【Immanuel】 カントだよ全員集合!3 【Kant】

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426考える名無しさん
(「今日のぼやき」[2000.3.6]より引用)
宮台真司(みやだいしんじ)君や、その他のまだ、ポストモダンを 言っている人たちがいるようですが、残念ながら、
もう世界規模では捨てられた思想です。今の 37歳ぐらいから上の人間が、感染している病気です。
東なんとか君の本など、どうせ何をいいたいのか、なにを、かいているのか、わけがわかりませんから、ご心配なく。
はじめから、この人たちは「読者にわけが分かるようには」書きません。

「 大正デモクラシー」のころの(ロシア・ボルシェビキ革命の世界的、影響です)からの「新カント学派」の影響で、
とにかく訳(わけ)が分からないように書く。読者より自分の方が頭がよいように思わせるように書く。
これが、この手の人たちの本性です。愚劣きわまりない伝統であり、日本知識人の劣勢遺伝子のかたまりです。
室町・鎌倉期の五山(ござん)の僧侶たちも、こうだったのでしょう。 かれらは、仏教の坊主(僧)だったのに、
何と朱子学(南宋学、儒学)の本をよんで、分かった振りをしていた、おもしろい人たちでした。
これと、今のおフランス思想かぶれの残党たちは、よく似ています。
じつは、フランスでも一番頭のいいのは、ドゴール主義者(ゴーリスト)の政治知識人たちです。ゴーリストたちは、
フーコーらのような、人文(じんぶん)主義の衒学(げんがく)趣味ではなく、本気で「どうやったら自分たちは
アメリカの支配から脱出できるのか」を国家戦略研究所に集まって、研究しつづけているのです。

 日本人のような、東アジアのモンゴリアン・インディアンには、フーコーぐらいが、文化輸出するのに、丁度いい、と、
考えていたのです。フーコー自身が、来日したとき、「ク、ク、ク」とわらいながら、そういうことを、吐いています。
(引用おわり)
427考える名無しさん:2006/10/05(木) 19:40:10
訳の分からない気取りで、わざと難解そうな文章を書く人はどうせみんなから捨てられる。
このことは、肝に銘じておいたほうがよい。
日本の知識業界は、長く1920年代からの、昭和初期の新カント学派と呼ばれる、「ドイツ哲学の学者達」の
悪弊に始まって、やたらと難解な文章を書くことが、偉い事だとだという巨大な思い違いをしている。
この病気は今でもなかなか治らない。本当は自分の頭が良く無いだけのくせに、やたらと、象徴語と、
ドイツ式観念語(本当は禅用語を無理やり当てはめただけ。観念とか本質とか根本とか意識とか。500語)を使いたがる。
読んでいる方はいやになる。こんな下手な誰も説得できないような文章を、苦しみながら書いてるとあとあと大変だろうな。
どうせ誰も読んで分かることは無いのだから。当たり前のことを、はっきりと書くことができない。
やたらとこねくり回してそれが「するどい批評になっていなければいけないと、勝手に思い込む。
副島隆彦「属国日本論を超えて」

(副島隆彦「今日のぼやき」2001.5.21より抜粋)
私の頭の中は、今でもこのように、雑然とした理解で成り立っている。生活実感で理解できないと「理解」と
いうのはそもそも成り立たない。私はもの書き言論人としては、素人さん(一般大衆)レベルでの実感での理解、
というのをものすごく重視する。わけの分らないことを書く人や、その文章を毛嫌いする。
このことは、私は、「オッカムの刃」 Occam’s razor と言う考えを自分の思考原理に置いているからだ。
全ての事柄(事象)を徹底的に明晰にしようとする 思考方法であるオッカムの刃 については、そのうち書く。
この日本語という限界言語によってでも、私は、明確なものをぎりぎりまで追究して、死んで行こうと思っている。
(抜粋おわり)
428考える名無しさん:2006/10/05(木) 19:40:44
(副島隆彦「今日のぼやき」2001.11.18より抜粋)
これが、14世紀のイギリスのノミナリスト(個物派)神学者ウイリアム・オッカムの、
「オッカムの刃 Occum's Razor オッカムズ・レイザー」と言います。オッカムの剃刀(かみそり)とも言います。
「すべてを、ばっさりと大きく、大きく、簡単にして、ぐさりと、切り裂いてみせる態度、および、言葉の使い方」のことです。
このオッカムの刃、の凄(すご)みが分からないようでは、日本の知識人階級などというものは、東アジアの土人だ。
土人のまじない師階級だ。「お前だってそうだろ」と悪罵を投げつけられるなら、「当たり前だ」と即座に答えます。
(抜粋おわり)
429考える名無しさん:2006/10/05(木) 19:42:05
この数十年間で日本の政治思想・評論業界は孤絶し、かなり立ち遅れてしまった。ドイツとフランスの
古色蒼然たる百年前、二百年前の政治思想の本を。訳も分からないまま読み続けてるのが現状だ。
全くヒドいものだの一語につきる。
日本の八十年代の言論を圧倒したフランスの構造主義の大家ミシェル・フーコのような、現代もの
でも、かなり癖のある思想・哲学なのであって、本当はフーコや、ジル・ドゥールズらの思想は
「人文」である。文学あるいは文化研究なのだ。政治権力なるものを生まで扱う学問ではない。
現在のフランスやドイツの本当の最高の知識人たちとは「どうやったら、自分たちが、アメリカ
の支配から脱却できる」を本気で考えている人々だ。日本知識人は文化研究しかできない人々だ。
副島隆彦「日本の秘密」

前ページに神学対近代学問(サイエンス)の壮大な対立図式を示した。これ以外に下等学問としての
「人文」というのがある。この人文というのはヒューマニティーズの日本語訳である。
ヒューマニティーズとは「人間、および記録された文学に関わること」という意味である。
だから人文は、簡単に言えば現在で言う文学(部)のことである。他には歴史学があり、その内容は
古文書や石碑の文の解説などを行うことだ。これらは、学問としては下等学問である。
副島隆彦「ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ」
430考える名無しさん:2006/10/07(土) 02:10:36
前に読みたいなと思っててすっかり忘れていた中島義道『空間と身体:続カント解釈の冒険』が、ちくま学芸文庫から出たね。
「続」じゃないほうは講談社学術文庫だったのに。
しかも『カントの法論』って題名が変わってたから、最初『空間と身体』だとは気づかなかった。
431考える名無しさん:2006/10/08(日) 09:05:01
道徳形而上学の基礎付けの、第一章22以降に出てくる、直接的な傾向性って何?
義務?
432考える名無しさん:2006/10/09(月) 02:24:47
test
433考える名無しさん:2006/10/10(火) 01:18:19
>>423
完全義務と不完全義務を分かつ境目は、格率が普遍化可能かどうかによる。
例えば『基礎づけ』に示されてる例では、
「生きるのが辛いときは自分の生命を絶つ」という格率は、
普遍的法則となりえないので、自殺をしないことは完全義務とされる。
一方、「他者が困窮してるときでも援助しない」という格率は、
普遍的法則となりうるが、それを「欲する」ことはできないので、不完全義務とされる。
ニートの格率(メンドクさいから、といったような理由で働かないという格率)は
普遍的法則とはなりえないと一応は考えられる。
よって働くことは完全義務。

ってことで、「労働の義務」は完全義務だろうけど、
「(非正規雇用ではなく)正規雇用で働く義務」となるとどうかね。
個人的には不完全義務ですらないと思う。
つーか社会的状況に依存すると思う。
434考える名無しさん:2006/10/10(火) 01:50:07
>>431
道徳法則に対する尊敬じゃないでしょうか。
義務を遵守しようとする意思とも言えるかもしれませんが。
435考える名無しさん:2006/10/12(木) 14:43:08
今、私が簡潔に言えることは、理性(リーズン、reason) と合理(ラチオ、ratio )の思想が、その一番残酷な性質である
強欲と拝金の思想としてユダヤ教(ユダヤ思想 Judaism)の中心に横たわっていることが、遂に、副島隆彦の研究
によって、日本人にも分かってきたので、このユダヤ思想の「理性と合理の思想」の強さが、キリスト教の愛の思想
(「人間を人間らしく扱え。動物のように扱うな」という思想)と正面からぶつかるようになって、それで、2千年がたつ、
といことです。そして、今も激しくぶつかっている。
今は、イスラム教もこの闘いの当事者になってきた。キリスト教の方は、ボンクラ知識人が多くなって、ただの信仰
(宗教)となって、ユダヤ思想の「理性と合理の思想」に相当敗北して、アメリカ合衆国内のレリジャス・ライト
(宗教右派)のように低脳で反インテリの、土俗的な新興宗教団体であるために、「旧約聖書」への劣等感から
ジュディオウ・クリスチャニティ(ユダヤ=キリスト教主義 Judeo-Christianity )で、ユダヤ思想に屈服している者
たちが多い。「自分たちアメリカ国民に、ご飯さえ食べさせてくれるなら、ユダヤ人のいうことを聞く。9.11は
権力犯罪(捏造)であることも薄々知っているが、そういうことも皆でしゃべらない。自分たちの生活が第一だから」
という醜(みにく)い態度に出て、居直っている。

私、副島隆彦が、今、もっとはっきりと簡潔に書くなら以下のようになります。 イマヌエル・カントは、この理性と
合理を追究して、自分も遂にはユダヤ思想に屈服した。それで、彼は、あの『純粋理性批判』という、何を書いてい
るのか、意味不明に近い、どうしようもない大著を書いた。 ’Kritik der reinen Vernunft , 1781'(クリティーク・
デア・ライネン・フェアヌンフト 『純粋理性批判』)を書いて、それで、グチャグチャと、「キリストの愛(グレイ
ス、恩寵)の思想も大事だけと、ヨーロッパ近代人は、それではもう生きてゆけないので、理性と合理の経済主義
(強欲、拝金のユダヤ思想)を受け容れるしかないのだ」と、書いているのだと、最近、読み直して、はっきり分
かってきました。
436考える名無しさん:2006/10/12(木) 20:25:36
cuntと聞いてすっ飛んで来ました。
437考える名無しさん:2006/10/13(金) 00:15:00
相変わらず電波ってるな副島は。

つーかこんなのがよく助教授になれたな。
438考える名無しさん:2006/10/13(金) 01:39:07
423です
>433 さん、ご丁寧なレスありがとうございますm(_ _)m なるほど、アルバイトなどと正規雇用は分けて考える必要がありそうですね。参考にさせていただきます。ありがとうございます!
439考える名無しさん:2006/10/14(土) 01:46:51
[332] 宇根康裕(うねやすひろ)君とのやりとりの文を載せます。私の「ヨーロッパの近代と、近代思想について」論です。
投稿者:副島隆彦 投稿日:2006/09/02(Sat) 07:35:50
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1776年に創設した、神学者(宗教学者)のアダム・ヴァイスハウプトは、「カントに反対して、ジョン・
ロックの思想に賛成した神学者である」と説明されている。この一行の重さを分かる人は、ヨーロッパ近代
というものの重みが分かります。それが分からない人が、何を言っても無効です。 

ですから、日本人として、はじめて、私は、ついに、カントを読み解いた(読解した)のだろうと、思います。
どんな日本人を相手にしても、全て私が説明し尽くすでしょう。
ですから、理性と合理のユダヤ思想に、新教徒(プロテスタント)思想が、敗北したので、そのことを指して、
マックス・ヴェーバーが、『プロテスタンティズムの倫理と近代資本主義の精神』(1904年)を書いて、
このことを説明したのです。

それで、キリストの愛の思想を裏切って棄てた、ヨーロッパの「理性と合理」の知識人たちは、もはや、「愛」
は問題ではなく、「倫理」と「道徳」(すなわち、社会秩序、支配の正統性、体制の擁護)こそは大事だと、
思考(思想)の駒を進めたのです。

このとき、ヨーロッパ知識人たちは、「真理の探究と信仰(宗教)の研究」を諦(あきら)めて、ユダヤ思想
の本態である理性(リーズン)と合理(ラチオ)に総敗北したものだから、それで、お茶を濁すかのように、
「倫理と道徳」(これをカントは実践理性と呼んだ)の研究の方に逃れ出ていったのです。

ですから、スピノザは、「倫理学(エチカ)」を書き、カントは、倫理学の本である、『実践理性批判』を書
いたのです。 こういう大きなことが、ようやく私に分かるようになりました。私は、自分の人生の40年間
をかけて(15歳の頃から岩波文庫の青帯をずっと読んでいました)、この日本語と言う東アジアの一雑種
言語で、この大きな読解に成功しつつあります。