直感的に
哲学する。
おもしろければ
哲学する。
2 :
考える名無しさん:04/12/29 19:58:17
普通、哲学的に「ちょっかん」について論ずる場合は
直感じゃなくて直観とする。
そのくらい気づけよ
>>1 バカw
直感と直観の違いを哲学する。
私は区別できなかった。
以上。
早く気付けよw
私らのスピード。
歩いてるなら
歩速たす
自転たす
公転たす
太陽系の速度たす
銀河系の速度たす
とかって足してけば
わわわ、
もしかして
ものすごい速ーく動いているのかもしれないんだな。
いや、既に動いてるな。
時間は系によって違うと思われるんだな。
系とはグループって言っていいのかな。
電子のレベルじゃものすごい速さの時間。(に見える)
宇宙のレベルじゃものすごい遅い時間。(に見える)
電子の振動と宇宙の天文学的数字(時間?)を一緒に考えるのって
おかしいんだね。
記憶って連想だと直観。直感。
記憶は何かきっかけさえあればいい。
というか、きっかけがなければ思い出せない。
わずかなきっかけが連想を呼び連想が連想を呼び
絶え間なく続く。
曲の一部分を聞けば全体が分かる。
記憶にあればだが。
イントロね。
記憶は呼び起こされるのを待っている。
待機している。
地球は青かった。
地球の大気圏から脱して地球を見る。
そして、さらに離れて、太陽系の外から地球を見る。
そして、さらに。。。
こうして離れてみると大きかったのが小さく見える。
遠くを望遠鏡で見るのも
近くを顕微鏡で見るのも
大して変わらないのではないのか。
何で音楽があるのかねえ。
何で音楽を作るのか。
あらゆるものは揺らいでいるからだろうな。
リズムあるものだらけ。
鼓動も。
テンポによって感じ方が変わるし。
都会に住んでる人は騒音で心荒んでこないかな。
ちんちん
哲学やってると狂ってこないか?
答えが出ない。イライラしないか?
自分すら知らない。やるせなくならないか?
バクテリア1つさえ理解できない。情けなくならないか?
結局何が知りたいのか分からなくなる。思考停止しないか?
なぜ、哲学したくなるんだろう?
これも答えが出ないのか?
もうこうなりゃ、そうなるように出来てる。と
考えるしかないな。
狂いたいから哲学しているのかも。
イライラしたいから。。
それが、楽しいから、か。
難しいから、おもしろい。
分からないから、求める。
山があるから、登る。
登山家は山があればそれだけで登っちゃうんだ。
人間は考えることがあれば考えちゃうんだ。
今気づいた。
このスレッドタイトル目を引かないか?
文字が多い中、空白が逆に目立つんだ。
黒地に白。
白地に黒。
有の中の無。
無の中の有。
盲点。
人間にゃ必ず見えてない部分があるというじゃないか。
たった一点だけなんだろうが、
その重みが分からない。
多分、
その一点が気付き。
私があげてしまったのは間違い。
それが盲点。
気付かなかった。それが間違いの元。
ほんとうは何(または、なぜ)なのだろう、という問いは答えらない。
「ほんとうは〜」と云いだせば、追求は限りなく続く
(なぜなら、原因にはそれの原因があるから。)。答はない。
つまり、哲学は実用には役立たない。役立つべきでもない、
究極の真理を誰かがつかんだら、むしろ恐ろしいだろうから。
上記の
恐ろしくなる理由が分からない。
人は誰でも幸福を求める。
幸福になるための手段の一つが
学び、のようだ。
頭だけで考えることは人間の真実から程遠い。
何故?
体でも考えろ、ということか。
自分の利益のために生きていても
何故かしらんが、他人のためになっている。
不思議だ。
仕事?なのか?
金を得るために仕事をしていれば、知らぬ間に
社会に役立っている。
心の迷いには救いが必要。
救いが幸福へといざなう。
何が救いとなるかな?
こころで見なければ、ものごとはよく見えない。かんじんなことは目に見えない
目には見えないが存在する。
かんじんなことってなんだろう。
かんじんなこと。
それは、幸福。
人生どうあるべきか、
幸福であるべき。
それが肝心。
つられる心理。
流行。
何故だろう。
マツケンサンバなぞ
口ずさみたくないのに。
そういうのが、歴史を脈々と刻むのだろう。
魂が自分自身に集中し、沈潜して、自分自身以外の何ものをも信頼せず、
純粋に自分自身で純粋な『ものそのもの』を直感したときにだけこれを信じろ。
ものそのものとは?
魂が自分だけで見るものは叡智的な不可視的なものなのだ
分かるか?
直感を信じろということか。
人間って最初にどんな音を発したんだろうね。
あ、とか
う、とか、かな。
誰かがその、あ、とか言ってると何を言ってるんだろう?と思ったんだろう。昔。
その音に意味を求めてしまったんだろう。
そして、音に意味を付けたんだろう。
最初に
何?
という思いから始まった。
全体を知るにはどうすればいいのか。
部分を一つ一つ知っていくのは永遠のような時がかかってしまう。
だから、部分を積み重ねていっても全体は見えない。
全体を見るんだ。
ただ、細部が分からないから、朧気だろう。
それでいいのかもしれない。
だって、部分一つでさえ完全に分かるとは思えないから。
何?
という問いから対話が始まって
混沌とし、
いずれその答えは出ないまま、
破局する。
カタルシスを迎える。
答えは出ないが、答えは何かを最終には決めましょう。
決めることに問いの、対話の意義がある。
大切なものって突き詰めれば何なんだろう。
愛?
自分と息子、娘のどちらかしか助からないとしたら
どっちを取る?
息子、娘が仮に障害者で、しかも、天涯孤独になってしまうと
したら?死んだ方がマシじゃないかと思えたら?
決めれない。
こんな心理が無理心中なのかな。
とにかく最後は愛なんじゃないかな。
でも、そんなことは考えなくていい、選ばなくていい。
その時になった時、選ばざるを得ない。
なんというか、運命に任せるのも善し、かなと。
疑問文の最後に付けるはてなマークこと?(クエスチョンマーク)。
このマークは猫のとるポーズが元となっている。ではどんなポーズか?
それは猫が尻尾を上げながら好奇心旺盛に動く物などに近づいていく時のポーズ。
後ろから見ると、尻尾の形がはてなマークの曲線、丸出しにしている肛門が点になっているのだ。
重要なことってなんなのか。
過ぎ去ってしまったことは全てたいしたことないように思えてしまう。
その時は重要だったのに。
育てる。
これが
延々と受け継がれていく。
これが
原理。
どうやって生きていくのがいいか。
それは自分の肉体に聞くのがいいのかもしれない。
自分の体の中の生命たちは何が望みなのか。
過ぎ去ってしまったことはやり直しがきかない。
当たり前すぎる。
過去には戻れない。
失敗を怖れては何も出来ない。
しかし、失敗を怖れずにいられるだろうか?
過去に戻れないのだから。
一度きりなのだから。
考えてみればものすごいスリルなんだ。
一時一時はものすごいスリルがあるんだ。
確実な未来なぞ誰も分からない。
シミュレーションするだけ。
予測か。
それが実際はどういう結果になるかは実際に行ってみないと
分からない。
これが1回きりであるから、怖じ気づく。
例えば殺人をしてみたい、と好奇心で思ってみたとしても
その先を予測すれば出来ない。
一回きりの人生だと分かっているから。
後悔したくはないから。
地下奥深くにも微生物はいるという。
すごいなあ。生命力というものは。
なぜ、そんなにも生きようとするのだろうか。
細菌にとって「生きていく」とは
「増殖する」ことと同義。
細胞分裂が止まることは、そのまま死滅に繋がる。
前から思っていた。
子供と大人の線引き。どこで付けるべきか。
20才になればいきなり大人になるのかな?
そうじゃないだろう。年齢は関係ない。
アニメのコナンは体は子供でも中身は大人だ。
体は大人でも中身が子供のままの人もいる。
子供は親を選んで生まれてくるという。
が。
本当にそうなんだろうか?
犬を飼う場合、飼い主は犬を選ぶが、
犬は飼い主を選んだ、と言えるかな?
犬は選ばれた。
犬は選ばれる要素を何点か持っていた。
うう。息詰まった。
犬が選んだとこじつけれない。
力とは単位時間に移動する運動量のことである。
力がつりあっているというのは、微小時間内に与えられた運動量が
打ち消しあっている状態のことを言うのである。
つまり、
釣り合っている=打ち消しあっている。
それは微小時間において。
つまり、
釣り合っていないように見える動きも極微小時間においては
釣り合っていると見なせる。
つまり、
いつの時点でも力は打ち消し合っている。どんな力も。
物体はエネルギーが与えられない限り勝手に動き始めることが出来ないのである。
エネルギーという量は他から他へ移動することがあってもなくなることがない。
宇宙の原初は完全静止だったのかも。
そして、大きさは知らぬが、何か力が、何というか、
一波あった。そして、上記のように保存される。つまり、
再度、外部よりの止める力がない限り、宇宙は止まることはない。
一波さえあれば宇宙は動き出す。相互作用によって予測不可能なまでに。
問題は外部の力があったのかどうかだ。
そして行き詰まる。外部ということは知り得ないということだから。
エネルギーとは仕事と同義。
そして仕事とは
物体に力が加わっており、その物体が加えられた力の方向に移動した場合、
その力と移動距離をかけあわせた量を「仕事」と呼ぶ。
これは
動いていなければ仕事をしたことにはならない。
エネルギーとは動かす力、といっていい。
そこで、
いくら筋肉に力を入れてもものが動かないなら、その物の立場から見れば
仕事を成したとは言えない。しかし、力は確かに入れている。疲れるのは
その証拠。つまり、力を込めた人から見れば、その肉体は確かに動いているし
肉体の内部でも活発に動きがあるだろう。
つまり、
物体は見た目は動いていないように見えても
外部からは力が働いている。それが釣り合っているから、力が無いかのように
見える。うち消す力も感じづらくなる。
つまり、
この宇宙はエネルギーで満ちていると言える。
つまりは動き続けている。動きのみと言っていい。
動いているということは同じ状況は全くないということ。
つまり、過去には戻れないし、
ましてや、確定していない、未来にはいけない。
そして、だからこそ、生あれば、必ず死はあるということ。
極限的に微小時間ではいつの時も生まれていて
いつの時も死んでいる、と言える。
それは動きなのだから。
相対性理論における E=mc2
これはエネルギーが質量と同じであることを示す。
さて、
力学においては「運動量」と「エネルギー」は似ているが違うもの。
2物体の衝突後の速度を求める時には「運動量保存則」と
「エネルギー保存則」の二つの条件が必要になってくる。
一つの法則にまとめることはできない。
「運動量」と「エネルギー」の違い。
それはポテンシャルエネルギーによる。
運動エネルギーが減ればどこかにポテンシャル・エネルギーが蓄えられて
いるし、ポテンシャル・エネルギーが減る時には運動エネルギーが増える
ことになる。
相対論では時間と空間座標を対等の立場のものとして考えるので、運動量もエネルギーも同じ形式で
表現することができる。
だから「運動量」と「エネルギー」の法則を一つにまとめることが出来る。
世の中のすべての力は離れて働く力なのです。
どういうことかというと
我々の身の回りの物体は原子から出来ている。 原子はプラスの電荷を持った
原子核とマイナスの電荷を持った電子から出来ていて、全体として中性である
。 その理由で離れた物体からは電気力を受けないでいられるのである。
しかし、原子同士が近づいた時には状況が変わってくる。 原子の表面の
電子同士が反発するために、力を感じるのである。
そして、地面に立っていて飲み込まれないのも僅かながら、地面から
浮いているからなんだ。
つまりは究極的には何一つ接触しているものはない。
つまんないなあ。
俺は何なんだろう。
何層もの殻をかぶったようなもんだろう。
金、上っ面、所有物、体、
そういう殻をめくっていったら何が残るんだ?
お前らだってそうだろう?
えばってぶいぶい言ってたって所詮 殻 だろう?
その殻はお前のものじゃあないぞ。
地位、名誉も殻だぞ。
そんなものはまやかしだ。
何なんだ?
俺は。
どうあるべきなんだ?
いや、どうあるべきなんて何もない。
どうあったっていい。
好きにしたらいい。
誰も俺を強制することは出来ない。
強制されたと思うのは
ただ単に俺がいいよ、と受け入れただけだ。
どうあるべきじゃない。
どうしたほうがよりベターなのか。
これを考え、行うことが
よりよい。
じゃあ、どうしたほうがいいのか。
どうしたほうがいいのかを決めるのは俺だ。
誰でもない、自分自身だ。
結局、何を選んだって、
何をしたって、俺が満足したらそれで良し。
じゃあ、どうしたら満足するのか。
まて、まて。
どうして、満足しようとするのか。
満足しなくたって、別に構わないではないか。
どうして、満たされようとするのか。
どうして、現状に満足しないのか。
欲望さえすてたら、満足になれるではないか。
どうして、欲望を捨てれないのか。
欲望はどうして出てくるのか。
どうしようもないじゃないか。
俺はもう食いたくないと思っていたって
自然と腹が減る。
それを抑制する必要があるのか。
抑制することで満足できるのか。
それは本当の満足なのか。
欲を抑制することは
欲が無くなったとは言えないではないか。
どうしたら、現状に満足するのか。
そうだ。
俺は知らないんだ。
今が一番幸せなんだということを。
もし、
欲を全て満たすことが出来たなら、
満足するだろうか。
他愛もなく願望が叶ったら。それは幸せだろうか。
それも確かに幸せではあろう。
しかし。
喜びの度合いが違う。
苦労しただけ喜びは大きい。
人間はわざわざ自らに苦労をこしらえて
喜びを甘受するのかも知れない。
例えば、仕事だ。
仕事とは不思議なものだ。
何故、苦労してまで仕事をしようとするのか。
慎ましく生きていくことは可能ではあろうのに、
どうして、仕事を得ようとするのか。
昔は今の何倍も時間に余裕があり、
それでも普通に生きてこれたらしい。
しかし、今じゃどうだ。
休み無く働いても裕福感を感じるどころか
貧相になっていくではないか。
働けば働くほど我らはエネルギーを無駄遣いしているようだ。
欲望を満たすがために。
苦しんでいる。
我らはそろそろ、物欲志向から本当の精神的充実感を求めていった方が
よい。物を所有しても一時だけだ。満ちるのは。
物ほど移ろう物はない。
だから、満足感も薄れる。
しかし、俺は物質じゃないか。
物質の俺がどうして、不滅のものになれようか。
物質だからこそ、揺らぎがあり、
そして、付随する精神も揺らぐ。
一時も精神は固まっていない。
いつもいつも揺らぐ。
そうだ。
物質は揺らぐ。
俺の究極の所有物は俺の肉体だ。
俺は肉だから揺らぐしかしょうがないんだ。
物質は永遠とその形をとどめることは出来ない。
揺らぎだからだ。
光は揺らぎである。
波長の違いで速度も変わる。
波は細かい方が速い。
大きな波は遅くなる。
揺らぎを止めたら?
直線になる。
光速を超える。
直線は一定だ。
揺らぎがない。
光速を超えるともはや
物質とは言えない。
揺らいでいるから、限界速度がある。
揺らぎとは
寄り道、
と同じだ。
方々に寄り道をしていると
時間がかかる。
まっすぐ進むとどうなるか。
全てが可能になる。
人生がなぜこうも束縛を受けるのか。
それは時間に拘束されているから
に尽きる。
その拘束さえなければ全ては可能になる。
どうして全てが可能か。
時間すら超越するのか。
超越する。
時間とはそもそも
まやかしだ。
人間という物が作り上げた大発明だ。
時間とは動き在るものを固定化する、ためにある。
動き在るものに当てはめたもの。
計測するために。
動きとは何なのか?
動きとは揺らぎの形だ。
形に過ぎない。
この世にある物は全てが形あるものだ。
形とは何なのか。
形とは知覚される物。
知覚される物は揺らぎの形だ。
揺らぎは消せるのか。
消えない。
形を変え、伝播するもの。
波形の全く対称の
波を与えれば
波はうち消される。
しかし、それはあり得るのか。
限られた範囲なら可能であろうが、
正反対の波を起こすのには
その波自体以外の力、すなわち外力が必要と思われる。
この宇宙が沈静化するには
現時点で、今がある確率だけ低かろう。
宇宙が140億年くらいなら、140億分の1秒くらいの確率。
しかも、現時点というのは常に進行している。
1秒というのも一つの尺度であるから、
マイクロ秒など、スケールを変えるだけで莫大な数字になる。
宇宙を沈静化させる必要はない。
全てにおいて、義務などない。必要性もない。
そもそも、1秒の単位を細分化する必要があるのだろうか。
我らの知覚レベルはどのくらいか。
思考でもって時間を細かくすることに意義があるのか。
我らは知覚には限度がある。
光のスピードを視覚でもって捉えることは出来ない。
それは目を開けている限り
否応なしに来るものだ。
目に入ったときには既に遅いのだ。
臭いを嗅いだときには既に遅いのだ。
耳に入ったときには既に遅いのだ。
もうそれは既に来ている。
その結果、嫌なら、目を閉じ、
鼻をふさぎ、耳をふさぐ。
俺らはそういう否応なしに来るものに
反応しているだけだ。
来たものをどう受け止めるのか。だ。
受け入れるのか、
反発するのか。
それを決めるのが俺だ。
嫌なら、目をふさげ。
良きと思うなら目を開け。
確かに、自ら先んじて行動することが出来ているかのように思える。
しかし、実際は全て後手だ。
どうしてか?
過去しか見れないからだ。
自分たちの言動、行動を見ていると、
過去の出来事を語っていたり、過去の記憶から、行動したりしているのが
大半である。
それもそのはず、全部過去だからだ。
今しかない?今という時しか?
いや。
過去しかない。過去だけだ。
今というのはいつなのか。
今という時は
決定することが出来ないんだ。
1秒を更に細かくしたって我らは知覚できないからだ。
一瞬というものを感知することは出来ない。
確かに一瞬はある。
いつの時も。
限りなく短い時。
感覚出来ないものをあると
言えないことはないが
知ることができない。
そもそも一瞬とはどういうことなのか。
それは動きの一部分。
揺らぎの一部。
動きがない部分。
動きがないものを感じることが出来るだろうか。
出来ないんだ。
知覚できないんだ。
だからこそ、我らは一瞬というものを
感じることは出来ない。
しかし、こうも言える。
動きがないものの連続だ、と。
それが動きになっている、と。
動きとは究極的には生、といえる。
動きがないものは死、とも。
こう考えると、
我らは死の連続である。
それが生と呼んでいるだけである。
そして、揺らぎは消えない。
形が変わるだけ。
我らが死とよんでいることは
揺らぎ方の変化だ。
屍になろうとも、灰になろうとも
揺らぎが消えたわけではない。
とすると、
死とはなんなのか。
生とは。
生とは
揺らぎ方の特有な形。
死とは
それ特有の形。
揺らぎは同形のものが
合わさると増幅する。
共鳴する。
自分と同じものなぞ、
どこにもない。
俺は俺しかいない。
全く同じものがあるならば
それは共鳴しあって
爆発的、変化を遂げるだろう。
今、俺はそうなっていないから、俺は一人、といえる。
共鳴すると力を生むのである。
一人×2日より2人×1日。のほうが効率がよい。
2人でやれば1日かからないこともあるだろう。
しかし、
共鳴は形が似通っているものにだけあることであって、
正反対の形のものは打ち消しあう。
これが
協力して物事に取り組めば
驚異的なことも成し遂げられるということの
理由だ。
人間もまた、
形ある揺らぎなのだから。
この地球の人間どもはどうなってしまうのだろうか。
混沌とした世の中である。
混沌から新たな創造が生まれるという。
しかし、混沌のままじゃ生まれない。
混沌の結果新たな秩序、創造が生まれるのだ。
秩序にはまとまりが必要だ。
秩序。
それは共鳴作用を及ぼす。
いや、
共鳴作用が秩序なんだとも言える。
秩序は協力無くして成り立たない。
混沌とは
共鳴するわけでもなく、
うち消すわけでもなく、
点々バラバラな状態のこと。
新たな世界を創造し、それを体験したいなら、
協力、共鳴しなければならない。
じゃなきゃ、今までの人類と同じような、
ことを繰り返すだけだ。
俺はそろそろ、こんな世の中は飽きてきた。
かといって、豪遊したりしたわけじゃない。
飽きるだけ生きてきたわけじゃない。
しかし、もうそろそろ、ありきたりの生き方になっている。
何をしても、争いは尽きないだろうし、
疲れるだけになるような感じがする。
金を得ても一時の幸福感だろうし、
持てば持つほど逆に不安にもなるだろう。
死ねばいいのか。
いや、それが怖いのだ。
なぜなら、揺らぎは消えないものだからだ。
知らないから、怖いのだ。
哲学的ではないが、
霊、というものは
揺らぎの特有な形だろう。
永遠。
それはどういうことなのだろうか。
それは永続な揺らぎ。
または永続な固定。
それは永遠に動くか。
永遠に固定するのか。
のどちらかだ。
固定するのは感じれない。
それは無。と同じ。
魂は永遠か。
魂とはなんだ。
魂とは?
とりあえず、死しても残るものだろうか。
死して残るものとは何か。
揺らぎである。
それ特有の形の揺らぎである。
生きているときとどう違うのか。
形違えば速度は違う。
肉体はのろいものだ。
陸上選手でも100m10秒かそこら。
どうしてそんなに遅いのか。
形が違うからである。
概して、肉眼で見えるものは遅い。
というより、速いものを知覚できない。
人間には許容範囲がある。
死して肉体から別のものに変わると、
波の形も変わり、速度も変化すると思われる。
そしてそれがどこにいくのか、
どうなるのかは知るよしもない。
死んだ後どうなるかを考えても、どうなるわけでもない。
どのみち、来る。なってみなけりゃ分からない。
ただ、死した後我らが消え去るわけではないのは
明らかなようである。
となると、やはり、俺は何なんだ?という答えを明らかにせねばならない。
揺らいで確定するものではないのか。
揺らぎの特徴はどうなのか。
揺らぎが変則的なのは流動的な証。
生物、動物が特にそうだろう。
複雑きわまりない作りが一層、変則にしている。
というより、適度に変則して動いていた方が健康的ではある。
振り子のように一定の動きでは物事に対処していけないからだ。
揺らぎが一定。それはどういうことか。
それは動きではあるが、単調だ。
いつも同じだ。
だから、我らは波を小さくしたり、大きくしたりして変化を
求めている。睡眠、覚醒はそのような動きの違い。
どうやら、我らは単調を好まないようだ。
しかし、その揺らぎを作っているのは何者なのか。
それは過去。なのだろうか。
伝わってきたもの。
それが今を創り出している。
そうだ。
それが今の俺だ。
過去から連綿と受け継がれてきた結果である。
最初に波を作ったのは、作られたのは何故なのか。
力も加えられないで、偶発に波が立つだろうか。
最初から波があったとしたならば、その波が変則的になったのは何故か。
最初から変則だったのか。いや、時間が無制限なら、つまり
動きが永久に続くなら、
いつかは、うち消す作用が複雑に重なり合って、
波は沈静化するだろう。
その沈静はいつだってよい。
沈静化しているならば、今、は無い。
だから、やはり、外部の力が働いているか、
もしくは、自らが波を創り出していることになる。
外部からの力、それは神である。
自らの創造、それも神である。
どちらも神。
外部も内部も同じだ。
どこかに区切りを付けただけだ。
そうなると、
俺はどこから、俺で、どこから俺でないのか、ということになる。
それは皮膚から内側が俺で、
皮膚から外側が俺じゃないということになる。
そして、皮膚から内側が全て俺なのか、ということになる。
俺は体の全てを監督している分けじゃない。
少しばかりの動作を指令するくらいだ。
もう既に来ている情報を判断して命令していたり、
思考していたりするくらいが俺が俺と思える部分だ。
じゃあ、俺とは何なのか。反応するものなのか。
判断も反応なのかもしれない。
いや、反応だ。
なぜなら一瞬前に情報が来てから全ての動作があるからだ。
そう考えると運命といわざるを得ない。
しかし、予測不可能な運命である。
何故予測不可能なのか。
それは我らが知覚が許容範囲があるからである。
全てに於いて、影響を及ぼしあっているものである。
そして、
情報は既に起こっているのである。
起こっていることを予測しても、予測したことにはならず、
結果を見ていることになる。
一皮むけば人間は皆同じようなものだ。
大差ない。
反応するもの。
感じるもの。
ならば、好きなことをしたらいいではないか。
嫌なことをする必要は無い。
どうせだったら、いい思いをした方がいいではないか。
踊る阿呆に見る阿呆。
同じアホならおどらにゃそんそん。
これに尽きるよ。ベターな生き方。
ひらめきとは何だろうか。
クイズでひらめきが良い人が答えを早く出すのは
頭が良いといえるだろうか。
考えもせず、何か、与えられたような、感じを受ける。
俺はこのひらめき、というものが特殊なものに思える。
それも何らかの反応なんだろうか。
まさに、直線的に頭をよぎるインスピレーション。
これらは何か、ただの揺らぎの反応とは思えない。
おそらく、これらが新たな創造のきっかけになるんだろう。
俺の影。
その影には微小な俺の影があるんだな。
どこかに俺をかたどった影が存在している。
もちろん、目に見える影。
その他、目に見えない影がいっぱいあるんだろう。
光は四方八方から来ている。俺らは大きな、識別できるくらいの
影しか認識できないが、どこにでも俺の影はある。
見えないだけだ。その影は何万光年先でも影は影である。
だから、全ての存在は全ての存在に影響を与えるのである。
166 :
考える名無しさん:05/01/25 00:08:19
早く気付けよw
俺は用無しなのかな。
参ったな。
この焦燥感はなんだろうな。
何かに熱中していないと、
人間はだめになってしまうようだ。
熱中すること、それは、気を紛らわすこと。
気が分散すると人間ろくでもない。
ゆったりと生きていくのはいいが、
それが延々と続くのなら、焦りを感じずにはいられまい。
それが仕事を生んでいる。
そんな焦燥がなければよけいな仕事はあることは無い。
つまりは、人間は黙っていられない性分なのだ。
何かしていなければ落ち着かないものだ。
それが無駄な動きであろうと、
無意味だろうと、しなければならない、強迫感がある。
その強迫感がなければ、動きは格段に少なくなるだろう。
あえていうが、俺は職は持っている。
しかし、無職の者どもよ。
仕事を強要されはしないか、現状に焦りを感じないか、黄昏はしないか。
無能の烙印を押されはしないか。
俺が言いたいのはそんなことじゃない。
何故、背中を押されるようにして行動してしまうのか。
を考えなければならないんだ。
俺らははっきり言って何一つ知らない。
知っているつもりになっているだけだ。
なぜならば、たった一つのことであろうと、
全てに関連しているからだ。
知らないということを知っている?
いや、それすら知っているのか、
知らないのか、何とも言えない。
簡単に言えば、分からない、
これに尽きる。
何故落ち着かないのか。
確かに行動を起こすのは自分自身だ。
何を言われようが起こすのは自分だ。
しかし、何かきっかけが無くして、
行動を起こすだろうか。
このきっかけが波が伝わってきたことなのであり、
その反応が、行動だろう。
この伝わるということはどういうことなんだ。
物質は厳密に何ら接触していないのに。
どうして伝わるのか。
それとも隙間無くものが詰まっているのか。
この世の中、充満しているともいえるし、
空っぽだとも言える。矛盾のよう。
しかし、これは矛盾では無かろう。
逆に充満だけだったり、空っぽだけだったり、のどちらかなのだとしたら、
この世はない。
全てはバランスの上で成り立っている。
どちらかに転べば存在しない。
共倒れ。
矛盾じゃない。ある時は有、
ある時は無。
交互に成り立っている。
ものが充満していたら、動けないだろう。
空っぽだったら、その名の通り、何もない。
だから、それはどちらもなければ成り立たない。
このバランスが
生や死を存在させている。
当たり前だが、いつまでも生き続けたら、死はない。
逆にいつまでも死んでいたら、生はない。
何故落ち着かないのか。
覚醒しているからだろう。
生きている内は活動しなければならなくなっている。
そのバランスを崩せば、最終的には死に至る。
つまりはそれは当然のことなんだ。
だから、生きている内は活動、すなわち仕事をしないと落ち着かないのだ。
不活性は死への誘いなのだから。
物欲の行動も、無償の行動も同じなんだ。
目的の違いくらい。
どちらも仕事だ。
何をしても仕事だ。
人生に無意味感を感じるのは目的の違いによるものだろう。
そういう者ども、俺もそうだが、理想が高いのだろう。
その理想、目的が高いがために達成不可能と思いこみ
むだなことと思うのだろう。
夢を達成する目的がある者がそれを目指して生きていくことは
十分に意味がある、価値がある。
それが例え死して滅びようとも意味はある。
それは自分にとってはもちろんのこと、他人にとっても意味がある。
しかし、他人にとって意味、価値があるのは良いことをしたときだけだ。
揺らぎは消えない。死した後も存続する。必ず影響を
この世の終わりに至るまで与えるものだ。
この世は循環型である。
全ては巡ってくる。
これが善くいきたほうがより良い理由だ。
自分が嫌なこと、それは自分が分かっているはずである。
好きなこと、それも分かっているはずである。
自分が成したことは必ず還ってくる。
自分にとって善きことならそうするべきである。
実はそれが悪しきことであったとしても、構わない。
最後まで知らないのなら、最後まで善である。
後から、悪しきと気付いたとしても誰も責めることは出来ないし
しようがないことである。
もし、それで後悔するなら、本当に善と信じた行動では無かっただけである。
全ての行動に自信を持って行動するなら、何も非はない。
それを責める者が逆に間違っていると見えることだろう。
信じるものは救われる。
というより、信じていることは既に助かっている。
行為が巡ってくるということは
そのまま、戻ってくるわけじゃない。
自らの回想の中で必ず巡ってくる。
非行をした場合、その非を必ず後悔する。
非が非であることは自分に自信のもてない行為から成される。
非行は後悔という念で巡ってくる。
後悔が大きければ大きいほど忘れがたいものとなり、
その念に呪縛されてしまうものだ。
多数の殺人を犯したものでも善をしたと頑なに信じているなら、
それはそれで善なのだ。
生物は生まれたときから罪がある。
他生命を摂取しなければ生きていけないからだ。
殺さなければならないからだ。
だから、罰として死が必ずある。
しかし、そもそも、命を奪うことが罪なのか。
罪と思っているだけではないのか。
悪いことをしたと、慈悲の心がある証拠ではないか。
その罪の対価として死という概念がある。
善悪の判断があるから、生死という概念がある。
動物が生死を感じているかは定かではない。
それを強く意識しているかは分からない。
宇宙は果てしなく広いとも言えるし、
虚無とも言える。
虚無の方はなかなか感じることは出来ない。
それは当たり前である。
無い、んだから。
無いとは空間がない、
時間がないこと。
時間がなければどうなるか、
空間がなければどうなるか。
想像できない、異次元だ。
時間がないなら過去にも未来にも自由自在だろう。
それは一瞬の内に来る。来ると思った瞬間に既に来ている。
どこにでも一瞬の内に移動できる。いや既に移動している。
どうですか?
想像できますか?
理解できない。
ごっちゃごちゃだ。
つまり、時間、空間が無ければ混乱して、理解不能なんだ。
理解不能なことは我らは 無い として扱っている。
認知できないものは、無い、ものだ。
この時間を超えるという意味での
時間が無いとは動きが早すぎて理解不能になること。
逆に全く動きがない意味での
時間が無いということもやはり、理解不能、伝達不能になること。
この、巨大な空間と
虚無が同時にあり得るとはどういうことなのか。
物質は何ら接触していないと言った。
スペースがあると。
そのスペースがまさしく虚無に当たる。
ではどう伝達するのか。
伝達とは物の受け渡しである。
プレゼントと同じだ。
繋がっていたら、ものは移動できない。
岩は結合が高いから長い間、変化していないように見える。
無、と有が交互に成り立っている。
それが動きを作っている。
無、というのは認識不能のことだと言った。
それは有の立場から見た話である。
無を理解するのは無の立場でなくてはならない。
行為は巡ると言った。
それは回想でも巡ることは確かだ。
しかし、無の立場に立った場合、その行為はどうなるのだ。
無とは固まっているか、混沌としているか、どちらかだ。
一生涯、善を行った者は、後悔の念もなく固まったとしても苦はない。
しかし、逆なら、地獄を見る目にあう。逃れられない。
死後はもう死ねない。だったらその地獄から逃げるにはどうすればいいのか。
再び、生きることが地獄から逃れる術であろう。
それが救いだ。
有から無へ。
無から有へ。
止めどなく繰り返してしまうもの。
もっとも、天国、地獄は善悪の判断が付く者だけに当てはまるもの。
それがない者はどちらも無い。
真、善、美を求めて生きるのは当然良いことだ。
というより、その逆を求めるのはナンセンスだ。
自分がそれを知っているなら、それを行うべし。
人間はそれらを知らない方が良かったのかな?
そうすれば、罪も罰も無かったろうに。
いや、いや。
良いも悪いも決めるのは自分。
自己中心。何故そう決めたのか、を考えることに意義がある。
その決定に自信を持つため、吟味することは有意義だ。
対話とは、エクスタシーを得るための手段だな。
とどのつまり、それしかない。
言いくるめたと思いこみ自信を付ける役割を果たしたり、
間違いを正すことは、良き方向に向かうことになる。
うっぷんを晴らす、共感を得る。
全部エクスタシー。
嫌なら対話は成り立たない、口をつぐむ。
男と女。
何故、男が必要なのか。
女だけで成り立ちそうな気もする。
女だけなら、多様性は無かった。
全ては組み合わせの妙である。
それは分かる。
しかし、なぜ多様性の方向へ向いたのか。
単細胞で留まらなかったのは何故か。
遺伝子の突然変異やらの偶然性で今があるわけではない。
環境に順応するものだ。
順応しない者が絶滅していく。
劇的な環境の変化でも生き延びる者はいる。
賢さだ。
心の広さだ。
柔軟な反応だ。
知恵だ。
生き延びる術を知っている者だけが生き延びる。
どうしたら、長く種の保存が出来るか知っていますか?
人類と言うものと自分が無関係だと思っている人はいますか?
進化を様態の変化だという議論もあろう。
しかし、確実に成長している。
限りあるスパンの中で。
個人レベルの成長とは、過ちを省みて正すからこそ
あり得る。
過ちと知っていながら犯すのは成長が止まっている。
そう考えると個人レベルでも成長、すなわち進化が日々ある。
賢くない者は滅んでいくのである。
だから、生物は賢く、たくましい。
そして、生物にとっては逆境こそが、さらに
生物を賢くさせる。
異変が我らをたくましくさせていく。
仕事を成すとは、人のためになることである。
自己だけのためもあり、
自他とももある。
とにかく何かすることは何かの役に立つのである。
無関心とは、どういうことなのか。
無関心は無関心を呼ぶ。
関心無きものは離れていくものだ。
この関心のなさが離散的行為なんだ。
離散とはちりじりに離れていってしまうこと。
この離散が本来の力を減じている。
希釈されていくこと。
無関心は無と同じ。
見ず、聞かず、何も感じず。
それらは無と同じこと。
関心、無関心も一つの反応であろう。
情報は一瞬先に知覚される物だから。
関心は受け入れ、
無関心は拒否、にあたる。
関心は行動に繋がる。
無関心は止まること。
関心は何かを得ようとすること、
無関心は何もしないこと。
だから、関心は結集する力があるし、
無関心はその逆だ。
無関心なことは離れていく。
私らは関心のあるものしか見ようとしない。
というよりか、見ていない。
無関心なことは流れていく。
ならば、何故関心のあるものしか見ないように出来ているのか。
それは情報が無限のようにあるからだ。
選び出さなければ、混乱してしまうからだ。
物事を理解できるのは一部分だけしか見ていないから、可能だ。
大部分を理解しようとすると、困難だ。
私らは関心と呼んでいることは物質の結合力と同じように見える。
近似のものが集まる。
私らも物質である。私らももちろん物理法則に則る。
その関心が私ら一人一人をつなぎ止めている力。
関心を自分のみに向けるていると孤立する。
自分に関心がない者は次第に疎遠になる。
結集は力を倍増させる。
質量はエネルギー。
人間も結集すれば多大な力があるだろう。
この結集は共鳴作用である。
犬猿の仲では力は生まない。
一国の中で一致団結しても一国では力となるが、
国が対立しているならば、地球規模での成長は無い。
すなわち、成長するためには広く、関心の目を向けることだ。
一個人から、一家族、そこから、一市町村、さらには国、果ては地球、
と。
皆が向けなければならない。
皆が、皆の立場になって物事を考えれるようになれば、
莫大な力を生むだろう。
一つのものから分岐したものは必ず元に返るのである。
木はタネから、枝分かれして繰り返し、後に葉となり、種子を付ける。
最終には枯れて還る。
そのように私たちもいずれは土に還る。
そして、人間という種も一つから生まれたもの。
いずれは、始源に還る。
それは滅び、と言っていい。
そして、再び何かに生まれ変わるか。
しかし、滅びとも言い難いこともあるだろう。
皆が皆に関心を持てばいい、と言った。
それは、すなわち、個から、全体への統合によるものだ。
一人一人バラバラの状態から、結集することで
一つの塊になることだ。
それは新たなる一つのものだ。
そのどちらかの道を辿るだろう。
新たなタネとなるか、
土に還るのか。
どちらかだ。
どちらが良いとは言い切れないが、
振り出しに戻るか、
新世界を見るか、
わくわくするのは、いうまでも無かろう。
265
わくわくするのはどちらであろうか、いうまでも無かろう、
の間違い。
物事、思考、
こじつけでも、筋を通しても
いくらでも正当化できる。
これが争いの元になっている。
自分を正当化することだけでは
けして争いは消えないだろう。
自分を含め皆を正当化することで消えるだろう。
なかなか出来ないことである。
この世は線で形作られている。
物は線だ。
線が面を構成している。
面は線の集まりだ。
線を縦横無尽に走らせると面になる。
面が物を形作る。
面が包み込むと形が出来る。
紙を丸めると形が出来る、と同じ。
折り紙と同じ。
面は線からなり、線は点からなる。
線とは動きである。点は不動。
線は連続。点は単独。
線は揺らいでいる。
揺らいでいるから、形作られる。
直線では形は無い。
線はたくさんあるのか?無いだろう。繋がっている一本。
だからこそ、全てに伝わる。影響を及ぼす。
絵も一筆書きで描けます。色があるから、無理っぽく思えるのだろう。
275 :
考える名無しさん:05/01/27 00:02:35
頭冷やして気づいたかね?
頭は冷えない。
なんたるものも冷え切ることはない。
エナジー。
色はその部分特有の形だね。
波形。
だからものは一筆で描けるのさ。
ただ、フォトンレベルで波形を変えていかなくてはならないが。
インクジェットプリンタとかも連続して、ヘッドが連続運動で
プリントするだろう。あれと同じさ。
線は繋がっている。始まりから終わりへ。
つまりは始まりもなく、終わりもない。
部分を取ってそういっているだけ。
あやとりしたことあるかね。
複雑な形も指を抜けば一つの輪になるだろう。
この世の中。
簡単な物の組み合わせで複雑な物を作っている。
複雑を形作るには
簡単なものが何種類必要だろうか。
二つだ。
二種類あれば、組み合わせで無限の複雑さを作れる。
2種類、それはどういうものだろう。
有限、無限。入り、切り。それとも、
一つ、二つ。どちらか。
二つと聞いて何かを思い出さないか。
自分と、他人。
自己とそれ以外の者は二者。
自己以外はひっくるめて良し。
ひとかたまりの物は
どんな小さくたって一つの物なのだ。
一つの物は、他と相容れない。
それが、主観、客観、の見方だ。
この一つという概念。
これでもか、これでもかと際限がない。
ちいさいものはどこまで行っても、どれが一つか分からない。
大きい物もどこまで行けば、全体なのか分からない。
一つとはグループのことをいう。
一つとは一グループ。
一グループは一つ。
こういう風にグループで括らないと、
際限ないのだ。
それがフラクタル。
見た目でフラクタルになっていないというのは
違うと思う。
見た目でそうなっているように見えるのは
人間の手が加わっていない部分だ。
人工物は反フラクタルにも見える。
形がフラクタルなのは見て分かりやすい。
しかし、それだけの要件じゃない。
性質も含めなければならない。
人工の物がフラクタルを感じないのは
視覚から得られる形の相違だろう。
しかし、人工物は元来、非人工物であった。
素材は天然にあった。
それを利用しているに過ぎないのだから、
性質は残っている。
形とは波長の違い、周波数の違いなのだ。
形状が変化しても、それほどは性質は変わらない。
例えば本。
これは木質の性質を持ち続けている。
化学物質でも極限には原子の性質は保っている。
しかし、核反応を起こすことは
次元を変えてしまうほどの大きなことらしい。
分からない。
性質を変えてしまうからだろうか。
だから結局何?と言えば。
性質はそんな、そんな変わらないものだ、ということ。
人も性格はそんな変えようとしたって変わるもんじゃない。
目に見える、形あるものほど
変わりやすい物だ。
そういった、性質、が
個性と言うものだろう。
特有の、性質。
性質はどんな小さな物も持っている。
そして、1グループになっている人間の個性も様々。
小さな物の集まりで、一つの人間の個性が出来上がっている。
こう思うなら、
人間という物の個性は、小さな者達の結集、作り上げられた
物だ、と言うことが分かる。
そして、小さな者達を作ったのは紛れもなく、自分だ。
だから、精神と肉体は切っても切れぬ関係にある。
相関だ。
相関とは助け合いだ。
だから、少なくとも、個人は自己を大切にしなければならない。
それからだ。
自分を大事に思えるようになってから、
他をおもうのは。
自分は本当に大事なことを知っている。
誰しも。
自分に虚偽をしていることが、
不幸を招く。
テレパシーとは。
人と心を通じる能力だろう。
確かなことは分からないが。
人の心を分かる能力では無い。
人の立場になって考えられる能力だ。
まあ、これは普段からやっていることではある。
テレパシーの初歩的なことは日常的だ。
どう思われているだろうか。と思うこともテレパシーである。
どう思うだろうか。もそうである。
完全に相手を理解、完全なるテレパシーの概念に沿うことは
あり得ない。
理解するため、意図を知るため、対話がある。
言葉が共通するための役割を果たす。
相手が本当は何を考えているのかを、知るには共通の媒体がなければ
ならない。それが言葉だ。
テレパシーとは相手を理解すること。
言葉もその役割を既に果たしている。
言葉とは意志の伝達手段。
相手がどう考えているのかを、考えるのは紛れもなく自分だけだ。
言葉だろうが、テレパシーだろうが、そうだ。
相手がどう考えているのかを知るには相手の立場に立たなければならない。
そうしないと、どう思われているのか、という問い自体も存在しない。
テレパシーは自己が他者の立場になって最大限の
シミュレーション出来る能力だ。
あなたは他人がどうしてもらったら、喜ぶか知っているはずだ。
どうしたら、不機嫌になるか知っているはずだ。
自分が本当に望んでいることを
他人に為すことは間違いなく、本当に喜ぶ。
そうじゃないと、おもうなら、それは本当に望んでいないことの証だ。
他者に為した他者の喜びは自己の喜びになるのである。
思ってはいても何もしないのは
めんどくさいからだろう。
なんで、めんどくさいのか。
めんどくさいことはやらない。
やらなきゃならないことは面倒でもやるが、
それも、物事の順位付けだろう。
物事の順位付けは。
我らは物事の重要度を順番にこなしていくように出来ているんだな。
一番やらなくてはいけないことを一番先にやるものだ。
今やらないことは
重要度が低いからだ。
何もやることが無く、暇なときも、
必ず、優先を付けている。
その都度、一番を選び行動している。
人間、自分にとって、一番ベストな道を歩んでいるものだ。
それを意識せずとも。
この優先順序を付けて、順次、こなしていくということは
プロセス、なんだ。
プロセス。全ての存在はプロセスだ。
なにものかに至る路。
存在自体が路、だ。
なにものに至るのだろうか。
分からない。
至るということは、現時点でも
過去から至ったものである。
既に現在の状態に至ってしまっている。
過去から見れば。
常に至り続ける。
そこで、今の状態が過去望んだことだっただろうか。
望み通りを得ているか。
私の場合、望んでいたとは言い難い。
そんなビジョンはなかった。
しかし、今こんなこと書き込んでいることが出来るのは
過去のプロセスがあったからだ。
どんな過去も無くてはならないものだった。
これが、優先順位を考えると、無意識的に現状を創り出した、
ことが考えられる。
なぜなら、今現在、一番を選んでいるからだ。
過去もそうだったはず。
こうして、過去を振り返ることによって、
運命という物を考えてしまうものだ。
過去を見るから、定めがあるかのように思うものだ。
なるようになったんだ、と。
しかし、未来に至っては定めはない。
定めを感じたのは過去からくるものだ。
未来には概念自体が存在しない。
知覚にあって、どれが避けがたい感覚だろうか。
味覚、触覚は似ている。
熱、を感じるものだろう。
嗅覚はそれほど、使っていないのかな。
視覚、聴覚は似ている。
飛んでくる、
刺激の中で視覚による感覚が一番酷使し、しかも刺激が少ない
ものだろう。
激痛を感じない。
どれも似たようなものだな。
感覚を分けただけだ。
知覚はどんなものも似ている。
知覚、それは不思議だ。
知覚は一つ。みんな、一つずつ持っている。
人間一人で一つ。
もちろん、動物、植物、も、一つずつ。
器官によって分けているわけだが、
統合して感じる、一つのものである。
誰も書き込んでくれない。
>>358 おっと、おまいさんでも、周りが気になるか、
少し雑念が入ったようだなw
まあ、思うがままに書くよろし。
ほれ、御褒美だ、アゲちょいちゃる。
∵-=・=-∴-=・=-
/:::::\
/:::::::::\
|::::/ ◎\: |
|:: | ト‐=‐ァ' |:| まだやってるのかね?
/:: | ` `二´' |:\
/::::|___/:::\
|/∵∴/ ̄ ̄~~~~ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
/∵∴/ |
l∵∴l |
|∵∴| l
l∵∴l /
.=-―‐‐l∵∴|-,,,_ ‐-,,,_ /
_,,;-‐=ニ二_i;;;;;;;;;;i_二ニ=-‐'''~
~'''‐- ~"'''―-----―'''
362 :
考える名無しさん:05/01/31 01:15:48
あげ
どうやら、直感的に判断するか、
論理的に判断するかは
右利き、左利きに左右されるようだ。
私は左利きです。
>>363 首から上と首から下で神経は左右逆転しているはず。
そういう切り口で言うなら、
左手は右脳の影響を受け易い、右手は左脳の影響を受け易いと、
仮定していくことになるが、それは真実味の有る仮定なのだろうか、
ということは、どうしても残されるだろうね。
まあ、つづけて見なはれ。
影響を受けやすい。確かにこれ以上の結論は出ないだろう。
どちらかを切り離して単独で考えることは出来ないのだから。
これも相関。
人間にはそういう考え方の傾向がどうしても当てはまってしまうと言うことか。
考え方で利き手が決まったのか。
それとも利き手が考え方の傾向を決めるのか。
左右対称、シンメトリーについて考えていく必要がありそうだ。
左右を語るには。
生物という者は遺伝子が禁止していない限り、
左右対称に形作られていくものらしい。
なぜ、左右対称ではなく、非対称の部分があるのか。
カニの種類で、片方のハサミだけがデカイ奴とか居たような、
魚類なら、ヒラメとかカレイとか、
元から左右対称じゃない生き物もあるよなぁー、
それは遺伝子が禁止していろってことかぁ?
Pitx2 検索で調べてください。
専門じゃないから、良く知らない。
とにかく必要性があるから、非対称になった。と言えるだろう。
何の意味もなく偶然になったわけじゃなかろう。
順応した結果なのだろう。
ひらめかない。
考えれない。
左右対称とは横方向のみ対称のこと。
完全なる対称ではない。
完全なる対称は回転軸をもったもの。
花に多い。
ああ、これも完全じゃない。平面上だけだ。
対称、それに必要なもの。軸だ。
境目が必要だ。
どこに軸を設ける。真ん中だ。
ちょっと待ってくれ。
生物が対称になったらどうなるんだ。
心臓が右にもあって、
何もかも軸を境に対称になってしまったら。
脳みそも同じものが左右に二つあったら。
全く同じものがあっても意味がない。
脳が二つあったら、統合できない。自分が2人になってしまう。
同じものから、同じ情報が入力されても新たな出力が出来ない。
一種類の出力しか出来ない。
左右別々で、知覚の仕方、機能の仕方が違うから、複雑に絡み合わせて
多様性が生まれる。
単細胞が多細胞になったのもそんなとこだろう。
左脳、右脳どちらかだけしか機能していなかったら、
もはや、人間らしいとは言えない。
いや、間違えた。直感的、論理的どちらかしか出来なかったら。とか
言語、イメージどちらかのみ、しか使えなかったら、
このように、バランスの上で成り立っている。
完全なる対称形。
球でしょうか。
軸は点である。
そして、この世の中にその完全なる対称形が存在しているのだろうか。
完全なる球を外部から計り知ることは出来るだろうか。
中心に立ち、あらゆる方向が同距離であれば真球であろう。
何を言いたいのか分からなくなってきたが、
こうだ。
この世の中、形あるものしか存在しない。
形には完全なる形があるのではないのか。
我らは揺らぎあるもの。
行きつ戻りつするもの。
機械仕掛けの動きではない。
変則である。
ということで、我らは非対称であり、
形としては崩れている。
そして、非対称こそが多様性を生む。
揺らぎが変則であるほど。
しかし、バランス。
バランスを取りつつ、存在しうる。
この、バランスが取れていないものは存在していない。
全体像を把握するのは難しい。
だから部分に分ける。
しかし、部分に分けることは限度がない。
部分にこだわりすぎるあまり、結論を出せなくなる。
部分は全体を知るための手がかりと思うことにしよう。
全体を言葉で表すことはきりがない。
言葉が部分であるから。
だったらどうやって、全体を表すことが出来るのか。
完全には表すことは出来ない。
相手の判断に任せるしかない。
分からない。
何も。
知るとはどういうことなんだ。
たくさん意味があった。
端的に受け入れたかどうか、だろう。
反射、吸収。
吸収が知る、ことだろう。
吸収したものは出てこない。
反射したものははね返る。
だめだ。考えれない。
どうして、こう熱が冷めるんだろう。
リズム。バイオリズムか。
これが、怠惰にさせたり、集中させるのか。
ホルモンか、ホルモンが伝達しているのか。
どっから、来たんだ、ホルモン。
誰が、作ったんだ、ホルモン。
何で受容するんだ。
誰が受容するんだ。
体の中から来たホルモン。
自分が創ったホルモン。
受容体があるから受容する。
自分が受容する。
合ってるか。
分からない。
無意識に感じさせられているのか。
無意識に行動を起こさせられているのか。
無意識とはどういうことだ。
分からない。
いや、ちょっと待てよ。
分からないで終われば進展がないじゃないか。
だめだ。
自分のことすら把握していないのに、
他のことに手を出しても、そこに意味を持たせられない。
まずは自分を知ることだ。
結局、最後に価値を見いだせなくなるのは
根本的に自分がどうしたいのか、
どうあるべきか、
これを知らないままに物事に取り組むからだ。
道に迷うことは道を知ること。
いいね、これ。
しかし、いつまで迷うんだ。
熱しやすく、冷めやすいのは
本当のことを知らないからだ。
冷めるのは本当の道じゃなかったことを悟ったからだろう。
自分というものを深く分析していく必要がある。
しかし、分析すればするほど
空っぽになってしまうんだ。
俺はその空っぽのものを知りたいとでもいうのか。
何か残らないか、
全体を部分に分けるのはきりがないが、
何か、何か残るはず。
分割できない何かが。
分けようとする意志がある限りそれは永遠に続く。
残ったのは無限という概念だけだった。
一つ分かった。
分かったという意味が分かった。
納得すること。
流行だ。流れに乗ること。
その時、その時の。
ただし、マイブームだ。流されてはいけない。
これだ。良く生きることとは。
盲点というものが気がかりだ。
見えていない部分があるなんて。
そこに、近くのものを補完しているなんて。
10m先じゃ直径1mにもなるそうじゃないか。
補完する。
結局、何も感じられない、ということはあり得ないのだろうか。
植物人間は何かを補完しているのだろうか。
アイロニーか。
ふとこの単語がよぎった。
意味初めて知った。
タイミング。
タイミングは絶妙か。
あなたがここを読んだのもタイミングか。
まっすぐに正しい道を行くなら、あっという間に幸福という名の下に
たどり着くだろう。
しかし、間違っている道ならばさらに道をはずすだろう。
急げば急ぐほど。
加速度的に物事がなされることもあるだろう。
出だしはゆっくりだ。
重い車を押し出すにも、最初は力がいるが、
転がり出すと掛ける力が減らしても動かせる。
まさに行動もこのようになっている。
朝起きるとき起きるまでがつらい。
走るのも走り出すまでが意志が必要だ。
部屋の掃除もやり出すまでが長い。
やり出すと徹底的にやりたくなる。
そんなものだ。
それは加速度的な行動だ。
心もそうだ。
焦る心。
余裕があってもその心が芽生えた時から加速度的に冷静さを失う。
絶頂感。
何かを成し遂げたときその瞬間に最大値の快感を得るものだ。
であるからこそ、
間違った道を急いではならない。
もっとも間違いに気付き修整しているものだが。
犯罪などは一種、勢いなのだ。
勢いが付いた結果だ。
ストレンジアトラクタ、だったか。
物事は何もかも中立だ。
それに意味づけするのは自分だけ。
ちょっと待てよ。
だったら、いくらでも意味づけしたらいいじゃないか。
おいおい。
なんぼでも、付加価値出来るぞ。
例えば俺に。
この価値を付ける、意味を付けるってどういうことだ。
まあまあだな。
どう思う。
まあまあか。
ものの意味、の使い方での意味は
何にでも付けるものだ。
発見したものには全て名を付ける。
名には意味がある。
その意味で名の付いていないものは
発見されていない、もの、こと。
名の付いていないもの、ことは未来にある。
過去に見つけたものには全て名を付けた。意味を付けた。
もの、ことは意味だ。名を付けられる。
我らは起こったことを認識するためにパターンとしての
名を付ける。そうしないと、記憶というものに釘付けできない。
記憶というものは物事に意味づけした結果だ。
そして意味のうち、価値というもの。
これを意味に付加する。
重要度を付ける。
インパクトのあるものほど、忘れ難きこととなる。
記憶から、引き出しやすいものは重要度が高いものである。
私が私に価値を重くおくなら、私は私だけを見るだろう。
何に価値を付けるかは自由。
肯定的にも、否定的にも。
これらは加速度的に増大するもの。
だから、否定的な方向に行っているのに気付いたなら
早く軌道修正するべき。
自分が起こした行動は自分が起こしているのだろうか。
例えば何かを取ろうとして、それを取る。
これはじぶんがとっていると確実に言えるか。
というのは、取ろうとしたことは確かに自分だ。
しかし、手元に来たものはそれ自らが来たとは言えないのだろうか。
例えば、自ずから、コップが来る、とは言えないか。
俺はただ、指が動くようにと、命令を出しているだけではないか。
俺はそれに反応しているだけではないか。
命令、反応。このフィードバック。
まあまあだな。
このくらいの価値か。
疲れた。
うまく説明出来ない(めんどくさいのもある)が、
オレはこのスレに何かの価値を見出してるんだろう、
だからこそ見てしまうし、書き込んでしまう。
君が書いてきたものを適当に抜粋した↓
無。空っぽ。無意識。
これらは一般的に"無いもの"として認識されている、
だがそれは、それこそが元々有ったもの、元々存在していたものと考えてみてはどうだ。
無が有る。我々が無いと表現した為に、無いものと錯覚していたものが元々存在していた。
無こそ大昔から存在していた。
一見矛盾しているようだが、このように逆転の発想をしてみると
>>458 >俺はそれに反応しているだけ
ここらあたりの思考にも突破口が開けないだろうか、
まあ、そう言いつつオレも、まだまだ、この世界は解らんことだらけなんだが。
"それ"を無視し逆らう奴等は、
現代的にシステム化された人間社会に住む人間達だけだ、
現代の殆どの人間達は、その殆どの行動において"それ"を無視して選択をする、
それが苦を生みだしている。
アホになり、ただひたすら"それ"に従えば苦は無くなるだろう、
ただし、現代人間社会でそれを実践すると、
初期の段階ではアホとみなされるのは、ほぼ間違いない、
まあ、それでいいのだけれど・・・・・
あなた、俺と以前対話したことある?
なにか、前に語り合ったような気がする。
ま、いいか。
あなたの言っている、<それ>とは神格化しているものだろうか。
ならば、神に命令されているとでも言うのか。
漠然とした、しかし、絶対的な、無の存在のような、存在に。
まさかあなたは
自らが命令を下す神であり、それを受け止めるのも自己だとでも言っているのか?
ちょっと待ってくれ。
否定はしない。
しかし、熟考してみる。
まっすぐなものは比較的簡単。
曲がっているものは難しい。
そして、世の中曲がっているものばかりだ。
数学は難しい。
解はあるのだが。
忘れてしまった。
公式があれば求めれるのに。
公式を知らない。
様々知ることが出来るが
どんどん忘れていって
結局キャパシティがあるのかも。
何かを極めようとしたら先は長い。
どこで、満足するか。
理想が高ければ高いほど不満足を得る。
容量のどこにボーダーラインを引くかだ。
理想が低いほど適う可能性が高い。
しかし、人は比べてしまうものだ。
自分と自分以外とを。
あるいは、人と人とを。
この比べるという行為がいつまでも完全なる満足を得ない元になるであろう。
比べるということは我らにとって、重大なることだ。
これがなかったら、存在もしていまい。
勝者からみれば優越感に浸るだろう。
敗者からみれば劣等感に陥るだろう。
このように比べるということから、何か新たなものが生まれるだろうか。
何が生まれる?
競争心からは勝者も生むが敗者も生む。
物はどんどん作られていくものだが、
どんどん廃れていくものだ。巡っているだけで
何を生み出しているのか。
流行。こういった流れは生むだろう。
全ては流行に流される。時代の。
確かにそういった波が新たな時代を作り続けるわけだが。
比べるということがないと、新たな時代を作り出せないわけだ。
比べるということ、それは組み合わせを変えるということ。
比べることが無かったら、人類は今ほどは発展しなかっただろう。
何故。それしか方法が無かったのか。いや、方法を知らないからだろう。
比べなくても向上する方法を。
比べることによって経済を発展させようとするのは上限が見え始めてきている
だろう。何故か。それはただ、巡っているだけだからだ。
結局は一時の流行を生み出している位だからだ。
競争、羨望からはもはや、これ以上の価値は生まないということに気付かなければ。
その時代は終焉する。現実にそうなりつつある。
受動的生き方。
能動的生き方。
私は現在受動的な生き方に傾いているようだ。
保守だ。
つまりは不満足感を感じていながら、
現状に満足している。新たに動き出さないことが証拠だ。
妥協ともいう。
新たな世界を朧気ながら夢見ながら、
反面、恐れを感じている。動いた結果にネガティブなイメージを
与えている。可能性を怖れている。
受動的に、為すがままに。
それで、どちらに転んでも良いか、と思っている。
分かっている。どちらにせよ失敗するのならどちらかといったら、
能動的に動いた結果の方が、後悔は少ないだろう。
しかし、受動的にしといたほうが良かったと後悔するかも知れない。
先のことはまるで分からない。
吉と出るか、凶と出るか。
無理に積極的に動く必要はない。
それは後悔の元だ。やらなかったことに後悔することもあるだろう。
しかし、私としては能動による失敗がウエイトが重い。
なぜならば、積極性はともすれば、空回りに終わることもあるからだ。
全てが無駄なことだったと失念するなら、むしろ、必要最低限のことで
良しとしたい。
この無駄な動きも、仕事、になっているわけだが。
この無駄、も情報技術やら、で、少なくなりつつある。
仕事が無くなってくるわけだ。
私は電脳人間にはなりたくはない。
しかし、価値のない、無駄が省かれることは結構なことだ。
紙は好きだが、公的書類は紙っきれに思えてしまう。
はんこの形は好きだがそれ自体の価値は薄まった。
もっと、価値のあるものがあるはずだ。
仕事が少なくなってきて、やることはなんだろう。
何を求めるか。
美だ。
今までのように働いた対価として少しばかりの楽を得ることから、
無駄を省いて、美趣味を求めていく時代になるだろう。
もっとも、その前に知恵を出し合い、賢くならなければならないが。
美は不変だ。美は美だ。
日曜日にたまに見るから美しい、とかいうものじゃない。
反動から得られるものじゃない。
ここらはまた後で。
動物は味わうということがなさそうに見える。
丸呑みだ。
そう見えるだけかは知らないが。
人間は何か、たいしたこともないだろうものに
味付けする種に思える。
他愛もない物を吟味する。
忘れてはならない。
その視点以外の、
その考え方以外に視点、考え方はあるんだということを。
結局は他愛もないこと。
本当に大事な物なんてどこにあるのか。
何なのか。
非常に悩んでいるとき
異常に執着しているとき
猛烈に悲観しているとき
それを思い出すこと。
ずらすこと。見方を。
安定とはどういうことだろうか。
どういう状態を安定と感じるだろうか。
逆に不安定と感じるのはどういうときか。
秩序だっていないときに不安定さを感じるものである。
逆にどこか少しでも秩序だっている所を見つけることが出来れば
安定感を感じるものである。
何をもって秩序と感じるか。
何をもって不自然さを感じるか。
秩序がないものは不自然と感じるものである。
秩序が私たちにとっては自然に感じるものだ。
秩序とは何か型にはまったもの。
認識可能な型に当てはまるもの。
理解できないもの、それが不秩序。
だからこそ、体感できる現象が自然な現象と受け流される。
本当は全ての現象は全く持って不可解なものである。
何一つ納得できるものではない。
納得した気になっているのはそこに幾ばくかの秩序を発見したからだろう。
私らは経験からパターンという物を形成する。
繰り返してたたき込まれるものだ。
一度や二度のことは疑いが抜けないものだ。
個人差はある。
それが物覚えと言うものだ。
秩序立てていける者こそ物覚えは早い。
それが頭の良さ。明晰さだろう。
何度やってもそこに秩序を見つけれない者。
理解できぬ者。それが頭が固いという。
それは受け入れぬ者。
頭の良くなる者。受け入れるもの。
更に良くなる者。受け入れて、それを加工するもの。
受け入れる前提条件。というか心構え。
興味。
これがないと、ただ流れていく。受け入れても留まらない。
この興味というものは、その理由を明確にするのは容易ではない。
何となく興味を持ってしまう、漠然としたもの。
それを科学的に証明されても、容認を無理強いしている。
不安定、不自然なものでも、やり方によっては秩序を持つものだ。
対称性、連続性、規則性、こういったものが担う。
こういった秩序を感じるとき、美を感じる。
秩序さがないものは美を感じない。
しかし、この秩序、発見した時点から秩序と成りうる。
発見するまでは無秩序だ。
整っていること。
統制が見られること。
そして、それが本来、自然だ。
整いが真の姿。
それを発見していく旅路と言えよう。
物事には何事も秩序さを当てはめられるものだ。
逆に本当に無秩序を発見することは難しい。というか、出来るのか?
物事は本来他愛もない。
価値観の違いにもよるが。
しかし、価値があるか、ないか、これを決定づけるのは
秩序さだ。それがあるか、ないか、で価値もあるか、ないかに分かれる。
自分自身の秩序を見つけること。
アイデンティティ、それが秩序であり、価値だ。
それが自分の型だ。自分がそれを見つけるときそれは美、とも言える。
と、考えることもできる。
考えること。
この行為をする者は利己的だ。
考えない者。いるのか?
突発的な行為。無思考の行為。
溺れる者を助けるために飛び込む行為。
これは瞬時の決定だ。
考えること。すなわち、自己保身になる。
肉体的に尽くしたとしても
精神は尽くしていない。
肉体は疲労しても
精神は満たされる。ボランティア。など。
思考づくめの行為は利己的だ。
何らかの得があるからだ。
本当に損と思っているなら、行動しない。
何らかの利を見いだすから、行動する。
損、というのはどういうことだろうか。
言い切れば、無駄。
無駄になることを損と思う。
何も考えないこと。これが真の利他だ。
それは自分のことはもちろん他人のことすら考えていないこと。
他人のことを考えてはいても、考えているのは自分だ。
飛躍しすぎているだろうか。
しかし、考えること自体が主観を切り離せない。
何にも考えていないような行為。
突発的な行為である。
時間。それは考える間を与える。
時間が無ければ考えれない。
進路を思い悩むこと。これはすなわち、より良き得を得ようと
計算づくのことをしようとしているに尽きる。
どちらが得か。この道を選び続けるものだ。
私たちは時間という概念を創り出し、
それに価値を付加した。
時間も無駄にするのはもったいないと思うものだ。
それは動きに無駄、又は価値を見出したと言うこと。
時間とは動きだ。
私はたまに、物事の結論を出すのは勿体なく思うこともある。
このまま24時間考え続けて何かしら結論が見いだせるかも知れない、
と思うことがあるが、しかし、あえて辞めるのである。
それを知ったら終わりのような気がするからだ。
秩序が価値だと言った。
無駄は逆だ。無意味は無価値だ。
研ぎ澄まされた省略さが無駄なく、大きな意味がある。
しかし、この世は無駄さは付き物だ。
時間、すなわち、動きがあるからだ。
その無駄な動きの中で
価値を見いだそうと、存在している。
無駄なことに
敢えて、
価値を付けている。
動きがあるゆえに
絶対的なもの、ことはない。
価値もまた、流行、廃る。
絶対的なもの、ことをどうやって感じれるだろうか。
何も考えないことだ。
考えること、それは動きなのだから。
何もしないこと。
感じるということ。これを考えていく。
感じるとはどういうことか。
この先どう推移していくんだろう。
予想は難しい。
世の中どう流れていくか。
比べるということで
もう少し。
物事において、意味のない、無価値なことは淘汰されていく。
無座に無価値なことはやらないものだ。
そう。物事は時間を重ねる毎に
洗練されていく。
生物の淘汰しかり、技術、思想、組織、もまた。
そういうことで、今現在残っていること、ものは、
最先端であるのだ。これも比較して優位性があるものが残る結果だ。
それがナチュラル。
世の中どうなっていくんだろうか。
何故に理屈で分かっているのにそれに反した行為をしてしまうのか。
どうして、その場に出くわすと理に適わないことをしてしまうのか。
それが意志の弱さと言うものだろうか。
しかし、強健な意志でもって何もかも制御できるだろうか。
先ずは理屈が分かっていないとどんな行動も、意味のある行動にならない。
それが前もって意味のある行為だと自認していないと、途方に暮れる。
そうだ。行為の前に明確な目的が無くては、価値が低い。
その目的がどうして、目的なのかを整理しなくてはならない。
そうして、理詰めで構築していかないと、
全てがなし崩しになることもあるだろう。
そうして、絶望する。
先ずは行動してみる。
それから結果を得る。
そんなやり方もあるだろう。
しかし、それでは制御しているとは言えない。
無駄が多い。
だから闇雲に行動していい結果を得たとしても
それは宝くじに当たったように偶然さを感じるものだ。
確かにうれしくはある。
しかし、博打であり、悪い結果が出たらあきらめる、
そして、それでは成長がない。
計画的に行動すること、生きること。
これが良き生き方になる。
これはすなわち、未来を見ていることになる。
未来の自分、
これは自分であるが、自分じゃない。
まだ来ず自分。
それは自分以外の者。
未来、
それは時を重ねるほどに、
加速度的に
予測不可能な現象。
だから、遠い未来の自分のことを思い、それを元に行動していることは
利他的行為と言える。
こじつけのようにも思えるが、これを考えていく。
未来を夢見ること。
それは希望だ。そうありたい、そうなって欲しい、という。
これはどういうことなのだ?
明日は生きていないかも知れないのに。
一瞬先は闇なのに。
100パーセントの予測は不可能だ。
近未来になるほど限りなく確率は高くはなっても100にはならない。
その本来予測でしかあり得ないことを
望む、とはどういうことなのか。
望むとは実体が無いものを思いやる気持ちではないのか。
100パーセントの確率で未来に存在しているとは言い切れないということは。
これは本能についても考えなくては成らない。
どこで、本能と理性の線引きをするか、だ。
線引きをすることは難しい。
その境界は曖昧だ。
言えるのは、近未来なら本能的。
遠い未来なら、理性的と。
だ、だめだ。
思考が少し止まった。
だいたいにおいて何故その願望を持つのか。
無限の志向があるというのに。
どうして、それを一つ取り出したのか。
どうして、それなのか。
未来のいつの時点に視点を置くかはそれぞれあるが、
その時点は必ず来る。
思い通りに来るか、来ないかは分からないが。
死んでいるかも知れないが、時だけは必ず来る。
何故必ず来るか。そういえるか。
今までそうだった。明日存在していないかも知れないとは
思っててはいても
実際は朝はやってきた。いままで例外なく。
信じていることは起きる。
何故朝が来たか。
朝が来ないとは信じ切れないからだろう。
明日は来る、と信じている。
何故か。どうしてそう信じていると言えるのか。
悩んでいること、夢を思い描くこと。そういう行為が
それを証明している。
確かに明日は来ると信じていながら、急逝する者もいるだろう。
そこが問題だ。
だから、私が急死したとしても、明日は必ず来る。
信じていることは、在る、来る。
将来の夢。
どんなのを思い描くだろうか。
十年後に全面核戦争を夢見るものはいるだろうか。
破滅を夢見るものはいるだろう。
しかし、それも夢だ。
将来のことを夢見ることについては同じだ。
本当の意味での破滅、消滅を希望していると言えるのだろうか。
個人レベルの破滅なら、何も将来に視点を持ってこずとも
直ちに行うだろう。
破滅的な行為、それは直ちに出来る。
いつでも、死ねる。
生きることが難しい。
戦争などの破滅を夢見るということは、
新たな展開を欲している、変形だろう。
肯定的、否定的にみえる思想も
どちらも夢だ。希望だ。
それは本来、どちらも肯定的な欲求なのだ。
夢を見ること、それは肯定的なものだ。
なぜなら、それは未だ来ずことを思いめぐらすことだからだ。
本当の意味での否定を思うなら、直ちに死ぬ。実行は簡単だ。
そういう意味で夢というものは内容の違いは千差万別だが
全部、肯定的なものだ。
そして、その視点の時点が遠い未来ほど利他的思想だ。
自分の子孫の代まで先を考えるものだっている。
自分が生きていないとしても。
極端では、地球の将来まで案ずるものだってどこかにいるだろう。多分。
そして、私はどこから、私で、どこまでが私なのか。
いわゆる死したときまでと言っていいのか。
悪いとは言えない。しかし、別の考え方は出来ないか。
私はぼけてしまっても私は私なのか。
植物人間になっても私は私なのか。
線引きは難しい。
私とは流動的なものか。刻一刻と変化するものか。
ならば、本当の私はどこにいるのだ。
未来の私も私と言えるのか。限りないほどの選択肢があるというのに。
その不確定なものも私なのか。
流動的。それは定まった自分はどこにもいないことを意味する。
逆にいえば、どこにでもいる、ということだ。
私はどこにも定まっているわけではない。
どこにいても良かった。どこにでもいる。
私が私だと自覚出来るのは
私が私だと自覚できる一瞬しか、ない。
それ以外は私ではない。
過去の記憶も厳密には私ではない。
選択肢の一つ。
その状況はたった一つ。
生きていること。これは、いつも選択している、その連続。
生きている=存在しているという意味で。
知覚。それは結果、あるいは過去、を感じることだ。
思惟、それは未来を感じること。
美は不変か。
美を感じる心、これは理屈じゃない。
知れば知るほど
分からなく成っていく。
知るほどに謎は深まるばかり。
バランス。
この言葉が離れない。
このバランスが美、なのだろう。
哲学は役に立たない。
何事も役に立たせなければ、役に立たない。
役に立たせればいいのだ。
そして、それが一番先にやるべきことなんだ。
やはり、フラクタルになっているとしか思えない。
多世界?シュレーディンガー?矛盾?
大は小を兼ねる、小は大を兼ねる。
それは固定観念ではある。
しかし、それ以外に考えが及ばないなら、それは絶対なることであろう。
シュレーディンガー猫とやらの、観測者によって結果が決まる?観測されるまでは
不確定?こんなので、納得できるか?納得したら、それは固定観念だろう。
どんな小さな要素でも、どんな大きな要素でも
質は同じなんだ。
複雑さも持ち、簡単さも併せ持っているものなんだ。
自分の発した声をそのままの音として聞いていない。
録音すれば本当の声音を確認できる。
なんか、日常的なこともどれが本当なのか。
私の声を聞いたあなたらが本当の音を聞いたのか。
それともやはり、私が本当の本当の音を聞いたのか。
俺はまだ気付いていないことに気付いた!無気の気。ムキムキ
録音した自分の声に違和感を憶えるのは、すなわち、私は
普段は偽の感じ方をしているんだ。
私は本当の音を発することが出来るが、
本当の音をそのままの音で感じることは出来ない。
シュレーディンガーの猫のようだ。
おお!久しぶり。
どんな意味だ?
ものが伝わるには 疎、と密な部分が必要だ。
伝わると言うことはこの世の中に厳然としてある。
人は、他人とは違ったことを欲する。それが競争、優越感、そして、個性になる。
しかし、一方、規範に従っていくことも欲する。それが協調、ルール、人間性になる。
この、個性、至る所にある。
そして、個性の塊、これも至る所にある。
本当、嘘、
どちらも本当だ。嘘も本当の内に含まれる。
それしかない。知るということはそういうことだ。
信、不信、
どちらも信だ。
それしかない。信じているから感じている。
しかしこの不信。
不信ということを信じてはいても、目の当たりにされることもあるだろう。
非科学的なことに直面したとき、いったいどうするのか。
それでも否定するのか。不信でいられるか。
私たちには見たくもないことを否応なしに見せつけられる力が働いている。
受け止めざるを得ない現実もある。
いくら、意志が固くとも厳然とあるものに疑念をもてない。
このように私たちは外部に働きかけている、反面、
受け入れざるを得ないという状況。
シーソーゲーム。
私たちは中間の立場に立つことは出来ないのだ。
これが真実を知れない要因だ。
中間、それは全体像。
知ること、これは働きかけでもあるし、受け入れでもある。
同時は無理?
私は個体でありながら、全体としての要素は持っている。
体が全体だ。私にとって。いや、私の体にとって。
個体、全体。どこかで線引きしないと成立しない。
難しい。
美。それは質、といっておく。
美が根元。
まえもって、根元は一つとは限らない。
呼び方によっていくつにもなるだろう。人によって。
美意識がなかったら私らの現状はないだろう。
混雑、混乱、破壊、それらを極めるだろう。宇宙というものもあったろうか。
というか、現に美意識が私たちの生活上の規範じゃないか。
あなたの美学は何ですか?
乱雑さを求めるものなどいるのだろうか。
見た目に置いても、精神に置いても。
見た目の乱雑さを求めていたとしてもそれが美学になっていないか。
しかし、その行為はいずれ崩壊する、淘汰されていくものだ。
誰もいないのか。
淡い、濃い、どこから区別するか。
濃い、疲れる。
物事はっきり見えると疲れる。
はっきりしているのを見続けると疲れる。
視覚的に言えることだ。
だめだ、考えれない。はあ。
やり遂げる、
これが私の美学。
放り出すことはいつでも出来る。
人間は装飾する動物だ。
装飾が人類から消えたことは無かった。
どこから、人類なのかという問いは残るが。
装飾、それは本来の機能には必要のない
無駄なもの。
崩壊、本当の意味で崩壊なんぞしていると言えるのか。
崩壊、再生これがループしていると言えるのか。
実は新しい形になっている。崩壊とは新しい形。
崩壊というものがあるのだったら、崩壊し続けることになる。
再生についても同じ。
どちらも新しい。
物事はニュートラルでニューだ。
時間は逆行しても良い。
一向に構わない。
問題なし。
しかし、それを感じることは出来ない。
同じ道を同じ行程で戻ることは出来たとしても
それがそうなっているのか、どうかなんて知り得ない。
知ること、これは常に新しい。
美とはいわゆる秩序だから。
個体でいられるのはすなわち秩序の結晶である、美である。
系内部ではエントロピイは増加しているなどとはいうものの
行為の目的自体は整然さを求めるものだ。
例えば家の中を掃除する行為とか。熱力学的な面では増加しているかも知れない。
しかし、目指す行為は、美だ。
そして、本当にエントロピイとやらが増加し続けているのだろうか。
系内部、外部といっている時点で何か偏見が在るように感じる。
何を持って整然とするか、混沌とするかはそれぞれだろう。
しかし、整然とはあるパターンに則ること、すなわち、理解可能になること。
混沌は理解不能の型。
としておこう。
知ること、それは型にはめなければならない。
そうしないと流れていくだけ。
そして、知ることを積み重ねていく私たち。
それは美の型を積み重ねることと同じ。
時間の逆行はあったとしても知れない。蓄積しかしていかない。
ところで、赤ん坊の頃の記憶は忘れたのか、消去されたのか。
それは思い出せなくなっただけ。
ひょんなことでおもいだすこともある。
しかし、そもそも記憶とは認識することが前提だろう。
認識できなかったことは記憶にならない、流れていく。
dat落ちってどうなったらそうなるんだ?
やだな、dat落ち。
光の運動。
何かを求めている、と見えないか?
音もそうだ。
小さな隙間を探し回っている。音漏れするのは隙間があるからだ。
なぜ動いているのか。
なぜ動くのか。
動いているから、ただそれを受け入れるだけなのか。
悪いことはない、それ以上の追求はナンセンスなのか。
そこに理由はないのか。
理由はあとからとってつけるものなのか。
卵がさきでも鶏がさきでもどっちでもいい。
しかし、根本的に何故そうなったのかは分からない。
理由がさきでもあとでもいい。
しかし、肝心な理由そのものは無くてはならない。
動くこと、そこには理由がある。
現に何も理由がないことをわざわざしない。
理由がない、これは主観が無いこと。
生きている以上主観がある。理由がある。なんでも、個体ならば、ある。
651 :
考える名無しさん:05/02/11 18:02:15
datアゲ
誰かは知らんがありがとう。
俺は一点を見つめることは出来ないことを気付いた。
点を書いて見つめてみた。
しかし、点は点じゃなかった。いびつな形だ。
点を書いていなかった。それもあるだろう。
しかし、点も点として見れない。
一点を見れない。
つまりは、全体を見ている。
いや。全体の一部。
ああ!
俺らが見ているものは光の小さな粒の集まりだ。
それは一点だ。
それらの集合を見ているんだ。一点だけというのを見ることが出来ないんだ。
じゃ、全体は見れるのか。
ああ!
俺は空間に存在しているじゃないか。
体を持って。
体には神経が四方八方にあるじゃないか。
神経は一つ一つが 目 じゃないか。
一つ一つが目であり、耳であり、口であり、、、そうすると。
私には放射状に情報が集結しているじゃないか。
私は放射状に情報を発散しているじゃないか。
私は神経を介して、全ての方向を一点に収束しているんだ。
また、私は音(声、など)、光、(肌の色など) 臭い、見えざる影響(圧迫感、
イメージなど)を四方八方に発している。
私は1点であり、
全体
であったのか。
考え方に偏りが出てきた。
求めることは罪であり、罰が下る。
本当のことを求めれば求めるほどに
日常はつまらなくなってくる。
日常に本当に大事なものを見つけられないからだ。
全てが色あせてくる。
何も考えず、あるがままに生きた方が幸せなのかも知れない。
子供のように。
観測出来ることだけが真理か。
誰が観測するんだ。
外部にある現象だけを信じるのか。
ま、待てよ。
外部にある現象は普遍じゃないか。
普遍なんだが、とらえ方が違うだけじゃないか。
今起こっていることは現実であり、誰にとっても、何にとっても
普遍じゃないか。
もの、は絶対ではないか。
違うのは心であったか。
ま、待てよ。
心ってなんだ。
今考えている俺、それが心だ。
それは何から作られている。
ものから、作られている。
ものには心という性質を内包している。
だから、俺は俺でいられる。
喩え微小なものでも性質はある。
じゃなきゃ俺がいない。
大きなものほど大きな心があるか。
いや、そうじゃない。
心には大きさはない。一つとか、二つとか、数量。
俺にも一つ。
ここにまた、フラクタル性が出てくる。
どうなっちまうんだ。
心はどこにでも、一個ずつある。
小さいとこにも、大きなとこにも。
ど、どこにでも、一個?げげ。
俺は物であることは間違いない。
しかし、誰が物を認識するんだ。
ものは心であったか。
心はものであったか。
だーれも書き込まない。
寂しいなあ。
つながりって大事かな。
何だろう、つながり。
何にも繋がっていないのに。
何が繋がっているというんだ。
もの的には繋がっているものが何も無いんだったら、
残るは一つ。ああ。在り来たりか。心理的な部分。
ネットワーク。とてつもなくひろーいつながり。
しかし、結合力は微小だ。
俺とあんたらもものすごく弱いつながり。
電波のつながりは弱い。そして広い。
強いつながり、それは、身近な人たち。それは、狭い。(俺
広く浅く、か
狭く深く、か、
どちらか。
なんつーか、そんな見方をいろんな面でしているように思う。
知識、人生、技術、人間関係、視野、
広く、深くはしていないんだ。
これが一点を見れない、あるいは全体を見れない。のに繋がる。
つまり、極限に一点から、最大の全体の 中を
右往左往している。
遠くを見れば周辺は排除される、し、
近くを見ればこれまた周りは排除される。望遠鏡、顕微鏡、だね。
つながりとは何だ。
見えない力の結合。
意志、利得、組織、血縁、
結局なんだ。?
前後したが、私らは平等。平等でないと思うのは優劣を付けただけ。
広く深くは出来ない。濃く広くは出来ないんだ。
つながる力の種類は無数にあるのか。
そして、
乖離する力もまた無数にあるんだな。
バランスが成り立っている。
つながり、
言葉もつながりがある。連想されるもの。
何かの意味を求めていくと際限ない。
それは
繋がっているから。
乖離しているもの。
これまた、言葉が当てはまる。
言葉の一つ一つは繋がっているものの内の、単離した部分。
単語は部分だ。
つながり、って不思議だよな。
そこに端は、ない。
ま、待てよ。
俺が俺であるネットワークはどうなってる。
本来何にも繋がっていないものどうしがどうして、俺を形作っているんだ。
誰の意志だ。どこの力だ。何で俺はこうやって考えることが出来るんだ。
ぐわっ。
や、やっぱりだ。
俺は脳みそ、肉体の数々の微量な力の結集だ。
そいつらの結合の力が総じて俺になっている。
結集が俺、一つの意識を作っている。
ふ、フラクタルだ。
そう考えると、俺ら(人類)もいろんなものを形として、あるいは無形のもの
を作ってきたではないか。
ガイア仮説。あってるかもな。
でも、検証はできないな。
あなたが私を知れないように。
知らず知らずのうちに階層が上のものを作っている。
小さな者達が俺を作った。
俺はそいつらからしたら大きなもの。俺はそいつらをいたわるべきだ。
そして、俺は知らぬがままに、あなた達と共に巨大なものを形成している。
俺は小さな者達が俺を作ってくれているのと同じように、
その巨大なものをいたわるべきだ。
それが、自己愛、他人愛(?)っていうのかな。
とりあえず、愛、だ。
これは愛という名の下に破壊行為もあるだろう。
現に体内ではTK細胞?とやら、いろんな防衛、そして破壊、がある。
ウイルスと戦うのは愛の行為なんだ。
存続のための。
私が私であるための。
生きている以上、その愛の行為から成り立っている。
私がいるのは、そのためだ。
愛、というとなんか恥ずかしいな。
私が生きている以上、私自身そういった行為を知らぬままにしているんだろう。
だから、生きている。
何をしているだろう。
私は幾ばくかのお金を使うじゃないか。
いや、無償でもいいさ。洗濯させるのでもいいさ。
生きている以上、何かしらの仕事を生み出す。
そういう、一見気付かないことが家庭、社会などを創り出す。
巨大なものってそういうものだったか。
戦うのだ。うち勝つのだ。愛の名の下に。
ウイルスキラーになるんだ。
そうしないと、共倒れになる。
だから、紛争が絶えない。
小競り合いが続く。
生きている以上。
しかし、もっと視野を広げるといいんだ。
広く浅く。
そうすると、近くでは紛争は起きない。
生きているだけで、存在しているだけで
仕事を生み出すことは述べた。
仕事自体に主観はない。
それ自体にプラスマイナスはない。
価値観はない。
しかし、価値観は仕事がない限り生まれ得ない。
仕事が価値観を生んだ。
仕事を無くしていったらどうなるか、を考えてみる。
私たちは死しても最後には仕事を人に残すのが大半だ。
葬式、火葬、法事。
人に残すだけじゃない。
灰と化した後も仕事を残す
いつまでも。
なぜそんなことを言えるかって?
俺が今存在しているからだ。
それが固定観念か?
固定観念だろうが、そうじゃなかろうが、
そんなものは
どっちも同じ。
分けただけ。
それが思いこみか、そうじゃないのか、
なんて
どうでもいいことだ。
全てを思いこみと思うがいい。
全てを事実と思うがいい。
とにかく、存在している以上、
何かに
迷惑を掛けるものだ。
迷惑と言ったが、
影響だな。
仕事だな。
忘れていた。
存在が消滅してしまったら。
それが可能で、実現したら。
仕事が無くなる。
無駄なことも
有益なことも。
あなたは一人では生きていけない。
もちろん俺も。
生きているのは
自分以外のもののおかげだ。
そして、消滅があり得るなら、
もう既に存在していない。
例外を定めないなら。
例外などない。
仕事が無くなったら、存在し得なくなる。
一人じゃ生きていけないからだ。
単独では存在できないからだ。
一つのものでも
消滅するのなら、
全体としてはどうなるんだろう。
ここらは、分からんな。
でも、例え微小なものでも滅することができるなら、
全体はそれに伴い滅してしまう。ような気がする。
ここで仕事だ。
仕事は悠久に続く。
例え微小なものでも仕事を与える。
仕事が無くなれば連鎖的に無くなるものだ。
例えそれが微小でも。連鎖して消滅する。
微小なものではイメージがわかない。
例えば自分がたった今跡形もなく消滅してしまったら。
物質性も、何もかも。
まあ、そこに空間とやらが出てくるな。
無くなればそこを補うために何かが補完される。
無いものを見ることが出来ない。
盲点のように。
俺がいなくなってもそこは無じゃなく、
何かを補完するはずだ。
俺がいなくなっても
あなた(私以外)がいる限り無とはなり得ない。
私の代替を補充するだろう。
補充するってどういうことだ。
全体にとっては
わたし、個は
いくらでも代わりがいるっつーこった。
本当の意味で消滅したなら、
それは
見ること、知ることが出来ない 所であり、
私たちの目にはすることが出来ない。
もちろん、心の中でさえ。
それは記憶の中にすら無いと言うこと。
記憶があると言うことは
消滅していない証拠だ。
何も消滅していない。
記憶がある限り。
記憶も連鎖しているものだ。
単独ではない。
盲点の補充。
これが気に掛かる。
ちょっと待ってくれ。
その補充。
何を補充しているんだ。
周囲の色をそこに当てている。
そこに本来の色は無かった。
結局、
どこもかしこも補充している部分なのか?
今日はだめっぽい。
俺のいいたいこと分かってくれる人いるのかな。
何か言ってくれ。
精神力を付けなければならない。
たとえ一人になっても
動じないような。
それが強靱な精神だ。
それを獲得するなら、
何もいらない。
自分以外の者は不要だ。
その精神は難しい。
私が私であるのを認識しているのは
私を為している肉塊の集合だからだ。
しかし、そうではあっても、
私は私という、一つだ。
私は肉塊の気持ちは知らない。
依存する心。
それが私が私という、たった一つのものとして
認識できない理由だ。
わたしが私以外の者に依存しないならば
私以外の者は私にとっては存在しないものとなり
結果、私、一つになる。
そんなことが出来るのか。
私は物である。
しかし、心でもある。
心は無形だ。
無形のものに一つも二つも、無い。
数がない。
そこに数を当てはめることが、えっ?って感じだ。
形なきものに数はなし。
一つであってもいいし、
無限数でもいい。
どうだっていいんだ。
エネルギーって何だろう。
俺は生きているだけでエネルギーを浪費しているんだろうか。
地球環境。これを悪化させるのは私なのだろうか。
私はいないほうがいいんだろうか。
生きているだけで環境破壊になるんだろうか。
省エネってなんだろう。
エネルギー、エクセルギー、エントロピー、
少しづつ、学んでいこうではないか。
これを分かると何故生きているのか、
どう生きたらいいのか、が分かるような気がする。
無駄なものって本来無いようだ。
なのに何故省エネだとか言うんだろうか。
それはパランスが崩れてきているからなんだ。
とどのつまり、人口が増えたからなんだ。
この世は入れ子構造になっている。
生物、環境、社会、何でも。
その系をはっきりと区別するのは難しいが、
人類がいる系が人口増によりはち切れそうになっている。
エントロピーを膨大に排出しているわけだ。
エクセルギーを膨大に消費しているわけだ。
入れ子構造になっているから、他の系にも影響を与えるんだ。
だから、私たちが私たちの系を維持するために、他の系にも影響を少なく
しなければならない。
私たちは私たちの系で現状を維持するためには(人口を)、
無駄なことを省いていかなければならない。
私たちは省エネしなければ現状は維持できない。
技術を向上させるしかない。
知恵を働かせるしかない。
動けば動くほどエクセルギーを消費する。
我らは増えすぎてしまった。
資源を、エクセルギーを使いすぎてしまった。
取り返しは付かない。
生活レベルを一気に昔に逆戻りさせることは出来ない。
私たちが増殖してきたのは科学の発展、つまり、資源の消費から
成り立っている。
効率化させなければならない。
なんで人間は冬眠しないのかな。
正しいことだけを選ぶこと。
正しいことだけを求めること。
これだけは忘れちゃならない。
結果的に正しいことを選んでいなかったとしても
それでいいんだ。
要は求めるという行為だ。
それは正しい。
だから、私が私を見失ったとしても、
あなたがあなたを見失ったとしても、
そのことだけは忘れないと決めてくれ。
そういうふうにして、無駄が省かれていく。
残るは真正のものだけだ。
人生は真正のものに至る道なのだ。
私たちの記憶も容量があるようだ。
記憶とは思い出せるということをいう。
忘れてしまって思い出せないことは無くなったとは言えない。
そして、思い出せないことは記憶ではない。
記憶に正しいことだけを残すのじゃ。
それを目指すのじゃ。
それが正しい道なんじゃ。
エアコンとか、暖房でも、
植物の光合成とか、
何か目的を達成するためのシステムでは
95%くらいは消費、つまりエントロピーを排出するらしい。
5%くらいが結果として残るものらしい。95%は無駄とも言える。
私たちもそうなってないか。
どんどん情報は入っては来るが
どんどん忘れ去る。
脳みそも数%くらいしか活用していないようだ。
人類の系が破綻しても
一向に構わないだろう。
私たちがエントロピーを排出しても、それは他の系のエクセルギーになる
だけだ。
いつの時も釣り合うようになっている。
だから結局無駄なところは何もないんだ。
しかし。
当の私自身はどうなんだ。
私はそれで納得できるか。
私という系では95%は無駄じゃないか。
思い出せないじゃないか。
無意識の領域じゃないか。
目的のために95%は無駄になったじゃないか。
目的はなんだ。
その目的すら、無駄にしてはならない。
こんなことも考えた。
例えば、私が友人の家に電話を掛けたとする。そして、友人の母親が出た。
そして、取り次いだ。
母親はいらない。無駄だ。そのアクションは私にとっても、友人にとっても
母親にとっても無駄だ。
そういったことを解消するために携帯電話を使う。
直通する。
電話は技術だ。
そして、行為自体も技術だ。
もっともっと、改良されていくだろう。
電話すら使わないように、いずれはなるだろう。
私たちは目的をなるべく早く達成しようとするものだ。
何故かって、それはいつ死んでしまうか分からないから。
人類は地球にとって害虫なのか。
むしろいない方がいいのか。
飛躍してそう考えてしまうことがある。
しかし、全くの無影響で地球上から消え去ることは出来ない。
例え宇宙空間へ瞬間的に移動したとしても。
少なからず人間に養護されている動物、植物はいる。
そいつらの系では破綻するだろう。
ペットは野生では生きていけない。
それ以外にも私たちから出るエントロピーが急激に無くなることは
ひずみをもたらす。
そして、究極的に自分は、個人の滅亡はどうなんだ。
私が死ぬとどうなるんだ。
同じことだ。
私が死すとは、私の肉体の中の微生物(ペット)が死すことと同じだ。
全てのものは、必要とされて、存在している。
私が生きているのは私の肉体が必要としているからだ。
これだけは紛れもないことだ。
このように全ては求められた結果の具現だ。
だからこそ、全てには価値が存在するんだ。
誰でもいいから
私に返事を。
恐怖という心理も消費のためにある。
本来の目的ではないが使われている。
無鉄砲にならないために。
崖から落ちないのは恐怖心があるからだ。
生産には必ず消費が伴う。
私が生きて存在しているのは
私の肉体の目的の結果だろう。
だから私は自然と腹が減る。
私の目的は生きるという、それ自体なのか。
いや、そうじゃない。
それは肉体の目的だ。
なぜなら、私はたまに死にたいと思うことがあるからだ。
そして、だまっていてもまず、死ぬことはないだろう。
私から見ればそれは自動的に行われている。
何を目的としているのかな。
エクセルギーは拡散する能力という。
エントロピーはその行程で生成される。
エクセルギーの浪費を防ぐことが省エネ。
そしてそれが効率化。
すなわち、拡散しないことが一番の省エネ。高効率。
分裂しているのは効率悪いんだよね。
期間を定めよ。
UP↑
核分裂より核融合の方がエネルギーは強いね
核融合、魅力的なようだね。
でも、
でもやっぱり、期間なんだ。
期間を決めることが非常に大事だ。
いや、これを決めないと進まない。
核融合プラント、何年で採算取れるんだ?ま、出来たとして。
イニシャルコストはどれくらいなんだ?
初期投資を掛けるほど、長持ちするものを作ったりすることは出来る。
耐久性において5千万掛けた構造物と、1千万ではあきらかに5千万のほうが
長持ちするだろう。それは長期で見ると省エネになる。
しかし、短期では無駄になる。
10年もてばいいのに20年の耐用年数のものを作ってもただの無駄なんだ。
何年で元を取ろうとするのか。これを決めないと、
なんにも決めちゃいけない。
核融合プラントも。バイオマス、生ゴミ処理機、リサイクル。
確かに最終的には初期投資を回収するだろう。
しかし、それは私らが死んだ後か?生きている内か?老後か?
そうなると、期間はある程度定まってくるし、
現実的な方法はどれなのか、ということも見えてくる、と思う。
結局、人工のものはどれも、即効性がなさそうに見える。
工夫すればするほど、構造が複雑になり、規模も大きくなり、
資源も使う。そして、複雑な物ほど壊れやすい。
期間の設定だが、みなさん何年に設定するか。
そうだな、パソコン。パソコン何年持てばいいと思うか。そしてそれだったら
いくらだったら出すか。
高い物ほど長く使える、とする。
安いほど寿命が短い。とする。
パソコンを例にしたが
私たちはこうして、どちらが得かを選択する。
そしてみなさんは何年後を視野に入れるか。
この地球の現状が何年維持できたら万歳とするか。
それによって、初期投資が決まるのだ。
100年と設定するなら、
せめて100年で回収できるようにしなければならない。
100年分以上の資源を初期に使ってしまうと駄目になる。
頭おかしくなってきた。
まさか、千年で元を取ろうとか思う奴はいまい。いるかな?
俺の場合、せいぜい孫の代まで。
つまり、俺の知っている子孫が生きている間、くらい。
200年くらいかな。
それくらいは、地球、現状維持して欲しい。
その先はどうなっても構わない。できれば人類もいて欲しいとは思うが、
どっちでもいい。みんな同じようなもんじゃないの?
あまりに遠い将来なんてどうなったっていい、そう思わないか?
せめて子供の代までは滅びないで欲しい。とか
子供は長生きして欲しい、とか。
これは結局、遺伝子が絡んでいるんだ。
1世代は1/2、は私を受け継いでいる。2世代目は1/4と。。
世代を重ねるほど
私の遺伝子は薄まる。
だから、何世代も後の子孫はどうだって良くなる。
私の場合、せいぜい200年。しかもそれは現在でのこと。年を取るほど
短くなる。
遠い将来を考えることは利他的なんだ。
遠ければ遠いほど利他に近くなる。
しかし、完全に利他、客観視は出来ない。
なぜなら、何年たっても、いつまでも私は消えないからだ。
薄まるだけだ。
私の頭じゃ高効率なシステムは考えられない。
みんなそうじゃないの?
いくら燃費のいい車が出来たって、
製造コスト、開発費、
悪あがきじゃないの?
言ってしまう。
生物の力を借りるしか、無い、んじゃない?
今こそ、我らはミミズの力を借りなければならない。
いや、ミミズは例だけど。
彼ら(人以外)こそ我らのエントロピーを消費してくれる唯一の
存在なのではないのか?
私たちはエクセルギーを大量に消費し、エントロピーを大量に生成した。
私の体も最終的にエントロピーを生成する。土に還る。
せめて。
せめて、彼らに消費されやすいような形でエントロピーを排出するしか
ないじゃないか。
俺かなり間違ってるかな。
分かんない。
なぜ車に植物由来の燃料をつかわんのだろう。
化石燃料はだめだ。
電気もだめだ。
原子力もだめだ。
利権が絡んでいるのか。
損益があるのか。
俺よりもずっと頭の良いものどもが政治を動かしているんだろう?
分かっているはずだ。どれが得かを。
いい加減、金や権力を先立たせることは辞めなければならない。
戦争なぞで利益を上げようとするのがいかに間抜けかを全員が知らなければ。
だから、みんなに何年この人類が続けばいいと思っているか聞きたいんだ。
政府は何年先を視野に入れているのか。
200年もつかなあ。このままじゃ無理っぽいな。
あっ。忘れていた。
いくら長生きしたっておもしろくなければどうしようもないんだった。
難しいな。今を取るか、先を取るか。
ここに私の固定観念がある。
だから、治す。こうだ。
幸せになるのに、何かを犠牲にする必然性はない。
両方を勝ち取ることだって出来なくはない。
幸せは努力してこそ得られるものではない。
努力せずに得られることもあるだろう。
だから言いたいことはこうだった。
自己の保身の損得勘定は損なんだって。
自己の利益のために他人が損することはないだろう。
みんな、幸せになったらいいじゃないの。
それがええ。
どっちも取る、全部取る、それがいい。
ああ、分からない。
何を考えていいか分からない。
考える必要など無いのに。
何がいい結果をもたらすかなんて分かんない。
何をいい結果と思うかも分からない。
カオスだから。
850まで書き込みたい。
何でそう思うんだろう。
きりがいいから。
それが俺の美学。
どうでもいいことをつなげる。
期待。
それが俺を目標に向かわせる。
それが快感をもたらすんじゃなかろうか、という期待。
生きているって、何かしらの期待を持っているんだな。
多かれ少なかれ、
種類は違えど。
期待を持っていないもの、いるのかな。
それは生ける屍。
俺昔、先生に生ける屍と言われた。
ほんと、先生は先生になった後も毎年受験して貰いたいくらいだ。
人間性のテストを。
850 :
考える名無しさん:05/02/17 22:12:27
散逸構造を考えていく。
これは興味深い。
>>844 お見事。
850ジャストで一旦アゲて締めるところがオサレだね^^
850
ここでアゲたのは意図してやったわけじゃない。
間違いだった。
851、
なんか語ろうぜ。
あんた、嫌いじゃないよ、どちらかと言えば好きなんだ、
でも、なんでなんだろうかねー、
なんか、誰も書き込まないよね、このスレ、
あんた以外でここ最近書き込んでいるのは俺だけだね。
物事公平に見ることってすごく難しい。
まあ、隙が無いから、と言えばそうとも取れるが、
そうでもなさそうな所も有るし、
と言いながら書き込む隙を見つけ難かった俺でもある訳だが・・・
あっ。
あんたか。
何回か書き込んだの。
興味がないことは人間しないんだろうな。
哲学するもの、
というか、哲学板の人たち、
どれほど、哲学したいんだろうか。
向上心があるものがどれほどいるだろうか。
他のスレッドみているとそう思ってしまった。
まあ、あんたの場合、誰かの返答を求めているから書き込んでいる
と言うスタンスでは無く、自分の思うがままに書いている感じだからな、
そういう意味では、誰からも返答が無くても平気な訳だ、
哲学するもの、
言い換えるとものすごく欲深い者なのだろう。
それは不満足から来る。
そうかもな
858
いや、俺は結構人目は気になる方だ。と思っている。
自分勝手に。
思考は都合の良いように為されてしまうんだな。
あんたもそうだろ?
個体は自己中心なんだ。
例えば犬を飼っている。
その犬は私だけになついている、私だけに依存している。他の人には
敵意すら出す。
逆、その犬は私だけじゃなくみんなに平等になつく。
あんたはどっちを愛らしく思うか。飼い犬として。
愛は分散するものと思う。
いや、なんでもそうなんだろう。
相対するものは無い。
拡散、凝縮。
希薄、濃密。
強、弱。
高圧力、低圧力。
高い、低い。
>>861 俺は人目は気になるよー
そこに居る全員と間接的に関わってくるだろう全員、
そして、それは、すべてに関わってくるので、全宇宙への影響まで・・・
まあ、折れ自身は意識して考えてないが、
たぶん無意識がそこまでで考えているんだろう、なーんてな。
だから、悪は、善の少ない状態と言える。
憎しみや怒りは愛の少ない状態と言える。
醜さは美が少ないこと。
こう考えると。
何かが残ってきそうな気がする。
>>864 無意識か。
顕在意識が無意識を作ったとは言えないのだろうか。
無意識に操られている?この方向性しかない、不可逆なのか。
>>862 俺は変人なのかも知れないが、
私だけじゃなくみんなに平等になつく犬の方が好きだったりするかも知れない。
もっと言うと、誰にも平等に距離を置く猫の方が好きだったりするかもな。
そういう物事公平に見ている奴と腹を割って話が出来てこそ価値がある、
物事公平に見ている奴は、同様に物事公平に見る事が出来る奴にしか腹を割って話が出来ないだろう。
俺はそんな事を思う。
ひらめきはリラックスしているときに多い。
それは無意識の領域から来ているようにも思う。
考えても考えても答えが出ないことはある。
ふと、そこの思考から離れるとふっと思いつくことがある。
しかし、完全に無意識でもない。
そして、意識的にリラックスすることも訓練で可能だ。
そ、それは?
>>862 もう一度、
犬を息子、娘に置き換えてみてくれ。
どうだ?
それでもあなたは八方美人を好きか?
869に追加。
娘、息子はあなたを他の者どもと同じく、平等に見ているとする。
あなたが特別視されていないとする。
>>866 産まれたてホヤホヤの赤ん坊は、何も情報をもっていない、
だけど何もしないで止まっている訳ではない。
何かが動かしているんじゃねぇーの。
つまり、娘息子にとってはあなたは他人同然とする。
それでもあなたは?
>>871 情報ですか。DNAは、どうか。
そして、私はいきなり私として意識を持った訳じゃなく、
少なからず、持っていた。と考えては。
全くの無から有が生じるとは考えづらい。
むしろ、限りなく少なくはあったと考えた方が俺には自然だ。
>>869>>870 やっぱ、俺は変人なんだろうて、
俺は俺を俺以下に見られるのも嫌だが、
俺を俺以上に見られるのはもっと嫌なんだ、
出来れば俺を俺のあるがままに見て欲しいのさ。
>>873 なんか、わかりにくいね。
つまりこういうことなのかな〜
私はこの世的に生まれる前から、元々生きていたってことか?
>>874 あなたは子供いる?
あなたが本当に自分以外を公平に見れるなら、すげ。子はそだてれんだろう。
家は孤児であふれるかも。
愛を平等に分け与えられるということだ。誰もを平等視出来るんだから。
でも、人間に限られるのかな。
>>875 生きている、とても不思議だ。しかし、自然だ。
自然とはどういうことだろうな。
ことの成り行きとしての自然、とは。
どのようなことが自然と思うね?
>>876 結婚してないし子供も居ない。
その下に書かれた事柄は、どうだろう、
俺はそんなことを言ってる事になるのかなー
そんなこと考えもしないよ、俺はたぶん自然に振舞ってるだけだろうて。
何をもって生きているとするか、だ。
定義は自由。
意識があるとき、もよし。
肉体として形があるとき、もよし。
どちらも、もよし。
どう定義するか?
>>877 自然とは、簡単に言うと、
やりたいことをやりたいようにやりたいだけ振舞うこと。
とこんなことを書くとたいていの人は、
本能のまま振舞えということかと言われるんだろうけど、
そうであるとも言えるし、そうでないとも言えそうだ。
人間、好きなことしかしないものだ。
興味が全くないことはしない。
全く、好きじゃない、全く、嫌、とか本当にそうならしない。
いやいやする、これはすこーしばかりの好きさがある。
まあ、やってもいいか、と。だから、する。
だから、生きている以上、何か自分のためになることをやっている。
そして、物事、差別化して、排除するもの、得るものを区別しないと
行動自体が成り立たない。全てをやることは無理だろう。
あなたも瞬瞬選択しているはず。
優劣付けてる。
自然とおもうことはどんなことか。
受け入れたこと、常識。
不自然さはしっくり来ないことでしょう?
それは、拒否。
そして、不自然さは見慣れないものを見たときに思わないか?
言ってみる。
この世は何もかも自然だ。
それが、不自然と思おうが自然だ。
不自然は、自然さが少しということだ。
私が見ている物事、全てが自然だ。
いや、そう感じるように出来てる。
本当の不自然は脳が拒否する。
支離滅裂になってきた。
でもさ、無いことを無いなんて言えないよね。
無いと思っていることは実感として感じられないこと。
死もそうじゃないか?
>>882 >あなたも瞬瞬選択しているはず。
そうだね、それはたぶん無意識が勝手にやっている、
そして、それが自然なんじゃねーの。
時を重ねる毎に、無い、物事が、発見される。
科学、の発見は新聞にも載る。
いや、発見って言ったら、何もかも、発見だ。
>>885 ちょっと、気付いた。
無意識と顕在意識の狭間はどこだ。
もうろうとしているときは。
夢を見ているときは。
夢は顕在意識か。憶えているときあるもんなあ。
ま、まてよ。
あなたの言いぐさは何もかも無意識に操られている、と言っているように
感じる。意識がない?と。
無意識を意識と呼んでもいいじゃないか。
違うかい?
ラジオはそのままじゃ聞こえない。認識されない。
しかし、本当に聞きたかったら、ラジオ機器で聞く。
私の耳だけで聞いたことと、
道具を使って聞いたことと、何か違いがあるだろうか。
道具を使ったこと、それは耳をすましたことと同じようなことだ。
五感を道具として、捉えてもいい。
道具の種類が違うだけだな。
ビックバン、本当だろうか、
本当だと前提にして。
やはり、拡散、収縮が世界の成り立ちのようだ。
熱、光、温度、
血縁、意識、神経、何もかも。薄いか、濃いか。
原初にゆらぎがあった。
今もあるだろう。
なんで、ビックバンで拡散したのに、
私たちは塊でいられるんだ。
力、か。
力の濃い、薄いもあるのか。
濃いところ、形あるマクロなもの。
分からんな、
薄いも、濃いも俺中心なんだ。
私が私以外、誰一人として、憶測でしかないということは
私が見ている世界は妄想と呼んでもいいし、
現実と呼んでもいい。
896 :
まあまあ851:05/02/20 00:14:41
俺はちょっと眠たくなってきたようだ、
俺以外にも、あんたの相手をして、
何かしらのインスピレーションを与えてくれる物好きが
現れるかも知れないんで、取り合えずageとくよ、
あんたにしては、どうでもいい大きなお世話かも知れないけど、
俺にしたら、ちょっと面白いかも知れないんでね、ではまた・・・
無意識、それはあなた達じゃないか?
あなた達は私の無意識(意識)が私に与えたものじゃないのか??
だから、私には知らぬこと(未来、私以外、無知のこと)が
私に起こってくる。
>>896 まあまあくん。俺も900まで。またね。
897はちょっとうまく説明できない。
何というか、俺にとっては妄想も現実も同じ、
そして、無意識も意識も俺である。
妄想は非現実、無意識、未知、私以外のこと。
現実は意識、唯一知ってる俺自身。
ああ、もっとうまく言いたいが、またあとで。
俺は必ずいる。
しかし、俺に情報を与えるのは俺以外の者が大多数だ。
俺は俺の気持ちしか知らないちっぽけなもんだ。
あなた達はどう思っているだろう。
そんな憶測の限界が俺だ。
俺があんた達を思いやることが出来れば、
俺も大きくなったと言える。
臨界現象について、後で考える。
いいね、あんたいい、
あんたいつか、いい所に辿り着けそうな気がするよ。
そして、俺も辿り着きたい、いや、自然に辿り着くだろう、
余計な事は意識しないで、
自然にしている方が辿り着けるんじゃねーかと思っているよ。
おやすみ〜
まじめに考えることは必要ではない。
しかし、有意義にさせうる。
ちゃらんぽらんもいい。
しかし、意図的、計画的に快を得るためにはまじめに考えなければならない。
どうすれば楽しくなるのか、
ということをまじめに考えなければならなくなってきた。
どうすれば生きながらえるのか、生きていけるのかという、
悩みより、どうすれば楽しい時を過ごせるのか、ということの
ほうが考える意義が大きい。
たとえ永遠の命を得たとしても
楽しくなければ全く意味無い。
楽しくないなら、永遠なる地獄だ。
完全なる快感が欲しい。
それがはたから見たら一瞬であったとしても構わない。
その時を得ることが出来たなら、もう、消えてもいい。
それは完全なる満足感から得られるだろう。
>>901 その考えも悪くない。
流れに身を任せる。そんなところか。
生きていくにはらくになるだろう。
計画的に生きていくには予測、
シミュレーションが必要になってくる。
それは前もって無駄な部分を省くことと言える。
よけいな不快感は人生に起こってくる前に排除するんだ。
だから、考えないといけないんだ。最短距離を探すために。
既視感。
これはどういうことだ。
単なる錯覚か。たまにある。
脳は無意識下で限りないほどシミュレーションをしているのでは
ないだろうか。それに合致した結果を得たとき既視感を感じる。
じゃなきゃ見た感じがするなんてオカシイ。
少なくとも我らは予測しているはずだ。
全く、予測なしに生きている者はいないだろう。
予測がなかったら、いつ死んでもおかしくない。
道路を歩いているだけで車にはねられて死んでしまうだろう。
その予測がどこまで先を予測しているのか、あなた、分かるか?
その予測の果てはあるか?
意識上に登ってこなくても予測しているかも知れない。
予測できないと思いこんでいるのかも知れない。
>>910 >脳は無意識下で限りないほどシミュレーションをしているのでは
>ないだろうか。
そう、俺はそう思っている(根拠は示せないけど)。
無意識こそ最高の思考力。それこそ最短距離。
そんな感じ。
まあまあくん。あなたはおそらくいいやつなんだろう。
なぜならば、無意識とやらを信頼しているように見えるから。
なぜそれがいいやつかって?元から悪い奴なんていなかっただろうから。
元はピュアだったんだろうから。元が無意識とやらだろうから。
まあ、あなたが無意識とやらをどう捉えているかは計り知れないが。
まったり、終了することに決めた。
上げてもいいが、まあまあくんがいたらそれでいいよ。
流れに任せる。確かに最短かもしれん。というか、最短になってたりする。
川は蛇行していかにも、遠回りしているように見えるが、実は
それが一番の近道になっていたりする。
山登りでも急峻な斜面にしても直角に目指すことがかえって疲れたり、遅く
なったりもする。
その蛇行が遅れを取るように見えるのは、つまり、直線の方が早く見えるのは
はっきり言えば、形と距離から、そう判断するからだろう。
つまり、直線だからといって早くたどり着けるとは限らないわけだ。
光は30万キロだったか、
常に不変なんだろう?波長が違っていても。
なんだ?光だけが特別、最速なのか?
もしかしたら、全てのものは皆同じ速度なのかも知れない。
あれ。微視的には皆そうなの?
分からない。
なんでマクロでは遅く見えるのか分からない。
でもマクロってホントにマクロなの?
そう見えているだけなの?
家の中にいても熱は逃げていったり、入ってきたり。
しかし、物体そのものは出入りしないじゃないか。
なぜ、熱、だけが壁を素通りするのか。
熱は振動であろう?
そしていかなる物質も振動しているんだろう?
物質は振動であろう?
A地点からD地点へ動いたとする。
それはAからDへと移ったのか。
それともA、B,C,Dと地点をずらして伝わっていったのか。
伝わるものだとしたら、私らは移動の概念を考えなおさ
なければ。
物体は波の波紋のように伝わっているのかもしれない。
空間上の部分部分が変化することによって、移動しているように見えるのか。
そう考えるなら、
私たちもまた、伝わるものなのだと考えるなら、
私は外部から伝わってきたもの、となる。
つまり、私は外部から作られたもの、となる。
そして、私は本当に私の意志で物事を決定しているのか、
分からなくなる。
複雑な振動が私を形成したのかも知れない。
動じない岩でも振動しているという。
動いていないように見えるだけだ。
なぜ振動しているのに動いていないように見えるのか。
その振動が光速だからである。
岩などは限りなく小さな空間の中で光速で振動している。
ああ。電子か。
そして、私たちは本当はどれほどの速さで動いているのか分からない。
原点を定めることが出来ない。
原点すら固定されているかどうか分からないからだ。
はっきり言って、
私たちは動いているとは言えるが、動いていないとは言えない。
そして、動いている速さは特定できない。というより、
無限の速さで動いている可能性がある。
っていうか、それは本当なのかな。
宇宙はものすごい速さで膨張しているというが、
結局、その淵の視点から地球を見るなら、地球はものすごい速さで動いている。
そうか。知らなかった。
万物はものすごい速さなんだな。
それは平等だ。
っていうことでさ。
何か目的を達成するのに早いも遅いも
近道も遠回りもあるのかな、ということになる。
脱線するが、
上には上がいる。もちろん、逆もある。
下には下がいる。
これを忘れてはならない。
川に話を戻す。
川の流れは必然性から決められた。
その流れが一番、抵抗が少ないから、その流れになった。
確率的でも何でもない。水は低いところへ流れる。
初期値の違いで予測不可能なカオスを生むという。
しかし、それは単に我らが予測不可能なんだということに過ぎない。
鍋で湯を沸かすと対流が起きるが、その対流の形は鍋の底の形状を
反映するという。
それはまさしく、今現在にあっても、原初の宇宙の影響を受け続けている
ということではないか。
私たちが原初の状態を知るのは無理なのか、それとも
難しいのか、それとも
意外にも簡単なのか。
まあ、何でも方法さえ、しくみさえ知ったら、結構後は簡単なんだけどね。
おそらくさあ、私たちは誰一人残らず、
原初を知ることが出来るし、
終わりのときを知ることが出来る。
なぜなら、私たちの原初は決定づけられたものであるからだ。
原初すら決定していないのなら、今現在は多数の世界があることになる。
多数なのかも知れないが、他の世界を知ることは出来ない。
そして、多数ということは連続性が無いと言うことであり、
とぎれとぎれであり、認識不可能となる。
私たちは無限を知ることは出来ない。
932で無限と書いてしまったが、無限に近く、だな。
無限を取り出せば何だって有りになる。
そして、今現在なんだって有りにならない所から無限じゃないと言える。
いや、無限なんて無いとしようじゃないか。
原初が決まっているなら、
川の流れのように必然として流れ方は決まる。
行き着く先も決まっているのだ。
今の私には行き先が分からないだけなのだ。
うわさは怖いよ。
伝言ゲームのようだ。
伝わるたびに真実はあらぬ方向にいく。
今現在が偽とは言えない。
変形しただけだろう。
今現在も真である。
真か、偽かなんてものは
今から見たらどうなのか、ってことに過ぎない。
原初から見たら、今は偽であろうし、
今から見たら、原初が偽となろう。
私たちから見たら、真は、今一時しかない。
そして、流動である。真がスライドしているんだ。
私たちはスライダー。
切り裂くナイフのような。
ってさ。
まあまあくん、いないのか。
どうして腹が減るんだろう。
私たちは栄養として取れるものを
うまいと感じるように出来てる。
毒はおいておいて。
テレビでよく、芋が体にいい、とか、豆がいい、とか、ワカメがいいとかいう。
そのたび、後日スーパーで売れ行きが上がったりするわけだが、
結局、何でも食えるものは栄養あるという証拠じゃないか。
なんで、岩石は栄養にならないのか、
まずいからであろうし、
質量の大きさはエネルギーの質を補えないということになる。
ものには質がある。大きさもあり、重さもある。
しかし、質が重要だ。
例えば岩を食ったってまずい。例えそれが栄養となったとしても
満足を得られるだろうか。
まずいものは食えない。腹が減っていれば食うか。いや、食わない。
本当にまずいものは食えない。だから、いくら飢えても石ころは食わない。
まずいと思っても食えるのは少しばかりのうまさがあるからだ。
だから、まずいと思っているものでも大量に食って満腹になれば
そこそこ満足する。
高級料理をほんの一口食った方が満足するかも知れない。
質は量を凌駕する。
そして、なんで私たちは絶えずエネルギー(エクセルギー)を投入しなければ
生存を続けられないのか。
便として、汗として出さなければそんなこともいらないだろうに。
腹が減るのは細胞一つ一つが満足を得るためだろう。
ホルモン物質少量で満足感が得られるのに、普段は作られないのは
それが原動力をそぐからだろう。
ハングリー精神が原動力だった。
満足していない限り、求め続けてしまうのだ。
腹が減るのと同じ。それを得るまで空腹感であり続けるのだ。
眠くなるのもそうだろう。
眠りも快感である。
眠気は快感を求めるシグナルだ。
まあ、究極の快感が無意識下にあるのかも知れないという考えであるが。
それが実感として感じられない。
だから、死は決して苦痛ではないのだ。
死も睡眠と同じことなのだ。
ただ私が死と睡眠を区別しているのは
私以外のあなた達が寝ている姿や、死体を見ることでそう思わせるだけなのだ。
私たちは本来無意識を感じることは出来ないんだ。
感じることが出来るのはその限りなく近い部分だ。
それがうつつの状態である。寝起きがつらいことは誰しも経験あるはず。
私が寝ている間のことを憶えていないのはどうしようもない事実。
寝ていたと判断したのはあなた達、(状況)を見て判断される。
私の意識からしたら時計やらがなければその間にどれほどの時が流れたのか
分からない。
それが一瞬だったのか、はたまた、長大な時間だったのかは本当のところ
分からないんだ。あなた達を見て憶測するしかないんだ。
つまり、あなた達が時間を決定づける。
あなた達がいなければ時間が分からない。
あなた達=私以外 とする。
時間は空間にある全てのものだ。
時間は概念だ。空間は概念だ。
概念は空間にある。時間は空間にある。
空間にあるあなた達が私を私たらしめている。
あなた達がいなければ空間が分からない。
いくらつらくたって大丈夫。
最終的な快感、死が保存されている。
971 :
考える名無しさん:05/02/23 22:25:11
だから、その切り札を使うのはもったいないとも言えるんだよ。
972 :
考える名無しさん:05/02/23 22:26:11
間違えた。
本当だ。
嘘じゃない。
アゲはパソコンが間違えた。
おかしい、
2度も上げてしまった。
間違いって何だろうな。
無意識に間違ったのかな。うーん。
いや、間違いは本来無いのだ。
そう思っているだけ。
なぜなら、原初があり、結果も決まっているからだ。
必然のものに間違いはないのだ。
私は原初、原初と何回か言ったが
その原初、どこに定めても原初になりうると言うことに気付いた。
それを何も130億年と設定する必要はないぞ。
それが1秒前と設定してもいいな。
1秒前が原初だった。としてもいい。
なぜなら、いつの時も必然であるから。
私が起こした行動、これも必然であった。
私は原因を秘めていて、
結果をも秘めている。
その両者を保有している。
980 :
考える名無しさん:05/02/23 22:45:37
私は常に原因で、
私は常に結果だ。
常に、だ。
なんだ、おかしいな。
上げになっちまう。
これは結果か。
原因が原初であり、
結果は終わりでしょう。
だから、常に始まり、
常に終わる。
そして
あなた達が原因で
あなた達が結果ともいえる。
私の行動があなた達の原因にもなるし、
あなた達の行動が私の原因にもなる。
>>964 >私たちは本来無意識を感じることは出来ないんだ。
そう、つまり自分が何も考えていない状態(何も意識していない状態)とは、
完全なる無意識の状態、無意識に我を任せている状態。
その時、自分の中では何もしていない状態とでも言うか、
なんと言うか「無私」の状態とでもしておこう。
自分では何かをしているなんて思いもしていないし、何もしていない、
それでも周りの者からすれば俺は勝手に何かをしているんだろう、
自然に活動している。
俺が無意識に任せるって書いたのは、そんな風な意味のつもりかな。
あなた達から見たら、
私はあなた達の原因であり、結果だ。
あなた達は私の鏡。
私はあなた達の鏡。
鏡とは映し、という意味。
>>985 しかし、残念だな。
無私になると至福を味わえないなんて。皮肉だ。
無欲が最上の幸福なんて。
この残念という気持ちも
駆動力になるんだよな。
次へ繋がる原動力に。
とどのつまり、生きている内は
不満足であり、
不満足であることを我慢しなさいということか。
その不満足が生きている内の
最上の至福なのかもしれない。
満足が終わりなんだ。
不満足感が生きている証なんだ。
そしてそれが生きているときには最高なんだ。
苦痛が生きていることを実感させる最上のものであることは
みなさんも同じだろう?
なんだってそうじゃないか。
満たされるために生きている。
最終には満たされる。
これは平等だ。
生きていること、すなわち、求めている証だ。
だから、求めなさい。
生きている限り、求めなさい。
そして、自分にとって良いものを得なさい。
真、善、美。
こういった、良いものだけを求め、得ることだ。
偉そうに聞こえるかも知れないが、
俺は俺に言い聞かせるために敢えて言い回しを命令口調にした。
結局、私も求めているのだよ。
価値あるものを。
まあまあくん。
何かスレッド立ててよ。
そうだな、俺に分かるようなタイトルで。
みなさん、どうもありがとう。
またの日に。
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このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。