「苦しみ」の哲学

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417考える名無しさん:2009/06/11(木) 22:56:18 0

媚びるな。媚びれば飯は喰える。
だが一生鎖でつながれる

        HEAT -灼熱-(作武論尊 画池上遼一 漫画)
418考える名無しさん:2009/06/16(火) 20:14:56 0

大きな愛のあるところ、常に奇跡がある。

                    ウィラ・ギャザー
419考える名無しさん:2009/06/16(火) 23:11:43 O
生とは無条件の苦しみである。
無条件の愛は稀だが、無条件の苦しみはといえば、生の普遍的で半永久的な性である。
420考える名無しさん:2009/06/16(火) 23:25:34 O
大きな愛は奇蹟だというのは酷い話であり、スレ違いではない。
換言すれば一般的かつ日常的に大きな愛は示されないということだからである。
421考える名無しさん:2009/06/16(火) 23:48:40 O
出来るだけ苦しみたくないならば、稀な事物ではなく、日常的なもの、そして一般的なものをこそ高く評価し、愛着を寄せるべきであろう。
しかし、後者は苦しみである。
したがって、苦しみを避けようとして、苦行するというようなトンチンカンな事にもなるに違いない。
生きている限り苦しみは避けられないのだから、
それを嫌悪しつつ、逃れようとしながら、生き続けようとするのは、
倒錯であり、自己矛盾である。
422考える名無しさん:2009/06/17(水) 00:51:08 O
二番目と繋がり続けると足の引っ張り合いするだろ?二世代三世代の親のせいなんだから自然児のセイジャない。自然児を繋げるのは義務だ。そこから辿ってくれ
423考える名無しさん:2009/06/17(水) 00:55:03 O
だいたい自然児なんて最後になって繋がっているので罪はない。自然児痛めつけると世の中悪くなる。
424考える名無しさん:2009/06/17(水) 01:16:09 O
だいたい社会構造上の問題だろう。おまえら親が創ったんだろ。苦しい思いも最後のところ団塊の親たちの構造ぶつが原因。上までいかなかった関係ないやつ痛めつけてどうするよ?
425ネオマトリクス:2009/06/28(日) 16:01:19 0
苦しみの原因が執着(望むこと?欲しがる事?)にあるというのは一理あると思う。

俗に言う格差なんていうのも、やはり
『何かを欲しているから』生じると思う。彼女や娯楽やステータスなど。
仮に、最低限の衣食住しか望まなければ、そこまで
格差を感じないと思う。
(例えば、負け組でも、アラブの石油王レベルの娯楽や幸福は欲してないから
 そういう人たちと比べて負けとは感じず、自身の望む
 彼女がいてイケメンで金持ちでというレベルの人と比べ苦痛に感じる)
なので、まあ、あらゆる欲や願望を捨てれば、ある程度苦痛は減ると思う。

が、肉体的苦痛はそうはいかない。
これは、おそらく生物が始原細胞だった頃からの欲望
(食欲、性欲=分裂する欲など)の蓄積の結果なので
難しい。せめてできるのは、人生において
何も望まず、欲しいと思わず、物をあまり食べない事か。
426ネオマトリクス:2009/06/28(日) 16:18:18 0
あと、人間は
『苦しみを消す行動』だけではなく『快感を感じる行動』をとりがちなのも問題だと思う。
当然、快感を感じる事『だけ』を目標にしてたら、
苦痛は生じると思う。なので、苦痛を減らすためには?
を突き詰めて行動していくのがベストだと思う。

で、なぜ欲望や執着で苦痛が発生するか?ですが
『限定された物理現象でしか快感を感じられず、その他の物理現象に苦を感じるから』
だと思う。例えば性欲。
異性に限定し性欲を抱くから、別の物理現象である同性の存在に対し
苦痛を感じるのではないか?
欲求不満=苦となるのは、特定の物理現象で快を感じるがゆえに、
それ以外の物理現象に対し快で無い=苦となるのでは?

つまり、欲を抱くのは普遍的な現象?となると、やはり哲学ですね。
これなら24時間いつでもどこでも普遍的に快感を感じられる
427宅急 ◆MAJOUSOou. @株主 ★:2009/07/08(水) 06:18:56 0
428ネオマトリクス:2009/07/08(水) 22:30:52 0
苦=定義次第で∞通りor感覚の一種、でしょう。
例えば、赤とは?様々な赤、それこそ絵の具から血液まで∞通りにあるように、苦も、∞通りです。

で、赤を他者に説明するのは厳密には不可能なように、
苦も、自身で感じるしか無い。
それに、視力で赤の感じ方が違うように、苦の度合いも、
何でどういう苦をどれくらい感じるのか、自身しか分からない。

つまり、苦の克服は、自身で試すしか無い。
で、よくよく考えていくと、感覚とは何か?といった問題になります。
赤とは?苦とは?理解とは?
赤も苦も理解も、∞通りあるように、感じてしまう危険性のある苦も、∞通りなので、
ここは苦を一つ一つ回避するのではなく、
『そもそも、五感・思考・快苦といった感覚はどのように変化するのか?』
といった、根源的な事を探るべきでしょう。
429ネオマトリクス:2009/07/18(土) 16:36:09 0
で、苦を減らす方法ですが
『執着を無くす』『影響されない』
これでしょう、精神的な執着が皆無なら
現代人の平均よりは苦痛が少ない。
人にも文字にも音や映像や理屈にもに影響されなければ理想です。

で、唯一執着するのが
『死んだ後』ですね。
これは生きてる限り絶対訪れる事の、先の話なので
現実的な事です。死んだ後どうなるか?希望か無か地獄か。
これには極限に執着します。

なので、徹底して執着を無くし、人生楽しもうとか自己愛すら無くし、
本能も消して、何m影響されないようになれば理想。
で、
『それでも消えない肉体的苦痛』に注意しつつ、死んだ後に執着
430考える名無しさん:2009/07/18(土) 16:42:35 0
御託並べてないで生きるのか死ぬのか決めてあとは黙れ
431考える名無しさん:2009/07/18(土) 22:14:34 O
自殺する元気がないんじゃね。
432考える名無しさん:2009/07/18(土) 22:31:40 0
快感て幻想だよな。しかし苦痛は現実。
これじゃ苦痛の方が強いわけだ。
快感を味わうためには、夢を見続けないといけないわけだ。
これじゃ苦痛を味わう時間の方が人生では長いわけだ。
433考える名無しさん:2009/08/19(水) 00:47:16 0
>>432
そもそもヒトは野生動物以下の環境適応力しか持てずに生まれてくるんだから
生まれただけで、苦痛極まりない。なす術もなく泣いて苦痛を表現する以外
出来る事が無い…。
苦痛を克服し成長させるために、親は飴と鞭を使いながら巧みに満たされた時の
欲求への執着を覚えさせ、生きる事に価値を見出させる。
無垢な子供は洗脳され、労働力や技術で社会に尽くし、国に義務を強いられるとも
知らずに、大人になったら何になる?などと夢や希望をチラつかせられながら
大人になる。そして現実の厳しさ苦しさに負けて、一人で生きる辛さに耐えられず
またしても女を作り結婚し、子供を産ませ、親と同じ事を繰り返す。
人生は巧妙に仕組まれた罠だな。
434考える名無しさん:2009/08/26(水) 20:51:05 0
おれは双極性障害で1年おきにすざまじい苦しみが来る。
仏陀的に全ての執着(生への執着さえも)を捨ててもやはり訳もない苦さはやって来る。
結局、苦しみとは苦しみであってそれ以外のものではない。

まあ訳もなく平穏なときもある。
435考える名無しさん:2009/08/28(金) 14:41:37 0
>>434
お釈迦さんも、晩年は体のあちこちが痛んでいたようだよ。
死因は食中毒と言われてるけど、症状は普通の人と一緒だったと思うよ。
でも、ブッダは解脱者であり、涅槃に住して45年間教えを説いてきた。
身体が痛んでいる時も、食中毒の症状が出てる時も、
依然お釈迦さんは解脱者だったわけだ。

さて、お釈迦さんと凡夫と、どこが違うんだろう?
その肉体に受けている症状が同じだとしたら、何が違うんだろう?

ここに、このスレ的回答の一種があるように思う・・・。

ノシ
436考える名無しさん:2009/08/28(金) 15:13:42 0
>>435
なんの違いを言いたいのかわからないけど、
別にお釈迦様になりたいわけじゃないし。
437考える名無しさん:2009/08/28(金) 23:04:17 0
>>436
だったら存分に悶え苦しんどけ、ってこったw
「苦しい!助けて!」なんて言わないこったw


あれ? これって・・・ うわっ、何をs・・やm・・・
438考える名無しさん:2009/08/28(金) 23:35:24 0
自分の身代りなんてこの世にはいないから誰でももだえ苦しみんがら生き、もだえ苦しみながら死んでくのは普通の事
439考える名無しさん:2009/08/29(土) 10:16:06 0
*苦に依存しないでは不苦は存在しない。
(しかも)それ(不苦)に縁って苦(がある、)とわれわれは説く。
故に、苦そのものも存在しない。
*不苦に縁らないでは苦は存在しない。
(しかも)それ(苦)に縁って不苦(がある、)とわれわれは説く。
故に、不苦そのものも存在しない。
           <龍樹 中論 23:10&11 改>

 苦を滅するには苦と一体となって、苦を生きればよい。
 さすれば苦は不苦となる。  自受用三昧。
440析空:2009/08/29(土) 17:04:36 O
仏典における「苦」を、現代の日本語の「苦」だと勘違いすると、
仏典の意味を誤解してしまいます。あるいは、仏典の意味を理解できません。

釈尊は、「一切は苦だ」とのたもうた。
この文は、「一切は思い通りにはならない」という意味だと理解するべきです。
441析空:2009/08/29(土) 17:26:26 O
釈尊は、一切は苦だ、と説きながら、一切に含まれない、涅槃を説きました。

ここで、一切とは「全て」という意味ではないということが分かります。

一切とは、「生じたもの」という意味です。
生じたものは滅するものです。(無常)
442439:2009/08/30(日) 06:35:02 0
>>441
老若、苦楽、生死、といった分別から解脱したのが涅槃寂静です。

涅槃寂静は、娑婆即寂光浄土ですから、今のこの時こそが涅槃となるわけです。
現観とはこの位相のことです。
円の位相ともいいます。

いわゆる現観に達したら、全議論の寂滅があります。

443名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 06:51:26 O
不言実行 普賢菩薩
444名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 07:28:49 0
>>442
すっげぇ〜
いまどき「戯論寂滅」かよ
まぁこれは現代にとっては病気を治癒しリハビリのためには有効ではあるな
回復して元気になったらまた動き回るのが健全だな
445442:2009/08/30(日) 12:07:44 0
>>444
同意
我執による無明という病気

坐水月道場(空:無分別智)
修空華万行(色:無分別の分別智)
446析空:2009/08/30(日) 21:18:25 O
>>442
【娑婆即寂光浄土】?

おそらく、歴史上実在した釈尊は、そんな話しをしなかったと思います。

【一切皆苦】とは、世間(作られたもの)は苦であるという意味です。
釈尊は、作られたものではない涅槃を目指すことを教えています。

涅槃は浄土ではありません。
447析空:2009/09/05(土) 06:31:57 O
残念ながら娑婆には身体による煩いが有ります。
釈尊も病気と闘いました。
悟りを得ても、身体的苦痛が無くなる訳では有りません。
448考える名無しさん:2009/09/05(土) 06:58:03 0
釈尊はカス。
こんなやつ、どんだけ数がいても やくたたん


邪魔になるあ!
449考える名無しさん:2009/09/05(土) 08:05:25 O
天地人だろ
450考える名無しさん:2009/09/05(土) 09:45:40 0
>>447
身体的苦痛まで無くすために悟りを得て
死んで涅槃に入ろうって話だろ?
仏教で教えてるのは
451考える名無しさん:2009/09/05(土) 09:57:05 O
焼身自殺する僧侶って何なの?

焼身自殺した中学生なんかは、火を付けられたのだろうが。
452考える名無しさん:2009/09/05(土) 10:18:20 O
いいかい?汚らわしいものではないんだよ。曹洞宗無量山淨界寺。よく供養しとけ。
453析空:2009/09/05(土) 21:17:32 O
仏教では自殺を禁止しているとか、自殺は禁止していないとか、
論争になるくらいで、ハッキリしたことは分からない。
しかし、積極的に自殺を薦めたということは無い。

自殺した僧侶は、「迷いが有った」ということでしかない。
仏教では「計らい」を捨てることが重要視されているから、
【自殺】を認めるとは思えないな。
454病者と健康人の彼岸:2009/09/05(土) 21:46:01 O
哲学って苦しむためにあるよな。宗教も芸術もそうだよ。
下手に首突っ込んだがために俺は苦悩の泥沼にはまり込んで、
何やっても深い意識では何も満たされず名付けがたい辛い感情が最後にはっきり浮き彫りにされる。
行為は苦しみを生むのだ。
だがきっとこの不可解な曖昧な生の苦しみから解放されたら至高の境地が待っているのかもしれぬ。
だからこの生の苦痛(存在の苦しみ)からの解放を願い俺はもうただ自己を高める苦行を自分に課すだけだ。

最後に最近気付いたことを付記する


結果的に人間は自己愛に執着するから苦しみが生まれる。そして愛のない行為は必ず苦しみを生む。
455析空:2009/09/05(土) 22:19:12 O
【愛】って何ですか?
キリストの教え?

仏教では、愛は執着であるから、愛は苦しみの原因であり、
「愛する人をつくるな」といいます。
456病者と健康人の彼岸:2009/09/06(日) 00:11:58 O
↑愛情と愛の意味合いの混合。二つは区別してかんがえるべき。
愛情は愛着であり、つまりそれはエゴを満たすための感情。だから執着といえる。
しかし愛は違う。愛とは自己を顧みず他の成長だけを願い、考え、行動する崇高な心。
仏教の慈悲はキリスト教の愛と同じと考えていいと思います。愛のない宗教は本物ではないと思われる。
457考える名無しさん:2009/09/06(日) 10:34:15 0
>>453
仏教は自殺を薦めているのではなく
完全なる平安な気持ちで死を迎えることを薦めている
それを釈尊はアヌパーディセーサ・ニッバーナと言って
ソーパーディセーサ・ニッバーナと区別して語った
これを理解することが仏教理解の出発点にして最終目標
458析空:2009/09/07(月) 20:54:52 O
>>456
気持ちはわからないでもないが、慈悲と愛は、大きく異なる。

キリスト教の愛は、ギリシャ語のアガペーと訳される。
ギリシャ語の愛は、大きく3種類あり、
1.エロース 恋愛
2.フェリス 友愛
3.アガペー 愛情

キリスト教の愛は、日本語の愛情に最も近い。

一方、慈悲は日本語の友愛に近い。

キリスト教では、母親が幼子を愛するように、神の愛を表現する。

仏教では、愛する子供を望むな、と教える。
459析空:2009/09/07(月) 22:17:31 O
>>540
初期の仏教では、生きている内に涅槃を得ることが、目標だったと謂われています。
あくまでも心解脱であって、健康なときは、身体の苦痛もありません。
しかし、身体による煩いは残るとされています。
時代が下るにつれて、死後の涅槃が完全な涅槃とされましたが、
釈尊が死後の涅槃を説いたかどうかはなんともいえません。
460析空:2009/09/07(月) 22:40:57 O
>>459のアンカーを間違えました。
>>540
>>450

お詫びして訂正します。
涅槃は止滅とも、安楽とも訳されます。
461喧騒ゲートル ◆aBm/WELQE2vq :2009/09/07(月) 23:10:30 0
>哲学って苦しむためにあるよな。宗教も芸術もそうだよ。
>愛情は愛着であり、つまりそれはエゴを満たすための感情。



 悲しいね (アンタの解釈が
462考える名無しさん:2009/09/07(月) 23:36:39 0
>>441
>釈尊は、一切は苦だ、と説きながら、一切に含まれない、涅槃を説きました。
>ここで、一切とは「全て」という意味ではないということが分かります。
>一切とは、「生じたもの」という意味です。生じたものは滅するものです。(無常)

違います。宝珠に誑かされてはなりません。
先ず、一切は十二処(SN.35.23)です。つまり縁已生法です。
次に、その一切は、四諦=縁起の流転と還滅と相応しています。
そして、滅諦がニルヴァーナです。
不生不滅とされるのは、縁起の還滅であり、生・老死支の滅だからです。
また、宝珠の如き疑義については、
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1251941580/354
を参照して下さい。
463考える名無しさん:2009/09/15(火) 04:32:11 0
>>456
>仏教の慈悲はキリスト教の愛と同じと考えていいと思います。
>愛のない宗教は本物ではないと思われる。

仮に仏教の慈悲がキリスト教の愛と同じであったとしてもそれは存在の中でのことに過ぎない
仏教の最終目標(スレタイに合わせると苦しみの解決)は涅槃であって慈悲ではない
涅槃は存在自体が消滅してしまっているのだから当然そこには慈悲も愛もない
だからと言って存在の中における慈悲を否定しているわけではない
464析空:2009/09/17(木) 00:07:00 O
>>463
>涅槃は存在自体が消滅して

それは、完全な涅槃と呼ばれるものですね。
しかし、釈尊は存命中に涅槃を説いたわけですから、生きている内に、
涅槃に到達するハズですよね。【有余涅槃】
465考える名無しさん:2009/09/19(土) 21:52:16 0
涅槃を目指すのを良いと考えるか良くないと考えるかは個人の主観に過ぎない
仏教は四聖諦で個人の主観とは関係のない事実を語っている
@存在はドゥッカAドゥッカの原因は欲望B欲望がなくなるとドゥッカもなくなるCその道が八正道
ドゥッカ、欲望は悪いものでそれを無くせる八正道は良い道だと考えても
ドゥッカ、欲望は良いものでそれを無くしてしまう八正道は悪い道だと考えても、どちらも主観に過ぎない
しかし欲望が無くなることでドゥッカが無くなること、その道が八正道であることは主観ではなく事実と言っている
466考える名無しさん
>>465
個人の主観と無関係ではない。
寧ろ、徹底、個人的主観だよ、仏教に於ける真理は。
そこに、自らの実感、自覚、頷きがなかったら、そこには「苦」も「苦の滅」もない。
彼は、仏教の教えを一笑に付すだろう。
【そこに】(彼にとって)「苦」はないし、苦が無いから当然「苦の滅を求める」こともない。
彼が「苦に気付き」、「苦を見つめ」、「その解決を図ろうとした時」、
その時、彼は教えとともにあることとなる。
彼が八正道を歩み、苦を滅してゆく過程に於いて初めて、苦滅道諦は事実となる。

>欲望が無くなることでドゥッカが無くなること
これを事実とするには、まず、≪『苦があり』『その苦は欲望が原因となっている』≫
ことを知らねば(気付かねば)ならない。
その気付きが無い所へどんな言葉を重ねても、馬耳東風でしかなかろう・・・。