カント『永遠平和のためにpart2』

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90元スレ79 ◆4q1bQpUupQ

序論部分の仮訳:

『永遠の平和(永久の眠り)』

[1] 墓地の描いてあったという例のオランダの旅館の看板がこの皮肉めいた屋号をつけていたのは、
(a) すべての人間をさしてのことなのか、それとも特に、
(b) 飽きもせず戦争を繰り返す国家元首たちをさしてのことなのか、あるいはことによると、
(c) かの甘美な夢を見つづける哲学者たちだけをさしてのことなのか、ここでは問わないことにしよう。

[2] しかし、本書の筆者として次のことだけは断っておきたい。
(i) 実践的な政治家は、(ii) 理論的な[=理屈だけで政治にかかわる、学者などの]政治家に対して、
机上の理屈をもてあそぶだけの相手として鼻高々と見下した態度をとる。
この学者どもときたら、経験則にもとづくべき国家に対して地に足のつかない理念を振りまわすだけで、
恐れるに足りぬ存在であり、九柱戯で11本の柱を一度に倒させたところで[=無茶をやらせても]、
世事に長けた政治家が気づかう必要すらない[その程度の相手だと思われている]。

[3] だとすれば、政治家は、学者と争う場合であっても一貫した態度をとらなければならないだろう。
つまり、学者があてずっぽうで口にする、公けにした意見の背後に、
国家にとって危険な思想などを嗅ぎつけたりしてはならない。

[4] 以上の「免責条項」によって、筆者はあらゆる悪意の解釈から、確実かつ明確に守られることになろう。
91元スレ91 ◆4q1bQpUupQ :04/11/15 02:55:17
またまた細かい話が多くなりますので、そのつもりでお付き合いください。

● 序論 [1]

本書のタイトル Zum ewigen Frieden が旅館の屋号であったことは >>75-77でも説明しました。
ここでまず気になるのは、「例のオランダの旅館」という表現です。
こういう書き方をしている以上、カントは何らかのエピソードを踏まえているはずですが、
注釈によれば、カントが念頭においているのは、ライプニッツだとされています。

1693年に出版された "Codex Juris Gentium Diplomaticus" (『国際法典史料集』というところでしょうか。
上述 Gerhardt によれば、同書には元首間の宣戦布告、和平・停戦協定、婚姻契約が収められているとのこと)
という著書の序文で、ライプニッツは、およそ、次のように書いています:

 「だから、バタヴィア[オランダ]の気の利いた法螺吹きなら、あの民族の流儀にそって、
 『永遠の平和』と書いた看板を家[旅館?]のために(pro domo)掛けておき(suspendisset)、
 綺麗な看板に墓地の絵を付け加えた(subjecerat)ことだろう。
 つまり、そこ[=墓地]では死が安眠をもたらしたのだ。」
92元スレ92 ◆4q1bQpUupQ :04/11/15 03:08:15
と、ひとまず訳してはみたものの、実は、あまり自信がありません。
なぜ同じ文の中に接続法過去完了(suspendisset)と直説法過去完了(subjecerat)が混在してるのか?
ラテン語の得意な人がいたら、教えてほしいのですが、ひとまず上では、仮定法的に訳してあります。

ちなみに、この序文は次のサイトでダウンロードできるようです:
 http://www.bbaw.de/forschung/leibniz/potsdam/akt.html#vorausedition_des_bandes_iv_5
 (PDF です。2.6 MB あるそうなので、気をつけてください…。該当箇所は、ファイルの45頁にあります)
どうも現在刊行中のアカデミー版全集の試験ヴァージョンのようです。

文脈をおおよそ辿りますと:
ホッブズの「諸国家ないし諸民族の間では戦争が永久に続く」という断定に言及し、
事実、講和条約が、まるで兵士の休憩時間と言わんばかりに、停戦協定の意味すらもたない場合があること、
最近も、講和条約直後に停戦協定が結び直されるという、冗談のような事件があったことをあげた後、上の引用箇所が続きます。
この事件というのは、上にあげたファイルの注釈によれば、蘭仏戦争(1672-78)後のフランス軍を指しているようです。
1679年にネイメーヘン講和条約が結ばれたにもかかわらず、フランスのルイ14世はいろいろ理由をつけ、国境を越えて進軍します。
結局、1684年にレーゲンスブルクの停戦によって、フランスが占領した地域を20年間の期限付きで承認することになったとのこと。
93元スレ93 ◆4q1bQpUupQ :04/11/15 03:09:14
長くなりましたが、上の引用箇所は、実際にそういう旅館の主人がいた、という意味ではないのかもしれません。
「ルイ14世は自分勝手な都合でオランダに攻めてきて、いったん講和までいったのに、まだいろいろと難癖をつけて戦争している。
こうなったら、ワシらに平和が訪れるのは、永遠の眠りにつく墓場のなかということになりそうだ」
気の利いたオランダ人なら、こんな皮肉の一つでも言うに違いない、というところでしょうか。

ところが、事情はもうちょっと複雑なようです。
1712年の書簡で、ライプニッツはまた『永遠の平和』の話を出していて、
そこでは喩え話としてでなく、彼が実際に見た墓場のこととして語られています:

 「私は、『永遠の平和』というこの言葉が、ある墓地の銘になっていたのを覚えています。
 死んだ人間は戦争などしませんし、生きている人間はというと意見が違いますからね。
 権力のある者たちは法廷の言うことなど気にも留めません。」

この書簡は1738年には刊行されているそうなので、カントが知っていた可能性もあります。

さらに、1716年、フォントネルがライプニッツの追悼演説をしますが、ここでも『永遠の平和』の話が出てきます。

 「彼は、諸国の間で交わされた実にたくさんの、しばしば結び直された講和条約が、
 [結局実現されていない以上] これらの国々にとって恥となることを公言しています。
 悲痛な思いで、あるオランダ商人の店の看板に彼は同意しているのです。
 その看板は、『永遠の平和』という題字をつけ、墓地の絵を加えていたのでした。」

内容的に見て、フォントネルは、おそらく上述の『国際法典史料集』序文を踏まえているのでしょう。
カントはフォントネルを評価していたので、この追悼演説をカントが知っていた可能性は非常に高いとのことです。