>>191 じゆんさん
>【空間化】された物を、われわれ(自我)は、カテゴリー化しているのです。
ふむふむ。なら、こういう説明ならどうかしら?
空間がないなら何も存在しないのでしょうけれど
何かが存在しているということがわかるためには
時間−差異の介入は不可分なのではないですか?
時間がないなら何も変わらないのでしょうけれど
何かが変わっているということがわかるためには
空間−アルの介入は不可分なのではないですか?
と、書いてみるとわかるのですが
あるなら/ないなら…と、まず空間が前提されて
しまうことからも、空間がア・プリオリな形式としての
純粋直観であることがわかるでしょう。
そして時間がこの形式から必然的に類推されうる
ものであることも上述の単純な仕組みによって
理解されるのではないでしょうか?
ですからそのような(空間化された)ものとしての
時間を、純粋直観と呼ぶことに躊躇するということなら
もしくは、そのようなものとしての時間こそが
時間と呼ばれうるものなのであって、カントは
その意味において、時間を純粋直観とみなしたのではないか
ということなら、どちらにも異論はないです。