774で名無しか。
そういえば名を付けなかったな。
私に名はなかったのかな。
終わったんだろうな。
終わりの始まり。
プロローグはエピローグ。
問いはどんなものも疑いだったのだな。
疑うのは悪くもないが、あまり多いと自分すら疑うこととなる。
疑うことはほどほどに。すなわち問うことは極力避ける方向で
いければ望ましい。問うならば再確認のためにするくらいで
ちょうどいい。
以前は何かにつけて何故、と疑問符を付けられる考え方をしていたものだ。
どうしてか最近はそれはないようだ。
疑いつづけることは何も生み出さないと心底気付いたからであろう。
だから私は少々のことで疑うことはやめた。
断定的になったのはそのためであろう。
雑多なものから選抜するのは手間がかかるといえば手間がかかるものだ。
膨大な情報の中から選び抜き表現するのも逐一精査していると
本当に面倒だ。ほとんどの人間はいちいち自分の言が正しいのかという
詮索などなしに半ば投げっぱなしの言動をしている。
それが手間がかるからである。
これから怒濤の書き込みをしていこうと思う。可能かどうか分からないが。
自分本位に。自由気ままに。何のことはない。計画性のない
思いつきでやっていく。その場その場に即した、その場限りの
突拍子の順応したいい加減なことを書き込んでいく。
潰そうと思ってやっているのがあるのかもしれない。
圧倒的な量でもって達成感を得ようとしてる感がある。
しかし、私はハイクオリティを求めていた。その実、行っていることは
量を求めていたのだろう。その結果がこの連続投稿となっている。
質感はある種の快適さをもたらすのだが、物足りないものである。
それは私たちのものに対する飽くなき渇望がそうさせる。
物質至上主義にならざるを得ないというのが私たちの性質だ。
本当はいらないもの、つまり質の劣るものがいくらあっても愚の貯蓄なのだが。
しかし私たちはその劣等のものまでも渇望する。
量的満足を得ようとするから欲望は尽きない。それは質的向上を目指しても
尽きないという意味では同じなのだが。ただ量を求めると自分以外に
侵害せざるを得ないというだけだ。そこには奪取のための闘争が
起こるのは当然の帰結だ。闘争が一概に悪いことではない。
それは競争により研ぎ澄まされた生き残りという浄化作用だ。
その反面質的なものを求めるのは質素な暮らしを余儀なくされる。
わび、さびの世界。余計なものは取っ払う。質的に優れたものは
それほどないからである。質は時間の経過によって退廃するものでも
あるからである。
あまり意義のないことの蓄積が私たちの人生を形作っている。
量的蓄積が私たちの人生だ。だから究極的には無意味、無価値と決定しやすい。
実際、無意味なことがほとんどを占める。有価値、無価値とを峻別することは
手間がかかることだがやってみると価値あることは意外なほど少ない。
全ての出来事を無価値と分類する人もあろうが、それはその通り、その人は
無意味な人生を送っている。
ただし、本当に手間がかかる峻別作業をして導いた結果なのかという
疑問は残る。すなわち手間がかかるゆえにその行為、努力を放棄していながら
導出されたいい加減な答えを解としているからである。
こう考えると私たちの手元に残るべき価値あることというのは量やら質やら
ということではなくて、審美眼を養う努力にあるということに気付かされる。
そもそも量と質というのは切っても切り離せない不可分のものである。
量を省略していけばそれにともなった質も省略される。
量には質、質には量が付随しているからだ。だから物質主義が悪いとか
精神主義が良いとかは本来はどうでもいい議論なのだ。
悪しきことも善きこともその時流があるものだ。普遍的なことでもない。
私たちはともすれば宇宙の原初から終末に至るまでの絶対的な真理を
求めようとするがそれは答えが出て来るものと出てこないものがある。
善悪の判断は出てこない問いだ。
私たちは生き残りのような淘汰を進化のプロセスと思っている。
実は進化などはしないと言うことが分かる。
私たちの暮らしでも廃棄、残存を繰り返しているが別に年を重ねていくから
といって身の回りが優れてきたと言うことはない。実際は雑多なものの
集合である。
あまり殺ぎ落とそうとして進化という名の下に淘汰していくのは考えものである。
そういった進化というものは時流だからである。進化などは幻想であるからだ。
私などはそういった考えは退化なのではあるまいかと思うほどだ。
私たちが身につけていくことは自分にとって何が大切か、そうではないのか
という選別眼なのであり、なにもいらないからといって切り捨てたり
重宝しておくことではない。
年を取ると人にものを教えたがる傾向があると思う。
少し前まで私は年を取っているものは後輩にものを教えるべきだと
思っていた。しかし、今は考えが変わった。ものを教えるときは
かなり気をつけないといけないのだ。その注意力を欠くものは
絶対にものを教えてはならない。
間違ったことも混ぜ混ぜにして語ってしまうのはやめなければならない。
それが根本的な迷いを後世に残しているのだ。
それが混迷の最たる原因なのだから。
私などは自信がないことは言わないことにしてる。聞かれたら言い返すのだが
それでも前もって自信がない旨は言うことにしている。
だからだまされてはならない。もの多くさも正しそうにもうしている
ものが偉人などと思い違いをしてはならない。常識を語らうものは
人間出来てると勘違いをしてしまう。そうではない。常識を語った所で
別に優れてはいない。言わずとも良いことをわざわざ言ってるだけだ。
軽薄な人間であり、軽蔑に値する人物なのだ。
人はそういう饒舌なものに寄り添って固まっていく。たいしたことは
言っていないのに雄弁というだけで集まってしまうのだ。
人が集まるとさらに集まるという心理があるから、止められない勢力にもなる。
私たちは語りぐさで惹かれてはならないのである。
だまされてはならない。魅力を感じてはならない。
そういう薄衣を幾重にも重ねたような人物が名誉や名声を得ていても
その人を目標としてはならない。はっきり言って目標となる人は
未だかつて遭遇したことがない。尊敬できる人もいない。
人に教えたがる癖のある奴はくせ者だ。なるべくなら近づかない方がいい。
私たちが近づくべき人物像とは聞いたら答えてくれるという
おせっかいやきではない、それでいて明快な返答をしてくれる人なのだ。
何を聞いたらいいか分からなかったら、聞かなければいいし、
そのままずばり何を聞いたらいいかと聞けばいい。
800か。
勘違いしないで欲しい。
私は教えたがってはいない。答えは自分で見付けるべきだとも思っている。
幸い私に聞くものはいなかったが、いたとしても私は知ったかぶりで
答えはしない。むしろ私が皆に私の意見はどうなのか、と聞いていたと
言える。
危険な人物は実生活の身近な存在にいる。ここはネットであり、ぼやきに
近いインパクトも心に焼き付くこともない言葉の羅列だ。
休みが少なくて、私は一体何のために生きているんだろうかと思う。
もう少しだけでいいから休みが欲しい。
金もなく暇もなく、
毎日同じようなことの繰り返し。
せめて子の成長の変化を楽しむとするか。
私が変われないから、他人の変化を楽しもうとするか。
性格は簡単には変わらない。いや変わることなどない。
そんなわけで外部にちょっとした移り変わりを観察するって算段だ。
公務員はいいなあ。三連休か。
子供はストレートだな。
変にひねくれてない。
視野が狭いというか、まっすぐを見ている。
子供にかまうのはそんな回帰欲のようなものからくるのだろう。
視野、これは
疲れたなあ。
心身共に。
俺って持久力がないんだよね。
脳みそも疲れた。
脳みそも体力と同じようなものではないか。
筋肉ではないのだろうが実際脳も筋肉痛のごとく疲れる。
もうやる気が無くなってきていることは自分でも分かっている。
ムキになって意地になっている。
私は意地っ張りだ。
しかし、持久力はない。
よくここまでやってきた。最近は老後の人生のごとく
やる気の感じられない、かつ、何かを悟ったかのような
そんな感じのことしか書けない。
臨機応変に。いつもそれで対処していけば良いだけだ。
前もって訓練しても馬鹿らしい。
訓練などいらなくなるのだ。
いい人っているなあ。
ほとんどの人はいい人だ。
イエスキリストは言っていたようだ。
許してやってください神よ。あの人方は分かっていないだけなのです。と。
では、また明日。
起こされたようだ。
こんな時間に。
だめだ、私は何者なのか分からなくなってきた。
また、元に戻ってしまったようだ。
過去に戻ってやり直したいとは思わなくなった。
しかし、過去と同じような気分に戻ってしまうようだ。
ま、また振り出しなのか。
結局往復運動、そういった行きつ戻りつしていくしかないのか。
何の貯蓄があったのか。何かが活かされたとでも言うのか。
何も残りはしないのではないか。
波紋のようなものでした。
波形は変わらなかった。私の固有の波形があってそれ以外の波形になることは
出来ないようだ。そして何も残りはしない。突如たった波は
やがて静寂を迎える。
起きては寝て
食べては出して
貯めては使い
憶えて忘れて
そんなことの繰り返し。
私も以前に逆戻り。
幾度となく繰り返してもう先が読める。
こんな私も知らず知らずに年取って五十、六十になって
今とそれほど変わってもいないのだろうな。
見てくれは変わっても。
型は変わんない。
一歳の俺と八十歳の俺とは変わった所はないんだ。
見てくれが変わろうが型からは抜け出せない。
見てくれにしろ風貌は同じなのだ。それが型なのだ。
正確に言えば戻るとかいうよりも行ってもいないし返りもないっていうことが
本当のところだ。
性格も変わりはしない。山も谷も本当はない。上向きも下向きもない。
行きも戻りもない。浮きも沈みもない。幼少からじじいに至るまで
一貫している。
変哲もないのに。
生きていても、死んでも。変わらない。輪廻とはそんなものなのかも知れない。
そんな型、輪廻転生のまっただ中にいる。
来世私は同じような繰り返し。過去世も多分同じような感じだっただろう。
少し理想郷を求めすぎた。そして帰ってきた。それも型。
死んだって同じさ。逃避しても同じ。生まれ変わっても同じ。どんなものに
生まれても同じ。もっとも型から逸脱できないから生まれるにも種類が
あると思うが。死に理想郷を求めてもだめです。生存中に求めてもだめです。
必ず帰ってきます。行ったっきりは出来ない。
どっか行きたいなあ。マジで。でもそれが私の型。あーあ。
疑えばそこから離れるんだな。
人も疑えば自分から去って行くであろう。
大切な人も。疑うことで別れ、最後に後悔する。
俺はパソコンのスイッチを入れる理由としてメールをチェックするためと
している。しかし、メールは迷惑メールばかりだ。
私に対するレスをチェックするためではないし、わざわざここに
書き込むためではない。
しかし、その理由は本当の理由なのだろうかと思うときがある。
レスを気にすることは何か受け入れがたい、あくまでもついでと
しておきたい気持ちがある。
本当のことを言うとかなり気にかかっていることは事実だ。
ホームページのアクセスを気に掛けるのと同じだろう。
ホームページの方はもう気にかからなくなった。
放置に近い。
初期のうちは気にかかったものだ。
張り合いというものが出てくるか出てこないかの違いだ。
残念ながらホームページはアクセスが少ない。
作ったときは結構頑張ったんだが。
私の中で完成に近づいたという所もある。
信頼関係の繋がりが人間関係と思う。
まず何よりも自ずから信じないと成り立たない。
疑惑の念は解消されないうちは途方もなく増大してしまうやっかいなものだ。
何人の人にえん罪を課したのだろうか。
うわさから、偏見から、
いくらの人を疑っただろう。
信じていたものに裏切られる。
本当に裏切ったのだろうか。
何か深い理由があったからではないか。
その理由を知らずに裏切られたと決めつけていないか。
私は間違いを犯してきたのかも知れない。