ええっと、余計なおせっかいかもしれませんが聖書の読解云々は
新たに別スレをたてて、そこからリンクするという形でやったほうがよいのではないでしょうか。
前スレでの議論の経過をさっぱり無視した感じの流れに少し(゚д゚) としております。。。
>>37 了解しました。
ちょっと自分の考えている中身を醸成させるまで、
あと物語としての言語化を(自分が)考えるために、
もう少しいさせてください。
いちおう言語化関連に自分の話を収束させることは約束します。
たしか前スレの最大の成果は
「言語化とは記号化に近いものであり、概念の抽出作業である」
というようなことでしたっけ。
おそらくそれは言語の最小値としての評価ですね。
それは問題ないものと考えています。
いちおう前回と同じことを話すのではなく、
発展させたい、もしくはより根源的に話したいという風に自分は考えているのです。
そしてできれば言語化の最大値として、
「物語化」というものをもう少し語られたい
と思っていたわけです。聖書はそのための
基盤となると思い提出しましたです。
とりあえず申し訳なかったです。
以上です。
(じゅん)
うーん、ではまず、>1にあるように
言語化とは何か考えてみようかと思います。
ということで、みなさんが言語化に含まれると思う概念を、
いろいろとお出しになってくれるとありがたいです。
言語化とは具体的に何なのか?
ちょっと考えられてください。
まあ、書き込んでくれるとありがたいかもです。
よろしく。
あげときます。
では、おやすみなさい。
単純に、言語の体裁で表れること、というのが
「言語化」の単語上の意味でしょ。
この場合の「そもそも言語化って何?」という形態の問いは、
言語化の可否が決められることと、無に等しい条件を満たす場合があることを
前提としちゃってる思考形態だから、論じるに値しないよ。
>>41 何を言っているのか意味がよく分かりませんでした。
もう少し内容を整理してくれると助かります。
あ、よくわかんなかった箇所は厳密に言うと下の部分になります。
>この場合の「そもそも言語化って何?」という形態の問いは、
>言語化の可否が決められることと、無に等しい条件を満たす場合があることを
>前提としちゃってる思考形態だから、
ごめんなさい、
「言語化」という語には
「言語の体裁で表れること」というような明白な意味がある。
だが、「そもそも言語化って何?」という文の主張は
新しい意味(定義)を求めている。
(「そもそも」という接続詞は、改めて説き直すことを要求する単語。)
「言語の体裁で表れること」という明白な意味があるのに、
それは完全に破棄したい、という意識がある。
なぜ、そんなことをしたいのかと言えば↓
「言語の体裁で表れること」という意味では
スレタイの「言語化できないものは「無」だ」という命題が要求する
・できるもの、できないものに分けられる
・「無」というものに当てはまる
これらの条件にうまく適合しないから。
たとえば、
・(できるもの、できないものに分けられるとしたら) ←無意識に前提してる部分
どうなったら言語化できたと言えるんだろう?
・(「無」というものに当てはまるとしたら)
どういう状態になったら「無」であると言えるんだろう?
なんてふうに考えてしまっているわけだ。
この思考形態が、アホらしくて論じるに値しないってとこ。
なぜなら、この場合に本当に見直すべきなのは、あいまいな部分である「無」とか
「できる、できないに分けられる」という前提しちゃっている部分なのに、
わざわざ明白な意味の方を無理に変えようとしているわけだから。
あいまいな方に合わせていっても、論理が崩壊するだけで
なんにもならない。
>>44-45 くわしい説明ありがとうございました。
あなたの言いたいことは、なんとなくわかったような気がします。
要約すると、
この命題の根幹である「言語化」を問うことは、
命題の意義を崩すだけであって、論ずることを無方向、無秩序に
させるだけなので、、、
ってことですよね。
>だが、「そもそも言語化って何?」という文の主張は
>新しい意味(定義)を求めている。
>(「そもそも」という接続詞は、改めて説き直すことを要求する単語。)
あらためて説き直すって、何を説き直すんですか?
何を求めてその作業をするのでしょうか?
あなたはハイデッガーの「存在と時間」を読まれたことはありますか?
ハイデッガーはあなたが明白であると言う「言語化」の「存在」を改めて問うた人です。
もっとも自明なものを説いた哲学者なのです。そのために、
命題を放った現存在者(それを言った当人)、の分析にまで思索を及ばせているのです。
そしてそれが語られた「今」さえも、分析したのがハイデッガーの思考態度なんです。
このスレのテーマは「存在」の言語論解釈です。
そういった判断でいけば、
私の言及も、妥当性を持つはずだと思いますが、いかがでしょうか?
つづき
>あいまいな方に合わせていっても、論理が崩壊するだけで
>なんにもならない。
と言う指摘も私はすでに了解していますし、
今一度、再認もさせていただきました。
ではもう一度あなたの文を再掲したいと思います。
>だが、「そもそも言語化って何?」という文の主張は
>新しい意味(定義)を求めている。
>(「そもそも」という接続詞は、改めて説き直すことを要求する単語。)
これは誤りです。「そもそも」という言葉は、
存在(言語化)の“本質”を 明らかにすることを「目的」する言葉です。
ここでの“本質”を問うという作業とは、
言語化の形態を明示し、言語化の様々な性格を知っていくことであり、
つまり言語化の(一面的ではない)本質を展開させ把握していくことです。
私が>1で聞いているのは、言語化に当てはまる作業、行為とは一体なんなのだろうか?
とりあえずそれだけのことなのです。
以上です。
>>46 要約部分、ちょっと違うな。
あなたは言語について問うことを「この命題」として扱っているようだけど
>>44-45はスレタイの命題のみを指して言っている。
スレタイのような命題形式で思考することが無駄であると言ってるわけであって、
明白なことを改めて問うことが無駄だなんて言ってない。
>>47 誤りじゃないよ。
>「そもそも」という言葉は、
>存在(言語化)の“本質”を 明らかにすることを「目的」する言葉です
この目的とすることのために行う実際の「言葉のはたらき」が
>>新しい意味(定義)を求めている。
なの。
>>47が言ってることは、同じことを別方向から見てるだけ。
まあ、スレタイを踏まえた上で
「言語化って、そもそも何ですか?」と発言してると思ってたけど
これはこっちの勘違いのようだった。
>スレのテーマは「存在」の言語論解釈
ということなら特に異論は無い。
>>48-49 ご返答どうも。
ご理解頂けたようで何よりです。
いちおう私とあなたとの大きな認識の違いを改めて申し上げます。
たぶんこれが一番のずれの原因なのだと思います。
>スレタイのような命題形式で思考することが無駄であると言ってるわけであって、
>明白なことを改めて問うことが無駄だなんて言ってない。
じつは、スレタイは命題として扱っていません。
その証拠に、スレタイの語尾にクエスチョンマークがないでしょ。
だから命題に沿った回答にのみに会話が限定されるのではなく、
それぞれの言葉 「言語化」「できない」「無」「等しい」 (「できない」は追加しました)
の言語の可動範囲内でどのようにでも、語られてしかるべきなんです。
ついでに
>>1のテンプレの意図を説明すると、♪(音符マーク)を二つ付けたのは、
まあみなさん自由に語りましょうよという考えからなのです。
また、
>>1のAAは、記号性格である表形文字性を象徴的に表してみた感じです、
また♪マークは表音文字を象徴してみた感じです。
AAのキャラが二人なのは「コミュニケート」を少し象徴してみました。
AAにほんのり感があるのはしているのは、言語化で伝えきれない何かが
伝えられるかもしれないということをことをここで明示するためだったりします。
(つづき)
また、AAと「そもそも言語化ってなんですか」をくっつけたのは
状況や場によって言語の印象が異なることを、象徴的に表現してみました。
まあ、コピーライターを生業とする人なら私よりもそう言った理論に
長けているとは思いますが、ようするに言語化することで何が
表現可能なんだろう。そう言ったことを知りたかったというのがあります。
それを追い求めることで、言語化に対する幅広い層が獲得できると考えたのです。
ちなみに文体に拘る人もいればやはり書体にだって拘る人もいたりする。
言語化と一言でいってもかなり奥が深いと思うんです。
まあ今回は思いつきで言ってみました。
とりあえずみなさんに申し上げたいのは「スレタイ」への判断は停止させてくださいということですかね。
「言語化」にのみ焦点を当ててくださると助かります。
あとそれと、「そもそも」の解釈は訂正します。
「そもそも」の意味とは、以前の解釈を、一旦棄却することを前提として、
改めて解釈を練り直す作業を求めることを意味するかと思います。
よろしくお願いします。
『大航海』はこっちの方がこのスレ的かな?
No.23 1998年8月号
特集 チョムスキー再考――言語は本能か
遺伝子のなかの文法 郡司隆男×大澤真幸
言語はなぜ生まれたか 田窪行則×山極寿一
収束のパラダイム 藤田耕司
自然科学としての言語学 福井直樹
言語・脳・心 萩原裕子
「過去の人」としてのチョムスキー 澤口俊之
原則とパラメータの理論 西垣内泰介
計算言語から見たチョムスキー 辻井潤一
森田君がいなくなっちゃったの。。。
55 :
考える名無しさん:04/09/08 06:26
,一-、
/ ̄ l | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■■-っ < んなーこたーない
´∀`/ \__________
__/|Y/\.
Ё|__ | / |
| У.. |
56 :
考える名無しさん:04/09/14 22:01:21
言語化と旧約聖書との関わりについてこれから書こうと思います。
聖書、つまりイスラム教、ユダヤ教、キリスト教の原典である旧約聖書について
英語の「バイブル(bible)」、
また、ドイツ語の「ビーベル(Bible)、
フランス語の「bible(ビブル)」という語は
ラテン語の「ビブリア(biblia)」を経由して、
ギリシャ語の「ビブリア(βιβλια)」にまで遡るそうです。
そして、ギリシャ語の「ビブリオン(βιβλιον)」とは、
ただ単に単に「本、書物」という意味であり、
「ビブリア(βιβλια)」とははその複数形であり、
すなわち「本たち」という意味なのだということ。
このギリシャ語の名は、私たちが、今日一巻の書物として手にしているものとして、
また、私たちとしてが当然にも一つの統一として「聖書」が、
実は多数のものからなり、それぞれの文書が分離していることを示す。
つまり、バイブル、その聖書のもともとの原義とは、
書物としての、偶有存在、つまり象徴的存在形式を表します。
ちなみに、旧約聖書は以下の編に纏め上げられます。
創世紀 ( Genesis )、 出エジプト記 ( Exodus )、 レビ記 ( Lebiticus )、
民数記 ( Numbers )、 申命記 ( Deuteronomy )、 ヨシュア記 ( Joshua )、
士師記 ( Judges )、ルツ記 ( Ruth )、サムエル記上 ( 1 Samuel )、
サムエル記下 ( 2 Samuel )、 列王記上 ( 1 King )、列王記下( 2 Kings )、
歴代誌上 ( 1 Chronicles )、歴代誌下 ( 2 Chonicles )、エズラ記 ( Ezra ) 、
ネヘミヤ記 ( Nehemiah ) 、エステル記 ( Esther )、ヨブ記 ( Job )、
詩編 ( Psalms )、 箴言 ( Proberbs )、 コヘレトの言葉 ( ecclesiastes )、
雅歌 ( Song ob Songs )、 イザヤ書 ( Isaiah )、 エレミヤ書 ( Jeremiah )、
哀歌 ( Lamentations )、 エゼキエル書 ( Ezekiel )、ダニエル書 ( Daniel )、
ホセア書 ( Hosea )、ヨエル書 ( Joel )、 アモス書 ( Amos )、
オバデヤ書 ( Obadiah )、 ヨナ書 ( Jonah )、 ミカ書(Micah)、
ナホム書 ( Nahum )、 ハバクク書 ( Habakkuk )、 ゼファニヤ書 ( Zephaniah )、
ハガイ書 ( Haggai )、 ゼカリヤ書 ( Zechariah ) 、マラキ書 ( Malachi )、
などの書物に分かれていて、すべてが独立した書物なのだということです。
だから聖書はそれぞれが物語であり、歴史であり、記録、手記であるというわけなのです。
どのような読まれ方も包合しようという解釈が、聖書(旧約)の中にはあるのだということです。
また、欧州圏における、旧約聖書の研究活動について申し上げるならば、
聖書はイエス生誕前に、ほぼ完成されてたというようなものではなく、
イエスの死後もその研究はされ続け、途上にあったと言えるのであり、
むしろ、キリストが登場したことによってより強烈に、
聖書の定義論争が、
より活性化されたのだと言ってよいと思えるのではないでしょうか。
この聖書の聖典主義は、
13世紀ごろの、マソラ学者たちの功績の、
ヘブライ語のあいまいな音に発音記号、アクセント記号を振ることにより、
音声としての定義づけに成功したこと、
また、あるいは宗教の分派の祖となってしまった文字としてヘブライ語かギリシャ語かという対立。
また、1947に発掘されたクムラン写本(死海文書)の登場で萌芽を迎えた、
もともとの旧約聖書なる体系へ究明、
そして文章の形式への追求、
他言語への変換時における、
抽象における精密さを極める抽象、
捨象における、叡智としての捨象が行われ
著しい密度の言語形式自体への追求が、
聖書を通じて行われてきたことを物語るものだと思われます。
これはまた、
ルター聖書の存在が、
近代ドイツの書き言葉の基礎を築きあげたことに、
貢献していることを大きく頷ける事実です。
これは、聖書が何人もの人に読まれていったことと同様に、
洞察への一般化が達成し、そこから何千人、何万人もの手によって聖書が書き換えられ、
内容の精密化が実行されてきたことを、如実にあらわすものではないでしょうか。
また、ルターの宗教改革、
あるいは、プロテスタント迫害より始まった
パウロ指導のもとの他外国への布教活動など、
それぞれの歴史的契機で、その信ずる要となる存在の意義、
つまり、聖書の意味というものを見つめ、問い直してきたはずです。
以上のような聖書への解釈への絶対的な帰依は、
いくらニーチェによって神が死んだといわれようとも
決して今もなお失われていないし、
ブッシュの戦争への正当化によって明らかなように、
いまだ権威の象徴として効力を発揮しています。
つまり、聖書の真の意味は、進化にあると私は考えるし、
今なお、在るものとして、歴史的な意味を携えて存在しているし、
それこそ私たち日本語圏、日本においても、
文語訳、口語訳、新共同訳などの独自の進化を遂げているわけです。
聖書は意味を求められ、再編され、そこに光明を見出す。
それが聖書の自体的存在における意味だということです。
これは聖書が言語化への大きな一如として、
人間の大いなる志向の一部として
組み込まれていることを、如実に表すものといえるかと思います。
私たちは、どこまでも言語と向き合うことができるということ。
以上、旧約聖書と言語化との関連は終わりです。
ちなみに、
聖書へ追求の原点となったマソラ学者たちの活動は
日本において空海を祖(先駆者)とする、
真言宗の仏典解釈論争、その体系化、
それと同様にして行われた言語理論構築が、活発だった時期と、
ほぼ同時期に行われているという奇妙な一致に、
私は少し興奮を覚えたしだいです。
以上、聖書その宗教論理と言語の関連を少し紐解いてみたつもりです。
なお今回、言語化への接点として大きく参考にしたのは、
「 旧 約 聖 書 −歴史、文学、宗教− 」
C・レヴィン著 / 山我哲雄訳 でした。
これは今読んでいる途中なのですが、大変面白いです。
( まあ、内容はちょっと複雑で少し整理するのが大変でしたけどね。)
まあ、こんな感じです。
どうぞ。
62 :
考える名無しさん:04/09/20 17:15:26
なるほど。こういうのって形而上学って言うのでちか。
64 :
考える名無しさん:04/09/20 21:41:02
バレルゴンみたいな人はどこにでもいるんだなあ。
66 :
考える名無しさん:04/09/21 10:39:41
前スレを読んでないので経過はわからないのですが、
このスレはちゃんと議論しないんですか?
「無に等しい」じゃなくて「無である」でいいんじゃないの? ダメ?
68 :
考える名無しさん:04/09/22 06:35:34
喋りすぎて、言葉が枯れるとき、
言語化できないと、言うことができると思う。
そのとき、言語化できる可能性は無なのだろうか。
それとも無ではないのか。
君ならどうする?
70 :
考える名無しさん:04/09/23 21:50:57
まず68を言語化してみるわ
72 :
考える名無しさん:04/09/23 22:19:15
普通の電波サイト
73 :
考える名無しさん:04/09/24 00:27:10
75 :
考える名無しさん:04/10/28 03:52:27
>>68 なんだあれは?? さっぱり理解できんぞ
まるで哲学書読んでるみたいだなw
77 :
考える名無しさん:04/10/28 15:51:31
時間も力も電気も説明できない。
愛は言語化できません。
平凡な「幸せ」しか知らない人が、
結局は一番幸せなんだってこと、
中学・高校時代の自分に言い聞かせたい。
もし、今、あの時に、あの日々に戻れるなら。
ただただ「抽象」が「具体」を、「観念」が「現場」を
上回っている、と信じ込んでいたあの頃の自分に。
80 :
考える名無しさん:04/11/16 22:48:21
前スレより。
433 :考える名無しさん :04/07/06 00:42
コミュニケーションの定義によるな、それは。
「10伝えて10伝わる」がコミュニケーションであると定義するなら、
「コミュニケーションは不可能だ」と言えるだろうね。だが
普通、そういう語の使い方しないっしょ。
これまでの流れを読まずに
「言語化できないものは『無』に等しいか?」という命題について言えば、
そもそも「言語化できないもの」という概念がすでに定立されている以上、
それは「言語化されている」。すなわち、「言語化できないもの」は存在しない。
つまり、「言語化できないもの」というのは無意味な概念である。
有意味な「無」とはイコールではない。
単に「言語化できないものはない」という命題なら正しいけどね。
また、ここでの「言語化」という概念は非常に曖昧。定義によっては
上記の内容も変わってくる。上では「言語化」は理解と切り離された
ものとして書いた。
円周率を例にすれば、「3.141592...」という数を完全に数えきること
(完全に理解すること)はできない。しかし我々はそれを「π」として
「言語化」できている、というような意味。
また「無」の概念についても定義しなくちゃならないんだろうが、
それはとてつもなくめんどくさいので割愛。横レススマソ。
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::::_/|\:~/| | . |/ |/- /|.| // ;; ;; `,
| |_ ,,,,| | ../ . | \ | |____ _// ; l| `,
まだこれあったのか
人呼んでDQNスレw
84 :
考える名無しさん:05/03/11 21:35:02
等しい?
うーん、
厳密に等しいと計り知れるんだろうか。
無に等しい?
どうやって、等しいと知れるんだ?
85 :
考える名無しさん:05/03/12 14:27:02
無とはなんぞや
蕪