267 :
考える名無しさん:
おまえってだれだよ?
>デリダやってる奴は大体左翼になると思うけど、レヴィナスだとああなるの?
こういうこと平気で書く奴か?(藁
KGVとヘルシーが揉めた経緯を教えて
270 :
考える名無しさん:05/01/30 02:20:03
全然そんなことないよ。いったいどこ見ていってるんだ
日本でそのような現象が見られるとしたら、批評空間のような雑誌が
デリダの紹介に一役買っていた経緯があったり、あるいは情況みたいに
全然デリダ読んでも意味わからないような連中が勝手に神格化して祭り上げたり
したから。こういうのは日本で特殊な現象。
アメリカをはじめデリダの受容というのは左翼というよりもむしろ左翼の批判にある。
しかもデリダ的なテキストが左翼としても読めるようになったのはつい最近の現象にすぎない。
最初にデリダが出てきて翻訳されてディコンストラクションが流行したときは
それが左翼を滅ぼす最終兵器のようにして流通したものだった。
271 :
ジョディ・フォスター:05/01/30 02:30:09
イェール大学で流行った時は、ま、「左翼を滅ぼす最終兵器」のようにして、
流通したみたいだね。
で、その流行に対して、加羅谷は批判的。
「イェール学派なんて、どうでもよかった。イェールにはド・マンがいた。
私には、ただそれだけのことです。」
みたいに言ってたよね。
イェールスクール的ディコンストラクションなんて、なんでもできます脱構築で、
意味が無いと。
272 :
考える名無しさん:05/01/30 02:38:35
そもそも左翼とここでイメージしてる人達が何をどうイメージしてるのかが
もう全くとんちんかんなわけね。
日本のデリダ受容史でもひとつ振り返ってみてばいい。
だいたい日本でデリダが受容されていく過程というのはそのまま雑誌の現代思想
の草創期に重なるわけ。当時の現代思想に書く面子と当時の日本の左翼論壇の
距離というのによく気がついてほしいわけ。
デリダなんていうのは反動思想=ポストモダニズム=ニューアカデミズム論陣の
筆頭でありシンボルであるような敵と見なされていた。
脱構築とかいえば左翼すべてを終わらせちゃうかのような、そんな論争的兵器だったわけだな。
柄谷でも蓮実でも当時は左翼に対して悪口しか言わなかったような時代ですね。
柄谷が、俺が左翼だ顔して変身するのはそういうプロセスの後なんだよ。
「現代思想」って、左翼を批判する左翼の雑誌かと思ってた。
274 :
考える名無しさん:05/01/30 02:45:39
新しい反動思想=ポストモダニズムの筆頭格として見なされていた
「ジャック・デリダ」のイメージについて最初にそれを左翼と結びつけて
論じられたのは、日本ではマイケル・ライアンの「デリダとマルクス」の翻訳が
80年代に日本で出たころがその最初でしょう。
いまこの本は絶版だけども勁草書房から出ていた。
浅田の「構造と力」と同じ出版社である。
当時にも前期の情況という雑誌はあったけれどもデリダなんていうのは敵であり
目の敵のような扱いしかされていない。
マイケル・ライアンの本でポストレーニン主義のマルキシズムとして
ネグリのアウトノミアなどもあわせて論じられながらデリダの左翼的な解釈というのが
出てきた。
275 :
考える名無しさん:05/01/30 02:55:47
アメリカのデリダ解釈で言えばグラマトロジーの英訳と序文をやってる
スピヴァクという女性の立ち位置は左翼なのではないかということができるだろう。
(サヴァルタン系)しかしスピヴァクというのももうお婆さんの学者だろうけど
スピヴァク的な意味での左翼というのが左翼の中でもメジャーなものとして
認定されるようになるまでは、相当の時間がかかっていて時代をへてきてるわけ。
70年代まではまだ権力奪取型の暴力も方法論的に含む、レーニンから
毛沢東の直接影響にある左翼のほうが強くて、そっちのほうがいわゆる一般的には
左翼だったんだから。暴力を言葉の暴力の次元まで含めてすべて解脱して考えうるような
左翼はまだまだ端っこのほうにすぎなかったわけ。
なぜあれくらいの片言にここまで必死になるか分からない。
けどオモシロイヨー。もっとやってもっとやって。
277 :
考える名無しさん:05/01/30 02:59:13
実際にデリダが左翼のイメージを引き受けることになるのは
90年代になってデリダ自身がマルクス論を書くことによってでしょう。
(マルクスの亡霊)
この時点になって、左翼と言われてるもののロジック、パラダイムというのが
古い左翼のものとは皆入れ替わっています。
日本でも柄谷と浅田みたいなのが左翼ということで了解されて定着している。
278 :
考える名無しさん:05/01/30 03:04:04
デリダがベースにしてるのは、やはり圧倒的に「言葉遊び」なわけであって。
これら言葉遊び=児戯の戯れ、として否定的な一蹴を入れて立ち上がるものを
さして古典的で正統的な左翼というのはあったわけなんだから。
だからデリダを左翼の領域に入れてやっても、絶対的にそこまら常に
はみ出し続けるデリダのベース、残余、余剰というのは残り続けるわけね。
デリダを左翼の領域に安住させることのできないデリダ本来の基礎的範疇というのが。
それがジョイス的な言語の領域であり、言葉のゲームのレベルで
すべての世界観とされているものを脱臼しつづけること。