Sophia[又はSora]と名乗っていた彼女は今は何処で何をしているのか?
無事で、幸福なら良いのですが……
哲学[知恵=sophia愛求=philo]するスレッド建てました。
2 :
考える名無しさん:04/09/17 03:33:08
2ゲト
プラトニズムの立場から言っても、Sophiaを愛求するのはerosに正しく導かれた行動です。
わたくしは以上の様な立場から、「哲学」する訳なのであります。
Sophiaという彼女の幸福を祈り、可能ならば手助けをする事が、このスレッドの第一の目標でしょう。
無知自覚上の知恵愛求=PhiloSophia=哲学。
徳は知である。
知行合一。
こうして私はerosの極限美における愛に至るのです。
「知恵を愛求する」そのものが、私達のこの上ない幸せなのです。
私達はSophiaすなわち知恵という唯一の道を通って、精神が純化され、より幸福になるのが分かるのです。
彼女を愛求するのはあるいはその一部と言えましょう。
道徳心は「無知自覚上の知恵愛求」から生まれ出す恵みです。
倫理学、宗教はその助けです。
>>1 板違い。学問・文系、哲学板というカテゴリーを尊守してください。
>>9 哲学は学問です!板違いとは余りにも無礼ではないか。
板違い。学問・文系、哲学板というカテゴリーを尊守してください。
12 :
考える名無しさん:04/09/17 04:03:51
:」 ◆m0yPyqc5MQ=ぴか〜
閑暇[スコレー]を生かして知恵を愛求しようとする市民の、哲学の営みを邪魔すべきで無い。
邪悪な私怨をぶつける者よ、立ち去れ。
14 :
考える名無しさん:04/09/17 04:05:12
」 ◆m0yPyqc5MQ=ぴか〜
16 :
考える名無しさん:04/09/17 04:09:09
」 ◆m0yPyqc5MQ=ぴか〜=ちくわぶ=バカ
私たちがまず目指すべきは最高善すなわち「幸福」です。
幸福とは、アリストテレスに拠れば、「理性の活動の完成」によって達成されます。
テオーリア[観想]すなわち万物の根源を曇り無く見極めようという態度によって
理性の活動は完成に向かいます。
これが哲学すなわち『無知自覚上知恵愛求』なのであります。
18 :
考える名無しさん:04/09/17 04:13:48
ん?
19 :
考える名無しさん:04/09/17 04:15:48
20 :
考える名無しさん:04/09/17 04:16:19
んん?
21 :
考える名無しさん:04/09/17 04:17:26
」 ◆m0yPyqc5MQ=ぴか〜=ちくわぶ???
22 :
考える名無しさん:04/09/17 04:19:10
ほー
Sophiaを純粋に正しく愛するならば、[すなわちerosに正しく導かれるならば]
私たちは彼女の精神に美を見出すでしょう。
やがて法や社会秩序の美に魅せられるでしょう。
最後には美自体つまり究極の愛に至るでしょう。
24 :
考える名無しさん:04/09/17 04:20:54
」 ◆m0yPyqc5MQ=ぴか〜=ちくわぶ=バカ
25 :
考える名無しさん:04/09/17 04:21:40
分かりやすいやつ
私たちは、理性を正しく用い、「無知自覚上知恵愛求」つまり「哲学」を行うならば
誰もが皆、幸福になれるのです。
27 :
考える名無しさん:04/09/17 04:23:08
見え透いた香具師ハッケソ
29 :
考える名無しさん:04/09/17 04:25:32
(・∀・)
30 :
考える名無しさん:04/09/17 04:29:53
怖いか?
32 :
考える名無しさん:04/09/17 04:33:33
これからもっと怖くなるけど
無知を悟り、真の知・万物の根源すなわち
「idea」を愛求するならば、誰もが幸福に成ることができるのです。
erosはideaを愛求する道なのです。
ideaとは、「普遍的定義」です。
このideaを愛求するところに私たちの幸福があるのです。
この学問的観想によって、理性は完全に発揮されるのです。
ところでソクラテスは、真のideaは「わかり合う為の話し合い」によってしか見出し得ないと考えました。
何故なら真の普遍的定義があり得るならば、
我々の個別的な偏見はそこから可能な限り排除されなければならないからです。
さあ話し合いましょう。
「万物の根源すなわち真に普遍的な定義とは、一体何か?」
“普遍的”という言葉は普遍的ですか?
普遍の意味も時代によって移りゆくものなのだろうか?ということなんです。
普遍的の意味が普遍的でなければ矛盾をおこし、普遍などまず有り得なくなる。
つまり残された道は、普遍的という言葉の意味がそのもの普遍的であること。
なんともはや、
>>35-36 なるほど。
『普遍的』の定義ですね。
反対語や同義語から考察してみますと
反対語からすれば、「個別的」つまり「別々であるような」「それぞれ異なるような」と対立する語であり
同義語といえば、universal、宇宙的、世界的、普通の、どこにでも当てはまるような
これらが大意でしょう。
すなわち
『個々の性質を超えて、あらゆる場合に共通して当てはまるような』
という意味が『普遍的』の厳密な定義です。
これを愛求するのが人類哲学の初めだった訳です。
あらゆる価値観・主義が相対化されつつある21世紀初頭の現代、
「万物の根源にある普遍的真理を理性によって認識する」事が可能なのかという疑念が湧く。
我々は自然・社会科学による真理探求を行う。
「哲学」は、相対化され、純粋理性を超えた領域に到達し得る唯一の行為は『脱』構築されていく。
人文科学に哲学・宗教・芸術は分類されて行く。
唯一絶対の真理など存在しない。
「全ては相対的なものなのだ」。
もし絶対唯一の真理を主張する者がいたらそれは、それが真理だからでは無く、
主張する本人が他の価値観に対して無知であるからなのだ。
──これが近代的価値観、価値多元説あるいは相対論だ。[あるいはそれは道教的思想である]。
我々人類は何を拠り所・信念とすべきなのか?
個別的価値観の差異は相対的でしかるべきなのか。
イスラム又はキリスト原理主義者の狂気を眺めればこれも頷ける。
──相対的視点は確固たる判断への基本であると言えよう。
【普遍的真理は相対性にある】。
我々はこの知に至るのである。
『相対性が絶対的真理である』。
もしあらゆる価値観が相対性によって判断されるなら、
我々は永久的に──来るべき世界への参加の中で──知恵を高めていく事になるだろう。
民主主義は永続するだろう。
我々がpragmaticな社会改良によって新たな自由を手に入れる過程は弁証法的歴史展開だ。
DECONSTRUCTすなわち相対化を絶やさない限り、
永久革命としての民主主義は「不断の努力」によって確保されるに違いない。
DECONSTRUCTIONは多様な立場で援用される。
おこがましくも私が判断すると、脱構築は「思考STYLE」だ。
それは相対化手段であって、デカルトに倣い『方法的相対化』と言って良いのではないかと思う。
PRAGMATISMが有用性・実用性による行動絶対化の方向を意図するSYSTEMなのに対し、
DECONSTRUCTIONが方法的相対化つまり思考による再構築を「行う」のを、我々は、
STYLEとSYSTEMの均衡に出会うものとして経験する。
両者の止揚が我々の道となる。常に善・正しさを志向・指向する『哲学する人』は、
この出会いを善き方へ──幸福・自由・平等・平和・博愛などへ──導く様最善を尽くす。
構造主義と成功哲学の中でDECONSTRUCTIONとPRAGMATISMが語られてきたのは
哲学基礎づけ主義的構造であり、土台無き「無知自覚上の知恵愛求者」たちは自由に、
責任を引き受けてengagementして行くべきだと思う。
でも、哲学やってると今までこれが正しいって基準がどんどん壊されていって
今では、何が正しいの解らなくなって来たよ
あらゆる事を否定し、かといって真実が見えない、でも哲学の道を歩んだ以上
前に進むしかないってのが、私の今の心境か
Soraって女だったの?
いや男だろう。
deconstructionは「道」の自覚だと思う。
道とは老子・荘子の言ったそれである。つまり、相対化の先にある哲学的境地だ。
老子は次の様に言っている。『万物は道から生まれ、道にかえる』
deconstructionが、思考における「方法的相対化」を意味するなら、
我々はそこに「道」を――普遍的な道を――見出すことになるだろう。
>>41 「第一哲学とは倫理学である」と言われます。
「道を歩く」中で、カントの形式主義を、いわば内容主義へと転換することは必要ではないでしょうか。
実存主義が行ったことをさらに、『実現』の次元へ結びつけること。
これが今日の哲学人の、第一命題ではないでしょうか。
>>42 どちらでも構わないことです。
性は脱構築された時「友愛」の次元へ浮上されるでしょう。
おーい、占有スレは禁止だよー、何度言えばわかるんだーい。耳ついてるかー?
あらゆる歴史的vocabularyを駆使して、「今日の倫理学」へ踏み込むことこそ
哲学人の使命であると言えましょう。
構造主義が独自の仕方で脱構築を用いていくのは間違いの無いことでしょう。
一方、対するように、
pragmatistたちがアメリカ的民主主義と、自由の実現というヘーゲル的命題を踏まえて
哲学の営為そのものを道具へ改造して行くのは、疑いあることではありません。
今後、教育を有した哲学人が倫理的善を実現するには、
deconとpragmatismの対立の多元的調停が必要ではないかと思っています。
民主主義・分析哲学・倫理学における「善」を実現する様、思考を続けるべきなのです。
>>46哲学のthreadです。あなたも現に書き込んでいらっしゃる。
哲学板で哲学することが許されないとすれば、
われわれは言語における伝達性を疑わねばならなくなるでしょう。
民主主義が個々人における最大限の自由を実現する政治形態であることは現実的です。
かつ、資本主義が「幸福」追求の権利を人間に保障するのは、
利益追求・自由競争における功利主義的命題実現に[pragmaticに]役立つことからであります。
私たちが民主主義と資本主義を、政治におけるエイドス的基本形式とみなすのは、この様な理由なのです。
ですから、この社会にengagementする人間は、この、両者の政治・社会構造から離れて
『今日の倫理学』を確立することは難しいに違いないと考えられるのです。
>>46 削除されるのは時間の問題なので好きにさせておけばよいでしょう。
>>51 もし、哲学という営みをあなたが真に理解しようと意図するのならば
私たちの思考の自由を、あなたが、自らの利己にのみ従って破壊するのは
人間にとって、humanityすなわち人道にとって、大きな損失だと言わざるを得ないと思われます。
このthreadを「現前に」覗き見る皆さんが、
私たちの哲学を再考あるいは脱構築されることを祈っています。そしてここに書き込んで下さい。
それが私の願いです。
哲学を民衆から奪うのは、思考の『自由』を求める、哲学者の志向ではありません。
今日の倫理学は、
>>50以上の様な条件から「構築」されねばならないと考える訳です。
皆さんの意見を、私と、議論すなわち問答[ディアロゴス]する中で、「新しい次元」へと向上して行きましょう。
さあ、「自由」に書き込んで下さい。
べき、とか、違いない、とかばっかりだなw。しかもその判断内容は異端的なもの、
つーかマイ哲だし。特に
>>40のレスが笑える。
>PRAGMATISMが有用性・実用性による行動絶対化の方向を意図するSYSTEM
なにこれ?何が「絶対」かの探求を放棄するのがプラグマティズムだろ?
用性・実用性によったら、絶対化なんて出てこないじゃないか。論理破綻もいいとこ。
>DECONSTRUCTIONが方法的相対化つまり思考による再構築を「行う」のを、我々は、
>STYLEとSYSTEMの均衡に出会うものとして経験する。両者の止揚が我々の道となる。
DECONSTRUCTIONが思考による再構築を行ってる?そして我々はそれをSTYLEとSYSTEM
の均衡に出会うものとして経験する?はあ?なにいってんの?STYLEとSYSTEMの止揚?
なんじゃそりゃ?用語を並べりゃいいってもんじゃないんだよ。
私はthreadを占領する気など初めから無いので、書き込みを待っているのですが、ありません。
話題を提供してから、今日は、ここに書き込むのを止めにするとします。
第一哲学としての、『今日の倫理学』についてです。
孔子に従うなら。
倫理とは仁です。それは生活の中で実現される思いやりのことだと言い得ましょう。
心の底から相手を[エクリチュールであり、対話であり]自我に置き換えることです。
現代哲学的に言うならば、『脱構築的主体交換』であります。
定言命法に則れば。
私たちの行為は他者と合致して「いなくてはなりません」。
価値多元説に依れば。
善は人間にとって役に立つ行為であり、成功による幸福を実現するにあたっての進歩・継続・成長です。
このthreadにおいては私たちの有意義な対話。となるでしょうね。
さて、私たちはこの様な多元を調停せねばならない訳であります。
『脱』構築する途端私たちは、倫理的善を言語的差異あるいは思考的差異に帰依させてしまうのであります。
そこには何があるでしょう?
善の理解でしょうか?自己目的的思考でしょうか?私たちが倫理の目的とする「善」はドコへ至るのでしょうか?
―――これをまず始めの議題の契機として提案しておきます。『他の主体=あなた』の書き込みを待望して電源を落とします。
>>55 >用性・実用性によったら、絶対化なんて出てこないじゃないか。論理破綻もいいとこ。
なるほどそうとも「考えられ」ます。
しかし、私はここで私の発言を再び正当か不正か、論理的に検証することになりました。
再考してみて下さい、私は『用性・実用性』を「絶対化」という文章の対象としたのであります。
用性・実用性は相対化の対象でありますか?pragmatismはdeconstructionではありません。
以上の様な論理的観点から、わたくしは、
>PRAGMATISMが有用性・実用性による行動絶対化の方向を意図するSYSTEM
と、仮にも、記述する試みの地点に立った訳です。
>DECONSTRUCTIONが方法的相対化つまり思考による再構築を「行う」のを、我々は、
>STYLEとSYSTEMの均衡に出会うものとして経験する。両者の止揚が我々の道となる。
私は、すなわち弁証法的processについてあるいはそのpragmatism的結果によって
この様な記述法を選んだのであります。
あなたがご返答なさった
>用語を並べりゃいいってもんじゃないんだよ。
というご指摘に関しては、以上の様な理的構造が見出せるのではないか。これは解釈の問題に過ぎませんが。
では今回はこれで。
言いたいのは、幸福主義の「普遍性なき実用主義」と、カント的道徳律の「個別性
なき形式主義」を共に克服するにはどうしたらよいかということだろ?
もろヘーゲル的プロブレマティークじゃん。わざわざプラグマティズムやディコンスト
ラクションを持ち出すこともないだろ?それとも衒学ごっこしたいだけかな?
>>59 そうですね。あなたの返してくれた「まとめ」は、私の提出したい問題意識を捉えていると思われます。
わたくしは浅学で、無知であるから十分理解できないのですが、
>ヘーゲル的プログレマティーク
とは何ですか?
別表現へ再度言い換えて頂けるとより理解しやすくなるのではないかと考えます。
私の個人的解釈に拠ると、すなわち
「弁証法のひとつ」に、脱構築とpragmatismの矛盾性は当てはまるという観念的抽象的叙述だろうか。
具体的に、私たちの「善」は各生活で直面する「止揚」そのものと成る。と。
アリストテレスの『中庸は倫理的徳である』を踏むと、止揚とは中庸の運動的表現なのかもしれません。
倫理的徳すなわち道徳的善悪における「善」は
静的には『中庸』、動的には『止揚』である。
これは絶対的でしょうか?
あるいは、定言命法と矛盾しませんか?
pragmatismとカント的人格主義は、「善」の解釈を巡って矛盾すると思います。
また、功利主義とカント的人格主義は、同じく矛盾するのではないか。
損得快苦を度外視した絶対的道徳の声=良心を、
哲学『する』の前提として認めるか認めないか、ここに矛盾の原因がある様です。
多元的調停は止揚と名付けられるべきでしょうか?
私たちは良心を脱構築し得るのでしょうか。良心を道具化できましょうか。
中庸を取るなら、『絶対的』道徳の声はあり得ないことになりましょうか。
>脱構築とpragmatismの矛盾性
つーのがよくわからん。それは普通に考えても対立になりえないだろう。
」 ◆m0yPyqc5MQ の頭の中ではそれなりに明確になってるのかもしれんが、
だったらまずその対立図式をここで叙述する努力をしなきゃ議論が始まらない。
もしくはそういう主張をしている思想家がいるのかな?
まずはそこをはっきり書くことだね、そこをちゃんと説明できるかどうかが
「マイ哲」になるか「ちゃんとした議論」になるかの分水嶺だ。
所詮人生とかこの世の全ては儚いものだ
あの衰えを見せぬ日さえもいつかは昇らぬ時は来る。
全ての形あるものは必ず滅びる。
原子や、電子でさえも半減期が存在し、
いつか、全ては消えるのだ・・・。
世界の全てを支配して、それが何事足ると言うのだ。
下らぬ。
所詮この世の全ては墓無いものだ。
諸価値は目的に対する手段の有効性という観点からしか存在し得ない。
真理の価値とは、目的に対する真理の手段としての有効性に他ならない。
故に
真理が、即ち重要なのではない。
真理は目的なのではなく、
真理は手段に過ぎぬのだ。
何を目指す。
何を目指してきたのであろう。
そして、これから何を目指して歩んで行くのか。
其の末路の墓無き故に、我は問う。
何が真理かと問う者は、其の問いが世界で最も重要な問いではない事に気づいていない。
何が重要なのか。
其れが始まりだった。
我は問う。
何が、この世界で最も重要なのか。
世界で大事な物が何か分からぬ者ほど愚者と呼ぶにふさわしき者はいないのだ。
against DPってなんだ?まあ、つまんねえからどうでもいいけど。
世界に「人足る者」は存在するのか。
愚か者しか見た事はない。
そしてこれからもそうなのであろう。
そのような世界を支配する意味などあるものか。
人として生まれながらに猿と対峙し、何か下らぬ物を学んで行く。
願わくは世界に唯一人、我と対等に世界を生きる者のあらん事を。
かけがえのないもの
>>63 あなたはどうやら私的哲学と公的哲学とに完全に異なる価値判断基準を持っている様に思われます。
それも一思考法でしょう、一世界観でしょう。
ここで言っておきますが、私は私的哲学は公的哲学と不即不離であると考えています。
あなたの世界観とは異なる様ですね。
私はあなたの考え方を理解しますが、
私は、あなたに、私の考え方も理解してくれると良いなと願っています。
たとえば、ニーチェやキルケゴールの実存主義は「私的哲学では無い」と言い切れるでしょうか。
哲学が思想家の個性からまったく違った場所から生まれたことがあったでしょうか。
「完全に公的でのみある哲学」などかつて存在したことがあったでしょうか。
実証主義や構造主義でも、全て初まりとは、
ある人格者が哲学的思索と研究からなんとか生み出した『私的哲学』では無かったでしょうか。
それが結果的に公的性格を持つに至った。──そう考える・構想する余地は、ないのでしょうか。
私には国民として、また人類の一員としての自然権から、思想と表現の自由があります。
私は私の考えを持ち書き込む権利があります。
「あなたの哲学観を私が受け入れなくてはならない理由はドコにもありません」。そうでしょう。
>>63 次に、私には
脱構築とpragmatismの矛盾性について解説する必要がある様です。
脱構築は哲学においてポスト構造主義と呼ばれる傾向で主に用いられる概念・言語です。
それは様々な諸分野の応用に援用されますが、
[またされ得ることが脱構築の立場にとって本来的であると考えられるのですが]、
すなわち哲学では、「ある事態を脱出する思考形式」と言えるでしょう。
[この主張を『脱』構築するのは不可能で無い。]
さてpragmatismはパース・ジェームズらによると
「実際上の結果に帰着する概念の有用性・意味内容を真とする思考方法」のことです。
これは『脱』構築ではありません。
pragmatismには飽くまで構築を突き詰めて行こうという
徹底した建設性がある[たとえば真や善を決定しようとする思考]。
つまりその根本は行動的反破壊的である訳です。
ここには明らかな破壊性を全面化する『脱』構築との矛盾があると言うことができる。
私はこれを指して「脱構築とpragmatismの矛盾性」と言った訳です。
>>63 ここで再度私の書き込みについて触れますと
>ヘーゲル的プログレマティーク
この「プログレマティーク」が、
私の持った日本語辞書に載っていなかった、また何語かわからないこともあり、
私には理解し難かった、故に私はその語全体を文脈から推測して
『[
>>56を]「弁証法のひとつ」に脱構築とpragmatismの矛盾性は当てはまるという抽象的観念的叙述』
だろうか、と構想した訳であります。
すなわち私が
>>56で提出した
『多元の調停による「[今日の]第一哲学=倫理学」の目的つまり善は何処に至るか』
という「ある問い」に対するあなたの返答が
>>59であり
>もろヘーゲル的プログレマティーク
とあなたはテクスト表現したのだ、と私は考えました。
いわば「脱構築とpragmatismの反を弁証法により止揚すること」=「[今日の]善」と
あなたは主張したいのかと、
>ヘーゲル的プログレマティーク
という語によって、私は、考えた訳であります。
>>60 で私はその[便宜的]結果に立ち、[あるいは脱構築し]、「止揚とは中庸の動的表現」である可能性がある、と
テクスト叙述した訳であります。
>>67 あなたの書き込み[テクスト]を読んだわたくしの感想としては、
「近現代合理主義に対する信頼を脱構築した主体の感情」、というものでした。
すなわち悲観であります。
私たちは『無知であることを知っている猿の子孫』であることによって
偉大あるいは偉大に成り得る[つまり万物の霊長足り得る]のですから、
思考による可能性を諦めれば猿でしかあり得ません。
葦であるとしても知恵を得る可能性において希望に満ちている[=hopeful]のであります。
この可能性は少なくともあるいは依然として「現在のところ」無限的であるから、私たちは、今日、
合理と心情の思考に最大の信頼を置くのであります。
>私は私的哲学は公的哲学と不即不離であると考えています。
あのさあ、そういうセリフはもう聞き飽きてるんだよね。
だいたい、私的哲学と公的哲学なんて区別はないんだよ。
他人との議論に耐え得ない哲学についての記述、と耐えうる哲学についての記述があるだけ。
君の脱構築とプラグマティズムに関する記述は、我田引水的すぎて議論にならないの。
君の言ってることは、結局、幸福主義の「普遍性なき実用主義」と、カント的道徳律の「個別性
なき形式主義」を共に克服するにはどうしたらよいかという、それこそ何百年も前からある古い
問題なわけ。その問題に脱構築だのなんだのと現代的意匠を無理やり被せるのは、議論を
解りにくくするだけで何の意味もないんだよ。難しい言葉を使ってみたい、という気持ちがある
のはわかるけどさあ、それで利口になったと思うのは幻想。危険な幻想だ。
>>73 お言葉ですが、私はpragmatismと脱構築について思考したのであり、
あなたが普遍性無き実用主義と個別性無き形式主義について言及したのは
私の問題意識に対する「あなたなりの象徴」であって、
私の問題意識に対する私の解答意識ではありません。
議論をややこしくするつもりは更々無い訳ですが、
議論の際の考察対象について互いの差異を認識し合うまでには往々にして
「哲学的な」意志交換が必要とされるのではないでしょうか。
それは用語の定義に対する確認かもしれませんし、
互いの問題意識に対する意志方向の集中過程かもしれません。
何れにせよ、あなたが“危険”と記した課題について
私たちは議論[ディアロゴス]を開始したのであって、
個別的問題への言及は本題とは直接関係はしないであろう脇道でしょう。
さて本題に戻りましょう。
今日の倫理学における「善」は、
>ヘーゲル的プログレマティーク
である、[もしくはその回答として古くから考えられ結論づけられた課題である]
とあなたは書き込んだと私は読んだ訳ですが、
あなたはそれについてどう考えているのでしょうか。
>>1 しらねーよ
どっかで体でも売ってんじゃねーの?
>>75 安穏な暮らしをしててくれると良いですね。
というかl誰であれ。excitingでもいいですけど。
77 :
慶應哲学科 1:04/09/27 03:33:38
>>77 知りませんよ。マジで。
私は哲学「する」者です。宗教する者ではありません。
79 :
考える名無しさん:04/09/28 00:00:02
80 :
考える名無しさん:04/09/28 01:16:27
哲学をしてる人?
哲学の「勉強」をしてる人?
フィロゾフィーレンでちね。
82 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/09/28 03:42:19
今日の祭りの標的はこのスレにしようかな。
83 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/09/28 03:43:39
眠いので体力が許す限り、ウンコみたいな文章を書きます。
84 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/09/28 03:48:00
まあ、実際、僕はウンコみたいなもんですよ。チンポと名乗ってますけど。
いやさ、俺って人並みに哲学史の勉強とかしたと思ってたんだけどさ、
今日、如何に自分がその方面に無知かって事を痛感しました。
ホントに参りましたよ。まあ、勉強なんかせずにエロビデオばっかり
観てたのが今ごろ祟り出したかなあ、と思っているが。
諸君も、エロの道に入ってこれを極めようとすると物凄く手間が掛かるので
気をつけた方がいいよ。
85 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/09/28 03:53:08
しかし、哲学って「知恵への愛」とか言うが、やってる本人にはそういう自覚は
ないんじゃねえかな。「愛」というよりも「妄想」と言った方がいいぞ。
妄想はいいよな。俺は「日本美少女妄想学会」の会長を三年務めたことがあるから
分かるけど、妄想は本当に素晴らしい。
いままでなにしてたの?
87 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/09/28 03:57:23
ただ、妄想は行き過ぎると病気になるので諸君も注意だ。
特に自分の知らないうちにストーカー行為に及んでいる場合がままある。
そういう時は、相手のツラをじっくり眺めて、ホントにこいつが我が妄想の
対象に値するか否かを検討するのが宜しい。
それが出来ないまでひどい状態に陥っている場合は、友人とかに相談しないと
駄目だぞ。そうでないと、次に君がやるのは、十年経っても恥ずかしい思いが
消えないほどの破廉恥な行為だ。
88 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/09/28 03:58:21
自己言及乙です
90 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/09/28 04:02:27
まあ、妄想の話なんてどうでもいいか。
妄想はしかし、素晴らしいと思う。
フッサールという人が、よく「事象」とかって言葉を使うみたいなんですけど、
これは「実在するもの」ってことなんですか?
事象が実在するってことを前提としてたんですか?
それとも、実在するかどうか考えた上で、
実在するってことになったのでちか?
92 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/09/28 04:07:04
まあ、仕事に忙殺されると段々と妄想力が衰えて来るので大変だ。
妄想力は精神的なものだから、脳を酷使する仕事をしていると
段々と弱まってくる。しかしまた、逆に脳を使わないでいるとまた弱まってくる。
だから毎日、ほどよい妄想をしたいものだ。
93 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/09/28 04:13:43
>>91 現象学で「事象」と言うのは、単純に実在するものではないのでは?
あんまりその手の議論はやりたくないが、「実在」というのは、
超越論的自我の定立判断の一つで、その自我の判断がないと成立しない。
少なくともフッサールの場合はそうでしょう。で、「事象」というのは、
・・・フッサールってどんな時にこの言葉使ってたっけ?w
俺、忘れたわw
94 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/09/28 04:15:33
今、手元にフッサールの著書が一冊もないからどこか引用してくれ。
95 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/09/28 04:24:54
まあ、一般に「事象」というのは、実在なんかよりも何か原初的で、
我々に直接現れるがままのものを指している場合が多いと思います。
ハイデガーなんかは「事象そのものへ」が現象学の根本テーゼだ、みたいな
ことを言いますが、フッサールがそんなことを言っていたという記憶はないです。
多分、これはハイデガー氏の妄想であり、彼も日々妄想に勤しんでいたのだと思います。
つまり、僕等は妄想で一つになるわけです。
96 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/09/28 04:25:54
眠い。寝るよ。今日は祭りはなしだね。じゃ。
>>80 私は、哲学思想[つまり倫理]を学習する者である以上にもっと
哲学を「する」者です。
私は『善』を究明したい。
それが私にとっての哲学する目的です。
>>97 なぜ一つのスレを占有して書き込むの?
もっと他のスレを利用すればいいのでは?
>>98 あなたが哲学板という世界における秩序を守りたいと願う正義感の強い方なのはよく解ります。
というのは、私もあなたと同じく、秩序と平和を愛する世界の市民に他ならないからです。
私はあなたへ質問します。
1.〈占有〉の定義についてあなたはどう考えているのですか?
2.また、「共有」の定義についてどう考えているのですか?
私はディアロゴスつまり対話によって、またあなたや私それぞれの人の独話によって
『知恵』を愛求したいと願い、このthreadを造ったのです。
>>99 占有の定義は、コテハンが自分の立てたスレに
返事がある無しにかかわらず、脈絡なく自分の
主張を書き込み続けることです。
かつ、書き込みの話題に応じたスレを見つけて
スレごとに書き込む努力をしないことです。
>>100 なるほど。
それがあなたの考える2chにおける〈占有〉の定義なのですね。
私はこのthreadについて
>>1へはっきり記した様に、「知恵を愛求する」という目的を定めました。
私がこのスレッドを『共有』するのは、一貫した筋道に沿って、
「知恵の愛求」を共に行う有志たちとです。
それ故、知恵を愛求しない者にとってすれば、あるいは〈占有〉と見えるのかもしれない。
つまり彼らと知恵を愛求するという経験を『共有』することはできない訳です。
私がこのthreadを造った理由は、
この板の他のthreadに、
「知恵を愛求する」という確かな目的を持ったものが見当たらなかったからです。
[具体的には、他の特定の目的を持ったものか、無目的であるかのようなものでした。
私が目的としたいものを確立しているthreadは見つからなかった。]
だから、私自身が率先して道を切り開かなくてはならない──
「哲学」するthreadを造らなくてはならない、と考えた訳です。
小理屈ばっかだな。占有かどうかを本人が決めてどうすんだよ。
周りが判断すんの。
>>102 1.論理的思考を経ない哲学上の営為を私は知らない。
2.あなたから眺めれば私が他人だとしても、あなたは私から眺めれば他人です。
駄目な奴
は
何
を
や
っ
て
:::::::::::/ ヽ:::::::::::::::::::::::::::::::
:::::::::::| 現 な 闘 i::::::::::::::::::::::::::::::
:::::::::::.ゝ 実 き わ ノ::::::::::::::::::::::::::::
:::::::::::/ と。 ゃ イ:::::::::::::::::::::::::::::
::::: | ゙i ::::::::::
\_ ,,-'
――--、..,ヽ__ _,,-''
:::::::,-‐、,‐、ヽ. )ノ ∠_::::::::
:::::_|/ 。|。ヽ|-i、 ,-、ヽ|:::::::::
/. ` ' ● ' ニ 、 |・ | |, -、::
ニ __l___ノ ゚r ー' 6 |::
/ ̄ _ | i i '-
|( ̄`' )/ / ,.. ヽ 、
`ー---―' / '(__ ) ,/ニニニ
====( i)==::::/ /;;;;;;;;;;;;;;;;
:/ ヽ:::i /;;;;;;;;;;;;;;;
も
駄目w >>1
パスカルの
「人間は考える葦である」
は、あるいは、直観的思考によって導き出された直接的な哲学上の営為かもしれない。
やっぱじゆんか。パスカルを持ち出すのはじゆんくらいのもの。
:::::::::::| 現 な 闘 i::::::::::::::::::::::::::::::
:::::::::::.ゝ 実 き わ ノ::::::::::::::::::::::::::::
:::::::::::/ と。 ゃ イ:::::::::::::::::::::::::::::
::::: | ゙i ::::::::::
\_ ,,-'
――--、..,ヽ__ _,,-''
:::::::,-‐、,‐、ヽ. )ノ ∠_::::::::
:::::_|/ 。|。ヽ|-i、 ,-、ヽ|:::::::::
/. ` ' ● ' ニ 、 |・ | |, -、:: ←
>>1=駄目人間
ニ __l___ノ ゚r ー' 6 |::
/ ̄ _ | i i '-
|( ̄`' )/ / ,.. ヽ 、
`ー---―' / '(__ ) ,/ニニニ
====( i)==::::/ /;;;;;;;;;;;;;;;;
118 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/09/30 17:08:03
勝手なことを言ってはいけない。
何が「知恵の愛求」だよw
君のやっているのはな、ただうろ覚えの教科書的なキーフレーズを垂れ流しているに
過ぎないのだよ。フィロソフィアなんていうから、プラトンの対話篇のようなものでも
やるのかと思ったら、馬鹿みたいに「なんとか主義」を羅列して得意になってるだけじゃねえか。
そんなのは、フィロソフィアの言葉とは真っ向から対立する営為である、と私に言われても言い訳は
できんぞ。それに、まったく「対話」になってないよ、君の場合は。
それから、論理的であることが哲学的対話の必須条件と思っているの?
しかし知恵そのものは論理では到達できませんよ。知恵が論理を使用するのであって、論理が知恵を
規定するのではない。哲学的な対話とは、ロゴスの根本を見据える運動であって、ロゴスに依存し、
ロゴスでオナニーするような行為とは違います。
そもそも君は、「知恵」、つまり「ソフィア」の定義から始めた方がいいぞ。
大体、「哲学」なんて名称ができた瞬間に、ギリシア本来の哲学的思索は死んでしまった、なんて
言っている有名な哲学者もいるくらいだから、「知恵の愛求」なんて得意顔で言っている間は、
思索なんて到底無理だよ。
知恵はあくまで何かを知ろうとしている。つまり、何かを対象化し、客観的に把握しようとしている。
だから、哲学の営為とは、Was ist das? なんですよ。つまり、ものの本質を探究しようというわけです。
しかし、この本質に注目した時点で、ものの現実的な存在(Existenz)が破棄されるわけです。
フュシスをideaと解釈するところに既にその傾向が見えます。そして、このイデアを観照することが
哲学の本来の目的だということになってしまった。
貴方はそういう前提のもとで、「哲学」を既に解釈しているんですよ。先ずはご自分のそうした解釈の
反省から始めてはどうですか? そして、チンポ太郎のように、万人に愛されるアイドルを目指しては
どうですか! つーか、おまえ、ちょっと宗教臭いな。俺はそういうのは苦手だ。じゃ。
チンポ太郎は、分析哲学に良くいる厨はどう考えてるの?
120 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/09/30 17:30:43
>>119 分析哲学はそれなりに面白いが、飯田氏の表現を借りれば、「禁欲的」過ぎると思う。
つまり、意図的に形而上学の領域に足を踏み入れることを拒否している感じがする。
まあ、可能世界の議論の中では、いろいろ形而上学の概念が飛び交っているようだけど、
俺にはよく分からん。ライプニッツがあの議論の祖とされているのは分かるが、
連中のライプニッツ解釈はどの程度のものなんだろう。
誰か、可能世界意味論を俺に解説してくれたらありがたい。
こちらはこちらで、純形而上学の立場からそれを批判できると思う。
まあ、飯田氏や石黒氏の解説本は読んでいるから、それなりに本格的なもので
ないといけないが。誰か猛者はいないかな。
121 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/09/30 17:32:52
じゃあ、今日は帰る。質問等は「死尿」スレの方でやって下さい。
他スレをウンコで汚したら失礼だからねw
122 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/09/30 17:33:47
チンコいいねぇ〜
>>118 私は哲学の第一命題は倫理の確立であるという定義から出発します。
故に『善』を実現する為、思考行動するのであります。
>>50で私はこの善が、今日の現実社会世界で如何に立脚し得るか、を定律した。
>>61-62で私は善が、如何なる思想と多元的に調停されまた止揚され確立され得るかを思考しています。
私は、近現代の思想vocablaryは利用されるべきものだと考えている。
これが《目的説》つまりidea論的視野から眺めると
>教科書的キーフレーズの垂れ流し
と見なされ得る原因でしょう。しかし、
私の意図は思想の道具化つまり『哲学にとっての思想利用』にある。
ここへの指摘は的外れであるとお分かりになるでしょう。
>>61-62 1.止揚と中庸の定律問題。
2.[定言命法に基づく]カント的人格主義に対するpragmatismや功利主義といった思想体系の
哲学上の「良心」に関する前提の問題。
この二つが今の議題です。ここへの言及こそ「哲学上有効な」言論であります。
>>118 私は哲学の第一命題は倫理の確立であるという定義から出発します。
故に『善』を実現する為、思考行動するのであります。
>>50で私はこの善が、今日の現実社会世界で如何に立脚し得るか、を定律した。
>>61-62で私は善が、如何なる思想と多元的に調停されまた止揚され確立され得るかを思考しています。
私は、近現代の思想vocablaryは利用されるべきものだと考えている。
これが《目的説》つまりidea論的視野から眺めると
>教科書的キーフレーズの垂れ流し
と見なされ得る原因でしょう。しかし、
私の意図は思想の道具化つまり『哲学にとっての思想利用』にある。
ここへの指摘は的外れであるとお分かりになるでしょう。
>>61-62 1.止揚と中庸の定律問題。
2.[定言命法に基づく]カント的人格主義に対するpragmatismや功利主義といった思想体系の
哲学上の「良心」に関する前提の問題。
この二つが今の議題です。ここへの言及こそ「哲学上有効な」言論であります。
二重書き込み申し訳ない。
:::::::::::| 現 な 闘 i::::::::::::::::::::::::::::::
:::::::::::.ゝ 実 き わ ノ::::::::::::::::::::::::::::
:::::::::::/ と。 ゃ イ:::::::::::::::::::::::::::::
::::: | ゙i ::::::::::
\_ ,,-'
――--、..,ヽ__ _,,-''
:::::::,-‐、,‐、ヽ. )ノ ∠_::::::::
:::::_|/ 。|。ヽ|-i、 ,-、ヽ|:::::::::
/. ` ' ● ' ニ 、 |・ | |, -、:: ←
>>1=駄目人間
ニ __l___ノ ゚r ー' 6 |::
/ ̄ _ | i i '-
|( ̄`' )/ / ,.. ヽ 、
`ー---―' / '(__ ) ,/ニニニ
====( i)==::::/ /;;;;;;;;;;;;;;;;
駄目な奴
は
何
を
や
っ
て
も
:::::::::::| 現 な 闘 i::::::::::::::::::::::::::::::
:::::::::::.ゝ 実 き わ ノ::::::::::::::::::::::::::::
:::::::::::/ と。 ゃ イ:::::::::::::::::::::::::::::
::::: | ゙i ::::::::::
\_ ,,-'
――--、..,ヽ__ _,,-''
:::::::,-‐、,‐、ヽ. )ノ ∠_::::::::
:::::_|/ 。|。ヽ|-i、 ,-、ヽ|:::::::::
/. ` ' ● ' ニ 、 |・ | |, -、:: ←
>>1=駄目人間
ニ __l___ノ ゚r ー' 6 |::
/ ̄ _ | i i '-
|( ̄`' )/ / ,.. ヽ 、
`ー---―' / '(__ ) ,/ニニニ
====( i)==::::/ /;;;;;;;;;;;;;;;;
「思考と行動における善は、止揚または中庸であると言えるだろう。」[
>>60参照]
これが現在、善について示された原理概念です。
勿論諸批判を経てこの真偽を確かめねばなりません。今はその途中です。
様々な思想との多元的調停を経てなお、確実に原理的であり得る概念こそ
私たちが求める『善』と言える。
138 :
考える名無しさん:04/09/30 20:39:26
偉いね。ちゃんと考えてる。自分も見習おう。何となく分かります。
駄目な奴は何をやっても駄目…w 実例=1 w
:::::::::::| 現 な 闘 i::::::::::::::::::::::::::::::
:::::::::::.ゝ 実 き わ ノ::::::::::::::::::::::::::::
:::::::::::/ と。 ゃ イ:::::::::::::::::::::::::::::
::::: | ゙i ::::::::::
\_ ,,-'
――--、..,ヽ__ _,,-''
:::::::,-‐、,‐、ヽ. )ノ ∠_::::::::
:::::_|/ 。|。ヽ|-i、 ,-、ヽ|:::::::::
/. ` ' ● ' ニ 、 |・ | |, -、:: ←
>>1=駄目人間
ニ __l___ノ ゚r ー' 6 |::
/ ̄ _ | i i '-
|( ̄`' )/ / ,.. ヽ 、
`ー---―' / '(__ ) ,/ニニニ
====( i)==::::/ /;;;;;;;;;;;;;;;;
>>1 は
糞スレ立てて自分の幼稚な日記を書く厨房。
スレ削除されて泣き、
今度はいつアクセス禁止になるか戦々恐々のひっきぃ。病人w
駄目な奴
は
何
を
やっ
>>124の課題1.2.は、『「良心」の前提有無』の問題に帰着すると言える様です。
たとえば
カントは自然法則との対比としてこれを肯定し、
またソクラテスは性善説的楽観からこれを肯定している。
だが反対に、功利主義は快楽に依存する存在と人間を見なすに当たって
良心は考えられていないと思います。
[質的功利主義についても、良心というより「快楽の上下」として人間の心は見なされている]。
また、pragmatism的道具主義にとって良心は、やはり
有用性から利用されて然るべきものと見なされていると言える。
少なくとも良心が無用でむしろ成功にとって害ならば、pragmatistはそれを却下するでしょう。
私たちが「良心」を在るものとするか、軽視していくか、ここが重要です。
良心は絶対視されるべきか?それとも相対化されて構わないか?
これが今日の問題なのです。
>>138 あなたは
>>149についてどう思いますか?
宜しければ、意見を聴かせて下さい。
皆さんも是非、どんな小さな事でもよいから
この問題に関する意見を聞かせて下さい。
ジエン(・A・)イクナイ!!
もし良心が当為として見なされる「そうでなければならない[=定言命法]」ことならば
私たちは『善とは、動的には止揚、静的には中庸である』という原理概念を、
無矛盾の絶対的に普遍的なもの、と見なし得ると考えられる。
何故なら、ここに矛盾は《良心など(必要)無い》場合に発生するからです。
善を実現することは命令では無い、という訳です。
良心が本性か、それとも悪心が本性か、という問いは「性善」〈性悪〉両説の対立として
古代中国でも考えられてきました。
私は、良心に関する両立場は例に習って止揚+中庸されて善いと思う。
つまり、適宜その関係を調停することが「善を実現する」方法なのです。
「善を実現しようとすることが善である」という逆説的あるいは脱構築的真理が、
ここには有る様に考えるのです。善意志が有るのです。
あるいは、「哲学する」とは善意志そのものなのです。
:::::::::::| 現 な 闘 i::::::::::::::::::::::::::::::
:::::::::::.ゝ 実 き わ ノ::::::::::::::::::::::::::::
:::::::::::/ と。 ゃ イ:::::::::::::::::::::::::::::
::::: | ゙i ::::::::::
\_ ,,-'
――--、..,ヽ__ _,,-''
:::::::,-‐、,‐、ヽ. )ノ ∠_::::::::
:::::_|/ 。|。ヽ|-i、 ,-、ヽ|:::::::::
/. ` ' ● ' ニ 、 |・ | |, -、:: ←
>>1=駄目人間
ニ __l___ノ ゚r ー' 6 |::
/ ̄ _ | i i '-
|( ̄`' )/ / ,.. ヽ 、
`ー---―' / '(__ ) ,/ニニニ
====( i)==::::/ /;;;;;;;;;;;;;;;;
は
何
を
や
っ
て
も
さて、
止揚+中庸が善を実現するについての前提つまり
「善する本性」
だとするならば、
また具体的対人についての応用意図が在るはずです。
もし止揚するばかりに殺人することがあれば、私たちが善であるはずは無い。
もし中庸を取るばかりに意味無く人を傷つけるならば、私たちは悪と言われて仕方ない。
中庸+止揚が善であるのは、それが「対人関係について」言い換えれば
「人と人との間柄」を基準にする場合に限られるのです。
例えば
>>163が、善を為す事でしょうか?
それは、人と人との間柄についての止揚+中庸であるか?
もしそれがある人にとって当てはまっても、他の人に当てはまらなければ善は実現され無い。
間柄とは両方を同時に基準にする場合なので、偏向的では行為は止揚+中庸に至ることができないのです。
私が
>>163を不快に感じ傷つけられれば、
>>163は矛盾的で不均衡な不善に過ぎぬ訳です。
166 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/09/30 22:58:31
>私は哲学の第一命題は倫理の確立であるという定義から出発します。
>故に『善』を実現する為、思考行動するのであります。
そういう勝手な思い込みから出発されても困ります。
哲学がいつのまにか倫理学に移行してますよ! そういう移行の根拠はなんですか?
また、あなたは、「善」という概念を独善的に、また形式的に、人間のエートスの本性を考察すること
なしに、「止揚または中庸」などと規定しております。
まず、「中庸」というのは、人間が持ちうる「徳」のひとつであって、これを「善」自体にまで昇華しては
いけない。「徳」そのものは「善」自体の様態であって、善と同一ではない。
167 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/09/30 23:00:55
それから、そもそも「中庸」とは、両極端の中間をとるということではないです。
例えば、「勇敢」は行き過ぎると「無謀」になる。で、「勇敢」が足りないときは、ひとは「臆病」になる。
しかし、勇敢は、決して臆病と無謀との中間に位置するものではない。そういう風に考えると、「勇敢」な人は
無謀にもなり得るのに、自分の力を抑制して、自らを低くして、勇敢になったと言われてしまう。
あるいは、元来は臆病だったのに、頑張って勇敢になって見ました、なんてことが言われてしまう。
そうではなく、勇敢な人は本性的に勇敢であって、「臆病」と「無謀」との弁証法的統一の上で「勇敢」に
なったのではない。例えば、本性的に心持ちの優しい人がいたとして、その人が実は、自分を
意地の悪い人、また世話好きの人と見比べて見て、その結果、「心持ちの優しい人」になったとしたらどうでしょう?
そんな奴は、所詮、偽善者ですよ。
同じ理由で、
>様々な思想との多元的調停を経てなお、確実に原理的であり得る概念
なんてのもおかしい。まず、多元的調停の基準になるものはなんですか? それが大体、「原理」と呼ばれるべきでしょう。
なのに、貴方は、多元的調停を経たあとで、「確実に原理的であり得る概念」が出てくると思っている。
それは違う。それを導き出すものが原理であって、「確実に原理的であり得る概念」は、その原理の帰結なんですよ。
さあ、ひとりでオナニーばっかりしてないで、反論でもしてみたまえ!
反論、罵倒は大いに歓迎するよ。
168 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/09/30 23:02:58
本物?
太郎さんって、すごい! 少なくとも詐欺師の才能はあるねw
チンポまんせ〜
>>167 なるほど!
>>1 はつまり、典型的な臆病者ということだな。
で、オナニーレスばかり書いて独りでヨガっているわけだ、
そういうことか、よ〜くわかった!
>>166 >>166 私は、こう考えています。
思索することを哲学、その結果として実現されるものを思想と呼ぶ。
また、次のように考えています。
純粋理性によって探求される真理は、実証科学によって最も純粋に実現される。よって
哲学の第一命題は「倫理」の探求・実現なのだ。それは『善』に関する思索である。
>まず、「中庸」というのは、人間が持ちうる「徳」のひとつであって、これを「善」自体にまで昇華してはいけない。
この理由は何故ですか?
私は、こう考えています。
徳とは善理の等価概念である。善理とは、善の普遍的原理である。
>>167 >「中庸」とは、両極端の中間をとるということ
私はその通りだと思っている。
参考までに。
ちゅう‐よう 【中庸】
--------------------------------------------------------------------------------
[名・形動]
1 かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。
また、そのさま。「―を得た意見」「―な(の)精神」
2 アリストテレスの倫理学で、徳の中心になる概念。
過大と過小の両極端を悪徳とし、徳は正しい中間(中庸)を発見してこれを選ぶことにあるとした。
[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]
>弁証法的統一
つまり止揚の静的実現が中庸なのだと考えています。
また、止揚とは中庸の動的実現なのだ、と。
>多元的調停の基準になるもの
これは非常に鋭い指摘だと思います。
これこそ私たちの善意志=良心なのだと思うのです。
この基準が真に普遍的である時、私たちは善なのです。
>「確実に原理的であり得る概念」は、その原理の帰結
これも非常に鋭い指摘だと思います。
つまり、『善とは、止揚+中庸である』は、原理から導き出される第一概念に過ぎないのです。
この「原理」を、明瞭に判明に定義づける事が重要命題なのですね。
『間柄を基準として「止揚+中庸」を実現せねばならない』
これが私たちの第一倫理命令だと考えられます。
ここから外れる時、私たちは悪であり、その心は悪徳であります。
ここに内する時、私たちは善であり、その心は徳なのであります。
私は考える。
この命令は絶対なのであり、相対化・道具化・脱構築し得ない「人道真理」なのです。
この命令から外れる時、人は良くも悪くも非道徳的なのです。
177 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/10/01 23:56:13
とりあえず、再反論です。
中庸の概念について
まず、自分はアリストテレスの中庸概念を批判しているのだということをお忘れなく。
だから、辞書の用法を引いて反論されても困る。以下にもう一度自分の議論を繰り返すから、
それに対する君の意見を求めよう。
もし、中庸というものが、
>過大と過小の両極端を悪徳とし、徳は正しい中間(中庸)を発見してこれを選ぶこと
とすると、われわれは常に、「過大と過小の両極端」がどんなものであるのかを認識して
いなければならない。というのも、その認識なしには、そもそも中間を知ることはできないし、
中間を知ることができなかったら、それを「発見」することも「選ぶ」こともできないだろうから。
よって、中庸を実践するためには、あらかじめ、中庸に関する知識をもっていなければならない。
そしてこの知識こそが、中庸を実践する上での原理であり、われわれの規範でなければならない。
しかしたとえばどうでしょう、ここに本性的に心のやさしい人がいると仮定する。
この人は本性的にそうなのであって、別に自分を「世話好きなひと」(過大)、「意地のわるい人」(過小)と
比較して、その比較を通じて「心のやさしい人」(中間)になったのではない。
もしそうだとすると、この人は、「両極端を悪徳とし」、その「中間(中庸)を発見してこれを選」んだ
のではないから、本当は心のやさしい人ではないのでしょうか?
中庸とは、かならず、両極端を悪徳と見なさなければ出てこないものなのでしょうか?
わたしは違うと思う。中庸とは、両極端に先立つものであって、逆に、その両極端を規定するものだと
思う。いや、大多数の人は、中庸の徳を実際に本性的に身につけているいるのであって、
一部の極端な人達が、両極端に走るのです。
よって、中庸とは、両極端の弁証法的統一などではなく、逆に両極端を規定するものと言わねばならない。
178 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/10/01 23:57:05
これがわたしの言いたかったことです。これに対して、中庸の概念のアリストテレス的解釈を
持ち出しても反論にはなりませんよ。最初に言ったように、彼の中庸概念の把握に反対して、中庸は
アリストテレス的に規定されてはならないと言っているのですから。
あなたがもし、アリストテレスの言うことを鵜呑みにして、なんの批判もせずに、ただぼうっと
受け入れているだけならば、この機会にご自分の考えをもう一度吟味し直してみてはどうでしょう?
179 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/10/01 23:57:37
中庸は実際の場面では相対的なものであり、さらなる基準を必要とする。
中庸とは、実践的な場面においては、「過大と過小の両極端」から規定される相対的な概念に
過ぎません。実際、多くの場合、中庸的なものは、われわれの経験、あるいは習慣等に依存しており、
絶対的な基準があるのではありません。それゆえ、われわれがいかに中庸を実現したいといっても、
われわれはあらかじめ、習慣や経験に従って、何が両極端であり、何がそれらの中間であるかを
知っていなければなりません。
では、この知識自体はどこから来るのでしょうか?
つまり、われわれはいかにして、中庸を現実に適用するのでしょうか?
中庸を実践するには、中庸以外の、中庸の適用に関する更なる基準が必要なのです。
これが、わたしが前に述べた「原理」なのです。
180 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/10/01 23:58:11
しかし、あなたは、わたしの議論の正当性を認める一方で、
>これこそ私たちの善意志=良心なのだと思うのです。
>この基準が真に普遍的である時、私たちは善なのです。
などとお気楽なことを述べていらっしゃる。
「善意志=良心」などと、どうして軽々しく言えるのかわたしには分からない。
あなたは、ここで再び、「善」とは何か、「良心」とは何か、という本質的問いを放擲して、
それらを前提したうえで議論を進めているのです。
あなたは、本当は自分ではなにも考えてはいないのではないですか?
181 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/10/01 23:58:48
善をどうして「中庸」と規定できるか、その理由もあなたは示してはいませんよ。
徳というのは、善を実践することにより得られるものです。
徳にはさまざまな種類があって、たとえば、ごみ拾いすることだって立派な徳行ですよ。
なのに、もしあなたのように、「善=中庸」と考えたらどうなりますか?
ごみ拾いという行為は「中庸」を実践したものになりますが、ごみ拾いは何の中庸ですか?
わたしが、車に轢かれそうになっている幼児を助けたする、これは善行と呼ばれるべきですが、
これは何の中庸なのですか?
中庸とは、善のあり方の一つなのです。それを善そのものまで祭り上げると、善そのものが
制限されていまい、多くの他の善行が、善でないことになってしまうのです。
どうですか、きちんと反論するつもりはありますか?
あと、くだらん専門用語を振り回しても、わたしには通用しないと思う。w
182 :
考える名無しさん:04/10/02 00:45:32
」はぴかパレだから無理でしょ
183 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/10/02 00:47:08
じゆんだろ
184 :
考える名無しさん:04/10/02 10:45:59
悪いけど、チンポが言う「中庸」定義って「徳の教師」特有の寝言っぽいな〜
法学とか政治学とかやってると、
人間の善性を予め立てる論法よりは、
アリストテレスやヘーゲルのように「人倫」の実情からアプローチする方が現実的と感じるよ。
哲学者が考える「倫理学」の苦手なところだ。
もちろん「基礎付け問題」を考えると、
チンポのように考えた方が理にかなっているんだろうけど。
Jは論外だとしても。
>>181 『中庸moderationが両極端を規定するもの』というあなたの意見に賛成します。
こういう事実から、中庸は、「中正impartiality」と言い換えても構わないと思います。
[アリストテレスや儒教の伝統的な考え方と、
私たちがここで破壊・構築する新しい概念とを区別する為に、ここから私は「中正」という言語を用いたいと思います。
そうしても、中庸の表す概念には支障が無いと考えられるからです。]
「中正」とは適度さ、具体的・現実的・実際的場面における適度な判断の結果の事です。
それは客観的に・一定に常に定められる様な尺度を持たない、「適度さ」、「適宜の多様の調停」のことなのです。
あなたが
この適度さを持つ精神態度こそ「原理」と言い得る、
という主張をするのは良く分かります。そして、私もその事に反論するものではない。
ところで、善とは悪と対立する概念です。
良心・善心とは悪心と対立する概念です。
私が中正を善の静的基準として考えるのは、理論的というよりむしろ経験的・実証的なものです。
たとえばいくら素晴らしい善行であるごみ拾いも、他人の部屋に入り込んでまで行ったなら悪に近づいていく。
また、ごみだらけの現状に不快を持たない場合も、極端である以上は悪に近づいてしまう。
中正は飽くまで具体的思慮に即した実践的徳に過ぎないから、それ以上の客観的原理付けは不可能なのです。
中正という概念、極端と対立するものとしての「中正」という概念から、現実で、改良的に善を探求実現する事しか出来ないと思う。
中正は結果的な見方であって、過程における運動としては止揚と見なされ得ると思います。
たとえばイチローがteamに貢献する善としてヒットする過程は、
自身の能力の限界と相手から投げられる球との矛盾の多元的調停・弁証法的統一、
つまり「止揚」に違いないのですが、逆にそれを結果的・静止的に見れば、
彼の能力と投球された球の力が、空振りや力み過ぎを回避した「中正」を取った、
と見なすことができます。
中正と止揚を安易に等価化することへの批判がある様です。
また、これらから外れる行為は悪である、と権威付けられる可能性への危険視がある様です。
しかし私はこれらへ弁駁するのですが、
そういった批判そのものが中正+止揚の原則を踏み外しているのです。
私のこれらの主張とあなたの主張との対立・矛盾を絶え間なく止揚すべきなのです。また、
論争が激化せぬ様、最善の注意を払って適度を実行すべきなのです。
『善とは中正+止揚である』という暫定的原理への言及は、すべからく、
この原理外に及ぶ時、不善・悪行なのです。
哲学する者が「しなければならない=義務」のは、この倫理原理の永久的脱構築です。
哲学する者が「すべき=徳令」なのは、この倫理原理を実現する現実的行動です。
>>184 法律学や政治学からすれば、
倫理は現実的・実際的・具体的でなければならないのではないだろうか。
私は、[思想ではなく]、哲学「する」ことが社会に貢献できるのは、徳の高揚、つまり
『良心を目覚めさせる』行為だと思うのです。
裁く為ではなく、犯さない為の倫理。
それが純粋哲学の範囲にあるのではないかと考えます。
よければあなたの意見も聞かせて下さい。
「純粋に哲学する行為」はそれ自体が、善意志の発露だと私は思うのですが、
それだけでは十分で無く、
その思考がさらに社会や他者の良心を目覚めさせる契機とならなければならない、と考えるのです。
私はこの真摯な行為の結果が「思想」と呼ばれるものだと思うのです。
それは哲学的思考にとって目的ではなく、結果つまり倫理[人の踏み行うべき道]としての結果なのです。
善の原理をさらに明晰にしなければなりません。
私は『善とは中正+止揚である』という暫定的原理を持つに至ったのだけれども、
これが完全である事は永遠に無いでしょう。何故なら、絶対化は止揚を妨げ、固定化は極端の有様だからです。
善を為そう、と決意するその人の心こそ、最高の善なのです。
それが哲学「する」人の求めるべき根源なのです。
それは変化しつつ不変である人の良心なのです。
これを『志』と名づけるのは間違いではないと思う。
志の第一のあり方が善を為そうという決意であり、
その原理的構造を言い表せば『中正+止揚』という言語概念に辿り着くのです。
私はこの主張への有効な中正的批判を待っています。それが止揚を実現するからです。
・用語の意味の解釈に自分の解釈しか許さない
・哲学には目的があり、その目的は結果的に善を顕現させることである
・自分に対しては「中正的批判」(これも>1のオリジナル用語だ)しか許さない
これで、君の誘導したい結論に行き着くだけの議論以外の何かができると思ってるの?
>>190 あなたは自分の意見を持っていないのですか?
それを[友愛・愛しながらの戦いの中で]闘わせるのが哲学的問答・対話ではないですか?
>>189 >善を為そう、と決意するその人の心こそ、最高の善なのです。
これじゃループしちゃうよ。
いつまで経っても善が為せない、というか為すべき善が確定できない。
式で言うと、「A=A+B」と与えられても結局Aが確定しないようなもん。
あと最近10レスしか読んでないんだけど、「止揚」の意味わかってる?
まあ他にも問いたい用語はたくさんあるけれど。
さらに他人事ながら付け加えると、
>>191は
>>190への返答になってないよ。
>>191 私は自分の意見をちゃんと持っていますよ。自分だけに通用する用語は持っていませんが。
「哲学的問答・対話」「哲学」とは・・・である、という結論をあなたはすでに言っている。
それでは議論になりません。哲学や議論は全くの悪かもしれないし不毛かもしれない。
私は現時点で哲学をネガティブなものとは思ってはいませんが、議論の過程でその意見が
変わるかもしれない。それくらい根源的なことから議論しないと哲学議論とはいえない。
あなたの今までの主張を読むと、「哲学とはAであると思う、なので『哲学はAである』、
という僕の主張を補強する意見をください、それ以外の意見は結構です」としか読めない。
>>1のいう「善」を、共産主義、国益、民族、教義、会社の利益、などなどに入れ替えると
最悪の哲学しか産まないということにちゃんと気付いていますか?
>>192 私はその無限ループを善と、とりあえず、定義したのです。
用語義に関する議論は、暫定的に必要ではあるが、少なくとも私の考える哲学の第一目的ではありません。
>>193 あなたが自身の「哲学する」結果をこのthreadに残していくのは大いに結構です。
それが
>>1にある様に、このthreadの目的なのですから。
形而上学的な議題に対して有効な批判以外は、問答の王道ではあり得ないだけです。
>>194 私は絶対化しません。
第一倫理原理『中正+止揚』も絶対的なものだと考えていません。現時点での基準に過ぎません。
何故なら
愛求の過程だけが永遠の知恵だと思うからです。
どんなideologyがあっても、それを『中正+止揚』化しない限り善には至らない。
197 :
考える名無しさん:04/10/02 23:33:33
/イハ/レ:::/V\∧ド\
/::^'´::::::::::::i、::::::::::::::::::::::::::::\
‐'7::::::::::::::::::::::::ハ:ハ::|ヽ:::;、::::::::::::丶
/::::::::::::::/!i::/|/ ! ヾ リハ:|;!、:::::::l
/´7::::::::::〃|!/_,,、 ''"゛_^`''`‐ly:::ト
/|;ィ:::::N,、‐'゛_,,.\ ´''┃"'ヽ !;K 板違いは
! |ハト〈 ,r┃"゛ , リイ)| 死ねばいいと思うよ
`y't ヽ' //
! ぃ、 、;:==ヲ 〃
`'' へ、 ` ‐ '゜ .イ
`i;、 / l
〉 ` ‐ ´ l`ヽ
/ ! レ' ヽ_
_,、‐7 i| i´ l `' ‐ 、_
,、-‐''"´ ノ,、-、 / 、,_ ,.、- {,ヘ '、_ `ヽ、_
/ i ,、イ ∨ l.j__,,、..-‐::-:;」,ハ、 '、` ‐、_ ,`ヽ
/ l ,、‐'´ // ',/!:::::::::;、--ァ' / `` ‐ `'7゛ ',
/ l i ´ く ';::::::l / / / ',
/ ! l \ ';:::l , ' / i/ ',
198 :
考える名無しさん:04/10/02 23:33:59
/イハ/レ:::/V\∧ド\
/::^'´::::::::::::i、::::::::::::::::::::::::::::\
‐'7::::::::::::::::::::::::ハ:ハ::|ヽ:::;、::::::::::::丶
/::::::::::::::/!i::/|/ ! ヾ リハ:|;!、:::::::l
/´7::::::::::〃|!/_,,、 ''"゛_^`''`‐ly:::ト
/|;ィ:::::N,、‐'゛_,,.\ ´''┃"'ヽ !;K 板違いは
! |ハト〈 ,r┃"゛ , リイ)| 死ねばいいと思うよ
`y't ヽ' //
! ぃ、 、;:==ヲ 〃
`'' へ、 ` ‐ '゜ .イ
`i;、 / l
〉 ` ‐ ´ l`ヽ
/ ! レ' ヽ_
_,、‐7 i| i´ l `' ‐ 、_
,、-‐''"´ ノ,、-、 / 、,_ ,.、- {,ヘ '、_ `ヽ、_
/ i ,、イ ∨ l.j__,,、..-‐::-:;」,ハ、 '、` ‐、_ ,`ヽ
/ l ,、‐'´ // ',/!:::::::::;、--ァ' / `` ‐ `'7゛ ',
/ l i ´ く ';::::::l / / / ',
/ ! l \ ';:::l , ' / i/ ',
>>195 ですからw、あなたの問題提起は、生産的な批判を呼ぶほどの力を持っていないのですよ。
>>190に書いた三つの理由のためです。問題提起をするにはものすごく知識が要ります。
用語のマイ解釈はオリジナリティとは正反対です。まず、止揚や脱構築などのキーワード
をあなたがどこまで詳しく知っているか、を知りたい。ヘーゲル、デリダは読みましたか?
読んでいるなら、私はあなたに教わりたいことがたくさんあります。
>>195 うーむ、そんなループを「善」と定義されても凡俗は理解に苦しむよ。
というか、どこがどうループしてるかほんとに解ってる?
それと最低限の用語の統一は議論に必須だろう。
それとも相手が何言ってるかわからなくて議論できるの?
まあ「止揚」の正確な意味を知ってるかどうかはもういいから、
せめて君が「止揚」をどういう意味で使ってるか教えてくれ。
あと、試しに君の意見と俺の意見という相反する概念を止揚してみてくれ。
>>199 あなたは何故私の知識量を知りたいのですか?
それが議題や、「あなた自身が哲学する」ことにとって重要なのですか?
言語に関する完全に客観的な定義があり得ない以上、私達は適宜中正的確認を取って行くしかない
と私は考えているわけです。
中正的または止揚的批判は私の『倫理原理』に則った者の義務に過ぎない訳で、たとえばあなたが
それを脱・構築する事はあなたの哲学上の態度に因るでしょう。
>>200 重要なのはあなたが「哲学する」ことです。
取りも直さず、それがここでこの場合の止揚という概念の実際上の結果です。
>>202 俺は
>>200で3つの質問をしてるんだが……。
ちゃんと上から順に3つ答えを返してくれ。
それと俺は哲学してるつもりだよ。
まあお互い「哲学」という語の定義は違うかもしれないが、
用語の定義を全然教えてくれないのでその辺は不明だな。
>>200 >あなたは何故私の知識量を知りたいのですか?
>それが議題や、「あなた自身が哲学する」ことにとって重要なのですか?
はい、とても重要です。何故なら、自分が思い悩み続けて来た問題が過去の哲学者に
よって考えられてきた問題に非常に似ていたり全く同じことだったりすることはよく
ありますね。自分の問題などとるに足らぬものだったのだと思い知らされることもよくあります。
だから、著作というものは記録されているわけでしょう?私やあなたの哲学がなされる
のはそれぞれ個人的にはいいことでしょう。私もポジティブなことだと思います。
しかし、ネットは公共の空間ですから、過去や現在の哲学者が言っていることとそう
変わらないことをオリジナルな哲学と称することは批判されるべきですね。ここまで
はいいですか?
あなたは止揚や脱構築という言葉を使ってらっしゃる。なので止揚や脱構築という
言葉の元締め的存在であるヘーゲル、デリダについての意見を求めるのは当たり前
のことではないですか?
>>200 1.『中正+止揚』を成し遂げていくことです。
2.構造主義と呼ばれるものについて知っていますか。
私達には半ば無意識的な言語理解範囲があるのです。従って、
相手の個別言語単語定義の完全に厳密化できなくてもある程度の議論は常に可能です。
3.止揚は「矛盾の調停・昇華」として用いています。
>>202とこのresposeで止揚しました。
>>204 まず、哲学者個人と形而上学思想上の業績は明晰に分類されるべきです。
止揚は
>>205にとりあえず記しました。
脱構築または破壊構築は、ある概念の対立概念あるいは非概念を利用して元の思考的枠組みを乗り越える行為と見なしています。
>>206 はっ?
>>205が止揚の説明なの?哲学用語としての止揚の用法と全く関係ないマイ用法じゃん。
新しい言葉を作ったほうがいいよ。ついでに構造主義という言葉もマイ用法だしw
>>205 1.「どこがどうループしてるかほんとに解ってる?」というのが質問な。
2.a) それって構造主義かなあ。誰がそんなこと言ってるの?
b) それと、君の哲学では「ある程度の議論」で十分なの?
ある程度の議論である程度の結論が得られれば満足?
3.……。(なんか泣けてきた)
まあ、その「止揚」という名前は変えたほうがいいと思う。それだけ。
>>207 問題は私が未だに浅学であるということでしょうね。
>>208 1.分かっていましょう。善意志は善を為すべくそれ自体、自己目的的なのだと考えます。
2.a]構造主義が示唆するもの、そこから演繹されたものについての提示です。
b]中正+止揚
3.伝統主義的な価値観にとってすれば、止揚という概念は固定化されているのかもしれませんが。
「中正+止上」これが善だと思う。
「相互尊譲」。人間関係では、これだ。
尊敬=中正
謙譲=止上[シジョウ
山田由佳@椙山スーフリ
212 :
考える名無しさん:04/10/29 00:30:01
脱力スレ.
要は、次の時代? というのは、おそらく
かなり風通しも良くて、情報もオープンにされて
スムーズに事が運ぶ、そういう感じの世界
になりそうです。
今の世界で感じる、窮屈さや、諸々のストレスも
かなり軽減されて、楽に生きられる、
そういう世の中になるんだと思いますよ。。。
もう人だませなくて潰れてしまい
でもその判断は数年たって
間違ってなかったと思ってる
― MERMAID ―
「maー、ただいま。」と、いつも親切で魅力的なママが言う。
あー、罪のない人魚がこうして見つめてる。生命はいつも狂暴で優しい。夜。
いいえ、それでも、閉じられた扉と開かれた仮面のどちらがあなたは好きなの?
私が結わえ続けている多面体の謎は、結局誰にも見えないし、聞こえない。
連続するまやかしの超越的苦行で、輝かしい運命と未来をキープしなさい。
『愛しているよ、私のシンデレラ。』 って、架空の物語に何をこれ以上期待するの?
雑誌。流通する意見はすべて愚鈍なのだと、涙を浮かべながら訴える編集者は、
どこかおかしい。微熱。 でも、それも真実。 これが届いたら消えて、それが無理なら、
もっとスイートな酸素になって。 あるいはスイートな精神に。
雲のあとには、薔薇の香りが朝/夕ふわりと漂って、
空のあとには、ほのかな使℃が残っているようだ。
この愛しさが、一体いつになったら、あなたには分かるの?
217 :
Sora ◆H1tA9nehDo :05/01/07 05:48:42
>>1さん あけまして、おめでとぅ。☆
私は天然素材のオプティミストなんで、
たいていは幸せに過ごしております。
お受験の方は、頑張ってますか?
寒いから風邪をひかないようにしてくださいね。
だって体調が最高潮の時の方が、
第六感もすごく冴えわたって
テストでもいい結果が期待できそう
だから。とにかく、楽しみながら、
良い一年をお過ごしください。
記憶定着を良好にしたいのであれば、
睡眠は、夜間にちゃんと摂るといいんですよ。
つまり、徹夜スタイルは逆効果ってことです。
218 :
考える名無しさん:05/01/07 06:34:45
そうだ、ソーダ。
七草粥 酉年 日本の風習。
この三つのキーワードと基本概念を用いて、
哲学的な小論文、またはエッセイを記述せよ。
あとは、美味しい七草粥の作り方を知っている者は、
できたら、ここに分かり易く書いてな。よろしく。
220 :
考える名無しさん:05/01/07 08:40:44
七草粥
春の七草を使ったお粥です。
昔からの風習でこれを正月7日に食べると一年中無病息災ですごせると
言われています。最近では七草すべてを自前で探すのは難しいですが,
スーパー等で七草のセットが売られるようになりました。
これを食べておせち料理や新年会等のごちそうで疲れた胃腸を
いたわってあげましょう。
材料(2人分)
春の七草 セリ,ナズナ,ゴギョウ,ハコベラ,ホトケノザ,スズシロ(大根),
スズナ(蕪)… 50g程(全部で)
御飯… 茶碗2杯分
だし汁… 3カップ
塩… 少々
作り方
1 …七草は水洗いして土を落し,お湯で多少固めにゆでて冷水にとっておく。
2 …冷水にとった七草は水気を取っておき,細かく刻んでおく。
3 …だし汁を鍋にかけ,御飯を入れ,お粥状態になったら塩で味を整え,
刻んだ七草を加えひとまぜして火を止める。
4 …お茶碗等にとりわけて冷めないうちに食べましょう。
(コピペです)
221 :
考える名無しさん:05/01/07 17:46:57
レシピあげ
まゆちゃんいますか?
223 :
考える名無しさん:05/01/08 06:35:30
あん?
んぁ?
225 :
誘導: