【低脳】科学万能論【厨房】

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431考える名無しさん:04/12/31 10:26:36
物質は、「存在の手拍子」を打ってる。
パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、
ってな。

手拍子が鳴り響いてる間だけ、物質は存在する。
その瞬間は濃いけれど、手拍子が拡散するにつれて、
徐々に薄くなり、次の手拍子の直前には、
ほとんど、存在していない。

この手拍子は、他の物質に影響を与える。
その物質自体も、他の物質の手拍子に影響を受ける。

手拍子の伝わる早さが、光の速さ。

物質は、手拍子の範囲を超えて存在はできない。
ただし、手拍子の範囲は厳密ではないので、
中心がずれて、壁抜けしたりもする。

・・・思うに、

手拍子が多く集まりすぎてると、
相互に影響を与え合って、
お互いの状態を収束的に決定するのにも、
少ない場合より、時間がかかるんだろうなぁ・・・。
432振り込め詐欺:04/12/31 10:30:55
>426-430
カント的だね

つくづく思うよ
自然科学者よ、カントを読んでくれって
433考える名無しさん:04/12/31 10:37:11
科学は万能ではありませんよ。

科学をするのに、科学的でない思考(芸術家的な感性、おかれた立場)が必要なのですから。

私は生化学を研究するものとして日々すごしておりますが、遺伝子を発見したとき、
その発見できたのは「ここにこの遺伝子がいるような気がする」というような勘に近い感性があったからでした。

科学より工学のほうが上だとも思っております。工学は科学以上に厳密性、緻密さが求められ、また社会の要求性、上司の感性、運など様々な非科学的なファクターが必要となるからです。

科学というのは、自然界における現象をしり、そして現実の社会に応用していくために、役に立つ一種の哲学なんですよ。
434考える名無しさん:04/12/31 11:19:15
カント的、ですか。

わたし自身は人間は自然の一部であり、認識自身もまた自然の産物であり
自然認識は自己言及の側面があると理解しています。
435考える名無しさん:04/12/31 11:28:28
>>434
>法則が自然に埋まっていて、それを人間が認識するのではない。
>自然の法則性を人間が認識を媒介して<法則>とするのだ。
こことかはまるでカントじゃない?
ええと、確かなんてあったかな
「理性は自然から法則を抽出するのではない、悟性を自然に押し付けるのだ」

>わたし自身は人間は自然の一部であり、認識自身もまた自然の産物であり
>自然認識は自己言及の側面があると理解しています。

オレオレもそう思うよ
特に物理学の難しい理論のように世界全体を扱おうとするとそのような自己言及的側面を回避することはできないよね
436考える名無しさん:04/12/31 11:48:43
悟性の概念が今ひとつ理解できないのですが。

悟性自身もまた自然そのものではないが自然の産物ですね。
カントの自然と悟性の関係はどうなのか、調べる必要が出てきました。

わたし自身はカントはほとんど読んだことがありません。

いずれにしても科学はその自然観に基づいて諸理論を枠付けるべきでしょう。
科学はその基礎付けに於いて完結し、また新たに出発すると理解しています。
437振り込め詐欺:04/12/31 12:02:16
>>436
悟性は数学的なもの、法則や普遍性をもつ概念を司る能力と考えていいのでは?

こうするとより分かりやすくなるかも
「理性は自然から法則を抽出するのではない、法則を自然に押し付けるのだ」
438考える名無しさん:04/12/31 12:04:43
うーん・・・
少し時間をおきますか。
頭が熱くなってきている。 笑
439考える名無しさん:04/12/31 12:45:43
理性は自然の産物ですよね。
ということは自然に法則を押し付けることにはならないですよね。
曲がりなりにも産物だから。

天使は鳥と赤ん坊を空想的に合成した存在ですが、やはり現実的存在の痕跡はあるわけです。
それと同じように理性もそういう側面がありますよね。
自然の産物である理性がそのままでは実在しない存在を媒介に自然に存在する法則性を抽出して法則として認識に対象化する、と理解しています。
440考える名無しさん:04/12/31 12:48:13
自然自体は<そのまま>では理解できない。
存在しない次元を媒介に自然を理解する。
しかし、この次元は<そのまま>の形で存在しないのであって、その存在はやはり自然に根拠がある。
441考える名無しさん:04/12/31 13:42:34
しかし科学は現実としての根拠がある信仰だろう。
こういう物理的条件下ではかくかくしかじかの物理的存在は一定の反応をする。
これは誰にも変えられない。

この意味での客観性はある。
むろん限界はあるが、科学以外にたしかな認識が無いし、代替物もまたあるわけではない。
442考える名無しさん:04/12/31 18:45:32
>>天使は鳥と赤ん坊を空想的に合成した存在ですが、やはり現実的存在の痕跡はあるわけです。
例えば?
443考える名無しさん:04/12/31 18:51:45
鳥、赤ん坊。
444考える名無しさん:04/12/31 18:53:41
あーそういう意味か
ごめん 取り違えていたよ
445考える名無しさん:04/12/31 19:10:44
理性、悟性、感性など細かく分別したところで
所詮は脳の働きにすぎない。
脳の思うようにこの世界が推移しないことは
確実な事実だ。
科学は所詮、仮説、この世の理由付けにすぎない。
446考える名無しさん:04/12/31 19:27:30
>>445
哲学は理由づけにもなってないw
447考える名無しさん:04/12/31 19:40:27
そうですね。
哲学は理由付けするものではない。
哲学は問題を出すだけのもの。
448考える名無しさん:04/12/31 19:58:16
>>447
机上の自己完結空論
449考える名無しさん:04/12/31 20:13:19
自己完結というより自己破壊がてつがくです。
450考える名無しさん:05/01/01 01:25:03
科学では善悪も美醜も語れない。だから科学は万能ではない。
人間は真理だけでは生きられないからねえ。
451考える名無しさん:05/01/01 08:58:47
善悪も美醜も人間の勝手だからね。
自然は自然としてあるがままにあるだけだ。

認識には基準が必要なんだ。
科学においても座標原点という出発点が必要なんだ。
善悪、美醜もまた然り。
基準は人によって、立場によって、場合によって違ってくるが。
ここにおいてはあらゆる認識は同じなんだ。

しかし差異も当然ある。

あっ、忙しくなるのでとりあえずこれまで。
452考える名無しさん:05/01/01 12:05:23
>科学より工学のほうが上だとも思っております。

それは基準の取り方次第ではないでしょうか。
上とか下とかは、人間の認識なんですよね。
453考える名無しさん:05/01/01 15:31:45
けっきょく、光速度一定の法則は科学の根源を示している。
論理は人間のものなんだ。
科学の対象である自然が無矛盾であり、論理は対象が無矛盾でなければ成立しない。
しかし論理は静的であるがゆえにその本質は矛盾なんだ。
弁証法の成立根拠がここにある。

科学者は自然を見事に認識してきた。
しかし光速度一定の法則において、認識の性格を認識してこなかった懲罰を受けて以降珍論を展開する羽目になった。
アルベーンが言うようにビッグバン理論は天動説だ。
ハイゼンベルクもボーアも認識論に於いては目を覆う珍論を繰り広げている。
アインシュタインは健全なのだが、しかし両者とも認識の特性を認識してい意味では同根だ。
454考える名無しさん:05/01/01 19:42:11
いわゆる実証研究を行わない哲学者の武器って論理分析でしょ?
論理の本質が矛盾だとしたら哲学者の行ってることは何なの?
それが前からよーわからん。弁証法ってのは論理学とは違うの?
厨でスマソ
455繰り返しになるんだが:05/01/01 20:07:01
光速度一定の法則の論理的理解を科学者は放棄している。
それはなぜか。
絶対座標は実在しない。
しかし座標を媒介に運動量としてしか理解できない。
存在しないものを媒介に、です。
これは論理の性格を顕している。
認識ひいては論理はその本質は静的であることを意味している。
運動自体は直接理解できないからです。
運動を静的に理解するから当然限界があるわけです。
456繰り返しになるんだが:05/01/01 20:15:42
ああ、ちと面倒ですね。
まず人間、とわたしを認識します。
ところが赤ん坊から死ぬまで、変化しているにもかかわらず同一性として捉えているわけです。
人間、と認識するのは運動しないものとして捉えているわけです。
じつは自然対象としての人間は常に変化している。
座標原点が実在していないことを常に念頭に置いて考えてください。
論理で捉えられる限り、人間はどんな瞬間にも同一ではないのですから、死であり生でもあるわけです。
人間という規定は同一性、つまり運動していない、静的であるわけです。
この静的というのは運動量零という否定なのです。
規定は否定である、というスピノザの規定は認識の本質を示しています。
認識は存在するものを存在しないもので捉えるわけです。

この意味で論理は根源的に矛盾であるわけです。

ちと脳が疲れたので一休みします。
457考える名無しさん:05/01/01 21:02:41
弁証法は運動を静的に理解する論理学に運動を持ち込むわけです。

量質転化とか、相互浸透とか。
この辺は説明が難しい。

少し考えさせてください。
458考える名無しさん:05/01/01 21:08:25
科学:認識論
工学:もの作り
哲学:妄 想
459考える名無しさん:05/01/01 21:24:54
科学:もの語り
工学:もの作り
文学:もののあわれ
哲学:ものの怪
460 【小吉】 【1130円】 :05/01/01 23:25:38
藻前らラグランジュアンのdq/dt微分ぐらい計算してからもの言え
461考える名無しさん:05/01/02 07:23:29
>論理の本質が矛盾だとしたら哲学者の行ってることは何なの?

この質問の意図がわかりません。

アインシュタインの、世界を理解できることが理解できないという趣旨の発言があります。
自然の理解、というのは自己言及の側面があるんです。
自然が無矛盾で無ければ理解できないわけですが、理解そのものは他ならぬ自然の一部である人間が行うわけです。

つまり自己を他者として理解するわけです。
言語表現の本質は、対象ー認識ー表現です。
<わたし>という表現は、自己を対象として表現するわけです。
認識ではやはり自然と観念的に対立する存在が必要になるわけです。

用事ができました。
とりあえずここまでにします。
462処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :05/01/02 07:36:02
実証的研究を正確に遂行するには、それ以前に正確な
論理的思考が必要ってこと。
463考える名無しさん:05/01/02 10:01:28
科学者は哲学を軽視するが、一番粗悪な哲学に囚われている。
464考える名無しさん:05/01/04 07:34:12
運動する自然を本質として静的な論理で捉えなければならないわけです。
光速度一定の法則は、じつにこの自然と論理の関係を表した根源的な法則です。

科学者はこの法則の理解の放棄によって以降新しい幕開けと、その認識論的展開に於いては迷走を始めるわけです。
465考える名無しさん:05/01/04 10:15:48
自然は理由も無く存在しているだけです。
自然の存在はアプリオリです。
その運動を科学は理解するだけです。
数、ひいては次元は理解に必要な存在ですが、そのものはけっして実在するしないのです。

因果関係自体は人間が自然を理解するために必要なだけで、そのものが実在するわけではないのです。
466訂正:05/01/04 10:38:31
>数、ひいては次元は理解に必要な存在ですが、そのものはけっして実在するしないのです。

>数、ひいては次元は理解に必要な存在ですが、そのものはけっして実在しないのです。

わたしは、今世紀半ばまでにはビッグバン学説は潰れると予想しています。
特殊相対性理論で否定された時間と空間の始まりを多くの科学者は理解していない。
467考える名無しさん:05/01/04 18:33:44
詳しく
468考える名無しさん:05/01/04 19:04:36
>>460
一般化運動量の時間微分がどうかしましたか?
469考える名無しさん:05/01/04 21:27:51
>>467
ビッグバン理論は確かな証拠が何も無いんです。
近藤陽次という科学者がブルーバックスでも述べているんですが
宇宙背景放射もじつは他の解釈ができる、ということです。

ビッグバン学説は保存則破りますし、インフレーションは仮定で成立しています。

わたし自身は絶対座標が実在しない宇宙を想定しています。
つまり空間にも時間にも始まりをもたない宇宙です。
470考える名無しさん:05/01/04 21:32:16
「だれそれ」 が 「○○」と言うてはりますw…代理戦争w
自分の考え、言えんの?
471考える名無しさん:05/01/04 21:34:21
ああ、冷やかしですか。
472考える名無しさん:05/01/04 21:36:44
カント読みの方。
お勧めの本と、翻訳がしっかりしたものをご紹介していただけないでしょうか。
473考える名無しさん:05/01/04 21:40:39
>>471
おまえの話は つまらん、と言ってるのよw
474考える名無しさん:05/01/04 21:50:05
>特殊相対性理論で否定された時間と空間の始まり

何のことですか?特殊相対論が、(ct)^2-x^2-y^2-z^2=(ct')^2-x'^2-y'^2-z'^2 の他に何か変わった
ことを言っているんですか?
475考える名無しさん:05/01/04 21:53:54
特異点からの爆発を避けようと言う理論は山ほどあるかも。
476処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :05/01/05 12:38:44
>>472
カントの翻訳は、不評の岩波の他は選択肢はないようだな。
中公バックスも良いかも。但し、そもそも原典自体が晦渋
極まりないという話。黒崎や中島の入門書で要点をかいつ
まんでスルーするのも吉、ゆるい言語世界で弛緩した脳味噌
の増し締めをするために理解できなくとも強引に読み通す
のも吉。
477考える名無しさん:05/01/05 12:58:04
カントののは「この翻訳は糞!」スレで良訳ののが紹介されてたよ
478考える名無しさん:05/01/05 13:51:52
のは一つで通じるぞ。二つでも意味は通じるが。
479考える名無しさん:05/01/05 13:54:05
原書が無理なら英訳嫁

冠詞も関係詞もない日本語で西洋哲学を表現することは無理ポ
480考える名無しさん
中島義道が、純粋理性批判の翻訳は河出書房の「世界の大思想」のが一番いいと
言っていました。
それと、小谷野敦が「カントは邦訳で読んでもチンプンカンプンだが、英訳を
読んだらよくわかった」と言っていました。同じ感想を持つ人は多いそうです。
ちなみに私は何も読んだことがないので、信用できるかどうかは全く知りませんw