1 :
考える名無しさん:
>>7 自分の思考が(それを意識化する過程で)
ほぼ完璧にその言葉に支配されていることについて
どう思う?
2 :
考える名無しさん:04/09/18 23:39:29
しどうあげ
あいすいません。
ああ、謝っといてなんですが
やっぱりちょっと違うかも。内容。
言葉はどこまで言っても、言語化できない感情などを
選択的に顕在化させているだけにすぎないのに
それを還元して、あたかも、自分の本来の考えであるかのように
妄信しているけど
それは、ウソをつくのと似たことなのではないか、ということです。
つまり、思考、それ自体と思考と一体化している言語を疑っているのです。
言語化できないものが思考できないかどうかは関係ないのです。
「今、言語化できている思考」そのものを疑っているんです。
>>1 >自分の思考が(それを意識化する過程で)
>ほぼ完璧にその言葉に支配されている
もしここでいう言語が、日本語や英語やドイツ語といった
個別言語のことを言っているのであれば、
前提が間違ってるので、なんとも言いようがないとおもう。
どせやるんなら、何をもって言語とするのかについて掘り下げて欲しい。
言語は記号です。
何語でもいいです。
個別言語?とかはよくわからないんですが
とにかく、概念を記号化する、それ、です。
記号化する時点でたくさんのものが失われていくんじゃないですか?
と、そういうことです。
>>6 >>8 思考は記号無しに行うことが可能だと思う?
記号無しで行った結果を、「言語化(記号化)」してるの?
僕がおもうに、思考は記号無しには行われえないものだと思う。
しかしそこで使われる記号は、日本語や、英語と言ったものではないと思う。
>>9 いや、不可能でしょう。>思考
だからこそ、思考って怪しいんじゃないか、と思ってるんです。
(もちろん、この言葉も思考のたまものだろう、って突っ込みはあるんですが。)
思考、それ自体が、非常に、僕には、疑わしい。
僕らは、記号化の過程で、ウソをついたり、間違ったりしてしまうことが
あるんじゃないのかな?ということで、その記号化自体が、いったい何によって
為されているのかな、と疑問を持ったわけです。それは信用にたるものなのか。
無意識的に記号化してしまっているんじゃないですかね。
思考の段階で、概念と記号の間には何の関係も無いのではないか。
無理やり、感情や、条件反射で結びつけて、信じているだけなのではないか。
そこに、ウソや間違いがあるのでは無いか。
これは、僕が頭おかしいだけかもしれません。
>>10 論理的に矛盾がない思考でも、そこで使われる記号の内容のズレにより、
結果的に間違いになるということは、
おそらく、ほとんどの人が経験的に分かりきってることだと思いますが、
記号化自体がいかにして行われているかを明確にしようとすることは、
とても面白いテーマだと思います。
ありがとうございます。
コレを考えながら生きていきます。