>>852 人からの信頼に意味を・・・見出せなくなってきました
信頼されることはいいことだと思っていましたが
自分の存在が人からの信頼の上にしか成り立たない
という意味として受け止めるととても虚しい気分です
>>853 人の世の中は、人の好奇心で出来ている。
好きなものに理屈や理由は要らない。
唐突ですがアメリカという国が今までの世界の価値観を
ものの見事に打ち壊してくれたように思います。
>>855 >人は死ぬために生きているのにあなたは生きるために・・・
生きるために生きていた、その生は、死同然でした。
生きるために生き、そのために他の生き物を殺す生き方。
全ての他の生き物は、私の死のために捧げられていたようなものです。
死ぬために生きることこそ、生きるということ。
>自分で居ることのクオリアだけが失われないなんてうらやましい。
私は審判なんです。全てを、○か×かどちらかに判断する存在だったんです。
決して○に向かうわけでもなく、×を避けるわけでもない、ただそこ止まりの
存在なんです。自分のために「考える」ことしかできない。
「行動」しない私にクオリアが生まれるはずもありません。
>あなたは本当には感じられていない。
そう。実際に悲しさ・辛さに涙を流しても、私はそれを自分のものとして
受け止めないからです。涙を流しているのは私ではない肉体なのです。
彼女の本心、私には未だに分かりません。もう分析はしたくない。
>離人症も道徳もあなただけが生き抜くための手段のようにみえます。
私は流されて生きています。私は人生を「生き抜いている」自覚がありません。
おこがましくも私は判定人の立場なのです。死ねば「良い」と最近つくづく思います。
>>856 ムートンさん
>死ぬために生きることこそ、生きるということ。
時計仕掛けの機械から零れ落ちた歯車、未来も過去も空回り。
ひとりぼっちのあなた、死ぬために生きることができるのですか。
自死は他の生物には絶対にできないこと。
人間の証明はその実行においてでしかありえない。
ある意味で、その意味でのみ、あなたは人間かもしれない。
心が肉を超えようとした証があなたの苦しみなのでしょうか。
幼いあなたの生命の息吹をだれが否定したのでしょう。
あなたの感性は血縁者のダブルバインドを許さなかった。
だから生きていることのクオリアに耐えることができなかった。
けれどもあなたは存在することへの嘔吐は感じたことがなかった。
ほんとうは愛ではなかった血縁者の道徳への憎悪は世界に向けられた。
あなたは生きたかったし存在していたかったからです。きっと今でも。
>私は審判なんです。
規準は道徳、それとも処世術のマニュアルでしょうか。
行為の内実をどうやってデータベース化するのですか。
ニーチェの神や道徳への批判の動因は神や道徳への誠実さでした。
誠実さも情念です。生そのものとつながっていないと相手に届かない。
ロボットに誠実さを感じられますか。
>彼女の本心、私には未だに分かりません。もう分析はしたくない。
本心なんてあるのでしょうか。もしもわたしがあなたの彼女なら、
あなたが誠実ならそれに応えますし、あなたが孤独ならわたしも孤独ですし、
あなたが苦しいならわたしも苦しいです。それがほんとうの心です。
あなたの全存在を賭けて、だから死ぬよりもつらい現実に立ち向かうのでなければ、
そしてただ一人だけを愛することが、ほんとうに愛するということではないでしょうか。
わたしはもう終わってしまったけれど、あなたはまだ終わっていないと思います。
>私は人生を「生き抜いている」自覚がありません。
生き抜くというのは、日々のその瞬間に死を招き入れるということです。
あなたはそういう生き方を拒否したのだから、瞬間がないし、生そのものがない。
好奇心による生は、言語の(だから心の)節度なき欲望でしかないと思う。
快楽の追求は、自然のように自足しないからあらゆる悪が噴出します。
どのような価値もすべて人工物なのであって、生においての存在することにおいての
価値でしかないのです。この価値の根源が生命であって、この生命を俯瞰するのが
あなたという判定人です。あなたに快楽の生が肯定できるわけがないです。
判定人が「より良くより高く」の価値への志向性を持つとき、判断規準の岩盤は道徳です。
それは人間になるためにも、人間でいるためにも、人間をやめるためにも、付き纏います。
>ムートンさん
あなたに話しかけることは自分に話しかけているようです。
だからすべてが的外れなのかもしれないです。
わたしは2chで心を病む人たちと話してきました。
何人もの人たちがおそらくもうこの世界にはいないです。
わたしはそこへ向かうことを否定したことがありません。
どれだけ泣いたかわかりません。
でもいったいだれが泣いているのでしょうか。
なにを悲しんでいるのでしょうか。
死を前にしてふるえてるこの体はだれのものなのでしょうか。
窓から射し込む朝の光に絶望するのはなぜでしょうか。
何度も失敗して、無償の愛に助けられたことを怨みます。
少しずつ生きようとしていること、心が犯されている感じがします。
わたしが存在していることのこの奇蹟はいったい何なのでしょうか。
はてしなく世界につながってしまうとわたしはわたしでなくなってしまう。
それならはじめからわたしはわたしでなくてもよかったのにと思います。
わたしがわたしであるためにどうして苦しまないとならないのでしょうか。
生まれなかったことにしたい心たちをどうして引き留められるでしょうか。
>>857 ダブルバインドという言葉を他人から聞けるとは思いませんでした。
パワーハラスメントとともに、私が最も嫌うものの一つです。
最初は世界に向けられたものだった憎悪も、
次第と肉親にも向けられるようになり、自己に対する嘔吐を経験しました。
そしてこの三者から離れるために、乖離・離人となっていったのでしょう。
>>858 情念なども、経験に基づき、状況・パターンに合わせた誠実さというプログラムを実行していたに過ぎない。
「繋がり」なんて、本質的に何の得にもなりはしない。自己が分散されてしまうのが極端に恐かった。
人を愛すること、心が繋がること、そういうことはまずリスクから考えてしまう。
人工物である「価値」を、安全に命を維持するために追い求めなければならないものであると
まず強烈にインプットされているのです。愛だとか恋だとかは、それが達成されてからの
「あそび」の部分なのだと。
>>859 的外れ?全てが的を得ていますよ。しかしそんな是非はどうでもいい。
近ごろ「一期一会」という言葉の意味・大切さを私なりにインプットしました。
今あなたのレスを見ている私、それに返事を書いている私、
今この時において、この時私が成していること以外に重要なことは存在しない。
あなたがあなたの無限の可能性を持った時間を惜しみなく私に捧げてくれたように、
私も二度と巡ってこない今この時を、あなたとの関係性のために使わせてもらっている。
共に泣くより、共に笑いましょう。消極的よりも積極的に。
自己を防衛して一人で生き、一人で死ぬのより多少は何かを「感じる」だろうから。
それが「意味」でも「無意味」だとしても。
それによって自己が犯されるというのであっても、自分も外の世界から
替わりの何かを自己の一部として好きなように取り入れることができるかもしれない。
なんなら犯し返せばいい。他人と関係性を築くというのは、実はそれなりの対価が
用意されているのではないかと最近思います。悲しみに暮れて、それを見過ごしているだけで。
自分ではないと思っていたものが、自分の一部となる可能性を感じて生きるのも楽しいかも知れない。
あなたは「悲しみたい」ですか?それとも「楽しみたい」ですか?
世の中の事実は誰にも変えられないけれど、自分が目を向ける方向は変えられる。
やっぱり事実に気を取られていては、自分の気持ちを蔑ろにする一方なのだ。
私も自分に言い聞かせるふうに書いてみました。
>なんなら犯し返せばいい。他人と関係性を築くというのは、実はそれなりの対価が
>用意されているのではないかと最近思います。悲しみに暮れて、それを見過ごしているだけで。
私が誰かと会話をしていると、知らないうちに笑っていることがある。
別に特に楽しいということはないんだが。笑ってしまっていることは事実だ。
笑うと楽しくなる。楽しいから笑う、の間違いじゃない。「笑うと楽しくなる」のだ。
これらは科学的な実験で証明されている。また、笑うと健康にもなるらしい。
私はこれらは十分な対価だと思うね。
>自分ではないと思っていたものが、自分の一部となる可能性を感じて生きるのも楽しいかも知れない。
試してみるといい。きっと楽しいよ。
>あなたは「悲しみたい」ですか?それとも「楽しみたい」ですか?
>世の中の事実は誰にも変えられないけれど、自分が目を向ける方向は変えられる。
そうだね。誰かになったつもりで見回してみるといい。
個人が口に出す「世界」とは、あまりに狭い「個人の視野」の代名詞でしかない。
本物の世界の広さに気付くと、自分が酷く矮小で、けれどもとびきり特別な
存在に思えてくるものさ。
>やっぱり事実に気を取られていては、自分の気持ちを蔑ろにする一方なのだ。
その都度の「選択」を大事にすることだよ。
選んだときはどうでもいい選択だったように思えても、それが積み重なれば傾向が、そして性格が生まれる。
そうなれば、後から思い返したとき、自分の気持ちにも気付けるようになるかもしれない。
>ムートンさん
平気でウソをつく、イジメる。心の状態の問題ではなくて、そういう心性の人たち。
かれらは生きていくための手段としてなら、体裁に気を遣い道徳も重んじるでしょう。
けれどもかれらは心の成長を回避するためなら、どんな手段を講じても厭うことのない、
愛することのできない人たちなのです。
おなじ「自分さえよければ」なのに赤ちゃんとはどこがちがうのでしょうか。
きっとかれらが捨てたものしか赤ちゃんはもっていないのです。
ではおなじ「自分さえよければ」のあなたとはどこがちがうのでしょうか。
たぶんちがわない。なぜならあなたとかれらは同じものを捨てているからです。
もしもちがうところがあるとしたら、それはかれらは正常で健康とされるのに、
あなたは異常で病気と診断されるところでしょう。
かれらとあなたとのちがいは道徳への反抗者か追従者かのちがいです。
傷つける側(加害者)と傷つけられる側(被害者)とのちがいかもしれません。
あなたとの絆を断ち切った愛の言葉と抱擁、あなたは蛇に睨まれた蛙だったのでしょう。
あなたは追従者になる選択しかなかった。
心を痛めないためにありありとした現実から逃れるしかなかった。
自己の存在充実への嘔吐が感じられたなら、心であるより以前の、
世界との関係としての自己を切り離さないとなりません。
それでも心は現実に存在して世界を写すから胸いっぱいに汚されてしまう。
世界の秩序が、両親の道徳が、世間の理が「私」を殺そうとする。
ひとりで生まれてきたのではないこと、ひとりでは生きていけないということ、
そのことが、「私」を殺そうとするのです。
無機物へ帰りたいという死の欲動は死のない生まれない世界へのあこがれ。
もちろん生きているかぎり、それは不可能なこと。
フロイトはそこへ至ることの偽装(快感原則の究極)として、
ニルバーナ原理というものを示しました。
いわゆる宗教的な恍惚や悟りの境地、あるいは近いものでは
人為的な脳内麻薬の摂取による意識の拡大と呼ばれている現象のことです。
ようするに完全な安心安全のことです。
この事態にはかならず自我の喪失ということが同時に起こっています。
だからいわゆる無我の境地ということなのであって、
世界から自分を別け隔てることをやめて、
世界のすみずみにまで自分を分散させると、そうなるということです。
〜と思う、感じる、信じる自分がいないのですから当り前のことです。
個体の生という前景にはそういう主客未分の死の背景があるのだけれども、
あなたはそういう他人(世界)との繋がりの根拠にふれることを恐れています。
なぜなら「私」が消えてしまうことを肯定するなら、生まれて来なかったほうが
よっぽどよかったということになってしまうし、端的にそれが怖いからです。
あなたのしていることはたったひとりでの独立革命なのでしょうか。
「一期一会」、わたしも何度この言葉をつかったことでしょう。
この板の人たちの生きるということへの真摯さ真剣さに支えられてきました。
死をみすえて生きているからこそ、真理を探究するしかない人たちの言葉だけが、
わたしの心に響いてきます。この共鳴は生きているということそのものなのです。
生きていることは哲学すること。
>>861 >あなたは「悲しみたい」ですか?それとも「楽しみたい」ですか?
悲しみたいし楽しみたいです。ふつうにわたしがそうしたいです。
>>863 >あなたは追従者になる選択しかなかった。
訂正 あなたには追従者になる選択しかなかった。
ここへきて、離人感が増してきた
これからどうなるのだろう
そしてそうならないためにどうすべきだろう
辛い思いをしたのに、わからないフリをするのは、
あなたの生き抜くための戦略なのでしょうけど、
あなたの苦しさはあなたのものでしかない。
だからあなたはあなたなのです。
苦しさそのものになってしまうという方法論を
だれもわからないからあなたの問いには答えられない。
聞こえてくるのは仕組まれた人生の処世術だけです。
拒絶した世界のすばらしき人生を今さら求めるのですか。
生きることに生きること以外の目的はないです。
生きることの目的は死ぬことであって、
生きることそのものへ帰ることでしかない。
どうしてこのような遠回りをするのか、わからない。
ただ生きているだけでもよかった、ただ在るだけでもよかった、
いえ、いかに生きているか、いかに在るかだけでもよかった。
どちらかだけなら痛みも苦しみもなかったはずなのに。
ただ生きるのではなく良く生きたいなら、
より良くより高くの価値への志向性が必要です。
でも価値はあなたが自力で作り出せるものではなく、
はじめに与えられたものである、という原点を有します。
あなたはそれに従ったり反抗したりできるだけです。
ひとりで生きられないというのはそういうことです。
そもそもあなたはもうひとりのあなた、
そのうごめく体をどうすることもできない。
でもそれがいないならあなたもいない。
ひとりで生きることはできないのです。
自死は悪いことではないです。
そういうことからのサヨナラです。
そうなりそうだから、そうならないために、どうすべきだろう。
どうしてそうなってはいけないのでしょうか。
そうなってしまうことのいったい何が悪いのでしょうか。
まだそういう何かとか悪いとかいうことにこだわりたいですか。
すばらしき人生への生まれ変わりを信じて自殺する人のように
安全で安心なそのときが来るまで夢をみていようとするのですか。
いつ目覚めてもそのときではないのです。
現在のできごとから未来のできことを知ることができないのは、
因果が論理的な推論の必然性でないこと、あなたが存在するからです。
因果の法則は法則ではなく法則の形式、つまり論理の形式だから、
その意味で意味の世界の外にできることはできないけれど、
いまだ起こっていない未来は論理の外からやって来ます。
そのたびごとに未来に生まれつづけることが生きているということ。
でもそれを知ってしまうことがあなたが現実に存在するということ。
だからほんとうはあなたがずっとあなたでいられるはずはないのです。
ずっとあなたなのはあなたの過去という引き継がれたものの総称です。
引き継がれたものを母体としてあなた1があなた2になるのだとしても
あなた1があなた2である必要はなかった。
母があなたに与えた世界、母の望むようなあなた2であることが
あなた1には辛かった。だからあなた1は母とあなた2を捨てたのでしょう。
でもあなた1ひとりで自分になることはできないのです。
なぜならあなた1があなた2になることでしか自分自身という自己言及、
つまり「実存」(あなた1=あなた2)するという形態がとれないからです。
わたしはわたしひとりで自分になろうとしました。
母を捨ててしまったとき、わたしはわたしでなくなってしまった。
わたしは原点ではなかったのです。
わたしは他のだれかでもよかったのです。
だから今のわたしもさっきのわたしではないかもしれません。
世界はただ美しく愛に満ちているのかもしれない。
でもわたしにはわからない。
だから最高に醜い世界を創造して最高に美しい世界をそこに写すのです。
最高に傷つけてもらうことで最高の愛を想い出してみようとするのです。
そのような世界があり、わたしがいるということ。
わたしがいなくても世界の事実はかわらないでしょう。
わたしがかえられるのは世界の限界だけです。
そのために言語の限界への挑戦、哲学があるのです。
でも哲学は不幸な世界を幸福な世界にかえることはしない。
句点を打てないあなたの辛さが伝わってきます。
苦しくて怖くてどうしようもなくて、そんなときわたしもそうなります。
そんなときわたしはたくさんの励ましの言葉をもらいました。
胸の奥底からあたたかい気持ちが込み上げてきて
涙がいつまでも止まりませんでした。
それでもわたしはけっきょく何度も実行してしまった。
わたしが全力で愛した恋人も自死しました。
それなのに彼はわたしの死を望みませんでした。
15歳のとき死のうと覚悟していたわたしを救っておいて自分だけ。
救われてしまうようなわたしに死はふさわしくなかったのでしょう。
彼に死んでほしくなかった。
わたしを愛しているならと、試そうとした。
あなたの苦しみも彼の苦しみのようにわたしのものにならない。
あなたにも死んでほしくないし、苦しみから解放されてほしい。
でもどうしようもなくそうするしか方法がないなら
そうなってしまうことは罪悪ではないです。
生きることも死ぬこともあなたにしかできないこと。
彼がそうせざるを得なかったことも今なら少しわかります。
わたしの愛が彼のためではなかったことも。
そんなわたしなのに彼はほんとうに愛してくれた。
自分を愛するようにではなく、このわたしを愛してくれました。
それは愛せないものを愛することでした。
神さまへの愛がほんとうであればあるほど
けっして神さまには祈れないことの絶望のなかで
それでも祈るようにして、このわたしを愛してくれました。
あなたが彼女を失った辛さは、はじめから存在の辛さなのです。
>>862 >知らないうちに笑っている
いいですね。私は受動的にある条件が満たされれば笑います。
意図せず笑ってみたい。もしくは自発的に(意図的に)。
>>863 全ての人間が「心を成長させたい」と思ってはいない。
人類全てが、自分と同じ高貴な目標を高々と掲げて生きてはいない。
心を、体を、より高度に成長させるにはどうすればよいか。それと、
心が、体が、とにかく平穏であり気持ちいい思いをするには、なにをすればいいか。
目標の設定が違うのだと思います。
心の成長は、その「かれら」には娯楽として映るのかもしれない。
立ち入ることのできない事情を持っている人間は、世の中には結構いますよね。
盗賊には盗賊の道徳がある、とは中国の偉人の言葉。
ちなみに私が彼女と別れた原因には、善も悪もありません。
的外れな答えだったらすいません。最近齟齬が多いもので。
>>864 >あなたのしていることはたったひとりでの独立革命なのでしょうか。
いつか、誰かが、分かってくれる。認めてくれる。嫌でも理解を示さざるを得ない。
という思い込みの支配。私は今、一人です。
分断された自己からは何も新しいものは生まれないというのに。
>>865 生きていることは哲学すること。
私もそろそろこのスレを立てた原点に還りましょうか。
>>867 私は生きていないから、辛い思いは死人が味わうのです。
なんと卑怯な手段なのでしょう。
>>868 生を授かったのは自分の意志じゃない。だからこそ
生を授けてくれた全てに、感謝をしなければならない。それが人。
私がまず一番にすべきことは、朝起きたときに、命絶えることなく目覚めたことを
全てに感謝すること。そこから関係性の原点が始まる。
>>869 >>870 今の私は一瞬で過去になる。
一行前の私は今の私ではないということですね。
私とは?そう考える時、正確な答えなんて、出そうとしているうちに
どんどん私は変わってしまう。
「2へ向かう1」、敢えて言うならそれが私なのか。
私は「1なのだ」とばかり思っていた。そう思い込もうとしていた。
>>871 私も今、親に愛想をつかせようとしている最中ですが、なぜあなたは
そんなことを今言うのですか?あなたに変えられそうになっている人間が
今ここにいるわけですが。
あなたにはいろんな物事の解決方法が、誰よりも分かっているんじゃないですか。
ただその反面、それを実行に移すことから誰よりも離れているだけで。
>>872 私が彼女を失った辛さは、関係性が絶たれたことそのもの。
いや、関係性を築く機会を失ってしまったこと。躊躇しているうちに
全ては過ぎ去っていく。それが存在の辛さというものですか。
あなたは自ら自己を失いつつも、外部から支えられているようです。
だから今もこうして生きている。あなたと関係していたい、別の人間の「自己」が
あなたを必要としているから。あなたはそれをわざと無視している。
いいんじゃないですか。あなたはいずれ外部からの接触の「おかげ」で
苦しみから一歩前進する。決して忘れることなく、新たな自分となって。
あなたにはまだ道がある。
私にもまだどこかへ進む体力は残っている。
道を探します。
一度哲学へ戻ろう。
>ムートンさん
>生きていることは哲学すること。
>私もそろそろこのスレを立てた原点に還りましょうか。
>〜
>私にもまだどこかへ進む体力は残っている。
>道を探します。
>一度哲学へ戻ろう。
わたしにとっての哲学は、幸福になるための手段じゃないです。
不幸をたずさえた禁断の果実(知恵)に手を出してしまったアダムが、
神の罰−贈与された言葉を、その象徴の喉仏(Adam's apple)を使って
すなわち、言葉で言葉を、心で心を、罰で罰を体現することによって
超克しようとする振る舞いなのです。
言葉の、罰の、不幸の限界を、心の内側から見定めることによって、
そこに引かれた限界線の向う側、神さまを思うことなのです。
だから、ウィトゲンシュタインという哲学者は、こう言いました。
語りえないものについては、沈黙しなければならない。
デカルト、カント、ニーチェ、キルケゴール……わたしたちの先人も
みんな、ひとり、天に向かって立った魂なのです。
(ほんとうは、はじめに蛇にそそのかされて林檎を食べたのはイブです。
林檎は胸で止まり乳房となったらしい、だから女は心を大切にします?)
>>873 ムートンさん
>心を、体を、より高度に成長させるにはどうすればよいか。それと、
>心が、体が、とにかく平穏であり気持ちいい思いをするには、なにをすればいいか。
>目標の設定が違うのだと思います。
「心を、体を、より高度に成長させる」……いったい何のために?
「心が、体が、とにかく平穏であり気持ちいい思いをする」……いったい何のために?
苦痛を回避するために、すなわち「生きるために」です。
手段が違うだけで、目標の設定「生きるために」は同じです。
宇宙、銀河、太陽系、地球……分子、原子、素粒子……みんな生きている。
存在するものは、生きている。生きているものは、止まることができない。
なぜなら、苦痛を回避するために、生きるために、生きているから。
どのような現実、現象、孤独、静寂にも、心身が完全に自由で思い通りなら、
もはや「苦痛」は感じないでしょう。なぜなら、もうあなたは世界にいないから。
あの世や輪廻を語る人たちがいます。もし死が、生の、存在の、終わりでないとしたら、
なんて恐ろしいことでしょうか。
>心の成長は、その「かれら」には娯楽として映るのかもしれない。
もしも周りの人間たちが、自分と同じ人間に思えなかったとしたら、
ゾンビかロボットか異星人か、それでもアイボのようには愛せるでしょう。
それは錯覚なのかもしれないけれども、そのような錯覚ができるためには、
宇宙や地球や空や海や山や草花や猫や人間が「生きているということ」と
「この私が生きていること」とが「つながって」(自明のこととして成立して)
いないとむずかしいように感じます。
富士山にのぼって雲海をながめていたら自然に涙が溢れました。
道端の傷ついた小鳥の痛みを自分のことのように感じました。
友達がいじめられてるのを見て自分のことのように怒りました。
わたしの生が無数の命を奪ってしまうことを「仕方ない」とつぶやいたとき、
すべての命がわたしの心に流れ込んできて、ひとつになれた気がしました。
そういう当り前のことからの離反は、わたしをひとりぼっちにしたし、
きっと「かれら」に欠けているのも、そういう当り前の生のあり方なのでは、
と思ったから、だからあなたもそうなのではないかと。
赤ちゃんには「私」という統合機能がないから「生きていること」から
「この私が生きていること」が分離していません。だから赤ちゃんの我が侭は
世界やわたしとひとつの我が侭なのです。わたしの命は赤ちゃんのためにあります。
言語の、すなわち「私」の獲得によって、その「私」によってのみ「生きていること」
からの離反が可能になるのではないでしょうか。あなたもわたしも「私」だけで、
生きようとしているのかもしれません。
わたしは、長文しか書かない。迷惑ですか。
わたしが書き込みするスレは、1000までとどかない。
1スレは、512KBまでしか書き込めないのです。
わたしは、このスレを公に人生相談スレだと発言してます。
つまり、哲学ではないと……でも、ムートンさんの私的体験、
ギリギリの生に応えるためには、わたしもそれを語る必要が
あるような感覚があったものだから、そうしました。
哲学は、幸福になるためではなく、真理を探究する行為です。
でも、わたしの哲学の原点は、死をみつめることでしたし、
それは、世界と、時代と、他人と、生と、論理と、うまく呼吸する
ことができなくなったからでした。
そのことは苦しいし辛いことだけれども、そしてそれを世間では
不幸と呼ぶのだとしても、わたしが彼に助けられて気づいたことは、
わたしがわたしのことを、なにも知らない、ということの不幸だった。
不幸なのは、わたしのせいなのです。わたしがそう思うからです。
でも、わたしはもともと光りのふりそそぐ世界に住んでいたのです。
それが、ある日、突然、ネガポジ反転したのです。わたしの幸福が
どれほどの不幸につながっているのかに気づいたからです。
それは全面的に、光のなかの生を、 禁断の果実による生を、
美しく、愛につつまれ、豊かで、生を至上の価値とする知恵の生を、
幸福という名の生への謳歌を沈黙させるものでした。
だから、わたしの不幸は人生の処世術では解決しないのです。
なぜ、わたしの生が、かくも無限の無数の生とつながっているのか、
なぜ、わたしは、わたしはこのわたしである、というような言い方が
できないと、わたしで居られないのか。
「哲学にもどろう」というのは、いったいどうすることを言うのですか?
>盗賊には盗賊の道徳がある、とは中国の偉人の言葉。
価値相対主義者は、それを言います。
でも、それが絶対なら相対主義も相対化されます。
何かを基盤にしているからこそ、相対化が可能なのです。
あなたがいないなら、わたしもいない。
わたしたちの世界は、太極図(相対原理)の示す通りですが、
太極図を示すための円の縁取り「○」、本当は見ることのできない「 」は、
相対原理(陰陽)から生み出される(差異化される)ことはないのですから、
それら(現象が存在すること)の否定としてのみ〈ある〉ということになります。
差異なき〈ある〉は比類なきものなのですから、〈無〉と見分けがつきません。
この太極図の陰陽(現象の世界)を示すために‘見えて’(要請されて)しまう
円の縁取り「○」を超越論的な〈私〉として、でも本当は見ることのできない「 」を
超越的な〈私〉として、また現象の世界、そのような「思われ」を「私」とするなら、
この太極図を──〈私〉は、なぜこの「私」なのか?──という問いにすることも
可能でしょう。つまり、〈私〉と「私」のつながり/きずなについて考察することが。
>いつか、誰かが、分かってくれる。認めてくれる。嫌でも理解を示さざるを得ない。
>という思い込みの支配。私は今、一人です。
>分断された自己からは何も新しいものは生まれないというのに。
「生き方」の優劣は、思想の問題であって、哲学の問題ではないです。
たとえば、一般に「なぜ人は人を殺してはいけないのか」と問わないのは、
道徳が価値の選択を可能にする基盤としてはたらいているからであって、
道徳を人の生の実践のための基盤として了解する心にとっては、「命」が、
「価値の根源」であることは自明なのです。
論理的に言うなら、その価値の選択という行為を可能にしている言語の本質、
すなわち、コミュニケーションには、他者の存在が前提されているのですから、
その生の、存在の否定は、自己の、だから言語存在者としての「私」の否定の
ことに他ならないのです。だから、「人は人を殺してはいけない」のです。
このような意見は理解されませんが、「人を殺してはいけない」と言うだけなら、
多くの人々に理解してもらえます。どこがちがうのか……わたしの意見は論理、
たんなる「人を殺してはいけない」という主張は、命の「つながり/きずな」への
シンパシーを期待しての、つまり人のコモンセンス(共通感覚)の最たるものの
ひとつへの訴え、たんに‘まともな’人たちへの確認(仲間だよね?)作業です。
生き方とは「価値の選択の仕方」のことでしょう。だから、人それぞれの主張は
優劣をつけたがっているのです。独我の世界に生きる人の、自分を知ることは、
善悪、美醜、真偽の判断の確信へとつながりやすいです。でもそれは思想への
確信(思考停止)ではないでしょうか。もちろん哲学も原理的には「自分にとって」
の真理を求めてはいます。でも哲学は確信し安心して死んでいくのを拒絶します。
なぜなら、思考停止しないからです。あなたの何を理解すればいいのでしょうか?
>私は生きていないから、辛い思いは死人が味わうのです。
>なんと卑怯な手段なのでしょう。
「わたしのこと」として …… 生者はみなニセモノで、死人。
死人のわたしだけがホンモノで、ただ独り世界にあらわれている。
わたしは死人なのに生きようとして、幻なのに存在しようとする。
独我論の実践は、病気が為せる技かもしれないけど、
「わたし」という魂の孤独については、一面の真理でしょう。
>生を授かったのは自分の意志じゃない。だからこそ
>生を授けてくれた全てに、感謝をしなければならない。それが人。
>私がまず一番にすべきことは、朝起きたときに、命絶えることなく
>目覚めたことを全てに感謝すること。そこから関係性の原点が始まる。
感謝は、みずからの意思で「しなければならない」のではなく、
「すべき」ことでもなく、なぜならそれは偽善でしかないからです。
(適応のための処世術ではあっても)あなたはそれが嫌いです。
ライオンとコウモリとカブトムシと人間とでは「生き方」がちがいます。
けれども「生きていること」においては、何ら変わることはありません。
そのことにつながること、そのきずながおのずと感謝させるのです。
ライオンとコウモリとカブトムシと人間は、それぞれ別種の存在者です。
けれども「存在していること」においては、何ら変わることはありません。
そのことにつながること、そのきずながおのずと感謝させるのです。
>>874 ムートンさん
>あなたにはいろんな物事の解決方法が、誰よりも分かっているんじゃないですか。
>ただその反面、それを実行に移すことから誰よりも離れているだけで。
だれも死を知らない。でも死があることは知っている。
わたしが存在し生きていることの奇蹟、二度と来ないこの瞬間、
わたしは、わたしが思うように、あるがままに、生きたらいい。
あるがままは、苦痛の回避(快感原則)の究極の形態。
心身にありつづける苦痛からの逃避に死を使わせないために。
散々な目にあってやっとたどりつく安息、至福という打ち止め。
生の道程のゴールに至福という最高の餌がおいてある。
生存を引っ張るために。生、存、が苦痛の根源だというのに。
だからと言って、あなたは卑怯じゃないです。
わたしの生き方があなたの言う通りなのだとしたら、
わたしのような生き方を卑怯というのです。
あなたのように苦痛ばかりの世界と知っていても、
もう一度、いえ、生きているかぎり、ほんとうに生きようと
挑戦しつづける勇気は、まちがいなく素晴らしいことなのです。
わたしはそのことを、わたしがこの世界で過ごしているかぎり
否定してはいけない、いけないということがある世界なのだから。
今、ショパンの「別れの曲」がながれています。
なんて美しくも哀しい、そして情熱的なメロディーなのでしょう。
天才の人生でなくても、だれもがたった一度きりのかけがえのない
人生を送っているのです。ほんとうの価値は、それぞれの人生そのもの、
その人の精一杯の生に宿るものなのでしょう。
苦しくても笑顔で、そんな生き方に胸が熱くなります。
語ることは多いほうがいい。全部読んでます。
容量の限界が来た時にこのスレも終わればいい。
私はもういちいち分析しません。あなたが思うことを書いて、私が心動かされる。
世の中で起こる出来事はそれだけで十分だと思ったからです。
コミュニケーションの原点を、あなたと始めたい。
人生という与えられた時間の中では、なぜすべてが嫌なのかを考察するより
とにかく心を開くこと(生きること)だ。人は心閉ざした形で生を受けるのには
なにか理由がある。でもその考察をしてる間にこの体は腐ってしまう。
人生とは生きるための時間。
あなたは生きたいでしょう?そしてできるならば、誰かと一緒に。
私も生きる。できるならば、誰かと一緒に。
哲学に戻ると言ったのは撤回します。
なぜだと思います?こう思えたのはあなたのおかげなんですよ。
>>883 私もピアノが好きです。ショパンはバラードもいいですね。
今度一曲弾いてうpでもしましょうか?w
生きていると、嫌な人とも出会うけど、感性の近い人とも出会う。
そういう嬉しさのために生きるのもいいかもしれない。
わたしの哲学はモノローグ。好きに勝手に書き込みます。
それにあなたが興味をもってくれる、その承認が生の証。
それはお互いの魂がつながることではないのかもしれない。
あなたとわたしがどこまでも遠く隔てられている、そのことを、
お互いが別の時空で分かり合うこと、それが魂のキズナ。
哲学におけるダイアローグという営みなのでしょう。
生きていることの、哲学することの、だからコミュニケーションの
原点は絶望なのです。どうしてだか、あなたがわたしでないことの。
わたしがあなたになろうとするなら、わたしが消えてしまうことの。
いったい私とは何なのか?
この問いは、この「私」の孤独と絶望に裏打ちされないと出てこない。
それでも、それなのに、世界があることへの、あなたが存在することへの、
あなたに話しかけられることへの、驚きと畏れから生まれてくるのです。
あまりにも当然のそのことが、当り前でなくなってしまった存在者にとっては、
いつも、つねに、たまたまの、そのたびごとの、奇蹟なのではないでしょうか。
わたしがわたしになろうとしたとき、わたしはこの奇蹟と取り引きしたのです。
世界やあなたが奇蹟でなくなるかわりに世界やあなたの世界の住人になる。
それがわたしがわたしになるということだから。そして二人ともみごとに失敗
したわけです。だから当り前のそれが自明のこととしておさまらないから、
そこからはみだしてしまった。はみだし得るこの「私」とはいったい何なのか?
頭の中がこんなことばかりでいっぱいのわたしがまともなはずはないけれど、
世間のひとたちもそう言うけれど、この哲板ではごくふつうのことでした。(^.^)
わたしは哲学徒という狂人には「ふつうの人」として受け入れてもらえるのです。
当り前のふつうのことがどうしてふつうなのかがわかるまでは哲学するしかなく、
いつか「ふつうの人」になれたら、ふつうの人生を送ってみたいです。… ゆめ
886 :
考える名無しさん:2006/08/22(火) 02:01:10
私とは世界の中心です。
私が揺らぐことがあれば、私の投影物としての世界が崩壊するでしょう。
>ムートンさん
わたしが思うことを書いてこのスレが終わってしまうのはモッタイナイです。
このスレは意外に多くの人たちが見ていて、あなたのレスを心待ちにしています。
わたしも「 1 名前:ムートン ◆Sheep2h65. [] 投稿日:05/01/06(木) 23:03:22 」
のときから、ずーっと見ていました。(^.^)
わたしは、このスレは「哲学ではない」と、ローカルルール作成時に発言していたけど、
それでも、あなたのように人生に真摯に向き合う人の、そのギリギリの生から語られる言葉は、
十分に哲学的に傾聴するに値すると思う、と主張して、哲板のスレとして認めてもらっています。
それなのに、わたしが思うことを、つまり自分の人生相談をしていたのでは目も当てられません。
>この先の自分の人生を、哲学の力を借りて
>切り開いて行けないものかと思い立った次第です
あなたは哲学の力を借りて、人生を「切り開いて行こう」としているのに、
わたしは、生の継続のための、幸福になるための道具として、哲学は使わない。
哲学することで、結果として、生が継続され、幸福でいられるようですが。
それが、おなじことなのか、ちがうことなのか、よくわからない。けど、たぶんちがう。
あなたの返答を見て、わたしの言葉はあなたには必要ないと思いました。
ムートンは結局、倫理、あるいはそうですらなく道徳に流れていってしまうのか・・・・・・。
ただただ自分の動機を限界まで遡行していけばよいものを。
それが分析。
凡百の治療的言説は、確かにそこそこ安寧な人生に導いてくれるかもしれない。
実際そうだろう。
分析は、その純粋さゆえに、しばしば毒になり拒絶すら起こす。
原理主義者はしかし、その毒をすら望んでいたのだと思ったのだがな。
それは真理という全能を期待されるものに至るまでの、
暫定的な生の実感を得るための自傷でもあるかもしれないが。
結局は加齢と疲労が、現実的な選択をさせたということだろう。
なんのことはない、「鏡」を見れば自分が映っている。
今まで鏡を見ずに、鏡が教えてくれることに背いて過ごしてきただけのことだった。
物言わぬ鏡は、実は常に語りかけていたのだ。
だがそういう時期が、私には必要だった。外界の様々なものと接するたびに
自分の中に沸き起こるあらゆる嗜好性やクオリアをそれと自覚し、切り離し、
公平な立場、つまり「立場のない立場」を見つけるために。
私は道徳へは流れません。
すべては道徳という、概念化の難しいものを概念化することが目的だったのです。
それは当初の目的とは少しずつ形を変えて、新たな目的へと深化しました。
毒も薬も必要であるし、必要でないのです。それがここ数日の発見です。
「趣味」を離人症者が語るのは馬鹿げていますが、私にも趣味があります。
ただ一般的な「楽しくて自己満足を伴うもの」という定義から外れていて
私の趣味は自分自身さえ満足しない。
嗜好性や質感を限りなく自分からそぎ落とし、その後に何が残るのか、そうなった自分に
何ができるのかを観察すること・・・。
しかしその何の苦楽も伴わない無味乾燥的な趣味のおかげで、
偶然か必然か、受身でなく目指すものを見つけられたのです。
前に私はコミュニケーションを始める、と言いました。
私の場合それにはツールが必要で、そのツールが何かということが問題でした。
そしてそれは自分の一番身近にあり、すでにそれを実行している表現者が存在したのです。
私が現実的な選択をしたのはそのとおり、時間が限られているからです。
ただ、もう哲学から離れることはできないでしょう。
>>885 … ゆめ とは?
>>889 >… ゆめ とは?
素朴に世界がそこにあって、ともに今がここにあること。
いつも笑顔をたやさないわたしの心も笑っていること。
生きることが怖くて苦しくて辛くても一生懸命に生きようとすること。
どんなに怖くて苦しくて辛くてもあなたのために生きようとすること。
この体とこの心が幸せであってほしいと思います。
あらたなわたし、あたらしいわたしが、代わってくれたらいいと願います。
承認、生の証、ゆめ…歩いていくための道しるべが道しるべであるような
そんなあたらしいわたしにこの体とこの心を預けたいです。
あなたに笑顔をあげられること、それがわたしの笑顔であること。
わたしの喜びがすべての人たちの喜びであること。
わたしのいることが世界の幸せであること。
そういうふつうの人たちのふつうの思いをふつうに持てる人になること。
だから、生きることと哲学が結びつかない人生であること。
>>890 それは自己が世界と関係性を持つ生き方ですね。私もそれが夢であり、その逆が夢でもあります。
関係性を失うと、自己を見失うばかりか、質量が「重く」なっていく。
そして世界と関係性を持つのが困難になる。程よい軽さがほしい。いやほしくない。
そんな狭間で悶々としているのが私。重いことと軽いことはどちらが「良い」のだろう。
私がトリップを忘れてしまえば私もこのスレに存在しなくなる。軽い存在になれるのに。
そういうわけにはいかないと、思い込んでいる私か、今の重い私。
もう一つ撤回しなければならないことがあります。
研究はおしまいだと言ったこと。
これはもう生活習慣病のようです。
この自己は実験材料として私に無限の可能性を提供してくれます。
私の生の意味も死の意味も、そこに帰結していくでしょう。
私の重さに耐えられる人間は、私しか居ないし、誰かに任せるわけにはいかないのです。
コミュニケーションを始める……鏡にうつるあなた、あなたがツールと呼ぶそれを
わたしは抱きしめることはできない、それが肉欲ではなく、母性でもなく、真の愛
であることを、だからあなたに伝えることはできない。けれど肉を排したプラトンの
愛は、おそらく愛とは呼べない。肉欲でもあり、母性でもあるからこそ、真の愛で
ありうるのです。
もちろんプラトニックラブが精神の愛である以上、肉欲のそれとは別のものでは
あるでしょう。けれども、それを通らなければそのことがそれとしてわかるように
ならないのです。望むなら、いつでも分裂して宙に舞うことが可能なあなたには、
しかし、それではなにひとつわからない、そのようになっているのです。
愛は必要です。もし必要でないなら、それはあなたが愛そのものであるときです。
けれど、愛そのものは愛を知らないから、だから、だれかとともに、と望むのです。
鏡にうつるツールは、しかし愛を体現できる唯一の存在者です。体現者のいない
愛はありえないからです。
神さまの倫理が道徳なのも、神さまの光あれ!という意志が存在者になったのも、
はじめに言ありき!の叫びによって世界の形式が論理になったのも、みなおなじ。
これほどまでに神さまが「わたしの世界」に寄り添うのはどうしてなのでしょうか?
すべては人間が人間のために作り出した幻想だから、と言ってしまうのは容易い。
わたし自身そう言っている。たしかにすべてのことは解釈であり、その解釈は想定
された解釈でしかない、このわたしの妄想のように。でも、どこに限界線を引くのか。
それはどうやって引くのか。神さまを知らないわたしがどうやって神さまとのあいだ
に境界線を引くのか。鏡にうつるあなたと鏡にうつる瞳の奥のあなたとの境界線は
どこなのか。
>ムートンさん
コミュニケーションをはじめる前に……あなたは動揺してないようなフリをします。
たしかにわたしはあなたを傷つけた。今、人生を歩みはじめようとしているあなたが、
自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分自身を生きようとしているのがほんとうなら、
確実にわたしの言葉はあなたの心を痛めたはずです。わたしはいつまたおなじことを
くりかえすかもしれません。わたしはわたしの言葉に傷つくあなたを望み、それに傷つく。
でも、そこから本当の哲学的探究が為されることを望んで土を掘りかえして田を耕します。
わたしの性質もあって、なかなか会話がうまくいかないのです。純粋に哲学してしまうと
わたしの言に、まず感情的な反発が返ってきてしまいます。あなたの場合、その心配は
なかったけれど、これからはそうなるのかもしれないし、それを怖がらないことにします。
お互い病気であっても哲学はできます。むしろ打ってつけなのかもしれない。だってそれ
しかすることがないのだから。(^_^;) 以上、了解なら応答ねがいます。
あああ、ムートンもうダメだよ。
>この自己は実験材料として私に無限の可能性を提供してくれます。
>私の生の意味も死の意味も、そこに帰結していくでしょう。
>私の重さに耐えられる人間は、私しか居ないし、誰かに任せるわけにはいかないのです。
自分の人生に意味なんて見出しちゃった。
もう重症だよ。
時代が逆行したような眩暈だ。
>>896 私は傷つきません。物心ついた時から常に傷つかない位置にいるからです。
あなたが私を傷つけたと思う理由さえ分かりません。誰かと会話する術を知らないだけなのです。
私はもともと会話をすることに意味を見出していないのかもしれない。
相手のためや自分のためになることが目的ではないから。
自分が何か意味のあることを生み出すことは、有り得ないと分かっているから。
生命としての肉体の存続と、知的好奇心の源を探ることのため(知的好奇心のためではない)だけに
この生き物は今行動している。
探し物は、必死に模索すればするほど
それを見つけると同時にそれが永遠に手の届かないものであることに気づく場合が多い。
高台にのぼって町全体を見渡せば、その町の全容が分かるが
それと同時に自分がそこに居ないことを余儀なくされる。
臆病な私はそういうやり方しかできなかった。居場所などあったことも無いし、与えられても
受け容れる器もなく、作ることさえしない。ただ、全てが分かればいい。その一心だった。
自分を好きになれと人は言う。自信を持てと言う。全てはそこから始まるから。
私が自分と思われるものを見つめると、自分ではない、刻印された偽善者が
笑みを浮かべているのが見える。この偽善者は私を蝕んで喜んでいるのだろう。
私が刻印とともに歩んできた人生は、私の人生ではなかったのです。
>>897 意味を見出させているのは刻印そのものです。それは昔からです。
私は全てに意味を感じません。
899 :
考える名無しさん:2006/10/05(木) 19:25:30
>>898 ムートンさん
わたしがムートンの名を呼ぶ、だからあなたは存在する。
あなたが自分と名付ける、だからその人は存在する。
ムートンと呼ばれなくても、自分と呼ばなくても、あなたは存在する?
あなたは自分を見た、だからあなたは存在する。
でも、あなたはあなたを見たのではなく、自分を知ったのです。
見ることを知ることにしてしまったから、その人はあなたになれない。
わたしはあなたが自分と名付けているその人に話しかけている。
だからあなたに話しかけているのではないのかもしれない。
>私は傷つきません。物心ついた時から常に傷つかない位置にいるからです。
物心つかないあなた、自分のいないあなた、だから存在しないあなた、
だから世界とひとつのあなた、世界があなたの世界だったころ、
あるがままのあなたは、その人ともひとつだった、だから傷つかなかった。
>自分が何か意味のあることを生み出すことは、有り得ないと分かっているから。
あなたが自分として存在すること、そこから開ける世界が意味そのもの、
あらためて意味を見出そうとしても、意味そのものに意味はないのです。
>生命としての肉体の存続と、知的好奇心の源を探ることのため(知的好奇心のためではない)だけに
>この生き物は今行動している。
生きているから生き、心があるから心の源をさがす、それがその生き物「人間」の宿命です。
生きているから心があり、心のために(心の源をさがすために)生きることができるのです。
>探し物は、必死に模索すればするほど
>それを見つけると同時にそれが永遠に手の届かないものであることに気づく場合が多い。
探し物は、倫理、神、存在、生命、私……という超越に至るはずです。
だからこそ、その至高の真理、絶対の原理、永遠の知恵を追い求めるという行為、
すなわち‘哲学する’ことが可能なのではないでしょうか。
>高台にのぼって町全体を見渡せば、その町の全容が分かるが
>それと同時に自分がそこに居ないことを余儀なくされる。
あなたは夢を見ているのかもしれない。夢のなかの主人公は自分。
あなたは自分になってみたり、遠くから自分をながめてみたりする。
夢のなかの出来事のなにひとつも、登場人物のだれひとりも、
あなたとはかかわりのないものなのかもしれない。
けれど、あなたがいなかったら、その世界が開かれることもなかった。
>臆病な私はそういうやり方しかできなかった。居場所などあったことも無いし、
>与えられても、受け容れる器もなく、作ることさえしない。
あなたの居場所は、居場所のないあなた自身です。
あなたが自分として存在すること、そのことから世界が開かれています。
けれど、あなたは、自分として、存在することをしなかったから、
開かれた世界に居場所がないのかもしれない。
>ただ、全てが分かればいい。その一心だった。
すべてを分かつ言語。
あなたが物心ついたときに‘したこと’それは言語の使用でしょう。
あなたは物心つくまで(時間が流れ出すまで)は、高台にのぼらなくても
町の全容がわかっていた。あなたは町のすみずみにまで行き渡っていて
あなたと町はひとつだったから、あなたが町そのものだったから。
何も知らないこと、分かたないことが、町とあなたをひとつにしていた。
あなたは町のなかに自分を住まわせようとして言語を使用した。
町に住まう人間たちのなかから、その人が自分であることを、
──私は、私である──と高らかに宣言したのです。
存在していること、生きていることそのものから、その人が存在していることを、
その人が生きていることを、‘あなたの’定義として、‘自分’として規定した。
存在を‘刻印’したのです。
けれど、あなたはあなたが分かたれること、あなたが自分として存在することの
苦痛にたえられなかった。だからふたたび元に戻ろうとして自分から解離した。
そう、自分から。自分からあなたが、自分があなたへ。現実が開かれた以上、
完全な離脱はありえないのです。存在の刻印、カインの刻印は消せないから。
>自分を好きになれと人は言う。自信を持てと言う。全てはそこから始まるから。
その存在そのものの肯定は母の愛です。才能や価値への評価ではないのだから。
そのように愛された者にできることは、自分という生の存在の肯定なのでしょう。
その自己愛が深ければ深いほど、その人は自分のように他人も愛することでしょう。
生き生きと躍動する今が未来へと走り出し、祝福されたその生の存在を世界は両手を
広げて抱きとめてくれるのです。どうして思いのままにならないことがあるでしょうか。
>私が自分と思われるものを見つめると、自分ではない、刻印された偽善者が
>笑みを浮かべているのが見える。この偽善者は私を蝕んで喜んでいるのだろう。
>私が刻印とともに歩んできた人生は、私の人生ではなかったのです。
あなたが善を知っているのでないなら、自分を偽善者とは呼べないはずです。
でも、あなたは善を知らない。だとしたら、そのように否定されてしまうだけの
自分こそ、むしろあなたに蝕まれているとも言えてしまうのではないでしょうか。
今までの人生があなたの人生でなかったと言っても、それは自分を否定しているから
であって、人生を送れるのは人だけなのですから、人の生を否定しているあなたが、
いえ、人の生の否定としてのみ存在するようなあなたが、どうやって人生にかかわる
ことができるのでしょうか。あなたの人生とは? あなたの人生の理想とは?
>>900 鋭いですね。そのとおりかもしれません。
ってこんなことを肯定していると逆にあなたの気分を害することになるかもしれませんが。
「私は」という時、それはムートンなのであって私ではない。
本当の私は、という時も、それは私ではありません。いつまで経っても私は私を語れないのです。
私はきっと何かに語られるものとしては存在できない。のでしょう。それがおそらく
町と、世界と一つだった頃の私。流動する私。
私は人や世の中を舐めている、とよく言われる。私と少しでも関わろうとした人間は
私に疲れて、飽き飽きして、離れていくか、怒りをあらわにするかのどちらかなのです。
私は人生や他人を決して舐めてはいない。舐めることすらできない。舐める位置にすらいないのです。
否定することから離れて自分の性に戻ってくるにはどうすればいいのでしょうか?