【教行信証】親鸞を語る【歎異抄】

このエントリーをはてなブックマークに追加
237渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
 親鸞仏教を考えるなら、釈迦仏教との比較の中で考えて行くべきでしょう。釈迦仏教の基本は
三学にあると考えます。親鸞仏教の理解は、釈迦の考え方の基本原理から始まり、その基本原理
を、なぜどのように否定して新たな境地を開いたのか、順を追って考えていく必要があります。

 釈迦は、人類が文明を持つ様になったとき、自分とは何者なのかという疑問に最初に取り組ん
だ哲学思想家ではなかったか。自分とは何者なのかという疑問に最初に取り組んだ哲学思想家
は、当時、洋の東西に二人出現した。ソクラテスと釈迦だ。二人は、互いに全く交流することな
く、独自に無知の知に気づき、教育の組織的本格的な教育活動の礎を作った。ソクラテスはプラ
トンを育て、プラトンはアカデミヤを創建する。釈迦は、自ら祇園精舎を建設し、多くの弟子を
育てる。分校は世界中に分散し、現代の寺院に及んでいる。
 ソクラテスは無知の知に気づき、やがて殺される。釈迦の悟りの本質も、実はこの無知の知で
あると考える。
238渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/17(月) 18:33:56
 人はしばしば再起(生)挫折(死)再起(生)挫折(死)を繰り返す(輪廻)。昨日まで有頂
天でいた者が、今日はけだものの心でけだものの行為に走ってけだものとなる。けだものには知
恵がない。それでも、ライオンなどは満腹になれば休むときもある。けだものには休むときもあ
る。しかし、求めても求めても空腹感は満たされず、一時の休むこともなく、ただひた走りに走
り続けるときもある。これを餓鬼と言う。欲望だけがますます膨らむ一方で、体は凍りついたよ
うに身動きができなくなることもある。厚い氷の中で盛んに紅蓮の炎が燃えたぎっているんだ
が、外は南極の氷が覆っている。この状態を地獄という。
 人間の心で人間の行為をする者を人間という。人の行為には様々な制約がある。あれもした
い、これもしたいと思いながら、実現する範囲はわずかである。これに対し、自分の思い通りに
ものごとを動かせる人もいる。これを、人は天才という。そんな天才であっても、一寸後にはけ
だものとなり、地獄に堕ちないとも限らない。
 人は、ある時には天となり、餓鬼となり、畜生となり、地獄にも堕ちる。俺は、馬鹿だった。
馬鹿だった。頭の先からつま先まで、全身で後悔し、後悔し、再起を誓っても、舌根の乾かない
うちに、次の瞬間にはまた餓鬼の手先となっているということもある。
 人間の皮を被りながら、畜生になり、餓鬼にもなる。有頂天にもなる。これは欲望があるから
だ。

欲天   (無明:有,欲望:有,知恵:大,意思の主体:自分,行動:大,休息:有)
阿修羅I (無明:有,欲望:有,知恵:小,意思の主体:他人,行動:大,休息:有)
餓鬼I    (無明:有,欲望:有,知恵:無,意思の主体:自分,行動:大,休息:無)
 人   (無明:有,欲望:有,知恵:小,意思の主体:自分,行動:小,休息:有)
阿修羅II(無明:有,欲望:有,知恵:小,意思の主体:他人,行動:小,休息:有)
畜生   (無明:有,欲望:有,知恵:無,意思の主体:自分,行動:小,休息:有)
餓鬼II  (無明:有,欲望:有,知恵:無,意思の主体:自分,行動:小,休息:無)
地獄    (無明:有,欲望:有,知恵:無,意思の主体:自分,行動:無,休息:無)
239渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/17(月) 18:35:15
 人には欲望がある。欲望があるからいけない。欲望があるからいけないと言う人は、禁欲的な
理想主義を掲げる。明瞭な計画を立てる。しかし、現実を忘れた理想は、絵に描いた餅、行動が
伴わない。
 理想主義者じゃ駄目だ。そう主張する人もいる。彼らはしばしば計画も立てず、休むことなく
終わり無き破壊に走る。彼はまさにアナーキーである。
色界(天)(無明:有,欲望:無,知恵:大,意思の主体:自分,行動:無,休息:無)
無色界(天)(無明:有,欲望:無,知恵:大,意思の主体:自分,行動:大,休息:無)

 人は、意思と行動が変われば人格が変わる。人格が変われば、古い自分は死に、新しい自分が
誕生する。再起(生)、疲労(老)、彷徨(病)、挫折(死)を繰り返す。再起(生)挫折
(死)再起(生)挫折(死)を繰り返す中で、天ともなり、餓鬼ともなり、地獄にも堕ちる。そ
れはどうしてだろう。原因は外でもない。まさに、人は本当のことを知らない。無知(無明)こ
そ再起・挫折の迷いの根本原因じゃないか。仏教とは、釈迦が投げかけたそういう仮説に基づい
て発展してきた。
240渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/17(月) 18:36:13
 <十二因縁>ああ、俺は馬鹿だった。馬鹿だったんだよ(無明)。馬鹿だったからあんなこと
をしたんだ(行)。あんなことを考えたんだ(識)。思わずあんなことをしたからこそ、あんな
心がわき起こってきた。そして事物を意識した(名色)。そんな思いが湧いてくれば、ものごと
はみんなそっちの方に見えてくる。耳に心が宿って聞こえてくる。目に心が宿って見えてくる。
感情に心が宿って感情が動いてくる(六処)。耳に不快なものは避け(触)、耳に快い方に向か
う(受)。物事に執着が現れる(取)。それがずっと積み重なるんだ(有)。再起(生)、彷徨
・疲弊・挫折(老病)はそのようにおきてくるものだろう。
 実に我々は無知の塊である。我々の無明は、我々の肉体の誕生で始まったものではなく、我々
の肉体の死で終わるものでもない。今の自分の再起・挫折・再起・挫折は、過去無数の人々が、
繰り返し繰り返し経験してきたその繰り返しと、本質においてはいささかも異ならない。今の自
分の再起・挫折・再起・挫折は、今後も無数の人々が同じように繰り返し繰り返し経験していく
その繰り返しと、本質においてはいささかも異ならない。さあ、この現実をいかにするか。釈尊
先生はその問題に取り組んだ。