493 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :
しかし、
>ハイデガーは、現象学に惹かれただけで、フッサールの思想には興味無かったって
>書いてる人いましたね。
これは違う。ハイデガーはフッサールの『論理学研究』に多大な影響を受けており、
おそらくこれなくしては、『存在と時間』は成立しなかったでしょう。
具体的に言えば、ハイデガーが惹かれたのは、フッサールの「範疇的直観」あるいは
「理念化作用(Ideation)」という概念です。フッサール自身の比喩をもちいるのなら、
「色をわたしは見ることができるが、有色であること(Farbig-sein)は見ることができない。」
つまり、物の色を見るためには、その色(赤とか青とか)を見るだけではだめなんです。
その赤とか青とかが、そのように色として立ち現れることができるのは、我々が、
あらかじめ、それらが「有色である」ことを把握しているからであります。
しかし、この「有色である」こと自体は色を持っているのではないので、我々はそれを、
ある具体的な色を見るように「見る」ことはできません。
それは、色のついた物を見る際に、「範疇的」に働く直観を通じて見られるものなのです。
これは、あらゆる色のついた物を、「有色」にしているものですから、いわば、
色の本質なんです。だから、範疇的直観は「本質直観」であり、また、「理念化作用」でも
あるわけです。理念化作用とは、もののイデー(イデア)を見る作用を言いますから。
494 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/10/06 21:52:51
この考えは、フッサールの先生であるブレンターノを介してアリストテレスの
『デ・アニマ』までさかのぼります。アリストテレスはちなみに、
「色は、光なしには見ることができない。物の色は、常に、光のもとにおいて見られるのである。」
と言っております。この「光」をあらかじめ見ること、それが現象学であります。
495 :
チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/10/06 21:53:28
これとまったく同じものが、『存在と時間』にも出てきます。
我々が存在者と出会うためには、我々はあらかじめ、存在者である限りの存在者の本質、
つまり、存在者の「存在」を了解していなければなりません。これは要するに、
存在者の本質としての存在を、あらかじめ直観することを言っているのです。
存在了解とは、存在者の本質直観であり、それゆえにまた、カントの先験的的直観にも
対応するわけです。ハイデガーは、「現象学」を定義する際にカントの感性論を引き合いに
出していますが、これは偶然ではない。カントもまた、我々の感性的経験一般を根源的に
可能にするものを求めていたわけであります。それが「時間」と「空間」でありました。
時間・空間を、経験に先立ってあらかじめ先験的に直観するからこそ、経験的対象は、
その直観のなかで、可視的になり、我々と出会うことができるのです。
「存在は、時間の光のうちで理解される」とハイデガー自身が申しております。
以上のような意味で、フッサール現象学の発見は、ハイデガーに強烈な影響を与えているのです。