道は無門と説けば、尽大地の人得入せん。
道は有門と説けば、阿師の分無けん。
第一、強いて幾箇の注脚を添うは、大いに笠上に笠を頂くに似たり。
硬く習翁が賛揚せんことを要す。
又た是れ乾竹に汁を絞る。
這些の口考(口へんに考)本を著得す。
習翁が一擲に一擲するを消いず。
一滴をして江湖に落さしむること莫れ。
千里の烏騅も追い得ず。
「無門関」という文字は、
「無門」と「関」という相反する言葉の融合で矛盾を表しています。
悟りへの道そのものが矛盾であるという意味に他なりません。
それはあなたのそばにあり、そしてこの世の全てです。
門は眼前にあり、門は程なく遠い。
そんな「無門関」を語りましょう。
3 :
考える名無しさん:04/11/15 22:33:52
さてベンヤミンでも読むか
倶胝和尚は、誰かれとなく挑戦的な問答を仕掛けてくると、
決まって指を一本立てられた。
倶胝の処にいた童子が、ある時外からやってきた客に、
「ここの和尚はどのように仏法の肝要を説いておられるか」
と尋ねられ、直ちに指を一本立てて見せた。
これを聞きつけた倶胝和尚は、刃をもって童子の指を切断してしまった。
童子は痛みに堪えず号泣して走って逃げた。
すると倶胝和尚は「おい、おい」と童子を呼び止められた。
童子が振り向くと、今度は倶胝和尚がすっと自分の指を立てられた。
その途端に童子はいっぺんに開悟してしまった。
倶胝は臨終を迎えると大衆を集めて
「私は天竜和尚の処で一指頭の禅というものを得たが、
一生かかってもそれを使いきることが出来なかった」
と言って、すぐに息を引き取られた。
無門は言う、「倶胝も童子も、指先ぐらいで悟ったわけではないぞ。
もしお前たちにその本当のところが見抜けるものなら、天竜和尚、
倶胝和尚、そして童子らと一緒に、お前自身も一串にし刺し貫かれるであろう」。
頌って言う、
倶胝は天竜小馬鹿にし、光る刃で子供を試す。
巨霊の神は造作なく、崋山の山を引き裂いた。
要するに、指(ドワ)と言うものは、天を指し示す物でも無く
距離を測る物でも無く、意気を表す物でも無く
それ自体が、悟りへの無門関と?
>>5 違いますよ。
指が有るという事と無いという事です。
有っても無くても自分というものには何も差し障りが無い、という事なのです。
それじゃ、虚数チ(ryじゃないですか!
ん?
「虚数チ(ry」とは何でしょう?
私は2ちゃんねる初心者なのでもう少し詳しく教えて頂けますか?
そういえば、「画が有ったり無かったり」って言うサイトが有ったな。
まぁ、柄が無くても柄杓は柄杓だしね。
虚数チンポですね。
ラカにゃんの最終奥義です。
いいですか?
あなたの目の前に私の書き込みは見えますか?
見えますね。
ではPCの電源を消してみてください。
私の書き込みはもう見えなくなりましたね。
しかしながら、あなたそのものは見えたり消えたりしないでしょう?
そうゆうことです。
ラカンの虚数については何もわかりませんが、
1+1は必ずしも2になる訳ではない事です。
1+1は1+1です。
無理やり2にする必要はありません。
あ、もしかすると、二進法ですか?
ん?
2進法でも16進法でも何でも構いません。
禅の公案とは、問題そのものが答えなのです。
無理に答えを出す必要はありません。
もし、問題のほかの答えがあるとすればそれが虚数になるんですかね?
南泉和尚にある僧が、「いままでに説かれたことのない法というものがありますか」と尋ねた。
すると南泉和尚は、「ある」と答えられた。
そこで僧が、「では、説かれたことのない法とはどういうものですか」と尋ねると、
南泉和尚は、「心でなく、仏でなく、衆生でないもの」と答えられた。
無門は言う、「南泉和尚としたことが、こんな一問を吹っ掛けられて、
家の財産を洗い浚い放り出し、へとへとに疲れてしまうとは、また何たることか」。
頌って言う、
語るに落ちて徳もなし。
沈黙こそがお手柄さ。
海が陸地に変わるとも、
このことだけは語るまい。
16 :
考える名無しさん:04/11/16 07:41:03
禅は百害あって一利なし。
無分別への退避は、
人間として生きることからの退避につながる。
17 :
考える名無しさん:04/11/16 09:06:16
>>11 は哲学的には「我思う、ゆえに我あり」と言う
>>15 は哲学的には「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」と言う
>>16 人が人として生きるのが禅では?
害とは?
>>17 私にはあなたの答えが見えない。
禅の公案は論理的な言葉で言い表せません。
ハッキリとした正解は問題そのものであり、違う言葉で正解するには、
抽象的な物言いになることでしょう。
「無門関」という言葉の矛盾と同じく、答えもまた矛盾しています。
正解を見つける事が、あなたの答えを導き出す事ではありません。
誤った答えを自分で認めた時、そこに答えがあるのです。
誤った答えは恥ずかしい事ではありませんし、間違ったことでもありません。
むしろ、正しい答えこそが間違いを生み易いのです。
解こうとして解いても説かれるだけです。
その矛盾した問答を肯定する人が、書き込みむのがよろしいかと。
そうですね、ヘヴンズドアの攻撃を受けると、
体が本になっちゃうのですよ。
主に指先から。
其れを思い出していました。
日本語にすると、指テク天国かな〜と。
じゃあ保守も兼ねて次いきますか。
南陽の慧忠国師が三たび侍者を呼ばれると、侍者はそのつど「はい」と返事をした。
すると国師は、「なんだ、今まで私のせいでお前さんが悟れないものとばかり思っていたが、
もともとお前さんの方が私に背いて悟れなかったのか」と言われた。
無門は言う、「国師は三度も侍者を呼んで、語るに落ちたわい。
侍者は三度返事してうっかり手の内を見せてしまったよ。
国師も年寄って淋しいとみえて、わざわざ牛の頭を押さえつけてまでして草をたべさせようとなさったのに、
侍者がちゃんと受けて立たないのは、やっぱりいくら御馳走でも飽食の男には意味が無いというものか。
ところで、いったいどこがこの侍者の背いているところか、ずばり言ってもらいたい。
世間では、「国が平和だと才子はお高くとまり、家に金がたまると子供は勝手なことをする」ということがあるようだが」。
頌って言う、
無孔の首枷嵌めさせられて、
子孫の代まで迷惑千万。
それでもお家が大事なら、
裸足で針山登らにゃなるまい。
弁証法ですね、否定は肯定を招きますが、肯定も否定を招きます。
無効の首枷と云うのは、晒し首でしょうか?
亦、針の山というのは、生花を思わせます。
>>22 う〜ん、あなたこの板に張り付いてますね。
ちょっと怖いな。
孔=穴なので、無孔=無穴です。
つまり、穴の空いてない枷ということです。
そんな存在しないものを守り抜くという事は、針山を裸足で登るという事です。
まあ、つらいだけで意味ねえよ、と。
>>23 >
>>22 > う〜ん、あなたこの板に張り付いてますね。
> ちょっと怖いな。
オフが済んだら、徐々にブログに移行しますよ。
達磨が面壁して坐禅をしている。二祖慧可は雪の中に立ち尽くしていたが、自分の臂を切り落として言った、
「私の心はまだ不安であります。どうか安心させて下さい」。
達磨が言われた、「心をここへ持ってくるがよい。お前のために安らぎを与えてやろう」。
二祖慧可は言った、「心を捜し求めましたが、どうしても掴むことができません」。
達磨が言われた、「お前のためにもう安心させてしまったぞ」。
無門は言う、「インド生まれの歯抜け爺さんは、十万里の海を越えてわざわざやってきたのだが、
これはまるで風邪もないところに波を立てたように迷惑なことをしたものだ。
死ぬ前になってようやく一粒種の弟子を物にしたが、これとて目鼻がしっかりついていないよ。
やい謝三郎、文字も知らない爺さんよ」。
頌って言う、
インド伝来ズバリの教えを、
伝えたばかりにトラブルさ。
いまだに禅寺騒がせる、
もとはと言えばあなたゆえ。
心とは、一掬の水?一握の砂?一咬みの雪?大地へ帰れと?
ホシュ
29 :
ロウシ ◆SRBroushi6 :04/12/12 18:12:14
首山和尚が竹篦を取り出して大衆に示して言われた、
「お前たちよ、もしこれを竹篦と呼ぶならば名称に囚われすぎる。
竹篦と呼ばなければ名称の無視になる。
さあ、お前たちはこれを何と呼ぶか言ってみよ」。
無門は言う、「これを竹篦とよぶならば、名に囚われすぎる。
竹篦と呼ばなければ名の無視になる。
語ってもいけない、語らないのもいけない。
さあ早く言え、早く言え」。
頌って言う、
竹篦一本持ち上げて、
活かしてみたり殺したり。
悪いのよいのとめぐるゆえ、
さしもの仏も命乞い。
30 :
ロウシ ◆SRBroushi6 :04/12/21 22:32:45
保守
意味がわからねーよ
33 :
ロウシ ◆SRBroushi6 :04/12/26 18:00:26
>>32 そこはハルカの巣窟っぽいのでやめときます。
34 :
考える名無しさん:04/12/26 18:28:07
イエイ
35 :
考える名無しさん:04/12/26 18:30:51
老子。
36 :
考える名無しさん:04/12/26 18:38:33
田尾
37 :
老子もどき:04/12/26 20:03:26
大道廃れて禅になるか?
アリエネー。
38 :
考える名無しさん:04/12/27 10:03:31
無門関←なんと読むの?
39 :
ロウシ ◆SRBroushi6 :04/12/27 22:43:49
>>37 ぼくの中では道=禅であるので、じゅうぶんあり得ます。
むしろ、道と禅とは相去ることいくばくぞ、です。
>>38 「むもんかん」です。
いわゆる禅書のひとつです。
どんなに理論や教学を並べたところで、心無くしては、人間の為の哲学と言えるのでしょうか?《言葉の遊戯》に思えてなりません。今、眼の前にいる友の悩みを聴く事が哲学なんです。心で感じる事が哲学なんです。友の心に伝える事が哲学なんです!
41 :
考える名無しさん:04/12/30 11:13:22
友達の話は大いに、聞いてあげなさい
そして、自分自身も磨きなさい
保守
以心伝心、不立文字。
検証不可能な哲「学」(プゲラ
47 :
考える名無しさん:05/03/17 20:50:18
agetoku
難しい哲学だな。
49 :
考える名無しさん:05/03/17 21:13:17
ある時旗が風でなびき、それを見ていた二人の僧が、
一人は「旗が動くのだ」といい、もう一人が「風が動いているのだ」と言い、
お互いに言い張って決着がつかないのを見て六祖が言った。
「風が動くのでも、旗が動くのでもない。あなたたちの心が動くのだ。」
人々を不安にするものは事柄ではなく、事柄に関する考えである。
エピクテトス
うーん。難しいな。単なるレトリックではなく、そういう心の境地って
どうやって獲得すればいいのだろう。
>>49 真実とは常に虚飾を身にまとうものです。
旗が動くのか、風が動くのか、どちらも真実の一片を表してはいるが、真実そのものではない。
それは、芥川龍之介の「藪の中」でも同じ事。
>>50 ひとつの事象を一度、完璧に表現しようと努力してみれば?
そうすれば、無駄な試みだと悟るときがあるはず。
保守
53 :
:2005/04/20(水) 00:25:35
>>51 虚飾ではなく、真実が夫々に別の顔を持っているのでしょう。
何人も神の視点から物事を観察することはできないのですから。
>>49 > ある時旗が風でなびき、それを見ていた二人の僧が、一人は「旗が動くのだ」といい、もう一人が「風が動いているのだ」と言い、 お互いに言い張って決着がつかないのを見て六祖が言った。
> 「風が動くのでも、旗が動くのでもない。あなたたちの心が動くのだ。」
じつに、難解(なんげ)、ですね。
運動は、エネルギーですから、旗が動くエネルギーは風です。と、観察 出来ます。
風が旗を動かしています。旗は、風無くして動きません。
ですが、風は見えません。 風は、旗が動く事によって、見る事が出来ます。
二つに分けるには、不可分の旗と風。
あなたがたのこころが動いたとは、何を指して言ったものだろうか?
こころは、運動のエネルギーを、作ったのか、作りはしない。 こころは、旗も、風も、動かせない。
禅は一元論、である。 旗も、風も、こころも、おんなじものである。
旗が動けば、風も、こころも動いている。
風が、動けば、旗も、こころも動く。
こころが、動けば、旗も風も動く。
>>53 真実はひとつ。
各々の真実の顔はひとつの真実が虚飾されているだけ。
>>55 >
>>53 > 真実はひとつ。
> 各々の真実の顔はひとつの真実が虚飾されているだけ。
「 真実はひとつ。 ひとつの真実が虚飾されている、各々の真実の顔 」
?・・・解説、お願いします。(゜゜)(。。)ペコッ
>>56 あなたは世界中の宗教は皆同じように見えるか?
もし、同じに見えるのなら説明の必要は無いように思える。
もし、同じに見えないのであれば、そのそれぞれの宗教の出自と経緯を知るべし。
>>57 >
>>56 > あなたは世界中の宗教は皆同じように見えるか?
> もし、同じに見えるのなら説明の必要は無いように思える。
> もし、同じに見えないのであれば、そのそれぞれの宗教の出自と経緯を知るべし。
同じです。
世界の宗教は、おんなじです。
38億年前、
生命が、誕生したという。
たんぱくしつのもとであるDNA は、乗り手となって、のるものを変え、さらに未来へと続くDNA。
いかに生きるか、と言うのが、宗教である。
みな、おんなじ である。
(例えば)宗教は阿片だという考えの者から見たら
すべての宗教はおなじものだと考えるだろうな
こういうヤツには宗教の個々の違いは区別にならない
それは違う真実
真実はひとつでない
>(例えば)宗教は阿片だという考えの者から見たら
>すべての宗教はおなじものだと考えるだろうな
これは毛沢東の言だったっけ。
毛沢東はその自身の歴史観から、宗教が政治に影響を与える様を見てるんだけど、
それはあくまで共産主義的な見方であって、国内における宗教の専横という意味なはず。
むしろ、それは宗教だけに関わらず、集団を創ってしまえば何でもそうだけど、
最初の集団を作った目的よりも、集団を維持するのが目的になるのは、
宗教だけに限らない事。
それだけをとって、宗教は毒だの、アヘンだの言われても、
歴史認識の仕方が間違ってるとしか思えない。
しかしながら、宗教の側面(集団としてだけど)は確かにアヘンかもしれない。
そういう意味で毛沢東の見る宗教はそうだったとしても、ぼくの見る宗教とは関係ないわけで。
やっぱり、多角的な宗教の解釈は既に「ひとつの真実」を様々な見方で見ている事に他ならない。
>59
満足して頂けましたか?
>真実はひとつでない
>宗教は阿片、毛沢東の言
真実は、ひとつであるが故に真実である。
>宗教は阿片
これは、マルクスの姉が、盲目的にローマンカトリックの狂信者であったため、日常生活にも、支障をきらしていた。
その事を、とらえて、マルクスが姉の状態をとらえて、「宗教は、アヘンである」と言ったものである。
訂正
日常生活にも、支障をきらしていた。
↓
日常生活にも、支障をきたしていた。
ダライ・ラマに言った言葉じゃなかったっけ?
64 :
考える名無しさん:2005/05/22(日) 21:47:17
保守
65 :
考える名無しさん:2005/05/22(日) 21:56:57
まずは打成一片だ
66 :
考える名無しさん:2005/05/22(日) 22:36:31
宗教はアヘンの言はモウタクトウじゃなくマルクスじゃなかった?調べてて見なはれ
67 :
考える名無しさん:2005/05/30(月) 20:19:41
無門関など透過してから語ってくれ。
禅には興味なさそうね、みんな
哲学には関係ないけれど質問です。
自分はある精神的な病気で悩んでいます。
精神が不安定で心は不安で一杯です。
心を穏やかにするにはどうしたらいいのですか?
人格者になり、安心立命の境地に達したいと思っています。
73 :
70:2005/07/11(月) 18:48:41
すみませんでした。
「南泉、猫を斬る」の話は分かんないけどなんか面白いですね。履を頭に載せ、さっさと部屋を出ていく人もなお分からない。
南泉だけにナンセンす、なんちゃって。
珍しくレスどうも。
まだ落ちてなかったのね、このスレ。
76 :
百合烏賊!:
あげちまえ