537 :
AB:05/03/06 22:58:59
538 :
AB:05/03/06 23:03:09
539 :
AB:05/03/06 23:17:03
YES
未読の書籍等を読了し、知識の増量から知恵への移行へ。
一先ずそんな感じにしようと思います。
長いことスレを結果専有(?)させて頂きましてどうも。
ほんとマイナースレだったんだなぁ。
なるべく絡みませんのでどうぞ議論の場に(スレタイがいかんのか?)。
YES
「世界」の肯定に近づく可能性としての提案四元論。
始めに・・上のほうに提供された「二元論のジレンマ」についての独白から。
風土の差異から生じ得る文化的特異性である二元論と我ら中庸的特異性を有する文化
者がうけとる思考上の違和感、或いはジレンマの存在、が上げられるのではないか。否か。
そこで試みに「俺仮エトス(パトス)化計画」として提案四元論を書き込んでみることとする。
(つづく)
YES
提案四元論
太陽の運行になぞらえた古代文明・神話等のイデオロギー部分的解釈。4つの分類
による思考、視点形態。
前提1 東→西への方向性と運行エネルギー(黄緑)。
前提2 朝→昼→夕→夜、或いは白→黄→赤→黒。
これをスレ的に転化させてみると・・。
分類1 肯定 (白)
分類2 肯定的(黄)
分類3 否定的(赤)
分類4 否定 (黒) 「俺たちに明日はない!(つづく)」
YES
主な我々の何かに対する態度は肯定的(黄)か否定的(赤)であって、どちらも肯定
(白)や否定(黒)に近づくことしかできないのではないか。つまり始まりにも終わ
りにもなれないみたいな。しかし態度者は如何なる態度であっても、その運行エネル
ギーによって朝(白)から夜(黒)の方向へと流れる(私は定かではないと考えるが)。
我々の「世界」に対する態度は肯定的(黄)か否定的(赤)に大分することができる
だろう。えー。だから何?って感じだなぁ。
太陽信仰等のイデオロギーの書籍ってなんかありますか?知っている人いたら教えて
くださればうれしいです。お願いします。 (つづくかも)
YES
つまり、個々人の希望(欲望)的指針として黄色好きとか赤好きとかあるんだろうが
白好きや黒好きは理想的指針であり、幻影的であると。
ただ、個々人レベルでは肯定的(黄)を常に持ち行為するわけだが「他」の肯定的指
針とずれがあるので大変なのかな?
バタフライ効果等を考慮するとすれば自らの希望的指針に向かう近道が「他」の希望
的指針を含みかつ同等である。と繋がるか否か(人間関係に限ってはだが)。
それともやはり、自然の模倣にすぎずか・・。
YES
図1
運行エネルギー(黄緑)
→
○黄 ●赤 空
東―――――○白――――――――●黒―――――西――
↑ ↓
白濁化 黒濁化 海
←
無色透明領域(仮)
YES
ずれた。何でだろう。
まあ、いいや。美の公式は「1+1=1」。
YES
図1(修正版)
運行エネルギー(黄緑)
→
○黄 ●赤 空
東―――――○白――――――――●黒―――――西――
↑ ↓
白濁化 黒濁化 海
←
無色透明領域(仮)
YES
図1(今度こそ)
・・・・・・・・・・・運行エネルギー(黄緑)・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・→・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・○黄・・・●赤・・・・・・・・・・・・・空
・・・・・・・・↑・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・・・・・
東・・・・・・・○白・・・・・・・・・・・●黒・・・・・・・西・・
・・・・・・・・↑・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・・・・・
・・・・・・・白濁化・・・・・・・・・・黒濁化・・・・・・・・・海
・・・・・・・・・・・・・・←・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・無色透明領域(仮)・・・・・・・・・・・・・
YES
だめだこりゃ・・。
提案乳濁論
分類という便利な観点から何らかの「対する態度」をもち我々は思考し得るところが
多々ある。そこで様々な言説等がそれぞれに様々な形で有効利用されているように思
われます。しかして有効と思われる観点は分類だけではない。分類されたということ
は、分類前は一つだった可能性について。人呼んで原点回帰。限界はありますが。(つづく)
YES
例えば、終始混濁について、乳濁(乳化)現象と説く。
乳濁現象は両極混濁かつ安定状態を指すらしい。一つのビンに油・水各液体が攪拌
され分子どうし反発しながらも白濁して、あたかも交じり合って安定しているよう
に見える現象だそうです。しかしそのため欠かせないのは攪拌のエネルギーです。
つまり混ぜ続けなければ対極に分離し境界が見分けられるほどなようです。エネル
ギーの代替物として界面活性材を使用するとその安定状態が保たれるそうです。
つまり我々は分類以前に乳濁(白濁)状態であった可能性を考慮するならば、分類
によって得られた利便性以外には注目に価する差異はないと言えそうな気がするの
ですが(人間に限定ですが)まあ、そんな感じです。
YES
提案四元論でいうならば、肯定的(黄)や否定的(赤)はそれぞれ乳濁状態と考え得る。
したがって、外部から何らかの攪拌エネルギーが加わり続けているのかもしれません。
あるいは界面活性剤のような添加者がどこかにいたりして・・。 (つづく)
YES
運行エネルギー・攪拌エネルギー或いは界面活性者(黄緑)の在り様についてはわか
らないし、そんなに面白くないので置いておきます。
ともかく提案乳濁論において思考し得る事柄は、「スーパーフラット」とかいうやつ
でしょうか。既に60億種類の対極が混ざり合い安定していると捉えることも可能で
あると思われますが、怪しい。現状肯定、開き直りの美学の利便性は如何ほどのもの
なのか。それはいいとして・・・・・・・・何だったかなぁ。忘れた。(つづくかも)
YES
6000000000種類の対極による乳濁現象(白濁)。
現状でそれが安定しているのか、不安定でいずれ完全に分離してしまうのか。まあ、
わかりませんが、攪拌エネルギーや界面活性剤の効果の如何によっても左右される
のでしょう。つまり「世界」という我々を包む器(私は部屋とよんでいる)がその
まま運命である・・・としてもそれはたいした問題じゃない。気にしてもしょうが
ない、自然の所作であるし。
差し迫った問題として思考し得るのは、結局、「人間に限定したコミュニティーの
有益性」なのではないかと思うわけだが。実際よくわからんな。はは。
私的な差し迫った問題は「知識と知恵」だろうな。
或いは美女と一掴みの金か・・。あーあ。「何時の日か生き直すべき春の宵」か。
YES
『如何にして「世界」は肯定できるのか』『「世界」に対する肯定的態度とは何か』
これはつまり、コミュニケイシオン問題ですな。もう一つの視点からすれば、外部者
の所在の問題、或いは内部に潜入した外部者の所在の問題か。ただ後者は私の興味か
らは外れる。思考するにあたって2つの問題があったんですね。はてさてどうなるか。
(つづくかも)
YES
提案部屋論――(コミュニケイシオン問題としての私×6000000000)
我々の世界(社会や自然などの環境、「私」をとりまく空間。正し、地球規模に限定)
は個々人にとってそれぞれ暮らすことが可能な一つの部屋だ。ただ、その部屋は一つ
ではないと考える。・・・・・・・ここから論による主張へと繋げるのが自然の流れ
であるわけだが今の私には無理なのでやめておくこととする。
A→B→AB→Oという四元的おしゃれも成り行き上できまして結構良かったです。くだ
らねーけど。丁度555のフィーバーを期に以後名無し化することにします。ご意見
をくださった皆さんに感謝いたします。特に根気よく付き合って下さった全裸君には
大変お世話になりました。思考上の飛躍的成長を感じてきたと共に、多くの提供に下
世話ながら感謝の意を表します。それでは「サイナラサイナラ、サイナラ・・」。
556 :
考える名無しさん:05/03/12 20:30:20
無秩序・倒錯・ノイズ・乳濁・・・は或る現代的側面におけるヂオニュソス信仰なの
だろうか。その悲劇性とは何か。
557 :
考える名無しさん:05/03/12 20:43:25
エロスとの関係による悲劇性が、戦争へと繋がり、戦争による奴隷制の発達が、現在の
労働、その恩恵は「まじめさ」命の保証。みたいなことをバタイユが述べていた。
忘却された洞窟壁画群、とはつまり美或いは神秘。もしくは幼児性のままのエロス。
日本のオタク文化との関わりを感じる・・・。
タモリ倶楽部。
ギャルによる母の視点。
関連、連鎖、神秘主義(?)ファンタジーじゃあるまいし。
「バタイユの呪縛」とは・・。
足りぬ。
562 :
АБ:05/03/17 23:50:01
ちなみに
>>556-561の名無しは私です。やれやれ。
さて展開はわかりませんが、試しに
『「世界」の認識について』・・観察・観測と世界観は如何?
563 :
АБ:05/03/18 00:03:42
足の指とかもずっと見てると、別な生物に見える時あるよね。たまに。
564 :
АБ:05/03/18 05:24:03
ぬぬ。ふられたのか。
遊び人失格であるな。
565 :
АБ:05/03/20 13:43:17
ほぉら、ほら、ほら。
トートートートートー。
真正直君どうぞ。↓ (冗談だから勘弁しろい)
566 :
АБ:05/03/20 14:18:16
わざわざ嘘を書き込むことは哲学的な意味においてなんら有益性はないだろうと思われる。
主に言語表現において自らが書き記した事とは、自らの姿を曝け出していることに等しい
と思われる。ただ、比喩や言語という媒体の扱いによっては自らが言語に欺かれてしまう
ことは多々あるだろう。それはいいとして、自分自身の問題をごまかす事には有益性を見
出すことが困難であるが、往々にして何時の間にかそうしていることがあるもので、非常
に困ったことである。それは何かに対する恐れなのかもしれない。つまり「私」とはやは
り恐れの反応なのではないだろうか。
567 :
736:2005/03/21(月) 20:48:37
狂おうとして狂う者は狂う事が出来ない
狂人は狂おうとはしないし、むしろ世界を肯定するには、
主体は正常で、世界が狂っているべきではなかろうか
568 :
АБ:2005/03/23(水) 23:47:24
そういう事か。
肯定者が肯定的であろうとする限り、否定者を必要とすると。
持ちつ持つれつ・・。混濁への道。大事でなければだが。
>狂おうとして狂う者は狂う事が出来ない
そうだろうか。例えば脳軟化症と診断されたニーチェは意図的にその境地へ行き着いた
可能性もあるかと。いかがか・・。
記憶できない、君の顔。それは私を貫かぬ君の想い故か・・。はは。
「我々には、皆、少々気違いめいたところがあり、うっかりしていると本物になる
のだと、自分に言い聞かせていないと、えらい「狂気」にとりつかれます。また、
そういうことを知らないでいると、いつのまにか「狂気」の愛人になっているものです。
天才と狂人との差は紙一重だと、ロンブローゾは申しているわけですが、天才とは、
「狂気」が持続しない狂人かもしれませんし、狂人とは「狂気」が持続している天
才かもしれませぬ。」『狂気について』大江健三郎・清水徹編より引用。
「しかし人間は「狂気」なしにはいられぬものでもあるらしいのです。我々の心の中、
体のなかにある様々な傾向のものが、常にうようよ動いていて、我々が何か行動を起
こす場合には、そのうようよ動いているものが、あたかも磁気にかかった鉄粉のよう
に一定の方向を向きます。そして、その方向へ進むのに一番適した傾向を持ったものが、
むくむくと頭をもたげて、まとまった大きな力のものになるのです。・・・(略)・・・
そして、人間は、このうようよした様々なものが静かにしている状態を、平和とか安静と
か正気とか呼んで、一応好ましいものとしていますのに、この好ましいものが少し永く
続きますと、これにあきて憂鬱になったり倦怠を催したりします。そして再び次の狂気を
求めるようになるものらしいのです。この勝手な営みが、恐らく人間の生活の実態かもし
れません。」 『狂気について』大江健三郎・清水徹編より。
【今世紀最大の思想のメモ】
(言語的比喩としての)「世界」
------ 事実と解釈の境界線
------ 現人類と新人類の境界線 → 現人類は「妄想」へ
「私」=「世界」
「生」=「旅」
------ 解釈と創造の境界線
「世界を認識しようとする真摯な態度」 =「誠実」
「理想への誠実」=「夢」
「他者への誠実」=「愛」
------ 新人類の個人間の境界線
ええじゃないかええじゃないか
よいよいよい
>>571 『「私」=「世界」』この部分をやってみて、何がしか私的なものがみえそうだ。
しかし未だ疑わしい。なぜか知らんがね。
574 :
bbs:2005/06/02(木) 12:36:52
世界は狂信的に「信じる」「認める」という行為によってしか現出しません。
本来宗教的、もしくは独我論的です。
それをいかにして秩序立てるかが現実的命題です。
>>574 既に目の前に(限られた)世界が出現しているのであるから、私はそれらを信認してい
るということになりますね。見えている世界を秩序立てる作業によってその世界が様変
わりすることが多々あるわけで、さらには限られていた世界は至ることによって広がる。
秩序立てる材料が増してゆく度に世界は様変わりするということか。大変なことですね。
576 :
考える名無しさん:2005/06/02(木) 22:31:48
それが夢、あるいは悪夢である、と
このことはいかにして否といわれるのか
目の前の(限られた)世界が夢や幻であっても現実であっても、それが出現しているのならば
私の信認する世界となるわけでしょう。何も出現していないとは考えにくい。
何でも肯定しとけば気持ちいいわな。
579 :
考える名無しさん:2005/06/09(木) 16:22:16
ダライラマ
約20年前、私が科学者と会うことを熱望したときに、アメリカの女性が手紙をくれた。
「科学は宗教を否定するかもしれないから科学者と会うのは危険です」と。
私は「そんな心配ありませんよ」と返事した。それからアメリカ、ヨーロッパ、インドの科学者と対談を重ねてきた。
意見を交換することによってお互いにとって役に立つことがあると思う。仏教は、心のサイエンスととらえる。
心を助けてくれる力をもつ。祈りや瞑想で成し遂げられるわけではなく、
科学的なアプローチで訓練していくことで、心の平和を得ることができる。
АBってもしかして相対論スレの人?
>>580 現出した世界を鑑みるならば私と彼は別々の空間を信認し、居住しているはず。
双方が表する「特異性の類似性」は差異であろうか。評する貴女との差異であろうか。
同等なのかもしれませんね。3者一両の損とか。
相互に反映し交換される環境上で、その関係は模倣に近いのだとするとどうなるだろ
うか。自然を模倣する等とよく言われますが、それをさらに自然が模倣している状態
があるようなないような。反芻?呼吸?飽きる(満ち足りる)まで。
583 :
考える名無しさん:2005/06/15(水) 22:43:41
全ての世界を肯定するということは、即ち自我の滅亡であると云える。
なぜならば動物を参照することによって明らかになるからだ。
動物は人間よりも機械的である。より表層まで肯定しているからだ。
即ち、世界を肯定しないことが自我であると云えるのだ。
このことから考えて、自我は
ありのままの世界=純然な現在
知性によって算出可能な世界=予想された未来
この2つの差異から構成されていると云えるだろう。
これによって人間は現在を計量し、現在における行動を決定している。
しかし、これには欠点が存在する。それこそが苦悩というものだ。
深層における懐疑は苦悩を導く。苦悩は行動の未決定とも関連して存在するものであり、
行動の未決定を決定しようとすることで苦悩は顕在化する。
なぜならば、残りの自我の決定は記憶から打ち出された法則の参照であり、
この法則を取捨選択して決定することは人間を苦に陥らせるに十分と云えるだろう。
584 :
ファウスト:2005/06/15(水) 23:39:18
時間よ止まれ、お前は美しい!
585 :
1:2005/06/16(木) 00:03:54
やあやあどうもどうもオーディエンス。くるしうない、くるしうないぞ、うん。
俺のことじゃないのだろうが。
つうか583をゆっくり考えたいと思うので、あほなことだけ書き込んじゃった。エヘ。
>>583>>584
現出状態と推測状態の差か。肯定的に眺められる世界がすでに出現しているのならば、
現出状態に留まりたいとなることもあるのだな。自我の滅亡が肯定へ向かうというの
が動物との関連でわかりにくいのだが、なんとなくそうなのかな?みたいな感じだ。
感想を書いてしまったわけだが。