今回は Heidegger の Sein und Zeit を マターリ 読みます。
参考書とかは極力用いず、Heidegger で Heidegger を読むという姿勢を
貫こうと思います。また、Sein und Zeit の中で、Husserl 現象学がいかなる
役割を担っているのか、これも問題にしていきたいと思います。
われわれの目的は、Heidegger の思惟の道を追想し、それを自己のものとして、
われわれ自身の哲学的探究の糧とすることにあります。
哲学は常に「歴史的」である、というのが、この哲学者の確信でありました。
過去の哲学を知らずして、どうして現在の哲学が可能でしょうか?
われわれは常に既に、伝統の中で生きており、この伝統との格闘の中から、偉大なものが
生まれるのです。存在の偉大な連鎖は、まさにここに存しております。
プラトンはソクラテスとの対話を通じて、アリストテレスはイデア論の論駁によって、
それぞれ偉大な哲学を築き上げました。デカルトはスコラ哲学の批判を通じて、
自己の哲学を確立し、この哲学に正面から挑んだのが、スピノザとライプニッツでした。
カントは大陸合理論とイギリス経験論とを折衷し、ドイツ観念論の礎を据えました。
ニーチェもヴィトゲンシュタインも、伝統との対決の中で、己の思想を形成しています。
ニーチェの哲学は、ショーペンハアウーのみならず、当代の生物学や社会学、また、
ギリシアの古典研究をもとに生み出されたものです。ヴィトゲンシュタインの哲学は、
フレーゲ・ラッセルによる数学の基礎論の研究、またケンブリッジの同僚達との議論、
そしてひそかに読んでいたプラトンやアリストテレスの研究の賜物です。
自分哲学を展開するのは、別に構いません。
しかし、これらの過去の偉大な遺産との対話を果たした上で、行うべきです。
「しゃべり場」レベルの人生論を、貴方の貧弱な経験を基礎になされても、迷惑なだけです。
何でも勉強しないと駄目なんです。勉強しないと、思考だってできなくなるんです。
自分勝手な妄想を広げても、学問的な基礎がないと、それは哲学にはなり得ないのです。
そういう妄想について話したいのなら、床屋にでも行って話したらどうですか?