1 :
考える名無しさん:
・・とありますが、皆さんにおかれましてはどうでしょうか?
正直、豚は豚であることに気付きませんし、
そちらよりの人が(幸せそうで)羨ましくてたまらないのですが。
知性の獲得は、積極的に評価されるべきなのでしょうか?
>>1 豚は豚であると気づかないとなぜわかるのか?
>>2 そう言えば、分かりませんよね。
宜しければそれについて、
>>2さんはどうお考えかお聞かせ願えませんでしょうか。
久々の哲学(板)だったので、初歩の段階で躓いてしまいました・・orz
ダニエル・キイス著「アルジャーノンに花束を」という作品がありますよね。
知恵遅れであった主人公のチャーリーが、手術によって知性を得たものの・・という話。
これは小説の上での話ですが、我々の生活空間においても、
知性故の哀しさは真であるような気がしてなりません。
正直、実生活に支障が無く、
しかし深々と悩む程には満たない多くの人々が羨ましく思えたのです。
4 :
考える名無しさん:04/08/04 09:32
自己が否定されることを恐れるように
がむしゃらになって知を追い続けている気がするな
まるで、広大な海の水を手で掻き出すような作業
知らざる者は悲劇にさえ気付かないかもしれないとは
ときどき思うことがあるな
5 :
考える名無しさん:04/08/04 11:25
生きているうえで自分の生にまったくの疑念を抱かないやつなんているのかな?
珍走、893だって一人になったら思索ぐらいしそうだけど。
6 :
考える名無しさん:04/08/04 16:12
>>5 同意
>>1 なにも知性を絶対基準にすることはなくて
その人にあった位置付けがあるんじゃないの?
漏れは専門じゃないし、言葉遊び程度に捉えてるから
そこまでは苦にはならんよ(苦にしたら趣味の意が無くなるしね)
7 :
考える名無しさん:04/08/04 16:17
1.死はあくまで通過点に過ぎないよ派(回帰・転生説)
2.どうせ死ぬんだから何やってもいいよ派(刹那的享楽重視)
3.何を残したかではなくどう生きたかが大切なんだよ派(プロセス重視)
4.この世界は24世紀のゲームだよ派(独我論)
5.いい事したら天国に行けるよ派(天国説)
8 :
考える名無しさん:04/08/04 16:46
幸せとは無知のことである。不幸とは現実を認識することである。
>>6 趣味でやるのは自由。他人様の趣味をどうこう言えないしね・・
それで、良かったらどうして知性を求めているのか理由を教えてくれませんか?
仮に、眼前に神々しい光が現れて「私は在るものである。汝、知性を求めよ」
と言われたのなら判り易いんだけどさ・・
趣味の人にとって、それは日常に不可欠ではないでしょ?
知性は無条件に良いものだろうか
>>8 現実って、(人間にとって)不幸なものであると断言できます?
前半部については分かる気がする
どなたか、知性の有用性または(現代の我々における)価値を
無知な私に御教授願えないでしょうか?
あと、言葉が汚くてすいません
10 :
考える名無しさん:04/08/04 17:46
>>9 もし現実を全て認識し、それでもなおかつ幸せだと思える者はいない。
願望が満たされた途端に人はそれ以上のものを望むから、人はいつまでも満たされることはない。
そして、今持っている幸福はいつか必ず失う。
決して真の幸福など存在しない。
11 :
考える名無しさん:04/08/04 17:50
満たされた人間など人間ではない。
幸福の達成は死である。
>>10 確かに、人間の持つ欲望について考慮すれば
今ある願望が満たされれば、新たな願望が沸いてくる
そして、これが満たされることはない・・と言えるでしょう
それでも、上記=現実が不幸、と結論付けるのはどうだろう
人のもつ欲望が、決して満たされない現実は不幸であろうか
相対的にどちらかというと恵まれない人間には、
欲望もそれなりに適応し、相応に満たされる機会は与えられるのではないだろうか
このように考えると、かならずしも不幸であるとも言い得ないのでは?
>>12 それってただの現状肯定のための保守的なイデオロギーに聞こえるが。
いやいや、元はと言えば
>>8が「不幸とは現実を認識することである。」とか言うから
そこに飛躍があるんじゃないかって思っただけ
人間の欲望には果てが無いらしいけど、
現状に合せた願望を作り出すって側面もあるんじゃないかって突っ込みたかっただけだよ
まぁ、漏れの深層に現状を肯定したい気持ちがあったのかもしらんことは認めるよ
15 :
考える名無しさん:04/08/04 18:16
つーかソクラテスこそ豚の先祖なんじゃねえ?
16 :
考える名無しさん:04/08/04 19:04
満足の豚にすらなれませんよ。
それでいいのよ
18 :
考える名無しさん:04/08/04 19:15
欲望に果てがないって意見には賛成できないよ
果てると思うけど?
>>18 生きているかぎりそんな状態はありえない。
いまの世の中じゃ、欲が無いことさえ悩んで
もっと欲を持ちたいという欲望を持っている奴までも
いるのだから。反対に無欲を欲するのも欲望だからね。
>>12 極端な話、発展途上国の貧しい子供は食糧に飢えているが、多くの子供は食欲を満たされることがない。
恵まれなければ満たされるというのは理想に過ぎない。
幸せなのは自分の不幸に気づかないか考えることを辞めているだけであって、
真剣に考えれば自分がいかに不幸かを知ることが出来る。
やせたソクラテス
22 :
考える名無しさん:04/08/04 20:06
>19
無気力ってのはなしなんだろうか。
>20
お腹減ってても幸せって状態は容易に想像できると思うけど。
すべてを満たすのが幸せっていう前提はおかしいよねえ
不満足な豚と満足なソクラテスではどっちだろう?
24 :
考える名無しさん:04/08/04 20:50
>>22 >無気力ってのはなしなんだろうか。
無気力だと気力を欲する。
>お腹減ってても幸せって状態は容易に想像できると思うけど。
極度に空腹であれば、食べることしか考えなくなる。
もし空腹でも幸せだとすれば、それは他のことで満たされているからである。
>すべてを満たすのが幸せっていう前提はおかしいよねえ
全てを満たす必要はなくても、一つのことが満たされればそれ以上を望むか別のことを望むもの。
欲望は満たせば満たすほど大きくなるし、諦めたからといって決して欲望が消えるわけではない。
25 :
考える名無しさん:04/08/04 20:50
満足かもしれない俺がいい
26 :
考える名無しさん:04/08/04 20:53
>>23 前者。
「餌が美味しくないブヒ。どうして餌が美味しくないブヒか?それは、・・・」
という具合に哲学を発達させる豚と、
「ワシは満足じゃ( ̄ー ̄)」
と思考停止しているソクラテスww
27 :
考える名無しさん:04/08/04 21:21
>24
それだよ。
つまり、ひとつぐらいなら満たされてなくても満足ってことを認めたわけでしょ?
進めると、核となる何かを満たされたとき、他が満たされてなくても人は幸せってことじゃん。
つまり、欲望がすべて満たされているかどうかにかかわらず、幸せはあるってことだよね。
つまり、幸福と欲望の達成は密接に関係しているが、イコールではない。
よって欲望が尽きなくとも幸せはある。
と思うなあ
28 :
考える名無しさん:04/08/04 21:50
>>27 食欲は満たされるが友達が一人もいないとか、友達は沢山いるが忙しくて寝る時間もないとか、
そういう状態が果たして幸せと言えるだろうか。
確かに一つの欲求は満たされているが、他の欲求が満たされていなくて不自由していると言える。
ひとつの欲求が満たされることは、必ずしも幸せを意味しない。
29 :
考える名無しさん:04/08/04 22:18
そうじゃなくて!
>もし空腹でも幸せだとすれば、それは他のことで満たされているからである。
この意見自体が28と矛盾してるでしょ。だって幸せ状態と欲望の不充足状態の同居を認めたわけだから。
「他のこと」が少数の満たしうる欲望ならば、実現可能でしょ?そしてその可能性を24で認めたわけでしょ?
>>29 >幸せ状態と欲望の不充足状態の同居
たとえこれを認めたとしてもこんなものが
幸福と言えるのか?
31 :
考える名無しさん:04/08/04 22:32
言えるでしょ、普通に。
いつも空腹だけど幸福
お金はあんまりないけど幸福
すんごい忙しいけど幸せ
これよくある話じゃないの?
32 :
考える名無しさん:04/08/04 22:35
幸福は永続するのか?
幸福という状態は一時的な気分なのではないか?
たとえばわれわれから見て幸福そうに見える人であろうと
日常の中でそれなりの悩みや苦悩があるだろうし
人間である限り、それらから逃れる術はないと思う。
はてさて幸福とは何か?
あなたは今幸福ですか?
私はと聞かれれば、それはわからない。
>>31 それって個々人によるしケースバイケースになるよな。
逆も同様に言えるわけだし。
それでは言葉遣いが適当すぎて議論にならない。
豚足で満腹するのは難しいです。
味がないからね。
お金があるに越したことはないけど、
充実感や達成感があれば、貧乏でもいいです。
35 :
考える名無しさん:04/08/04 22:43
ケースバイケースだよ。
ただ、どれも幸せ状態と欲望の不充足状態の同居の例ってのはわかってもらえるよね。
この例が成り立つ時点で「欲望が完全に満たされないと不幸せ論」の反例がなりたつでしょ。
議論になってない?
>>35 じゃあ、どういう場合に幸福になり、どういう場合に不幸になるのか。その基準がすごく恣意的になるよね。
人間おそらく欲望が完全に満たされた状態は現実にはありえないし、完全に不幸ということもあり得ない。
だからといって、現実の不幸に目をつぶって部分的で
相対的な幸福に満足することを主張するのであれば、
そこから出てくるのはせいぜいどんなに不幸でも少しは
いいことはあるものだよ、というような凡庸で欺瞞めいた
慰めにすぎず、結局のところ、努力の放棄と現状肯定のイデオロギーなるのではないか。
37 :
考える名無しさん:04/08/04 23:03
あ〜、確かに「欲望を全てを満たせば幸福」のようなわかりやすい基準はなくなるねえ^_^;
でもだからって基準を求めて「欲望を全てを満たせば幸福論」には賛同できないけどね…
あ、総体としての幸福は部分的な幸福の集まり、と考えてみれば部分的な幸福ってのは何らかの欲望を満たしたとき、とは考えられるかもね
結局何を幸福とするかは個人の感性でしかないのでは?
39 :
考える名無しさん:04/08/05 02:09
・・・で、知性はどう良いの?
40 :
考える名無しさん:04/08/06 01:07
満足な豚を食っても不満足なソクラテス
41 :
考える名無しさん:04/08/06 05:17
満足した磯野キリコより不満足な長谷川京子
42 :
考える名無しさん:04/08/06 05:18
ハセキョは俺が満足させてるけどな
43 :
考える名無しさん:04/08/06 07:38
幸福が何かも、幸福が最も目指すべきものかも人による
44 :
考える名無しさん:04/08/06 07:46
人生いろいろ
総理もいろいろ
なぜそこで総理が…
これはつまり
「幸福な豚になるより不幸なソクラテスになるほうが幸せだ」
といってるわけか?
ソクラテスは自ら思うように弁明し、
脱獄を拒否し、毒杯を仰ぎ、
それで満足だったんじゃねーの?
48 :
考える名無しさん:04/08/06 16:20
不満足というのは、ソクラタンの飽くなき真理への意志を指すんだろう
>>8の記述に、別の側面から疑問点を述べてみる。
また、以下で記すことは、「幸福と欲望の達成は密接に関係している(
>>27)」ということが、
あらゆる人に成り立つわけではない、ということすら示しているように思う。
ある人が幸福であるかどうかが、次のこととは関係がない場合もあるようである。
経験の客観的に記述されうる側面(8で言う現実?)とは。
幸福と経験の客観的側面との関係がない例を述べる。
ある種の信念体系を抱いている方々にとって、
苦悩や苦痛(という個別的経験)ですらも、
幸福(という生全体に関する気分?)に寄与するものだと捉えられているようである。
一般的に言うと、同じような類の経験をしているように思われる人々であっても、
その人の抱いている世界観によって、その経験の生全体における意味は違っている、と言える。
50 :
考える名無しさん:04/08/07 09:44
>>49の例における幸福は、
生の実感と言い換えられる。そして苦悩や苦痛や不自由を不幸とすると、
「強烈に不幸である(苦悩や苦痛や不自由がある)が、そのためにこそ幸福である(生の実感がある)」
という逆説が成り立ってしまう。これでは考察の混乱をまねく。
「豚とソクラテス」の問題を厳密に考えるためには、
幸福が自由や苦悩や苦痛の対極にあるのか、
それとも、意志の自由にならなかったり、苦悩や苦痛をともなっても、
生の実感があれば幸福だといえるのかを定義する必要がある。
>>50 【
>>49四段目の例における幸福をどのように言い換えるべきか】
私としては『生を肯定する気分』とでも言い換えたい。
ある人にとっては『生の実感』に生を否定する気分が伴うこともあると思う。
そのときには、その人は自分が幸福であるとは言わないのではないだろうか。
【幸福をどのように定義するべきか】
私としては、50二段目の後者のように定義すべきだと思う。
そのようにすれば、我々(私だけか?)が次に述べることを認めることを排除せずにすむ。
意志の自由にならなかったり、苦悩や苦痛をともなっても、
自らを幸福だと言うような人が、実際に幸福であるということを。
>>1 スレタイについて言えば、
満足な豚にも不満足なソクラテスにもそれぞれなりの幸福があるのだと思う。
実際、そのことがミルの主張の核心だったように記憶している。
別の言い方をすれば、
豚とかソクラテスとかの表現は、ミルの趣味を印象付ける為の修辞にすぎない。
52 :
考える名無しさん:04/08/07 17:24
豚にもソクラテスにもそれぞれの幸せがある、ですか・・
結局、知性の程度(豚を無知な者と置き直した)による
幸不幸の偏在は認められないよ、ということでOK?
>>52 OK、である。
【あらゆる思慮深い者は自らが不幸であると主張する】ということはない。
そのことは思想史に名を残したような人々の記したものを見ればわかる。
ただ、自らが幸福であると認めるほうの思慮深い者であっても、
次のようなことをしばしば述べるのも確かである。
自らの(思慮の足りなかった)幼少時を憧憬をもって振り返るようなことを。
そのとき彼は、【幸せな者は無知である】とは認めないと思われるが、
【無知である者は幸せである】ことは認めるのではないだろうか。
>>53 まずいことを記してしまった。
【知性の程度による幸不幸の偏在は認められない(
>>52)】と
【無知である者は幸せである】は矛盾する。
次のように言えば少しはましになるだろうか。
思慮の浅い者はそれゆえに継続する苦痛を抱えることがあり、
そのときには本人も自らが不幸であると述懐することも多いだろうが、
そうでない限り、【無知である者は幸せである】。
なお、知識が増えることは思慮深い者をより思慮深くするが、
思慮の浅い者が知識によって思慮深くなることはないようにも思われる。
むしろ、思慮深さは、知識というよりも、その人の経験に依存するのかもしれない。
ついでに言えば、子供のときには、思慮が浅いことにより抱えた苦痛は、
大人が取り除いてくれることが多いように思われる。
そのことも、子供の頃を憧れさせる理由の一つかもしれない。
ブヒ
58 :
考える名無しさん:04/10/28 06:51:21
ブーブー
59 :
そうですか:04/10/28 09:20:53
一番良いのは、太ったソクラテスでしょう。やっぱり。
ソクラテスの像は、決して痩せてはいませんよね。むしろ太り気味
に見えますが。
東大のなんとか先生には事実誤認か、虚言の疑いがありますよね。
どんな場合でも嘘は駄目。特に教員はね。
失脚するまえのハイデガーが理想だな。
激しく同意。