95 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/21(土) 15:41:54
>94
信号授受のプロトコルとのアナロジーでみると、
最下層(物理層)が感性、その上に統覚っていうのがある。
その上に数層あって、概念は悟性、理性辺りの層。
世界について知る、という層は、プロトコルではアプリケーション層だと思うけど、
カントの純粋理性においては、
「世界について知る」という経験知は捨象されている、と思う。
だからこその「純粋理性」の分析。
おそらく物理層は感官に与えられるのであり、それらは現象だということになるのではないだろうか。
主観があることにより物理層であるという範囲の設定がなされ、他の事柄を介するにしても、もはや
物自体ではなく、媒介する事柄が何であるかということであるからだ。しかも、媒介物が感覚される
のであり、これも現象であると考えられるのではないだろうか。プロトコルは概念の規則であるにして
も、対象から与えられる感性が考えられる訳であり、概念は感性を思惟するものでないとすると、概念
が直観しているということになると考えられ得れるだろうか。これは起源があるものではない、経験的
な事柄に関係するものでないというよりも、アプリケーションという規則が矛盾しなければよい、とな
るだろう。ヒュームあたりがこれらの論を突き詰めた最高峰であるそうですよ。
97 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/22(日) 14:58:14
>96
<経験的な事柄に関係するものでないというよりも、
アプリケーションという規則が矛盾しなければよい>
<アプリケーションという規則>が何と<矛盾しなければよい>のでしょうか?
規則であると自己矛盾を含まないことでしょうね。
99 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/22(日) 15:23:51
>98
<規則であると自己矛盾を含まないことでしょうね>
そういうものがあるとして、それは、トートロジー以外のほかに、
何かあるのでしょうか?
すみません。
質問ばかりして。
或る時に判ることだと思われる、又は普遍は合理的と考えられるのではないかと思われる。
或る時に矛盾をしていないと考える事はできるでしょう、普遍も常に矛盾をしてないもの
なのではないでしょうか。人間に判るものは時間まででしょうか
101 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/22(日) 15:58:25
>100
<或る時に矛盾をしていないと考える事はできる>もの、
そして、<普遍も常に矛盾をしてないもの>
前者は弁証法としてみれば、理解できます。
後者は、そうすると、<時間>までということですね。
すると、それは、ハイデガーの書いているように、
「死を意識することから芽生える経験知」ということになりますね。
>>101 >「死を意識することから芽生える経験知」
時間は、死を意識することから芽生える経験知なのだろうか。
時間が経験であるとすると、反省であると考えられるでしょう。
或は、死体というものをみることから、時間が経験されるということ
になると思われる。
103 :
考える名無しさん:2005/05/22(日) 16:22:55
>>101 ハイデガーは時間は有限と無間どちらだと考えていたのでしょう。
104 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/22(日) 16:50:24
>103
ハイデガーの思索の領域は、物理としての時間自体ではなく、
人間の認識における、「死ぬことを意識することから芽生える時間」の認識まで、
と理解しております。
もちろん、それは、102さんが書いているように、「他者の死を契機とした、
自分自身の死」の意識です(自分自身の死を認識するというのは矛盾ですので)。
ですから、この「時間」は、自分の死までの時間、となりますから、有限、となります。
むしろ、「∞の時間」という命題は、カントの方のアンチノミーかと。
「常住不変性は現実的存在の相関者としての、変易と同時的存在の相関者としての時間を表現するのである。」
私解:常にあり変わらないものは現実的存在に相互的に関係するものとしての、変易と同時的存在の相関者
としての時間を表現する。
傾向:或る程度の不変性が現実的存在の相関者としての時間を表現する、ということは考え得る。
対策:或る程度の不変性は時間を表現するものである。
時間を表現するものは認識し得る。
それ故に、或る程度の普遍性は認識し得る。
補足:普遍性に度があるのかは知らん。
普遍性×
不変性○
107 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/23(月) 00:17:21
>105
物理公式において、時間を変数として置く場合、その時間の規則性は、
その物理公式の変数としては活用可能でしょう。
では、それらの公式に「∞の時間」を代入しても、
成り立つものがあるのでしょうか。
浅学の身にて、教えていただければ幸いです。
変移するものは、もちろん、時間を変数に用いる必要があります。
半減期等。
では、変移しないもの、即ち、不変のもの、というのが、
果たして、この宇宙に存在するのでしょうか?
書かれたように、変移は、それを語るにおいて時間軸が必要です。
では、不変なものがあるとして、
その絶対不変の計測軸として、時間以外に、
何をもってくれば宜しいのでしょうか。
ここで、「∞の時間」という、
カントのアンチノミーに入り込んでしまいます。
108 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/23(月) 00:23:32
カントは、∞分割の問題もアンチノミーとして措定しています。
これも、浅学の身にして、有限か、または∞である、と言い切っている
ものがあれば、教えていただけると、幸いです。
現代物理学では、このアンチノミーに、どれだけ答えられるのか、
非常に興味があります。
109 :
考える名無しさん:2005/05/23(月) 00:41:43
>>107 >物理公式において、時間を変数として置く場合、その時間の規則性は、 活用可能でしょう。
>では、それらの公式に「∞の時間」を代入しても、成り立つものがあるのでしょうか。
>浅学の身にて、教えていただければ幸いです。
1 規則性は活用可能であるとすると、成り立つとされているようです。規則性は活用可能
なものですか、活用可能なものでないのですか?そうでないとすると、規則が活用可能でな
いとすると、成り立つものではないようです。
>変移するものは、もちろん、時間を変数に用いる必要があります。
>半減期等。
>では、変移しないもの、即ち、不変のもの、というのが、
>果たして、この宇宙に存在するのでしょうか?
>書かれたように、変移は、それを語るにおいて時間軸が必要です。
2 変移しないものはどうでしょうね。変化するものは時間を変数に用いる必要があるとされ
ているようですが、変異するものでないと、時間を変数に用いる必要があるのかどうかが判ら
ないですね。まして、変移しないものは検討がつかないようです。ちなみに、常住不変のもの
ですと、「常住不変性は現実的存在の相関者としての、変易と同時的存在の相関者としての時
間を表現するのである。」 とありますので、このようであるのでしょう。
>では、不変なものがあるとして、
>その絶対不変の計測軸として、時間以外に、
>何をもってくれば宜しいのでしょうか。
>ここで、「∞の時間」という、
>カントのアンチノミーに入り込んでしまいます。
3 計測できるとされている時間は有限ですね、すると、計測できるものではないとされてい
る時間は無間ですね、従って有限な時間を表現するために無間の時間を軸に考えてみてはいか
かでしょう。時間は常住不変のようですから。
110 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/23(月) 01:18:15
>109
1.「<活用可能な>範囲においては、有効である」、ということですね。
2.<「常住不変性は現実的存在の相関者としての、
変易と同時的存在の相関者としての時
間を表現するのである。」
<現実的存在の相関者としての、変易と同時的存在の相関者としての時間>
までは認識可能なのですが、主語の「常住不変性」(=∞)が、述語の
「時間を表現するのである。」までの三段論法の二段目に、上記の時間の
規定をもってくるのは、少し、無理があるのではないかな、と思います。
3.「∞の時間」、とすると、「時間」ではなくなってしまう、と思います。
もちろん、数学では∞を措定することにより、
それこそ、非常に有効に機能する便利なものなのですが、
時間に∞を置くと、やはり、先験知でも経験知でも、
認識できる領域から、するりと逃げていってしまいます。
>>110 少し、というものはどのような不合理なのでしょう。時間は合理であるようです。
少しは度ということでしょうか、時間に度を考えることはできないということでし
ょうか。つまり、度は時間ではない。従って、不合理である。
だが、無限なものは感性に起源のあるものであるのか、ということが考えられる
でしょう。理論上は整合的であっても、感性の形式に関係し得ないということに
なるのではないでしょうか。感性は何であると考えているのでしょう。経験的な
感性であると、感性は感覚と反省ということになるのでしょうか。無限なものは
感覚と反省どちらで本質を捉えられているのでしょう。ここあたりが疑問ですね。
112 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/24(火) 21:17:04
>111
<時間は合理であるようです>
科学一般、日常生活一般の、∞ではない共通変数としては合理的なものですね。
ですから、あなたのいう<規則性=時間は活用可能である>と思います。
しかし、前スレの、主語の「常住不変性」(=∞の時間尺度が必要)が、
述語の「<有限尺度としての>時間を表現するのである」までの三段論法の二段目に、
上記の<有限の>時間の規定をもってくるのは、無理があるのではないかな、
と思います。
従って、<度は時間ではない。従って、不合理である。>
は、「∞の時間は、合理、不合理か、説明できないアンチノミーである」
ということになると思います。
113 :
考える名無しさん:2005/05/24(火) 21:28:28
時間(経過)でも、空間(距離)でも原理的には、どんなに大きくても測りうるということの
究極に∞が想定されるのであって、それは理念的 なものです。
114 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/24(火) 21:31:51
>111
<無限なものは感性に起源のあるものであるのか、ということが考えられるでしょう。
理論上は整合的であっても、感性の形式に関係し得ないということになるのではないでしょうか。
感性は何であると考えているのでしょう。
経験的な感性であると、感性は感覚と反省ということになるのでしょうか。
無限なものは感覚と反省どちらで本質を捉えられているのでしょう。
ここあたりが疑問ですね。>
「∞の時間」と置き、先験、経験、の二分法のどちらかに、あえて、分類するとすると、
先ず、先験知では感性、統覚、悟性、理性(純粋理性)すべての階層において、認識不能だと思います。
ですから、経験知(思考のための便宜的なもの。7+5=12と同様。
あるいは初歩数学の積分等に用いると非常に便利なお約束事としての便法。
「純粋理性」のらち外)ではないかな、と考えています。
いすれにせよ、カントは、「∞の時間=アンチノミー」と結論付け、
「純粋理性」では、有限としての証明と、∞としての証明を、等価と置いている
(=アンチノミー)と理解しております。
115 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/24(火) 21:39:03
>113
<どんなに大きくても測りうるということ>
<究極に∞が想定されるのであって、それは理念的 なものです>
そうでしょうね。
そして、それは経験知(先験知)ではない、経験知としての思考を
帰納、演繹させていくための前提、または、結論として措定される、
便法としての「理念」(経験知の共有のための、即ち、
思考/科学一般としての、便利なお約束事)だと思います。
116 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/24(火) 21:43:14
>115
誤)それは経験知(先験知)ではない、
正)それは先験知ではない、
>>114 >「∞の時間」と置き、先験、経験、の二分法のどちらかに、あえて、分類するとすると、
>先ず、先験知では感性、統覚、悟性、理性(純粋理性)すべての階層において、認識不能だと思います。
>ですから、経験知(思考のための便宜的なもの。7+5=12と同様。
>あるいは初歩数学の積分等に用いると非常に便利なお約束事としての便法。
>「純粋理性」のらち外)ではないかな、と考えています。
>いすれにせよ、カントは、「∞の時間=アンチノミー」と結論付け、
>「純粋理性」では、有限としての証明と、∞としての証明を、等価と置いている
>(=アンチノミー)と理解しております。
自分はこの文を以下の文章に解釈した。
時間は認識できるものではない。
何故なら、感性、統覚、悟性、理性、において、認識し得ないからである。
それ故に、時間は経験知である。例えば、7+5=12と同様である。
或は、便法である。それ故に、純粋理性の埒外ではないか、と考えています。
しかも、カントは、「∞の時間=アンチノミー」と結論付け、「純粋理性」
では、有限として証明と、∞としての証明を等価としている、と理解している。
118 :
考える名無しさん:2005/05/24(火) 22:06:47
感性的には「果てしない大海原」とか「悠久の大地」とかですが、
形式的操作に適合するように概念が精錬されてきたわけです。
>>114 時間は有無を論じられているので、既に概念にあるものであるということ
が明らかであろう、ただ、どのようなものが対象であるのか、ということが
知り得ないから、認識ではないと考えられているのでしょう。時間という概
念があるのだから、時間は規則として悟性にあるということが判ると思われる。
すると、何が時間であるのかという判断ができないので認識し得ないのだと
思われる。感性において、時間は悟性から直観に与えることができるので、
思惟の対象となるのであるから、恐らく直観に与え得るとされるのではない
でしょうか。ただ、質料を具えている感官の対象ではないとされるのではな
いでしょうか。つまり、思惟できるところから直観に再生されるものである、
感官の対象でないので感覚されるものではない、とされるのでしょうか。判
断表には無いようですから、悟性における純粋悟性ではないようです。理性
は判りませんが、時間において規則が対象を規定して知覚するとされている
ようなので、理性的な概念ではあるようです。理性はどのように働くとされ
ているのでしょうか。
有限と無間はどのような認識のあり方をしているものなのでしょう。その
あり方が認識の能力を具えたところを明らかにするように思われます。
時間は比較(時計の針のさっきの位置と今の位置・それに対応した対象の状態など)
において計られるもので直接観察されるものではありません。
距離も直接観察はされず2点の位置という関係において計測されるものです。
電池を逆さまに入れてあると、逆回転するんですが、時間は逆であると
考えるんですかね、又は時間はさっきの位置と今の位置に対応させて計
られた推移が時間であると、考えられるのでしょうか。
そのような推移は本来どうであるということにおいて考えられる推移と
されるようです。
ものさしを逆さまにおいて計るのと同じですね。
物差しによって測ることは推移の例と同じではないだろう。
運動は原因から結果が生じるのか、結果から原因が生じるのか、ということ
は物差しのように区分の量を知る事ができれば理解されるものという訳では
ないから、アンチノミーの問題と異なる事柄になるでしょう。
124 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/25(水) 18:54:39
>119
<時間という概念があるのだから、時間は規則として悟性にあるということが判ると思われる。
すると、何が時間であるのかという判断ができないので認識し得ないのだと思われる。
感性において、時間は悟性から直観に与えることができるので、思惟の対象となるのであるから、恐らく直観に与え得るとされるのではないでしょうか。
ただ、質料(量)を具えている感官の対象ではないとされるのではないでしょうか。
つまり、思惟できるところから直観に再生されるものである、感官の対象でないので感覚されるものではない、とされるのでしょうか。>
時間は、前レスでも書きましたが、先験知としての悟性/理性では説明不能の、また、これらに制御されない先験的な感性では認識できるものではないと思います。
カントのアプローチは、すべて、経験知を捨象しつくし、先験知だけの領域における、感性→統覚→悟性→理性というプロトコルを経て、アプリケーション層である、
悟性/理性において認識されるものを対象としているものと考えております。
カントは、精緻に先験/経験知を腑分けし、先験知として純粋理性の領域で、本来的に経験知でしかない、「時間」の有限、∞を考察し、
そして、アンチノミーに陥るものとした。
先験知では解ききれない、即ち、先験知の領域ではないものとした、と理解しております。
125 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/25(水) 19:03:45
>119
<時間において規則が対象を規定して知覚するとされているようなので、理性的な概念ではあるようです。
理性はどのように働くとされているのでしょうか。
有限と無間はどのような認識のあり方をしているものなのでしょう。
そのあり方が認識の能力を具えたところを明らかにするように思われます。>
この書かれ方ですと、この「時間」は、経験知、即ち、規則性(序数尺度/感覚尺度/比例尺度、等)として、
推移を説明する変数/尺度として非常に有効で便利なものである、となります。
この際、理性は、この便利な時間概念/規則性を経験知として取り込み、それを、先験知により、解き明かそう、とすることから、
前述のアンチノミーに陥る、即ち、先験知としての理性では解けないものと考えられます。
即ち、<そのあり方が、(先験知としての)認識の能力を分析的にも/総合的にも「超えている」、
または、全く関わりの無いものである>という論理です。
ですから、<時間において規則が対象を規定して知覚するとされているようなので、
理性的な概念ではあるようです>の「理性的概念」とは、
経験知としての理性の認識対象ということになります。
そして、経験知としての時間にも、否応無く、有限か、∞か、という、
先験知では解き得ない(現時点においては経験知としても解きえていない)命題が付随してきます。
それが、「時間」という概念の属性そのものだからです。
即ち、経験知としての時間は、ものごとの推移/変移を説明するために、非常に有効で便利なものなのですが、
人間のa prioriな認識とは次元の異なる経験知で制御される、
道具の1つ、という理解でおります。
数学では、頻繁に∞を多用します。
しかし、物理の公式において、0<t≤∞として時間を変数として用いる公式/領域があれば、教えていただけると幸いです。
>>124 >時間は、前レスでも書きましたが、先験知としての悟性/理性では説明不能の、
>また、これらに制御されない先験的な感性では認識できるものではないと思いま
>す。
ただ、一方に含んでおり、他方は全く含んでいないというものではないと思われ
る。或る事柄は時間を含んでいるものとして考えられているのではないでしょうか。
制御できるものでないとすると、感性は時間を含んでいるものでないということにな
るでしょう。
>カントのアプローチは、すべて、経験知を捨象しつくし、先験知だけの領域におけ
>る、感性→統覚→悟性→理性というプロトコルを経て、アプリケーション層である
>、 悟性/理性において認識されるものを対象としているものと考えております。
カントのアプローチは捨象するものではないようです。形而上学的、先験的な篇は
捨象するものではないようです。経験は規則が適用され得るものであると思われます
。理性・悟性において認識されるものは感性であると思われます、それ以外に何があ
るのでしょうか。
127 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/26(木) 13:05:06
>126
<制御できるものでないとすると、感性は時間を含んでいるものでないということになるでしょう。 >
時間が経験知であるとすると、感性においても、a prioriには感知できるものではないと考えています。
(念のため、私は「純粋理性批判」を丁寧になぞる行為として、書いておりません。アンチノミー一般という定義で、書いております。
ときたま、カントを思い出しては、その範囲で引用はしますが。)
<カントのアプローチは捨象するものではないようです。形而上学的、先験的な篇は捨象するものではないようです。経験は規則が適用され得るものであると思われます。>
ループになってしまいますが、前スレで、7+5=12は、a posterior=経験知であると書きました。3は二進法では11となります。
これらは規則性であり、非常に便利なものですが、a priori=先験知ではない。
では、時間はどうか。
「自然発生的な規則性(序数尺度/感覚尺度/比例尺度、等)に基づく経験知」であると考えられます。
即ち、<経験は規則が適用され得るものである>で宜しいものと思われます。
便宜性の観点から。
<理性・悟性において認識されるものは感性であると思われます、それ以外に何があるのでしょうか。>
それ以外には、何も無い、と思います。
こう書いてきますと、カントのアンチノミーは、先験知+規則性をもった経験知でもって、二律背反を説いたもの、となりますね。
但し、例えば、∞分割の証明等になると、破綻する(アンチノミーに陥る)。
何故か?
(先験知)+(規則性をもった経験知)を総動員しても、それが、「純粋理性」の限界である、とカントは思い至ったものだと考えています。
>>125 便利と考えられるならば、実践的な関心になるようです。
取り込み、解き明かすとなると、感性や悟性とされるものであるようです。
取り込み、解き明かすという考え方は感性的、数学的な考え方と思います。
時間が感性の対象でないとすると、何が思惟の対象なのでしょうか。
可能であるために何が必要とされるのか判らないが、悟性が悟性について考えると
すると、時間の概念は矛盾しなければよいようです。
例えば、無限は有限を含むという規則が包摂する規則になし得るようです。
先験的概念が他の概念を成立させていると考え得るようです。
時間は実在するのかと考えると、現実に考えている訳ですし、どうも何かある
と皆が考えているようですね。
人間の認識と次元の異なる経験知で制御される道具であると理解されていると
ありますが、実践的な関心があるようです。
数学は他の変数が変数を扱う仕方があると思いましたが、どうしてそれだけでは
足りないと考えるようになったのでしょう。そのような領域には少なくとも悟性
の領域があると思います。
ア・プリオリ、ア・ポステリオリは、三進法、二進法の規則ではなくて、総合を問題にしているようですね。
忠実であるか否かを問題にしているのでしょうか。総合を考慮された規則というならば、あり得る可能性を考えてみるのも面白そうですが、生憎まだ知らないですね。
算術の数式をみると、他者には分析にみえるようです。総合についてどう考えているのでしょう。
130 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/26(木) 13:38:16
>128
<便利と考えられるならば、実践的な関心になるようです。
取り込み、解き明かすとなると、感性や悟性とされるものであるようです。
取り込み、解き明かすという考え方は感性的、数学的な考え方と思います。 >
どうどうめぐりになりますが、便利→実践理性。
では、<取り込み、解き明かす>のは、これらを取り込んだ感性、悟性である、ということになりますね。
そうだとすれば、<時間が感性の対象でないとすると、何が思惟の対象なのでしょうか。>の「時間」は、実践理性の範疇ということになりますね。
矛盾しない範囲の規則性を持ったという定義付けの上で。
だとすれば、<先験的概念が他の概念を成立させていると考え得るようです。> の先験的概念は、経験知をも含むものとなります。
<時間は実在するのかと考えると、現実に考えている訳ですし、どうも何かあると皆が考えているようですね。
人間の認識と次元の異なる経験知で制御される道具であると理解されているとありますが、実践的な関心があるようです。>
これも、矛盾しない範囲の規則性を持ったという定義付けの上での経験知ということになりますね。
現象の変移の説明変数/関数等としては非常に便利な記号/実際に測定可能な便利な共用尺度として。
<数学は他の変数が変数を扱う仕方があると思いましたが、どうしてそれだけでは足りないと考えるようになったのでしょう。そのような領域には少なくとも悟性の領域があると思います。>
浅学にして、数学の公理等において、時間を定数/変数として取り込んだものを知りません。でも、こういう領域のことを考えるのは、今までの流れでは、(先験知)+(規則性をもった経験知)の両者がないまぜになった悟性の領域でしょうね。
131 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/26(木) 13:48:39
>129
いままでの流れの文言でいえば、総合は、(先験知)+(規則性をもった経験知)でもって、
規則性からの逸脱を避け、規則性一般を維持しながら、証明、推論していく営為一般である、
というあたりに落ち着くのではないでしょうか。
分析と総合は?
>>131 あなたは、総合が先験知+規則性をもった経験知である、と考えているようだ。
何が分析と総合を区別するのでしょうか。逸脱であるか否かは異なるものであると
考えられる。規則は矛盾がないことである、で充たされるものだとされている
ようですが、避ける、維持、証明、推論という営為一般は落ち着くものであると
されているようですが、これは習慣のようですね。
主語が述語であることを認められるならば、述語であると考えることはできるが、
それまでの主語は、述語と一緒に考えられることにより、他のことから区別されて
いる特徴を具えた主語であると考えることができるのか。
有限が無限であることを認められるならば、無間であると考えることはできるが、
それまでの有限は、無間と一緒に考えられることにより、たのことから区別されて
いる特徴を具えた有限であると考えることができるのか。
有限と無間は同時に成り立ち得るのか。有限な空間が無限な空間であるということ
も考えられるだろう。
136 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/05/31(火) 13:31:20
>>33 空間の先験性までは、理解できるのですが、
「純粋理性批判」を数十年ぶりに再読しておりますが、
時間の先験性、及びカントのカテゴリー表(悟性の先験的総合の基盤)に関し、
若いときには読み流せた部分ですが、ずっと長い間、
ひっかかりを覚えております。
先ず、時間がアプリオリであるのか。単に個体発生は自然発生を繰り返す、
または根本的に、アプリオリな感性ではないのではないか?
あるいは、あなたのいう「習慣」の領域の道具ではないか?
次に、カントのカテゴリー表でもって、
先験的総合というものが、果たして、必要十分なのか?
私の懐疑は、先験的な分析、総合とも、結局はa=aのトートロジーの域を出ないのではないか?
という点です。
ま、これは、私固有の刺のような疑問ですので、今後、
少しずつ、気付いた折々に、書き込んでいきます。
他が関係することができないものを無限であると考えるという、人間の間での
約束があれば、それは無限であると考えることができるのだろうか。
138 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/08(水) 15:07:21
>137
この約束は、成り立たない、と思います。
∞は、連続の延長上の概念であり、
∞が成り立つか否かを問わず、
連続の概念からは切り離すことはできないものと思います。
∞分割しかり、時間/空間/宇宙の∞性しかり。
そして、「他が関係することができないもの」という主語は、
「何かに関係する」ことの否定形ですから、
なんらかの関係を前提とした概念ですよね。
いっそ、「無」、とすれば、
それは、無であると考えることはできる、と思います。
しかし、そうだとしても、無は有の否定形だとすると、
これも、「考えることのできる概念」ではなくなる、と思います。
「無」(∞の先ともいえる)というものを考えることができるか、
は、既にアンチノミーの域に入ると思います。
時間や空間もいいけど数の概念ですら未開社会では、1,2,3,4,5・・沢山という
ふうだったらしいからネ〜。
時間はいいよ〜
前や後ろ
同時に常住だからね
なんたって、それぞれの時間や別々の時間なんて考えられないんだからね?
君も時間にしたら?
141 :
考える名無しさん:2005/06/20(月) 21:17:20
agetinomy
両立する二律背反ってのは、小さな巨人みたいなものか?
絶対こうでなければならないことは何か、と考えるならば、
神に反するようなこともなければならないのかなあと。
144 :
考える名無しさん:
で、自分にも反することもあり、と。