【教行信証】親鸞を語る【歎異抄】

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412考える名無しさん
『歎異抄』の中に、次のような箇所があります。
《慈悲には、自力聖道門の慈悲と他力聖道門の慈悲との違いがある。
聖道門の慈悲というのは、一切のものを、あわれみ、いとおしみ、養い、育てることである。しかし思うとおりに助けとおすことは、極めてまれである。→
413考える名無しさん:2006/02/28(火) 00:49:16
→浄土門の慈悲というのは、念仏によって速やかに浄土に生まれ、仏となって、そのうえで仏の大慈悲心をもって、思いのままに、生を享けた一切のものにめぐみを与えることをいうのである。
この世に生を享けたこの身のままでは、どのように可哀相だ、気の毒だと→
414考える名無しさん:2006/02/28(火) 00:52:32
→思っても、思うようには救うことはできないから、この種の慈悲は不徹底である。こうしたわけだから、念仏を称えることだけが、徹底した大慈悲心なのである。
と聖人は仰られた。》
 このような文言から何が読み取れるのかといえば、→
415考える名無しさん:2006/02/28(火) 00:57:32
→人間の思考・善悪と、仏の思考・善悪のその規模のとてつもない隔たり、ということかと思えます。たとえば、人間が、これこそが善と信じて為した行為、語った言葉、すなわち何らかの力が、それが思いもよらない結果を作り上げるということは考えられるでしょう。→
416考える名無しさん:2006/02/28(火) 01:03:33
→それが社会運動や政治運動でも、或いはもっと身近な教育を取ってみてもいいです。人間の及ぼす思考や行為が反転する瞬間がある。屈折を生じる瞬間がある。しかもそれを生じさせるプリズムを人間が見通すことは極めて困難だと云える。→
417考える名無しさん:2006/02/28(火) 01:15:46
→また、我が身可愛さを簡単に捨て去る事も難しい。つまり、人間の思考や判断や行為やがたえず何らかの有限性に付き纏われるという点に親鸞は行き着いていた、と思われます。そうしますと、その他力信仰の根幹が念仏なので、日常における何らかの効果に意義を→
418考える名無しさん:2006/02/28(火) 01:18:58
→還元するのはまずいのではないか、とどうしても思えるのです。余りにも現世での効果って場所へ念仏をですね、置き過ぎていはしないか。てことです。そが最も抵抗を感じるところです。
419考える名無しさん:2006/02/28(火) 19:58:06
私も還元されないと思います
420考える名無しさん:2006/03/01(水) 22:04:43
私にとって親鸞は懐かしい人それが一番の感覚。理屈なく御念仏すればいい。。阿弥陀如来様は自分の死後お助け下さる事、そのお助けの保障が御念仏であること。親鸞は一緒に苦しい現世を歩いてくださる人。これだけで私には充分です。
421考える名無しさん:2006/03/02(木) 03:54:09
今の真宗の坊主はだいたいがだめ。そもそも自分で修行をしてない。親鸞は
長い修行をしている。そして、すべて2げん対立で考える。貧乏人とかねもち、
あほとかしこ、そして、阿弥陀仏の慈悲は貧乏人にもあほにもふるそそぐと
説明する。真宗はどこかでマルクス主義のルサンチマン思想が紛れ込んで
主流になったとしか思えない。そして、真宗僧はどの宗派より、勉強して
なくてぐうたらで自己弁護している奴が多い。本来の他力のはき違え。
他力他力といって、毎日の人間的努力も否定する連中に、親鸞を語る
資格はない。真宗マルクスはから脱皮しないとただのぐうたらルサンチマン
宗教に堕したまま。荒行に耐えた真宗坊主が他力を行ってはじめて
説得力がある。
422考える名無しさん:2006/03/02(木) 16:11:46
421のいうとおり。だから、親鸞が偉くても真宗教団の連中に全く魅力
がないのでは。また、親鸞の教えが残っているのは、市井の素晴らしい
念仏者がずっと世の中で苦労して、他力に行き当たり、救われて、引きついて
来たのであって、僧侶が残してきたのではないと思います。
423考える名無しさん:2006/03/02(木) 18:03:06
で、おがむ時は南無観世音菩薩か南無阿弥陀佛って
唱えればいいんか?
424考える名無しさん:2006/03/02(木) 18:55:54
南無阿弥陀仏の一択本願ですよ
425考える名無しさん:2006/03/02(木) 20:14:12
貴族は救われるけど、庶民は地獄行き、ってのがお決まりだった平安末期。
誰でも本願を信じれば救われる、といったら
庶民が救いの目当てであることは明白では?
426考える名無しさん:2006/03/02(木) 21:07:02
だが「救いの平等」というものは、ともすると現実の不平等を隠蔽する装置として利用される可能性が少なくない。
「最終的にはみんな成仏するんだから、現世での不平等は我慢しなさい」という具合に。
427考える名無しさん:2006/03/02(木) 21:22:44
>>426
理論的には「救いは平等」だけど、
信心はそれぞれが獲らなければならんということです。

>>420
ルサンチマンというけど、戦国時代とかをみると、自立・自治の方向に
向かっていて、必ずしもルサンチマンとか諦めとかには機能しなかったようだ。
ルサンチマン思想があるとしたら、近世宗学の問題なのだろうか。

妙好人とか、安心しきるところまではいいけど、
そのあとの展開はどうなるんだろうと思ってしまう。
戦国時代に妙好人っていたのだろうか。
428考える名無しさん:2006/03/02(木) 21:32:13
極楽浄土は厭離穢土とセットでしょ
現世に執着のある現代人にはちょっと微妙だな
429:2006/03/02(木) 21:46:52
救いとは阿弥陀如来様に護られている絶対的安心感ですよ。人は裏切るけど仏様は裏切らないし、現実の不平等よりもっと大きい仏様の安心に住むほうが私には一番大事。
430考える名無しさん:2006/03/02(木) 21:58:07
>>429
なるほど。
431考える名無しさん:2006/03/02(木) 22:33:35
現世への執着が強い事は親鸞思想にとって、むしろ“尚のこと往生をなす”契機と考えられる。また、“念仏を唱えたからといって浄土へ行けるのか、或いは地獄に堕ちるのか、私は知らぬ、私はただ法然についてゆくだけ”“私はそのような愚かな人間。念仏をとるも捨てるも→
432考える名無しさん:2006/03/02(木) 22:41:01
→あなた方の勝手になさったらいい”とまで言ったとされている。つまり浄土信仰の解体者としての親鸞がおり、そこで浄土〈不信仰〉と浄土〈信仰〉はほとんど同一の地点へまで解体され尽くしている。他力信仰を究極へまで突き進めていた事がわかる。
433考える名無しさん:2006/03/02(木) 22:47:52
427がいうように近世教学の問題だ。清沢マンシが登場して、真宗をカントと
比べたりして理論家した。一方では、ただひたすら「信」によって救われる
人々もいた。これが微妙にミックスされて、真宗は片方で哲学になり、片方で
思い込み信仰重視、問答無用、となって行った。両方がおかしい点を内包して
いるように感じる。
434考える名無しさん:2006/03/03(金) 00:37:09
それで日本は不信心な人ばかりなのか
435考える名無しさん:2006/03/03(金) 05:33:45
不信心=理知的
信心=何か騙されているとの考えがあるので、信心を理論化する。
論理的に正しいから信じられないはずはないとなる。
これが真宗の難しい部分では?
個人的には真宗にこだわるよりも、大本の霊界を知るとか、日常の心構えは
安岡セイトクを読むとか、親鸞以外に救いというか、しっくりくる考えは
多い。真宗に行った人はなぜ、そこまで真宗の信心の正しさのみ証明したがるのか?
436考える名無しさん:2006/03/03(金) 05:44:14
とにかく親鸞が素晴らしいのだから,親鸞に戻れば十分。
直接親鸞に「聴けば」いいと思うよ。
437考える名無しさん:2006/03/03(金) 05:54:48
弱者や悪人が教義者だ、ということですね。
一方で、教義が弱者や悪人の為であるということになるようだ。
成功が保障されたり、善行を勧められるものでない。

だが、強者に怖気づいたり、敵意を抱いたり、
正義を振りかざしたり、善行と信じて世界を覆ってしまうことがあり得そうだ。
438考える名無しさん:2006/03/03(金) 06:47:35
“教義が弱者や悪人の為という事になりそうだ”とは違う。契機さえあれば善なる意志は悪に反転し、途徹もない悪の生産にもなりうる、という認識がある。真の善悪の判断は人間には困難だという、認識の有限性を示唆している。そこが興味深い点。
439考える名無しさん:2006/03/03(金) 06:55:33
対象ー善

対象ー善
     ⊃
悪行ー悪

下の図が困難とか、相対的とかでまかり通っている図
440考える名無しさん:2006/03/03(金) 19:56:03
親鸞に「聴いても」よく分らんから議論になるんでしょう。
僕はよく真宗の学者が「親鸞聖人に聴け」というのが嫌いです。
一時は文学者や哲学者の解釈の方が好きでしたが、彼らも
かなりばらばらです。
441考える名無しさん:2006/03/03(金) 19:57:06
吉本隆明と梅原猛の親鸞をどう思うか?
442:2006/03/03(金) 21:52:36
どうもしません、二人とも御念仏していないから。学者の解釈より私は過去の妙好人の信心の方が一番懐かしい。
443考える名無しさん:2006/03/03(金) 22:07:34
妙好人語録とか読んでみると
結局最後にナモアミダブツとくっつければ何でもいいような気がしたw
444考える名無しさん:2006/03/04(土) 02:11:02
妙コウニンといえば浅原才一を思い出す。
浅原はすごい悟りの境地やで。
諸君は読んでみたか?
445カナメ:2006/03/04(土) 03:26:20
『444』は縁起が悪いから書き込みwW
446考える名無しさん:2006/03/04(土) 06:29:26
吉本隆明2冊と梅原猛4冊(親鸞関連)を読んでみたが、何の感慨もない。
ただ遠くから眺めて色々言っているだけのような気がする。
行も信も無い人が親鸞を語ってもね。
447考える名無しさん:2006/03/04(土) 13:47:34
>>435
論理的な正しさというよりも、
安心、信楽の妙味を伝えたいということでは。
448考える名無しさん:2006/03/04(土) 15:49:35
わしも吉本や梅原はだいたい読んだが確かにな。言われてみれば彼らは
「哲学者」であってお念仏はしていないのだった。気づかなかった。
では、五木寛之はどうやろな?彼はかなり信仰をもって解釈しとる。
447のいうとおりかもしれんな。ところで、447は安心、信楽の妙味を
体感したのか?わしはできていないから、よう分らん。
ところで、今でも妙コウニンみたいな立派な人に会ったひとは諸君の
なかでおるのか?わしの知ってる真宗学者はみなうそ臭い。


449:2006/03/05(日) 00:20:22
源佐さんが大好きです。私は神仏の大悲の海に歓喜して、安心してのびのび住んでいます。
450考える名無しさん:2006/03/05(日) 01:20:04
有り難うございます。
失礼なものいい済みません。
451考える名無しさん:2006/03/05(日) 21:09:12
大丈夫です、皆それぞれの道を歩み、皆仏様の暖かい御手に還るのですから。済みませんは阿弥陀様に。
452考える名無しさん:2006/03/06(月) 21:30:01
五木寛之を読むと自殺したくなるよ、希望がないから。苦しいから本買うのにね。
453考える名無しさん:2006/03/07(火) 00:39:09
そうか、五木寛之は希望を与えないのか。
自殺したくなる本ではあかんな。
454考える名無しさん:2006/03/07(火) 04:03:35
俺の場合、しんどい時期に五木寛之を読んで、
少なくとも苦境をじっと耐え忍ぶ力はもらった気がする。
どうにもならない局面で、下手に自力で動こうとせずにじっと辛抱する力。
「他力の風を待つ」とかいう表現があったかな。

五木寛之はたしかに自殺を必ずしも否定しないが、
(もちろん肯定もしないが、自殺者を責めたり、自殺者の人生が失敗だったようには言わない)
俺の場合、ひたすら「自殺はするなするなするな」と頭ごなしに説教されるより、
死にたい気分をそのまま、あるがままに受け止めてくれるような
五木の文章のほうが、安心感があった。
その安心感のおかげで精神的に余裕が出て立ち直れた。

暗い気分のときは暗い音楽を聴いたほうが癒されるという音楽療法の原理にも似ているかも?
455考える名無しさん:2006/03/07(火) 10:41:22
一種のカタルシスか
456考える名無しさん:2006/03/07(火) 17:36:42
454のいう事は分る。なるほど、わしも五木の「他力」は読んでみたいなと思っていた。
五木の「日本人のこころ」(全6巻)はなかなか面白い。
その中に真宗についても書かれている。
457考える名無しさん:2006/03/07(火) 21:38:37
みんな同じだよ、反発や共感する人も親鸞を必要とする人はみんな希望が欲しいから。
458:2006/03/07(火) 22:05:15
少しでも善く学ぶ為に、私の知らない皆さんの知る、易しい道理と法と教えを教えて下さい。
459考える名無しさん:2006/03/08(水) 01:40:37
親鸞に希望が欲しいのはわしも同じや。
しかし、親鸞で救われきったやつや自分でそういう人には何か堕落したイメージがあるのは
わしだけか?真宗学者とか、偉そうな地位にいて、親鸞を説く奴とか
自分自身もまだぐらぐらしてるのに生活には心配がなく取り合えず
親鸞を説いている奴とか。
460考える名無しさん:2006/03/08(水) 22:10:40
うん、僕は自分で直接の原点・原典を読むから、間に解釈する宗教団体を通さないよ。
461考える名無しさん:2006/03/15(水) 15:02:24
最近誰も書かんの。
462考える名無しさん:2006/03/16(木) 09:44:26
誰か
評判の良い教行信証の入門書、参考書を教えて欲しいのだけれど。
463考える名無しさん:2006/03/16(木) 13:17:01
『教行信証入門』石田瑞麿(講談社学術文庫)はなかなか良いとわしは思う。
464渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/17(金) 00:40:26
>>461
> 最近誰も書かんの。

 そういう分けじゃないんだ。
 □■ЯЯ親鸞仏教(浄土真宗)質問箱RR■□
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1123906853/
 「念仏から親鸞聖人の思想をみる」ということはどういうことか、これを論じだしたら終われなくなり、
いま手一杯なんだ。
 No282 以降で書いている。


【教行信証】親鸞を語る【歎異抄】
 このレスのNo412〜420あたりのレスにはいずれ意見を書きます。
 行の巻論も続けます。

 


465渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/17(金) 12:56:39
>>407
 全くのカメレスになってしまって申し訳ない。

> それなくして、命が一時も立ち行かない。行き場のない、
> 善でも悪でも喜びでも怒りでもない、名付けられない胎から噴出す
エネルギーが
> 六字になって飛び出てくる、みたいな。 

 仰りたいことが分からないですね。シンデレラの童話で、魔法使いの
おばあさんが、カボチャを馬車に、ねずみを馬に変えますよね。
 善でも悪でも喜びでも怒りでもない、名付けられない胎から噴出す不
思議なエネルギーが幻想とファンタジーの世界をつくって六字になって
飛び出してくるのでしょうか。
 夢と現実とが錯綜して不思議の世界にいらっしゃるような感じがするの
はぼくだけでしょうか。
466渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/17(金) 13:06:21
>>408
>“世の中を変えて行こう”という発想は親鸞のものなのだろうか。そもそも、一人の人間を変える、
或いは自己変革ていう考えが親鸞にあったか、疑問です。

化身土巻の重要箇所を紹介します。

 国家社会の責任者である梵天は、釈迦に言う。
 「大徳婆伽婆、過去の天仙この四天下を護持し養育せしがゆえに、また皆かくのごとき分布安
置せしむ」。釈尊先生、過去の偉大な先人達は、東西南北の四方の世界に幸せが実現するよう、
様々な優れた社会構造を作りました。星を配置し、季節を分け、地域を分け、それぞれそれぞれ
に司つかさを配置し、優れた社会を作りました。

 「後において、その国土・城邑村落・塔寺・園林・樹下・塚間・山谷・曠野・河泉・陂泊、乃至、海
中宝洲・天祠に随いて、かの卵生・胎生・湿生・化生において、もろもろの龍・夜叉・羅刹・餓鬼・毘
舎遮・富単那・迦 富単那等、かの中に生じて、かの処に還住して、繋属するところなし」。しかし、
現代ではそれが形骸化しています。国家、村落、公共施設、田畑、樹木、霊園、僻地、原野、河川、
防波堤、神社仏閣には、様々な精神達、才能達が乱雑・無秩序に居住し、行き場を失って彷徨して
います。

 「他の教を受けず」。なぜ、そのようになったのでしょうか。ものごとの道理が失われたからではない
でしょうか。

 「このゆえは願わくは、仏、この閻浮提の一切国土において、かの諸鬼神、分布安置して、護持のた
めのゆえ、一切もろもろの衆生を護らんがためのゆえに、我等、この説において随喜せんと欲う、と」。
釈尊先生、この社会において、様々な精神達を、それぞれの持ち味を十分に生かせるように正しく配置
したいと思います。社会に幸福を実現したいからです。わたしは、先生の教えによって真の喜びを得た
いと思います。

 御念仏、心に入れて申して、世のなか安穏なれ、仏法弘まれと、おぼしめすべしとぞ覚え候う。
                                         (親鸞 消息集)
 社会人として自分たちは社会に責任を負っている。親鸞はそう思っていたと思いますよ。
467考える名無しさん:2006/03/17(金) 13:15:26
463の勧める本を読んだ奴の感想をくれ。
468考える名無しさん:2006/03/17(金) 18:24:45
出世間とサンガの設立が仏教じゃないの?
仏教の基本はアンチテーゼであってね。
469考える名無しさん:2006/03/17(金) 18:29:57
いやまあ、上のは独り言。スルーしてください 
470考える名無しさん:2006/03/17(金) 21:07:36
渡海難さんに親鸞さん聞くほど、落ちぶれていません、結局何が言いたいの?一言で言って。
471考える名無しさん:2006/03/17(金) 23:20:46
渡海 難は何故嫌われておるのじゃ?
途中から来たんでよくわからん。
渡海 難は本職はなんじゃ?
472考える名無しさん:2006/03/18(土) 00:17:48
渡海難さんの説はそれはそれで一解釈として読ませてもらっています。よく勉強してることも伝わってきます。だから全否定する気など毛頭ないんです。ただ、これこそが親鸞だ!と云われたら、それには頷けない。その理由は先のレスに書いています。
473考える名無しさん:2006/03/19(日) 05:35:18
渡海難は坊さんではないようだが、何をしておるのじゃ?
そもそも、何故、そんなに親鸞に取り付かれておるのじゃ?
教えてくれ。
474渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/19(日) 08:38:59
 しばらく多忙です。
475考える名無しさん:2006/03/19(日) 15:10:59
誰か「教行信証入門」(石田・講談社学術文庫)の感想を書け。
わしは人に勧めたが分らん部分もあるのだ。
476渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/23(木) 09:04:06
 カメレスで申し訳ない。

>>408
>一人の人間を変える、或いは自己変革ていう考えが親鸞にあったか、疑問です。

 御念仏、心に入れて申して、世のなか安穏なれ、仏法弘まれと、おぼしめすべしとぞ覚え候う。
   (親鸞 消息集)
 社会人として自分たちは社会に責任を負っているという意識は、親鸞にあったでしょう。 パ
ン屋さんは、パンを製造・販売することをもって社会の人に喜んでもらう。社会の人に喜んでも
らうという祈りを込めて製造・販売する。
 うどん屋さんは、うどんを製造・販売することをもって社会の人に喜んでもらう。社会の人に
喜んでもらうという祈りを込めて製造・販売する。世のなか安穏なれ、仏法弘まれと念じて祈る。
 親鸞は、一人の社会教育者として、社会教育に従事しながら、心を込めて人々に念仏を広め、
世のなか安穏なれ、仏法弘まれと祈っていたと思います。
477渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/23(木) 09:06:23
>>409
>親鸞は現世に適応できる、適応できない、て所を問題にしてないと思うんです。

 現世に適応できない人は、やがて様々な壁にぶつかるでしょう。そんな壁の中には、突破でき
るものもあれば、できないものもある。
 突破できない壁の前では、人は、後退か、右折か、左折かしなければならない。これまでの意
思と行動は持続できなくなる。意思と行動を変えなければならない。そういう時がくる。意思と
行動が変われば、人は人格が変わる。古い自分が死に(挫折)新しい自分に生まれ変わらなけれ
ばならない(再起)。
 人はこれまで、繰り返し繰り返し、再起(生)と挫折(死)を繰り返してきた。再起(生)と
挫折(死)を繰り返しても繰り返しても、繰り返すことがある。これを迷いという。正しい知恵
を持てないからだ。
 今の自分の再起・挫折・再起・挫折は、過去無数の人々が繰り返し繰り返し行ってきた無数の
再起・挫折・再起・挫折といささかの違いもない。今後、無数の人々が繰り返し繰り返し行って
行くであろう無数の再起・挫折・再起・挫折といささかの違いもない。
 私の生死生死は、私の肉体の誕生で始まったものでなく、私の肉体の死で終了するものでもな
い。
 現世に適応できないことが、現世の問題ではなく、まさにその人の自身の愚かさの問題であれ
ば、これは同時に人類の普遍的な愚かさの問題でもある。人類の普遍的な問題を、人一人一人
から変えていこう。これが、社会教育者としての親鸞さんの中心テーマだ。

>>411
> なぜ不安を煽るのか理解に苦しむ。   主観の相違だと思います。
478渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/23(木) 09:15:43
>>476 は、>> 466と事実上、内容的に重複しました。他意はありません。
既に476が書いてあったのを忘れていただけです。

479渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/23(木) 09:16:23
あげ
480考える名無しさん:2006/03/23(木) 18:28:25
渡海 難は上の方でバカのことをかいているの。
他力は消防署の人やパン屋さんにわかってもらって、東大寺の人らには
自力云々と書いておったが、バカじゃの。
他力は全部を対象にしておるぞ。自力無効という事を考えてみい。
座禅をするのも、法華経を説くのも背後に「他力」の一押しがあるからじゃ。
渡海 難も結局、そこらのあほ坊主と同様「他力」対「自力」の二元論から
出ておらん。これらは、対立しないのじゃよ。
481考える名無しさん:2006/03/23(木) 18:32:02
真宗のバカ坊主は、まず、悪人正機を完全誤解しとる。
次に、自力・他力の事がわかっておらん。
この辺に宗門の堕落があるのじゃよ。
まだ、文学者や哲学者の解釈の方が少しはましなのはこの辺の理由からじゃ。
しかし、哲学者はいかん。心で理解した事を論理化しよる。
だから、吉本もダメなのじゃ。
渡海 難はところで、本職は何をしてるんじゃ?
482考える名無しさん:2006/03/23(木) 21:09:45
お!本物キタ?
483考える名無しさん:2006/03/23(木) 21:27:49
いや、わしも偽者じゃ。というより、ようわかってない。
かって大谷大学真宗学科で真宗学を修めたものじゃが、
さっぱり分らんので、その後は政治学で別の大学院に行って、
それ以来、研究も仕事も全部政治を専門としとる。
しかし、親鸞が気になって
このスレを覗いたじゃ。
484渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/23(木) 23:26:14
>>480
>「他力」対「自力」の二元論から出ておらん。これらは、対立しないのじゃよ。

 しかるに教について、念仏・諸善、比校対論するに、難易対、 〜 法滅利不
利対、自力他力対、 〜 あり。
                   (行の巻)

 御説拝聴いたしました。
485渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/24(金) 01:15:58
>>412
>《慈悲には、自力聖道門の慈悲と他力聖道門の慈悲との違いがある。

 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御ここ
ろざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。
 親鸞は往生極楽の道を説いている。往生極楽の道以外については語っていないということは認
識しておくべきでしょう。
 我々には、二つの大きな仕事がある。世間道と、出世間道だ。親鸞は出世間道の専門家。世間
道は専門にしていない。
 自力聖道門の慈悲と他力聖道門の慈悲との違いがあるというのは、往生極楽の道での話だ。往
生極楽の道には、自力聖道門の慈悲と他力聖道門の慈悲とがあると言っている。

 仁義礼智信を守りて王法をもって先とし、内心には深く本願他力の信心を本とすべき

 守りて先とする王法では仁義礼智信を守れ。世間道としての常識だ。国には憲法がある。法律
がある。条例がある。町内会規約がある。社員心得がある。学則がある。商人道がある。それぞ
れ、それぞれが属する世界においてルールがあり、倫理があり、道徳がある。これを守るのは、
国民として、地域住民として、社員として、学生として当然のこと。世間道においてこういうも
のが不要と言っているのではないことはまず、大前提として認識しておく必要がある。
 世間道を歩む一人として、世間道では仁義礼智信を守る。その上で、内心の深い信心において
は自力聖道門の慈悲と他力聖道門の慈悲とがあると認識していこう。
486渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/24(金) 01:16:41
>しかし思うとおりに助けとおすことは、極めてまれである。

 国民として憲法を守るのは当然。法を守るのは当然。地域住民として町内会規則を守るのは当
然。一人の人間としては仁義礼智信を守らなければならない。
 その上で、内心には深く信心を蓄えよう。信心の価値観で、一切のものを、あわれみ、いとお
しみ、養い、育てることは難しいと知ろう。

>この世に生を享けたこの身のままでは、どのように可哀相だ、気の毒だと思っても、思うよう
には救うことはできないから、この種の慈悲は不徹底である

 かつて釈迦は人々に三学を説いた。祇園精舎に入学を希望してくる者には、戒律を守ることを
約束させて入学を許した。有形の真理は知恵として示した。言葉で、絵画で、彫刻で、文字で示
したのだ。しかし、無形の真理は形にならない。無形の真理は、誰でも簡単に手が届くところに
おいた。彼は禅定という手法を示した。戒律・知恵・禅定を三学という。釈迦から三学を学んだ
人々は、世界中に散り、祇園精舎の分校を開いた。そこで、人々に戒律・知恵・禅定の三学を教
えた。さらに、忍辱・布施・精進を加えて六波羅蜜という。正見・正思惟・正語・正業・正命・
正精進・正念・正定を八正道という。釈迦はこれらを説いた。
487渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/24(金) 01:18:13
 戒律は価値観である。二千年も三千年も昔の灼熱の熱帯で妥当した価値観が、二千年も三千年
も経った現代、雪降る北方の国で妥当するとは思えない。
 古代インドが当時、どれほどの文明国であったとしても、インターネットのイの字も知らない
知恵、パソコン会計のパの字も出てこない仏典を、パン屋さんやおそば屋さんが読んで足しにな
るとは思えない。
 二十年も、三十年も、極貧の中で粗食に耐え、禅定を続けて聖者の悟りを開き、さあ、それで
はこれから自転車に乗ってラーメンの出前の練習をしましょうなどということに現実味があると
は考えられない。
 かつて、戒律・知恵・禅定を学ぶことは素晴らしいことだった。しかし、今現在、戒律・知恵
・禅定、さらに忍辱・布施あるいは精進を、おそば屋さんや花屋さんが、仏教という看板の下で
学んで、それが社会のなかでどれだけ意味をもっていくるだろうか。大いに疑問だろう。パン屋さ
んはパン屋さんの学校で、パン屋さんに必要なルールと、知識と技術を学べばいい。おそば屋さ
んはおそば屋さんの学校で、おそば屋さんに必要なルールと、知識と技術を学べばいい。

 おそば屋さんはおそばを作って売ることが大事。花屋さんは花を仕入れてきてそれを売ること
が大事。どのように可哀相だ、気の毒だと思っても、おそば屋さんや花屋さんが、三学や六波羅
蜜を教わっても、それで人々をお釈迦様のように救えるようになると思えば、幻想だろう。おそ
ば屋さんはおそばを作って売ることが大事。花屋さんは花を仕入れてきてそれを売ることが大事。
おそば屋さんはおそば屋さんになればいい。花屋さんは花屋さんになればいい。お釈迦様のよう
に生き仏となって人々を救うことは、現代のおそば屋さんや花屋さんの仕事ではないだろう。
         続く。
488考える名無しさん:2006/03/24(金) 11:26:59
おそば屋さんはおそばを作って売ることが大事。花屋さんは花を仕入れてきてそれを売ること
が大事。どのように可哀相だ、気の毒だと思っても、おそば屋さんや花屋さんが、三学や六波羅
蜜を教わっても、それで人々をお釈迦様のように救えるようになると思えば、幻想だろう。おそ
ば屋さんはおそばを作って売ることが大事。花屋さんは花を仕入れてきてそれを売ることが大事。
おそば屋さんはおそば屋さんになればいい。花屋さんは花屋さんになればいい。お釈迦様のよう
に生き仏となって人々を救うことは、現代のおそば屋さんや花屋さんの仕事ではないだろう。
              ↑

この辺は一見確かにそうなのだが、なぜ、蕎麦屋、花屋が仏から遠いのかね?
仕事を通うじて仏になっている人もいるやろ?お前は職業に仏になれるか
なれへんか決まると思っておるのか?浅はかやの。
唯仏與仏と融通念仏、人々唯識、本覚思想批判についても考えてみい。
489考える名無しさん:2006/03/24(金) 11:36:03
お前の職業は仏になれんのか?
自衛官や警察官や職人は仏になれへんのか?
蕎麦屋がそばうち三昧するのも念仏者が念仏三昧するのも同じじゃ。

法然上人も三昧発得したぞ。長い文章引用する前にもっと自分の
考えかいてみい。
490考える名無しさん:2006/03/24(金) 16:18:15
渡海 難はいろいろ書物を読んではおるが、師匠がおらんの。
また、周囲に話しする人もおらんから、勝手な解釈で
終わっているの。
491考える名無しさん:2006/03/24(金) 18:27:23
哲板住人としては大拙や幾多郎まで勉強して行って欲しい。
492考える名無しさん:2006/03/24(金) 23:48:35
そうじゃの。とかいなんは「日本的霊性」くらいは読んでおるかの。
勿論「善の研究」もな。まあ、読んだから分るとは限らんがな。
493考える名無しさん:2006/03/25(土) 09:35:14
鈴木大拙の母堂は秘事法門だったらしいという話を読みましたが
どうなんでしょう。

『神秘主義』(坂東性純さんが訳者の一人)岩波書店
『真宗入門』春秋社

は必読かもしれません。
494渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/25(土) 09:40:46
>>487
 お釈迦様のように生き仏となって人々を救うことは、現代のおそば屋さんや花屋さんの仕事ではない。
確かにその通りだろう。ただ、神戸で地震があれば、時間などに余裕がある限り、東京から身一つで駆
けつける人がいれば、それは尊い人だ。新潟で豪雪があれば、自分に余裕がある限り、ボランティアで
駆けつける九州のおそば屋さんがいれば、多くの人に感謝されるだろう。
 関東大震災では、北海道や九州から散髪屋さんや魚屋さんがボランティアで駆けつけるということは
なかった。しかし、現代には現代の知恵がある。交通機関も発達している。人々は救えない。これもで
きません。あれもできませんと言うべきではない。人が喜ぶことをしてあげれば感謝をされる。感謝され
ることをすることを、自力だ、偽善行為だなどという人がいれば、それはとても寂しい人だ。
 ただ、親鸞さんは、北海道のパン屋さんに、神戸に行きなさいとは言わない。九州のおそば屋さんに、
新潟に行きなさいとは言わない。世間道は親鸞の専門ではないからだ。

 かつて、彫刻も、建築も、絵画も、医学も、天文学も、土木も、文学も、みんな仏道だった。お釈迦様
は、王宮の学問を祇園精舎に持ち込み、そこで人々に最先端の知識を伝えた。やがて、その一つ一つ
が独立していった。土木・建築・天文学などが独立した。絵画も彫刻も、独立していった。医学も仏教か
ら独立していった。親鸞は、最後に残った倫理・道徳も独立させ、仏教はスリムになろうと提案している。
 かつては行基菩薩などは、全国で多くの潅漑用水路の築造を指揮し、人々から感謝され、菩薩という
称号で感謝された。弘法大師が日本で尊敬を受けたのは、医学に秀で、加持祈祷でサイコセラピーを
しながら、巧みに薬草を調合して人々特に高級官僚の病を治したからだ。しかし、現代では、ダムや高
速道路を建設したから菩薩、仏様になりましたと言う人はいないだろう。心臓手術をして命を救えば、名
医として有名になることはあっても、菩薩、仏様という人はいない。土木・建築技師を菩薩とか仏様とい
う人はいないが、そういうものは社会にとって無用という人もいない。医学が仏教から離れても、脳腫瘍
患者を治療する医師を、不徹底な善だ、自力だ、偽善者だと言う人はいない。
495渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/25(土) 09:41:51
 倫理道徳を仏教という範疇から外そう。親鸞はそういう。いいことをすれば仏・菩薩になるという考えを
捨てよう。しかし、倫理道徳を仏教という範疇から外すということは、倫理道徳は必要ないということでは
ない。医学を仏教から外しても、医学は人間に不必要という人はいない。これと同じ原理だ。倫理道徳
は、その時代、時代、社会、社会の中で、人々が互いの合意の中で作っていけばいい。すくなくとも、坊
さんに相談しないと何が善で何が悪か決まらないという、そんな社会は時代遅れだ。
 仏教は、往生極楽の道。この一点に絞ってその解決を図ろう。親鸞は、そう提案しているんだ。
496渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/25(土) 09:48:01
>>490-493
> は必読かもしれません。

 学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の
義といいつべし。 〜  このことわりにまよえらんひとは、いかにもいか
にも学問して、本願のむねをしるべきなり。 〜  学すといえども、聖教
の本意をこころえざる条、もっとも不便のことなり。

 下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまわり
て信じそうらえば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがた
めには、最上の法にてまします。

 皆様、まあ、お好きになさいませ。
497考える名無しさん:2006/03/25(土) 10:40:54
読んだら面白いよ、って言ってるんだけどなあ
大拙は南都じゃありませんよ。
妙好人を積極的に紹介してるじゃん
498考える名無しさん:2006/03/25(土) 13:31:19
西田幾多郎は門徒の家だね。
親友の鈴木とともに最晩年は真宗について多く語ってる。
禅宗と真宗ひいては仏教といわゆる哲学について考える上で参考になると思うよ。
499考える名無しさん:2006/03/25(土) 20:04:41
500考える名無しさん:2006/03/25(土) 23:10:03
西田は禅から入ったが確かに晩年真宗的。鈴木も。鈴木は禅を海外に広めた
が、大谷大学教授をやっているくらいだから、真宗にも理解はあったのだろう。

しかし、と海難は何が言いたいのかようわからんの。
そもそもと海難は、あまりに自分だけで悦に入っておるの。
501渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/26(日) 08:43:17
>>495
>浄土門の慈悲というのは、念仏によって速やかに浄土に生まれ、仏となって、そのうえで仏の
大慈悲心をもって、思いのままに、生を享けた一切のものにめぐみを与えることをいうのである。

 戒律は現代の価値観に合わない。知恵も古くさくなってしまった。禅定も、パン屋さんやお花
屋さんには不釣り合いだろう。それじゃ、もう現代では仏教から学ぶものは何もなくなったのか。
 そんなことはない。パン屋さんだって、警備員さんだって、消防士さんだって、人生の壁にぶ
つかることはある。これまでの生き方で、とうていやっていけなくなることもある。そういう時はど
うすればいいのか。

 釈尊先生は、祇園精舎に新入生が入ってくると、自分が「先生」であると名乗り、校則を渡し
た。生徒達は、そのとき始めて、世の中に先生という存在があることを知った。祇園精舎では、
釈尊先生を「先生」と呼んだ。かつて、お釈迦様のお弟子さん達は、問題を抱えて苦しんだとき
は、一人だけみんなから別れ、座禅しながら釈尊先生の名前を称えたものだ。
 大きな問題を抱えると、座禅しながら「先生、ああ先生」と念じたものだ。そうすると、意識は
深い禅定の中に潜り込んでいき、それまで見えなかったものが見えてくる。混乱していた意識
が整理されてくる。彼らはそんな経験を積んでいたのだろう。
 称名念仏は、巨大な伽藍の中で、厳格な作法に則り、荘厳な雰囲気の中で行わなくてもい
いんだ。居間で、台所で、あるいは公園のベンチで行ってもいい。歩きながらだってできないこ
とはない。
502渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/26(日) 08:45:47
 パン屋さん、警備員さん、消防士さんは、気楽な気持ちで行えばいい。座禅の専門家から見れ
ば、そんなのはヘンチクリンだ。禅定ではない。偽物だ。まやかしだと言われてもいいんだ。真
似ごとでいいんだ。道具はいらない。どっかりと座って、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称
えてご覧。南無とは、サンスクリット語で「ああ」という意味だ。「阿弥陀仏」とは先生という
意味だ。人生で困ったことがあれば、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、先生、ああ先生」と称え
てご覧。
 お前のそれは禅定ではないという人がいれば「いえいえ、私たちは禅定しているんじゃありま
せん。念仏を称えているだけです」と言えばいいだろう。
 現代にはお釈迦様はいなくても、実に、一切のものが我々にとって師となる。人類学者は猿を
先生にして人間の本質を猿から学ぶ。画家は花を師として絵画を学び、植物学者は花を師とし
て生物の起源を学んでいる。一休禅師は、蓮如の下を尋ね、転がっている漬け物石を「阿弥陀
仏」と名付けている。
 親でもいい。仕事でもいい。机でも、歌謡曲でも、他人にばれないように嘘っこで阿弥陀仏と
あだ名を付け、座禅しながら「阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えるといい。それまで見えなかっ
たものが、きっと見えてくるだろう。忘れていたものが思い出されてくるだろう。
 そんな念仏者をお釈迦様が見ればなんというか。かつてお釈迦様は弟子達に三学を教えた。六
波羅蜜を教えた。四諦八正道を教えたものだ。しかし、戒律も知恵も禅定もほとんどその意味を
失った時代にあって、なおも自分がかつて教えた称名念仏をする人を見れば、大変驚くだろう。
今なお称名念仏をする貴方は、三千年昔の阿難君と同じだ。目蓮君と同じだ。弥勒君と同じだ。
もう、仏陀になったのも同然の人々の仲間だ。同等だ。そう言って、きっと喜んでくれるだろう。
503渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/26(日) 08:46:53
 称名念仏する者は、仏の仲間に入る。仏になったも同然の身となる。そういって、お釈迦様
だってきっと喜んでくださる。パン屋さん、警備員さん、消防士さん。そういう人々に仏教の戒律は
いらない。仏教の知恵もいらない。形式張った禅定もいらない。気が付いたとき、気楽な気持ち
でいいから座禅して念仏してごらん。きっと素晴らしい世界が開けてくるだろう。周囲にもきっと
素晴らしい影響を与えていくことだろう。
504考える名無しさん:2006/03/26(日) 18:17:05
誰かと海難に反論しろ
505考える名無しさん:2006/03/26(日) 21:09:47
現代人にとって「念仏申さんと思う心」が起こることは
奇跡だなあ
506考える名無しさん:2006/03/27(月) 08:53:03
いやいや、現代人にも「念仏もうさんと思う心」は起こると思う。
しかし、これは理屈では起こらん。苦労した人生を送った人が
はっと、親鸞に出会って急に起こるもので、真宗の坊主などには
起こっていないであろうと思う。
真宗学者の大半も起こってないだろう。
507渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/27(月) 09:28:04
>>415
>たとえば、人間が、これこそが善と信じて為した行為、語った言葉、すなわち何らかの力
が、それが思いもよらない結果を作り上げるということは考えられるでしょう。

 それが思いもよらない結果を作り上げるということは考えられても、自らが善と信じる
ことは、人は社会的常識において、しなければならんものだ。
 思いもよらない結果を作り上げるかも知れないという恐れを抱くことは必要なことだろ
う。振りかえることは必要なことだろう。しかし、自分が善と思うことは、結果を恐れず、
勇気をもって実行することこそ最も大事なことだ。これがあらゆることの原則だ。これは
忘れてはならない。
 勇気をもって実行することを忘れれば、世間道において人は卑怯者となる。社会人とし
て、非常識な人となるだろう。
 そういう人に対し、出世間道を専門とする親鸞は、言葉で非難をすることはないと思う。
しかし、親鸞以外のあらゆる人々が、社会の常識、社会の道徳に照らして弾劾の刃を向け
るかもしれない。親鸞だけが世界の全てではない。親鸞だけから非難されなければいいと
いうことでは決してない。
 思いもよらない結果を作り上げるかも知れない。だから何もしないでいい。そんなこと
は決してない。世間道における常識、倫理、道徳を忘れれば、人は世間道において非常識
人となる。世間道では文字通り卑怯者となる。怠け者となる。無知となる。社会的に卑怯
者となり、怠け者となり、無知となるような屁理屈を、もし聖教から導いたなら、出世の
みにあらず、世間のことにおきても、恐ろしき申しごとども数限りなく候(血脈文集)と
言って、親鸞も大いに嘆くだろう。

>>420
>御念仏すればいい。

 御念仏が済めば、出世間道の問題は完全に片が付く。御念仏が終われば、その後は大い
に汗をかこう。勉学で、仕事で、奉仕で大いに汗をかこうじゃないか。大事なことだ。
508渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/27(月) 09:33:52
>>423
> で、おがむ時は南無観世音菩薩か南無阿弥陀佛って
> 唱えればいいんか?

 貴方がお好きに実践なさればよろしいのではないでしょうか。
509考える名無しさん:2006/03/27(月) 11:36:27
親鸞には彼岸的な力によって人間の行為や言葉の及ぼす意味が変わることへの洞察があると思いますね。彼がなぜしつこく他力ということを繰り返したのか、そこから汲み取るという事。親鸞に我々が向き合うならば、そこが一つの分岐点になると思う。→
510考える名無しさん:2006/03/27(月) 11:44:02
→“義を捨てなさい。はからいを捨てなさい。清浄を装うのをお止めなさい。身・口・意の乱れを取り繕うのをお止めなさい”“他力においては、義の捨てられていることが義であると、法然聖人は仰せになった。義とははからうという意味です。”と『末燈抄』にあります。→
511考える名無しさん:2006/03/27(月) 11:48:59
→なぜ人間の善や悪は浄土に生まれることと関係ないと断言できるかの根底がその他力信仰である。“自分が心正しいものだから、浄土に生まれることが出来るだろうと、思ってはいけない。自力のはからいでは真実の浄土に生まれることはできない。”と親鸞は語る。→
512考える名無しさん:2006/03/27(月) 11:56:07
→何より大事な事は、他力の本願を信ずる事だ、それより他にはない。と到る所で親鸞は書いていますね。これを理解するか否かが親鸞を理解できているか否かの要だと言える、という事でしょう。“義を、はからいを捨てることが義である”と。親鸞は語る。しかも→
513考える名無しさん:2006/03/27(月) 12:00:51
→そこに自然(じねん)という概念がまた深く浸透している。つまり、浄土に生まれるか否かは人間の意志や知の及ぶ範囲ではない、という事でしょう。ここから現世のマナーや道徳を導くことは不可能ですよ。また親鸞はその読まれ方は自分と関係ないと言うでしょう。→
514考える名無しさん:2006/03/27(月) 12:08:03
→渡海さんの論理はその辺をすべて、現世の正しい行いや道徳に結び付ける。それは何の教えかは知りませんが、少なくとも親鸞の教えではないでしょう。仏教と現世の善悪を結び付けるのは、創価学会ならまだ解りますけどね。親鸞の教えとは思えません。
515考える名無しさん:2006/03/27(月) 17:39:48
とかいなんについての反論分り易く書いてくれ。
とかいなんがオナニーしよるやろ。
516考える名無しさん:2006/03/27(月) 21:31:59
>>513
同感です
517渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/28(火) 00:40:12
>>509
>親鸞には彼岸的な力によって        <彼岸的な力!? 意味不明。>

>彼がなぜしつこく他力ということを繰り返したのか

これらの経文に準ずるに、千五百年の後、戒・定・慧あることなきなり(化身土)。
 末法の世には、三学が成立しない。親鸞は、三学を基盤とする釈迦世界の外に、
新たな仏教を模索しているからだ。

>親鸞に我々が向き合うならば、そこが一つの分岐点になると思う。
    まずしっかりと親鸞に向き合ってみなさいな。

>>510
>と、法然聖人は仰せになった。   <どこで仰せになっていますか?。>

>義とははからうという意味です。”と『末燈抄』にあります
   そんなことはどこにも書いてない。

>>512
>“義を、はからいを捨てることが義である”と。親鸞は語る。
    夢から早く覚めましょう。

 ぎ【義】 (広辞苑)
 道理。条理。物事の理にかなったこと。人間の行うべきすじみち。「仁義礼智信・義務
・正義」
518渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/28(火) 00:41:46
>>513
>ここから現世のマナーや道徳を導くことは不可能ですよ。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚す
るのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持
しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に
除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、
全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有するこ
とを確認する。  憲法

 第1条 私権は、公共の福祉に適合しなければならない。
2 権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。
3 権利の濫用は、これを許さない。
         民法

 現世のマナーや道徳は、社会のルール・常識から導くんですよ。浄土に生まれるか否か
から導くんじゃありません。

 社会のルールに反する人はルール違反、社会の常識に反する人は非常識と言います。

>>514
>渡海さんの論理はその辺をすべて、現世の正しい行いや道徳に結び付ける。

 ことに外には王法を以て表とし、内心には他力の信心を深く蓄えて、世間の仁義をもっ
て本とすべし(蓮如)。

 出世のみにあらず、世間のことにおきても、恐ろしき申しごとども数限りなく候なり
(親鸞)。

 世間道を忘れ、王法を忘れれば、人間として最底だ。聖教を読み間違いしなさんなよ。
519渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/28(火) 00:49:36
>>427
>そのあとの展開はどうなるんだろうと思ってしまう。
 後生の問題など、さっさと片づけたなら、安心して世間道で大いに汗をかこうということです。

>>428
>極楽浄土は厭離穢土とセットでしょ現世に執着のある現代人にはちょっと微妙だな

 宗教など必要のない人はいくらでいる。そういう人は宗教などに目を向けず、自分の本当の学
業・仕事、スポーツなどで大いに汗をかくといいだろう。

>>440
>僕はよく真宗の学者が「親鸞聖人に聴け」というのが嫌いです。

 「難しいことなんか俺に聞くな。おとといおいで。アハハのハ」と言っているんでしょう。自
分の馬鹿を棚に上げ、あなたを小馬鹿にしていると思えば半分は当たっている。

>>441
>吉本隆明と梅原猛の親鸞をどう思うか?    他愛のない商売のタネ

>>448
>五木寛之はどうやろな?彼はかなり信仰をもって解釈しとる。

 五木さんに手紙書いて聞いてみるといい。
 念仏称えていますか?。どのくらい称えていますか?。念仏称えだして、何か変わりました
か?。変わりませんでしたか?。

 返事がないのも返事の内。「念仏称えていますか?」という質問に対する向こうからの応答の
中身で本物か借りものか分かるだろう。
 信は必ず行を具す。行がなければ、信がない。
 称えていても、称える前と称えだした後で変化がないなら、化土の中。
520考える名無しさん:2006/03/28(火) 06:25:12
渡海難さん他人の説ばかり、孫引きしなすな自己の一言真実述べてみい。  
521渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/28(火) 20:01:42
>>470
> 渡海難さんに親鸞さん聞くほど、落ちぶれていません、
結局何が言いたいの?一言で言って。

    落ちぶれてから聞きにきなさい。そうしたら教えてやろう。

>>514
>それは何の教えかは知りません

    常識のない人だ。どこのノータリンなんだ?。
    自由主義・民主主義・人道主義・博愛主義・自己責任主義

>創価学会ならまだ解りますけどね。
    創価学会は、少なくとも名無しの514よりは常識的でまともということだな。

>>520
>自己の一言真実述べてみい。 

 珍しき法をも広めず、如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり。
 
 小人閑居して不善をなす。ノータリン教にかぶれてる暇があれば、豆腐の角に頭
ぶつけて昼寝でもしてろ。

                  2,3日多忙です。
522考える名無しさん:2006/03/28(火) 20:50:27
そうです。「義」とは渡海さんの書いている通りです。そうして、「義の捨てられていることが義である。」と親鸞は語っています。春秋社親鸞全集第四巻330頁の手紙で親鸞はそう語っています。確かめてみてください。さらに同書の323頁を開いてください。→
523考える名無しさん:2006/03/28(火) 20:55:22
→「さて他力は如来のお誓いですから、他力においては、義の捨てられていることが義であると、法然聖人は仰せになったことであります。義とははからうという意味をあらわす言葉です。」とやはり親鸞は手紙の中で確かに語っています。違いますか?確かめて下さい。→
524考える名無しさん:2006/03/28(火) 21:03:34
→翻って、渡海さんの話を読んでいると、まさにその“義”ばかりです。それは親鸞の到達した境地とは違うでしょうと僕は聴いているわけです。「自力のはからいでは真実の浄土に生まれることは出来ないのです」と親鸞は言う。この意味を考えなきゃならないと思うのです。
525考える名無しさん:2006/03/28(火) 21:15:02
教行信証は親鸞さんが自分の為に書いたんやから、意味を考えても答えあらへんよ。
526考える名無しさん:2006/03/31(金) 21:27:07
法然上人の三昧発得とは、実際に神仏の姿と御声見たという喜びですよ。比叡山降りたあと善導の霊に会ったと言われてますね。
527考える名無しさん:2006/03/31(金) 21:33:09
すいません。
岩波文庫の「出家とその弟子」を読んで、感動してしまいました。

他に、親鸞関係でオススメの本はありますか?
528考える名無しさん:2006/03/31(金) 21:36:17
どの場面の具体的ですか?
529考える名無しさん:2006/03/31(金) 21:42:02
>>527
高史明さんのものがおすすめです
530考える名無しさん:2006/03/31(金) 21:57:14
>>529
ありがとうございます。今度読んでみます。
531:2006/03/31(金) 23:25:23
岩波文庫の教行信証で、充分理解出来ましたので教行信証入門は読んでないんです、ごめんさい。
532考える名無しさん:2006/03/31(金) 23:27:16
教行信証りかいしますた。
533考える名無しさん:2006/03/32(土) 19:10:27
>>531
文庫本で教行信証を充分理解されたとは・・・・・
534考える名無しさん:2006/03/32(土) 19:44:30
100年掛かっても理解できないという大先生がたくさんいるのに・・・・・
親鸞さんより頭が良いのかな?
535渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 00:00:46
>>522
>「義の捨てられていることが義である。」と親鸞は語っています。
   ??。 ノーコメントとしておく。

>春秋社親鸞全集第四巻330頁   持っていない。

>>523
>他力においては、義の捨てられていることが義であると、法然聖人は仰せになったことであります。
法然聖人は仰せになった? 知らんな。

>義とははからうという意味をあらわす言葉です。」とやはり親鸞は手紙の中で確かに語っています。
違いますか?
        ノーコメント
536渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 00:01:21
>>524
>まさにその“義”ばかりです。      当たり前だろう。

 於無宿善機、無左右不可許之者也 無宿善の者には左右なく許すべからず。(歎異抄)
 薬あればとて、毒を好むべからず 
 極楽を願い、念仏申す程のことになりなば、もと僻ごうだる心も、思い直してこそあるべきに、
その徴もなからん人々に、悪苦しからずということ、ゆめゆめあるべからず候。煩悩に狂わされ
て、おもわざるほかに、すまじき事をも振る舞い、言うまじき事をも言い、思うまじき事をも、
思うにてこそあれ。さわらぬことなればとて、人の為にも、腹黒く、すまじき事をもし、言うま
じき事をもいわば、煩悩に狂わされたる義にはあらで、わざと、すまじきことをもせば、かえす
がえす、あるまじきことなり。

 親鸞仏教とは、パン屋さん、魚屋さん、警備員さんなどに向かって説かれているんだけど、常
識のない子供に向かって説かれているんじゃないんだ。大人に説いているんだよ。現代では、小
学校の常識もないないような子供に説いている教えじゃない。小中学校つまり義務教育も録に勉
強してない子供同然の大人に説いている教えでもないんだ。

 人間が、これこそが善と信じて為した行為、語った言葉、すなわち何らかの力が、それが思い
もよらない結果を作り上げるということは考えられるからと言って、人間が見通すことは極めて
困難だと云っても、有限性に付き纏われるといっても、日常は念仏だけしていればいいというこ
とじゃない。日常に働きかけないでいいということじゃない。
 パン屋さんはパンをしっかり作らないといけない。魚屋さんはしっかりと魚を仕入れてきて、
地域の人々に買って貰って喜んで貰う。これはとっても大事なことであり、それを疎かにしては
いけないんだ。親鸞仏教は戒定恵を仏教から外した。その代わり、社会の既存の常識を百%信頼
し、それを大前提にして構築してあるんだ。そんなことは、親鸞の仏教以前の当たり前のことな
んだ。
537渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 00:02:14
 ことにほかには王法をもっておもてとし、内心には他力の信心をふかくたくわえて、世間の仁
義をもって本とすべし。

 蓮如の主張は、本願寺教団という教団単位のルールではない。本願寺教団という枠を越え、親
鸞仏教では基本的な大前提なんだ。念仏者である前に、常識人であれ。念仏者である前に、人間
であれ。念仏は一切の人に向けて開かれているけど、親鸞の教えは常識人に向けて説いている。
親鸞は、自分の考えを非常識な人間に理解して貰おうなどとは思っていない。
 小中学生のルールも知らない人には、念仏の教えの前に、表となる王法、根本となる仁義を真
っ先に教えなくちゃいかん。それでなければ親鸞仏教は始まらん。当たり前のことだろう。常識
のない人には、おもてとなる王法を教え、根本となる仁義を先に教え、それが終わってから裏の
仏道を教え、深い信心を明らかにするんだ。

>>534
>100年掛かっても理解できないという大先生がたくさんいるのに・・・・・

 大先生を辞めなさい。もっとほかにいい仕事はいくらでもある。
538考える名無しさん:2006/04/02(日) 00:55:48
“何より先に常識人になりなさい。世の中のルールを知りなさい。信仰より何よりそれが大事です”という話は渡海難さんの説としては良いけれども親鸞とは関係ないです。彼の言葉を辿ればそんな話が出てくる余地はない。渡海教団の教えとしてなら問題ありません。→
539考える名無しさん:2006/04/02(日) 01:06:03
→しかしそんな説を親鸞と関連づけるのは辞めてほしい。何より僕の引用した親鸞全集所収の言葉にシラを切る、というのはどういう姿勢ですか。手元になくとも図書館で読める筈です。親鸞の教義を語る人間の姿勢として相応しくないでしょう。貴方の支持者もそれでは→
540考える名無しさん:2006/04/02(日) 01:10:10
→納得しませんよ。ちなみに僕は社会のルールを日常無視する人間でもないし、無視してよいとも思わない。ただ、それを親鸞の教義に結び付けるのはおかしいと言っているだけです。或いは別の宗教になると言っているだけです。貴兄の説明をそう受け取ります。
541渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 10:56:49
>>538-540
> 何より先に常識人になりなさい。世の中のルールを知りなさい。信仰より何よりそれが大事
>です”という話は渡海難さんの説としては良いけれども親鸞とは関係ないです。彼の言葉を辿
>ればそんな話が出てくる余地はない。渡海教団の教えとしてなら問題ありません。

 これは誰の手紙だと思いますか?。12月24日付けの親鸞の手紙を紹介します。説明上、一
部、蓮如の手紙を編集して加えました。浄土真宗の本質を考える上で、重要な思想です。
 人には、二つの重要な課題がある、一つは世間道、もう一つは出世間道です。世間道は王法の
世界です。出世間道は仏法の世界です。王法を先とし、仏法は内心に蓄えよというのは、蓮如の
勝手な考えではない。親鸞の考えの大前提、出発点です。

 なにごとよりは、聖教の教えをも知らず、また、浄土宗の真の底をも知らずして、不可思議の
放逸無慚のものどもの中に、悪は思う様に振る舞うべしと、仰せられ候なるこそ、返す返す、あ
るべくも候わず。
 どんな場合でもそうですが、聖教の教えをも知らず、浄土宗の真の底をも知らず、自分勝手な
ことをしている人の中で、悪は思う様に自分勝手にやっていいんだというそんな考えは決してあ
りません。どんな場合でも、世の中には常識というものがあるのです。

 北の郡にありし、善証坊と言いし者に、ついに、合い睦るることなくて止みにしをば見ざりけ
るにや。
 私が、以前、関東に住んでいたとき、あの善証坊という人とは、私は決して親しくしなかった
ことをご存知なかったでしょうか。
542渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 10:57:39
 凡夫なればとて、何事も思う様ならば、盗みをもし、人をも殺しなんどすべきかは。
 凡夫であれば、何事も思い通りにしていいというのなら、泥棒も、殺人もしていいというので
しょうか。

 もと、盗み心あらん者も、極楽を願い、念仏申す程のことになりなば、元僻ごうだる心も、思
い直してこそあるべきに、その徴もなからん人々に、悪苦しからずということ、ゆめゆめあるべ
からず候。
 元々窃盗癖のあったような人でも、極楽を願い、念仏申すようになれば、以前は歪んでいた心
も、当然改心していくであろうと思いますが、その様子もないような人々に、悪いことをしても
いいんですよというような非常識なことは、決して言ってはいけないことです。

 煩悩に狂わされて、思わざる外に、すまじき事をも振る舞い、いうまじきことをも言い、思う
まじきことをも、思うにてこそあれ。
 煩悩に狂えば、思ってもなかたったこと、してはならないことをしてしまい、言ってはならな
いないことも言い、思ってもならないことを思うこともあるでしょう。人間には、してはならな
いこと、思ってはならないこと、言ってはならない常識というものがある。浄土の教えも、当然
そういうことを前提にして成立しています。
 「出世のみにあらず、世間の事におきても、恐ろしき申しごとども数限りなく候」ということ
がある。世間の事は、軽んじてはいけない。親鸞の教えは、「世間道を転じて、出世上道に入る
ものなり。世間道はすなわちこれ凡夫所行の道と名づく。転じて休息と名づく。凡夫道は究竟し
て涅槃に至ることあたわず、常に生死に往来す」。だからこそ、親鸞の教えは出世間道を明らか
にしている。しかしそのことは、世間道を軽んじていいということではない。常識を外れていい
ということではない。
543渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 10:58:16
 殊に外には王法をもって表とし、内心には他力の信心を深く蓄えて、世間の仁義をもって本と
すべし。これすなわち当流に定むるところの掟の趣なりと心得べきものなり。
 その外仁義をもって本とすべし。
 しかも他力仏恩の称名を嗜み、その上にはなお王法を先とし、仁義を本とすべし。
 「王法は額に当てよ。仏法は内心に深く蓄えよ」との仰せに候う。仁義と云う事も、端々ある
べきことなるよしに候う。
 また外には仁義礼智信を守りて王法をもって先とし、内心には深く本願他力の信心を本とすべ
し。
 まず王法をもって本とし、仁義を先として、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心に深く
蓄えて、外相に法流の姿を他宗他家に見えぬように振る舞うべし。

 さわらぬことなればとて、人のためにも、腹黒く、すまじき事をもし、言うまじきことをも言
わば、煩悩に狂わされたる義にはあらで、わざと、すまじきことをもせば、かえすがえす、ある
まじきことなり。
 障害になるようなことではないからと言って、人に対し邪悪で、してはならないこと、言って
はならないことを言えば、煩悩に翻弄されているということではないでしょうか。煩悩に翻弄さ
れてはいけない。しっかりと倫理、道徳を守ろう。敢えてしてはならないことをすれば、決して
言い訳できるようなことではないでしょう。世の中には常識というものがある。

 鹿島・行方の人々の、悪しからんことをば、言いもとどめ、その辺の人々の、ことに僻ごうだ
る事をば、制し給わばこそ、この辺より出きたる徴にては候わめ。
 鹿島・行方の人々が、言ってはならないことを制し、特に歪んだことを抑えていらっしゃるの
は、そのへんのお考えによるものでありましょう。
544考える名無しさん:2006/04/02(日) 11:03:09
どうどうめぐりだなこりゃ

引用文はかぎ『』で括って、出典を明記してもらえると
たすかるのだが
545渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 11:10:20
 ただ、したからん事をばせよ、振る舞いなんども、心に任せよと言えると候らん、あさましき
ことに候。
 ただ、したいことをしていい。やりたいことも、自分勝手にやっていいと言えば、これば愚か
なことでありましょう。煩悩に翻弄されてはいけない。親鸞仏教以前の問題として常識だ。

 この世の悪きを捨て、悪しきことをせざらんこそ、世を厭い、念仏申すことにては候に、年頃、
念仏をする人なんどの、人のために悪しき事をもし、また、言いもせんは、世を厭う徴もなし。
 この世で、悪いことは止めよう。悪いことはしないということこそ、厭離穢土をもって念仏す
るということです。念仏していても、他人のために悪いことをし、悪いことを言っていれば、厭
離穢土の意味がありません。親鸞の教えは、世間道の常識を否定するものではない。

 されば、善導の御教えには、悪を好まん人をば、敬いて、遠ざかれとこそ、至誠心の中には、
教えおかせおわしまして候え。
 だからこそ、善導大師の教えに、悪いことをしたがる人からは、尊敬の念を以て離れていきな
さいということを、至誠心を説く中で教えてくれています。

 いつかは、我が心の悪きに任せて振る舞えとは候。
 いったいどこに、自分の悪い心の自由気ままに行動しろという教えがあるというのでしょうか。

 大方は、経釈の文をも知らず、如来の御事をも知らぬ身にて、ゆめゆめその沙汰あるべくも候
らわず。
 推測するに、ろくに仏典の文章も知らず、仏のこともろくに知らないからでありましょう。決
してそのようなことがあってはいけません。
546考える名無しさん:2006/04/02(日) 11:10:29
それにしても「常識」はコロコロ変わりますからね。

野山で生き物を狩ったりする人は往生できないのが当時の常識でした
547渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 11:11:24
 また、往生は、何事も何事も、凡夫の計らいならず、如来の御ちかいに、任せまいらせたれ
ばこそ、他力にては候え。

 ようように計らいおうて候らん、おかしく候。あなかしこ、あなかしこ。
 自分勝手な考えを持っているのでありましょう。おかしな話であります。穴賢。穴賢。

>>539
>しかしそんな説を親鸞と関連づけるのは辞めてほしい。
 親鸞の消息集を無視するのは勝手だが、僕は親鸞の消息集を大事にするんだ。

>何より僕の引用した親鸞全集所収の言葉にシラを切る、というのはどういう姿勢ですか。

 シラを切るのではない。同じ言葉を使っても、定義が違えば意味が変わる。同床異夢の議論を
したくない。貴方が見ている夢の内容を吟味し、確信が得られなければ、僕は安易に同調はでき
ない。それまではノーコメント。当たり前の話だろう。

>貴方の支持者もそれでは納得しませんよ
 大きなお世話。親鸞の消息集を無視するひとに納得して貰おうとは思っていない。
 孤立無援、絶対的な一人説と言われても構わない。
548考える名無しさん:2006/04/02(日) 11:11:37
それから渡海さんの引用される化身土巻の一節について。渡海さんが引用された箇所は梵天が仏に龍や鬼の配置について語る所で、面白い箇所ですね。他、世の悪を戒めている箇所があります。しかしよくよくその出典を辿ってみれば、→
549考える名無しさん:2006/04/02(日) 11:11:51
あさましきことだ を 親鸞仏教以前の問題として常識だ 

なとど訳すのは誠意がありませんね!渡海さん。


それこそ親鸞仏教以前の常識として。
550渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 11:12:16
>>540
>ちなみに僕は社会のルールを日常無視する人間でもない

 まあ、そうであって欲しい。貴方のことを、本当は社会のルールを無視する人だと思っている
ということでもない。ものごとの考え方のすじみちを言っている。
 「王法は額に当てよ。仏法は内心に深く蓄えよ」というのは、軽い言葉ではない。「慈悲には、
自力聖道門の慈悲と他力聖道門の慈悲との違いがある」という歎異抄のこの言葉も、王法を額に
当て、仏法を内心に深く蓄えて読んでいく必要がある。それが考え方のすじみちだ。
 親鸞は出世間道の専門家。慈悲には、自力聖道門の慈悲と他力聖道門の慈悲との違いがあると
いうのは、往生極楽の道の話。額に当てた王法の話をしているのではないということはしっかり
認識しておかないと、いつのまにか王法が額から剥がれる。善証坊と同じ過ちを冒すことになる。

>親鸞の教義に結び付けるのはおかしいと言っているだけです。

 貴方の方こそ、世間道の話と出世間道の話をごちゃ混ぜにしてないだろかと心配になりました。
世間道の話と出世間道の話とをごちゃまぜになってなければ、僕は問題としない。

 それが社会運動や政治運動でも、或いはもっと身近な教育を取ってみてもいいです。人間の及
ぼす思考や行為が反転する瞬間がある。屈折を生じる瞬間がある。しかもそれを生じさせるプリ
ズムを人間が見通すことは極めて困難だと云える。また、我が身可愛さを簡単に捨て去る事も難
しい。つまり、人間の思考や判断や行為やがたえず何らかの有限性に付き纏われるという点に親
鸞は行き着いていた、と思われます。
551渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 11:13:59
 貴方が社会のルールを日常無視する人間でなければ、結構な話だ。僕には言うこともない。
 「人間の及ぼす思考や行為が反転する瞬間がある。屈折を生じる瞬間がある」。こんなことは
親鸞さんに言われて始めて驚くような話ではない。当たり前の話だ。常識だ。
 自分は、社会のルールを尊重し、日常性を大事するというのであれば、立派なことだ。人には、
社会運動や政治運動で大いに頑張らなければならんこともある。人間の思考や判断や行為では、
たえず何らかの有限性に付き纏われることがある。しかし、その中で、大いに努力し、仁義礼智
信を立て、それを額に当てて生きていかなければならん。それが人間だ。倫理だ。道徳だ。倫理
や道徳は親鸞仏教ではないというのは自由だが、親鸞仏教の中ではなく、親鸞仏教の外にあって
親鸞仏教の大前提を形成している大事な考えだというのであれば、僕は貴方と価値観を共有する。
 世の中は、親鸞だけでは済まない。民主主義・自由主義・自己責任主義・博愛主義・人道主義
等々、みんな大事な考えであり、自分たちの生き方の鏡とするものであるということはわすれて
てはいかんだろう。
552考える名無しさん:2006/04/02(日) 11:14:11
まともな結論に落ち着きましたね >>550

よかった。
553考える名無しさん:2006/04/02(日) 11:20:37
→そこで親鸞が引用している文の出典は『起信論』等大乗仏教の出典であり、親鸞がそれらの箇所と自分の思想をどう関連づけていたかは問題で、引用すなわち親鸞の立場、とみなすのはどうかと僕は思います。信仰を仏によるはからい(自然)、とみなす後の言葉→
554渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 11:20:38
>>544
>引用文はかぎ『』で括って、出典を明記してもらえると

 親鸞の手紙は、御消息集(広本)〔五〕 大谷派の本を使っています。本派ではどのような分類かは分かりません。
 蓮如の手紙はお文です。仁義というのは随所で出てくる。聞き書きにも出てくる。蓮如の思想の柱の一つでしょう。

555考える名無しさん:2006/04/02(日) 11:34:20
→からすれば、あまりに人間の主体性重視に傾いている、と見えるからです。また、これらの立場を徹底させれば、浄土信仰的な帰衣とは別の思想に入っていった方がよいことになる。そこに親鸞の根幹をみるのは僕は戒めたいと思います。
556考える名無しさん:2006/04/02(日) 16:41:57
親鸞と社会との関係についていまいち解らない所があります。他者の救済と親鸞の関係です。そこで初めて往相-還相が出てくるのではないか。そう考えたいた思います。浄土へ生まれ変わること、そうして現世に還ってくること、それなしに他者救済は貫き得ない→
557考える名無しさん:2006/04/02(日) 16:45:49
→とするのが親鸞の思想でしょう。これは非常に彼らしい解決の仕方だと受けとめています。そこに僕の提起した有限性や、善なる意志・行為から悪への反転の問題は、まるごと包括されている。その意味で重要な概念だと思います。
558考える名無しさん:2006/04/02(日) 19:44:16
本質的には浄土教における利他行は後づけだと思う。
559渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/03(月) 00:46:23
>>555
> →からすれば、あまりに人間の主体性重視に傾いている、と見えるからです。

 余りにも馬鹿馬鹿しい議論なので、レスするのも憚れる。書くべきか書かざる
べきか(苦笑)。
 親は子に、教師は子供に責任がある。一人一人が真剣になって主体的に生
きようとしなかったら、社会はどうなるんですか。自分の人生は誰も代わってく
れないんだ。
 自由の裏には責任がある。自由主義も民主主義も博愛主義も人道主義も、
全て一人一人が社会に対して責任を負って始めて機能する。社会の一人一人
が、きちんと自らの義務と責任を果たすことで、果たそうと努力することで、始
めて社会は機能し、その中の一人一人は自由に生きていけるんだ。個人個人
一人一人の主体性こそ社会活動の原点でしょ。主体的に生きなければならな
いのは当たり前の話なんじゃないか?。生きた屍の集合体にどんな未来があ
るんだい?。

>浄土信仰的な帰衣とは別の思想に入っていった方がよいことになる。そこに
親鸞の根幹をみるのは僕は戒めたいと思います。

 あなたの親鸞は、主体的に生きてはいけないと教えているのか?。自由主義
も民主主義も博愛主義も人道主義もいりませんと教えているのか?。
 まさに、外道のカルトだね。

 数日間カキコ不能。
560考える名無しさん:2006/04/03(月) 01:45:33
人間の主体性について、或いは自分が「主体的に生きている」とみなしている思考や判断・行為について、そうではなく、何らかの因縁によるに過ぎないとみなす思想が親鸞にはあります。『歎異抄』を読めば一目瞭然な話ですよ。→
561考える名無しさん:2006/04/03(月) 01:51:29
→《「…一人でも殺せるような過去世からの因縁がないから殺さないのだ。己の心が善いから殺さないのではない。さらにまた、殺すまいと思っても100人或いは1000人殺すこともあるだろう」》唯円はそのような親鸞の思想へ見事な注釈を施しています。→
562考える名無しさん:2006/04/03(月) 01:56:25
→《わたしどもが、己の心が善ければ往生の力添えになるとし、己の心が悪いのは往生の妨げになると考えて、不思議としての阿弥陀の誓願によって往生せしめられることを知らずにいるのを言われたのである。》と。→
563考える名無しさん:2006/04/03(月) 02:01:40
→また一方、念仏についても同様に、《阿弥陀仏のお誓いはもともと、人がはからいを離れて南無阿弥陀仏と仏をたのみ奉るとき、これを迎え入れようとおはからいになったのですから、人が自らのはからいを捨てて、善いとも悪いともはからわないことを自然(じねん)→
564考える名無しさん:2006/04/03(月) 02:06:51
→というのである》と『末燈抄』の書簡に親鸞は遺しています。つまり親鸞に於いては人間が自分で「主体的」と思い込んでいることへの徹底的な脱色が、現代思想風にいえば脱-構築が為されている。むしろ彼が書いた『教行信証』の世界はその標的になったのではないか→
565考える名無しさん:2006/04/03(月) 02:15:29
→と僕にはどうしても思えます。明らかに晩年の親鸞はアレを脱色したがっていた。アレでは駄目だと考え、弟子等にはその部分を強調して口頭で、または書簡で伝えていた。人間の主観的な主体性について、彼は実はより絶対的な意志による受動態だとみなしたがった。
566考える名無しさん:2006/04/03(月) 07:44:27
例えばマルティン・ハイデガーは人間の企投について、それは実は被投性によって支配される、或いは被投性と同義であり、よって企投とは実際には被投的企投であると述べています。その場合の被投の主体とは、〈時〉ということになる。人間はそれにより企投を→
567考える名無しさん:2006/04/03(月) 07:53:28
→強いられる存在である。そこでも主体性の脱色は為されています。そもそも人間の発語さえ、現存在の存在が言葉を集めることにより為されてゆくものだ。そういった、主体への脱-構築に親鸞と似た発想が認められる。親鸞の思想が現代に生きる可能性がそこにあります。
568考える名無しさん:2006/04/04(火) 20:36:59
 渡海難氏と私の対話は噛み合わぬまま現在に至っている。氏による親鸞講釈は私には疑問(?)だらけである。
 だが一方、氏が念仏により光を授かったという体験は素晴らしいと感じている。この体験があればあとの講釈など無用じゃないかとさえ思える。→
569考える名無しさん:2006/04/04(火) 20:44:23
→氏は念仏から光を授かった。それは何にも勝る掛け替えのない体験である。なぜそれだけでは駄目なのだろう。なぜ講釈が必要なのだろう。氏の解釈は、氏にとって念仏が生きる支えである、そのことを裏付けるためのものだ。そこには氏の固有な念仏体験が貼りついている。→
570考える名無しさん:2006/04/04(火) 20:48:33
→氏がもしも、“私にとって念仏とは、親鸞とはかくかくのものだ。それは動かしようがない。私にはそれで十分だ。仮に他人が、その解釈は違うと言ってきた所で、そうか、それがどうした、と返すだけだ”と言うならば、私には氏に返す言葉はないだろう。
571渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/05(水) 00:27:49
>>560
>とみなす思想が親鸞にはあります。『歎異抄』を読めば一目瞭然な話ですよ。
     それがどうしたの?。何か関係があるの?

>唯円はそのような親鸞の思想へ見事な注釈を施しています。
     それがどうしたの?。 何か関係があるの?

>わたしどもが、 〜 絶対的な意志による受動態だとみなしたがった。

 ちんぷんかんぷん。意味不明。 呪文の羅列なら、新聞の広告の裏にでも書きな
さい。文章は日本語で書いて下さい。

>例えばマルティン・ハイデガーは 〜 可能性がそこにあります。
  ちんぷんかんぷん。意味不明。 文章は人間の言葉で、日本語で書いてほしい。
572渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/05(水) 00:28:31
>>568
>氏による親鸞講釈は私には疑問(?)だらけである。    <なるほど>

>体験は素晴らしいと感じている。           <貴方の勝手。>

>体験があればあとの講釈など無用じゃないかとさえ思える。

 どう思うおうが、それは貴方の勝手だと思うが、私にとってはいささか有り難くない。
 体験の評価には検証が必要。僕の念仏体験は、検証が終わっていない。
 検証できるときがくるのかどうかも分からない。今では検証などどうでもよくなった。した
いとも思わなくなった。
573渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/05(水) 00:30:22
>>569
>氏は念仏から光を授かった。

 他人に評価的な解説をされたくない。一時の気の迷いだったかもしれない。妄想かも知れ
ない。僕には何一つ立証の手段がない。

>それは何にも勝る掛け替えのない体験である。
   大きなお世話。他人に評価的な解説をされたくない。他人には関係のない話だ。

>なぜ講釈が必要なのだろう。
 前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え(化身土)、

 念仏が素晴らしいと先に分かった者が、そこに続こうとする者を導こうとすることは当たり前
のことだ。続こうとする者は、念仏が素晴らしいと先に分かった者を訪ねるべきだ。それが仏
教だ。

>氏の解釈は、氏にとって念仏が生きる支えである、
   痛くもない腹を他人に探られるのは、気持ちのいいものではない。

>そのことを裏付けるためのものだ。そこには氏の固有な念仏体験が貼りついている。
   大きなお世話。

>私には氏に返す言葉はないだろう。
   後に生まれん者は前を訪え。願わくは休止せざらしめんと欲す。
574考える名無しさん:2006/04/05(水) 02:53:01
これまでに書かれた私への回答をもとに渡海難氏の立脚点を総括するとこういうことになる。
1.自由と責任の主体たる人間の確立こそ何にも増して優先させるべき事柄である。そうしないと日本は取り返しのつかないことになる。→
575考える名無しさん:2006/04/05(水) 03:05:47
→2.親鸞は悪人正機説を唱えるが、悪をやってよいとは言っていない。正しい道を歩きなさい、としか言っていない。これは自由と責任の主体たれ、世の中に貢献しなさい、という自分の考えとも抵触しない。→
576考える名無しさん:2006/04/05(水) 03:11:33
→3.親鸞の書簡や弟子の聞き書きには自分の理解不能な文があるが、それらは無視することにした。別に問題はない。
4.人生の壁にぶつかったら念仏を称えなさい。答えが見つからずとも最悪の道は避けられるだろう。ああ、先生。と称えなさい。
577考える名無しさん:2006/04/05(水) 03:15:41
5.無知が栄えたためしはない。
578渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/05(水) 09:02:55
>>574
>1.自由と責任の主体たる人間の確立こそ何にも増して優先させるべき事柄である。そ
うしないと日本は取り返しのつかないことになる。

 松下幸之助さんも平山郁夫さんも小泉純一郎さん愚禿親鸞さんも、一丁目のおそば屋さ
んも信号の前の花屋さんも駅前の工事現場の警備員さんもみんな主体的に生きようとし、
それぞれそれぞれ可能な範囲で必死になって主体的に生きてきている。
 日本が、まだまだ取り返しがつくなかにあるのは、日本人一人一人が、そのように主体
的に生きようと努力してきたお陰だ。

>>575
>親鸞は悪人正機説を唱えるが、悪をやってよいとは言っていない。
 親鸞は悪人正機説を唱えるが、悪人正機説では悪をやってよいと言っている。
 これは自由と責任の主体たれ、世の中に貢献しなさい、という自分の考えとも抵触しない。

>>576
>親鸞の書簡や弟子の聞き書きには自分の理解不能な文がある

 親鸞の書簡や弟子の聞き書きには自分の理解不能な文はない。
 書簡や弟子の聞き書きは、ほとんど透明に見えるという感触がある。

>>577
>無知が栄えたためしはない。
 主体的に生きなくていいなどという無知が栄えたためしはない。
579考える名無しさん:2006/04/05(水) 12:45:30
悪人正機説の根幹には、他力信仰があり、それは絶対性をもつとされる。なぜ悪人の方が善人よりも浄土に近いと言えるかというと、善人には自力を侍み、善行によって浄土へ往こうという“はからい”がある。それらは他力信仰にもとる。→
580考える名無しさん:2006/04/05(水) 12:49:14
→悪人には自力で浄土へ往こうという“はからい”はない。だから悪人の方が善人より浄土に近い。世の中に貢献する意志は善なる意志である。これは悪人正機説に抵触するとしか思えない。
581考える名無しさん:2006/04/05(水) 14:05:18
>>580
世の中に貢献しようとする意志そのものは悪人正機説とは関係がない。
自分が行う善を、「自分が浄土往生するための手段」にしようとするはからいが問題なだけで、
浄土往生のための自分の手柄だと思わずに純粋に行われる善は否定されたりはしない。
582考える名無しさん:2006/04/05(水) 14:59:55
それはそうだね。渡海氏も解ってるじゃないか。結局親鸞とは実践的には自然(じねん)を、《自ずから》を最も重視する人だ。悪人正機説は同時に善人正機説でもある。しかしそれはそれらの善悪がこざかしい量らいを離脱しているという条件が要るだろう。
583考える名無しさん:2006/04/05(水) 17:18:14
しかし、何となく善人正機なぞ書いたが、やっぱり悪人正機だろうな。善行を積んだ人はそのまま浄土に往けると思いがちでしょうし。悪人はまさか俺が浄土に往けるわけはない、と考える。そっちの方が他力本願なわけで。《お任せする,委ねる》の意に適っている。
584渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/06(木) 13:12:53
>>579
>悪人正機説の根幹には、他力信仰があり、

   知らんなぁ。聞いたことがない。他力信仰って、どんな御利益があるんだい?。

>それは絶対性をもつとされる。

   絶対性?。なんだい?。寝言か?夢でもみているんじゃないか?。

>なぜ悪人の方が善人よりも浄土に近いと言えるか     寝言か?。

>善人には自力を侍み、善行によって浄土へ往こうという“はからい”がある。

   意味不明の寝言は布団の中で、他人に聞こえないように発言するものだ。

>それらは他力信仰にもとる。   何か悪いことなのかい?。悪いと救われないのか?

>>580
>悪人には自力で浄土へ往こうという“はからい”はない。

    意味不明だな。宇宙人の寝言か?。

>だから悪人の方が善人より浄土に近い。世の中に貢献する意志は善なる意志である。これは
悪人正機説に抵触するとしか思えない。

  悪人が善人で、善人が悪人と言うことか?言っていることがちんぷんかんぷん、支離滅裂。
理解不能。わけわからん。馬鹿じゃないのか?
585渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/06(木) 13:14:18
>>581
>貢献しようとする意志そのものは悪人正機説とは関係がない。   <まあ、そうだろう。>
>手段にしようとするはからいが問題  ??
>自分の手柄だと思わずに純粋に行われる善は否定されたりはしない。      <??>

>>582
>それはそうだね。渡海氏も解ってるじゃないか。
         独り言か?。独り言は自分だけに言えばいいんだよ。

>実践的には自然(じねん)を、《自ずから》を最も重視する人だ。   意味不明。

>悪人正機説は同時に善人正機説でもある。   ハテ?。聞いたこともない。

>善悪がこざかしい量らいを離脱しているという条件が要るだろう。
       地球攪乱のための宇宙人の怪電波かな。

>>583
>しかし、何となく善人正機なぞ書いたが、やっぱり悪人正機だろうな。
         宇宙人の独り言か。怪電波か。暗号か。

>善行を積んだ人はそのまま浄土に往けると思いがちでしょうし。
       誰のことを言っているのだろうか?。

>悪人はまさか俺が浄土に往けるわけはない、と考える。 <宇宙人の独り言?。意味不明。>

>そっちの方が他力本願なわけで。       <完全に意味不明>

>《お任せする,委ねる》の意に適っている。

 付き合い切れん。完全にシンデレラの魔法使いのおばあさんの世界(>>407,>>465)だ。「王法
は額に当てよ。仏法は内心に深く蓄えよ」。王法と仏法の区別が無く、本来は複眼的にものごと
を考えなければならないのに、ファンタジーの恍惚の中で、判断力が混沌としておる。
586渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/06(木) 13:15:46
 平生業成と生死の一大事、世間道と出世上道、俗諦と真諦、昔からいろいろな言い方で表現さ
れてきた。
 親鸞の専門は往生極楽の道(歎異抄)だ。世間道を転じて、出世上道に入る。世間道はすなわ
ちこれ凡夫所行の道と名づく。転じて休息と名づく。凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたわず、
常に生死に往来す(行の巻)。だからこそ出世上道が大事であると親鸞は言う。親鸞は、出世上
道の専門家だ。
 お医者さんは、医療が大事だと思うから自分は医者になる。自分は、医療が重要と思っても、
花屋さんや警備員さんは必要ないと思っているわけではない。パン屋さんは、パンが大事だと思
うからパン屋さんになる。しかし、自分はパン屋さんになっても、魚屋さんや八百屋さんは必要
ないと思っているわけでない。
 親鸞は、出世上道の紹介を自分の専門として選んだ。しかし、自分は出世上道を選んでも、世
間道は無意味であると言っているわけではない。世間道も大事だが、出世上道も大事だ。出世上
道には世間道にない重要な部分がある。世間道だけに偏らず、出世上道も加えた複眼的な見方を
しようと提示している。しかし、観点が複眼的にならず、単眼のまま、世間道が出世上道に単純
に入れ替わってしまうと、これは始末が悪い。「出世のみにあらず、世間の事におきても、恐ろ
しき申しごとども数限りなく候(血脈文集(2)」。これは、親鸞でさえ「合い睦るることなく
(消息集(5)」「同座をせざれ(4)」と言って手に負えなかった善証坊的病理現象だろう。

587渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/06(木) 13:18:08
 親鸞の時代、複眼的にものごとを判断できないのは善証坊一人だったようだ。しかし、その広
がりは、親鸞の時代に芽があった。現代では坊さんのほとんどがこの善証坊だ。残念なことだ。

 世間道とは何か、出世上道とは何か。王法(お文)とは何か、仏法とは何か。往生極楽の道と
は何か。親鸞仏教の原点、基本的な枠組みが分かっていない。「渡海難さんに親鸞さん聞くほど、
落ちぶれていません」と言う人>>470も2ちゃねんるにはいる。善証坊には親鸞さんも手を焼い
たようだ。渡海難さんに親鸞さん聞くほど落ちぶれる必要はないが、そういう人物には、親鸞も
きっと手を焼くだろう。
 世間道と出世上道の違いをきちんと理解し、その両方を複眼的に受け入れようとする目と耳の
無い無宿善の機は、宿善開発の時期まで五百年はかかるんだろう。

 現代の浄土真宗教団の3大問題は、「善証坊現象」と「座禅の喪失」と「教学の消滅」だ。大
先生が100年掛かっても教行信証が理解できない現実は(>>534)、本願寺の「善証坊現象」
と「座禅の喪失」と実は一体のものだ。
588考える名無しさん:2006/04/06(木) 19:16:57
渡海って、あほか?
まあ、聞くまでもないことだが。
589渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/06(木) 20:19:29
>>588
> 渡海って、あほか? まあ、聞くまでもないことだが。
    そんなに分かりにくい話だったか?。もう少し分かりやすくしよう

 善知識を愚かに思い、師を謗る者をば、謗法の者と申すなり。
 念仏を教えてくれる人を愚か者と思い、師匠を謗る者を謗法の者と言う

 親を謗る者をば、五逆の者と申すなり。
 親を謗る者を五逆罪の者と言う。

 同座をせざれと候なり。
 そいう人とは、決して同席してはいけない。

 されば、北の郡に候いし善証坊は、親を罵り、善信をようように誹り候いし
かば、近付き睦まじく思い候わで、近付けず候いき。
 昔、北の郡にいた善証坊は、親を罵り、善信を自分勝手にそしった人でし
た。そこで、付き合うのも止め、親しくはしませんでした。 

 何事よりは、聖教の教えをも知らず、また、浄土宗の真の底をも知らずし
て、不可思議の放逸無慚の者共の中に、悪は思うさまに振る舞うべしと、仰
せられ候なるこそ、返す返す、あるべくも候わず。
 どんな場合も、聖教の教えをも知らず、浄土宗の真の意味も分からず、
あっちゃならない自分勝手な生き方をしている者の中で、悪は思いのままに
行えなどと言っている者がおります。そのようなことがあるはずもありません。
   消息集
590渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/06(木) 20:20:43
>悪人正機説の根幹には、他力信仰があり、
 善証坊のような人こそ、仏が救おうとする正しい対象であるという考えがある。それが他力信仰である。

>なぜ悪人の方が善人よりも浄土に近いと言えるか
 親を罵り、親鸞に自分勝手誹りをした人が、親鸞よりなぜ浄土に近いと言えるか

>善人には自力を侍み、善行によって浄土へ往こうという“はからい”がある。
 親鸞には自力を侍み、善行によって浄土へ往こうという“はからい”がある。

>それらは他力信仰にもとる。
  親鸞の考えは他力信仰にもとる。

>悪人には自力で浄土へ往こうという“はからい”はない。
 善証坊には自力で浄土へ往こうという“はからい”はない。

>だから悪人の方が善人より浄土に近い。
 だから善証坊の方が親鸞より浄土に近い。

>世の中に貢献する意志は善なる意志である。これは悪人正機説に抵触するとしか思えない。

 親鸞は言う。世に曲事の起こり候いしかば、それにつけても、念仏を深く頼みて、世の祈りに心を入
れて、申し合わせ給うべしとぞ覚え候(消息集)。
 世に、悪いことが起きれば、そのたびに念仏を深く称え、世のあり方を心に入れて祈り合いましょう

 世の中を良くしようという意思は善なる意思である。これは悪人正機説に抵触する。親鸞の考えは
悪人正機に反する。
591渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/06(木) 20:21:32
>実践的には自然(じねん)を、《自ずから》を最も重視する人だ。
 善証坊などは自然のままに生きていた。これがいい。

>善悪がこざかしい量らいを離脱しているという条件が要るだろう。
 善証坊に近づくな、親しくなるななどというのは、こざかしい量らいだ。

>善行を積んだ人はそのまま浄土に往けると思いがちでしょうし。
 親鸞などは、善を積めばそのまま浄土に往けると思いがちだ。

>悪人はまさか俺が浄土に往けるわけはない、と考える。
 善証坊などは、まさか俺が浄土に往けるわけはない、と考える。

>そっちの方が他力本願なわけで。
 善証坊の方が他力本願なわけで。

>《お任せする,委ねる》の意に適っている。
 善証坊は、お任せしている。委ねているんだ。
592渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/06(木) 20:26:20
渡海難さんに親鸞さんを聞くほど、落ちぶれてないと言うひとは、
渡海難さんに親鸞さんを聞くほど、落ちぶれた時に思い出してくれ。
593考える名無しさん:2006/04/07(金) 04:05:30
《信願房のいうところとして、悪は人間のならいであり、悪こそは人間の本来の姿であるからということで、心にも思ってならないことを好み、身にもしてならないことをし、口にも言ってならないことを言って良いようにいわれますけども、それが信願房の申し様とは→
594考える名無しさん:2006/04/07(金) 04:10:59
→受け取れません。浄土に生まれるのに障りはないからといって、間違ったことを好みなさいと言ったことは、私にはありません。どうみても納得がいかないと思われます。》(『親鸞聖人御消息集』)
《また弥陀の本願を信じた以上は、義の捨てられたることを→
595考える名無しさん:2006/04/07(金) 04:15:46
→義とするというのが、大師法然上人のお言葉であります。このように義のある限りは、他力ではなく自力であると解されます。また他力というのは、仏の智恵が心も言葉も及ばないはたらきであります。さて煩悩をまとった愚かなものが無上覚という最高のさとりを→
596考える名無しさん:2006/04/07(金) 04:18:49
→得るということは、仏と仏とだけがおはからいになることであります。少しも念仏する人のはからいによるものではありません。ですから、義の捨てられていることを義とする、といわれるのです。義ということは自力の人のさかしらなはからい→
597考える名無しさん:2006/04/07(金) 04:28:08
→をいいます。従って、他力に於いては、義の捨てられていることを義とする、というのであります。》(やはり『親鸞聖人御消息集』)ちなみに「義」とは@筋道。儒教の五常の一。A利欲にひかれず、筋道を立てる心。B公共のために尽くすこと。等をさす。→
598考える名無しさん:2006/04/07(金) 04:48:58
→“義の捨てられてあることが義である”と言い、だが“悪を好みなさいと言ったことはない”と言う。これは矛盾していると写る。だからこそ混乱も生まれたのだろうと思われる。しかし私はここに、親鸞における無限者信仰があるのでは、と考える。→
599考える名無しさん:2006/04/07(金) 05:05:09
→すなわち、どこまで行っても善悪の区別にとらわれる人間存在に対して、自己の力への過信を感じ、意識的な悪も意識的な善も、ともに否定していたのではと考えたい。
600考える名無しさん:2006/04/07(金) 12:32:48
先日、さる浄土宗系寺を訪ねたことがある。入り口近く看板にスローガンが掲げてあり、“世界平和をめざす”“家族愛を大事にする”等と書かれている。中で読んだチラシにも同様の趣旨が書かれている。また、中で或る僧と話した際、昨今の少年凶悪犯罪について→
601考える名無しさん:2006/04/07(金) 12:38:40
→「考えられないことだ!」と怒りを露にしていた。私は聴いていて、法然や親鸞だったら別の答え方をしたんではと思えて仕方なかった。そこにどのような因が潜むのか、それによって凶悪犯罪も起こる。と親鸞なら答えると思う。親鸞の犯罪概念は構造的だ。→
602考える名無しさん:2006/04/07(金) 12:46:29
→また、その寺をみていて痛感したが、浄土教という宗教を、社会通念の補完物としている感を強く受けた。社会通念を越える洞察が中にあった筈が、骨抜きにされ、ラディカルさを喪失したなれの果てに思えた。簡単にいって、とんでもない話だと痛感させられた。
603考える名無しさん:2006/04/07(金) 16:29:51
ブックス・エソテリカ「親鸞の本」刊行
604考える名無しさん:2006/04/07(金) 17:14:22
ちなみに“犯罪概念が構造的”とは、主体の概念が構造的である、ほどの意。内部からは宿縁のように、不可視な拘束性が、また外部からは学校社会のような過剰なストレスが、悪の因子を蒔いて行く。よって主体は知らずに悪に染まる、くらいの意。
605渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/07(金) 21:05:17
>>598
>これは矛盾していると写る。だからこそ混乱も生まれたのだろうと思われる。

 親鸞の考えに矛盾があると思うのは貴方の自由だが、僕の理解では一点の矛盾もないんだ。親
鸞はおぬしより、百倍も二百倍も深く考えているだろう。親鸞に矛盾があるんじゃなく、自分の
理解に矛盾があるんじゃないかと、そんな風に反省してみる気持ちはないのか?。おぬしを見れ
ばがっかりする親鸞の顔が僕には浮かんでくるぞ。

>親鸞における無限者信仰があるのでは、と考える。

 本気か?。こんな意味不明の呪文を持ち出せば、どんなちゃらんぽらんなことを言っても正当
になる。全ての思考が停止するだろう。
 自分は、まだなんにも分かっちゃいない。何一つ理解できていないんだという反省がどうして
出てこないのよ?
606渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/07(金) 21:07:33
>>599
>意識的な悪も意識的な善も、ともに否定していたのではと考えたい。

 考えたいと思うのは勝手だ。
 意識的な悪も意識的な善も、ともに否定して、それじゃ無意識の悪は肯定するのか。否定する
のか?。貴方の悪人正機説は、支離滅裂のちゃらんぽらんとは思わないのかい?

 北の郡に候いし善証坊は、親を罵り、善信をようように誹り候いしかば、近付き睦まじく思い
候わで、近付けず候いき。明法の御坊の往生のことを聞きながら、その後を愚かにもせん人々は、
その同朋にあらず候べし。無明の酒に酔うたる人に、いよいよ、酔いを勧め、三毒を、久しく好
み喰う人に、いよいよ毒を許して、好めと申し合うて候らん、不便のことに候。
 無明の酒に酔うたる悲しみ、三毒を好み食うて未だ毒も失せ果てず、無明の酔いも、未だ醒め
やらぬ身にて、おわしましおうて候ぞかし。よくよく、御心得られ候べし。なにごとも、申しつ
くしがたく候。またまた申すべし。穴賢、穴賢。

 無明の酒に酔うたる人に、いよいよ、酔いを勧め、三毒を、久しく好み喰う人に、いよいよ毒
を許して、好めと、無意識に勧める人は悪人正機で救われるのか、救われないのか。阿弥陀仏の
救いにあずかるのか、外れるのか。よく考えてみたらいいだろう。
 社会通念を越える洞察が中にあった筈が、骨抜きにされ、ラディカルさを喪失したなれの果て
なのか、そうではないのか、どうか、吟味してみるといいだろう。
607渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/07(金) 21:08:17
 親鸞は言う。いよいよ毒を許して、好めと申し合うて候らん、不便のことに候。いよいよ毒を
許して好めと言うのは、どうして不便(不都合)のことなんだい?。どこまで行っても善悪の区
別にとらわれる親鸞は、義つまり、計らいがある。自然ではない。
 仁義礼智信という儒教の教えに縛られている親鸞は、悪人正機に反しているのか、反していな
いのか。

 明法の御坊の往生のことをききながら、その後を愚かにもせん人々は、その同朋にあらず候べし。
明法坊が、念仏の世界に入られたことを聞きながら、それにつけ込んで愚かなことをなさった
人々は、念仏者の仲間ではありません。

 つけ込んで愚かなことをした人々は同朋でないという親鸞こそ、善悪の区別にとらわれている。
親鸞には、自己の力への過信がある。意識的な悪も意識的な善も否定してない。親鸞こそ「同朋
にあらず」。599よ、おぬしはこういう親鸞をどう思うんだい。

>>602
骨抜きにされ、ラディカルさを喪失したなれの果てに思えた。簡単にいって、とんでもない話だ
と痛感させられた。

 人間に主体性はいらないという貴方がこんなことを言えば、聞いている方が片腹痛い。
608考える名無しさん:2006/04/08(土) 04:14:05
親鸞の言葉は矛盾していると“写る”と俺は書いている。実際言葉尻をとらえると矛盾する。また、親鸞が何を言いたいのか解らず混乱した所に造悪を説かれ、ついていった人間が多数いたことは書簡に伺われる。いかに当時から伝わりがたい教義かこれで分かるよ。→
609考える名無しさん:2006/04/08(土) 04:23:12
→“人間の知ではとうてい及びがたい力”“果てしもない知”を〈無限者〉と名付けるのは不自然ではない。阿弥陀の知を〈絶対知〉と訳す訳もある。ちなみに古代インド哲学の巨匠シャンカラの思想は親鸞と酷似している。シャンカラは無限者と有限者の対比を→
610考える名無しさん:2006/04/08(土) 04:31:11
→思考原理としている。

意識は“はからい”を生む。意識とはからいは双子の兄弟なようなものさ。よって浄土から遠い。全然難しい話じゃないよ。

“世界平和をめざす”とか“地域社会に貢献する”とか→
611考える名無しさん:2006/04/08(土) 04:38:35
→創価学会に任せておけばよいものをわざわざ浄土信仰のスローガンにしている。いかにも無難なスローガンを掲げて安堵しているが実は浄土思想としては自滅してるのと同じだ。愚かで救いようがない。ていうか俺のほうがまだいい笑→
612考える名無しさん:2006/04/08(土) 04:47:48
→現代社会体制の補完物と化す、というのはラディカルさの喪失だ。世に常識の如く流通する観念を疑う力を捨ててしまって落ち着いている。阿呆らしい。そこらの先生とおんなじことを言うようになってる。浄土信仰の存在理由はもうそこにはない。
613渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/08(土) 10:00:34
>>608
>親鸞の言葉は矛盾していると“写る”と俺は書いている。
    608さんよ、矛盾しているのは貴方の言葉だ。

>実際言葉尻をとらえると矛盾する。
 言葉の節々で矛盾している。親鸞の言葉尻を捉えているから、貴方はものを言えば言う
ほど貴方は自分で言っていることが矛盾してくる。

>いかに当時から伝わりがたい教義かこれで分かるよ。
 いかにあなたに伝わっていないか、二言三言でよく分かるよ。

 「善導の御教えには、悪を好まん人をば、敬いて、遠ざかれとこそ、至誠心の中には、教
えおかせおわしまして候え(親鸞消息集)」
 まず王法をもって本とし、仁義を先として、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心に
深く蓄えて、外相に法流の姿を他宗他家に見えぬように振る舞うべし(蓮如)。
 仁義礼智信を守りて王法をもって先とし、内心には深く本願他力の信心を本とすべき。
                                         (蓮如)

 これは、親鸞仏教を学ぶ者の大前提だ。この大前提を見失えば、「出世のみにあらず、世
間のことにおきても、恐ろしき申しごとども数限りなく(親鸞消息集)」生じるだろう。
 「同座をせざれとそうろうなり」、「同朋にあらずそうろうべし」というのは、王法をもって本と
し、仁義を先としない人に向けての非常に重い言葉だ。王法をもって本とし、仁義を先とする。
こういう担保を信頼して親鸞は釈迦の戒・定・慧と別異の仏教を提示している。王法をもって
本とし、仁義を先とするということができなければ、親鸞仏教は、大衆に向かって主張する前
提の土台を失う。
614渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/08(土) 10:07:23
 悪人正機も、聖道・浄土の慈悲も、「同座できない」「同朋にあらざる」と親鸞が言わざ
るを得ない人に向かって説いている教えでは決してない。王法をもって本とし、仁義を
先として、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心に深く蓄える人に向かって説いて
いる。

 他力に於いては、義の捨てられていることを義とする、 〜 「義」とは@筋道。儒教の
五常の一。A利欲にひかれず、筋道を立てる心。B公共のために尽くすこと。等をさす
>>597)。こんなことを考えている人に親鸞は悪人正機も、聖道・浄土の慈悲も説いて
いない。時代、時代、社会、社会には、それぞれの常識・倫理・道徳がある。そういうも
のを軽視する人に、親鸞の考えが伝わるわけがない。こういう人には、親鸞の教えなど
矛盾して写るだろう。親鸞だってこういう人とは、「同座をせざれ」、「同朋にあらず」と言
っている。

 608に向かって説かれなければならない教えがあるとすれば、次の言葉だろう。紹介
する。「無宿善機、無左右不可許之者也(歎異抄)」

 608との議論も、ほぼ終わりに来たと考える。