【glocom】東浩紀スレッド41【ised】

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240考える名無しさん
「享楽」できるのが人間、
もっぱら「快楽」だけにふけるのが動物らしい

東:大澤さんが初期に身体というかたちで行っていたのは、
ラカン、というかロラン・バルトの言葉を使えば、
「快楽の身体」とは区別される意味での「享楽の身体」だと思うんです。
つまり、欠落のまわりに結晶化する身体ですね。
これを、「端的な動物的身体」と、それとは区別される
「人間的主体の根拠としての身体性」と表現してもいい。
 しかし、動物の時代である現在、享楽の身体はもはや維持不可能で、
身体論はみな快楽の身体についての議論に回収されている。
快楽の身体はテクノロジーによって操作可能で、
いまや環境管理型権力によって快楽を流し込まれて生かされている。
 快楽の次元で考えれば、僕たちはかなり自由な世界に生きているけれども、
享楽の次元を考えると、享楽の次元そのものを奪われているという閉塞感がある。
そういう話なのではないかと思うのです。

大澤:享楽と快楽という区別は難しいところですね。
享楽は、いわゆる「死の欲動」の問題と連接しているのでしょうね。

東:享楽の身体は、簡単に言えば、自分で自分を傷つける身体であり、
決して満たされない欲望=欠如を抱え込む身体です。
しかし、快楽の次元はもっと単純で、機械的に満たすことができる。
 
 (バルト『テクストの快楽』。ただしバルト自身の用法はかなり両義的で、
  受動的で本能的な「快楽(plaisir)」と、崇高な「享楽(jouissance)」は
  必ずしも峻別されず、相互浸透的なゆらぎを孕んでいる。)