【Ontological】 神の存在証明 2 【Argument】
2 :
考える名無しさん:04/07/16 21:36
えっ( ̄〜 ̄)ξまだ続けるんですか?
3 :
考える名無しさん:04/07/16 21:48
>>1 (・ε・)エー、終わりじゃなかったのかよ・・・
4 :
考える名無しさん:04/07/16 21:52
5 :
考える名無しさん:04/07/16 22:19
(・ε・)/みなさんコンバンハ
前スレの962です。
974さん、すみません。
「煽り」と感じられたのでしたら、お詫び申し上げます。
ただ、煽ってる?と疑われたのでしたら、その理由を教えて
いただけますか?
自分には分かりません。
私は本当に自分の意見に自信が持てないのです。
このスレは、本当に良いスレだと思います。
実は2ch初書き込みだったので、反応が無かったから
寂しかったのです。
もっと皆さんの意見をお聞きしたい。
(・ε・)/ヨロチク
6 :
考える名無しさん:04/07/16 22:30
確かに、無意識の領域で返答を煽っていたかもしれません。
(・ε・)/では。
7 :
考える名無しさん:04/07/16 22:32
無意識×→無認識ですね。。
日本語っては難しいなぁ。。
数学を学ばなくては。。
(・ε・)/オチマイ
>4
おもしろそうなんで買ってみた。よって討論参加はこれを読み終わる
数週間後で良いか(w
>5
> ただ、煽ってる?と疑われたのでしたら、その理由を教えて
単純に言うと慇懃無礼と言うことだ。 何も知らない事を恥じるのは良いことだが、
ひけらかす事じゃない。まあ荒らしでない限り何を書くのも自由なんだから、
(・ε・)氏のする事を積極的に否定する気も無いけどな。
スレ違いスマソ
>>4 あ、いいねえ。
そういうガイドがないと議論が散漫になってしまうしね。
10 :
考える名無しさん:04/07/17 00:28
「神」とは私たちの心の欲望が作り上げた最高価値の「無」に含まれる。
ここでの無の定義には「無」の本質に従って2通りある。
「永遠に続く無」と「無から始まり無で終わる」
(無でおわるとは「永遠の無」ということ)である。
宇宙がうまれる、それは「無」のおかげであり、それはカオスの前の段階であり、
その空間は無(=神が)だった。その証明を以下でする。
ただし「無」は人間にしかわからない定義である。
人間の共通意識として、「無」自体ははなんの進歩性も発展性もなく、ただ「無」であることに
神秘性を感じさせる。これは「無の究極の根源」である。
だが、ここで無とは、《何かがはじまる前の段階》であり、「生産」という力のはたらきで
を受ける対象である。そして無から違う形に生まれ変わり、無に帰することで
永遠を手にいれる。虫や花も水も原子も人間も言葉も「無」から生まれた。
そして「無」からうまれた私たちには限られた命しか与えられず、「無」に帰る。
(永遠の無といっても可。)
また、未来を予言するとき、人類滅亡したら「無」に戻るといえる。
万物はいつかは無にもどり、最高状態は無という永遠にあり、創造や宇宙
にも勝り、「無」という我々が考える概念は永遠に生きる続ける。
無=神と推論をすると、神は初めと最後にあらわれるので、私たちが会うことはできない。
また、私たちが生き始めた時には神はいないが、神の性質(無から無に戻る)
を受け継いでいるので、神に憧れる。そして私たちは心の中の「無」にふりまわされると
波乱的な人生を送る。死後の世界を
現実からのがれる場所だと思い自殺する者がいるが、この場合も
現実より恐ろしい次元の世界に送られると考える人は少ない。
私たちは本能的に、「無」の解釈を受け入れ、神から生まれたと信じ
救いを求めるのだ。
質問があればしてください。自分なりに、へただけど
おもったことを書き込ませてもらいました。
>>10 何か『無』の使用意味が統一されてなくて、文中でアレコレとばらけてる様に読めるんだが。
>そして無から違う形に生まれ変わり、無に帰することで
>永遠を手にいれる。虫や花も水も原子も人間も言葉も「無」から生まれた。
>そして「無」からうまれた私たちには限られた命しか与えられず、「無」に帰る。
この『無』は『混沌的な存在』『一切の形質や方向性を持たない存在そのもの』の事じゃないか?
そいつは、現象形態こそ『秩序』と『混沌』という相反するものだが『有』には変わりないぞ?
俺ならここにいるぜ
14 :
考える名無しさん:04/07/17 02:28
神様☆かっこいいです☆神様に抱きしめてほしい。
>10
解釈対象の行動が適度に正しく合理的である信念の集合から
発するものであることを示さなければ、その解釈は成功している
とは言えない。
C.フックウェイ、「クワイン」、勁草書房、1998
16 :
考える名無しさん:04/07/17 05:19
>>11 >>10に質問。
以下に「無」の定義と称する文があるが、
>無の定義には「無」の本質に従って2通りある。
>「永遠に続く無」と「無から始まり無で終わる」
>(無でおわるとは「永遠の無」ということ)である。
これでは「無」の定義とは言い難い。
むしろ「無=神と推論をすると」「神の性質(無から無
に戻る)」とあるようにこの定義と称するものは
「無」の性質、属性、特性、或いは振る舞いと言える。
そこであらためてあなたの唱える「無」とは何?
17 :
考える名無しさん:04/07/17 06:40
>>10 言わんとしていることはよくわかるぞ。
ビッグバンを考えると、すなおなストレートな考えだよな。
有が生まれ、有が消える無があるってことかな。
そりゃ、無じゃないだろう、っていうかもしれんが。
18 :
考える名無しさん:04/07/17 13:58
10です。明日ある資格試験で頭がいっぱいなので、明日夜もう一度
考えてかきこませてもらいます
19 :
考える名無しさん:04/07/17 14:00
10です。明日ある資格試験で頭がいっぱいなので、明日夜もう一度
考えてかきこませてもらいます
いずれにしろ、神仏のあいまいな時代に何を生存の意義とするかで
迷える時代と言うことなんだろうな。人生に対してアプリオリな
肯定を与えることが難しくなってきたからこそ、こういった神学論が
討議される訳で。
人生の意義を探索する方が先のような気がするな。いきなり神の
実在を問うことは実は我々の関心の本質から外れることなのかも
しれない。
21 :
考える名無しさん:04/07/18 07:56
「神様」ではなくストレートに「権力」とは言わないところがミソ
宗教とは権力の美化である
22 :
考える名無しさん:04/07/20 12:57
「神の存在論は全能者とは因果関係がなく、全能者である神は独立している。」と、いうのは
虚ですか?
聖域は不可侵ですか?
善ですか?
悪ですか?
23 :
考える名無しさん:04/07/21 22:19
ウンチマンの存在証明
24 :
考える名無しさん:04/07/21 22:33
だれかオレの存在証明してくれ!
ハハハハ、お前ってやつは、ハハハハ
26 :
考える名無しさん:04/07/27 08:52
27 :
考える名無しさん:04/07/29 18:53
>>4 借りてきたぞ。
読むのに1年くらいかかりそうな本だが、がんばって1週間で読む。
28 :
考える名無しさん:04/07/30 03:01
存在論自体がインチキでしょ。哲学から追放すべし。
哲学は認識論と価値論だけでいい。
29 :
考える名無しさん:04/08/01 20:45
神の存在は宇宙全体を探して見なければ確認できない
30 :
考える名無しさん:04/08/04 11:25
1を存在として二進法で世界を創造しよう
「存在論的」証明なら、まだ我慢出来るよな。「存在論」自体、
反証不可能な命題群だから「証明」ったって、自然科学的なも
のとは全く異なるわけだが。
論理的であることが(経験)科学的であることと完全に等価に
見なされると、えーと、アリストテレスにスコラ主義、理性と
は何ぞや・・・、二重真理説における信仰と理性の乖離。
そうそう、コレコレ
それはキリスト教の内部におけるヘブライズムとヘレニズムとの
葛藤の歴史でもあるのだった、と。
34 :
考える名無しさん:04/08/04 19:19
私の存在証明ってできるの?
35 :
考える名無しさん:04/08/04 19:23
36 :
考える名無しさん:04/08/04 19:27
>>35 我思うゆえに我あり
これって本当にそう言っていいのかって証明されてるの?
どうも納得できるような出できないような変な感じするんだけど。
それでいいなら、神を思うゆえに神あり、で、神の存在証明おわりでもよさそうじゃない?
>>36 cogito の主語は人間。「我が思う、ゆえに我あり」。
人間が神に成り代わって「神が思う、ゆえに神あり」とは言えないでしょう?
38 :
考える名無しさん:04/08/04 19:34
>>37 まあそうなんだけど。
我思うゆえに我ありについて、何主義が言うかは知らないけど、
我が思うからと言って我があるとは限らないのではないか、
って言われたらこの場合どうやって答えるの?
>>38 >我が思うからと言って我があるとは限らない
どういう場合にこのことが成り立つのかを説明しないと反論になってないよ。
デカルトが主張したのは「方法論的懐疑」というやつで
たとえ私が存在しないと考えるとしても、
そのこと自体を考えている私を消去できないかぎり
私が存在しないということはできない、
つまり考えているかぎりでの私は最低限存在しているのだ、
ということである。
>>38 批判する気なら、自分でデカルト読んで
理解してからにしろよ・・
>>39 何の本だったか、少なくとも哲学書ではなかった本に、
その我思うという我が夢だったら、か、夢の中だったら、かで、
実際には我はいないのではないのか?
と、書いてあったと思うんだけど。こういうのじゃ説明になってない?
>>42 だからさ、夢だったら、つまり私が存在するというのは錯覚にすぎなかったら、という仮定を懐疑的に私が考えるかぎりで
私はそれでも存在している、とデカルトは言ったわけよ。
>>43 そこがよくわからない。
批判する気はないんだけど、
>>41のような意見もあるので失礼します。
どんなに疑おうが、考える私はどこまでも残るし、
考えられているということは、考えている限りで
私は存在しているということだよ。
存在していなかったら、考えることは初めから
不可能なわけなのだから。
最後にします。
>>45 それはわかるんですけど。
なんて言うか、
1+1が2になるのはわかるんだけど、何故、1+1が2になるの?
というような感じで、よくわからないんです。
73 :チンポ太郎 :04/08/04 20:37
>>72 デカルトの再読を求めたのは、そういう意味じゃありません。
デカルトを批判せよ、という意味です。
問題は、「自分は実はカプセルの中にいるのかも知れない」という懐疑自体の
妥当性なんです。つまり、このように疑う事に、どれだけの妥当性があるのか、という事です。
先ず、我々は何でもかんでも懐疑できると思ってはいけません。
懐疑というものは、ある前提を元にしてのみ可能ですから。
例を出しましょう。
「自分は今、実は地球じゃなくて火星にいるかも知れない」とある人が言うとする。
だが、この人は第一に、自分が今、現に地球にいるという事を知っている。でないと、
こういう「火星にいるかも」という疑念自体、生じ得ない訳です。
つまり、この人は、今自分が地球にいるということを前提にして、そのあと、
火星なんかを持ち出して、この前提を懐疑しているわけです。
しかしこれでは、ヴィトゲンシュタインの言い方にならえば、
自分が腰掛けていた枝を、自分で折るようなものです。
つまり、この懐疑そのものは、ある前提から生じたのにも関わらず、その前提を
否定しようとするわけです。例えて言えば、子供が親の存在を否定するようなものです。
つまり、「俺は実は今、カプセルの中にいるのかも」という疑念は、無意味なんです。
そういう懐疑は成り立たないから。それは自分自身の存在を、懐疑によって否定しているわけです。 (686)
74 :チンポ太郎 :04/08/04 20:38
デカルトの懐疑の一部は、明らかにこの類の懐疑です。しかし、デカルトは別に世界を否定した
のではなく、彼はただ、「吟味した」だけです。懐疑家というのは、いろいろ疑ってあら探しを
する者ではなく、真理を求めて物事を吟味・検査する者のことです。
この問題はヴィトゲンシュタインが『確実性について』で扱っているので参照して
下さい。
それから、ベトナムじゃなくてパトナムです。 (687)
>>46 気持ちはよ〜くわかります。「1+1=2」が成立するためには、「1」が「1」である必要があります。でも、「1」ってほんとに「1」なの?って感じでしょうか。
ぶっちゃけ数学は、「1」が「1」であることを前提として成立しています。そしてそれは今のところ、問題ないように思われます。いつか、「1」が「1」であっては回答のでない物理法則にぶつかった時に、改めて新しい概念を求めるでしょう。
同じように、「考える、故に我あり」という前提は今のところほころびを見せていません。いつか哲学や科学が、その正否を判断するでしょう、その時まで、「我思う、故に我あり」が前提になるのです。
この前提を崩すのは、ひょっとしたらあなたかも知れませんよ?(w
補足として。
「論理的に正しい、故に真理である。」
この命題も疑える。しかし、昔のエロい人たちが「人間の知能で世界を理解する」ために定めたのです。
実際の世界は実は、ネコタンの本能によってのみ理解できるものであるかも知れないわけです。
52 :
考える名無しさん:04/08/08 20:41
命題を疑う神が存在する
53 :
考える名無しさん:04/08/08 22:22
神様おながいします、あいつを殺してください南無南無
567 :名無しさん@3周年 :04/08/08 13:53 ID:+UyLz91I
27 :くろしろ ◆Mi0a.9Ms2A :02/12/31 01:08 ID:4J708hGp
あーん、見捨てないで。
55 :
考える名無しさん:04/08/11 12:49
>>50 数学概念を勘違いしてるよ。
数学は元々公理系を前提として成り立っているわけで、
ぶっちゃけも何もない。
> 物理法則にぶつかった時に、改めて新しい概念を求める
と言ってるけど、別に物理法則に適用するために数学の体系がつくられるわけじゃない。
数学の概念は、自然とは独立してるの。
ある数学モデルが、自然に当てはまらなくても、それは数学が間違ってるんじゃなくて
その自然にその数学モデルを当てはめる行為が間違ってるの。
実数も足し算も、数学はすべて実在じゃないんだよ。
(ただそれを自然に応用することは可能だけど)
自然に当てはまるとかっていうものじゃない。
56 :
考える名無しさん:04/08/11 13:51
>>50 >「考える、故に我あり」という前提は今のところほころびを見せていません
コギトに対する批判はないの?デカルトは「我」とは何かについて懐疑は
なかったのか。いくら彼が自分で「我あり」と思っても、他人が我を認識
しなければ、単なるユーレイに過ぎず、「我」は無い。
>>56 その他人もまた我のひとりでしかないんだけれどね
だからデカルトはまず「我」を問うた
58 :
考える名無しさん:04/08/11 14:16
>>57 デカルトには、人間は共同体としてのみ存在可能であり、我の成立には
他者による認識が不可欠であるという考慮があったとは思えない。
それに、「思う」だけではなく、「我の肉体」の存在はどこへ行ったの?
>>56,57,58
ごめんなさい。他の板で似たような発言したら怒られましたw
ただいま猛勉強中でございます。
>>55 そうなのでぃすかぁ!?
ってか、解るような解らんようなw
でも面白い話ですね。よければもっといろいろ聞かせてください。
60 :
56, 58:04/08/11 23:22
>>59 反論できないのなら、そんな嘘つかないで、正直にそう言ったらどうなの。
我思う故に我在り、は疑い得ない。
問題は「在り」の意味だよ。
62 :
考える名無しさん:04/08/12 00:23
>>61 「在り」の意味に問題があるのなら、「我思う故に我在り」が疑い得ないなどとは
言えない。
>>62 どうして?
いかなる意味にせよ「在る」と言えるなら、
「我思う故に我在り」の正当性は疑い得ないわけだよ?
64 :
考える名無しさん:04/08/12 00:53
>>63 なるほど。疑い得ない場合も「あり得る」というわけか。
>>60 遅くなって申し訳。
いや、嘘じゃないって。嘘吐くぐらいなら書き込まないか、名無しに戻ってますって。
自説を書こうと思ったんですがうまく言えません。じっくり推敲して今日の夜にでも書き込んでみます。
んでは、書き込んでみるです。言いたいことがちゃんと伝えられればいいのですが。
長文です。スマソ
まずは反論
>>56 第三者が我を認識しなければユーレイみたいなもの
認識するだけで認識されない存在などあり得ない。
もし在ったとしても、その存在には何の意味もない。依って、「無い」と同じ。
なので、「我が思う」場合、「我は在る」。
ただ、「我」が「我」を「思わない」が存在するものはある。
動物や、正気を失った人間などがそうだと思う。
その行動の原理は経験による判断と本能のみ。彼らは世界を意味的に認識できない。
例えば、我々が夢を見ている時もそうであるように思われる。
ただ、「思う」は第一原因なのか?何かによって「思わされ」ているのでは?という疑問が新たに涌きました。
67 :
考える名無しさん:04/08/12 23:20
>>66 そもそも「我」とは自己を他者から識別するための語。あくまで他者の存在を
前提とする。少なくとも他者への考慮や言及があってしかるべき。この場合の我は
デカルト個人。コギトが他者にも同様に当てはまるか否かについての懐疑はなかっ
たのか。
何故「思う(疑う)」だけなのか。例えば「我歩く故に我在り」では何故だめ
なのか。
カント、ヴイトゲンシュタインその他のコギト批判の内容は?
デカルトのコギトは、精神は肉体から生じるという事実や他者の存在を無視した
自己中心主義、精神偏重主義の原因になったのでは?
>>67 いかなる間主観的な存在も、いかなる身体的な存在も
「考える我」によって中心化されないかぎり機能しないのではないか?
もちろん「考える我」だけでは完結しないことはその通りだが、
いわばアルキメデスの点として超越論的な自我によって
中心化されていないかぎり、自他関係や身体感覚に媒介された間主観的存在も
成立しないように思われる。
そういう中心としてデカルトは「考える我」の確実性を基礎づけたと考えるべき
であるし、そう考える必要が有るのではないだろうか。
>>67 援護、ありがとうございます。間違いがあれば訂正よろ。
>>67 >「我」とは自己と他者を識別するための〜
ここまでは同意。
コギトは「世界」から「我」を切り離し、「認識者としての我」を生み出す思想かと。
「世界の中に我がある」のではなく、「我が世界を認識する」。
>「我」はデカルト個人〜
?正常な意識を持つ総てのものに当てはまるかと
>何故、「思う」なのか。
「思う」が第一原因だと考えたからでは?
たとえ無意識であっても「歩こう」と思わなければ「歩けない」から。
>コギトは精神は肉体から〜
精神は肉体に依存しているけど、その肉体に意味を与えるのは精神。
肉体は「世界を認識する我」(目や手などの五感によって)であり、「我」は「世界を認識する我」を認識する。
>カント、ヴィトゲンシュタイン〜
カント、昔読んだ覚えが‥orz
ヴィトゲンシュタイン‥読んでませんorz
>>67 >何故「思う(疑う)」だけなのか。例えば「我歩く故に我在り」では何故だめなのか。
「我歩く故に我在り」は我に対する視点が既に我にないから。
正確には「我歩いた故に我在った」や「我歩く故に我在ろう」を指す。
未だ思推(我思う)の射程に捕われているといっていい。
述語の代数関係から論理的に方法的懐疑を取り出すことは
恐らく不可能なのではないだろうか。こいつは端的な意味論の
問題ではなく、自己言及を伴って成立しているから。
71 :
考える名無しさん:04/08/14 08:57
>>70 視点を変えて、物体としての人間が「在る」とはどういうことか。共同体による
存在という人間界の本質上、不特定多数の他者による認識が要件である。さもな
ければ幻覚に過ぎない。すべての人間が「我思う」だけで存在すると信じている
世界は化け物の世界ではないか。コギトこそはさらに克服・修正されるべき思想
である。
>>71 >不特定多数の他者による認識
間主観性は「我思う」の後にくる段階だろう。
>>72 同意。
>>71の理論では、人間は誰にも見られていない(他者に認識されていない)時には存在が不確定になる、ってことになる。それはちょっと変。
>>73捕捉
肉体としての存在は、認識される以前に存在しているはず。コギトが問題としているのはその認識される以前の段階。
思うの後に他者の認識が来てそのまた後に我の認識が来るんじゃないの
ずっと見てきたけど、あんたらコギト勘違いしすぎ。
>>41でも言ったけど、まずデカルト読んでから発言して欲しい。
言ってることめちゃくちゃだから。
>>66 > ただ、「思う」は第一原因なのか?何かによって「思わされ」ているのでは?
デカルトは神を否定した、なんて言ってたアホもいたが、
デカルト自身はこの根本要因に神(完全性)を置いてます。
>>69 > >何故、「思う」なのか。
> 「思う」が第一原因だと考えたからでは?
> たとえ無意識であっても「歩こう」と思わなければ「歩けない」から
違う。デカルトはそんな考え方をしたんじゃない。
どんなものも無いと想定できるが、無いと想定する自分は
無いことにできないから。
つーかそもそもコギトは、「思考」を「我」として考えているのだから
歩くとかの身体的動作はまったく関係ない。
>>71 克服・修正も何も、コギトエルゴスムは元々
存在論まで触れてるわけじゃないです。
「思考」って言うと範囲が広すぎてまずかった。
「思う」に訂正。
>>76 存在論は入ってるよ。sum のなかに。少なくとも読み込む余地はある。
脳みその中に小人飼ってる人いますか?
>>78 単に「在る」って言うだけじゃ存在論にならない。
「在るとはどういうことか」ってのが存在論でしょ。
読み込む余地ってのはあるかもしれないが、俺が指摘したのは
>>71が「コギトエルゴスムが存在論を述べていてそれを克服・修正する」ってこと言ってたから
それは違うだろ、ってことを言ったの。
81 :
考える名無しさん:04/08/14 22:15
>>72 >間主観性は「我思う」の後にくる段階だろう。
人間はおぎゃーと生まれたときから間主観的。いやその前のお父さんとお母さん
が出会う時からそうである。間主観性により人間そのものが成立する。
間主観性の前の「我思う」とは一体何?デカルトが使った言語自体が、間主観性
の典型的産物ではないか。
>>81 「我思う」が超越論的な主観性の基点として間主観性の前段階に要請されるのは
時系列的な成長順序の問題ではなくて論理的な存立順序の問題だよ。
ラカンの鏡像段階論やヘーゲルの相互承認論も同型の議論になると思うが、
「我思う」の超越論的な核を、論理的に前提とした上でないと
間主観性の機能そのものがナンセンスになるだろう。
間主観性そのものが一つの人格を成すわけではない以上、
複数の主観を統合し中心化する視点としての一人称的な「我思う」の核が
メタレベルで設定されないかぎり間主観性の概念も成立しない。
間主観性や共同主観性はそうした「我思う」の超越論的な主観を
論理的に先取りしているのだと思う。デカルトはそういう基点
の確実性を思考したと考えるべきなのではないのか。
83 :
考える名無しさん:04/08/15 20:44
>>82 デカルトは人間であり、人間とは物質としての肉体を持った存在である。物質は
不特定多数人が知覚しない限り「存在する」とは言えない。
個人の脳内での思考は、いかに「精緻」であろうとも、それが肉体(言語を含む)に
よって他者に認識されない限り、共同体であり徹頭徹尾間主観的な世界である人間界
において何の意味も持たず、無である。
人間界の本質が間主観的な関係だとすれば、「我思う」ましては「我在り」だけでは
無意味である。そもそも「我」も「在り」も他者による認識を不可欠な要素とする
示差的概念だからである。従って「我思う」を間主観性(共同体性)に優先させるこ
とは理論的にも誤りである。人間界の不可欠の構成要素である身体や他者を無視した西洋
哲学が砂上の楼閣である所以である。
84 :
考える名無しさん:04/08/15 21:17
|ω・`)
話が噛み合ってねーな
>>83 根本的に論点が違う。誰も「人間社会における人間の存在」を問題にしていません。
そもそも、認識されることで存在が確認されるなら、一番始めに他者を認識する者(存在しないが認識する者)とは一体何者?
あなたの論理では神がいないと成り立たないわけですが。
87 :
考える名無しさん:04/08/16 10:06
>>86 「人間社会における人間の存在」以外の「人間の存在」とは一体何?具体的説明
キボンヌ。
超大古のことは誰にもわからないが、恐らくは複数の人間が共時的に発生したの
だろう。アダム独りでは生殖活動もできない。共同体性・間主観性は人間の始原的
本質。この本質を無視した思考や議論は全く無意味である。従ってコギトは無意味
である。デカルトは人間の本質を見落としている。
>>87 共同体性・間主観性は、単独的な主観性を
前提しないかぎり、概念として意味を成さない。
逆に単独的な主観性ぬきの共同主観とはどんなものか?
たんにナンセンスだ。
89 :
考える名無しさん:04/08/16 11:12
>>88 その主観性そのものが、先人を含む他者によって、他者の影響下に形成
され、他者との係わりの中においてのみ意味を持つ。
「他者在り、故に我在り」が正しい。
>>89 他者に影響される主観性はすでに間主観化された主観性で
>>87 で言ってたような、アルキメデスの点として論理存立上
要請される単独的な主観性ではない。
間主観性をどのように説明するのかを考えてみれば分かる。
単独的な主観性の集合体から類推して間主観性の概念を理解せざるをえない。
したがって、間主観性が成立している事態を理解するには
間主観性へと複数の主観を束ねる中心化の核として
単独の主観の視点がつねに必要になるんだよ。
92 :
考える名無しさん:04/08/16 11:39
そもそも存在証明とは厳密には存在推定証明のことであり
存在自体を証明すると思考するのは単なるカテゴリーミステイクである
>>92 >厳密には存在推定証明のこと
どゆこと?
94 :
考える名無しさん:04/08/16 11:49
>>90 主観そのものが相互依存的、相互関連的であるとすれば、「単独の主観」
などそもそもありうるだろうか。
デカルトも他者の意見を前提として、それに対するアンチテーゼとして
コギトを唱えたに過ぎない。
95 :
考える名無しさん:04/08/16 11:53
自己の存在は自己による証明の対象とはならない。証明自体が自己の存在を
前提とする。
あぼーん
>>94 あんたの言っている他者って何?
自己とは別のもう一つの主観なのだとしたら
単独の主観性を導入することになるよ。
98 :
考える名無しさん:04/08/16 11:56
「我思う」から「我が在る」のではなく、「我が在る」から「我思う」が
可能になる。
99 :
考える名無しさん:04/08/16 12:00
自己とか主観は他者依存的。他者の自己・主観も同様。即ち、独立した
自己など存在し得ない。
100 :
考える名無しさん:04/08/16 12:03
>>93 存在を部分に分けることができる、という観念があるから、存在証明が
問題になるという前提をまず確認できる(存在は全体でしかないならば、
全体は観念できるから全ては存在することになる(そのように存在を定義
することになる))。
存在が部分に分けられることを認めたならば、まず、存在の部分と部分が
どのような関係にあるかを考えることになる。この部分で、静的に把握し
て、部分と部分の影響を無しもしくは小さく考えると、実在論になる。
部分を構成するのは別の部分(主観)でしかありえず、客観性は、主観的に
構成され、間主観的な合意の上に生じる概念であると考えるなら、構成主義
(認識論的相対主義)になる。
スレの展開では、実在論の立場に立つか、認識論的相対主義の立場に立つ
かで、存在証明の意味が変わるとされているが、論理的にはそうはならない。
なぜなら、実在論の立場は、ある存在の部分の内容によって別の存在の部分
の内容を規定することを認めない立場だから、存在の証明は、常に存在の
部分(つまり、誰かが何かを考えた出来事)でしかないことになる。
その、部分と部分(例えば、AとB)が、存在Xを承認したとしても、
そのことが、存在Xの内容を規定しないことは、実在論の帰結である。
だから、部分による存在Xの規定は、常に推定に留まることになる。
構成主義的な考えからは、部分によって別の部分が構成されると考える
ことになるから、当然、存在は推定的な性質を持つことになる。
だから、存在証明は、どういう立場に立ったとしても、存在推定の
証明のことであって、存在について語ることではない。
101 :
考える名無しさん:04/08/16 12:04
>>100 パラグラフ2の2行目「この部分で、」→「この論点で、」
102 :
考える名無しさん:04/08/16 12:15
それから、「我思うゆえに我有り」は、正しくない。
なぜなら、我思う、によって、我があることが前提
されてしまっているからだ。正しくは、「思う」である。
「思う」に我という前提は必要でない。なぜなら、思う
内容は、我を前提としないものでありうるからである。
原始的な人間は、「思う」ときに、存在の部分と部分を
わけ、特に自分の身体を他の部分と分けるなどして
我という観念を当然に抱いたとは考えられない。
(デカルトの命題は、そういう内容を述べてしまっている)。
神思うゆえに神有り
104 :
考える名無しさん:04/08/16 12:17
>>100 最後のパラグラフ「どういう立場に立ったとしても」
→「存在を全体と考える立場に立たない限り」
105 :
考える名無しさん:04/08/16 12:22
>>99 「即ち、独立した自己など存在し得ない。」という考えは、
構成主義の感性的帰結であって論理的帰結ではない。
他者依存的に自己や主観を定義することが認められるならば、
独立した自己という定義が存在しうることも認めるのが構成主義である。
独立した自己という構成をとったからといって、他者依存的であることを
説明できなくなるわけではない。
106 :
考える名無しさん:04/08/16 12:23
105に追加。「独立という言葉に、解釈の余地がないわけではない。」
>>102 それは思うという動作を「反省」しているだけだという現象学のアレですか?
>>107 自分の知っている議論にひきつけて考えないと理解できないのか?
>>108 説明が十分でなければ理解できません。
また、何人のなんらかの文化的知識的土台を基にしていますから、勘ぐっただけです。
そうでなければ哲学を体系化する必要はない。俺の人生観で十分になる。
110 :
考える名無しさん:04/08/16 16:48
少しロムってみたが
>>102 >我思うゆえに・・・・正しくない
↑
正解 74点!
後は自分の言葉で例を挙げて説明出来ればさらによし
112 :
考える名無しさん:04/08/16 18:29
>>109 抽象的に102の<説明が十分でない>ことを<匂わせたかった>んだねw
113 :
考える名無しさん:04/08/16 19:12
筋肉とリニアモーターを比べると、神なんていねーな、と思ってしまう今日この頃です。
>>113 プログラマーは?
>認識されるから存在する派の人に聞きたいんだけど
>自分が他人に「認識されている」ことをどう認識するの?
116 :
考える名無しさん:04/08/18 10:56
>>115 >自分が他人に「認識されている」ことをどう認識するの?
他人がその認識をあなたに表示してくれるから心配ご無用。表示が無ければ
あなたは無い。
117 :
考える名無しさん:04/08/18 11:04
>>115 リニアモーターに設計者はいるが、筋肉にはいないというのが正直な感想であるな。
118 :
考える名無しさん:04/08/18 11:18
>認識されるから存在する派
認識されるから存在する派は、認識以前に存在するという考え方が
帰納的な認識であると主張してるの。だから認識以前に何かが
あるという仮説の肯定・否定とはかかわらないんだよ。
そもそもそのような論点は消すの。論理的に。
119 :
考える名無しさん:04/08/18 11:21
>>116 >表示が無ければあなたは無い。
そんな非常識な結論は採られてませんよ(採る必要も必然性も無いし)。
自説の論理的な帰結を勘違いして、結論ありきでする議論の典型ですね116は。
120 :
考える名無しさん:04/08/18 11:27
>>117 私も、リニアモーターには、設計者はいて、筋肉にはいないように
設計と者の定義を下すほうが、両方にいるかのような定義を下すよりも、
理論的にも現実問題を扱う上でも適当な解決が得られそうだという感想を
持ちます。
>>116.118.119.
要するに「認識されて、それが始まり」ってことでいいんでしょうか?
>>117.120.
えっと、物理的な問題?俺は「リニアモーターがいかに人間的に動こうとも、プログラムされなければ動けない」みたいなことを言いたかったんだけど…。
頭悪いのでもうちょいと易しく説明していただけると…スマソ
>茶漬けさん
理解は俯瞰的にしなければ誤解になるだけだよ
123 :
考える名無しさん:04/08/18 13:40
>>121 予め、物を動かすという目的があって、その目的を効率的に達成できるように作られたリニアモーターは、
明確な極性の交代と同期が設定されている。
一方、筋繊維の微細構造は、リニアモータとよく似てはいるが、極性の分離もリニアモーターほどには明ら
かではなく、進行に際しても、効率的な同期システムではなく、ブラウン運動による偶然に近い偏りを用い
ているなど、行き当たりばったりでできてしまった仕掛けという感じが著しい。
プログラム以前の問題。
124 :
考える名無しさん:04/08/18 15:12
>>109 >何人のなんらかの文化的知識的土台を基にしていますから、勘ぐっただけです。
>そうでなければ哲学を体系化する必要はない。俺の人生観で十分になる。
「すべてを疑え」(デカルト)
人間性は複雑多様、千変万化で、体系化にはなじまない。
哲学とはどこまで行っても、結局は通常人の生活感情の説明であり、それ以上では
あり得ない。
>>124 >哲学とはどこまで行っても、結局は通常人の生活感情の説明であり、それ以上では
>あり得ない。
偉そうに言ってるが、つまらない哲学観だな。そんなものだったら哲学なんてやる意味ない
お返事ありがとう。
>>122 ふ〜む、今、熱に浮かされたわしの脳では理解できそうに…ozr
認識されて存在する派の著作ってなんかあります?ちょいと勉強してみます。
>>123 なるほどね〜。モノの効率として圧倒的なんだ。知らなんだ。今度筋肉とモーターの本を立ち読みして解った気になってきます(w
自分のゾーンじゃないので…読んでみたら興味でるかな?
127 :
考える名無しさん:04/08/18 15:38
熱に浮かされた脳で考えた哲学ファンタジーを一つ。
過去レスで「認識するが認識されない」モノなどあり得ない、とか自分で書いてるんですが、そりゃ神の属性じゃないか?
しかし簡単に神って言葉は使いたくないぞ?とか思って否定したんですが、
いわゆる「我」ってそうじゃないか、と。
肉体という認識器官が目や手などの五感で得た認識(感覚)を認識するところの「我」。
と言うことは我は神であるのか?
神の能力(全知全能とか無限であるとか)もファンタジーであるとしたら我を神って呼んでもいいんでは?
こ た え
↓ ↓ ↓
「精神」・・・あぅっ
「神経」・・・おぅっ
先人たちは医大、もとい、偉大でした。
俺の頭もdjね。寝てきまつ。変なレスでスマソ。
129 :
考える名無しさん:04/08/18 17:22
>>125 >偉そうに言ってるが、つまらない哲学観だな。そんなものだったら哲学
>なんてやる意味ない
通常人の生活感情に結局合致しない哲学など、人間の営みとは言えない。
>>128 「我思う」で神を作り出したのも我、その知覚により他者や自然を成立させる
のも我。我が神であるのは当然の帰結。
130 :
考える名無しさん:04/08/18 17:45
結局ウンチマンは存在すると同じレヴェル
>>129 お前にはこれで十分だ
やーい、ウンチマン!
132 :
考える名無しさん:04/08/18 19:55
>>126 生物全般、実によく出来ているようで、細かく見るとなるようになったとしか思えない「いい加減」な
仕掛けで動いていることが多い。総体としては複雑で、意図的に制御することは細胞1つでも大変に難し
いのだが、私には造物主のような存在の影が見えない。
>>129 非常に的確、かつ簡潔な要約アリガd。
んでもさ、哲学って結構人間社会から離れたところにあると思うのよ。
いわゆるトリビアみたいな。知ってたからってどうなのよ、的なさ。
人間社会に密着した人って、ソクラテスとかキリスト、孔子とかになるのかな?あれは哲学とは違うような気が…。
>>130,
>>131 ウンチマンって何?
>>129 が痛すぎなのは、
「人の生活感情」があたかも共有された自明のものであるかのように
前提されてしまっている点だな。そういうものを前提とするなら
哲学など持ち出す以前に、瀬戸内寂聴レベルの説教で十分だと思われ。
135 :
考える名無しさん:04/08/18 21:57
もちつけ
ウンチマンは、
「存在しないことが証明できない概念は、その実在性が保障される」
というウンコの様な命題が成り立つことを、当然ながら証明出来ずに、
ただのウンコに戻りましたとさ。
めでたしめでたし。
138 :
考える名無しさん:04/08/18 22:09
>>133 お前ただの馬鹿だったのな。
129のどこが非常に的確、かつ簡潔な要約なんだ。
ていうかね、そんなこと軽々しく言う奴が内容を
理解してることなんて、論理的にありえねえんだよ。
お前は長い文章を理解するのと要約を理解するのと
どっちが正確な理解に照らして容易だと思ってるんだ?
アフォは名無しでROMってろ。
139 :
考える名無しさん:04/08/18 22:12
科学者よ、科学が万能だなんて思い上がってアンタ一体何様だ?
じゃあ何?あんた宇宙の真理でも解いたわけ?
何が真実で何が虚構かなんて
ちっぽけな人間如きが解るわけないじゃない。
科学者はウンチマンにでもなったつもりか!
140 :
考える名無しさん:04/08/18 22:14
>>137 ウンチマンを信じず、ウンチマンを疑い、ウンチマンをインチキと言うのは
あなたひとりでよい。
ただ、その考えに他の人を引きずり込むのだけはやめて頂きたい。
これはウンチマン否定論者への、信仰者からの願いです。
141 :
考える名無しさん:04/08/18 22:18
>>134 生活感情は人間である以上無意識的に共有されてはいるが、必ずしも自明のものでは
ないからこそ、哲学で暴き出そうとするのではないでしょうか。
宗教家の説教は、神仏という固定観念に基づく布教活動であり、「通常人の生活感情
の説明」などではない。むしろ通常人にはない生活感情を人為的に飢え付けようとする
もので、哲学とは似て非なるものだと思います。哲学の仮面を被った「宗教」や「擬似
宗教」もあるので、注意が必要です。
>>141 >生活感情は人間である以上無意識的に共有されてはいるが、必ずしも自明のものでは
>ない
必ずしも自明でないものをなぜ「無意識的に共有されてはいる」と言い切れるのか。
人の生活感情は個々の文化の違いに依存すると思う。
「無意識的な感情」の普遍性こそ宗教にも比すべき信憑(ドクサ)ではないのか?
143 :
考える名無しさん:04/08/18 22:41
>>142 人間はすべて生物であるという事実から、文化の違いに依存しない普遍的な
生活感情も生じるのではないでしょうか。さもなければ、哲学も文化ごとに
区分しなければならず、普遍性など主張できません。確かに、西洋哲学と
東洋哲学とは大違いで、もともと普遍性など主張できないのかも知れませんが。
144 :
考える名無しさん:04/08/18 22:43
普遍性があると言う事にしておけば
↓
根源では繋がっている
↓
(そのときになって)支配統治しやすくなる、から
ウンチマンと聞いて、排泄物を連想するのは妥当な感性だろう。
まともな人間であれば、もし、あなたはウンチマンですね、と言われたら、
著しい不快感を示すであろう。
結局、崇高なる神の定義にウンチマンという蔑称を当てはめた人間の心根こそが、
排泄物の様に薄汚れていると言えるのではないだろうか。
>>138 >ていうかね、そんなこと軽々しく言う奴が内容を
>理解してることなんて、論理的にありえねえんだよ。
ここで論理的という用語を使うのは常識的に考えてありえない。
>お前は長い文章を理解するのと要約を理解するのと
>どっちが正確な理解に照らして容易だと思ってるんだ?
>ど っ ち が 正 確 な 理 解 に 照 ら し て 容 易 だ と 思 っ て る ん だ
日本語として、お前の文章は狂ってる。
>アフォは名無しでROMってろ。
きみもね
>>143 >人間はすべて生物であるという事実
そんなこと言ったら、他の動物と人間の違いも、生物であるという点で
一緒になるのではないか。というか、そもそも人間概念の普遍性・自明性に
疑問を付したのがアウシュヴィッツの経験(生活感情の共有されていたら
あんな大虐殺は起きようがない。肉食動物でさえあんなことはしない)であり、
それを考えることが現代哲学の課題ではないのか。
>>138 なんで?俺がだらだらと書いた文章を、俺が言いたかった内容そのままに要約してあったからそう言っただけなのに。
いきなりアフォ呼ばわりはひどいんじゃない?アホなんだけどさ。
149 :
考える名無しさん:04/08/18 23:11
>>147 ナチスやマルクス主義による大虐殺はいずれもドイツ観念論から生じたのでは
ないですか。キリスト教やイスラム教の大虐殺も、同様に観念論の結果です。
むしろ、人間が本質的には動物であるという自明の事実を忘れたためです。
動物は思想や宗教のために他を殺さない。
>>149 自然に還りたければ、2chなどやめて人気のない山奥かどこかで隠棲でも
していたらどうですか? 動物と戯れてさ。
151 :
考える名無しさん:04/08/18 23:18
>>149 全部ドイツ観念論のせいにするかw
お前むちゃくちゃだなww
今ふと思ったんだけどさ、
>動物は思想や宗教で他を殺さない
この違いは一体どこにあるのかな、と。
アフォな頭で考えてみるに、動物にとって餌は「狩る」物で、それ以上でもそれ以下でもないよね?
ところが人間は、原始には収穫物は「与えられた」物として、自然をまつったりしてたわけでしょ?
この違いはなんだろう。
宿題にします。おやすみなさい。
153 :
考える名無しさん:04/08/19 00:53
>>146 >>ていうかね、そんなこと軽々しく言う奴が内容を
>>理解してることなんて、論理的にありえねえんだよ。
>ここで論理的という用語を使うのは常識的に考えてありえない。
ありえると思うけど? 茶漬けと名乗ってる人は
内容がよくわからないと書いてたのに、要約に対して
非常に的確だとか簡潔だとか評価するのは、論理的に
ありえないことでしょ。要約は、要約される前の
内容から抽象化するものなんだから。
正確な理解に照らして容易・・・も意味通ってるし。
文章が狂ってる、みたいな書き方をするあたり、
君、茶漬けさんでしょう?
154 :
考える名無しさん:04/08/19 00:55
156 :
考える名無しさん:04/08/19 00:58
149にあっさり話をあわせられる茶漬けって一体・・・
あからさまに自演臭い
157 :
考える名無しさん:04/08/19 01:06
茶漬けのキャラって前にも見たことがあるよ。
つうか、彼って謙虚そうにしてても尊大さを隠し切れないよね。
アフォな頭で考えてると思う人間が、
>>152ような結論をとるんですかぁ?
仏教は他の経典や信仰とは違うと考えている輩はどうしようもなく粗雑に思想を扱っているに決まってる。まさかコーランも福音書も認めないなんて馬鹿はいわないよな
159 :
考える名無しさん:04/08/19 01:12
仏教は他の宗教とは根本的に違うよ。
仏教には神がないからね。
違わないね。仏教は確かに精神の直接的な理に違いない。そして創造神や唯一神のような神ではなく人間の生長の段階を神の一形態で表している。如来蔵とか菩薩地など。しかしそれはやはり対峙しているという意味で他の信仰と変わらない。
勿論、色即是空により一時の状態を得るだろうしかしもとに戻り対峙する、なんでもそうだ。仏教だけ特別なんてことは謂えない
162 :
考える名無しさん:04/08/19 01:39
>>161 「対峙」をどういう意味で使ってるの?
何と何が対峙してる?
あと、「神の一形態」というのはおかしいでしょう。
仏教は神を想定しないんだから。
神の一形態というのは仏像のようにちゃんと現されているじゃないか。勿論根本は唯識的にまったく対峙しているものを想定しないところにあるがでは何故仏像により象を与えられている?人間とは悟りに到達して尚、もう一度もとの状態に戻るものではないのか
164 :
考える名無しさん:04/08/19 01:50
>>162 仏は神ではありませんが。
仏像は、一般民衆に分かり易いように、
仏を対象化したものでしょうね。
165 :
考える名無しさん:04/08/19 01:50
仏教は特別ではない。絶対に
167 :
考える名無しさん:04/08/19 01:58
>>166 特別ですよ。
まぁ、それぞれの宗教は
それぞれに特別なわけですがね。
仏像を象にした人間がいた筈だ。必ずしも一般大衆向けに考え出されたものばかりではなく文化として結実したものであるに違いない。そしてそれは仏教の本質に根付いている
169 :
考える名無しさん:04/08/19 02:36
仏教は少なくとも「我思う故に我あり」などというアホなことは言わない。
すべての存在は他との関連において成立し得るものであり(縁起)、我などないが
(無我、色即是空)、我が投じられた現実こそ生きるべき世界である(空即是色)
ということを、すでに2500年前に喝破している。これって西洋哲学が現在未だ
一生懸命に考えても到達できてないことではないでしょうか。
>>169 悪いけど、それってやっぱり後出しジャンケンなんだよね。
しかも西洋へのルサンチマンを動機とした後出しジャンケン。
171 :
THE グル :04/08/19 02:48
>>169 いいですか、
なぜ、
「我思う故に我あり」がアホなことなんでしょうかね。
どうかしましたか?
172 :
考える名無しさん:04/08/19 02:53
>>170 ルサンチマンは、過剰な自己意識の存在を前提とする、西洋に特有の現象。
仏教には無縁だと思うが。
>>172 仏教の教えや信仰動機の中にルサンチマンがあるって言ってるんじゃなくて、
西洋哲学に対する仏教の思想的先駆性・優位性を強調する人の中にに西洋への
ルサンチマンがあるんじゃないか、と言ってる。
174 :
考える名無しさん:04/08/19 03:07
>>145 ウンチマンとウンチを混同してる時点で己の無知をひけらかしてるようなもの。
もっと宗教的・哲学的な見地からウンチマンについて勉強して出直して来い。
>>145 ウンチマンを否定したいのなら好きなだけ否定すればいい
それで己の心が満たされるのであればそれもまた真実です
だが私たちウンチマン信仰者は、あなた達を後目に真理へ到達することでしょう
176 :
考える名無しさん:04/08/19 03:16
あなたたちはウンチマンを否定して何か良いことがあるの?
ウンチマンを信じないことで何か得するの?
この世にウンチマンが存在しないだなんて、
私はそんな夢のない話はしたくありません
>>174 何でウンチマンなの?
例えば、フラワーマンでは駄目なの?
はぁ。なんでこんなことになってるかね。
ま、順番に。
>>153 >128のどこに「内容がわからない」なんて書いてあるんですか?きちんと結論づけたつもりですが。
>138には>148でレスしてますが?だいたい、>138につっこむなら、「論理的に説明して下さい」ってお願いしてます。文章の揚げ足取りなんかしても意味ないでしょ。
と言うわけで自演じゃないですよ。
>>155さん。
>>156 話をあわせるも何も、きっかけなんて何でも構わんでしょ。>149の内容を全肯定してるわけじゃなし。
>>157 >152のどこに結論が?
要約については、自分が書こうかどうしようか迷って、文が煩雑になるかと思って削った「我によって世界は認識される」ってことまで書いてるから、ちゃんと伝ったんだなぁ、と感謝したまでです。
ちなみに>128=>129もちがうよ。>129の要約には感謝してるけど「哲学は生活感情に合致すべき」と言う意見には反対してます。
>>178 何であの人は佐藤なの?
例えば、鈴木では駄目なの?
>>180 何であなたはウンチマンなの?
例えば、あなたの本名では駄目なの?
何であの人は佐藤なの?
例えば、あなたの本名では駄目なの?
183 :
考える名無しさん:04/08/19 23:37
あげるか
>>182 佐藤はただの別名。
ウンチマンは相手をクソ呼ばわりして侮辱する呼び方。
全然違う。
>>184 >ウンチマンは相手をクソ呼ばわりして侮辱する呼び方。
根拠の無いあなたの主観。
ウンチマンとウンチを混同してる時点で己の無知をひけらかしてるようなもの。
もっと宗教的・哲学的な見地からウンチマンについて勉強して出直して来い。
つーか、佐藤が「別名」って、意味不明???
187 :
考える名無しさん:04/08/20 14:43
おまえら何でどうでもいいことで喧嘩してんの?
188 :
認知MAN:04/08/20 15:00
認知MANを呼んだか!?
190 :
考える名無しさん:04/08/20 17:16
untiman
>>185 たとえキミがウンチマンという言葉に対して、
神の定義に重なる独自の定義を付与したとしても、
通俗的な普通名詞としてのウンチの意味=排泄物は温存されるという事は、
社会的常識を身につけた人間にとっては自明。
例えば、敬虔なクリスチャン達が居並ぶ教会で、
「私はこれからは神の事をウンチマンと呼ぶことにします。」
と、キミは恥ずかしげもなく言えるのだろうか?
多くのクリスチャンは神を排泄物扱いされたと思い、
不快感を示すだろう事ぐらい、キミには想像できないのだろうか。
キミは神について哲学的・宗教的な話をする以前に、
まず、常識を身に付けた方がいい。
192 :
考える名無しさん:04/08/22 09:29
>>191 それでは、ウンチマンが存在しないことを証明して下さい。
193 :
考える名無しさん:04/08/22 12:49
神とかウンチマンとかいうのはイデアだろ
もしも物理的に実在するとしたらイデア的完全性が
失われるのだから、実在はしない
証明終わりG.O.D.
194 :
考える名無しさん:04/08/22 12:56
言い換えれば神あるいはウンチマンは言葉の世界にのみ存在する
195 :
考える名無しさん:04/08/22 16:39
このように、誰もウンチマンを完全に否定できないことが
ウンチマンが存在することの証明である
>>192 話をそらさないでね。今は、神ないしウンチマンの存在・非存在の証明以前の、
次の点が問題となっている。
(1)神の存在・非存在を証明するために、「神」という呼び名を、
敢えて他の呼び名に変更する必要性があるのか?
(2)もし仮に(1)の必要性がある場合、例えばウンチの様に、
時として名付けられた対象を侮辱する目的のために使用される言葉を、
敢えてその呼び名に含めて採用する必要性はあるのか?
神の存在・非存在を証明するために、もし(1)も(2)も必要性が無いなら、
神の名は従来通り「神」で十分。
それなのに、敢えて神をウンチマンと呼ぶキミの目的は、
スレのタイトルにある神の存在証明などではなく、
単に、神をクソ呼ばわりすることで、神を冒涜し、
神の存在を信じる人たちに不快感を与えることだというのは明白。
結局、ウンチマンは神の存在・非存在の証明とは全く無関係だろうから、
激しくスレ違い。キミはもうこのスレに出てこなくていいよ。
197 :
考える名無しさん:04/08/22 19:13
これだけの人間ががん首そろえていくら必死にあがいても
結局誰一人としてウンチマンの存在を完全に否定できないじゃないか。
図らずも、その事実がウンチマンの存在を物語ってるとは皮肉だな。
>>196 >>184 >ウンチマンは相手をクソ呼ばわりして侮辱する呼び方。
根拠の無いあなたの主観。
ウンチマンとウンチを混同してる時点で己の無知をひけらかしてるようなもの。
もっと宗教的・哲学的な見地からウンチマンについて勉強して出直して来い。
199 :
考える名無しさん:04/08/22 19:21
≪ウンチマンの存在論的証明≫
ウンチマンは万能である。
ゆえにウンチマンは「存在する」という能力を持つ。(Q.E.D.)
200 :
考える名無しさん:04/08/22 19:30
この世の森羅万象のどこかにウンチマンが息を潜めて隠れているかもしれないので、
科学的実証主義の見地からウンチマンの存在は完全に否定できない
202 :
考える名無しさん:04/08/22 21:37
ウンチマン否定論者はネガティブすぎる。
もっと肯定的にものを見られないの?
糞でも食らってろ。
204 :
考える名無しさん:04/08/22 23:17
超越者ウンチマンは、ウンチマン否定論者のことを「愚か者」と呼びます。
一体全体、ウンチマンが存在しなくてどうしてこの「私」が存在できるというのでしょうか。
ウンチマン否定論者は、物事の一番根本の原理すら理解していない「愚か者」なのです。
205 :
考える名無しさん:04/08/22 23:20
?ウンチマンって排泄すること?
じゃ、ミミズもウンチマン肯定者ってとこかな
厨房のせいで一気に
内容のないスレになったし・・・あーあ
207 :
考える名無しさん:04/08/23 20:07
デカルトも、コギトで潰されたから、「神の存在証明」まで行けそうもないね。
どうせ下らん話だから構わんか。
208 :
考える名無しさん:04/08/23 20:14
神は存在する。(証明終わり)
神の存在証明は結局、これに帰着する。
しかし、神は実在はしない。
神が実在すると思うのは精神病。
209 :
考える名無しさん:04/08/23 20:26
210 :
考える名無しさん:04/08/23 20:28
神は心の中にいる
211 :
考える名無しさん:04/08/23 20:39
212 :
考える名無しさん:04/08/23 20:52
んにゃ、おれは神だ。
213 :
考える名無しさん:04/08/23 20:54
214 :
考える名無しさん:04/08/23 21:35
(・ε・)/age
215 :
考える名無しさん:04/08/23 22:47
デカルトの「神の存在証明」とは、三角形がドーしたとかいう問題でしょ?
読む気にもならんので、誰か解説頼む。
ウンチマンという超越者の立場からみたら些細なことかもしれませんが、
私たち信仰者ひとりひとりにとってみれば、それではすまないのですよ。
ウンチマン否定論者が「ウンチマンは存在しない、インチキだ」と言った責任は
否定論者自身が取らねばなりません。
ウンチマン否定論者は、ウンチマンが存在しないことを証明して下さい。
217 :
考える名無しさん:04/08/24 00:56
カントのアンチノミーをヘーゲルがどのように克服したな説明できるやしは居る?
218 :
THE グル :04/08/24 01:02
>>215 いいですか、
デカルトの神の証明について簡単に申しますと、
まず、
神という観念は明晰かつ判明でありまして、
而して神は無限的完全的存在者であるが故に、
有限不完全なる「我」からは生じず、
またそれ故に、
神の観念は神が我々に与えたものであり、
従って神は存在せねばならず、
我々の意識の中に神の観念が明晰かつ判明に含まれていることから、
神の存在が必然的に証明されるという人性論的証明なんです。
これが定説です。
どうかしましたか?
>>218 ホントですか?プラトンのイデア論が確かそんな内容だったような…。
220 :
考える名無しさん:04/08/24 17:31
>>218 そこに書いてある神をウンチマンに変えてもなんら問題はないのでは?
神とウンチマンは同じく信者を持ち。
一部は神を信じ、
一部はウンチマンを信じる。
一部は神を聖なるものとし、
一部はウンチマンを聖なるものとする。
ほら、まったく問題ない。
まぁ、まずは神とウンチマンの違いについて
教えてもらいますかな?
221 :
THE グル :04/08/24 17:41
>>219 いいですか、
本当なんです。
また、
プラトンのイデア論は,
全く関係ありませんが、
たぶん、
永遠なるイデアと合一し得る人間の精神(プシュケー)は、
また等しく永遠的存在を保たなければならぬ、
というあたりが似ていると思われたんでしょうかね?
どうかしましたか?
222 :
THE グル :04/08/24 17:44
>>220 いいですか、
デカルトの「神」とは、
信仰の対象としての存在ではなく、
また、
神格を持たないものなんです。
厳然としてあるもの、
それが、
「神」なんです。
どうかしましたか?
223 :
考える名無しさん:04/08/24 18:54
人間には自由が与えられています。
その自由は真なる信仰を妨げるものであっては断じてなりません。
ウンチマンに対抗する者は、逆にウンチマンに対抗されるということです。
これは、自由であるがゆえに、その責任はその者が負わねばなりません。
それでは、ウンチマン否定論者はウンチマンが存在しないことを証明して下さい。
ウンチマンは、もういいって。
225 :
考える名無しさん:04/08/24 23:45
>>218 おそろしく主観的で、「証明」などではないね。「我神思う故に神あり」という
ことですか。完全性の判断も、彼自身の主観的判断に過ぎない。「考え得るものは
実在する」と言うが、想像と現実の区別もつかなかったのか。「すべてを疑え」と
言いながら、何故「神」だけは疑えなかったのか。既にキリスト教に影響されていた
ことの結果以外には考えられない。
226 :
THE グル :04/08/25 00:07
>>225 いいですか、
いえいえ、
そうではないんです。
デカルトはご存知の通り、
疑いえるものは何でも疑って、
そこに真理を見出そうとしております。
デカルトの、
人性論的証明もその例外ではないんです。
また、
>「我神思う故に神あり」ということですか
といわれているような、
単純なものではないんです。
まあ、
実際にデカルトの著作に触れてみれば、
その証明の意味が解るんです。
どうかしましたか?
神というのは、少なくとも、我々にとっての対象ではなく、
むしろ、我々のほうが、神にとっての対象なのではないか。
主語概念の発達していない、我々日本人にはピンとこない。
228 :
考える名無しさん:04/08/25 09:19
229 :
考える名無しさん:04/08/25 11:05
>>226 >実際にデカルトの著作に触れてみれば、
>その証明の意味が解るんです。
こんな主観まみれの著作を読むことに意味があるのですか。カルト宗教の
教祖とどこが違うのですか。大学生でもデカルトみたいな答案書いたら不
合格でしょう。
230 :
THE グル :04/08/25 14:20
>>229 いいですか、
文学板の【我思う故に我ありaaaa】というスレの、
>>139や
>>190や
>>271をご参照していただければわかっていただけると思うんです。
まあ、
ここには、
グルがデカルトについて色々詳しく書き込んでいるんです。
それでも解り難いようならば、
改めてさらに詳しくご説明差し上げるんです。
ちなみに、
デカルトのような回答をされた大学の教授は、
彼に対してその反論は容易では無いでしょうね。
といいますのも、
あなたが主観的であるといっておられた
>>225での、
>完全性の判断も、彼自身の主観的判断に過ぎない。云々。
という文に関しましては、
当然、デカルトは「神」についても方法的懐疑を怠っていませんし、
彼の幾何学(数学)的な試みによる論証はまた、論理的かつ明晰なものであり、
彼はさらに自身に対する批判を求め、
それに回答していたりするんです。
また、
完全性につきましては、
物事に対して真理は常に一つの事柄に対して一つしかなく、
それ故に、
少しでも疑いえるものは究極的には「偽」に過ぎないと退けているんです。
そして、
その徹底した真理探究の功績や第一原理の確立から、
近代哲学の父とも呼ばれているんです。
あなたの場合は、
デカルトの『方法』や『省察』に先に触れておいた方が良いかも知れませんけどね。
これが定説です。
どうかしましたか?
231 :
考える名無しさん:04/08/25 16:11
>>230 そこでは、完全に神の存在を疑っていたか
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
皆さんはウンチマンの
ウンチを汚物の呼称としかとらえていない
たとえば「ウンチ」という呼称はGODなど言う
違う言語とかんがえれば。
(ウンチ=ウンチ)はあくまで日本語の範疇ですから。
もし、ゴッドという音が日本語でウンチという意味であったなら。
似てる音のGODもウンチというイメージを持たれたでしょう。
「掘ったいもいずるな」は英語の
「What time is it now」
を日本人が音としてとらえたものです。
このように似てる音をそのまま表記すると別の意味になるものもあります。
つまり
音のみでイメージをとらえるなって事だ。
233 :
考える名無しさん:04/08/26 09:47
だったらウンチマンが存在しないことを証明しろよ!
235 :
考える名無しさん:04/08/28 02:39
「ウンチマン」という言葉に特別な意味を持たせている人もいるみたいだけど、
一般的には
ウンチマン=小学校の時、教室でウンコもらした友達
程度の認識じゃない?
ウンチマン=神
が成り立つ物の考え方は、天才バカボン位じゃない?^^
>231
音のみで判断するなってのはわかる。鳩はベトナム語でチンポコだっけか?
けれども、だったらウンチマンというのは何語の単語なのかい?
そういった語はどんな概念を指し、その言語の中でどのように
使用されているか説明できるの?
少なくとも日本語ではその語に対する概念は定まっていないし、
そういった歴史も見当たらない。俗語やウンチとマンの複合語と
考えるのが妥当じゃないのかい?
いくら不在証明ができなくとも使用に耐えられる概念を持ち、
尚かつ歴史にも耐えてきた「神」という語と比較することには無理があるよ。
えーとそろそろ解釈論か主観論に帰着しそうとは懐疑主義者の意見。
我々は神という概念の周りをいつまでも一定距離を保ちながら回りつづける
のではあるまいか?円を描くことでその中心が生じるように。
ところでウンチマンは受けたなw
238 :
考える名無しさん:04/08/28 15:12
このように、誰もウンチマンを完全に否定できないことが
ウンチマンが存在することの証明である
>>235-236 ウンチマンとウンチを混同してる時点で己の無知をひけらかしてるようなもの。
もっと宗教的・哲学的な見地からウンチマンについて勉強して出直して来い。
240 :
考える名無しさん:04/08/28 18:34
宇宙や自然の美しさ、その秩序と法則を見ると、
それらが勝手に、偶然にできたと考えるには、
余りにもよくできすぎているとお感じになったことはありませんか。
これはウンチマンが創造したとしか考えられません。
糞でも食らってろw
243 :
考える名無しさん:04/08/28 21:13
本読んでないけど、詭弁を展開して存在証明をしようとしてるわけだろ。
証明できるはずないものを、証明したっていってるわけだから。
俺も読んでないけど、面白そうな本ではある。バベルの塔の
ガレキの山。
まー、なんと言うか、神とウンチマンは違うんだよ。
神のアナロジーで説明した方が分かり易いかなーってだけで。
だから糞は糞でも食らってろってw
247 :
考える名無しさん:04/08/28 22:02
デカルトによる神の存在証明:
方法的懐疑によって、絶対に疑いえない「我思う、故に我有り」…@ を見いだす。
→自分の思考は不完全である。もし完全なら、@の真理を即座に見いだせたはず。
→自分の思考という不完全なものから、@の様な完全な真理は創り出せない。
→@の真理は、完全なる存在が不完全なる自分に予め与えていたものと考えるしかない。
→故に、完全なる存在=神は存在する。
こんな感じかな?
デカルトによるウンチマンの存在証明:
方法的懐疑によって、絶対に疑いえない「我思う、故に我有り」…@ を見いだす。
→自分の思考は不完全である。もし完全なら、@の真理を即座に見いだせたはず。
→自分の思考という不完全なものから、@の様な完全な真理は創り出せない。
→@の真理は、完全なる存在が不完全なる自分に予め与えていたものと考えるしかない。
→故に、完全なる存在=ウンチマンは存在する。
こんな感じかな?
荒らすな!>ウンチ粘着厨
250 :
考える名無しさん:04/08/29 01:05
>>247 そんなものは主観の塊で、証明などとは言えない。「我思う故に我あり」の命題から
して誤りである。肝心の「我の身体」が抜けている。
251 :
考える名無しさん:04/08/29 01:07
あほ
私は自分が無知であることを知っている。
なので、ここの掲示板に書いてある事は、全て自分の心の声として
拝見しています。
私がウンチマンという言葉を考える時、私にとっては
ウンチマン=ウンコ漏らした人
これ以上、何の意味もありません。
ウンチマンという言葉に、神と同等の意味を与えられるほど
賢くないので、ある意味、ウンチマン=神と考えられる事が素晴らしいですね。
ただし、上記の発言にあるように
>たとえば「ウンチ」という呼称はGODなど言う
>違う言語とかんがえれば。
との発言疑問を感じます。
まず、考える必要がない。時間の無駄、と私は思うからです。
ウンチマンという言葉が無かったとしても、私自身、何の問題もない。
同様に、ウンチマン=悪魔とも、ウンチマン=電車とも、ウンチマン=チン●マン
とも考えません。
>このように似てる音をそのまま表記すると別の意味になるものもあります。
ウンチマン=神 の発想から、この結論が出せたのであれば、すごいと思います。
但し、
>「掘ったいもいずるな」は英語の
>「What time is it now」
>を日本人が音としてとらえたものです。
これは私自身、中学生の時習いました。
私はウンチマン=神と考えなくても、中学生の時に知っていました。
似てる音をそのまま表記すると別の意味になるものがある事を
神という人類共通の存在を考えるとき、必要の無い考え方を処理してゆくこと
も必要だと考えます。
254 :
考える名無しさん:04/08/29 01:15
またウンコたれちゃったよ…
255 :
考える名無しさん:04/08/29 01:16
自分が何をしてるか分かってないんだろ
256 :
考える名無しさん:04/08/29 11:59
デカルトは、神や三角形は(心の中で)はっきり認識できるから存在する、と言って
るようだが、教会や小学校で神や三角形について情報を得ていたからそう認識できる
だけではないのか。彼は経験ということについてはどう考えているのか。
また彼は、他人も彼と同じように認識しているのかどうかについては、疑わなかった
のか。
まあ、主観(コギト)もこれだけ徹底すれば大したものだが、あくまで彼の主観に過
ぎない。
まあ、神について語ろうって時点で
主観にならざるをえないわけだから、このスレ的には
デカルトを批判できないでしょ。
神と生の目的とに関してわたしは何を知るか。
わたしは知る、この世界があることを。
わたしの眼が視野の中にあるように、わたしが世界の中にいることを。
世界について疑問となるものがあり、われわれはそれを世界の意味と呼ぶことも。
世界の意味が世界の中になく、その外にあることを。
生が世界であることを。
わたしの意志が世界を満たしていることを。
わたしの意志が善か悪かであることを。
ゆえに、善悪が世界の意味となんらかの形で関係していることを。
生の意味、すなわち世界の意味をわれわれは神と呼ぶことができる。
そして父としての神という比喩をこのことと結びつけることができる。
258 :
考える名無しさん:04/08/29 23:39
>>257 人間界において「善悪」の基準は何か?少なくとも架空の神ではあるまい。
>>257はウィトゲンシュタインが戦時に書いた文章。
神の証明というより神の定義って感じだね。
260 :
考える名無しさん:04/08/30 14:23
>>259 ヴィトゲンシュタインも既にキリスト教の影響を受けているのではないですか。
>>257も何だかよく判らん文章。
デカルトを初めとして、一般に西洋哲学は、「人間は共同体としてしか存在でき
ない」という自明の事実を忘却しているから、あまり論じるに値しない。
>>257補足
>神について語ろうって時点で主観にならざるをえない
もしあるものが客観で語れるとしたら、それは普遍的に観測可能なものだということ。
だが、神は観測不可能(超越的)なものだから、客観では語れない。
すなわち、語る場合は主観によって語ることになる。
>だからこのスレ的にはデカルトを批判できない
このスレは、神について語ろう(=主観で語る)というスタンス。
だから「コギトはデカルトの主観に過ぎないから」という理由では
お互い様だし、デカルトを批判できないんじゃないかってこと。
でも今考えたら「神」の定義次第で話は変わってくることに気づいた。
>>257は忘れていい。
>>260 キリスト教の影響はかなり受けていたようだから
確かに神について語ってる部分はそれを考慮する必要があるね。
ただ、デカルトはニュートン以前な時代なわけだし、本人が論証のために
神概念を完全性にあてたのも無理はないよ。
つーか、デカルトの言う神は完全性のこと(比喩)なだけだから
このスレで挙がってる彼の批判は
勘違いに由来するまったく意味の無い物ばっかり。
もし認識者の全てが認識できるものがあるとすれば、それは認識する行為そのものである。
神をそういうものだと定義するなら、認識者は神と一体でないかという疑問がわく。
しかし、認識者は不完全である。もし完全なら、あらかじめ全ての真理を見出せるはず。
何かを認識しうる存在である認識体は、完全なる何か=神に認識させられているのだ。
ゆえに、普遍的なもの=神は認識者とは別個のものとして存在する。
263 :
考える名無しさん:04/08/31 19:20
>>262 言ってることが矛盾している。認識者が不完全ならば、完全なる何か即ち神を
どうして認識できるのか。
不完全だから完全なる「神」を生み出したたたたたた
デカルトの「我思う故に我あり」について一言。
自分について考えている自分が何故自分であると言い切れるのか。
266 :
THE グル :04/09/01 13:34
>>265 いいですか、
もし仮に自分が誰かに巧妙に操られているとしても、
操られる対象になっている自分が存在することになるからなんです。
どうかしましたか?
267 :
考える名無しさん:04/09/01 13:42
自縛霊の自爆テロ
>>266 すまん、言葉を間違えた。
考えている対象が何故自分だと言い切れるのかってことを聞きたいんだよ。
中島義道の本にも同じようなことが書かれてあって、確かに何でだろうと。
269 :
THE グル :04/09/01 17:24
>>268 いいですか、
あなたが、
他人に対して、
自分に対する様に同じようには認識したり思惟できないからなんです。
どうかしましたか?
考えられてる自分の方なのか、考えてる自分の方なのか
ややこしいな。言語の不完全性を改めて知った。
どっちにしろ、デカルト自身は
「そのように考えている必然的に存在しなければならい何者か」を
「わたし」と定義してるだけで、詳しくは触れてない。
>>271 そうなんだよ。だから「我思う〜」をデカルトは
完全に説明しきれていないと思うんだよな。
273 :
考える名無しさん:04/09/02 02:39
>>264 だから、不完全なデカルトがどうして完全な神を生み出したり、認識出来るのかを
聞いているのです。そのような「完全」自体も矢張り「不完全」に止まるのでは。
「完全」「不完全」の判断基準は、一体何なのですか。
逆に、完全な神を生み出したり、認識出来る人間は、不完全などではなく、完全
とは思いませんか。そもそも、完全・不完全の概念自体、人間が作ったものに過
ぎず、神などとは関係ないものです。
>>273 >「完全」「不完全」の判断基準は、一体何なのですか。
デカルトの言ってる「完全」「不完全」は神との対比ね。
「完全」は「全知全能」みたいな意味で、そうじゃないのが「不完全」。
>不完全なデカルトがどうして完全な神を生み出したり、認識出来るのか
彼は神について考えることと神を生み出すことは別のことにしている。
(=神について考えることは神を生み出すことを意味しない)
だから最初から認識云々は関係ない。
不完全から完全は生まれない、
だから完全が独立して存在しなければならないってだけ。
彼の行った論証↓
1:考える私は存在する。
2:従って、私の考え自体、即ち概念も存在する。
3:次に、私は完全な存在者、即ち神を考えることができる。
4:ところが、私は全てを知っているとは言えない不完全な存在であることは明らかである。
5:不完全なものから完全なものが生み出されるわけはないから、私は神の根拠(神の存在の原因)となることはできない。
6:すると、神は私の存在とは独立自存すると考えざるを得ない。
もちろんこれは、要するに神が存在することを前提としているようなわけだから
突っ込まれてもしょうがない。
>そもそも、完全・不完全の概念自体、人間が作ったものに過
>ぎず、神などとは関係ないものです。
完全・不完全の概念と同様に
神も無形で人間の考え出したに過ぎないものじゃない?
(結局神の定義によるかもしれないけど)
276 :
考える名無しさん:04/09/08 23:37
神は科学的には存在しません。
なぜならば、その存在が立証責任のある肯定側によって未だ証明されていないからです。
277 :
考える名無しさん:04/09/08 23:42
>>276 >神は科学的には存在しません。
存在論的には存在するかもしれないよ。
ハイデガーも言うように一般にいう「科学」は存在者しかとりあつかうことができず
存在者の存在を取り逃がしてしまうからね
278 :
考える名無しさん:04/09/08 23:43
ontological は正しくは「存在論的」なので
このスレでは「神の存在論的証明」について議論すべきのはずだ
279 :
考える名無しさん:04/09/26 20:56:07
ウンチマンは存在します。
主は人間・ウンチを超越しているので
私たちには見えません。
童貞特有のしつこさだね。>ラウンジャー
存在論はインチキです
282 :
考える名無しさん:04/10/09 04:22:00
283 :
考える名無しさん:
Yahoo!掲示板科学哲学カテのウンチマントピックが消えてた