◆◇全国死尿食べある紀◆◇

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691ポール
>チンポさん
>感情は、個人の持ち物ではありません。
>現に、大森さんが『流れとよどみ』の中で述べておられますように、恐怖の感情は、
>我々自身の中からというよりも、恐怖の対象の側から、立ち現れるものです。 >>562

感情を「私の心」という閉じられた領域に属する性質でなく、世界の側から
やってくる性質とする考え方は、主観と客観という二元論克服のためだと思われます。
そう考えることにより、世界とは独立し、世界と対峙し、「認識」という我々に備わった
機能によってそれらを繋ぐ、閉じられた「心」という領域を排除しようとするわけです。
  
「コップが見えている」「そのコップを綺麗だと思う」といった具体的経験世界を持たない
「見る」「(綺麗だと)思う」という、機能だけの純粋な「私」など存在しないということから、
この見解に賛同します。
「世界」があり、「私」がいて、それらを「認識作用」が繋ぐといった構図への懐疑です。
  
しかし二つほど疑問があります。
692ポール:04/10/25 00:53:57
一つは身体、特に脳と、感情との関係です。
感情は世界からやってくると言っても、脳の該当箇所に障害があれば、その感情は
生じません。反対に、世界は変わらなくとも、脳に人工的な刺激を与えれば、感情は
生じます。この、あまりに密接に関わる脳と感情の関連性を鑑みれば、感情とは、
世界の側からやってくるものではなく、脳によって世界に貼り付けるものだ、という
考えの方が妥当ではないかと思われます。
693ポール:04/10/25 00:54:22
もう一つの疑問は、「意思」や「思考」に関してです。

感情は世界の側の性質であるとしても、意思や思考はどうでしょうか?
感情は自分の意思とは関係なく、どこからともなくやってくる受動的なものであるから
世界の側から立ち現われるといえるでしょうが、「あと5分したら起きよう」といった
能動的な意思や思考はどこからやってくるのでしょうか? 
私の心という閉じられた領域を排除し、世界と私の一体性を強調するならば、
これらはどのように考えればいいのでしょうか?

『存在と時間』を読みつつ、これらの疑問を考えていきたいと思っています。