125 :
考える名無しさん:
>>115 実例ですか?
そうですねえ、例えば、入門書を濫読して、ある人がハイデガーに親近感をもったとします。
その人はおそらく、翌日、書店でちくま文庫に入っている『存在と時間』を購入するでしょう。
そして読み始めてみますが、さっぱり分からない。まあ、第一編の中間くらいでギブアップですね。
そうすると、ハイデガーの解説書に向かうわけです。初めは手頃な新書ものでしょう。
そうしてもう一度チャレンジするが、さっぱり分からない。なぜでしょう?
ああ、ハイデガーの先生のフッサールを読まないと分からないんだ、ということに気づきます。
もちろん、フッサールなんか読まなくてもある程度の理解は得られるでしょうが、
この人はまだ初心者だから、わらにでもすがる思いで、大枚をはたいて『論理学研究』やら、
『イデーン』やらを買う。幸い、文庫に『デカルト的省察』と『危機書』が入っているから、
まずはそれを読んでみる。ウーン、もしかして、ハイデガーより難しい?
それで今度は、「現象学」一般を全体的に漠然と理解しようと努力して、新書ものや、
ちょっと学術書っぽいのにも手を出してみる。
以上の過程で、通常は二、三年かかります。
126 :
考える名無しさん:04/12/17 05:08:48
しかし、段々と、現象学のことや、ハイデガーがどういう文脈で『存在と時間』を書いたのが
分かってきます。そして、とある日曜日の朝、なんだかすっきりした気分で目がさめたので
ひさびさに『存在と時間』にチャレンジします。するとあら不思議、数年前にはサッパリ
分からなかったものが、すらすらと分かるではありませんか!
うれしくなって、自分はもうハイデガー・マスターだ、との妄想が生ずるのもこの頃です。
大学の三年生や四年生にこういう人が多いようですよ。しかし油断は禁物。すらすら分かるのは、
せいぜい第一篇の現存在分析まで。ハイデガーの真理論や、ギリシア語の論議はやっぱり
意味が分からないし、第二編の後半はもう呪文状態。またもや、ここで絶望が襲います。
それでもうだめかなあ、と思うころ、偶然書店で、ハイデガーの講義録を発見。
『存在と時間』もろくすっぽ理解できないのだから、彼の講義録なんて分かるわけないじゃん、と
思いつつ、立ち読みすると、あら不思議、「ぜんぜん簡単じゃん!(笑)」
それで今度は、文庫で出ている『形而上学入門』や、『ニーチェ』を読みふけります。
段々、なんでハイデガーが「存在」なんてをもったいぶって語るのかが見えてくる。
同時に西洋哲学史の知識も増していきます。ハイデガーの哲学史の独創的な解釈を盾に、
教科書的なことしか教えない教授に喧嘩を売ったりするのはこの時期です。
この頃には、四年から五年は経っています。大学生であれば、ここで卒論を書きますが、
学者の本格的な議論を参照するなんてまだ早いから、結局は自分のハイデガーを読んだ感想文の
ようなものしか書けません。でもそれでいいのです。本格的な研究は、このあとに始まります。
127 :
考える名無しさん:04/12/17 05:12:56
さて、ここからは哲学を専門としたい人へのアドバイスですので、このスレにはふさわしく
ないですね。
ともかく、ハイデガーの一つをとっても、かなりの程度で西洋哲学のまとまった知識が
得られます。もちろん、「偏っています」。しかしこの偏りが大事です。
偏りは、のちのちそれを矯正することができ、この矯正のなかで、真の自分の見解が作られて
いくからです。ハイデガーのヘーゲル解釈なんて強引ですよね?
『精神現象学』は存在論で、『論理学』は神学? そんな二本立てでヘーゲルが全部説明できるの?
なんて疑問をもって、ハイデガーの解釈するデカルト、カント、シェリング、ヘーゲル、ニーチェに
向かう。もうあなたはハイデガー信徒ではない。立派な批判者です。
もちろん、ハイデガーの呪縛から抜け出せません。しかし、それでいいのです、というのは、
彼もまた、歴史に名を残す偉大な思想家であるし、また、「偏り」を持たない思想など、
面白味も何にもないからです。
128 :
考える名無しさん:04/12/17 05:14:20
カルナップのハイデガー批判の馬鹿馬鹿しさは承知しながらも、分析哲学者のハイデガー批判を
読んでみたり、最近のアメリカの研究者のものも読むようになり、大陸の重苦しい雰囲気とは
まったく異なる哲学に触れることになります。彼らの伝統を形作っている、フレーゲ・ラッセル・
ウィトゲンシュタインの業績、果てはイギリス経験論の伝統まで興味が拡大します。
一方で、フランスの実存思想から始まり、デリダのハイデガーの受容と批判なんかも読むようになる。
脱構築は、実はハイデガーの「破壊」だったわけだから、なんだか親近感がもてる。
『マルクスの亡霊たち』のなかの「アナクシマンドロスの格言」の解釈なんかが楽しく読めるようになる。
そのとき、この人は、ソクラテス以前の哲学者から、現代の最先端の哲学までを、まがいなりにも
網羅しています。そしてここからが、第三の段階なのです。
暇があったので書いてみましたが、頑張って勉強して下さいね!
ちなみに、専門的な論文を読むまでには、この第三段階まで達しておく必要がありますが、
それはもう、研究者の仕事です。