『永遠平和のために』のスレがいつの間にかdat落ちしてしまいました。 僕自身、このスレで議論をしたいのでこの著作を二読三読しています。 Gillsさんこのスレを目にされたら戻ってきてください。 また再開しましょう。
やヴぁい。GillsじゃなくてGillesだったかも。。すんません。
ごめんなさい。 残ってるキャッシュが少ないうえ エラーが出て読めないって。ぐすん。
なんで前スレdat落ちしたんだろう・・・ 圧縮もきてないのに。不思議だ・・・。
他人に頼らず自分でやればいいかと。オレはカントの言う平和にはとても同意できない。
カントの永遠平和なんてマイナーすぎにも程があるだろう。 みんなちゃんと読んでるの? Gill以外で。
>>7 それがね、一番下にあるスレから全部ここだけ抜かしてアゲてあって強制的に
dat落ちさせた奴がいるみたい。
>>10 >強制的に
>dat落ち
本当にそんなことができるの?
どういう仕組みなのか理解できん・・・
>>11 このスレだけ抜かして一番下のスレから全部ageるのさ。
見てきたらわかるけど底に沈んでいるスレの最後のカキコみると
全部一文レスでここ最近書かれたものばかり。。
次はみんなでちょくちょくあげておきましょう。簡単にdat落ちしたりしない
から。普通は。
他のスレはみんな残ってるぞ。 保守ageしてるから。
>>12 一定期間レスが付かないスレは強制的にdat落ちになる
仕組みがあるということ? 初耳だ。
それは10レス以下で即死判定されたスレだけだ
と思っていたよ。
>>13 保守アゲされてたよ。こんなに早く落ちることなんて普通ないもん。
毎日糞スレがんがん立ってるからな。
>>15 700だか800にスレ数近づいて
足切り警報出た時に保守age
しとかないと今はきつい。
>>17 前スレまだ200までしか行ってなかったけどそれでも影響あるかな?
どうして落ちたのか、やっぱり謎だな。
だから新たに糞スレどんどん立てていけば、下の書き込みのないスレから落ちていくだろ。 雑談はこのくらいにしよう。
>>20 ここの鯖の圧縮が始まるのは800スレを越えたとき。
雑談は止したいが事実誤認があるようなので。
あと再発も防止したいし。
定期的に監視してageとかないと駄目だよ。 でもそこまでする人がいるほど需要のある スレかどうかは分らないけど。 関心あるなら、永久平和の話しようよ。 みんな持ってるでしょ? 前スレでどこまで 読んだのかは知らないけど。
つうか上げなきゃ人来ないと思うんだけど。 マターリsage進行するほど人いないし。
2004年はカント没後200年。とりわけ『永遠平和のために』 (初版1795年) は、
今なおアクチュアルなテクストの1つとして、狭義の哲学の分野にとどまらず、広い関心を集めています。
以下、短期集中企画として、この本について読書会のごときものをやってみようと思います。
カントの中では比較的短いテクストですが、一緒に読んでくださるという方は、ぜひご参加ください。
● 開始時期
来週末くらいからボチボチ
● テクスト
手元にはドイツ語原文しかなくて、翻訳を参照できないので、
訳文の問題点や疑問点を指摘してくださる方も大歓迎です。
ドイツ語原文を参照したい方は、ネット上にいくつもありますが、次などが読みやすそうです。
(とはいえ、正書法が現在のものとは多少違います。例: "zweyter" = 現在なら "zweiter")
Zum ewigen Frieden. Ein philosophischer Entwurf:
http://www.sgipt.org/politpsy/vorbild/kant_zef.htm
● 参考 余力のある方は、岩波書店版と理想社版の『カント全集』なども参照してください。 岩波書店版 『カント全集』 第14巻: 歴史哲学論集 「永遠平和のために」 (遠山 義孝訳) pp.247-316 理想社版 『カント全集』 第13巻: 歴史哲学論集 「永遠平和のために」 (小倉志祥訳) 図書館などでコピーをとるときには注釈もお忘れなく。
私はGillesさんのように外国語が出来るわけでもなく、哲学の知識はGillesさんの 何分の1か何十分の1程度しかありません。来週後半までにはレジュメか何かしら の準備をしておきますので、誰かお好きなように利用していただいて結構ですので スレに参加して頂けませんか?よろしくお願いします。カムバックGilles氏ってことで 再びGilles氏が来てくれるまで頑張りましょう。 ちなみにGillesさんがこのスレに再び来て頂けたなら私はGillesさんのまとめを 読むほうがよっぽど勉強になります。よっていつでも戻ってきてください。私のことは まったく気にしないで結構です。
アゲっす
ここもDAT落ちだな
何か誤解があるみたいですけど、sageでも保守できまつよ。 dat落ちの判断基準は最終書き込み日時なのでage・sageは関係ないでつ。 ちなみにacademy3鯖のスレッド保持数は700なので、同じ鯖のどこかの板が 800近くなった時点で700に圧縮されます。手動か自動かは未確認。 横レススマソ。
31 :
考える名無しさん :04/11/09 22:16:20
>同じ鯖のどこかの板が academy3鯖にある哲板以外のどこかの板が 700行ったら削られるの?
>>31 うんにゃ。700じゃなくって800いったら、だったハズ。
700超えは哲板では結構起こってるよ。こないだは756まで確認済み。
>>32 君きみ。答えるのはそこじゃなくてここ。
>哲板以外のどこかの板が
>>33 ああ、そうだったのですかスマソ(´Д`;)
圧縮は鯖単位だったはずですよ。連投規制も同様。
間違ってたらごめんなさいねー。
35 :
考える名無しさん :04/11/09 22:39:21
哲板は710でも他の板が800いったら -10削られるの?
┏┳┳┓ ハイ. ┏┳┳┓ ┏┫┃┃┃ 雑談は ┃┃┃┣┓ ┃┃┃┃┣┓ ここまで ┏┫┃┃┃┃ ┃ ┃┃┏━━━┓┃┃ ┃ ┃ 雑談 ┣┫ . ・∀・ ┣┫. STOP!┃ ┗━━━━┛┗┳━┳┛┗━━━━┛ ┏┻┓┃ ┏━┛ ┣┻┓ ┗━━━┫ ┗━┓ . ┗━━━┛
>>36 samba24の設定時間は鯖ごと。academy3鯖だったら20秒。
で、その時間以内に連投すると警告→連続5回で同一IPを規制。
哲学板で書こうが言語学板で書こうが、↑のように連投したら規制ってこと。
以後は自治スレでお聞きいたしますですよ。。。
>>42 連投規制って普通は板設定のtimecount/timecloseのことだと思うけど。。。
>>43 スマソ。そっちはすっかり忘れてたです。。。
>>32 スレ数756で圧縮っていうのは変だろ。
800越えはしてなかったのは確か。
とにかく前スレが落ちたのは謎というほかない。
46 :
考える名無しさん :04/11/10 12:26:53
>>45 だから、哲板のスレ数だけじゃなくて、おなじacademy3鯖にある
板が一つでも800に達したら、全板において700番超えてるスレが
削除されるって話でしょ。
┏┳┳┓ ハイ. ┏┳┳┓ ┏┫┃┃┃ 雑談は ┃┃┃┣┓ ┃┃┃┃┣┓ ここまで ┏┫┃┃┃┃ ┃ ┃┃┏━━━┓┃┃ ┃ ┃ 雑談 ┣┫ . ・∀・ ┣┫. STOP!┃ ┗━━━━┛┗┳━┳┛┗━━━━┛ ┏┻┓┃ ┏━┛ ┣┻┓ ┗━━━┫ ┗━┓ . ┗━━━┛
48 :
考える名無しさん :04/11/11 22:04:07
やる気ないならここも削除するよ
49 :
和炉太 :04/11/11 22:28:23
〉@ニニニニ) `r―‐' `i | / \ :::::::::| ⊆' ~ | |. | =・- =・- :::::| `ー┬'.>‐<. | ⌒・・ ⌒ ヽ9) ハイハイ早くアニメの話しを、織り交ぜて!! 「l.只7^>、 ヽ 三 ノ 削除されちゃうよ!! ついでにw /.|〈V 〉| | ;;;;;;;;;;ヽ / .| `'´ | | / ,| :/ /;;;;;;;;;;;;;;;;| / /|===Eニ) EE§/;;;;;;;;;;;;;;;;;;| ◎∠ニニ .∽∽∽∽∽ {_;-‐‐;;;;;;;;;/ | | | / /
だめだな。ぶっちゃけつまんねえ>永久平和。 読みやすいけど、カントの割に中身ないし。 どうせ短編なら「啓蒙とは何か」とかのが面白いだろう。
元スレが落ちた直後からこちらに来られなかったのですが、
Part 2を立ててもらっていたとは... ありがとうございます。
>>1 氏
幸い手元に元スレの1-200をとってあったので、順次再掲していくつもりです。
(その間に指摘されたり、自分で気がついたりした誤記・誤訳などは直した上で)
ペースは今までどおりですが、私としてはdat落ちしようが、また立て直し、
本書が終わるまではしぶとくスレを続けていきたいと思っています。
関心をもってくださった方々に感謝します。
>>51 私も含めてこういうスレはROMが多いと思います。
こんなペースじゃ自分の日記帳に書いた方がいいよ。
>>51 で書いたように、これから元スレの内容を再掲していきます。
>>53 のリンク先に元スレそのものがありますので(議論の卵氏に感謝します)、
以下の再掲では、質問等をいただいた部分は省略させてもらった上で、
必要な修正を施し、アンカーなども現スレに合わせて付け直します。
2004年はカント没後200年。とりわけ『永遠平和のために』 (初版1795年) は、
今なおアクチュアルなテクストの1つとして、狭義の哲学の分野にとどまらず、広い関心を集めています。
カントの中では比較的短いテクストですが、一緒に読んでくださるという方は、ぜひご参加ください。
● テクスト
ドイツ語原文を参照したい方は、ネット上にいくつもありますが、次などが読みやすそうです。
(とはいえ、正書法が現在のものとは多少違います。例: "zweyter" = 現在なら "zweiter")
Zum ewigen Frieden. Ein philosophischer Entwurf:
http://www.sgipt.org/politpsy/vorbild/kant_zef.htm
● 参考 余力のある方は、岩波書店版と理想社版の『カント全集』なども参照してください。 岩波書店版 『カント全集』 第14巻: 歴史哲学論集 「永遠平和のために」 (遠山 義孝訳) pp.247-316 理想社版 『カント全集』 第13巻: 歴史哲学論集 「永遠平和のために」 (小倉志祥訳) 図書館などでコピーをとるときには注釈もお忘れなく。
イマヌエル・カント (Immanuel Kant) 1724-1804 ● 導入1 まず、『永遠平和のために』がカントの著作の中でどういう位置にあるかですが、 書き出すとけっこう長くなりそうなので、ごく単純な事柄の確認だけで済ませましょう。 イマヌエル・カント(1724-1804)は、プロイセンのケーニヒスベルク大学で教えていました。 (ケーニヒスベルクは現ロシア領カリーニングラード) 17世紀の哲学者たち、デカルト、スピノザ、ライプニッツらが教壇には立たなかったのに対し、 カントはいかにも大学人然とした一生を送った哲学者といえます。 その彼の哲学を有名にしたのが、いわゆる「三批判書」でした。 1781 『純粋理性批判』(第1版) 1787 『純粋理性批判』(第2版) 1788 『実践理性批判 1790 『判断力批判』 このスレで詳しく触れることはないと思いますが、この「批判哲学」の主著が出揃った後に、 『永遠平和のために』(第1版 1795年、第2版 1796年)は出版されています。 この時すでにカントは70歳を越えていたわけです。
もう一つ、これはこのスレの中で繰り返しふれることになると思いますが、 当時のプロイセン、ひいてはヨーロッパ全体の政治状況を振り返る必要があります。 1786年には国王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王、在位1740-1786)が死去、 続いて即位したフリードリヒ・ヴィルヘルム2世(在位1786-1797)の治下では、 宗教政策および言論政策上、大きな転換が起こることになりました。 (いろいろ評価はあるものの、わかりやすく言えば、一種の「反動化」といえるでしょう) その背景の一つには、1789年に始まったフランス革命があります(ルイ16世は1793年に処刑)。 ドイツの諸侯が革命の飛び火を恐れたのは言うまでもありません。 カント自身、1793年に出した『単なる理性の限界内における宗教』がもとで、 プロイセン当局から、宗教に関する発言を慎むよう訓告を受けています。 『永遠平和のために』は、条約の文言をマネたような構成になっていますが、 これも、1795年のプロイセン・フランス間のバーゼル講和条約を踏まえています。 (この条約によって革命後のフランス共和国が初めてヨーロッパの大国によって認知されました)
● 『永遠平和のために』 構成 [序言] 【第1章: この章は、国家間の永遠平和に関する予備条項を含む】 [13-25] 1. 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない [13f.] 2. 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、 継承、交換、買収、または贈与によって、ほかの国家がこれを取得できるということがあってはならない [14-16] 3. 常備軍は時とともに全廃されなければならない [16f.] 4. 国家の対外紛争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない [17f.] 5. いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない [19f.] 6. いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を 不可能にしてしまうような行為をしてはならない。たとえば、暗殺者や毒殺者を雇ったり、 降伏条約を破ったり、敵国内での裏切りをそそのかしたりすることが、これに当たる [20-22] [注: 許容法について] [22-25] 【第2章: この章は、国家間の永遠平和に関する確定条項を含む】 [26-53] 永遠平和に関する第1確定条項: 各国家における市民的体制は、共和的でなければならない [28-38] 永遠平和に関する第2確定条項: 国際法は、自由な諸国家の連合主義に基礎を置くべきである [38-46] 永遠平和に関する第3確定条項: 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない [47-53] [第1]補説: 永遠平和の保証について [54-71] [第2 補説: 永遠平和に関する秘密条項] (← 第2版以降の追加) [72-75] 附録 [72-111] I. 永遠平和という見地から見た道徳と政治の不一致について [76-99] II. 公法の超越論的概念による道徳と政治の一致について [99-111] 1. 国法、すなわち国内法に関して [101-103] 2. 国際法に関して [103-106] 3. 世界市民法に関して [106]
● 引用について
ドイツ語をあげる場合には、a, o, u のウムラウト(母音の上に .. がつくもの)は
それぞれ ae, oe, ue と表記し、エスツェットはすべて ss で代用します。
>>58 で断ったとおり、ネット上にあるドイツ語テクストは当時の正書法で書かれていますが、
ここでは原則として、すべて現代風に綴りを直して引用することにしたいと思います。
● 参考 『永遠平和のために』刊行200年を記念して、1995年には日本でも翻訳のあるO.ヘッフェが編者となり、 『イマヌエル・カントの『永遠平和のために』』という論文集が出されました(2004年にも再版)。 Amazon を見ていたら、この本のカスタマーレビューがあったので、その一部を翻訳して載せておきます。 この後、まだ論文集の紹介などが続くのですが、今日のところは、長いのでカットします。 内容について鵜呑みにすることはできませんが、現在ヨーロッパでの評価がどのようなものなのか、 その雰囲気がよくわかるレビューかと思います。あくまで参考です。 ------------------------------------ 以下引用 ヘッセン・ニーダーザクセン・アルゲマイネ紙は、2004年2月のカント200周忌に際して、きわめて適確にコメントしている。 「彼[カント]が今日かくも魅力的であり続けるのは、その著『永遠平和のために』で述べられた思想のためである。 そこでは、啓蒙された世界市民主義の視点が示されており、その道徳原理が現実の法に注ぎ込まれる。」 まさしくイラク戦争をめぐる論争の中で、カントの――今日に至るまで――最も重要な著書が繰り返し引用されている。 ロバート・ケーガン(Robert Kagan)はその著『権力と無力 新世界秩序におけるアメリカとヨーロッパ』で、 アメリカがホッブズを重視するのに対し、国際法を重視するヨーロッパがカントに依拠していることを批判した。 ヘッセン・ニーダーザクセン・アルゲマイネ紙は結論する :「普遍的な法システムを目指す者はみなカントに自らの正当性を求める。 今日我々がヨーロッパ的価値と呼んでいるものの核心は」カントの『永遠平和のために』にある、と。
『ドイツおよび国際政治雑誌』2004年2月号の卓越した論考「法のリアリズム 国際平和へのカントの寄与」で オーリヴァー・エーバール(Oliver Eberl)が正当にも指摘するとおり、カントは徹底したリアリストであり、 したがって「法の実在論(Realismus des Rechts)」と形容することができる。 それに対してロバート・ケーガンや他の論者のいうリアリズムは次第にナイーヴな 「権力の観念論(Idealismus der Macht)」だということがはっきりしてきた、と。 カントの著書こそ、サン・ピエールの観念論的な平和論を超克し、 その構想を批判的に読解するだけでなく、これを摂取し、反省を加えた。 エーバートはイラク戦争を例にとり、カントの著作の意義とリアリズム(実在論)を示している。 『永遠平和のために』の構想はユートピアなどではない。単に観念論的・道徳的な議論ではなく、何よりもまず法理論なのだ。 カントの描き出す人間像は、人間が理性をそなえたものだとする一方で、けっしてそれを道徳的に「善い」ものとは見なさない。 カントの平和論は単に平和を目指すというだけでなく、社会の内的構成をもあつかっており、民主主義や人権をもあわせて考察している。 政治学のいわゆる「国際関係論」において唱えられているリベラリズム理論(SchuleやCzempiel)もその考え方の多くをカントの著書に負うものだ。 こうして見れば、私見では近代で最も偉大なこの哲学者の没後200年に、 彼の最も重要な著書『永遠平和のために』を振り返ることは非常に時宜にかなっている。 また言うまでもなく、上にあげたオーリヴァー・エーバールの論考が、 イラク戦争というアクチュアルな出来事を考察の対象としていることもあり、本書に対する魅力的な解釈を示している。 ------------------------------------ 以上引用
どなたか『永遠平和のために』のフランス語訳が載っている サイトをご存知でしたら、教えていただけないでしょうか。 ちなみに、フランス語では Zum ewigen Frieden を何通りかに訳しています: Projet de paix perpetuelle (永遠平和の構想) Vers la paix perpetuelle (永遠平和に向けて) Pour la paix perpetuelle (永遠平和のために) Zum ewigen Frieden の zu (zu + dem = zum) をどう訳すか、 これはこれでけっこうややこしい問題なのですが(後述)、 フランス語訳のヴァリエーションはその反映とも言えるでしょう。
『永遠平和のために』の本文を読む前に、いくつか細かい話をしておきたいと思います。
本当に細かい話になることが予想されるので、そういうのが好きでない人は適当に読み飛ばしてください。
(知らなくても別段支障ない話ばかりになると思います)
● サン・ピエール
>>67 でも少し名前が出てきましたが、カントの『永遠平和のために』は、
サン・ピエール(Charles-Irenee Castel de Saint-Pierre, 1658-1743)というフランス人の
『ヨーロッパにおける平和を永久的なものにする構想』(初版 1713年)を踏まえています。
原題は Projet pour rendre la paix perpetuelle en Europe です。
>>68 で、仏語訳のタイトルの一つが Projet de paix perpetuelle であることに触れましたが、
ドイツ語原題には直接対応しない Projet がつけられたのも、サン・ピエールの著書を意識してのことでしょう。
もっとも、カント自身の『永遠平和のために』も1796年(初版の翌年)にはフランス語訳が出ていて、
出版元はケーニヒスベルクのニコロヴィウス、カント本人もこのタイトルに同意していたようです。
(Projet de paix perpétuelle. Essai philosophique. Koenigsberg: Nicolovius, 1796)
次のサイトに、賀川豊彦の書いた「世界平和に向かって人々はどう努力したか」という文章が
採録されています(雑誌『世界国家』 1952年2月より転載とのこと)。
http://www.jaip.org/toyohiko/27021.htm この中に、サン・ピエールとカントの所論の比較があり、とても簡潔にまとめられていて、
カントの議論がかなりサン・ピエールの著書に依拠しているらしいことがうかがえます。
(わりと)どうでもいい話の続きです。長いので、しんどかったら読み飛ばしましょう。 ● タイトル(1) 過去の邦訳をあちこちの図書館のOPACなどで検索してみたら、以下のものが出てきました。 ちゃんと調べたらもう少し出てくるかもしれません(「訳本」でないものもあります)。 1924 高橋正彦訳「永久平和論」国際聯盟協会 1946 山谷潤編「永久平和論 附歴史哲學的論文 獨文」新耕社[ドイツ語] 1947 船山信一訳「永遠の平和のために 一つの哲学的企図」十一組出版部 新版名著選 1947 伊藤安二訳「永久平和 一つの哲學的試論」研進社對訳版[英語との対訳版?] 1948 船山信一訳「永遠の平和のために」若草書房 1949 高坂正顕訳「永遠平和の為に」岩波文庫 1965 土岐邦夫訳「永遠の平和のために」河出書房『世界の大思想・カント下』[再版多数] 1985 宇都宮芳明訳「永遠平和のために」岩波文庫 1988 小倉志祥訳「永遠平和のために」理想社『カント全集』第13巻 歴史哲学論集 2000 遠山義孝訳「永遠平和のために」岩波書店『カント全集』第14巻 歴史哲学論集 原題 Zum ewigen Frieden の訳し方という観点から見てみると、 Frieden は「平和」以外の訳がちょっと考えにくい。 ewig(en) は「永遠」と訳すか「永久」と訳すか、まあどちらでもいいのですが、 傾向としては時代が下るほど「永遠」になっていったようです。
ただ、ちょっと気になっているのですが、わりと古めの日本語文献を見ると 『恒久平和論』として言及されていることがけっこうある気がします。 推測するに、大正末から昭和初年にかけて岩波書店が出した『カント著作集』(全18巻)に おそらく『永遠平和のために』が収録されていたはずで、調べはついていないのですが、 1926 木村素衛他訳、岩波書店『カント著作集』第13巻 一般歴史考其他 に入っている可能性が高く、その時の訳が『恒久平和論』だったのかもしれません。 (これはあくまで推測。誰か調べることができたら教えてください)
● zu の意味(1)
問題は Zum ewigen Frieden の zum なのです。
>>68 でちょっと書いたとおり、この zum は前置詞 zu と定冠詞 dem がくっついた形で、
英語に直訳すると、ほぼ to the に相当します。あくまで直訳です。
ドイツ語の前置詞 zu にはいろいろな意味がありますが、基本的な意味の一つとして
「移動の到達点」(〜まで、〜の方へ、〜に向かって)を表わします。
そこから派生したのが「目的」(〜のために)の用法です。
これが『永遠平和のために』という訳の採用された理由だと思うのですが、
Zum ewigen Frieden がこの用法だとはちょっと考えにくい気がします。
辞書の説明を見ても、この意味の zu の後に来るのは「主に動作名詞」だとあります。
例: 〜 zum Essen einladen (〜を食事に[食事をするという目的のために]招く)
Essen は「食事(すること)」というある動作を意味する名詞ですから、
zu(m) を目的の用法として理解するのは問題ないのですが、
「平和」を意味する Frieden が後に続くとなると、ちょっとこの用法は難しい。
結論的に言うと、これは「〜について、〜に関して」の意味で、 次の例のように論文の表題としてもしばしば使われます。 例: Zum Begriff der Schoenheit (美の概念について) この用法だとすれば、Zum ewigen Frieden は『永遠(の)平和について』となり、 もう少しかたく訳すと『永遠(永久・恒久)平和論』となるでしょう。 おそらくカントはこのようなつもりでタイトルをつけています。(=第1の意味) 傍証として、カントの遺稿の中にあった Zum ewigen Frieden の準備草稿があげられます。 およそ1794〜1795年に書かれたという以上は、執筆時期もわからないのですが、 内容的にみて、おそらく著書を構想した最初の段階にあたるものです。 (ちなみにこの準備原稿は、岩波書店版全集の第18巻『諸学部の争い/遺稿集』に 「『永遠平和のために』準備原稿」(遠山義孝訳)として収録されているようです) 原文をそのまま引用し、訳をつけてみましょう。
Vom ewigen Frieden. Mittel dazu. 永遠平和について[von]。そのための手段) 1) Keine alte Ansprueche reserviren 1) 昔からの権利について留保をつけない 2) Keine unabhaengige Laender zu erobern 2) 独立した国家を征服しない 3) Keine stehende Armee (perpetuus miles) zu halten 3) 常備軍(perpetuus miles)を維持しない 4. Keinen Schatz zu sammeln. 4. 蓄財をしない 5. Keine Staatsschulden zu machen. 5. 国債を作らない -- Das sind negative Mittel. Positiv 5 jeden Staat sich selbst reformiren lassen ― これらは消極的手段である。積極的 5 あらゆる国家に自己自身を改革させる この箇所についてはまた後で触れることになりますが、 今注目したいのは、zu ではなくて von という前置詞が使われていることです。 (von + dem = vom になるのは zu + dem = zum になるのと同様の理由) つまり、当初の構想では「永遠平和について」という意味で ごく普通に使われる von という前置詞を使っていたのです。
● zu の意味(2) 『永遠平和について』がタイトルの本来の意味ですが、 カントは、Zum ewigen Frieden を二重の意味で使っていました。 岩波文庫訳の冒頭はこうなっています: > 永遠平和のために > > 「永遠平和のために」というこの風刺的な表題は、 > あのオランダ人の旅館業者が看板に記していた文字で、 > その上には墓地の絵が描かれていたりしたが、 訳文ではわかりやすく“「永遠平和のために」という”という部分を補っていますが、 原文ではタイトルの後、「この風刺的な表題が...」と、いきなり本文が始まります。
“Zum ewigen Frieden” Ob / diese satirische Ueberschrift // 〜かどうか / この風刺的な表題が // (どういう表題かというと:) auf dem Schilde / jenes hollaendischen Gastwirts, / worauf ein Kirchhof gemalt war, ... 看板の上の / あのオランダの旅館[経営者]の / その[看板の]上には墓地が描かれていた … (試訳: 墓地の描いてあったという例のオランダの旅館の看板には、この皮肉めいた屋号がついていたというが…) 要するに、Zum ewigen Frieden というのは旅館の名前なわけです。(=第2の意味) (オランダ語で書かれていたら文言は違ってくるはずですが) 上で書いたように、zu という前置詞の基本用法は「移動の到達点」なのですが、 そこから単に「場所」を表わす用法も出てきました(現在ではやや古い用法です)。 例: die Universitaet zu Berlin (ベルリン大学[=ベルリンにある大学])
この意味から派生して、zu の後に建物の標識や目印、由来や沿革などをつけ、 建物、特に旅館などの屋号に使うという用法が生まれました。 例: Kirche zu St. Joseph (聖ヨセフ教会[=聖ヨセフにちなんだ教会]) Gasthaus zum Roten Ochsen (料理店・旅館「赤牛亭」) 主人が紀州の出身だから屋号を「紀州屋」にするとかいう例と近いかもしれません。 Zum ewigen Frieden も看板に墓地が描かれていたオランダの旅館ということですから、 無理やり屋号風に訳せば、「永遠平和亭」という感じでしょうか。
ただし、これが「風刺的な表題」と呼ばれていることに注意する必要があります。 看板に墓地が描かれていたというのですから、「永遠平和」は「死」の婉曲表現なわけです。 日本語でも「永眠」とか「永久[トワ]の眠り」と言うので、すぐに連想が働きますが、 ドイツ語には、in den ewigen Frieden eingehen または zum ewigen Frieden eingehen の形で 「永遠の眠りにつく、死ぬ」という意味の熟語があるのです。 タイトルだけでずいぶん長い説明になりましたが、おそらくこれからたびたび指摘するように、 カントのテクストは案外こういう細かい言及や暗示があちこちに散りばめられています。 そのことを知らなくても理解できないことはないにせよ、こういう点に注意して読むと、 カントの主張がいろいろ微妙なニュアンスを含んでいることがよくわかってきます。
瑣末な話が続いたので、ちょっと内容にかかわる話をしましょう。 ● 全体の構成 上で引用した遺稿の冒頭部には『永遠平和のために』の (おそらく)最初の構想が書きとめられていました: >> > Vom ewigen Frieden. Mittel dazu. > 永遠平和について[von]。そのための手段 > 1) Keine alte Ansprueche reserviren > 1) 昔からの権利について留保をつけない > 2) Keine unabhaengige Laender zu erobern > 2) 独立した国家を征服しない > 3) Keine stehende Armee (perpetuus miles) zu halten > 3) 常備軍(perpetuus miles)を維持しない > 4. Keinen Schatz zu sammeln. > 4. 蓄財をしない > 5. Keine Staatsschulden zu machen. > 5. 国債を作らない > -- Das sind negative Mittel. Positiv 5 jeden Staat sich selbst reformiren lassen > ― これらは消極的手段である。積極的 5 あらゆる国家に自己自身を改革させる
これを完成稿の第1節と比較してみます: Erster Abschnitt, welcher die Praeliminarartikel zum ewigen Frieden unter Staaten enthaelt 第1章: この章は、国家間の永遠平和に関する予備条項を含む 1. Es soll kein Friedensschluss fuer einen solchen gelten, der mit dem geheimen Vorbehalt des Stoffs zu einem kuenftigen Kriege gemacht worden. 1. 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない 2. Es soll kein fuer sich bestehender Staat (klein oder gross, das gilt hier gleichviel) von einem andern Staate durch Erbung, Tausch, Kauf oder Schenkung erworben werden koennen. 2. 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、 継承、交換、買収、または贈与によって、ほかの国家がこれを取得できるということがあってはならない 3. Stehende Heere (MILES PERPETUUS) sollen mit der Zeit ganz aufhoeren. 3. 常備軍は時とともに全廃されなければならない 4. Es sollen keine Staatsschulden in Beziehung auf aeussere Staatshaendel gemacht werden. 4. 国家の対外紛争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない 5. Kein Staat soll sich in die Verfassung und Regierung eines andern Staats gewalttaetig einmischen. 5. いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない 6. Es soll sich kein Staat im Kriege mit einem andern solche Feindseligkeiten erlauben, welche das wechselseitige Zutrauen im kuenftigen Frieden unmoeglich machen muessen: als da sind Anstellung der Meuchelmoerder (PERCUSSORES), Giftmischer (VENEFICI), Brechung der Kapitulation, Anstiftung des Verrats (PERDUELLIO) in dem bekriegten Staat etc. 6. いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を 不可能にしてしまうような行為をしてはならない。たとえば、暗殺者や毒殺者を雇ったり、 降伏条約を破ったり、敵国内での裏切りをそそのかしたりすることが、これに当たる
草稿では5つだった項目が、完成稿では6つに増えています。 また、遺稿の2番目の項目が、完成稿では2番目と5番目の項目に分けられている一方、 遺稿の4番目と5番目の項目は、完成稿の4番目の項目にほぼまとめられたようです。 完成稿の6番目の項目は、新しく付け加わったものと考えてよいでしょう。 このような違いはありますが、草稿と完成稿は、内容ばかりでなく、形式の上でも似通っています。 草稿では上の項目が「消極的(negativ)手段」、つまり否定(negativ)の形で表わされることが強調されています。 草稿でも完成稿でも、ほぼ全項目に共通して否定冠詞 kein (英語の no money の no にあたる)が使われている。 訳文からも、各項目の内容がすべて「禁止」の形をとっていることはすぐにわかってもらえるでしょう。 そして、遺稿での構想が示すとおり、完成稿の第2節の各条項は、積極的・肯定的な形で述べられています。 当初の構想では、第1節と第2節の項目を5で揃えるつもりだったようですが、完成稿ではそれが守られていません。 また、分量で見ると、第1節に比べて、第2節のほうがはるかに長くなっています。
● 法理論としての『永遠平和のために』
第2章では、国内法、国際法、世界市民法という3分法が出てきます。
この3分法は、附録の「II. 公法の超越論的概念による道徳と政治の一致について」でも再びとりあげられ、
『永遠平和のために』(初版1795年)全体の、内容的な基本線となっています。
まったく同じ3分法は、1797年に出される『道徳の形而上学』第1部、
「法論の形而上学的原理」にも登場し、より詳しく述べられることになります(同書43節以下)。
『永遠平和のために』全体が、条約の文言をまねていることはすでに述べましたが、
論文全体の中で分量的に大きなウェイトを占める第2節がまさしく法理論になっていること、
平和論であると同時に、あるいはそれ以上に、法=国家論でもあるということ、
一見自明なようですが、このことは特に頭に入れながら読む必要があるでしょう。
草稿にあったように、第2節では「あらゆる国家に自己自身を改革させる」ことが問題となります。
このスレでどの程度触れることができるかはわかりませんが、
カントは、ある特定の国家観を前提にしています。
>>80 の引用で、大文字にしてあるのはラテン語の部分です。
本文中にラテン語の術語が出てくるのはカントのほぼすべての著作に共通してます。
が、もちろんラテン語の知識があることを見せびらかしたかったわけでは全然ありません。
18世紀後半の学術出版物のかなりの分量がまだラテン語で書かれていたのですから、
ラテン語ができるということは当時の知識人にとって自明の前提でした。
(カントが講義で使っていた教科書は大部分ラテン語のものです)
わざわざカントがドイツ語にラテン語を付けて説明しているのは、 当時一般に使われていた学術用語と関連をつけるためです。 「とりあえずドイツ語で書いたけど、ラテン語で言いかえれば○○ですよ」という感じ。 そして、カントがこう書くことによって、その方面の文献や議論に通じている読者は、 「なるほど、カントはあの著者のあの議論を念頭においているのだな」 というようなことが、すぐにわかったわけです。 カントが意図していた文脈をいちいち辿り直す必要はそれほどありませんし、 まともに辿ろうとすると、本格的に骨が折れる作業になります。 が、この文脈がわかると、カントの議論のポイントが明確になる、ということもよくある。 上で述べたカントの国家観というのも、このような思想的伝統に由来します。 それはいわゆる自然法理論であり、「国家=自然状態から法治状態への移行」と考えられている。 戦争が哲学上、法理論上の問題になるのは、自然状態からの脱出であるはずの国家が、 ほかならぬ自然状態(=戦争)の半永久的原因となっているというパラドクスがあるからです。 内容的に先走るのはこの辺にしておきましょう。 次からボチボチと本文の内容に入っていくことにします。
前口上の最後として、フランス革命後のカントについて話をします。 ● フランス革命とカント たしかハイネが『ドイツ古典哲学の本質』(岩波文庫)で出していた喩えですが、 フランス革命が政治の次元でやった革命を、カントは思想の次元で遂行したという並行性は、 同時代の人々にとって、わりとすんなり納得できる話だったように見えます。 もっともカント自身の政治理論は(彼の法理論をそう呼んでよいとすれば)良くも悪くも穏健なものです。 これは、当時の知識人から見てもそう思えたことでしょう。 理論理性の領域から神の認識を追い払ったほどの男ですから、 王侯君主など斬首してかまわないくらいの発言を期待する向きもあったかもしれません。 (当時、神様を殺すのは、王侯を殺すのと少なくとも同じくらい危険思想だったのです) そういう話はともかく、カントの教え子で、彼についての伝記的資料を残した人物の一人、 ヤッハマン(1767-1843)の報告を引用することにしましょう(この伝記には絶版ですが邦訳もあり)。 彼によれば、カントはフランス革命に並々ならぬ関心を示していたといいます。 これは複数の証言が一致して示すところです。意外にも(?)、カントは非常な社交家だったのですが、 いつも気の利いたさまざまな話題を、豊富な知識や逸話で味付けして楽しく聞かせるカントが、 珍しくフランス革命の時期にはその話ばかりになった、と言われています。
「彼[カント]は、世界と人間についての博識と透徹した精神をもって、この偉大な世界的事件がとるであろう道筋を いつも前もって示していた。また、この目的を促進したり阻害したりする可能性のある出来事なら、強い興味をもって接していた。 だからこの時期の彼の会話で話題にしたのも大部分が政治の話だった。この鋭敏な人物がしばしば、まさしく予言者のごとく、 [革命の]当事者たちですらおそらくは考えてもいなかったような出来事を前もって予言したのは、驚くべきことである。 事態が緊迫していた時期には新聞を待ちきれない様子で、郵便が届くのを何マイルも出迎えに行きかねないほどであった。 また、早い段階で、確かな個人的情報をもたらしてあげる時ほど、彼が喜ぶことはなかった。」 この予言者ぶりについては多少値引きして読む必要がありますが、カントが情勢予測めいたことを何度か述べたことは確かでしょう。 また、当事者よりも局外者のほうがある種の事柄はよく見えるということも、ありえない話ではありません。 いずれにしてもフランス革命に対する彼の関心は、ヤッハマンによれば、ただの野次馬的興味ではありませんでした。 「この合理的理想[=共和政体]の実現に対して熱心な関心を示していたのではあるが、 彼の関心には利己心であるとか功名心であるとか、そのほか、問題のあるところは少しもなかった。 それは、世界市民にして自由に思考する哲学者の純粋な関心であった。 彼は、理性の示した完全な国家体制という理念を実現するこの実験を、 ある重要な仮説の検証実験を見る自然研究者のごとき興味をもって、眺めていたのだ。 カントは、このような実験としてフランス革命をとらえていたし、まったき愛国者でありながら、 革命について考えるということに何ら問題を感じていなかった。 彼が真の愛国者であったことを示すのは、祖国[=プロイセン]、あるいは生地[=ケーニヒスベルク]への愛着だけでない。 我が国が他民族による他国の問題に干渉しないという彼の心からの、しばしば口に出された希望と、 この希望が実現した時の心からの喜びも、彼が真の愛国者であったことを示している。」
当時進行中の革命について、たとえ中立的であっても意見を述べることは、
そのまま危険思想と受け取られかねない部分がありました。(とりわけ革命が急進化した後)
普通の「愛国者」であれば、隣国の革命は国際社会が一致団結して押しつぶす対象ではあっても、
まともな思考能力の持ち主がまともに取り扱うべき対象でしかなかったのかもしれません。
ヤッハマンがカントの愛国者ぶりを強調する背景には、そのような声を意識している部分があります。
が、ここでヤッハマンが述べているのは、カントの革命に対する興味が同時に理論的興味でもあったということです。
すぐ後で述べるように、カントは革命という政治的手段を原則的に認めてはいないのですが、
その革命が(少なくとも当初は)かかげていた共和制という理念には賛成していました。
ついでに言っておくと、「我が国が他民族による他国の問題に干渉しないという彼の心からの、
しばしば口に出された希望と、この希望が実現した時の心からの喜び」という一節は、
>>63 で触れた、バーゼル講和条約(プロイセン・フランス間)の締結を指すものとされています。
この後、ヤッハマンは、『第三身分とは何か』で知られるアベ・シェイエスがカントとの文通を希望し、 別の人を通じてその旨を伝えてきたこと、カントがこれを断ったこと、 それが、プロイセン市民としてのみならず、世界市民として、哲学者として 許される範囲を越えてはならないという意図であったこと、などを紹介しています。 革命の思想的指導者の一人シェイエスがカントと文通していたとすれば、公開を前提にしていたはずですから、 すでに国境を越えて有名になっていたカントの発言は、国際政治的な意味をもっていたことでしょう。 そうなったとすれば、プロイセン政府にとってもあまり望ましくない結果が生じたかもしれません。 ヤッハマンは次のように強調しています。 「カントはけっして革命主義者ではなかった。ほかならぬ彼であればこそ、自らの原理と発言にしたがって、 誰よりも先に、誰よりも熱心に、あらゆる国家転覆の試みに反対していたであろう。」
● 参考資料
本題に入る前に、私が利用している資料を紹介しておきます。
まず、カントのテクスト自体については、以下の3種類:
(1) Immanuel Kant: Zum ewigen Frieden. Ein philosophischer Entwurf. Herausgegeben von Rudolf Malter. Stuttgart: Reclam 1984.
ISBN: 3-15-001501-4
レクラム文庫版。定価2.40 ユーロ(約350円)、Amazon.co.jp でも手数料付きですが、買えるようです(525円)。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/3150015014/qid=1092881610/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/249-3657970-9335552 コンパクトで安いので、とりあえず1冊もつとしたら、この辺でしょうか。
(2) Immanuel Kant: Ueber den Gemeinspruch: Das mag in der Theorie richtig sein, taugt aber nicht fuer die Praxis.
Zum ewigen Frieden. Ein philosophischer Entwurf. Mit Einleitung und Anmerkungen, Bibliographie und Registern kritisch herausgegeben
von Heiner F. Klemme. [Philosophische Bibliothek Bd. 443] Hamburg: Meiner 1992.
ISBN: 3-7873-1030-4
PhB (哲学文庫)版です。岩波文庫訳の底本も哲学文庫なのですが、版が違います。
岩波文庫のほうは1964年に出ているフォアレンダー編集版でした(再版)。
上にあげたのは、新しい研究の水準を踏まえた1992年の新版です。
版元の Felix Meiner 社は、カント没後200年に向けてか、
哲学文庫に収録されたカントの著作をここ10年あまりで次々に新規編集しています。
上の版は、『理論と実践』(1793年)という小文と、『永久平和のために』を抱き合わせた編集です。
両者は内容的にも関係が深く、編者のH. F. クレメによると、成立時期的にも関連があるとのこと。
ちなみに『理論と実践』は、岩波文庫版の『啓蒙とは何か』にも収録されているので、興味のある方はどうぞ。
さて、この版は何といっても注釈が非常に優れています。
テクストは第2版(1796年)にもとづいていますが、アカデミー版全集のページも欄外に記入されているので、
例えば、二次文献で「アカデミー版全集 第8巻 何ページ」と言われても、すぐに該当箇所が見つかるようになっています。
(3) Immanuel Kant im Kontext II. Komplettausgabe 2003. Werke, Briefwechsel, und Nachlass auf CD-ROM. Berlin: Karsten Worm (InfoSoftWare) 2003.
ISBN: 3-932094-13-1
その名のとおり、CD-ROM なのでいちいちコンピュータを起動しなければならないことなど、
この種のソフトにつきものの面倒はありますが、諸々のテクストを横断的に検索できるのは強みです。
アカデミー版全集の全著作と書簡のほか、著作準備メモなどの遺稿類、一部の講義筆記、
さらに、カントが講義に利用した蔵書(バウムガルテン、マイアー、アヘンヴァルなど)の再録、
およびこれらの著作へのカント自身の書き込みを含んでいます。
その他、コメンタールや研究論文集として次のものを参照しています。
(4) Volker Gerhardt: Immanuel Kants Entwurf 'Zum ewigen Frieden'. Eine Theorie der Politik. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1995.
ISBN: 3-534-03214-4
本文233ページが、『永久平和について』の構成にそったコメンタールになっています。
副題にもあるように、同書を「政治の理論」として解釈する、というのが基本スタンスです。
(5) Ottfried Hoeffe (Hg.): Zum ewigen Frieden. Berlin: Akademie Verlag 2004 (2. durchgesehene Auflage).
ISBN: 3-05-004084-X
>>66-67 で紹介した本です。初版は1995年。名だたるカント研究者たちが『永久平和のために』をいろいろな角度から論じています。
(6) Georg Cavallar: Pax Kantiana. Systematisch-historische Untersuchung des Entwurfs "Zum ewigen Frieden" (1795) von Immanuel Kant. 1992.
ISBN: 3-205-05504-7
大部の研究書。著者はドイツ語を母語としない人らしく、ちょっと読みにくいドイツ語なのが難。
序論部分の仮訳: 『永遠の平和(永久の眠り)』 [1] 墓地の描いてあったという例のオランダの旅館の看板がこの皮肉めいた屋号をつけていたのは、 (a) すべての人間をさしてのことなのか、それとも特に、 (b) 飽きもせず戦争を繰り返す国家元首たちをさしてのことなのか、あるいはことによると、 (c) かの甘美な夢を見つづける哲学者たちだけをさしてのことなのか、ここでは問わないことにしよう。 [2] しかし、本書の筆者として次のことだけは断っておきたい。 (i) 実践的な政治家は、(ii) 理論的な[=理屈だけで政治にかかわる、学者などの]政治家に対して、 机上の理屈をもてあそぶだけの相手として鼻高々と見下した態度をとる。 この学者どもときたら、経験則にもとづくべき国家に対して地に足のつかない理念を振りまわすだけで、 恐れるに足りぬ存在であり、九柱戯で11本の柱を一度に倒させたところで[=無茶をやらせても]、 世事に長けた政治家が気づかう必要すらない[その程度の相手だと思われている]。 [3] だとすれば、政治家は、学者と争う場合であっても一貫した態度をとらなければならないだろう。 つまり、学者があてずっぽうで口にする、公けにした意見の背後に、 国家にとって危険な思想などを嗅ぎつけたりしてはならない。 [4] 以上の「免責条項」によって、筆者はあらゆる悪意の解釈から、確実かつ明確に守られることになろう。
またまた細かい話が多くなりますので、そのつもりでお付き合いください。
● 序論 [1]
本書のタイトル Zum ewigen Frieden が旅館の屋号であったことは
>>75-77 でも説明しました。
ここでまず気になるのは、「例のオランダの旅館」という表現です。
こういう書き方をしている以上、カントは何らかのエピソードを踏まえているはずですが、
注釈によれば、カントが念頭においているのは、ライプニッツだとされています。
1693年に出版された "Codex Juris Gentium Diplomaticus" (『国際法典史料集』というところでしょうか。
上述 Gerhardt によれば、同書には元首間の宣戦布告、和平・停戦協定、婚姻契約が収められているとのこと)
という著書の序文で、ライプニッツは、およそ、次のように書いています:
「だから、バタヴィア[オランダ]の気の利いた法螺吹きなら、あの民族の流儀にそって、
『永遠の平和』と書いた看板を家[旅館?]のために(pro domo)掛けておき(suspendisset)、
綺麗な看板に墓地の絵を付け加えた(subjecerat)ことだろう。
つまり、そこ[=墓地]では死が安眠をもたらしたのだ。」
と、ひとまず訳してはみたものの、実は、あまり自信がありません。
なぜ同じ文の中に接続法過去完了(suspendisset)と直説法過去完了(subjecerat)が混在してるのか?
ラテン語の得意な人がいたら、教えてほしいのですが、ひとまず上では、仮定法的に訳してあります。
ちなみに、この序文は次のサイトでダウンロードできるようです:
http://www.bbaw.de/forschung/leibniz/potsdam/akt.html#vorausedition_des_bandes_iv_5 (PDF です。2.6 MB あるそうなので、気をつけてください…。該当箇所は、ファイルの45頁にあります)
どうも現在刊行中のアカデミー版全集の試験ヴァージョンのようです。
文脈をおおよそ辿りますと:
ホッブズの「諸国家ないし諸民族の間では戦争が永久に続く」という断定に言及し、
事実、講和条約が、まるで兵士の休憩時間と言わんばかりに、停戦協定の意味すらもたない場合があること、
最近も、講和条約直後に停戦協定が結び直されるという、冗談のような事件があったことをあげた後、上の引用箇所が続きます。
この事件というのは、上にあげたファイルの注釈によれば、蘭仏戦争(1672-78)後のフランス軍を指しているようです。
1679年にネイメーヘン講和条約が結ばれたにもかかわらず、フランスのルイ14世はいろいろ理由をつけ、国境を越えて進軍します。
結局、1684年にレーゲンスブルクの停戦によって、フランスが占領した地域を20年間の期限付きで承認することになったとのこと。
長くなりましたが、上の引用箇所は、実際にそういう旅館の主人がいた、という意味ではないのかもしれません。 「ルイ14世は自分勝手な都合でオランダに攻めてきて、いったん講和までいったのに、まだいろいろと難癖をつけて戦争している。 こうなったら、ワシらに平和が訪れるのは、永遠の眠りにつく墓場のなかということになりそうだ」 気の利いたオランダ人なら、こんな皮肉の一つでも言うに違いない、というところでしょうか。 ところが、事情はもうちょっと複雑なようです。 1712年の書簡で、ライプニッツはまた『永遠の平和』の話を出していて、 そこでは喩え話としてでなく、彼が実際に見た墓場のこととして語られています: 「私は、『永遠の平和』というこの言葉が、ある墓地の銘になっていたのを覚えています。 死んだ人間は戦争などしませんし、生きている人間はというと意見が違いますからね。 権力のある者たちは法廷の言うことなど気にも留めません。」 この書簡は1738年には刊行されているそうなので、カントが知っていた可能性もあります。 さらに、1716年、フォントネルがライプニッツの追悼演説をしますが、ここでも『永遠の平和』の話が出てきます。 「彼は、諸国の間で交わされた実にたくさんの、しばしば結び直された講和条約が、 [結局実現されていない以上] これらの国々にとって恥となることを公言しています。 悲痛な思いで、あるオランダ商人の店の看板に彼は同意しているのです。 その看板は、『永遠の平和』という題字をつけ、墓地の絵を加えていたのでした。」 内容的に見て、フォントネルは、おそらく上述の『国際法典史料集』序文を踏まえているのでしょう。 カントはフォントネルを評価していたので、この追悼演説をカントが知っていた可能性は非常に高いとのことです。
文番号 [1] について重要なのはむしろ: 「永遠の平和=死」という命題があてはまるのは、 (a) すべての人間か、(b) 戦争を繰り返す国家元首たちか、(c) 哲学者か という点でした。これも言い出すと話が長くなるので、上述 Gerhardt の議論に触れておきましょう。 カント自身は、この問題を「ここでは問わないことにしよう」と言っているわけですが、 結論としては、(b) を想定していたと考えて間違いないでしょう。 (a) だとすれば、永遠の平和の構想を語ることは本当に意味がなくなってしまうし、 (=人類が滅亡しないかぎり、平和などというものはありえない) (c) だとしても(ちょっと事情は複雑ですが)、同じことになるでしょう。 ただ注意すべきは、(b) にしても、あらゆる国家元首をさしているわけではない点です。 「飽きもせず戦争を繰り返す」国家元首という但書きがついているわけですから、 少なくとも理論上は、そうでない国家元首もありうるし、あるはずだとカントは考えているわけです。 この本が政治理論として構想されているかぎりで、平和をもたらす手段はあくまで政治の中に想定されている。 政治家をからかって済む話ではなく、政治そのものを変える可能性が、少なくとも理論上は、残されているわけです。
● 語学的注釈
[1] の文、つまり ob で始まる副文では gelte(n) という動詞が使われています。文脈から考えて、
「(非難・賞賛などが…に)向けられている」という意味で使われているのは間違いないのですが、
この用法の場合、「…に」の部分は3格が用いられることになっています。
(以下、ドイツ語の意味については、小学館『独和大辞典』第2版を参照します。
今問題となっている用法は、II (自動詞) 2 に相当します)
ところが、カントは die Menschen, die Staatsoberhaeupter, die Philosophen と、すべて4格にしています。
18世紀後半のドイツ語は現在と微妙に規範が異なる(あるいは、まだ定まっていない)部分があるのですが、
グリムの『ドイツ語辞典』を引くと、むしろ4格を使うのが元来の用法であって、
3格を使うようになったのは比較的後の時代だ、というような説明をしています。
ちなみに、グリムの『ドイツ語辞典』は33巻もあるので、ペーパーバックの廉価版を買ってもかさばりますが、
最近ではこれがオンラインで検索できるようになっています(恐ろしい時代になったもんだ)。
http://www.dwb.uni-trier.de/index.html (画面右上の "Online-DWB aufschlagen" をクリックすると検索画面が出ます)
● 序論 [2-3]
ここでは、実践的な政治家(der praktische Politiker)と理論的な政治家(der theoretische Politiker)が対比されています。
前者がいわば職業的な政治家であるのに対して、後者は通常の意味での「政治家」ではありません。
>>90 の試訳では、「理屈だけで政治にかかわる、学者などの」と勝手におぎなって訳しましたが、
すぐ後の「学者として(als einen Schulweisen)」(ここも意訳して、「机上の理屈をもてあそぶだけの相手として」としました)
という言い換えがあるし、文脈的にも、このように理解しておいて問題ないでしょう。
>>94 でも触れたように、ここでは例の「理論と実践」という対比が使われています。
一方では、「所詮、あなたがた(職業的)政治家は、私の話を単なる理論上の話としか思わず、馬鹿にするだろうから、
これから書く話(政治についての理論)についても、危険思想だなんて言って大騒ぎするのはごめんですよ」と釘をさすのが目的です。
カントは、宗教思想に関する発言を政府(国王)から禁じられたばかりだったので(
>>63 )、
一見大袈裟に見えるかもしれませんが、こういう心配もあながち杞憂ではなかったわけです。
しかも、ライン川の向こうではまだ革命が進行中なわけですから、国際政治はただでさえ微妙なテーマでした。
他方で、「理論/実践(Theorie/Praxis)」の対比には、カント哲学の一つの特徴が現われています。
まず、自分のことをどうやら「理論的な政治家」と呼んでいることに注目してよいでしょう。
「理論的」という形容詞はさておき、哲学者である自分もまた「政治家」だと言っているわけです。
カントも、これが挑発的な物言いだということは十分意識していたに違いありません。
細かく言い出すと長くなりますが、カントには、理論哲学と実践哲学の区分があります。 どちらも哲学である以上、理論であることにはかわりなく、実践哲学も「実践に関する理論」と言えます。 しかし、カントの実践哲学における要は、理論が必然的に実践を含意する(単なる理論ではありえない)点です。 キータームとなるのは「義務(Pflicht)」の概念ですが、いったんこの概念を認めた後は、 「いや、それは理屈(理論)の上の話だから」という言い逃れは成立しなくなることをカントは強調します。 「しかしながら、義務の概念にもとづく理論では、この概念が空虚で理念的なものであるという心配は完全になくなる。 というのも、われわれの意志による何らかの作用を目ざすという義務は、もしそれが経験[=現実]においても (この経験が実現されたものとして考えられようが、実現につねに近づいていくものとして考えられようが) 可能でないとすれば、義務とはいえないからである。」(「理論と実践」論文 1793年) 義務は「〜すべきである、〜しなければならない(sollen)」の形をとって表現されます。 Sollen をいちいち「〜すべきである」と訳すのは面倒なので、名詞化して「当為」ということもあります。 英語でいえば should, ought to などと同じだと思ってください。 もし「これこれ〜すべきである」という結論に同意しながら、「それは理屈(理論)の上の話だから」という留保が可能だとすれば、 結局、「これこれ〜すべきである」という結論を、自分では気がつかないうちに、理論の上でも、放棄していることになります。 理論をいったん認めた以上、かならず実践がついてくる ―― これがカントの義務概念のポイントです。
「まあいいや、そういうことにしとこう。でも、『〜すべきだ』としても現実には無理な場合もあるだろう」 ―― カントによれば、この論法も同じく成立しません。 「永遠平和に関する、道徳と政治の不一致について」と題された「附録 I」でも論じられますが、 「〜すべきである(sollen)」は原理的に「〜できる(koennen)」を含意しているからです。 カントは、ローマ法の格言 ultra posse nemo obligatur 「可能な範囲を越えては何人も義務を負わない」を引用しますが、 彼の主張は、いわばこの格言の対偶の形になっているわけです: 「〜できない、ならば、〜すべき、とはいえない」 = 「〜すべき、ならば、〜できる」 こういう背景を踏まえて読めば、「この本では理論的政治家として論じますから、実践的政治家のみなさんは、 危険思想だなんて騒がないでくださいね、落ち着いて、私の議論を読んでみてくださいね」と予防線をはる一方、 「理論の帰結をあなたがたが受け入れるかぎり、それが実践不可能だなんてことは言わせませんよ」という カント実践哲学の<実現可能性>を同時に主張していることになります。 つまり、カントは自分の議論が空論だなどとは少しも思っていないわけです。
● 語学的注釈
「九柱戯で11本の柱を一度に倒させる (seine eilf Kegel auf einmal werfen lassen )」という箇所、eilf は elf の古い形です。
「九柱戯(Kegel)」はボーリング(ピン10本)のような遊びだそうですが、通常ピンは9本、だから「九柱戯」と訳されます。
それを一度に11本倒すということは、普通なら、ありえないことです。
調べてみると、
Neue (Junge) Regenten koennen elf Kegel schieben. 新しい(若い)君主は[九柱戯の]ピンを11本倒すことができる。
というような表現があったらしく、日本語の「無理が通れば道理がひっこむ」のようなニュアンスで使われるようです。
>>95 にあげたグリムの辞書を引くと、この表現と、カントのまさにこの箇所が引用されています。
さらに、カント自身が草稿(
>>73-74 参照)で、
Die Metaphysiker die in ihrer sanguinischen Hofnung die Welt zu bessern immer zehn Kegel werfen
(d.i. das Unmoegliche thun) werden mit Achselzucken angesehen
「世界をより良くしようという楽天的な希望をいだく形而上学者[=哲学者]は、九柱戯で10本の柱を一度に倒す
(つまり、ありえないことをしでかす)にしても、肩をすくめて遣りすごされるであろう。」
と書いています(なぜか本数が10本になってますが)。
● 序論 [4] Clausula salvatoria というラテン語の法律用語、岩波文庫訳では「留保条款」となっています。 直訳するとこれは、救済条項、というほどの意味だそうです。1530年、皇帝カール5世のもとで刑法が定められ、 彼の名にちなんで Constitutio Criminalis Carolina (カール刑法法規集という感じでしょうか)と呼ばれますが、 この通称 Carolina に最初の clausula salvatoria が出てくるとされています。 広大な版図をもつドイツ帝国では法組織の統一が常に問題であり、領邦ごとに地方特別法がありました。 統一すれば、いろいろ便利なはずですが、同時に法的管轄が中央に奪われることを意味しますから、 当然、各領邦の諸侯たちはこれに強く反対します。 そこで、新しく定められた法規集には「副次的な効力」しかないこと、 つまり、地方特別法のほうが優先することを認めた上で、既存の法規がないときに限り、 統一的法規集が効力をもつ、という風に定ました。これが、「救済条項」の意味するところです。 実際には、一度スタンダードとしてこういう法規を認めてしまうと、統一されたもののほうが何かと便利だったりするので、 一種のデ・ファクト・スタンダードとして、次第に地方特別法を駆逐していくことになるのですが、それは別の話。 カントの文脈では、「理論的な政治家の言うことですから、あんまりムキになって危険視しないでくださいね」、 というほどの意味ですから、そのことさえ了解できれば、歴史的経緯はまあいいでしょう。
● フランス語訳
最近フランス語訳を2点ほど入手したので、簡単に紹介しておきましょう。
(なお、
>>68 で書いたように、タイトルのフランス語訳にはいくつかのヴァリエーションがあります)
(1) Emmanuel Kant: Ver la paix perpetuelle. Que siginifie s'orienter dans la pensee? Qu'est-ce que les Lumieres? et autres textes.
Traduction par Jean-Francois Poirier / Francoise Proust. GF Flammarion 1991.
タイトルにある通り、『永遠平和のために』のほか、『思考の方向をさだめるとはどういうことか』、『啓蒙とは何か』などの小品を集めたもの。
Proust による序文、注釈(巻末)、文献表、年譜が入っています。
(2) [Emmanuel] Kant: Projet de paix perpetuelle.
Traduction, presentation, commentaires de J.-J. Barrere / C. Roche. Editions Nathan [Les Integrales de Philo] 1991.
『永遠平和のために』本文には、かなり詳しい注釈(本文右の欄)がつき、序文、年譜、文献表のほか、
プラトン、エラスムス、ルソー、ヘーゲルなど、さまざまなテクストから平和と戦争に関する発言を紹介する「資料」編、
および、カントのテクストを理解するための「語彙集」が巻末に収められていて、なかなか利用価値は高そうです。
もう一つ、Vrin 社から独仏対訳版も出ているようなので、両方を対照して見たい人にはおすすめです。
また、翻訳ではありませんが、簡単なコメンタールのような本も見つけました:
(3) Dominique Bourdin: Emmanuel Kant. Projet de paix perpetuelle. Breal [Connaissance d'une oeuvre] 2002.
序論の後、本文の流れに沿った「研究」、テーマ別の考察が続き、さらに、同時代の反響、
後の時代の反応(例えば、アーレントやハーバーマスやデリダまで)が簡単に紹介されています。
(2) のものよりずっと簡潔ですが、語彙集もあり、目次や文献表もつけられています。
● 第一章 [13-25]
「第一章 この章は、国家間の永遠平和のための予備条項を含む」 [13]
第一章の各条項が、永遠平和実現の「消極的手段」を述べていることは、すでに述べました(
>>81 )。
草稿の5項目が、完成稿では6つになっていること、その順番が一部前後していることから考えて、
カントは、この6項目の関係をさほどシステマティックなものとは見ていなかったと推測できます。
第一章末尾に「許容法」に関する補足と長い注 [22-25] がありますが、
この「許容法」に該当するのも第二、第三、第四条項とされており、
各条項の並べ方にあまり厳密な理由があるようには見えません。
言い換えれば、これらの条項は歴史的・偶然的状況を背景にして提案されているものであって、
別の歴史的条件下であれば、カントも今の条項のいくつかを削り、別のものを加えていたかもしれない。
だとすると、当然、いくつかの条項は今日から見て非常にアクチュアルなものと思われる一方、
別の条項は時代遅れの感をいだかせる、ということも起こりうるわけです。
なお、見てのとおり、各条項は、まず条項本文、ついで、条項の解説というスタイルで論じられています。
● 第一条項 [13f.] 「将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。」 カントのコメントは、第一に、平和という概念の定義、ないし、平和という言葉の使い方にかかわるものです。 その前に一言、語学的注釈: 「平和条約」と訳されているのは Friedensschluss、「平和条約」ないしその「締結」を意味する語です。 それに対して、コメント本文は、Friede[n] の語義説明を行なっています (単数1格で -n がつかないのは古形)。 この Frieden には、英語の peace と同じく、「平和」と「平和(講和)条約」という両方の意味があり、 カントはその2つの意味を区別せずに議論しているわけです。 (1) 平和の定義: 平和 = 一切の戦闘行為(Hostilitaeten)の終結 ≠ 敵対行為(Feindseligkeiten)の延期(休戦) 岩波文庫(宇都宮訳)では、「一切の敵意が終わること」 [13] と訳していますが、 仮に永遠の平和が実現したとしても、個々人のいだく「敵意」がなくなることはないでしょう。 原語は Hostilitaet(en) で、おそらく「敵対行為」と訳された Feindseligkeit(en) と区別するため 訳語を変えたのでしょうが、あまり適切な訳ではないと思います(なお、-en は複数形語尾)。 Hostilitaet は(後期)ラテン語の hostilitas に由来する、ドイツ語にとっての外来語で、 ドイツ語の外来語辞典を引くと、Feindseligkeit と同義だとされています。 つまり、Hostilitaet は Feindseligkeit の単なる言い換えなのです。
「平和」とは、一切の戦闘行為ないし敵対行為の「終結」であって、 ただ暫定的・短期的に敵対行為を「延期」することではありえない。 もし一時的中断にすぎないのであれば、それは「休戦」と呼ばれるべきである。 言い換えれば、平和は、定義上、永遠でなければならない、というわけです。 さしあたりこれは言葉の用法を正すという目的をもっているわけですが、 条約締結の当事者に向けられたものとすれば、次のようにパラフレーズできるでしょう: あなたがたは『平和条約』なるものを結ぼうとしているが、 あなたがたの真意は、単なる『休戦協定』ではないのか? もしそうなら、それは正しくその名前で呼ばれるべきだ。 だが、もし『平和条約』を結ぶというのであれば、 今後、一切の戦闘行為をやめることを意味する。 だから、平和条約締結後に再び戦火を交えるとすれば、 あなたがたは自らの言葉に背くことになるのだ。 極端に言えば、当事者が、いわば本気で平和条約を結ぼうとするのであれば、 そのことによってすでに、永遠平和の実現が意図されているはずだ、という論法です。
なお、次の箇所について: 「<永遠の>という形容詞を平和につけるのは、かえって疑念を起こさせる語の重複とも言える」 [14] 「かえって疑念を起こさせる語の重複」という訳はちょっと苦しい(原文は ein schon verdaechtiger Pleonasm)。 Pleonasm[us] は、「冗語」とも訳される修辞現象のことで、例えば、「馬から落馬する」のたぐい。 (「落馬する」のは「馬から」に決まっているので、余計な語の重複だと見なされる) カントに言わせると、「『平和』という以上、本来の意味からすれば、永遠であることは当然なので、 わざわざ『永遠の』という語を付け加えると、『冗語』になってしまうおそれがある」ということでしょう。 おそらくこの verdaechtig は、verdaechtiger Taeter (「犯人だと疑われる人」)と同じ用法と思います。 「<永遠の>という形容詞を平和につけると、それだけで冗語ではないかと疑われる」という感じです。
(2) 過去の権利主張の放棄 第一条項のもう一つのポイントは、条約締結国が過去の権利主張を放棄すべきだ、という主張です。 これも、上で述べた平和の定義から直接に出てくる主張と言えるでしょう。 つまり、いったん平和条約を締結した以上は、「いや、あの時はちょっと黙ってたんだが、 やっぱりこの領土はウチのものだから、返してもらう」という論法は通らない、ということです。 日本の現行民法にも、いわゆる「信義誠実の原則」があります(cf. 第1条第2項)。 ローマ法に由来する概念で、普通、「契約当事者は相互の信頼を裏切らぬよう誠実に行動すべきだ」と説明されます。 例えば、契約を結ぶときに自分は知っているが、相手の気づいてなかった契約書の不備を その後の訴訟等で利用したりしてはならない、ということになります。 カントの議論は、それと同じ考え方を国際法の次元に援用したものとでも言えるでしょうか。 第一条項は、翻訳についてもコメントしたい点があるのですが、細かくなるのでやめておきます。 ただ、この条項にかぎらず、カントはあちこちで相当辛辣な皮肉をこめた書き方をしていて、 訳文はその点を――読みやすさの配慮からか――あまり伝えていないように思います。
● 第二条項 [14-16] 「独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、 継承、交換、買収、または贈与によって、ほかの国家がこれを取得できるということがあってはならない。」 第一条項の主題が、<平和>およびそれと相関する<戦争>の概念であったのに対し、 この条項では、戦争を行なう、あるいは、平和を設立する主体としての<国家>が定義されます。 (1) 国家の定義 「国家とは、人間の社会[集団]であり、その国家自身以外のなにものにも支配されたり、処理されたりしてはならない」 [15] (核となるのは、国家=人間の社会、という部分なので、その関係を強調するために訳文を少しだけ変えました) ヨーロッパの伝統的な法学理論には、人の法と物の法という区分がありました。 カント自身、『法論の形而上学的原理』(1797年)の中で、この区別を踏襲しています(11節以下)。 (ただし、モノ的でありながらヒト的でもある、どちらにも属さない中間的カテゴリーの提案もあり)
カント倫理学の中心として有名な「定言的命法」の次の定式(厳密は、「実践的命法」の定式ですが):
「自己の人格と、あらゆる他者の人格における人類を、決して単に手段としてではなく、
つねに同時に目的として用いるように行為せよ」(『道徳形而上学の基礎づけ』 1785年)
も、同じ区別にもとづいています。つまり、
人格(Person ヒト): 目的それ自体
物件(Sache モノ): 手段として用いられうる
という区別が、カントの議論の出発点になっています。
この「人格」とは、さしあたり、上の定式にもあるように、自己であれ他者であれ、個々の人間を指しますが、
すぐあとに出てくる「道徳的人格」 [15] のように、ある種の人間集団にも適用されうるものです。
この言葉は、なにやら「道義的に優れた人物」のように聞こえますが、もちろんそういう意味ではありません。
前出 Gerhardt (
>>89 )は、カントのいう「道徳的人格(moralische Person)」が、現代風に言えば、
「法人(juristische Person)」にあたることを注記しています(同じ意味で Rechtsperson ともいう)。
【余談: 「道徳的」と訳された moralisch には、「精神的」という意味もあります。 「慣習、しきたり」などを意味するラテン語の mos (mores) から派生した語で、 「自然」に対する「慣習・人為・制度」のような意味合いも含んでいます。 第二条項の注に、「身体をそなえたほかの人格(eine andere physische Person)」 [16] とありますが、 この physisch (自然的)という語が moralisch (精神的・人為的)と対比されているわけです。 生身の身体をそなえている、自然的人格(要するに、人間のこと)に対して、 身体をそなえているものではないが、人間であるかのようにみなされた、道徳的人格(例えば、法人)】 つまり、大まかに言えば、「道徳的人格である国家」も、定言的命法における人格と同じように、 「目的それ自体」として扱われねばならず、単なるモノのように扱ってはならない、ということです。 第二条項が、国家の「継承[相続]、交換、買収、贈与」を禁止しているのも、 国家が単なる物件(モノ)ではなく人格(ヒト)であるという、定言的命法と同じ理由によるわけです。
第二条項のもう一つのポイントは、上述のような国家の概念の背後にある「根源的契約」の概念です。
(2) 根源的契約の理念
岩波文庫版の注に、「これは社会契約説が唱える『社会契約』に当る」(p.114)と書かれています。
ホッブズの『リヴァイアサン』(1651)、ルソーの『社会契約論』(1762)などがよく知られていますが、
カントが直接念頭においていたのは、思想史的にはマイナーな法学者アヘンヴァルの『自然法原理』だったと思われます。
アヘンヴァル(Gottfried Achenwall、1719-1772)については、
http://www.achenwall.de/ に詳しい紹介あり(ドイツ語)。
アヘンヴァル 『自然法原理(Elementa Juris Naturae)』
この本は、第1版(1750年)以降、第8版まで版を重ねており、プロイセンではテキストとして広く使われていました。
カントも、自然法の講義にこの本を使用していましたが、彼の所蔵していた第5版(1763年)は
>>89 でも触れたとおり、カント自身の書き込みも含めて、アカデミー版全集に採録されています(第19巻)。
(なお、『自然法原理』にはドイツ語訳あり。ただし、第1版の翻訳なので、カントの使用した版とはかなり違います)
この『自然法原理』でも、国家を契約から説明するという立場がとられています。引用しておきましょう。
「国家は、本性上、契約によって成立する。この契約は、国家の統合の契約と呼ばれる」(第2部第91節)
元スレでolly さんが紹介してくれたページに、社会契約説が、「国家権力の法的正当性を概念として提示するために
露骨な社会学的虚構として要請された」という、A. ネグリの言葉が引用されていました(元スレ107参照)。
もちろん、理論的虚構であることは、社会契約説をとなえた当事者たちにも十分意識されていたことです。
岩波文庫版の注で、「カントによると、この根源的契約は、歴史的事実ではなくて、理性の純粋理念である」(p.114)とあるように、
「理論と実践」論文の中で、カント自身、根源的契約が理論的要請であることをはっきり述べています(同論文第2節)。
このような虚構が要請されるのは、たしかに、「国家権力の法的正当性」を主張するためですが、それだけではありません。 というより、権力が<法的に>正当化されるかぎりで、そこには一定の制限が加えられるのです(少なくとも理論上は)。 たとえば、王権神授説をとった場合、国王はせいぜい神について責任を負うだけで、国民に対しては何ら責任を負わず、 したがって、国王の恣意的な権力行使に歯止めをかけるものは、原理的にありえないことになってしまうでしょう。 アヘンヴァルがもう少し先のところで書いていることは、「国家権力の源泉と制限」という視点をはっきり示しています: 「国家元首は、人民から区別された人格と見なさなければならない。 国家の統治権は本性上、契約によって得られるのであるから(第1部第76節)、 国家元首は人民との契約からその統治権と主権をもつ。 人民は国家元首に支配権を委譲し、したがってまた自らを国家元首に従属させる。 それゆえ、そのような契約は特に(国民の)服従の契約と呼ばれる。 したがって、1) 元首は人民から主権を得ているのであり、神から直接得ているわけではない。 また、2) 元首の権限は、国民の統合ないし国民の服従の契約、さらに、国家の目的によって付与され(第35節)、 それゆえ統治権を委譲しようとした人民の意志によって付与される。 また、3) 元首の権力が効力をもつには、服従の契約が効力をもつことが必要である」(第2部第98節) 「元首は人民から主権を得ているのであり、神から直接得ているわけではない」という箇所には注釈があり、 1680年代に啓蒙主義者トマジウスと神学者マシウスの間で起こった激しい論争に言及しています。
社会契約説の問題点の一つは、上の引用文にも出てくる「服従の契約」にあります。議論の流れはこうです: 各人が自然的権利を無制限に行使すると、「万人の万人に対する闘争」に陥ってしまう。 これは結局、自然的権利の行使を妨げるばかりか、各人の生存すらも危うくする(=自然状態)。 それを防ぐために、人間同士が結束し、各自の自然的権利を放棄する契約を結ぶ。 この契約によって、各人は共通の支配者に服従するが、それによって生存が保証され、 一定範囲内ではあるが、各自の自然的権利を安全に行使できるようになる(=法治状態)。 ところが、国家設立のために放棄するという権利は、人間に生まれつき備わっているとされる以上、 そもそもこの議論は成り立たないのではないか(生まれつき備わっているものがどうして放棄できるのか)。 仮に完全な放棄ではないとすると、国家設立が契約である以上、状況次第で契約破棄も可能なのではないか。 例えば、圧制者を強いて国民の生存を危うくするような場合、抵抗する権利が認められるのではないか。 (これを認めてしまうと、国家権力の正当化・安定化という当初の目的が達成できなくなる)
カントは契約説をとりつつも、アヘンヴァルのいう「服従の契約」については違った解釈をとりました。 『法論の形而上学的原理』(1797年)で、カントは、次のように述べています: 「国家ないし国家の中の人間が、生まれつき備わった外的自由の一部を、ある目的のために放棄する、と言うことはできない。 そうではなく、無秩序で法を欠いた自由から完全に離れ、法的な従属、つまり、法治状態においてはじめて 自らの自由を、以前と変わりない形で再び見出すのだ。というのも、この従属は自己の立法する意志から生じているのだから」(第47節) パラドクシカルなことに、カントが理解する「自由」とは、実質的に、「法的従属」という形をとるわけです。 このことの意味や是非についてはまた別の機会に述べたいと思いますが、今ひとまず注目しておきたいのは、 このような「従属」が、各人のもつ、「自己の立法する意思」に由来するとされている点です。 国家が「道徳的人格」であるというのも、それが「自然的人格」の意志にもとづいていると見なされるためで、 定言的(実践的)命法が、個々の人間だけでなく、国家のような集団にも適用可能となるのは、 「根源的契約」のような理論的仮構を媒介にしているためだと言ってよいでしょう。
● 第三条項 [16f.]
「常備軍(miles perpetuus)は、時とともに全廃されなければならない」
すでに第二条項の最後で、内容的に関連する話が出ていました:
「一国の軍隊をほかの国に貸し与え、共同の敵ではない第三国を攻撃するのに使用させる」ことは、
「臣民」が「任意に取り扱われるような物件として用いられ、消費される」 [15f.]
ことであるがゆえに、許されないという指摘です 。
>>89 で紹介した論文集の中の H. Saner の論文(「平和の消極的諸条件」)は、
予備条項の、特に歴史的な背景について詳しい情報をあたえてくれます。
(たしかこの Hans Saner という人は、『カント政治哲学の講義』の冒頭で、
アーレントが、(カント政治思想の唯一の継承者である)ヤスパースの唯一の継承者として
名前をあげてた人だと思うのですが、手元にないので確認できません)
Saner によれば、18世紀には、自国の兵隊を外国に「貸し与える」ことがよくあったそうです。
当時はまだ傭兵(必ずしも自国民とはかぎらない)が一般的であったこととも関係あるでしょうが)
とりわけ、ドイツの諸侯が、イギリス、オランダ、フランスなどに対して行なったとのこと。
その際、軍隊の貸与の時ばかりでなく、兵士が死んだ時にも報酬が支払われたので、
兵士を「物件として消費する」商売は、諸侯にとってなかなか実りが多かったことになります。
第三条項のかかげる常備軍の廃止は、貸与される軍隊だけでなく、兵力一般にかかわる要求です。
ここには、(1) 軍備拡張競争に内在する戦争への傾向、(2) 手段としての人間の使用の禁止、
という、さしあたり相互に独立した理由があげられています。
(1) 軍備拡張競争のロジック カント(1724-1804)の生きた時代は、フリードリヒ2世(大王)の治世(1740-1786)と重なります。 この王の治下、プロイセンは、ヨーロッパの列強と肩を並べるほどになったわけですが、 当時のプロイセンは、パワーバランスから言って、歴史上稀に見る超軍事大国でもありました。 シレジア戦争(計3回、最後のものは七年戦争とも)によるシレジアの獲得と、 第1次ポーランド分割による西プロイセンの併合によって領土を広げ、 それに合わせて、人口のみならず、軍事力も急速に拡大させていきます。 Saner の示しているデータによって、フリードリヒの治世の間の軍備拡大を見てみましょう。 治世当初 人口: 220万 (ヨーロッパ中13位) 兵力: 8万 (ヨーロッパ中4位) 治世末期 人口: 600万 兵力: 23万
これだけの軍隊を維持するには、当然のことながら、法外な費用がかかりました。 Saner によれば、平時でも国家歳入の70〜80%、戦時にいたっては90%以上といいます。 これは民衆、特に農民に対しては、過酷な重税となって跳ね返り、生活を圧迫しました。 農民は、歩兵の供給源でもあったため、重税と徴兵の両方に苦しんだとされます。 「常備軍が刺戟となって、たがいに無際限な軍備の拡大を競うようになると、 それに費やされる軍事費の増大で、ついには平和の方が短期の戦争よりもいっそう重荷となり、 この重荷を逃れるために、、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである」 [16f.] カントの議論は、同時代のプロイセンにそのまま当てはまるものだったことが、よくわかるでしょう。 第2章の話とも関係しますが、あるタイプの国家体制は容易に軍備拡張への傾向をもつこと、 具体的に言えば、専制的君主(独裁者)の率いる国家や、中央集権的な統治機構が、 軍国化に歯止めのかかりにくいシステムだということは、プロイセンの例から見てとれます。 逆に、軍備拡張競争のさなかでは、どこの国も専制的・中央集権的になる傾向があります。 隣国でミサイルを開発しているという情報が飛び交えば、こちらも何とかしないと、となる。 こういう方向で話が動き出すと、民主的かつ合理的な議論は後回しになりやすい。 だから、軍備を抑える、あるいはそれ以上に、軍備をなくす方向へ舵を切ろうとすれば、 どうしても政治システムそのものを視野に入れなければならなくなる。 これは、カントの平和論が示す、非常に重要な論点の一つだと思います。
(2) 手段としての人間の使用
「そのうえ、人を殺したり人に殺されたりするために雇われることは、
人間が単なる機械や道具としてほかのものの(国家の)手で使用されることを含んでいると思われるが、
こうした使用は、われわれ自身の人格における人間性の権利とおよそ調和しないであろう」 [17]
人間は、「目的それ自体」と見なされるべきであって、「単に手段として」用いてはならない、
というカント倫理学の基本テーゼについては
>>107-109 で確認したので繰り返しません。
この一節は、原理的には軍事力というものが廃止されるべきであることを端的に述べています。
戦争が何らかの兵力ぬきにはありえないとすれば、これは、永遠平和にとって不可欠の条件です。
これまでにも何度か触れた、『法論の形而上学的原理』(1798)の結語では、
「永遠平和」が「最高の政治的善(das hoechste politische Gut)」であるとされています。
つまり、カントの道徳理論全体をささえている「最高善(das hoechste Gut)」の内容として、
「政治的(politisch)」という形容詞をつけながら、「永遠平和」を位置づけているのです。
(3) 民兵 ― <自衛権>の問題
ところでカントは、上の文を書いたそのすぐ後で、次のような留保をつけています。
「だが国民が自発的に一定期間にわたって武器使用を練習し、
自分や祖国を外からの攻撃に対して防備することは、これとはまったく別の事柄である」 [17]
常備軍は撤廃しなければならないが、自衛のための民兵ならばかまわない、ということです。
カントの議論の出発点は「自然法=自然的権利」ですから、この結論はある意味で自明でしょう。
つまり、人間は自然的権利として不当な攻撃から自分の身を守ってよい、いや守るべきだ、と。
よく読めば、カントも<自衛権>の容認にいくつか注意深く留保をつけています。
第一に、それが「自発的」であること、第二に、一定期間のみの練習であること。
問題は、いったんこれを認めてしまうと、なかば自動的に常備軍に逆戻りしてしまうことです。
Gerhardt (
>>89 )が紹介している例は、この点で非常に示唆的です。
「ヴァージニア権利章典」(1776年)は、平時の常備軍が自由への脅威として避けられるべきとしています。
(第13条、英語全文が
http://wiretap.area.com/Gopher/Gov/US-History/virginia.dec にあり)
独立達成後の『合衆国憲法』(1787年)でも、民兵が基本となる線は維持されているものの、
海軍については、連邦議会に創設と維持の権利が認められ、
陸軍についても、短期的には募集と維持の権利が認められることになりました。
(第1条第8節、日本語訳全文が
http://japan.usembassy.gov/j/amc/tamcj-071.html にあり)
ちなみに、海軍の常設化が認められるのは、緊急時になってから作るのでは遅いからです。
そもそも民兵といっても、それなりの実戦経験がなければ役に立たないはずで、
アメリカ独立戦争の勝利は、シレジア戦争(アメリカ大陸でも英仏の戦いがあった)の間に
実戦経験を積んでいた民兵組織に負う部分がかなり大きいとされています。
さらに、フランス革命後に制定された憲法(1791年)でも、陸海軍の保持が明言され、
その後の『フランス共和国憲法』(1793年)にいたっては、次のような勇ましい文言が登場します:
第107条 共和国総軍は全人民により構成される。
第108条 共和国は、平時においても、陸軍ならびに海軍を自らの費用において維持する。
第109条 すべてのフランス人は兵士である。全員が武器使用の訓練を受ける。
(仏語全文が
http://mapage.noos.fr/mlopez/lois_const_1793.htm にあり)
以上は、自衛権にもとづく軍備を、たとえ「自発的」な民兵としてでも、いったん認めてしまえば、
遅かれ早かれ、常設的な軍事組織にならざるをえないという実例だと言えます。
(そういえば、どこかの国の政治家も「自衛隊」を「軍」と呼びたくてしょうがない様子です)
歴史上どれほど多くの戦争が「祖国の防衛」のために行われたか、
いかにしばしば、「自衛」の論理が軍備拡張のための論理に転化されたか、
いやそれどころか、先制攻撃の口実として利用されたか。
このことを考えると、カントによる民兵容認の議論は再検討の余地があるように思います。
(4) 勢力均衡論?
これまで何回か参照した Gerhardt は、次に出てくる「兵力と同盟力と金力という三つの力」 [17] の議論から、
カントが唱えているのは、「軍事的、政治的、経済的勢力の均衡」だと主張しています。
このような見方については、岩波文庫版の解説で宇都宮氏が次のように指摘しています。
「カントがほかの著作で、軍事力の均衡による平和の維持という考えは
妄想にすぎないと語っているのも、参考になろう。
カントはそこで、スウィフトの話に出てくる家屋を例に引いている。
つまり一建築家がすみずみまで均衡の法則にしたがって建てた理想的家屋が、
たった一羽の雀がとまっただけで均衡を失い、崩壊したというのである」(p.128)
ここで言われている「ほかの著作」とは、「理論と実践」論文のことです(
>>88 、第3節)。
『永遠平和のために』は「理論と実践」論文と内容的にも成立時期的にも関連が深いので、
これほど重要なポイントについてカントの見解が変わった可能性は低いように思います。
また、私が見るかぎり、テクストから勢力均衡論の積極的主張を読み取るのも困難です。
仮にカントの意図が一種の均衡論だとしても、そもそも誰がその均衡を判断するのかという問題が残ります。
A国が軍備をもつと、B国ももっと軍備を増やさないと「均衡が保てない」と考える、するとA国もまた...
という悪循環が、第三条項で唱えられている常備軍廃止の論拠になっていたはずです。
ただし、Gerhardt の言い分にもそれなりの理があります。
後で「許容法」の問題(
>>102 参照)に触れるときにあらためて考えることになりますが、
第三条項には、常備軍が「時とともに」全廃されるべきだ、とありました。
つまり、即時の廃止を訴えてはいないわけです。なぜか?
いろいろ理由は考えられますが、例えば、軍人も職業なら、即座に解雇するわけにはいかない。
常備軍の廃止が絶対必要だとしても、即日実行にうつせば、それによって食べていけなくなる人もいるでしょう。
では、いつ、どのようなタイミングで常備軍をなくしていけばよいのか?
カント自身は何も言っていません、が、おそらく段階的軍縮を考えていたはずです。
その場合、常識的に考えれば、一部の国だけが先走って軍備を縮小すると、
かえって国際情勢を不安定にする可能性がないとはいえない。
つまり、軍備縮小も国際的にある程度歩調をそろえてやる必要がある。
もしそのような国際的軍縮が行われることがあるとすれば、Gerhardt のいうように、
何らかのバランスを考慮する局面がありうるかもしれません。
(ただ、私からすれば、一国先行型軍縮も十分可能だと思うのですが)
● 第四条項 [17f.] 「国家の対外紛争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない。」 (1) 国内経済と戦争 カントは、国の借金について、(A) 「国内経済」のために行われる場合、例えば、 「道路の改修、新たな入植、懸念される凶年にそなえた貯蔵庫の設置」 [17f.] と、 (B) 「戦争遂行」のために行われる場合とで、区別しながら論じています。 (B) について借金が許されない理由については、カント自身がいちおうの説明を与えています。 つまり、戦争を容易にする「危険な金力」となるということ、さらに、第三条項の議論にしたがえば、 「兵力と同盟力と金力という三つの力」のうち、金力は「もっとも信頼できる戦争道具」 [17] であること、 さらに、このような蓄財が不可避的に「国家の破産」を招くこと(これについては後述)、などの理由です。 ではなぜ、(A) の場合には、借款が問題ないとされているのでしょうか? なるほど、借金をすることは別に悪いことではないのだから、禁止する必要もないでしょう。 ただ、ここでは「国内経済」のためであれば、むしろ奨励されている印象すら受けます。 (「建設国債」のようなものでも、国家財政をあまりに圧迫するようになれば、 長期的には戦争を起こす動機の一つになりそうな気はするのですけど)
細かい話になりますが、伝統的理論ではよく、「公共の福祉(繁栄)」こそ国家の目的だと説明していました。
例えば、アヘンヴァル(
>>110 )も、bonum publicum (公共の福祉)などの語で国家の目的を説明し、
「公共の安寧は国家の至高の法と言われる(salus publica suprema civitatis lex dicitur)」としています
(『自然法原理』 1763年 第5版 第2部91節)。
これを受けるように、カントも、『法論の形而上学的原理』(1797年)で、次のように述べています:
「これら[=立法・行政・司法の三権]の結合のうちに、国家の安寧(Heil)が存する
(国家の安寧は至高の法である salus reipublicae suprema lex est)。
だが、国家の安寧というとき、国民の繁栄や幸福の意味にとってはならない。
というのも、繁栄や幸福は、ひょっとすると(ルソーが言うように)自然状態や、
あるいは専制政体においてでも、より快適かつ容易に得られるかもしれないからだ。
国家の安寧とは、我々が実現を目指すように、理性が定言的命法として命じる
法的な原理に、国家体制が最も調和した状態のことを意味している」(第49節)
ここでは、純粋な理性的法則(定言的命法)としての倫理が、はっきりと国家理論に結び付けられています。
カントは、公共の福祉を国家目的とする伝統に立ちつつも、他方で、その意味づけを大きく変えています。
つまり彼にとって、国民の(物質的)繁栄を実現するかどうかは国家の主要な関心事ではなく、
(理性的道徳法則に支えられた)法的秩序の確立と維持こそが重要なのです。
こういう国家観をどう評価するかはともかく、国内経済のための借款を奨励(?)するカントは、 彼本来の理論というよりも、むしろ伝統的な国家観に戻っているように見えます。 つまり、国内経済の基盤を整備し、飢えの心配がないよう準備することで、 国民の富や幸福を促進したり、貧困を減らしていくことこそ国家の目的だと認め、 何よりまず法的秩序の確立を目ざすという理論から、離れているように見えなくもありません。 1797-98年ごろのある草稿で、カントは、「国家体制の原理は市民の幸福ではない。 市民の幸福はせいぜい、本来の目的への手段となりうるにすぎない」と書いています。 国内経済のための国債を認めた背景には、同じようなロジックがあるのでしょう。 つまり、経済的条件が整い、一般の生活が安定してくれば、国政も安定し、 したがって、国際関係の不安定要因が少なくとも一つは解消される、 「市民の幸福」は「法的秩序」を維持する手段となりうる、という理屈です。 おそらくカントが『永遠平和のために』を書いた時、軍需産業のことは考えてなかったと思います。 もし仮に、国内経済の活性化が無条件に肯定されるような目的だとすれば、 国家が軍需産業を奨励し、場合によっては国債を発行してもよさそうなものです。 戦争(準備)がそれ自体商売になりうることについて、テクストには何も書かれてませんが、 カントの理屈からしたら、それは是認されない、ということになるでしょう。
(2) 借款制度
借款制度(Kreditsystem)が、「現世紀における一商業民族の巧妙な発明」 [18] だとされています。
訳注(p.115)にあるように、ここでいう「一商業民族」とは、イギリスのことを指しています。
前出の Saner (
>>114 )は、これについて次のように補足しています:
「これはイギリスのことを指している。カントは長年、早くからの革命国家の一つとして、イギリスには敬意を払っていた。
イギリスは、[対仏]第一次同盟戦争において、プロイセンに補助金を与えたが、これがなければ、
[プロイセン国王]フリードリヒ・ヴィルヘルム二世が戦争を遂行することなど不可能だっただろう。
自由な体制をもつと思われた国[イギリス]が、もっと自由な体制を目ざす隣国[フランス]に対する戦争を
財政支援したという事実は、カントに大きなショックとなり、カントは心の中でイギリスと絶縁したほどであった。」
実は、先に紹介したバーゼル講和条約(
>>63 ,
>>86 )にはちょっとした裏事情がありまして、
Saner の述べている、イギリスによる財政支援の停止が、講和を結ぶ動機のひとつになりました。
ちなみにもう一つの動機は、第三回ポーランド分割(1795)のため兵力が必要だったということです。
(3) 国家の破産
軍備のための借金がかさむことによって国家が破産しうる。
カントは、「最後にはどうしても避けられない」 [18] 事態として、この可能性を考えています。
むしろその危険を回避するために、戦争という別の危険に流れやすいということでしょう。
ただしカントの議論は、この危険を、負債国ではなくそれ以外の国の視点から論じてます。
一種の金融危機のような形で、他の国をも「損害にまきこむ」 [18] という危険性です。
ここで、国家の「買収」等を禁止していた第二条項を思い出す必要があります(
>>107 )。
この条項がないとすれば、負債国を分割し、借金のかたとして資金回収する手もないではない。
逆にいうと、そのような方途が残されているかぎり、返済能力のなさそうな国が軍備を進めていても、
そこに資金を貸しつける国がどうしても出てきてしまうわけです。
【以上、元スレからの再掲】
お疲れ様でした。まさか連投でアク禁にはならないでしょうね。
>>127 これでアク禁になったら笑えますね。
さて、「日記帳」なみのスピードですが、数日中に第一章を終わらせ、
その後、京都賞受賞記念(?)でハーバーマスのテクストの紹介などして、
第二章以下の内容に入っていきたいと思います。
皆様、よろしくお付き合いのほど。
Gillesさんお疲れ様です。僕も数日中にテクストを2回くらい再読して また来ます。よろしくお願いします。
残念ながら、この板に来ることはあまりないですが 蔭ながら応援してます。 続きを期待してます。
ageときやす
法学板のがいいんでない? 今の哲板は、すぐdat落ちするし、 アフォばっかりだし。
ho
134 :
考える名無しさん :04/12/15 16:25:18
age
ho
136 :
考える名無しさん :05/01/03 13:04:25
age
いま宇都宮訳読んでいたのだが、さっぱり理解できない。 誰か解説ぷりーず。
138 :
考える名無しさん :05/01/03 19:35:28
理解力がないんだろ。こんなの普通の人は直ぐ理解できる。
自然が永久平和を保証するのはなぜ?人間が法治国家を作り上げたことと どう関係するのでしょう。
sage
saage
mage
nage
age
s
h
学哲スレ保守
学哲スレ保守
今でもこのテキストを手本にしている平和主義者がいるのは何故でしょう。 現在は世界の警察であるアメリカが軍事力で世界平和を守っていることに 間違いないのに。
150 :
考える名無しさん :2005/05/08(日) 09:56:53
当時考えられる有効な手段だったのだ。 時代は変わった。
当時はB-2や原子力空母はもちろん 兵員輸送用のトラックも自動小銃もなく、 そもそも市民社会から兵士を大量動員する 国民軍のシステムすらなかった。
152 :
未来社近刊 :2005/05/24(火) 11:40:50
永遠平和のために(仮) カントのコスモポリタン理想にかんする論文集 ジェームズ・ボーマン 編 マティアス・ルッツ=バッハマン 編 紺野 茂樹 訳 田辺 俊明 訳 舟場 保之 訳 判 型:A5判並製 予定頁数:280頁 ISBN:4-624-01168-6 予定価格:3,200(税抜) 平和論の古典、イマニュエル・カントの『永遠平和のために』(1795年) の刊行200年、第二次世界大戦終結50周年、国際連合憲章制定50周年を 記念して1995年におこなわれたシンポジウムのために、アメリカ、ヨーロ ッパの第一線の思想家たちが寄稿したカント論集。マーサ・ヌースバウム、 ユルゲン・ハーバーマス、トーマス・マッカーシー他。新たな歴史的文脈で 読み直されるカントの平和論!
だれもいないのでボウリングしときすね。 ぷ...............。iiii
155 :
考える名無しさん :2005/07/04(月) 11:49:08
>>157 カントはもっともメジャーな哲学者の一人なので
主著ごとにスレはあってよい。
カント研究者のなかでも認識論・倫理学・美学等で
専門が分かれるという事情もある。
159 :
考える名無しさん :2005/08/04(木) 06:44:28
そろそろ一周年?
160 :
考える名無しさん :2005/08/14(日) 00:05:46
倫理かぁ
平和である事と、休戦を区別して、 平和が永遠であることについて書いてあるそうだ。
163 :
考える名無しさん :2005/09/25(日) 23:23:34
この本を読んでおいて頭につめこんでおけば そんじょそこらの好戦派なんかいちころ。 カントはおもしろいからね。
164 :
ウルトラマン :2005/10/03(月) 20:46:06
カントのこの本のおかげで世界連邦運動の基礎が出来た。 カントの哲学は全体(純粋理性批判実践理性批判判断力批判、真善美)で プラトンのイデアを感じる。
長期の休戦だけでいいの?
166 :
センズリ一筋 :2005/10/10(月) 19:23:29
田舎の連中は自動車乗りすぎ。俺の親戚東京の俺のところに来るとタクシー に乗るのが当たり前と思ってるんだよなー 東京は電車だよ。後は歩き。大分ある所でも歩き。分かったか田舎者。
第一章 第五条項 『いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない』 を伴に読みませんか?
伴に読み、伴に生きよう
169 :
考える名無しさん :2005/10/10(月) 22:41:51
>>164 >カントのこの本のおかげで世界連邦運動の基礎が出来た。
カントの哲学は全体(純粋理性批判実践理性批判判断力批判、真善美)で
プラトンのイデアを感じる。
「世界連邦運動」は、カルト宗教がさかんに唱えているよ。やはり、カ
ントやプラトン、それにソクラテスも、現実上の根拠は皆無な宗教に
過ぎん。ドイツ観念論、いや西洋哲学全体が宗教かな。
カントは世界政府を実現できるとは思ってないでそ あくまで理念なんだから
sg
172 :
考える名無しさん :2005/12/03(土) 17:41:34
173 :
考える名無しさん :2005/12/04(日) 14:47:32
,;-‐-、 ,;-‐'゙、^:^ー、. i' / ;' ;゙゙ヽ、 / 、 r、.゙:、゙i ヽ! ┬ `'゙゙、/_r ヽ、 / i゙ー'^ー'‐'‐' ,,-−'' ̄ ̄ ̄ ̄ ̄''−,,, `i ゙:、 / ,;! / :ィ≠ミヽ) f ィ'下:::テz_ヽ | ゙:、 . / ,;: | r' iノjr1` i;; i ヾで辷ノ ヽ. | ゙i / ;;'_,! :::r'7 ::. ヾ=' ''=-=''' ^ ̄´ ヽ.. _,! ゙: .,ノー‐‐'''''" ゙7'ー :| :: _―‐ 、,,_,,----.. ゙) ゙; ⌒`i::゙ヾ、___,,! i'::::::ヾ;;:::::::: ゙: ヽ`l /´ _..,, _..、丶 /,;i' :::::::::::::;;ノ .゙ヾ;;:::::゙、::::; ミ ヾ,l 丿 / ! i` T"i ! i ヽ ヒ -''゙ 彡 ::::::;;;/ /// `゙゙゙''ヾ;;!_ 彡 "l,_l 丿 /‐'" ̄ ̄ ̄`'''ヘ i ゙レr゙,, ミ -‐'" \\\ ヴォォォォォォォォォォォォ . ,´::::::::: ヽ":/ _../ ゙、 `−,_i ,!、":::::::;;ヽ、 \\\ /`-_::、N l :゙、 `、,-−‐-;,.,;−‐ー,,′/,フ ノ (::::::::::;;;;;-ミ、 /// " ,,゙ i |_i" ゙、 ゙、 / / i l" i´ ', i,, .i ":::: / | ヽ i / / .|'" ヾ ゙,, i, i :::/ .{ i 工エェェエ工 / | \ '; _i _/," :::/ '、 ゙l; : ゙ー 、,,_____,,....‐''´, ノ '、` _ ̄,⊃ _,,=='´ "::::,' / \ ゙l;: ,,_;,ノ \ ヾヽ ':;ヽ ,と二_ ,ノ / /`''-、`'ー--─'"-ヽ、 ヽ
HOshu
175 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 09:47:41
ァ ∧_∧ ァ,、 ,、'` ( ´∀`) ,、'` '` ( ⊃ ⊂) '`
177 :
考える名無しさん :2006/01/17(火) 16:48:25
初心者です。 第一章、第二章までは分かるんですが、補説と付録がなにを言っているのかよく分かりません。 これは自分の勉強不足ですか?訳が分かりづらいんですがどの本もこんなものですか? ちなみに『ワイド版岩波文庫 永遠平和のために 宇都宮芳明訳』をよんでます。
補修
179 :
考える名無しさん :2006/01/30(月) 14:59:00
>>177 無関係な持論をさり気に混ぜてるんじゃね?
180 :
考える名無しさん :2006/02/05(日) 16:12:55
素人の素人です。 自然は戦争によって人間を分散させた、戦争によって法的関係に立ち入らせるよう強制した とありますがそれならば戦争は将来人間のためになるということですよね? なら戦争を起こさせないように永遠平和を考察するのはおかしくないですか? それとも自然が起こす戦争と国家強大のために権力者が起こす戦争は全くの別物として考えねばならないのでしょうか。
>自然は戦争によって人間を分散させた、戦争によって法的関係に立ち入らせるよう強制した とありますがそれならば戦争は将来人間のためになるということですよね? ここが違うのでは。 人間のためになるのは法的関係であって戦争ではないから。 人間のためになるのは法的関係とその結果としての恒久平和だから 恒久平和を考察するのでは。
レスありがとうございます。もしよろしければ引き続きお相手をお願いします! 納得できたようなできないような・・・ 法的体制は戦争によってつくられたわけですよね。 ということはやはり戦争を否定することもできないような気がするのですが・・・ カントは結果として自然が戦争によって人を分散させ法的〜(ryにしたと考察したんですよね。 それならば今起きてる、たとえばイラク戦争だって後に結果として見れば否定できないかもしれない、という可能性はないですか? (自分でも間違った方向に考えがいっているのはわかるのですが、このように解釈できてしまうのです・・)
戦争は否定できないということだな。
カントの記述からそのように考えることが出来ませんか? 私はあくまでも反対派ですがね。そしてカントも反対派なのですが。 ・・・おかしい つまり私の解釈が間違ってるってことですよね。もうわからん
そもそもカントは平和の定義を戦争をしないことだとしているのだから。 それで平和のために戦争をしてはいけないと結論している。定義の問題だよ。
186 :
考える名無しさん :2006/02/05(日) 22:08:09
補説は無理があるよ いくら論理的に結びつけてもあれは詭弁だ 宗教や言語の違いが結果的に反乱をうみ共和制の種となるってもねぇ…… じゃあ今のイスラム対西洋の対立はなんだっていうんだよ それに軍事力の均衡は崩れると言っているのに、闘争状態の人が法を作って(共和制)利己的に結びつき合うっても、その秩序同士の勢力の均衡は崩れないっていうのかよ
定義の問題かぁ。カントの定義はわかりますが私は一体何を定義としているのか不明という・・なんなんだ自分 でも法的体制を確立することは平和には欠かせないって言ってるじゃないですか? 法的体制を確立するために戦争が起きたって なんかおかしくないですか? おかしくないですかね。私がおかしいんですかねorz
188 :
考える名無しさん :2006/02/05(日) 22:24:42
混沌→戦争→分散→各地で国家が興る までの古代の戦争は許せるとしても 各国家の侵略や臣民の使役、的な戦争はだめってことじゃん? 共同体的=共和的な人々が、自分たちの為に武装して戦うのはカントはいいって言ってる だめなのは、カントの生きた時代のように 王様がチェスの駒のように臣民を使役させた=臣民の意志ではない これがだめなんじゃん
>>188 サン
おお!!びびっときました。
そうかそうか。なるほど。
ありがとございます。あなたのおかげでわかりつつあります。
じゃあカントは国民の意思での戦争なら許すのかな?
それが一番こわいと思うんだけどなあ。
まあ国民は戦争をしようとは思わないって考察してるけどね。
↑自己防衛で戦争ってことじゃなく、ある民族が一体となって他民族を征服しちゃろうっていう戦争が一番こわいってことです。
>自然は戦争によって人間を分散させた、戦争によって法的関係に立ち入らせるよう強制した とありますがそれならば戦争は将来人間のためになるということですよね? 皆さんの議論がわかりません。 大事なことは、発生論と目的論とを分けて理解することだと 思います。カントの件の箇所を目的論として読むと引用した方のような混乱が 生じえますが、これを発生論として読むと整合的となりえます。 すなわち、戦争は人類を法的秩序に強制することに役立ち得るが、 そのような法的秩序への強制のために自然が意志して戦争を生んだ、 かく強制する目的で戦争が生まれたわけではない、と。 フロイト精神分析の一般化などで危うい議論に似ている問題だと思うのです。 子供に乱暴したらその子供が乱暴になった事例がある場合、 逆は必ずしも真である保障は無いわけで、すなわち、乱暴されて育った子供は 必ずしも乱暴になるわけではない。同様に、自然が戦争をさせたら人類が 法的秩序に強制されたという史実がある場合に、戦争をした人類が 必ずしも法的秩序に強制されるわけではないと言い得る以上、 恒久平和について考えることは必ずしも不思議ではない。 こうしたらうまくいった(失敗した)、ゆえにこうすべきだ(すべきでない)、 と常に言えるわけではない以上、カントが戦争に一定の意義を認めつつ、なお やはり恒久平和について思考したのはこのような事情によると思えるのですが。
192 :
考える名無しさん :2006/02/06(月) 19:51:16
死んだ方が楽だって時に人は自分を殺すとしたら、戦争したほうがマシだって時の平和は戦争より悲惨なものになるんじゃないか?戦争してないのが平和っていうかな?病気の種を秘めてる体が健康っていえるかな?
193 :
考える名無しさん :2006/02/06(月) 23:14:29
カントは、人間に「道徳的素質」がそなわっていると考えますが、 少なくとも現世での人間がそのまま「道徳的」であるとは考えません。 どれほど「人殺しはダメ」と言われても、あいかわらず人殺しをするし、 国同士でやる人殺しでもまったく事情は変わりません。 しかし例えば、戦争に強くなるために(臨時雇いの)傭兵ではなく、 国王がそれぞれ常備軍をお金をかけて維持するようになれば、 「一度の戦争であんまり自分の兵士が死なれても困るな」ということで 戦争に関しても国際的なルールを作るようになっていくわけです。 その結果、不意打ちで戦争をするのはダメ、ちゃんと宣戦布告しなきゃダメとか、 降参している相手に平気で攻撃を加えたりしちゃダメとか、あれこれ制約ができてくる。 別に国王がある日を境に道徳的になったわけではまったくなくて、 あいかわらず「戦争であいつの領地を分捕ろう」と考えてるとしても、 当人たちの意思とは結果的に反するような方向に歴史が動いてしまう。 カントが言っているのはこういうことではないでしょうか。 「自然」は人間たちが戦争を永久に放棄するという目的のために、 非常に逆説的なんだけど、ほかならぬ戦争という手段を使って、 人間を自分(自然)の目的に従わせている――かのように見える。
>>193 の通りだとしても
>>180 の
>それならば戦争は将来人間のためになるということですよね?
なら戦争を起こさせないように永遠平和を考察するのはおかしくないですか?
この疑問の余地はあると思うが。
196 :
193 :2006/02/07(火) 00:00:27
>>180 >>195 >それならば戦争は将来人間のためになるということですよね?
なら戦争を起こさせないように永遠平和を考察するのはおかしくないですか?
「戦争が将来人間のためになる」というのはちがうでしょう。
戦争が繰り返されることによって戦争しずらい社会ができてしまう、ということはありえる。
が、それは戦争が人間のためになっているということを意味しません。
戦争は(一部を除けば)人間のためにはならない、というのが大前提です。
問題の節はあくまで「補説」であり、永遠平和の「保証」を論じています。
カントにとって「自然」というのは「人間の主体的働きかけが及ばないもの」ですが、
永遠平和はまさに人間の政治的実践に関連する問題ですから、
自然による「保証」というものはあくまで消極的なものに過ぎません。
人間は本性上(=自然)戦争するように生れついているように見えるけど、
長い目で見れば、まさしくこの本性が人間を次第に戦争から遠ざける結果を招いている。
つまり、人間が戦争をするように生れついている(ように見える)ということは、
カントの考えでは、戦争が永久になくならないことを意味しないのです。
むしろ逆に、戦争をなくす政治的実践にとっての最低限の「保証」となっている。
(つまり、「自然」は永久平和という目的の実現をけっして邪魔していない)
戦争を起こさせないようにしていくのは人間の実践です。
もしこれを怠って全部を自然に任せてしまうなら(つまり戦争を続けていくなら)
カントが自虐的に述べているように、永遠平和は墓場にしかないことになる。
自然環境からの淘汰圧に対する遺伝子の試行錯誤の挑戦である我々は常に戦争状態である。 すべてエネルギーのぶつかり合いであるこの物質世界は常に戦争状態である。 戦争をなくすというのは部分的にしかできないことである。
>>180 の疑問については保留でいいと思います。
たぶん、マルクスの資本論について言われている問題と
同じところがある。マルクスによれば資本主義はほうっておけば
より進み、進めばすすむほどにより自身を危機に瀕するという
逆説があるのだとか。このことから、資本主義を打倒したい者たちは
ジレンマに陥ってきた。一方で、資本主義の侵入と進歩は
地域経済を追いやり多国籍企業の侵入を許し弱肉強食を推し進め
多数の人々を苦しめる。従ってこの侵入速度を抑え止めるために
資本主義への抵抗が叫ばれる。が、対症療法であり時間稼ぎに過ぎない。
他方、こうしたことから、むしろある程度の犠牲は覚悟の上で、
放置してどんどん資本主義を進歩先鋭化させてどんどん自身を危機に陥れさせれば
いいのだ、ということが根本治療として呟かれもする。
ちょうど、この意味における資本主義の扱いにくさと、戦争の扱いにくさと
似ていると思うのです。
>>180 です
たくさんの意見ありがとございます。
レスひとつ位つけばいいやーと思ってたんで嬉しいです。
私の疑問はやはり残ってます。でもそれは私の勉強不足(マルクスも教科書並にしか知らん)と思いますので保留にしていただいて結構です。
でもまだ質問が。
(しつこいですが)カントの自然が人間の分散、法的体制への関与のため戦争を起こしたという主張から
今起こっている悲惨な戦争の数々も後から見れば自然の配備だったと言える可能性はないですか?
それならば私たちは自然に反抗していると思うのですが、、、
それは良いのですか?
これも私がまたおかしな解釈をやらかしてるんですかね
考えてみるとカントの著述は味わい深いです。
>>180 の疑問については私などはわかるところもあるものの、
確かに
>>196 のいうように、カントの文脈に沿って読むならそのような疑問は
沸かない気もするんです。他方で、テクストは文意を超え出てしまう
ものでもある。それでやはり、保留でいいと思うのです。
>>199 >(しつこいですが)カントの自然が人間の分散、法的体制への関与のため戦争を起こした
という主張から今起こっている悲惨な戦争の数々も後から見れば
自然の配備だったと言える可能性はないですか?
それならば私たち(引用者注:恒久平和を求める者ら)は
自然に反抗していると思うのですが、、、
戦争も自然の配備なら、法的秩序への人類の強制もまた自然の配備、
さらにこうはいえませんか、恒久平和を求める論考もまた自然の配備である、と。
つまり、「後から見るとそう見える」と言う時に、
いったいどの時点から過去を遡って見るかによって
「自然」とその「配備」の内容が異なるにせよ、
「後から見ると」どのような内容であっても理屈で整合的に
説明できるかのように見えるのだとしたら。
後から見ると整合的に見える、だけど、そう整合的に見えるからといって
初めからそう意図されたわけではないし、
超越的な視点から設計され制御されたわけでもなく、たまたまそのような
合目的性が自然に与えられているかのように見えるわけです。
人類が戦争を繰り返そうが、反戦運動を繰り返そうが法的秩序を作ろうと破壊
しようと、全ては恒久平和への道に繋がるかのように見える。
であれば、私たちは自然に反抗しているか、
答えは否、です。あたかも反抗するかのごとく、結局は協力しているのです。
自然は逆説に満ちているという、
>>193 >>196 さんのありがたい教えに
従うならこう言えると思います。
けれども他方ではやはり、これはできすぎていると思うし、ヘーゲルのいわゆる 「ミネルヴァの梟は黄昏とともにようやく飛び始める」という譬えのように、 ある特定の終りになって都合よくでっちあげられる整合的な説明に過ぎない、 それゆえ更にその後から見ればまた別の(反対の)整合的な説明もまた やってくるだろう、それゆえ、いいかげんなものでもあると思うのです。 但し、にもかかわらず、たとえば、人類が国家という法的秩序を作り上げ 自らをそこに強制したという史的事実は、自然と恒久平和との合致 を裏付けるに十分でないにせよ、戦争ばかりが自然ではないことを指示するでしょう。 どういったらいいか、「自然=戦争」は法的秩序の発生や存立構造を 説明できない。他方、「自然=恒久平和」は人類の飽くなき争いをうまく説明できない。 それゆえ、どこかで「自然=逆説」を導入することでうまく歴史を説明するつもりになる ほかないのかもしれない。
自然が戦争や永久平和を保証するということはありえるのだろうか。 自分の意見を他の存在が保証していると偽っている可能性は無いのだろうか。
そうですね。ただ、疑いだすときりもなく疑える、 それだけのことですよね。 ただ、そうするとむしろ、恒久平和について自然との関係において、 何も言えなくなる恐れが強いし、そのことの不毛さのほうが 問題であり、さしあたりはカントの文意や文脈に沿って 理解を進めることのほうが、あたかもそのように見えるので そういうことにしておきますといって先に進むことが、 大事ではないかというのもわかるのです。
hoshu
205 :
考える名無しさん :2006/03/20(月) 03:36:24
age
『法論』を読まなきゃ『永遠平和論』の射程は理解できんよ
207 :
考える名無しさん :2006/03/31(金) 00:34:31
『思想』2006年第4号 No.984
http://www.iwanami.co.jp/shiso/0984/shiso.html カント永久平和論と現代
思想の言葉最上敏樹(1)
世界市民的な目的をもつ普遍史の理念と実践M.コスケニエミ(4)
デモクラシーによる立憲主義
──正義の戦争を否定するカントの対案──H.ブルンクホルスト(30)
自由か,安全か──はざまに立つ世界市民K.ギュンター(50)
カントの平和論
──ロマン主義とプラグマティズムからの逆照射──A.ボウイ(79)
【書評】
ボーマン,ルッツ‐バッハマン編『カントと永遠平和──世界市民という理念について』(68)
こっそり保守
保守
211 :
考える名無しさん :2006/06/28(水) 02:22:42
保守age点検
212 :
考える名無しさん :2006/07/04(火) 22:27:11
213 :
考える名無しさん :2006/08/11(金) 11:28:46
カントの正戦批判を知りたい
214 :
考える名無しさん :2006/09/12(火) 23:48:49
215 :
考える名無しさん :2006/09/15(金) 14:10:07
216 :
考える名無しさん :2006/09/15(金) 14:26:05
>中山元は在野で活躍する哲学者にして翻訳家。難解な思想を平易かつ >鮮やかな日本語に置き換える力には定評がある。その彼が世に問う、 >斬新な訳業。カントの著作には特有の難解な哲学用語があり、これまで >読者を遠ざけてきた。新訳では〈悟性〉〈格率〉などの専門用語をいっ >さい使わずに翻訳している。この大胆な試みは哲学の翻訳では特筆すべ >き快挙。いま初めて、カントは、日本で読まれ始める。 >〈悟性〉〈格率〉などの専門用語をいっ >さい使わずに翻訳 こういうの売りにした翻訳って胡散臭い。 ヘーゲルの長谷川訳もそうだが、単なる独善的な訳になるだけ。
217 :
考える名無しさん :2006/09/15(金) 14:37:15
哲学は逐語訳に限るって言ったのは浅田彰だったっけ。
218 :
考える名無しさん :2006/09/15(金) 17:05:30
いったん終了だな
終了
221 :
考える名無しさん :2006/11/10(金) 21:06:29
再開してもらわねば困るんだぜ?
222 :
考える名無しさん :2006/11/11(土) 00:09:46
カントとマルサスの関係は?
223 :
考える名無しさん :2006/11/11(土) 15:30:09
コピペばっかなのに遅いのは頭がよくないから?
224 :
考える名無しさん :2006/11/11(土) 17:20:46
マイケル・ドイルって政治学者がカントの恒久平和論と現代国際関係の比較してる アメリカンポリティカルサイエンスレビューって雑誌にある 80年代だったかな 興味がある方、読んで下さい
225 :
考える名無しさん :2006/11/11(土) 20:22:05
超訳だけどな
227 :
考える名無しさん :2006/11/11(土) 20:39:18
ぜんぜん
228 :
考える名無しさん :2006/11/12(日) 03:13:47
岩波文庫のが一番読みやすくて正確。
229 :
考える名無しさん :2006/11/12(日) 04:36:31
カントごとき低脳をあがめておるようでは人類の未来は暗い。
230 :
考える名無しさん :2006/11/12(日) 09:02:23
231 :
考える名無しさん :2006/11/12(日) 16:29:54
なんか信義則を取り上げて解説してるところあるけど見当はずれじゃない? ふつうに永遠という概念との関連のもと書いただけでしょ
232 :
考える名無しさん :2006/12/01(金) 22:16:43
233 :
考える名無しさん :2006/12/06(水) 15:13:39
234 :
考える名無しさん :2007/01/11(木) 18:49:00
民主主義国家は侵略戦争しないってあるけど これが破られた例あるの?
236 :
考える名無しさん :2007/02/26(月) 19:25:07
>>235 “侵略”の定義によると思うけど普通にたくさんあるだろ。
平和維持活動sage
238 :
考える名無しさん :2007/04/29(日) 12:54:49
ho
239 :
考える名無しさん :2007/04/29(日) 20:34:11
真っ当な民主主義国家同士の戦争なら無かったと思う。 フォークランド紛争辺りが怪しげだけどな。
>>235 細かいようだけど、「民主主義国家は侵略戦争をしない」とは言ってない。
第一確定条項のあたりを念頭においた話なんだと思うが、
そこで言われてるのは「共和主義的(republikanisch)な政体」のこと。
共和主義的というのは、
1)ある社会の成員が<自由>であり、
2)この成員たちが唯一かつ共通の立法に<従属>し、
3)この成員たちが<平等>である
という原理に則った政体とされている。
カントが主張しているのは、(A)共和主義的でない政体に比べて、
(B)共和主義的な政体は「永遠平和」実現の「見込み」が高い、ということ。
(A)の場合(元首が国家の一成員というより国家の所有者であるような場合)、
元首は、戦争による災厄が自分の上に降りかかってこないかぎり、
ちょっと散策でもするくらいの気で、容易に戦争を決断してしまうだろう。
(B)共和主義的政体が戦争を決断する可能性もないわけではないが、
その可能性は格段に低くなる、とカントは言っている:
もし(この政体においてはどうしてもそうなるが)「戦争をするかしないか」を
決めるのに国民の同意が必要となるとすれば、国民は戦争がもたらす苦労
(例えば:自ら戦場で戦うとか、戦費を自分たちの財産で賄うとか、
戦争がもたらす荒廃をなんとか改善していくとか、もろもろの災厄に加えて、
平時さえも辛くする、(また新たな次の戦争のために)決して解消できないような
負債を自ら引き受けるとか)を自分自身で決定しなければならないから、
このように分の悪い事柄を始めるにあたって、かなり躊躇することになるだろう。
241 :
考える名無しさん :2007/05/05(土) 04:21:46
全ての国家が核武装すれば良い。 抑止力によって誰一人妙な真似をすることの出来ない状況を作り上げる。
読んでないでしょ・・・
243 :
考える名無しさん :2007/05/06(日) 03:10:16
世界中にCO2でなく精神安定剤を飽和させる。 議論はゆっくり、よって、政治もゆっくり、資本主義もゆっくり、手術も ゆっくりで人口が減る、訴訟もゆっくりでうやむやになる。 科学の進歩もゆっくりである。 平和とはゆっくりから生まれる。 宗教、人種、民族、国、等々の違いはゆっくりで解決するのか? 互いが興奮しないので議論がゆっくり行われる、繰返し繰返し、結論が出ない。 そのうち混合セクルスによって一つになるような結末がありそう。
sage
理想論と現実的な部分が描かれているから区別していかなきゃならない 少なくとも兵器を放棄することで和平に近づくのは正しい。ならそれするべきだろう
246 :
考える名無しさん :2007/06/09(土) 14:35:23 0
だね
でもさ国によって違うけど軍備縮小するじゃない?例えば日本だと自衛隊 関連している産業は打撃受けるじゃない?武器とか道具とか作ってる奴とか自衛隊学校辺りの産業とか他にもかなりあるだろうけど 細かいとこまでいれて影響がどれぐらいでるかってデータでわかる?
あのマルチしていっすか?
すまんかくとこまちがえた向こうだった
>>1 〜249
↓がおまえら役立たずの馬鹿めらのための文章だ。これを一日5回は声に出して読んで脳に叩き込め。
訳の分からない気取りで、わざと難解そうな文章を書く人はどうせみんなから捨てられる。
このことは、肝に銘じておいたほうがよい。
日本の知識業界は、長く1920年代からの、昭和初期の新カント学派と呼ばれる、「ドイツ哲学の学者達」の
悪弊に始まって、やたらと難解な文章を書くことが、偉い事だとだという巨大な思い違いをしている。
この病気は今でもなかなか治らない。本当は自分の頭が良く無いだけのくせに、やたらと、象徴語と、
ドイツ式観念語(本当は禅用語を無理やり当てはめただけ。観念とか本質とか根本とか意識とか。500語)を使いたがる。
読んでいる方はいやになる。こんな下手な誰も説得できないような文章を、苦しみながら書いてるとあとあと大変だろうな。
どうせ誰も読んで分かることは無いのだから。当たり前のことを、はっきりと書くことができない。
やたらとこねくり回してそれが「するどい批評になっていなければいけないと、勝手に思い込む。
副島隆彦「属国日本論を超えて」
(副島隆彦「今日のぼやき」2001.5.21より抜粋)
私の頭の中は、今でもこのように、雑然とした理解で成り立っている。生活実感で理解できないと「理解」と
いうのはそもそも成り立たない。私はもの書き言論人としては、素人さん(一般大衆)レベルでの実感での理解、
というのをものすごく重視する。わけの分らないことを書く人や、その文章を毛嫌いする。
このことは、私は、「オッカムの刃」 Occam’s razor と言う考えを自分の思考原理に置いているからだ。
全ての事柄(事象)を徹底的に明晰にしようとする 思考方法であるオッカムの刃 については、そのうち書く。
この日本語という限界言語によってでも、私は、明確なものをぎりぎりまで追究して、死んで行こうと思っている。
(抜粋おわり)
↑コピペ荒らし氏ね
sage
253 :
考える名無しさん :2007/08/16(木) 01:45:33 0
age
sage
hο∫hμ..._〆(゚▽゚*)
256 :
考える名無しさん :2007/10/22(月) 03:06:35 O
積極的な平和構築の方法論てほとんどカントが書いた筋書き通りに形成されてきてるね 凄いよ、カント
sage
259 :
考える名無しさん :2007/11/24(土) 00:35:44 O
パクス・デモクラティア
sage
261 :
考える名無しさん :2008/01/07(月) 02:00:43 0
2chにまともなやつは来ないみたいだな
262 :
考える名無しさん :2008/01/07(月) 04:23:20 O
これ哲学書じゃねーし
263 :
狂人日記 :2008/02/04(月) 15:38:37 0
264 :
考える名無しさん :2008/02/04(月) 15:39:54 0
また荒らしか
266 :
スピノザ未読 :2008/03/18(火) 17:20:58 0
カントも未読なのですが、「永遠平和のために」の中には、日本の江戸幕府の ことがでているのですが。
「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」 というのは、最大限噛み砕いて説明すると、どういう意味なのですか
268 :
考える名無しさん :2008/03/22(土) 18:05:58 0
ものはそのものの性質じゃなくて見方しだいなんじゃねえかい
270 :
あめのみやつこ :2008/03/23(日) 06:55:47 O
大まかに言えば純粋理性批判も実践理性批判も西洋の仏陀といえる内容で政治に介入するあたりさしずめマハトマガンジーといったところか
>>257 「平和というのは、
すべての敵意が終わった状態を
さしている。
Peace means the end
of all hostilities.」
(池内紀訳『永遠平和のために』P8)
272 :
考える名無しさん :2008/04/28(月) 22:06:35 0
苦い体験で沢山のものを大事にしたいという思いは長続きするんだと思うよ。
エロ収集家としても凄かったって本当ですか
274 :
考える名無しさん :2008/05/20(火) 20:41:05 0
あげ
そしてさげ
276 :
考える名無しさん :2008/07/19(土) 15:28:07 0
カント!
277 :
考える名無しさん :2008/07/23(水) 13:08:07 0
やっぱり墓の上に掲げられる文字なのか
278 :
考える名無しさん :2008/08/20(水) 15:50:31 0
永遠平和か〜
279 :
考える名無しさん :2008/08/29(金) 04:51:34 0
中学生ぐらいに読ませるといいよね
280 :
考える名無しさん :2008/09/03(水) 19:37:18 O
カントは先駆者だわ。 現代の国際連合といい日本の憲法9条とか。 全部、永遠平和に書いてある。全国の学級文庫に置くべきだね。
だね。
可愛いふりしてあの子割とやるもんだね
岩波文庫の復刻版が本屋にあった。
284 :
考える名無しさん :2008/11/04(火) 20:31:33 O
「対外紛争のために国債を発行してはならない」の解釈の仕方を知っている方、いらっしゃったら教えて下さい。
285 :
考える名無しさん :2008/11/09(日) 11:50:04 0
勝った奴と同じになっていく原理が統一とその後の繁栄を生み、真の平和が訪れるのです
286 :
考える名無しさん :2008/11/20(木) 19:55:55 O
理論理性と純粋理性の違いをわかりやすく教えて
287 :
考える名無しさん :2008/12/28(日) 18:32:30 0
マルクスに言わせれば国家があるうちは永遠平和なんてありえない、 だろうね。
トロツキーの永続革命論に倣えば永遠平和どころか 年がら年中革命しとかなきゃ一般市民は幸せにならない。 これもしんどいな。
丸山眞男の言う「永久革命」ってトロツキーの永続革命論を意識してたんだろうか
国際連盟発足の際、永遠平和のためにの理念が生かされたと聞いたんですが、 その方は結果的に第二次大戦を抑止できなかったことで国際連盟のあり方と カントの理念を批判しとりました。当時の国際情勢を含めて永遠平和のために の実効性についてみなさんどうおもいます?
291 :
考える名無しさん :2009/04/21(火) 00:57:56 0
カントは軍事に興味を持てと言っている。 一般市民が軍事に携われば自分の命が惜しいからおいそれと戦争など 起こしやしない、と。 決して無垢な性善説では導かれない考え方だ。 冒頭に「永遠平和のために」の看板の話が出てくるが、これはカントの本音。 どうせ人類なんぞ懲りない面々なんだから、と言わんばかり。
sage
293 :
考える名無しさん :2009/06/28(日) 10:16:57 0
この本しか読まずに 「カントは永遠平和実現可能と考えていたという"読み込み"も不可能ではないのではないか?」 などと北大紀要論文に無知無教養をさらけ出した憲法学者がいた。 深瀬忠一という[当時]北大教授だった。 彼はカントの主著を読んだこともないくせに 紀要論文では読んだふりだけをして平然と論文を書いていた。 三批判も読まず、Rechtslehreすら読まず、出鱈目の文章をフレームアップしていた。 しかしカントはハッキリと「恒久平和はもちろん実現不可能な理念である」と名言している。 そんな文章をよりによって朝日新聞は1995年のある日一面トップのコラムで持ち上げていた。 それを読んだ私は仰天した。 無知なマスコミを騙すのは、ひいては国民全体を騙す卑劣な行為である。 同じクリスチャンとして私は恥ずかしい。
294 :
考える名無しさん :2009/06/28(日) 10:25:03 0
>>293 >「恒久平和はもちろん実現不可能な理念である」と名言している
これは言い過ぎでしょ。
すぐには実現不可能と考えていたとしても、
理念として永遠平和を立てた以上、
最終的には実現可能だとカントは考えていたと受け取るのが、
常識的なカントの読み方。
そもそもカントがただの現実主義者だったら、
そんな理念を打ち出すはずはないだろう。
295 :
考える名無しさん :2009/06/29(月) 01:44:21 0
>>294 ほれみろ、あんたもカント読んでないね。
私はカントから引用しただけだよ。日本語訳と原書で確認してるよ。
296 :
考える名無しさん :2009/06/29(月) 02:19:19 0
でってゆう
297 :
考える名無しさん :2009/06/29(月) 04:50:45 0
>>296 だから「理念」が実現するのだったら、それは
そもそもプラトン-カント系の論理ではないでしょと言ってるの。
298 :
考える名無しさん :2009/06/29(月) 06:16:35 0
でも、あんたもどうかしてる。 常識的には、その北大のせんせいのいうことでいいんだよ。 恒久平和は実現可能であるという楽天的なあり方は悪くない。 理念は理念である以上現実ではないし現実的でもない。 ただ理性的なものは現実に対して作用する以上その働きは無視し得ず ゆえに理念を掲げることには現実に意義のある姿勢だ。 世界が恒久平和となるべく準備するよう現実に働くのだから。
>>293 >この本しか読まずに
>「カントは永遠平和実現可能と考えていたという"読み込み"も不可能ではないのではないか?」
>などと北大紀要論文に無知無教養をさらけ出した憲法学者がいた。
293は、"読み込み"の内容を、よく考えている?
私はその論文を読んでいないから、なんとも言えないけど、
おそらく"読み込み"というからには、カントの文脈を一歩も出ないという意味ではないだろう。
それは、"脱構築"という意味さえ含んでいるのかも知れない。
それに対して、293はあくまでもカントの文脈を出ずに考えているよね。
そもそもそれは、妥当なのかな?
300 :
考える名無しさん :2009/06/29(月) 08:18:20 0
>>293 は、その言葉の置かれているカントの文脈が
全く読めてない。
理念の意味も分かってない。
字句に囚われてカントが読めてないのは、
>>293 のほうだろう。
301 :
考える名無しさん :2009/06/29(月) 10:03:49 0
>>298 「永遠平和の為に」というのが前訳者からの定訳になっているので、
世間ではそれで通っているが、カント的には「永遠平和へ向けて」と
訳すのがよりカント的な訳でしょう。
これは大学時代恩師(≠指導教授)にも確認を取った。
だからあなたの言っていることと私の言ってることはほぼ同じでしょう。
>>300 理念の意味も分からないのはそちらでしょ。
字句に囚われてるのも同じそちら。
>>299 当該深瀬論文でも読んでみたら良い。カントの三批判すら読んでいないことが
明らかに分かるから。それじゃぁ"読み込み"をして良い立場には彼はないでしょ。
そんな人間がどうして"脱構築"云々のレベルで考えたり書いたりしてるもんか。
あんな酷い"論文"がまかり通ってるから大学時代から私は怒ってるのだよ。
(南原繁氏は流石シッカリ読んでるね。)
302 :
考える名無しさん :2009/06/29(月) 11:31:08 0
>>293 深瀬っていう人に恨みでもあるのか?w
くだらない論文なんて山のようにあるわけだが。。。
しかもクリスチャン。。。
隣人愛はどうした?
303 :
考える名無しさん :2009/06/29(月) 11:52:32 0
>>301 >当該深瀬論文でも読んでみたら良い。カントの三批判すら読んでいないことが
>明らかに分かるから。
ここでその深瀬論文とやらを批判するのなら、
批判する根拠は君が示さなければだめだよ。
あたりまえのことだが。
304 :
考える名無しさん :2009/06/29(月) 12:10:28 0
>>302 私はカント哲学を冒涜するのが赦せないだけだよ。
隣人愛?学問に関係ないでしょ?思いつきで物を言うなよ。
私がここで取り上げているのは「くだらない論文」ではなくて、
社会に悪影響を及ぼした罪の大きい出鱈目の"論文"ですよ。
>>303 それは三批判とRechtslehreのレクチャーをここであなたに行えという意味ですか?
-----------------------------------
さて、指導教授は法哲学者ではなく、憲法学者だった。
この人も深瀬氏に劣らず憲法学界の大御所だった。
だがカントを読んでいるとは言えるレベルではなかった。
酷かった。私が第一批判から引用したうちの「A版B版」を
「このA版B版とは何版かね?」と平然とのたもうた。
そして私が引用した「Metaphysik der Sitten」を「これはGlunglegung zur〜の間違いだ」
と朱筆を入れた。
つまりこの人はカントの著作名すら知らないのである。中身を知っているわけは
もちろんなかろう。
師匠(宗教哲学者・文博。大学一年時より弟子入り)からは
「憲法学者に向かってそんな話したって無駄だ。
とにかく(通りやすい)卒論を書いてさっさと出て、大学院で哲学へ入れ」
と叱責された。
305 :
考える名無しさん :2009/06/29(月) 12:18:15 0
>>304 >それは三批判とRechtslehreのレクチャーをここであなたに行えという意味ですか?
まさか。 深瀬論文を批判する根拠が「明らかに三批判を読んでいない」なら、
「明らかに三批判を読んでいない」根拠も示さなければだめだという、当たり前のこと。
>酷かった。私が第一批判から引用したうちの「A版B版」を
>「このA版B版とは何版かね?」と平然とのたもうた。
支離滅裂だなあ。
関係ない人の話を書いても意味がない。
憲法学者を選んだ己の過ちを恥じるのが先だろ
私は
>>294 さんのいう、
すぐには実現不可能と考えていたとしても、
理念として永遠平和を立てた以上、
最終的には実現可能だとカントは考えていたと受け取るのが、
常識的なカントの読み方。
という説明に賛成する。
理念を立てることで悲惨な戦争ばかりの歴史的現実に対し
理性的なものを用いて異議を申し立て、
そのような現実に対し理性はしかし最終的には勝利し恒久平和が
訪れると啖呵を切ったこと。最終的には、という言葉の中に
統整的理念のニュアンスがある。ここからみてもくだんの先生のいうことには
一理あると思うな。永遠平和は不可能ではない、最終的にはね。
ただ、われわれが存命している間に実現できるかといえば違うだろうし
ずっと先のことだよ。
>社会に悪影響を及ぼした罪の大きい出鱈目の"論文"ですよ。 その社会的悪影響について具体的に紹介・詳解してください。 この論文のおかげで人が殺されたとかありますか? それともただの中傷ですか。
指導教授であった憲法学者への恨み ↓ 憲法学界一般への恨み ↓ 憲法学界の大御所である深瀬氏への恨み
↓ (?) (逆恨みから刺殺された中大教授事件が記憶に新しい・・・)
>深瀬論文を批判する根拠が「明らかに三批判を読んでいない」なら、「明らかに三批判を読んでいない」根拠も示さなければだめ
卒論ではそれで一番苦しんだヨ。
>>306 その通りだね。
>>307 >301で回答済み
>>308 確かに潜在的な悪影響としか言えませんね。
>>309 指導教授は深瀬よりも大御所でしたよ。
>>310 4年の4月の時点で死を夢に見るほど憎んだ。
1995年以降徹底的な祈りによって克服した。
あと当時の指導教授は故人なので殺すことは不可能。
死を訃報欄で見た時、「100まで生きろと思っていたのに」と怒りの念を覚えた。
同じゼミの友人にメールで通知したら似たようなことを言っていた。
彼は語学が苦手なので院へは進学しなかったが。
まぁこの人生今に至るまで一流の先生に恵まれまくったが、たまに相性の悪い人
当たったのも今は天の思し召しと肯定的に捉えている。
おかげでサボる習慣を身につけてしまった祈りの原理から考察することができたから。
以上。おしまい。
>>311 >1995年以降徹底的な祈りによって克服した。
貴方の書き込みを見れば、克服できたとは到底思えません。
さらなる精進(祈り)をおすすめします。
>>286 理論理性は理論的認識にのみ関わる理性。
純粋理性は理論理性も実践理性も含むので、理論的認識だけでなく実践的認識にも関わる。
314 :
考える名無しさん :2009/09/12(土) 13:29:22 0
age
315 :
考える名無しさん :2009/09/12(土) 16:36:36 0
カントって誰だっけ?
316 :
考える名無しさん :2010/01/13(水) 22:18:47 0
ドイツの大哲学者
カントの永遠平和のためにも含めて原書がほしいんだけど、アマゾンで買えるヒゲ文字じゃないのってレクラム版かズーアカンプ版しか ないかなあ?
>>317 kant frieden で検索してみ。いくつか版が出てくる。
PhBもあるけど、これはIBSNの「3787310304」で検索すると一発で出るよ。
>>318 なるほど、後者は緑の表紙のやつですね。
ありがとうございました
sage
321 :
考える名無しさん :2010/08/19(木) 22:34:55 O
322 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2010/08/20(金) 21:31:23 0
「平和は自然状態ではなく従って作り出さねばならない」 これはつまり対立する衝動相互の「同盟」のことであるが、カントのような 生理的特性を持つ個体はとりわけこの「同盟」という名の、 「相互の不本意な宥和状態」 を擁護せねばならない立場にある。なぜならカントのような生理的特性を 持った人間は「他者との距離」を出来る限り縮めなければならないからである。 策士的な偽善者であるカントは、建前上の相互扶助の状態の中で友愛の仮面 をかぶりつつ間合いを極力詰めて敵の懐深く潜り込み、敵が同情とためらいを 感じて苦悩している隙に毒針の一撃で刺し殺す「小さく弱い人間の戦闘本能」 を可能にするような状態でなければ自らの立場を優位にすることが出来ない のである。 「永遠の平和のために」とは、 どどのつまり「永遠の我カントの如き小さく弱い者にとって有利な立場のために」 ということに他ならない。
323 :
ン :2010/08/21(土) 01:01:32 O
将来において戦争を再開するための一時的な停戦条約は平和条約とは言えない この本におけるカントの第一声だ カントが戦おうとした相手こそ、まさにSHREEみたいな考えだ 「怜悧」が道徳に優位する、という思考を批判するために多くの補説を出している
324 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2010/08/21(土) 05:57:26 0
小さくて力の弱い人間が持つ愛想の良さと人あたりの良さにはくれぐれも気をつけろ。 実際の白兵戦においても、小さくて力の弱い人間は手足のリーチが相手より 短いので距離を詰めて相手の懐に入り込むしかなく、また力が弱いので 急所や傷口ばかりを毒針や短刀でチクリと狙ってくる。 これは小さくて力の弱い人間の他者との接し方や生き様においても言える。 つまり小さくて力の弱い人間はあからさまな敵対関係の下で互いに警戒して 距離を置くような状態が苦手なのであり、自分が少しでも優位に立つために 表向きだけは和気あいあいの平和的状態を必ず必要とするのである。
325 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2010/08/24(火) 20:41:31 0
民主主義あるいは万人平等という大勢多数の出来損ないがでっち上げた建前 の下でしか優位な立ち位置に立つことの出来ない者は、具体的物理的かつ総合的 に元々優れているという「貴族的性質」自体が許せなく思うのである。 つまり大勢多数の妬みの本音はこうだ。 「優れた者は平等の名の下にそれだけ損をするべきだ。劣った者は同じく 平等の名の下にそれだけいい思いをすべきだ。そうでなくては気に食わない。」 かくして民主化や平等主義の台頭が進めば進むほど「ガマガエルのように醜く 頭の悪い金満家」や「劣等感の塊のような英雄気取りの小男」が大勢多数の 妬みの傷の舐め合いの構造に助けられて頭角を現すことが可能となるのである。 つまり例えばナポレオンという愚にもつかない男はフランス革命による民主化 の波がヨーロッパ全土の隅々にまで影響を及ぼした後だったからこそ逆説的に 一時的勝利を収めることが出来たのである。 しかしそのチビ英雄ナポレオンも、民主化の波を回避することに成功した 「のっぽの英国貴族」と「毛むくじゃら大男のロシア人」の挟み撃ちにあい、 地理的に例えればまさに文字通りに、 「男女男」り殺されたような格好となったのである・・。
326 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2010/09/05(日) 22:09:08 0
本当に美しく気高い秩序とは「高きは高きに、低きは低きに」つまり事の 順逆があべこべに顛倒することのない位階序列の下に成立する秩序である。 そこではむしろ低いものは高いものに擁かれることで自分自身もまた気高く 美しい愛と憧れそして畏敬の念に満たされ、生きること自体に価値を見出 せるような完璧に整えられたシステムがはたらいている。 目も眩むほど強靭で壮麗な王や貴族が万民をあまねく恩恵と慈しみと厳父の 厳しさをもった眼差しで照らし出す時、そこに居合わせる誰もが金色に輝く のである。 事の順逆が正された健全な社会システムは天国をこの世の彼岸から連れ戻す。 美しく壮麗でより一層完璧な個人が支配する社会は、戦争や死すらも気高く 誇り高いものにする。そこでは上出来な者であろうと不出来な者もであろうと、 全ての者がひとしく時宜を得た「ふさわしい死」を死ぬ。 そこでは誰もが生に感謝し生を祝福しつつ胸を張って生涯の幕を閉じる!!
327 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2010/09/05(日) 23:08:57 0
大勢多数のものは、強者が同情とためらいの病気にかかることで彼に対する 「恐怖と畏敬」から解放されるや否やたちまち「妬み」が幅を利かすように なりついには自らの墓穴を掘る運命を辿る。 そこでは大勢多数の総意そのものが大勢多数にとっての暴君になり下がる。 大勢多数は畢竟、自分で自分の手綱を引き締めるにはあまりに弱いのである。 そのようにして人間種が存続し続ける意義自体の喪失、つまり忌まわしい ニヒリスムがやって来る。 つまり優れたものが同情とためらいの病気に罹ることで人類全体の頭上に暗雲 が垂れ込めるのである・・。 カントの求める意味における「永遠の平和」とは、所詮は病的なアナーキズム の一変種でしかない。そこでは蛆の湧いたような心の牙でいがみ合いつつ、 しかも大勢多数の弱さそのものから肩を摺り寄せあわなければならない羽目 に陥るような「絶望的に無価値な状態」が永遠に存続することが要請されて いるのである。
カントの本のどこを見ても 「永遠平和でなければならない」とは書いてなかったように思うが? カントはこうも書いていた 「永遠平和」 これが、哲学者の問題か、政治学者の問題か、それともいっこうに戦争をやめようとしない政治家の問題なのか それはここでは置いておくことにしよう
329 :
ン :
2010/09/06(月) 09:44:14 O カントとははなれるが 愚かな大衆が政治を治めることを嫌がったプラトンは 哲人政治を唱えた 「善のイデアを知る者が政治を治めるべきである」 ただ欠点は、善のイデアを知るような哲人は 独裁を善がなされないシステムと考えて民衆制を由とするところだ 「誰が政治を治めるべきか」 この問題に対して 「治めるべき支配者が治めるべきである」と答えようが 「多数派が治めるべきである」と答えようが、 権力争いの枠を越えない 「多数派」という名の権力による支配をどれだけの哲学者が支持したのだろうか? カントが言う「永遠平和」は、そのような支配を支持しただろうか?