ちょっと都合上飛ばしたところを、今回は書き込む。
>>637 >LR議論は、どうしてああいうことをやっているのか
>自分でもわからなかったりします。(^_^;)
自分でもどうしてやっているかわからないというところがすごいや。(笑)
ま、ようは一言では言い尽くせないということだと思うのだけど、
おいらは、とりあえずここであの議論の評を言うのはやめておく。
いずれにせよ、あそこで頑張っている人たちに失礼だしね。
でもすこしだけきみに言うとね、
それが泣くほどに辛いことなら、
やめてしまえばいいのにと思うのだが。
でも、そこは、きみの問題なので、
たぶんおいらには想像つかないようなことがたくさん
あってのことだと思うので、
だから、きちんとしたことがおいらには言えない。
だから愚痴っぽく書いた。
きみ自身はややこしく考えないで頂きたい。
(つづき)
で、すこし関係ない話しをしようと思う。
この前、自殺サイトを見つけて、
そこで、どうして人は死ぬのか、という
ことについてのその人の考察を読んでいた。
今ここでそのサイトを紹介するつもりはないけれど
それは非常に良くまとめられたサイトで
おいらは今、自殺についてすこし話したいと思っている。
自殺とは魂の危機である、という言葉がある。
茂木健一郎の「脳と創造性」で見つけた言葉だ。
魂の危機とは今までの人生観や世界観が一変
するような事態に立たされることを言っている。
そして、ここからはおいらが考えた言葉。
魂とは、身体と精神(心)を一つにするものと解釈されている。
そして自殺とは、純粋に精神の反乱であり、
身体を捨てる試みである。その行為の目標は、
精神の永遠性を得ること。
自殺とは、魂の死だ。
(つづき)
死ぬことはとても苦しい。
そのように世間では考えられている。
しかし、その人達にとって、生き続けることの方が、もっと苦しいことだった。
もう自分がどうしようもなくなって、走ることも、逃げることもできずに、
疲れて立ち止まってしまって、死のう、そう思うのだろう。
サイトを読んだあと自分の考えをまとめるとこういう答えが出てくる。
同情よりも無力感のほうが強いかな。
まあおいらは、きっと自己愛が強すぎるのだ。
で、おいらも、そういうことが一度だけあった。魂の危機。
しかし、いまここにおいらがいるのは、
母親がおいらのことをすごく心配してくれて、
電話の向こうで泣いてくれたからかもしれない。
いちおうそういうことがおいらにはあった。
もちろん、そのあとも、苦しいことたくさんはやってくる。
それも一度だけじゃなくて、何度でもやってくるものだ。
苦しいときというのは、母親との思い出も、思い出せないほど
苦しいものだ。きっと苦しいときはなにも思い出せなから
苦しいのだろう。
たとえばこんなときに、とつぜん、過去のことを思い出す。
思い出せることが、つまり、幸せなことなんだ。
(つづき)
こういうことは、おいらには不向きな会話なのかもしれない。
このおいらの言葉は、誰かが見てなんらかの力を
与えるような種類の言葉ではないだろう。
ただおいらだけが、慰められるような気がしないでもない。
しかしまあ、とりあえず言ってみた。
気を悪くしたなら申し訳ない。
次は、自分の言いやすい言葉で話してみる。
魂の危機について。
規則や社会や他者や言葉は、生きる力をどんどんと奪っていく。
生きる力に気づくこと。
それが<今ここ>を大事にすることだと思う。
生きることに気づくために、人は自分にまとわりついた
もともと自分のものじゃなかった言葉を、捨てる必要があるのだと思う。
一つ一つ引きはがして、当たり前のことを、当たり前じゃなかったところに、
言葉が元のあった場所にしまう。信念とか確信とか、思いこみとなるもの、
そういう、いつもの私の言葉を捨てようとする。いや、言葉を元の場所に仕舞う。
そうやってもう一度最初からやり直す。つまり反復とはそういうことかな。
おいらなら、再生と呼びたいところだ。
反復とは再生である。
<キルケゴールについて>
あと、キルケゴールはレギーネを試したんだと思うな。
自分を愛しているかを知りたかったのかも知れない。
自分がレギーネを愛しているのは自分自身のことだから知っている。
しかしレギーネの自分への愛は不確かだった。それが知りたかった。
だから婚約破棄をつきつけて、彼女の気持ちを知りたかったのだと思う。
そして彼女が破棄を拒否したところで、彼は「愛している」と
言いたかったのだと思う。まあ、そういう部分にまで、
おいらは同情するつもりはない。基本的に、そういうのは、
そのひとの器量の問題だと思うので。
あと、翼は男のものだけではない。きみにもある。
そして翼に力を与えるのは愛だ。その人が愛されて、
信頼されているから、自信を持って、安心して恐怖の崖から
飛び立つことができるんじゃないかな。
きみはいま、LR議論スレという、未知のかなたへと飛び立つ。
そのまだ見ぬ地平を求めて。
いちおう、きみを応援しているつもりなのだ。
655 :
カオル:2005/03/29(火) 02:30:50
ありがとう
ho ho ho-shu
657 :
カオル:2005/04/27(水) 02:43:12
>>649さん
もう見てないと思うけどレスします。
>キルケゴールのいう「絶望して自己自身であろうとする絶望」を感じるな。
はい、まったく。(笑)
それにわたしのように神さまをうらぎって自己絶対化を企てるふとどき者の
「人生への真剣さに根本的に欠けている」という罪をあばく人でもあります。
>>326 >俺には退くに退けなくなった頑固者の抽象的自由に見える。
たしかに抽象的です。
<わたし>の独立、つまり真に個(単独者)であることは
権利的なものであり、現実には起こり得ないことですからね。
658 :
カオル:2005/04/27(水) 02:48:46
>>649 >>651 わたしの精神が「個であろうとする」とき、
どうして「生き生きとしなくなる」と想定されるのでしょう。
たしかに事実としてそうでなのでしょうけれど、
2つの事柄はどのようなつながりをもっているのでしょうか。
まずわたしは、物理的な次元において個です。
おそらく素粒子をその基本要素として個であろうとします。
次にわたしは、生命的な次元において個です。
おそらく遺伝子をその基本要素として個であろうとします。
次にわたしは、精神的な次元において個です。
おそらく現象をその基本要素として個であろうとします。
わたしが独立を希求するとき、それは精神的な次元においてのものです。
そのくわだては、物理的/生命的な次元からの精神の独立です。
けれどもこの精神の独立は、究極的にはその独立とともに消え去るものです。
物理的/生命的な次元から精神を独立させうる唯一の、そして限界の方法は
自殺しかありませんから。
物理的/生命的な次元を背景としなければ、個であることすらできない精神が
またそのつながりのなかでしか生き生きとした個であることのできない精神が
物理的/生命的な次元からみずからを独立させるためには、その活力の根源
である物理的/生命的な次元から、みずからを切り離さなければなりません。
自殺は究極のエゴイズムであり、個としての精神にのみ為されうることです。
ローカルルールスレで興味を持って、このスレ覗いてみた。
レスをさかのぼって読んでみたけど、何が問題なのかワカランぞ。
660 :
カオル:2005/04/28(木) 01:16:38
>>659 ローカルルールスレの2(改良前の7)にある
哲学板は2ちゃんねるの【学問・文系】カテゴリーに属する板です。
「世界・人生などの根本原理を追求する学問」であるところの哲学の話題を扱います。
この2行によって、学問哲学ではないもの(=学問としての形式をとらない哲学)は、
人生哲学およびマイ哲学とし、排除しようというのがもともとの賛成派の意向です。
ですが規制には賛成でも、そこまでは求めない賛成派も少し出てきてくれて
(もしかしたら賛成派と反対派の歩み寄りによってそうなったのかもしれないけど)
今は反対派とのあいだで「共存」案を検討中というところです。
「共存」案成立に協力していただけたらありがたいです。
選挙活動よくない。堂々とやれ。
662 :
カオル:2005/04/28(木) 01:27:59
>>661 えっ、こういうの駄目なの?
じゃあっちのスレに転載すればいい?
>>662 うん、そう思う。
>学問哲学ではないもの(=学問としての形式をとらない哲学)は、
>人生哲学およびマイ哲学とし、排除しようというのがもともとの賛成派の意向です。
というアジテートは、このスレの住人から「本当に賛成派はそう考えているのか?」
という個人個人の思考をあらかじめ停止させて判断を固定させちゃうから。
664 :
カオル:2005/04/28(木) 02:32:59
>>663 >というアジテートは、このスレの住人から「本当に賛成派はそう考えているのか?」
アジッたつもりはないですし、一人を除いては規制賛成派の意見は事実そういうものでした。
実際に【ローカルルール申請のための議論スレッド 1】を参照してみてください。
>>664 だ・か・ら・さ・あ
「一人を除いては規制賛成派の意見は事実そういうものだった」かどうかを
個々の住人がLR議論を自分自身で読んで判断すべきだといってんの
666 :
カオル:2005/04/28(木) 04:44:53
>>665 うん、だから読んでって書いてるの。(自分の目で確かめて!)
そもそもローカルルールスレでこのスレをあげたのはわたしです。
それにたいして659のレスがあったから、わたしが事実だと思っていることを書いただけです。
わたしは、アジろうとかしていないです。でもあなたにそうとられたから転載もしました。
それに読んだ人の自由だから一々指図することじゃないと思うけど、
あなたが「判断を固定させる」とかいうから、それは本来は659さんの問題なんだけど
「このスレの住人」とかまでいうから、実際に議論されたスレをあげて参照してください、
と書きました。わたしが書き込みをしたから、はじめてそのことについて確かめることも
できるのです。それをはじめから書きこんではいけないかのようにいうのはおかしいです。
667 :
考える名無しさん:2005/04/29(金) 17:48:44
良スレage
>>658 君の論考を読んでいると、どうして精神というものは、一人になりたがるんだろうと思った。
物理的なアトムや、生命の雌雄、共同体のようにはなかないかない。
くっつきあったり、あるいは、ばらばらになったりとどうも単純にはいかないみたいだね。
もちろん、それぞれ成立するなにかが、違うのだろうけど、
そのとき≠大事にするのは、精神の特徴である。
>けれどもこの精神の独立は、究極的にはその独立とともに消え去るものです。
この"消え去る"というのは、存在が存在(本質)として存在しなくなることを
意味するのだろうか。特徴を失い、無秩序に帰り、循環されていく、
そのポリッシュ的(磨耗)な経緯に、精神も従わなければいけないのだろうか。
おいらならば、精神を磨耗させるその何かを嫌悪して、特徴を守り、
秩序を求め、維持していくだろうと思う。まあそれが、つまり、
生きる(存在していく)ために必要なことだったりするわけだが。
「生」の反対概念は、「死」ではなく「自殺」なのかもしれない。
小説家、村上春樹の「ノルウエイの森」に「死は生の反対ではなく、
死は生の一部として存在する」という一節が出てくる。
(手元にないので、もしかしたら正確な引用ではないかもしれない)
おいらはときどき、この言葉を思い出す。
この小説を読んでから、もうかれこれ10年くらい経ってるから、
たぶん一生、忘れない、おいらにとってはそんな小説である。
生の反対は自殺である。そう言い切っていいと思う
どちらの概念もお互いに排除しあって、矛盾することがない。
そしてどちらも、一度きりなのである。
じゃあ、どうしたらいいんだろうね? (なにを?って訊ねないでよ)
それがまったくわからないのだ。
669 :
カオル:2005/05/04(水) 01:11:28
>>668 >君の論考を読んでいると、どうして精神というものは、一人になりたがるんだろうと思った。
個体としての生命のもっとも高度な(シンカ論的にも最先端の)志向性として
独りになりたがるわたしという精神のエゴイズムがあるのではないでしょうか。
>物理的なアトムや、生命の雌雄、共同体のようにはなかないかない。
>くっつきあったり、あるいは、ばらばらになったりとどうも単純にはいかないみたいだね。
>もちろん、それぞれ成立するなにかが、違うのだろうけど、
>そのとき≠大事にするのは、精神の特徴である。
はい、単純にはバラバラにできないです。なぜか?
それは、わたしが物質であり、生命であり、精神だからです。
けれど「そのとき≠大事にするのは、精神の特徴である。」というように
もしもこれが、物質や生命であることからの精神の独立性を示しているのなら
それぞれに「成立する何かがちがう」ととらえることが必要になってくるのは
このような議論を成立させるためには必然的に要請されてしまう前提でしょう。
たとえば自然科学の立場に立つなら、精神は → 生命現象 → 物理現象として
唯物論的に還元されてしまいます。これは精神が還元される唯一の世界が物質
の世界であること、つまり世界一元論なのですから、ここで精神の独立性など
見出すことはできないのです。
670 :
カオル:2005/05/04(水) 01:52:41
>この"消え去る"というのは、存在が存在(本質)として存在しなくなることを
>意味するのだろうか。
たんにわたしがわたしでなくなるだけです。
灰になったわたしやお墓になったわたしやだれかの心のなかにいるわたしは
もうわたしのわたしじゃないですもの。
でもわたしがわたしとして消え去る行為をわたしが意思できたこと、
そのことだけはわたしによってわたしに還元されます。
わたしの意思はわたしが消え去ることによってそこで終結するんです。
生命としてのわたしにも物質としてのわたしにも還元されないんです。
わたしがわたしであることの唯一のわたしへの証明が自殺なんです。
>おいらならば、精神を磨耗させるその何かを嫌悪して、特徴を守り、
>秩序を求め、維持していくだろうと思う。まあそれが、つまり、
>生きる(存在していく)ために必要なことだったりするわけだが。
エイリアンのお母さんの繭のなかにわたしがいます。
わたしはお母さんが嫌いだけど、お母さんは愛してくれます。
お母さんの呼吸にあわせて愛がわたしの体をかけぬけていきます。
ただ存在するために蠢くお母さんとのつながり、絆はいのちです。
だからわたしは生きている。だからわたしは生きていたくない。
でももしかしたらわたしはまだ生まれていないのかもしれない。
もしそうなら自分で繭をやぶって生まれてみたい。
生まれてすぐに死んじゃうのだとしても
生きるためじゃなくて生まれてみたい。
671 :
カオル:2005/05/04(水) 02:07:50
>「生」の反対概念は、「死」ではなく「自殺」なのかもしれない。
>小説家、村上春樹の「ノルウエイの森」に「死は生の反対ではなく、
>死は生の一部として存在する」という一節が出てくる。
同意です。
生きているわたしたちは、生の世界の外に出ることはできません。
わたしたちの知っている死は、あくまで生の世界にある死なのですから
生の向こう側にある(と想念される)死を知ることはできないのです。
死の世界を知らないのに生と死のあいだに境界線は引けませんから
生と死を区別することはできないのです。
贈与された生の反対概念は、生まれないことか、上で書いたように
自分で生まれること、つまり生(死)を創造すること。
>じゃあ、どうしたらいいんだろうね? (なにを?って訊ねないでよ)
>それがまったくわからないのだ。
キチンと自分の意思で死ぬためにキチンと自分の意思で生きること。
わたしらしくないこと言ってますね。(^_^;)
「サルトルは、ハイデガーにさからって結論する。死は、私自身の可能性であるどころか、
むしろ一つの偶然的な事実である。私は私の死を発見することもできない。私の死を
期待することもできない。死はあらゆる期待を空しくさせる。私が生まれたということは
不条理である。私が死ぬということも不条理である。」 『存在と無』用語解説から
>>669-671 >灰になったわたしやお墓になったわたしやだれかの心のなかにいるわたしは
>もうわたしのわたしじゃないですもの。
くやしいなあと思った。おいらの心のなかにいる君は、君じゃないんだね。
まあ、当たり前なんだけどさ(笑)
だから君のことを知ることも、できないし、知ったと思っても
君は逃げてしまって、とたんに新しい君になってしまうし、
追いかけなければ、とたんに君が誰なのか分からなくなるし。
本当に君はたいへんな人なんだねえ。
そこが面白いんだけど。
>わたしの意思はわたしが消え去ることによってそこで終結するんです。
終結する理由がわからなかった。
君は、君以外の君は君じゃないと否定しても、君の言葉は飛んでいくし
誰かの元へ着地するし、終結しないと思うんだよ。
>生命としてのわたしにも物質としてのわたしにも還元されないんです。
>わたしがわたしであることの唯一のわたしへの証明が自殺なんです。
生命や物質と同じように、それ自体の唯一性を、精神にも求める行為が
自殺だけだとは思わない。例えば、唯一性は時間にも求められる、
例えば経験がそうだ。独自であり、唯一だ。そしてそれから為る
言葉も、君が君から発せられる限り、唯一だと思える。
きみの言葉は誰にも還元できない。
そもそも、証明とは何だろうか?
きみがきみ自身にする証明は、証明と言えるのだろうか?
きみが、「わたしは存在しているの?」と訊ねるなら、
おいらは「きみは、存在している」と答え、証明することができる。
証明ってそういうものだと思うんだけど。
しかしきみが、物質や生命と切り放して精神のみの独立性を
希求するのなら、おいらの意見も意味がなくなってしまうんだけどね。
いちおうおいらは、きみに批判的な意見を言っているけど、
誤解してほしくないのは、やはりおいら自身の意見は
おいらへの批判も含まれているということ。
そういう意味では君への批判的要素は少ない。
例えば、このような言及は、おいらの生への不信感がある。
なぜ生きるのか? こういう疑問がおいらにはある。
どうしたってこういう悩みからは、逃れることなんてできない。
だから生について、のらりくらりと考えてしまう。
死ついては、それ自体に嫌悪的だ。事実そういう発言をしている。
心理的に、矛盾を含んでいる発言をしているのは承知なんだ。
きみなら、そういうことを理解してくれると思って、
あえてこういう発言を繰り返している。多少分かってくれると助かる。
>エイリアンのお母さんの愛。
エイリアンというのは、異性存在のことかな。
不可解で、いくらか不条理な存在のこと。
こういう君の言葉を読むと、おいらはくるおしい気持になる。
じゃあどうすればいいのさ。どうすりゃいいんだよ。
ああわかったよ、やってみるよ。おいらはやるんだよ。
こういう気持がわきおこる。(これはあんまり関係ないかな)
不思議だ。
>生まれてみたい。
おめでとう。
生の祝福は生きる者たちの特権です。
神様すら、わたしたちの生を祝福してくれません。
だから、わたしたちは祝福しあうんだと思います。
祝福は、あなたの心のずっとずっと奥に届きます。
おいらはそう信じています。
>キチンと自分の意思で死ぬためにキチンと自分の意思で生きること。
わたしは、生きています。
そして、これからも生き続けると思います。
ただ前向きに生きたいと思います。
いろいろ考えたけれど願いはそれだけです。
もしかすると自殺の反対は、
おそらくこういう気持なんだろうな。
たとえ死ぬと分かっていても、
そういう気持であることが生きることなんだと思う。
>わたしらしくないこと言ってますね。(^_^;)
まあ、そういうこともありますよ(笑)
そういう意見は好きです。
あなたも知らないあなたを知り、
そしてあなたとそれを知り合うことができたわけですから。
677 :
??:2005/05/14(土) 16:05:02
物事を難しく考えること
678 :
考える名無しさん:2005/06/07(火) 00:09:20
良スレage
679 :
考える名無しさん:2005/06/07(火) 18:54:54
もひとつage
私にはサンバイザーのお化けみたいな日よけを使って街中に繰り出す人たちが
信じられない。あんな恥ずかしい格好をするくらいならシミができたほうがいいのではないだろうか。
少なくとも私ならシミができるのと同じくらいに恥ずかしいと思う。
でもサンバイザーを使っている人はシミができるほうが恥ずかしいと思っているのだろう。
この溝を埋めることはできない。
一つのことを二つの角度から語ることは可能だけど、どちらかの角度が(その人にとって)
なぜ必然なのかを語ることはおそらく不可能だろうから。
681 :
カオル:2005/07/05(火) 00:52:10
ソバカスいっぱいの女の子ってステキ!キャンペーンをはってくださいね。
だからって、べつにオトコノコを気にしてるというわけでもないんだけどね。
もしも「皮膚ガンの予防のため」とかいって、みんながUVケアしだしたら
オバケみたいなサンバイザーをかぶりだすのオトコノコだと思うんだけどな。
682 :
考える名無しさん:2005/07/05(火) 01:34:22
探すこと
683 :
カオル:2005/07/05(火) 01:54:36
LR議論でまじめなこといってるのに・・・こういうレスのときageられると困ります。(^_^;)
684 :
カオル:2005/07/05(火) 02:05:40
オバケのようなサンバイザーが美しくてもそうでなくても
そのような奇妙な現象を可能にしているのは主観なのです。
そしてこの主観という理性の働きはア・プリオリに規定されています。
理性がオバケのようなサンバイザーに投げ与えているさまざまな様相は
それが認識しうるかぎりにおいてのものなのです。
そしてそれが人間における客観世界なのです。(カント)
では、はたしてオバケのようなサンバイザーが現象する根拠としての
物自体の世界で、オバケのようなサンバイザーは美しいのでしょうか。
理性の働きが現象させる対象のバリエーションの豊かさ(=客観世界のあいまいさ)を
こえて行こうとするとき、人間にできることはいったい何でしょうか。
オバケのようなサンバイザーが許せないのは、ほんとうのあなたなのでしょうか。
そんなあなたはどうにでも変幻自在な、誰でもない匿名のあなたではないでしょうか。
ところで680さんは、ほんとうにニップルさんなのでしょうか?
ニップルさんにしてはくだけた内容のような・・・いえ、それはいいんですけどね。(^.^)
>>684 >カオルさん
私の偽者を演じるような物好きはいないでしょう。
先の書き込みで私が問題と感じていたことは、第一にサンバイザーのお化けをかぶることで
本来そこにあったはずの、太陽の下でのびやかに輝く「生き生きとした美しさ」がこんなにも損なわれている、
ということです。
第二にはこの損失をどんなに声高に叫んでもそれは決して相手には届かないのではないか、ということです。
ちなみにこの第二の論点が主題です。
問題の要点は私が「あの立場」に立ったとき、サンバイザーをかぶることはないと「この立場」から言っている
という点にはなく(厳密にいって「あの立場」に立つことは決してない)、ただ単にあれは誤っていると
感じている点にあります。
私はこの、放っておくとどんどん「拡散していく自己」をひとつに束ねてくれる何かが
とても大事で、それを、いやその影を、追い求めてさまよっている。私は自己をぼろぼろになるまで消耗し
捧げ尽くすことを望んでいる。
ここにフロイトの二大欲動論の交差を見出すのは比較的簡単でしょうけど、今の私にはその種の説明に
興味がない。
それよりも私がしっくりくる説明は、<わたし>という決定的な中核を巨大な虚無に向けて投げ出していく
という生き方しかない、というようなものです。
たとえば決して成就し得ない「愛」に向かってこの私をささげていくこと。
もはや愛してさえいないかもしれないけれど、すれ違うしかないかもしれないけれど、
それでもすべての「ものだね」である私自身をその虚無に向かって、非合理にささげていく。
このような報われなさ非合理さ、不条理さの中にしかこの私の「生」は刻まれないように思う。
でもサンバイザーのお化けをかぶることは、なにか、報われてやろうとか、ウマい汁を吸ってやろうとかいう
思いが前面に出ていて私には理解に苦しむところがあります。
いや、報われたいとかウマい汁を吸いたいとかいう思いははっきりと自分にもあるけれど、
それはこの私という中核を持つがゆえにどうしようもなくポロリとこぼれ出るような思いであって
サンバイザーのお化けをかぶるというような計算された冷徹な何かではないと感じるのです。
そしてこのような隔たりの源はついには「語りえない」のではないでしょうか。
なぜならこのような隔たりこそが「この私の生」そのものなのであり、「この私の生」が
現に「この私の生」である限り、それはほかの誰にも共有されない隔たりを抱えてしまう。
だとしたらサンバイザーのお化けをかぶる理由もかぶらない理由も究極的には「語りえない」のではないか。
687 :
カオル:2005/07/06(水) 02:04:30
>>685-686 ニップルさん
太陽の下でのびやかに輝く「生き生きとした美しさ」
<わたし>という決定的な中核を巨大な虚無に向けて投げ出していく
この2つの志向性は、おなじもののべつの表現だと思います。
つまりフロイトでいうなら、生への欲動も死への欲動もおなじものだということです。
フロイトのまちがいは、それぞれを2極にわけて対立させてしまったことです。
「あの立場」に立つことは決してない
というあなたの志向性と
サンバイザーのお化けをかぶるというような計算された冷徹な何か
にとらわれる心の志向性とのあいだの溝は、
>>295で引用した
「幸福な世界」と「不幸な世界」での実存のちがいを「力への意思」の
肯定の「うち」に限定したものでしかないと思います。
もちろんこの2つの立場のちがいは、決定的にもみえるものです。
どんなに声高に叫んでもそれは決して相手には届かないのではないか
という現実の壁にぶつかるのは、もっともなことだと思います。
でもこのちがいは、死にたいする状況のちがいでしかないです。
この状況のちがいを哲学は十分に射程に入れていると思います。
わたしが感じるもっとも根本的なちがいをいうなら
それは「力への意思」への肯定と否定のそれです。
たとえば、「校庭のまんなかで両手を広げ光のシャワーをあびて輝く太陽の子」の
光の世界(幸福な世界)が、写真のネガフィルムのように暗黒の世界(不幸な世界)に
反転しまうときの、この両者の実存のちがいは決定的だと感じます。
688 :
カオル:2005/07/09(土) 07:47:52
なんだかわたしのレスって論点ズレてますね。スルーよろ。(^_^;)
689 :
カオル:2005/07/10(日) 03:06:10
「ヒトラー〜最期の12日間〜」とかいう映画の監督が「ヒトラーという人間は?」
と、聞かれて「からっぽ」って言ってました。なるほど!って思いました。
わたしたちは拡散していく自己を計算された冷徹な何かで守っているのではないでしょうか。
それはおそらく論理であって、その論理をささえている情念は生と存在を肯定しているはず。
もしもそれが自分だとするなら、巨大な虚無に向けて自分を投げ出していくという生き方は、
自分を計算された冷徹な何かでつつましく守ることを止めるということなのかもしれません。
わたしは、そのようなことを実践したのがヒトラーだったのではないかと思いました。
もはや愛人も国民も自分さえも愛してさえいないかもしれないけれど、すれ違うしか
ないかもしれないけれど、それでもすべての「ものだね」である自分を虚無に向かって
非合理にささげていく。それは生そのものへ一身を捧げるということ、力への意志に
自分という個を売り渡すこと・・・やがて巨大な虚無(=力への意志)は、彼を媒体にして
巨大な存在の刻印を残していく。何百万人殺そうとこれも生と存在への讃歌なのです。
わたしはわたしを投げ出さないでいたい。からっぽでないわたしでいたいです。
もちろんそれは生と存在への讃歌を聴きたくないからです。
凡庸な。
691 :
カオル:2005/07/10(日) 03:50:36
しまった!またまた論点無視…
>>685 > 問題の要点は私が「あの立場」に立ったとき、サンバイザーをかぶることはないと「この立場」から言っている
>という点にはなく(厳密にいって「あの立場」に立つことは決してない)、ただ単にあれは誤っていると
>感じている点にあります。
「化粧をしない素顔の君が好きだ!」とか言われたらそれはそれで嬉しいけど
もしもそれがサンバイザーのこととおなじ意味でいわれていたとしたら
たしかに気づかない(理解の仕方がちがう)と思うけど、ちゃんと説明してくれたら
意味くらいわかるけど!? 言われた通りにするかどうかはべつだけどね。(^_^;)
誤っていると感じている、というのは価値観とはちがうのですか?
いったい何が相手に届かないのでしょうか?
実存主義でいう「単独者」の孤独を言っているならわかりますが。
>>690 >凡庸な
いちいちコメントいらないです。
ニーチェの思想に絡めたよくある話しなのは誰にもわかりますから。
無駄なコメントするより凡庸でない物語をきかせてほしいです。できる?
安っぽい実存主義に毒された者は怒りすら凡庸。
日本の若者は本当に大丈夫なのか。
>>689 いや、まったく的を射ています。
私はある意味であの時代が偉大な時代であったと認めることができます。
あの時代の出来事はアイロニカルに「生と存在の讃歌」を歌い上げていると、私には考えられるのです。
何百万人殺してでもこの世界には「生きる価値」があったのですから。
何百万人も殺してまでこの世界に生きることができない人からすればヒトラーのやったことの意味は
まったくわからないでしょう。現に私の理解の範疇も超えています。
この対比はサンバイザーのお化けをかぶる人とそれを否定する私との間にある差異を
より鮮明にできるでしょうか。
「力への意思」説に私はどういう態度でのぞめばいいかよくわからないですが、
巨大な虚無に向けてこの身をささげるのは、私にはどうしても「生」に必須の事柄のように思えます。
(どうしても必須と思わない人には結局語りえないように思う ここには決定的な断絶の
痕跡があるのではないでしょうか)
694 :
カオル:2005/07/11(月) 03:53:44
>>693 サンバイザーのお化けをかぶる人とそれを否定するニップルさんとの差異は、
客観世界での自己、つまり自己の自己相対化(シュミレーションのシュミレーション化)に
おける仮想の実体としての自己なる実在の「生き方」のちがいなのですから
それは相対的なものになるしかないでしょう。なぜならどちらにしても「生」に
おける必須の形式である「論理」を用いているからです。この論理は、生と
存在の肯定を前提にしています。ですからニップルさんの「巨大な虚無」は、
「力への意思」に他ならないと思ったわけです。
虚無に身を捧げるというのは、言いかえるなら未来への企投のことであって、
それが「計算された冷徹な何か」ではなく、「生」に必須のことに思えるのは、
本来の「生」が予測されたものではなく、また予測されないものとして、未来
へ向うものだからです。また未来はそういうものとして到来するものでしょう。
ですからサンバイザーのお化けをかぶる人の計算(予測)は、客観世界での
出来事(シュミレーション)が、あたかも確実性をもって実在するかのように振る舞う
様相を示しているのでしょう。(男の方の見え方に従がうなら、ですけどねw)
「生」を認識論的なシュミレーション能力によって客観世界に閉じ込められるという
生き方 ── 夢をもって生きること、目標を立てて現実的な努力をすること、
歴史的な状況や文化的な環境を認知して反応すること、社会的な規範や
世間の流行や雰囲気を「生」の肯定のなかでかぎとることで「生存」のため
に利用すること ── にたいして、不可知な未来へ一身を投げ出す行為は、
予測不可能な本来の「生」の本質、今を全力で走り抜けることなのでしょう。
わたしたちは歩けもしないのに立ち上がり、走れもしないのに歩こうとした。
そうやって生きることをはじめたのです。
695 :
カオル:2005/07/12(火) 01:57:40
ツマンナイこと書いてるな。
どうせツマンナイなら
もっとキチンと説明しないとイケナイですね。
もう少しよく考えてみます。
コトバのなかに住む他者と分かり合うことは、自分という他者と折り合いをつけることでしかなく
キライな人も自分のなかのキライな人なのだから、わたしのもともとよく知っている人なのです。
けれどもわたしの世界に住まないその人は、はじめから存在しない人なのだから
わたしはその人に関心を向けることさえできない。たとえその人の意識がわたしの脳のなかに
入り込むことがあったとしても、わたしが正常とみとめられるかぎり、わたしはその人の意識を
その人(他者)の意識とは識別できないでしょう。なぜならわたしの正常さは、わたしがわたしで
あることによって保たれているからです。
これもツマンナイ。
仕事にかまけて心が怠けています。
泥より出でて泥に染まらず、凡夫を救う蓮の花。
Angel Of Harlem。
この思想からの脱却が、この思想への脱却につながってしまうなら
小さき者の苦しみは永遠につづき、世界は永劫に回帰するのでしょう。
696 :
カオル:2005/07/19(火) 02:07:34
虚無に身を投げ出すことは、生の肯定なのです。
神さまを信じる人にとって、死が生そのものであるように。
その想いの根っこには、生そのものへの肯定があります。
この一点において、自殺する人の想いとはちがいます。
死のその時までは生に拘束されるしかないのだとしても
ふたりの住む世界はちがいます。
サンバイザーをかぶってあがいてみても
サンバイザーをぬいでシミだらけになっても
そこに生への肯定があるかぎり
やはりそれは生き方のちがいでしかないと思います。
死を遠くにながめて未来に生きるのも
死を傍らにまねいて今を生きるのも
死にたいする態度のちがいなのだと思います。
まだ死にたくない、と後悔するかもしれない生き方は
二元論の葛藤のなかで、生の論理を生き抜くこと。
もう死んでもいい、と満足するかもしれない生き方は
一元論の調和のなかで、盲目の意志に身をゆだねること。
どちらにしても生への讃歌です。
その調べを口ずさめない小鳥はどうしたらいいのでしょう。
>>696 たしかにサンバイザー云々は、生の論理の差異に過ぎないのかもしれませんね。
そういえばこの間ヒトラーの映画の話をしていましたが、少し前に「戦場のピアニスト」を
見たときに、生の讃歌を口ずさめない鳥のことを思いました。
あの映画は実にくだらないのっぺりとしたものでしたが、クライマックス?のシーンで
主人公をこの世界に引き止める、あるいは引き戻すピアノとの再会があり、それまでの不条理な災禍を
すべて引き受けてもピアノがある限り、音楽(芸術)がある限りこの世界には「生きる価値」がある、と
言わんとしたのだろうと私は解釈しました。
そう解釈したときのあのストーリーの美しさは多少わかるつもりですが、言わんとしたことの核心
(それでもこの世界には生きる価値がある)はどうもつかみにくかった。
このとき美しい調べを口ずさめない小鳥のことを思ったわけです。
時代設定が現在なら「生きるべきか死ぬべきか」で迷うのかもしれませんが、あの時代のある種の偉大さは
そういう葛藤を押しのけてしまう力強さにあるのかもしれません。
この「偉大さ」の喪失は誤解と偏見を恐れずにいうならば、「鮮烈な生と死」の喪失なのではないでしょうか。
ん?なんか最後の結論あたりがおかしいな…。
699 :
カオル:
>>697 >あの映画は実にくだらないのっぺりとしたものでしたが、
アハハ。(^.^)
ドイツ軍将校 あなたは誰ですか?
シュピルマン わたしはピアニストでした。
シュピルマンは、サンバイザーをかぶる人ですよね。
だから延命のために「自然死」がやってくるまで生き抜きました。
彼は、フランクルでいう「態度価値」を示し得ない人です。
ポランスキーが、シュピルマンに「ピアニストでした」と過去形で言わせたのは
シュピルマンが「今は何者でもない」ということを示すことだったのだとしても
彼が「ピアニスト」というような「肩書き」でしか自身の価値を示せないのなら
彼もまたヒトラーの主張した血統の優劣(差別)を批判することはできないのです。
ポランスキーは、人生の不条理や限界状況での人間の心模様を丹念に描くけど
「テス」にしても「ローズマリーの赤ちゃん」にしても「良心」の肯定はしないです。
というかポランスキーは、13歳の少女に睡眠薬をあたえてレイプするような男
なので肯定しないというより、むしろ「良心」を不条理や限界状況の下において
屈服させること、つまり無意味化させることに全力を注いでいるように見えます。
まぁそれだけ「良心」が気にかかっているのでしょうけどね。
シュピルマンのように何もなかったかのようにその後を生きられる人もいるけど
戦争とかで「良心」が傷ついて心が壊れてしまう人もいるのではないでしょうか。
たとえば、灰谷健次郎の『太陽の子』にでてくるお父さんのように。
この作品は、ポランスキーの「良心」の言い訳作品より、100倍いいですよー!
主人公のふうちゃんはむかしのわたし。てだのふあも今ではこのザマです。(^_^;)