>>1 世界内存在とは、すでにある世界の中に人間が住んでいる、という意味ではない。
世界は、私の構成分の一つであるということだ。
私の身体も、周りの景色も、全てひっくるめたものが私だということである。
なぜなら、目の前の机は、子供時代からの思い出を全て含めて慣れ親しんだもの、
として私には見えている。そういう見え方をしている机というのは、私の世界だけにあるものだ。
その意味で、そういう机は私の世界の一部であり、私という人間の一部と言っていいのである。
ここで、机という客観的実体がまずあって、それに私が色々な思い出や意味を付与している、
ということではないことに注意する必要がある。
まず「在る」のはそういう見え方をしている机であり、客観的実体として考えられた机は、
そういう見え方をしている机の上に、我々が作り出した幻影である。
心が世界を生み出す、ということは、私達の心が実体としての机や、実体としての地球を生み出す、
ということではない。心が今までの心の歴史からそういう見え方の世界を生み出す、ということである。
同じものを見ても全く同じ見え方をするということはあり得ない。それはその人それぞれの過去の行いが違うからだ。
立場が違うと言ってもいいが、立場というのもその人の過去の行いが生み出したものである。
そういう意味でそれぞれの生きている世界は、その人が生み出したものと見ることができる。ハイデガーはそういう世界のあり方を”世界内存在”と言った。
未来の世界(内存在)はその人が生み出すのだ。それを素晴らしいものにするのも、真っ暗なものにするのも、その人の心がけ次第ということになる。