ダーウィンの危険な思想

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〈第1章〉
ダーウィン以前には、「はじめに精神ありき」という宇宙観が疑問に付されないまま君臨していた。
叡知的神がデザイン全体の最終的な源泉と見られ、この神が「なぜ」というあらゆる連鎖的問いへの最終的な答えであった。
デイヴィッド・ヒュームはこうした見解をもってしては解決不可能な問題を巧みに提起して、ダーウィン的代案を垣間見たのに、そのヒュームでさえ、それをどのように理解したらよいのかは分からなかった。

〈第2章・前〉
ダーウィンは種の起源についての比較的つつましい問題に答えを出そうとして、みずからが自然淘汰と呼んだプロセス、つまりは精神も目的も持たない一つの機械的プロセスついて記述した。
しかしこれが、ずっと大きな問題への、すなわち、デザインはいったいどのようにして存在することになるのかという問題への、答えの種子であることが判明する。

〈第2章・後〉
ダーウィンは、古い伝統とは逆に、種が、永遠でも変化しないものでもなく、かえって進化するものであることを、決定的な形で証明した。
新種の起源は「変化をともなう由来」の結果であることが示された。
ダーウィンは、あまり断定的な形でではなかったが、こういう変化のプロセスが<どのようにして>生じたのかについて、一つの考え方を提示した。
つまり「自然淘汰」とみずからの呼ぶ、心を欠いた、機械的な――アルゴリズムにる――プロセスによって、という考え方を。
このような、進化の実りはすべてアルゴリズムによるプロセスの産物として説明できるのだとする考え方が、ダーウィンの危険な思想と言われるものである。
311:04/11/12 02:52:47
つづき

〈第3章・前〉
ダーウィンを含めて多くの人々は、自然淘汰というダーウィンの考え方が革命的なパワーを秘めていることはおぼろげながらも理解できたが、それにしてもこの考え方は、いったい何を転倒してみせると約束したのだろう。
ダーウィンの考え方は、私が宇宙論的ピラミッドと呼ぶヨーロッパ的思考の伝統的構造を解体して、これを再構築するのに用いることができる。
ダーウィンの考え方は、宇宙のデザイン全体の斬新的蓄積による起源について、新しい説明を提供してくれる。
ダーウィン以来、懐疑主義が狙いを定めてきたのは、自然淘汰の様々なプロセスは、無精神性をベースとしているにもかかわらず、
それ自体実にパワフルなため、世界のうちに明示されているデザイン・ワークはそっくり一人でやりとげてしまったのだという、ダーウィンの暗黙の主張である。

〈第3章・後〉
ダーウィンの危険な思想というのは、デザインは、先住している精神に訴えなくとも、ある種のアルゴリズムのプロセスを通して、ただの秩序から生じることができるのだとするものである。
懐疑論者は、少なくともこうしたプロセスのどこかでは、援助の手(もっと正確に言えば、援助の精神)――いささかのリフティングを行うスカイフック――が差しのべられたにちがいないことを証明したいと願ってきた。
ところが懐疑論者は、スカイフックの役割を証明しようとして、かえってクレーンをしばしば発見してきたのだ。
クレーンというのは、アルゴリズムの初期のプロセスの産物のことであるが、これは、アルゴリズムのプロセスを超自然的でない仕方で局所的に速めたりより効果的にしたりすることで、ダーウィンの基本的アルゴリズムのパワーを増幅することができる。
好ましい還元主義者は、スカイフックがなくともデザインはどこまでも説明可能だと見るのに対して、貪欲な還元主義者は、クレーンがなくともデザインはどこまでも説明可能だと見る。
321:04/11/12 02:54:30
つづき

〈第4章・前〉
進化の歴史的プロセスは、実際のところどのようにして生命の系統樹を造ったのだろう。
自然淘汰はありとあらゆるデザインの起源を説明してくれるが、その能力に関する論争を理解するためには、
生命の系統樹の形についてのいくつかの間違い易い特長と、生命の系統樹の歴史における若干の鍵となる要素を明らかにして、
まずは生命の系統樹の視覚化の仕方を学ぶ必要がある。

〈第4章・後〉
想像もできないほどこと細かな点にまで及ぶ生命の系統樹には、様々なパターンがつまっていて、
それらのパターンは、やがてこの系統樹を開花させていくことになった重大な出来事を、それぞれの形で強調している。
真核生物革命と多細胞生物革命は最も重要であり、これに、当時はまだそれとは分からなかった種分化の出来事が続く。
だがもっとあとで分かるように、この出来事も、実は植物と動物の区別といった大区分さえ画していたのだ。
科学の使命が、こうした複雑さ全体のうちにあってもなおかつ判別可能な、様々なパターンの説明をする点にあるのだとすれば、
科学には、樹を見て森を失うことがないよう必要な場合にはあえて理想化を行うことによって、微視的な見方を越えて他の次元にまで昇って行くことが必要になる。

〈第5章・前〉
現実的なものと可能的なものの対比は、生物学のあらゆる説明にとって根本的なものである。
私たちには可能性のたがいに異なるさまざまなグレードを区別することが必要だと思われるが、ダーウィンは、ありとあらゆるゲノムを蔵する空間「メンデル図書館」のアクセス可能性という視点から、生物学的可能性を統一的に論じるためのフレームワークを提供している。
こうした有益な理想化を行うためには、ゲノムと生存能力のある生体の関係に見られるある種の複雑な事情に注目したら、あとはこれを無視してかかることが必要になる。
331:04/11/12 02:56:04
つづき

〈第5章・後〉
生物学的可能性は、すべてのゲノムの論理的空間たるメンデル図書館での(どこかはっきり明示される場所からの)アクセス可能性という視点からしたときに、
もっともよく理解される。
このアクセス可能性という概念は、生命の系統樹全体の類縁性を生物学の一つの根本的特徴として扱う一方で、
アクセス可能性に制約を課することもあるような生物学的法則にも余地を残して、あくまでもこの特徴を開かれたものにしておくのである。

〈第6章・前〉
さまざまな可能性からなる超天文学的に広大な空間に現実の軌道を作り出す過程で自然淘汰が行う研究開発は、ある程度までなら見通しを立てることも可能である。
こういう探索空間の重要な特徴の一つに、チェスの不可避の一手のように、いつやってもおもしろくて予測もきくといった問題解決策がある。
こういう解決策は、独創性や発見や発明をめぐる私たちの直感の本質を幾ぶんなりとも説明してくれるうえ、
過去をめぐるダーウィン流推論のロジックをも明らかにしてくれる。
そこでは生物の創造活動のプロセスと人間の創造活動のプロセスがたがいに同じような方法を用いながらそれぞれ独自の進路を作り上げているといった、
ただ一つの統一的デザイン空間が存在するのである。
341:04/11/12 02:56:53
つづき

〈第6章・後〉
デザイン空間が一つある。
そこでは生命の系統樹が枝を張り、その枝が最近、人間による人口品という形をとってそれ自身の探索の糸をデザイン空間に投げかけ始めた。
不可避の一手などの優れた考え方は、デザイン空間における狼煙のようなもので、自然淘汰と人間の探索プロセスという、究極的にはアルゴリズムの探索プロセスによって、何度も発見し直されてきた。
ダーウィンが理解したように、デザインの特徴どうしの間に一筋の由来・血統が存在しないかぎり共存することは超天文学的にありそうもないような共通した特徴が見つかれば、デザイン空間のいたるところで、血統という歴史的事実が回顧的に突き止められることになる。
このように、進化についての歴史的推論は、ペイリーの前提、世界は優れたデザインに満ちており、そうしたデザインは創造の業を必要とする、という前提を受け入れるかどうかにかかっている。
これでダーウィンの危険な思想への序論は終わりである。
第V部でこの思想が人間世界についての私たちの理解を変容させてしまうのを眺める前に、次の第U部では、ダーウィンの危険な思想の、生物学でのベースキャンプが確保されなければならない。

〈第7章・前〉
生命の系統樹はどのようにして始まったのだろう。
懐疑論者は、進化のプロセスを前進させるのには、「特殊な創造」の一撃――スカイフック――が必要なはずだと考えてきた。
しかし、こういう異議申し立てに対してはダーウィニズムの側からの解答がある。
それは、物理学の法則でさえ、「特別な創造者」や「立法者」によらずとも、カオスや無から生ずることは可能だという様子を示すことによって、ダーウィンの万能酸の力が宇宙論的ピラミッドの最底辺のレベルをも差し貫いていく姿を顕かにする、というものだ。
このめまいのするような展望が、ダーウィンの危険な思想の最も恐れられている側面の一つであるが、その恐怖は見当違いである。
351:04/11/12 02:58:24
つづき

〈第7章・後〉
最初の生物が存在していたはずなのに、そんなことは不可能であった。
最も単純な生物でさえ、完全な偶然によって突如存在するようになるには、複雑過ぎるし、デザインされすぎているからである。
このジレンマを解くのはスカイフックではなく、一連の長いダーウィン流のプロセスである。
すなわち自己を複製するマクロが、おそらくは自己を複製する粘土結晶の後に現れるか、それと同時に現れるかすることで、「ツキ」のトーナメントからスキルのトーナメントへと何十億年もかけて徐々に進んでいくのだ。
これらのクレーンが依存している物理学の合則性は、それ自身が、「カオス」を抜け出していく盲目的で無造作なシャッフルの結果でもありうるだろう。
私たちが愛をもって知っているこの世界は、こうして、殆んど何もない状態から自ら自己を作り上げたのである。

〈第8章・前〉
自然淘汰の行う仕事が研究開発(R&D)であるところから、生物学もまた根本的にはエンジニアリングに似てきてしまうが、この結論は、それが、暗に意味するかと思われるところへの誤解に基づく恐れから、根強い抵抗に出会ってきた。
だがこの考え方は、実際には、私たちの最も深いところにある謎のいくつかに光を与えてくれる。
一旦エンジニアリング的視点をとれば、<機能>という生物学の中心概念と<意味>という哲学の中心概念が同時に説明され、一つに統合されるからだ。
意味に反応し、意味を創り出す私たち自身の能力、すなわち私たちの知性は、ダーウィン的プロセスの進んだ産物という私たちのステータスにその根拠があるのだから、現実の知能と人工知能の区別は崩れてしまう。
しかしながら、人間のエンジニアリングによる産物と進化の産物の間には、それらを造りあげるプロセスの差異のために、いろいろと重大な差異がある。
私たちは進化の大プロセスをやっと焦点に収め始めたところである。
私たち自身のテクノロジーの産物、コンピュータを、もろもろの未解決の疑問に振り向けることによって。
361:04/11/12 02:59:19
つづき

〈第8章・後〉
生物学はただエンジニアリングに似ているだけではない。生物学はエンジニアリングそのものなのだ。
それは、機能的メカニズム、デザイン、構造、操作についての研究である。
この地の利を活かして、私たちは、機能の漸進的誕生や、それに付随して誕生する意味や指向性などの説明をすることができる。
初めは、文字通り奇跡的に見えたり(例えば、それまでそんなものはどこにも存在しなかったところにレシピ解読器を創ること)、
少なくとも、本質的に精神に依存していると見えたりした達成事項(例えば、チェッカーの勝ち方を学ぶこと)も、ますます小さく、ますます愚かなメカニズムによる、ますます小さな達成事項に、どんどん分解することができる。
今、私たちは、デザイン・プロセスの産物ではなく、デザイン・プロセスそのものに細心の注意を払い始めている。
この新しい研究方針は、ダーウィンの危険な思想を棄却するのではなく、かえってこれを深めているのだ。

〈第9章・前〉
生物学におけるリバースエンジニアリングの仕事は、「母なる自然の考えていたこと」を理解する作業である。
適応主義として知られるこの戦略は、驚くほど強力な方法論として、後に証明されためざましい飛躍的推論をたくさん生み出してきた。
もちろん、証明されないものもあったが。
スティーブン・ジェイ・グールドとリチャード・レウォンティンによる適応主義批判は、適応主義について人々が抱いてきた疑いに焦点を当てているが、大抵は見当はずれなものだ。
適応主義にゲーム理論を応用することは、特に実りのあるものだったが、注意が必要である。
そこには、理論家がしばしば想定するよりも多くの制約が隠れているかもしれないからだ。

〈第9章・後〉
適応主義は、生物学のそこかしこに現れ、かつ、影響力を持っている。他の考え方と同様、適応主義も誤用されがちだが、それ自体誤った考え方ではない。
事実、それは、ダーウィン主義的思考の不可欠な中核となっている。
グールドとレウォンティンが弄した適応主義への反駁は、幻想であるが、不注意な思考の危険性について、人々の意識を高めてくれた。
よい適応主義的思考は、隠れた制約に油断なくつねに注意を向けているものであるうえ、実際、その制約をあばく最善の方法でもあるのだ。
371:04/11/12 03:01:04
つづき

〈第10章・前〉
これまで本書で示されたダーウィン主義的思考の見方は、何度となく、スティーブン・ジェイ・グールドの挑戦を受けてきた。
影響力の大きな彼の著作は、一般市民や哲学者、そして他の分野の科学者たちが抱く進化生物学のイメージを、深刻なまでにねじ曲げるのに貢献した。
グールドは、正統的ダーウィニズムについて、いくつかの異なる「革新的」要約を発表したが、それらはすべて誤報であることが判明した。
この一連の活動の中から、ひとつのパターンが見分けられる。
グールドは、過去の傑出した進化思想家と同様に、ダーウィンの危険な思想のパワーを抑制しようと、スカイフックを探し求めてきたのだ。

〈第10章・後〉
グールドが革命と自称するものは、適応主義と漸進主義と外挿法主義に反対して、「ラディカルな偶発性」を推すものだが、これのいいところはすでにしっかりと現代総合説に組み入れられ、間違っているところは切り捨てられて、それ自体、すっかり雲散霧消してしまっている。
ダーウィンの危険な思想は、より強力になって現れ、生物学全体への支配はかつてないほど確かなものになった。

〈第11章・前〉
ダーウィンの危険な思想に狙いをつけた主だった告発をすべて見渡してみると、少々のびっくりするほど無害な異説や、重大な混乱の二、三の源や、
「もしダーウィニズムが<私たち>にも当てはまるのなら、私たちの自律性はどうなるのか」といった、一つの根深い間違った恐怖などが顕かになる。
381:04/11/12 03:01:43
つづき

〈第11章・後〉
パンスペルミア(胚種広布説)、銀河の外からやってきた遺伝子組みかえ職人(スプライサー)、地上での生命の多様な起源などは、たとえ歓迎できない異説となる見込みはあっても、すべて害のないものだ。
ティヤール・ド・シャルダンの「オメガポイント」、ラマルクの獲得形質の遺伝子による伝達、方向をもった突然変異などは、ダーウィニズムにとって致命的とも成りかねないものであったが、正しくないことが無事に示された。
淘汰の単位や「遺伝子瞰図」をめぐる論争は、現在の進化論では重要な問題ではあるが、どちらに転ぶとしても、よくあるような急を要する含みは有しない。
生物学そのものにおけるダーウィニズムについての私たちの検討も、これで完全になる。
いまや、私たちは、現代のダーウィニズムについて、正当で極めて詳細な像を手にしたのだから、第V部において、現代のダーウィニズムが<ホモ・サピエンス>に対してどのような意味を持つのかを、すぐにも見ていくことができるわけだ。

〈第12章・前〉
私たちの種と他の種の間の第一の違いは、情報の文化的な伝達や文化的な進化に私たちが信頼をおいている点だ。
文化的な進化の単位であるドーキンスの<ミーム>は、人間界の分析に対して、正当には評価されていないが強力な役割を持っている。

〈第12章・後〉
ミームという形式を通して人間の脳に侵入した文化が、人間の心を創造したのだが、それは、他の動物の心と違って、遠くのものや未来のものを想像したり、新たなる目標を定式化したりすることができる。
ミーム学という厳密科学を組み立てられるという予想は疑わしいが、この概念は、文化的遺産と遺伝的遺産の複雑な関係を探求するときの価値ある視点を提供してくれる。
わけても、ミームによる心の形成こそが、利己的遺伝子を超越する自治権を私たちに与えてくれるのである。
391:04/11/12 03:02:27
つづき

〈第13章・前〉
一連の次第に力を増していく心の型は、「生成評価の塔」と定義できる。
それは、私たちを、粗野な試行錯誤の学習者から、科学者の共同体や他のまじめな思索者の共同体へと導いてくれる。
幾層にも重なったこのクレーンの連なりでは、言語が重要な役割を果たす。
そして、言語学におけるノーム・チョムスキーの先駆的仕事は、ダーウィン主義的言語理論に至る見通しを拓いてくれるのに、愚かにも彼は、グールド同様、この見通しに目を閉ざしてしまった。
最近の心の科学の発展を取り巻く論争は、悲しいことに、両陣営の誤解によって敵対心を抱きあうまでに増大している。
評論家たちは、地面から首をのばすクレーンと、天から釣り上げるスカイフックの、はたしてどちらを求めているのだろうか。

〈第13章・後〉
ダーウィン的アルゴリズム一般の基本操作である生成評価が個々の生体の脳に入り込むと、それは、次第に強力になっていく一連のシステムをつくりあげて、ついには人間による仮説と理論の、慎重で洞察にみちた生成評価となって頂点をむかえる。
このプロセスは言語を生成し理解する能力のおかげで、「認知的限界」の徴候さえ示すことのない心をつくり出す。
言語がある種の生得的なオートマトンによって生成されたことを明かにした現代言語学の創始者ノーム・チョムスキーは、それにもかかわらず、言語オートマトンが、なぜ、どのようにデザインされて移植されたのかに関する、あらゆる進化論的解釈に抵抗した。
彼はまた言語の使用をモデル化する、「人工知能」のすべての試みにも抵抗した。
チョムスキーは、一方にグールドを、他方にサールを味方につけて、(リバース)エンジニアリングに断固反対し、ダーウィンの危険な思想が広まることを身を挺して防ぐことによって、スカイフックとしての人間の心を強く希求した。

〈第14章・前〉
意味の誕生についての進化論的説明を、私は第8章で描写した。これをさらに発展させて、懐疑論的哲学者の挑戦を受けて立つ。
これまでの章で紹介された概念に基づく一連の思考実験により、首尾一貫した「意味の進化論」が提示されて、それとともに、その必然性が示される。
401:04/11/12 03:03:10
つづき

〈第14章・後〉
真の意味、つまり私たちの言葉や観念が持っている意味は、それ自体、元来意味のないプロセス、私たち自身を含む生命界を創ったアルゴリズムのプロセスによる、創発的生成物である。
あなたのための生き残り機械としてデザインされたロボットは、あなたと同様に、その存在を他の思惑を持った研究開発計画に負うている。
だからといって、それが意味の自律的な創造者となることが妨げられるわけでは、まったくない。

〈第15章・前〉
AI(およびダーウィンの危険な思想)に関する懐疑主義の、影響力の大きなもうひとつの源を考察して、これを無効にする必要がある。
それは、永らく人気を博しているゲーデルの定理が、AIは不可能であると証明した、という考えである。
最近ロジャー・ペンローズがこのミームを復活させた。
それは、暗闇にはびこっていたのだが、彼の説明はたいへん明解であるため、それを事実上明るみにもたらしたのである。
だが私たちは、彼の人口品を私たちの目的に外適応させることができる。
つまり、彼の意図せざる助けによって、このミームを消滅させられるのである。

〈第15章・後〉
ゲーデルの定理は、結局のところ、AIの可能性について疑問を投げかけているわけではない。
事実、アルゴリズムのプロセスはゲーデルの定理という魔手を逃れることができるのだということがいったん呑み込めると、ダーウィンの危険な思想がデザイン空間を統一している様子も、これまで以上にはっきり理解できるようになってくる。
411:04/11/12 03:08:13
つづき

〈第16章・前〉
ならば、道徳はどうだろう。道徳も進化するのか。
トマス・ホッブスから現在に至るまでの社会生物学者は、道徳の進化について「なぜなぜ物語」を唱えてきた。
けれども、ある哲学者たちによると、そうした試みはどんなものも「自然主義的誤謬」に陥っているのだという。
すなわち、物事はいかに<あるべき>かという倫理的結論を基礎づけ(たり、還元したりす)るために、世界の<今ある>あり方についての事実に注目するという誤りである。
この「誤謬」というのは、しばしば正当化される罪、つまりは貪欲な還元主義の罪のことだとすると、さらによく理解できる。
それなら私たちは、還元主義に対して、もっと貪欲でなくなる必要があるだろう。

〈第16章・後〉
ダーウィン的思考が――私たちの暮らしている――家庭に近づけば近づくほど、癇癪がつのって、レトリックがとかく分析を泥沼に陥れることになる。
しかし、ホッブスからニーチェを経て今日にまでいたる社会生物学者たちは、倫理的規範の起源――と変容――についての進化論的分析のみが、もろもろの分析に本来の意味を与えることができることを、眺めてきた。
貪欲な還元主義者たちは、この新しい領域のなかにまた例によってよろよろと最初の一歩を踏み出したが、複雑性の擁護者たちから当然の懲罰を受けてきた。
私たちはこうした誤りに背を向けるのではなく、かえってそこから教訓を得ることができるのである。

〈第17章・前〉
私たちが、倫理学的真実の、有限で、時間に急き立てられた、自学自習的な探求者だという事実の倫理学的含意は、いったいどこにあるのか。
功利主義的倫理学とカント的倫理学の間を一貫して揺れ動いている振り子を点検すれば、倫理学をより現実主義的な、ダーウィン路線に沿ってデザインし直す原理が、いくつか示唆される。
421:04/11/12 03:08:50
つづき

〈第17章・後〉
倫理的意思決定という問題は、ダーウィンの危険な思想というパースペクティヴから検討されるかぎり、ものごとを正しく適切に行うための公式やアルゴリズムを私たちがいつかきっと発見するだろうということに、あまり大きな希望は与えてくれない。
しかし、だからといって絶望するのはまだ早い。私たちには、自分や他人のために創り出すもろもろの問題へのよりよい解決をたえず求めながら、みずからデザインしたりデザインし直したりする必要のある、心の道具一式があるからである。

〈第18章〉
私たちは「デザイン空間」をたどる旅にここでひと区切りつけて、自分が発見したことがらについての棚卸しをし、さらにここからどこまで行けるのか、それを考察する。

以上、『ダーウィンの危険な思想』、ダニエル・C・デネット、青土社、2001年 より
431:04/11/12 03:09:58
つづき

進化論に関して私が重要だと思う一つの点は、それによって、生物の形態や行動パターンの「合目的性」を、物質の、
物理的・化学的法則にしたがう「無目的」なプロセスの結果として、理解することが可能となった、という点である。
進化論以前には、「合目的的」なものは、自然法則にしたがう因果性では理解もできないし実現もできないと、人々は(そして哲学者も)考えていた。
しかし、進化論における「自然淘汰」という概念が登場することによって、そのような考えは覆されたと言ってよい。
「自己複製分子」の偶然の発生から始まる進化のプロセスにおいて、突然変異(コピーミス)によってたまたま「合目的性」を備えた生物が、
すなわち、観察者の立場から見て、「目的」という概念によってその形態やふるまいを考えると理解しやすいような生物が、登場したとき、その生物は、「生存競争」の上で非常に有利となるため、子孫を増やすであろう。
そのようなプロセスが、長い時間をかけて繰り返され、「合目的性」はますます洗練されてゆく。
・・・・・・こうしたシナリオには、「突然変異」にも「自然淘汰」にも、物理的・化学的な「無目的」のプロセスしか登場しない。
そのようなプロセスによって、「合目的性」は十分に理解できるものとなったのである。
したがって、もしもダーウィンの進化論を(詳細はともかく、大筋において)認めるのであれば(多くの日本人は――哲学者達も――認めていると思う)、物理的・化学的な「無目的」のプロセスからは「合目的性」は生じえない、という考えを放棄しなければならない。

「自然主義者の困惑」、丹治信春、『哲学』52号、日本哲学会編、2001年 37頁
441:04/11/12 03:11:44
めんご >>43はつづきじゃなかった

また「合理性・利己性」の概念自体に対しても哲学的レベルでの反省が進んだ。
ことに、かつては生物学の理論装置であったダーウィン的進化論のモデルが大胆に普遍化され、心理学や計算機科学までをも含みこんだ、
システムの一般理論のパラダイムとでも呼ぶべきものになってきたことは大きい(これについては、
何と言ってもリチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』紀伊国屋書店、またダニエル・デネット『ダーウィンの危険な思想』青土社などを参照のこと)。
「ダーウィン革命」の要点は以下のとおりである――ダーウィン以前には、複雑なもの、秩序だったものは意図的なデザインなしには作られえない、
と考えられてきた(それゆえに「デザイナーの見当たらないデザイン」である生物進化とか市場経済とかは謎だった)のに対し、ダーウィンの「自然選択」のアイデアによって、
「意図せざるデザイン」が可能である、というより自然界においては、そちらのほうが普通であるらしい、ということがわかってきた。
それどころか、意図的な主体である人間の意図的行為、意図的デザインというもの自体、こうした「意図せざるデザイン」の積み重ねの中から発生してきたことになる。
つまり「意図的なデザインなしに複雑な秩序ができるのが信じがたくすごい」のではなく「膨大な時間をかけての試行錯誤としての自然淘汰を抜きにして、
人間の理性的・意図的なデザインによって秩序が作ってしまえるということが信じがたくすごい」のである。
われわれは、人間的な理性というものの宇宙的な意味について、長らく誤解していたのだ。
そして面白いことに、経済学を中心に開発されてきた最適化理論とかゲーム理論の道具立てが、生物学的進化の分析に輸入されて、一定の成功を収めてしまったのである。
つまり経済学的な「合理性」というのは、何も人間離れした完璧な計算能力のモデル化としてだけではなく、理性どころか脳さえ持たない(植物や微生物)ような生物の行動や、
それどころか百歩譲っても、理性も意識も心も持たないような遺伝子の振る舞いをモデル化する道具立てとしても使えるものだったのだ。
つまり経済学的な主体モデルは、思ったより汎用性が高かったのである。

『経済学という教養』、稲葉振一郎、東洋経済新報社、2004年、17〜18頁