過去は『既に決定している』。
これは『自明』であると私は考える。
論点は、未来は『既に決定している』のか?
『未だに決定していない』のか?であろう。
誰かが、サイコロを振るとする。
賽の目が幾つになるかを、確実に予見することは不可能である。
((イカサマでなければ。
これも『自明』と考える。
確実に予見できれば、【ギャンブル】は成立しない。
ここで問われていることは、予見できなくても【必然】であった可能性であろう。
【賽の目】が【必然】であるかどうか?
捉えようによっては、必ず【出るはずの目】が出るのだし、
そのように帰着するに決まっていると考えても、間違えているとは言えない。
サイコロを振った後には、『賽の目は変えられない』のだから、
サイコロを振る前から、『賽の目は決まっていたのだ』と言われても、
それを、反証することはできない。
転じて、【偶然】という概念について考える。
言うまでも無く【必然】に対し【偶然】という概念がある。
【偶然】とは、
『他のものとの因果関係がはっきりせず、予期しないことが起こること』
である。
即ち、【予期/予見】という言葉と、【偶然】という言葉は無関係ではない。
【確実な予見】ができるなら、【偶然】という言葉は成立しない。
そして【偶然】という概念が存在しなければ、【必然】という概念は不要である。
両者が対概念である事を考えれば、
【必然】という概念も【予期/予見】と無関係では無い。
そこで、【予期/予見】という事を今一度考える。
現時点で、『賽の目を確実に予見する事はできない』は【自明】であるが、
現時点では、『未来永劫【確実な予見】が出来ないと断定すること』はできない。
即ち、現時点での【自明】は【真理】では無い。
結論として、【運命論】【決定論】の正否は【分からない】としか言えない。
【確実な予見】が出来るようになった時に、あるいは、
【確実な予見】が出来ないと断定できた時にしか、判断出来ないことだろう。
『有る事を立証するよりも、無い事を立証することの方が難しい』の通り、
【出来ない】と断定することは【出来る】と断定することより遥かに難しい。
現時点で【確実な予見は出来ない】という証明を試みているようだが、
その証明には【おそらく】という言葉を使ってはいけない。
【おそらく】は【予見】であるのだから。
【確実な予見は出来ない】と【確実に予見している】のは明らかにオカシイ。
現時点では、信じるも勝手、信じないも勝手だろう。
個人的には信じてはいないが、信じる人を【理論的】には否定も出来ない。
いずれの立場に立とうと、
『あの時【偶然】出会った事は、【必然】だったんだね』
という一文を楽しめる限り、【証明不能】である。
この一見矛盾した文章は、時間の概念を持てば矛盾していない。
『出会う瞬間までは、出会いは未来であり、
出会った瞬間からは、出会いは過去である』だけの事である。
更に言えば、『自由が増えるだけ、偶然も増える』と言える。
サイコロを振る自由が無ければ、【賽の目の不確定性】も生じない。
今のところ、サイコロを振る自由があればあるだけ、
運命論を否定しがちになる傾向があると考えることも出来る。
世襲制度が根強ければ、【運命】も決まりやすくなるだろう。
心情の吐露をすれば、
自由な時代に生き、運命論を笑うことは、
飽食の時代に、貧しさを笑うことに似ている。
と、個人的には思っている。
マジレスすると
>捉えようによっては、必ず【出るはずの目】が出るのだし、
>そのように帰着するに決まっていると考えても、間違えているとは言えない。
これと
>サイコロを振った後には、『賽の目は変えられない』のだから、
>サイコロを振る前から、『賽の目は決まっていたのだ』と言われても、
>それを、反証することはできない。
これが間違い。
>『あの時【偶然】出会った事は、【必然】だったんだね』
>という一文を楽しめる限り、【証明不能】である。
これを楽しむのは妄想の世界でしか楽しめない。
結論として、電波ケテーイ