判しても一時的表面的解決になるだけで、実態は益々隠蔽され長期化する
全ては必然であり、起こるべくして起こっている。偶然や奇跡、運、矛盾、不合理、理不尽、不条理などの概念は、物事の因果・必然性を理解できない人が用いる言い訳である
同様に「闇」も存在しない。存在するのは「知覚能力の限界」である
同様に「客観」も存在しない。存在するのはただの「共有された主観」であり、「これが客観」と主観で定義しているだけである
真実は一つではない。人の数だけある。「真実は一つ」は数ある真実の一つに過ぎない
ここに述べた事も、筆者の狭い視野と乏しい経験から独断と偏見で捻り出した個人的主観に過ぎない。真か否かを判断するのは貴方自身であり、いずれにせよ貴方は貴方が信じた通りを体験する
82 :観念氏へ :04/06/25 14:49 ID:???
教育板の方を見ていたら、かなりツッコみたいところがあったので一寸引用してみる。
レス番号28より
>>すなわち名誉毀損も脅迫も詐欺もストーカー行為も不可罰になります。
>というか既にそれらの行為によって生じた「精神的苦痛」を裁判所が認めるのは稀、つまりほぼ不可罰ですよ
「不可罰」ってことは、ここでは刑事の話をしている訳だ。ところで、「不可罰」ってのはその言葉の通り「罰することが
できない」って意味で、「無罪になってる」という使い方をするのにはもの凄い違和感を覚えるんだが、それはまぁ置いておく。
問題はここ↓
レス番号39より
>>そういう事件はほとんど全て無罪になっているということですか?
>「精神的苦痛」に対する慰謝料が認められるのはごく一部です
>過去の判例を見てみてください
これ、哀しいくらいに民事と刑事を一緒くたにしちまってるのよ。「無罪になってるか?」という問に何で「慰謝料」が出てくる?
それと、「無罪の割合」を問われているのに「判例を見ろ」ってのも意味が解らない。判例見て調べてたらどれだけ時間が掛かることか。
統計データを見れば済む話だろ。
http://ime.nu/www.moj.go.jp/HOUSO/2003/table.html#h02こういう。
もう一つツッコみを
ここの質問に挙げられてたのは<すなわち名誉毀損も脅迫も詐欺もストーカー行為も>なんだが、
「感情自己責任論」の理屈を使うと不可罰になる犯罪はこれ以外にもある。例えば、明かなところで侮辱、信用毀損、偽証、
虚偽告訴、公然わいせつ、わいせつ物販売・公然陳列、とか。また、「人を殴るのも『情報の発信』に含まれるのか。」→「広義で
含まれます」だから、粗暴犯(暴行、傷害、恐喝とか。上の脅迫も含まれる)も不可罰ということになる。(ついでに類推解釈して強制
わいせつも。また、余談ながら東京都迷惑防止条例違反で捕まった植草先生も「感情自己責任論」をみんなが理解してれば、
別に捕まることもなかったのに。惜しいことだ。ていうか、裁判で是非それを主張して欲しいもんだ。あの人は「教養ある人」だろうから。)
俺が「無理」って言ったのはこういう理由から。そんな世の中考えただけでひえ〜〜〜〜って感じ。