身近で具体的な悪について

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1考える名無しさん
身近で具体的な悪についてできる限り精確に考えてみてほしい。
可能であるならば、実例をあげて語ってほしい。
身近で具体的なちょっとした悪をなんとなく許容してしまうことで、
巨悪を誘発、或いは受容する下地が不覚にも心に形成されてしまうのではないか?
この前の日曜日、郵便受けに静かに投函された印刷物を読んでふとそんなことを考えた。
印刷物の内容は企業の不正を暴いたものだ。概要は下記のとおりである。パスカルもいうように、
悪いやつはいつもいるものなのだ。

東証1部上場、ニチガス(日本瓦斯株式会)は、
営業スタッフの報酬をJCB商品券で支払っている、という。
証拠物件として、労働契約書の実物コピーが掲載されている。
報酬をJCB商品券で支払う、というのは労働基準法、第24条に抵触することはもとより、
組織的な脱税の可能性が濃厚だという。
さらに、同社のマルチまがい的なブローカー組織の実態も暴きだしている。
「このようなことは、健全なる社会常識・正義に鑑みて、とうてい許されることではない。
本紙は激しく抗議する」とある。
2考える名無しさん:04/06/09 18:31
>>1
最近三日間でスレいくつたてた?
3考える名無しさん:04/06/09 18:32
>>2
これを含めて2本です。
4考える名無しさん:04/06/09 19:17
>>1まずは悪が法律により規定できるものなのかどうかから考えてね。
というか、草食主義者からみれば肉食だって悪だし、地球温暖化が悪だと思っている奴だっている。
そういう奴は単なる馬鹿っていうんじゃなくて、それなりの価値観の枠を構成している普通の奴なんだ。
正義と悪・・・倫理観みたいなものの構成の上で、その枠は何かを仕切る形でしか存在できない。
全部おんなじーっていうのは、つまりあやふやってことだからだ。
5考える名無しさん:04/06/09 21:00
>>4
君の言うとおり、善悪を判断するにはなんらかの原理(枠)が必要になる。
ニーチェあたりから、原理(神)があやふやとなり、遂には解体され、
再構築できずにいる。このことを私は好ましく思っている。
原理など必要ないと思う。危険だと思う。
でも、それとは別に実感として悪が存在している気がしてならない。
具体的でリアルな悪だ。それは目の前にある。
しかし、神が死んで以来、いま、そこにある悪でさえ重さを失い、現実感がない。
だから、ニーチェは永劫回帰などという奇妙な思想にとりつかれたのではないか。
悪事も無限回繰り返されれば、リアルで露骨な悪がたちあらわれ、
本来の重量を回復するのではないか。
6考える名無しさん:04/06/09 21:09
>>5
そう考えると、永劫回帰という思想は、
神なき後の形而上学の変種ということか。
7考える名無しさん:04/06/09 21:20
>>1
ところで君はニチガスという会社に何か恨みがある、
というわけではありませんよね?
8考える名無しさん:04/06/10 00:13
悪について本気で考える気があるなら、>>1は2ちゃんにスレを立てないと思う。
悪は思弁的に捉えるだけでなく、周りの、信頼できる人間と共に捉えねばならぬものだから。
9考える名無しさん:04/06/10 00:14
そのことを、悪に対して本当に厳しく考えているならば、直観的に理解するだろうから。
10考える名無しさん:04/06/10 17:44
>>6
形而上学そのものだと思う。
悪が無限回繰り返されることによって、
その悪が悪そのもの(悪のイデア)に無限に近づくことになる。
1回だけの悪はすぐに消えてしまう。
ゆっくり考えて反省する暇もない。
11考える名無しさん:04/06/10 17:46
>>7
怨みはありません。全然。
12考える名無しさん:04/06/10 17:52
>>8-9
できれば、もう少し詳しく語ってほしい。
「直観的に理解するだろう」と言われてもちょっと困ってしまう。
私は、いま、そこにあるリアルな悪を言葉で厳密に捉えたいのだ。
13考える名無しさん:04/06/10 20:14
ニーチェは神=形而上学を否定したのではなかったの?
14考える名無しさん:04/06/10 20:39
神=形而上学を否定するとニヒリズムに陥る。
でも、ニヒリズムとは裏返せば、神=形而上学への強い憧れなのである。
と、デリダさんが書いています。
15考える名無しさん:04/06/10 21:02
神のゾンビっているのかな?
いまの社会をかろうじて支えているのは神のゾンビなんじゃないかな。
16考える名無しさん:04/06/10 21:07
ポストモダン(悪)
17考える名無しさん:04/06/10 21:30
私の最近の問題意識では、悪は秩序性に対する無秩序状態であると思う。
善悪、快苦に対する問題意識があり、それを選択することもできるのだけど
条件のいい選択もするけれど、順序(秩序)をはき違えてしまったような状態。

だいたい他人に疎まれるのは、論理の省略だったり、意志疎通の齟齬だったり
するわけで、そういっためんどくさい作業を省略せずにすることが善なのであって
確実な行為であって、悪(罪悪感)は秩序を無視した行為から生まれるのだと思う。
本当はああすれば良かった。って感じで。具体的ではないが、具体的に考えることは
哲学でないと思うから(あくまで私見だからそこにはつっこむな)そんなつもりでよろしこ。
18考える名無しさん:04/06/10 22:13
>>17
君の文章を読むと、美しい星空を眺めているいるような感覚にとらわれる。
人間にも、宇宙論的なきわめて厳格な法則(秩序)が存在しているのではないか、
と思えてくるほどだ。
問題は、無秩序(悪)を無秩序(悪)と認識する能力の麻痺、
あるいは無秩序(悪)を繰り返せばそれが秩序となるという錯覚、
あるいはこの両者から生じる無感覚である。
つまり、いとも簡単に悪をおこなえることである。
19考える名無しさん:04/06/10 22:39
>>15
哲学板には神のゾンビが多数いるようですが。
20考える名無しさん:04/06/10 22:59
>>18
確かにね星を見ているように自分を見つめているよ。
そんなものがあると仮定して模索している。
つか模索している振りをしているだけかなあ。

>つまり、いとも簡単に悪をおこなえることである。
うーん、別にそう解釈しても良いけれど、私の美しい星空はこう言っているね。
『 いとも簡単に悪を行えてしまえること 』と、

ただこれは興味深いね。
>あるいは無秩序(悪)を繰り返せばそれが秩序となるという錯覚、
これは否定したい。無秩序は無秩序。秩序と無秩序は二元論ではない。
これは一元論のモチーフだよ。

(有)秩序        (無)秩序

有と無は一元論だからね。
21考える名無しさん:04/06/10 23:44
悪とは何か?
悪とはマジョリティにとってマイナスとなることだ
22考える名無しさん:04/06/11 00:09
ちょうどパスカルのパンセを読んでいる途中なので、それに沿って書く。

神へ実在性への懐疑論はなんら最近の出来事ではない。
これはずっと昔から行われていたこと。

だからニーチェの『神は死んだ』という文句における近代の神性の崩壊は虚実、
むしろ虚妄にすぎないと思う。というより私には、近代化そのものが“神性の放棄”という
解答を持っている。つまり近代化は『神を殺す』作業なのだということ。

で、ちなみに何がパンセの護教論における論点かというと信仰そのものにあるのだ。
当時のキリスト教は完全な一神教であったために、その他の宗教について考える必要も
なかった(あくまでこれは億見だが、少なくとも馬鹿げた宗教対立にパスカルは加わること
はなく、彼は宗教内部での対立と、哲学(者)への懐疑の姿勢を一貫して取り続けていた)

で、パンセの『賭の必要性について』の章を読んでもらえれば、はっきりと分かるのだけど、
これは神の実在を信じる人の書く論理ではない。神は信じるべきものという当為問題に対する
論理について書かれているものだということ。

そしてこれは一昔前の新興宗教の布教活動の際の文句となんら代わりがなかったりするのだ。

『神を信じていれば、死んだあとに幸福が約束されるのだ』  とね。

一見ふざけた論理だと思う。しかしこれが信仰そのものであることも確かだろう。
そして信仰を賭の対象にしてしまっているパスカルほど諧謔性に富んだ奴もいないだろう。
まあしかし彼ほど神を信じようと試み続けた人間もいなかった。彼のこの二面性は、善悪に
ついて考えるには大いに参考になると思う。善行を行うためには悪行についての論理を、まず
知っておかなければならないのだからね。パスカルの言葉からそういう風に受け取ることも
できるのだ。
23考える名無しさん:04/06/12 03:39
a
24考える名無しさん:04/06/15 21:06
>>22
形而上学=ロゴス中心主義=人間中心主義が近代の神を担保してきたと私は解釈している。
パスカルはこの近代の神に耐えられず、信仰に担保された中世の神に固執したのである。
ニーチェが殺害したのは近代の神である。
パスカルの神とニーチェの神は血縁関係にはあるが、似て非なるものなのである。
なお、近代化は神を殺す作業とあるが、西洋の神の場合、これは正反対である。
西洋の一神教の神こそ近代化を担保してきたのである。
日本の多神教の自然神の場合だと、近代化(西洋化)は神を殺す作業だといえる。
宮崎駿がよく扱うテーマである。
25考える名無しさん:04/06/15 22:10
GODを神と誤訳したことからすべての誤解が始まった。
GODと日本語の神は全然ちがう。
26最強 ◆tDcxI0UjF2 :04/06/16 22:06
そんなことは屁理屈だ
力は絶対だ。使え。
27考える名無しさん:04/06/16 22:41
>>26
強力な力を担保するのもまた神である。
ブッシュもきわめて頻繁に神ということばを口にする。
理屈ぬきでは、力を行使することはできない。
28 :04/06/17 03:54
>>24
確かに、神を精神の在処とした場合にニーチェの殺した神は“ロゴス”と言えるでしょう。
しかしパスカルの時代に殺されてしまったのは実在する神だったと思います。
しかしニーチェが殺したのは“ロゴス”であって、実在する神ではないですよね?
そしてロゴスのことを神と呼ぶ人はいません。ロゴスは神ではありません。
あなたはロゴス(理性)が神を担保にしているとでも言うのでしょうか?
またロゴスの原理が神性によって構築されるとでも言うのでしょうか?
おそらくニーチェは論理(ロゴス)を『神』と(わかっていながら)はき違えたのだと
私には思われるのです。私はその内容の欠落を示したに過ぎないわけです。

なぜならプラトン、ソクラテスから始まって、デカルト、ヒュームで発展の契機を遂げた
論理(理性)主義の哲学者たちが、実在する神々たちの属性(神性や超越性)を、
そのロゴスによって殺してしまったのが本当なのでしょ? (しかし哲学者たちは超越性は
ずっと保持しつづけたけれど) パスカルはそれらの哲学者の行動を痛烈に非難(批判)し
ていたのです。
29 :04/06/17 03:55
(つづき)

逆にその時代に、他の哲学者からパスカルが信仰に固執しているとの批判があったのでしょうか?  
また、私はデカルトやヒュームの神の実在への批判を知りません。彼らは神の存在について
沈黙しています。その沈黙をパスカルは痛烈に非難していたわけです。あなたはパスカルの
『パンセ』を読んだのでしょうか? あの時代の宗教論争をご存じなのでしょうか?
どうしてあなたが『パスカルは神に固執した』などと時代考証を考えない表現ができるのか、
とても不思議なのです。

そして読めばはっきりと分かりますが、彼は神の存在を、神を信じることによって徹底的に懐疑
しています。彼は自分の精神の内にある哲学と宗教のそれぞれの立場の相克にずっと苛ま
れてきました。それが彼の宗教の内部批判『カソリックとプロテスタントの宗教対立(プロバン
シャルにおける)』にも繋がっていることを忘れてはいけないと思います。

まあ、しかし彼は哲学者(おもにデカルト)を痛烈に批判しましたが、彼は哲学書を読むこと
を有益だと主張しています。これはどういうことか簡単に言うと、宗教と哲学の対立を設ける
ことによって、そこにある『善意そのもの』が保護されるために、悪徳そのもの概念を退ける
ことができると言うわけです。もしくは悪徳に打ち勝つ精神がそこで出現するわけです。
30 :04/06/17 03:55
(つづき)『近代化について』『担保について』の批判

>なお、近代化は神を殺す作業とあるが、西洋の神の場合、これは正反対である。

正反対もなにも、あなたは“担保”の意味を勝手にはき違えているように思えます。
神は近代化のために担保に『された』のです。あくまで、神性が、近代化を推し進め
たわけではないでしょう。それとも神の預言を聞いた救世主が世迷い事で近代化を
推し進めたとでもいうのでしょうか? 担保という意味を考えると、その担保されてしま
った神(モノ)の“意志”は普通は無視されませんか? その無視と言う行為は事実上
は神を殺しているのではないですか。

ちなみに言っておきますと『神性(おそらく悟性とほぼ同質のもの)』と『論理(理性)』は対概念
です。ですからあなたは正反対の逆を、言っていることになるのです。ですからむしろこの
『神が“担保”にされた』と『神を殺す(傷つける)』は同じ行為なのではと私は思います。
そしてこの近代化が、神を傷つけた(殺した)と解釈する論理はむしろ西洋から多く提出
されているのではないですか? サルトルの実存主義など、近代化による、人間存在の闇
(病理)を克明に描いたものと私は認知していますけどね。
31 :04/06/17 03:56
(つづき)  『多神教、一神教について』 の批判

>日本の多神教の自然神の場合だと、近代化(西洋化)は神を殺す作業だといえる。

近代化と西洋化の区別はやはりつけた方がいいと思います。中世の時代にも近代化はあ
ったし、また古代に近代化はあった。また日本の江戸時代にも近代化はあった。
別に近代化=西洋化なわけではない。むしろ戦後の日本の近代化は日本独自に
達成されたものだと私は思います。

あと日本が『多神教』で、西洋が『一神教』と言うのも、もはや論理としてはナンセンスな
部類です。西洋にあるのギリシャ神話は多神教そのものを表しています。ギリシャ神話が
キリスト教によって存在を廃棄されたという話聞き覚えがありません。

西洋の神と東洋の神の違いは、もっと別のところにあると思います。
異形のものか、または人型であるか。

例えばユダヤ教の絶対神の存在、それと偶像崇拝の禁止、はむしろ隠喩的に人型を表
していませんか? そしてキリスト自身は、過去実在した『人間』でした。実はこれは日本に
おいて、ずっと盲視されてきた『神道』の形態とまったく被るものです。そこへ東洋の仏教の
伝来によって、異形のもの(物の怪)の存在が含まれるようになったのではないでしょうか。
まあこれは出典を出すことができない私の仮説ですけどね。しかし、そういえば仏教の伝来
によって平安京に魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈したというのが通説(俗説?)では
ありますけども。
32 :04/06/17 03:57
>>25
>GODを神と誤訳したことからすべての誤解が始まった。
>GODと日本語の神は全然ちがう。
誤訳も何も、翻訳しただけだと思います。そして神の概念がGODを軸にして捨象されて
神の概念が包括されたのではないでしょうか? 私はGODを神と理解したのはかなり
正確で正しい作業と思われました。

概念語は記号ではありません。別に概念は一般解釈や実在形式と精密に対応する必要は
ないんです。西洋の神と日本の神が違うのは当然です。
33 :04/06/17 04:15
>>27
>理屈ぬきでは、力を行使することはできない。
神はむしろ理屈を超えたものなのでは?
ブッシュは理屈では国民への説得は無理と考えて神を担保にしたわけでしょ。
戦争の契機にはよくある作業だと思われます。そしてそれはあくまであなたの解釈です。

あとそうだ
>>24 論理が神を担保にした時代は、デカルトより廃棄されたのではないでしょうか?
『我思う、故に我有り』とは人、あるいは行動の責任を神に負担させるのではなく、自ら
の人間の責任でもって為し遂げることの意志の現れだったのではないでしょうか?
そして、カントの理性そのものへの洞察によって、その理性が神と同等の視座を持って
いるのだということを彼によって証明された、もしくは、哲学者の倫理として掲げられた
のだと考えるべきだと思います。

論理が神を担保にしているとはとてもじゃないですが、私には納得できません。
論理は神の代わりにあるものです。論理と神の関係に“担保”という関係はないと思います。
あなたの言葉は神を汎神論的に、いわゆる『なんでも神なんだろ状態』に扱いすぎている
ような気がします。

あと言っておくと、ニーチェは論理を殺しただけであって、神を殺したわけではないと思う。
私のニーチェ観はそんな感じです。彼は、どうやら論理より力の存在を重視したのでしょ?
34考える名無しさん:04/06/17 04:46
日本のネ申っつうかカミな、そこんとこ混同したくないね
35 :04/06/17 05:22
>>34
私は神道における神とギリシャ神話における神はまったく同質のものと考えているのですよね。

でむしろ日本の汎神論的な多神教の概念はむしろ、仏教の伝来によって発展されてきた部分が
大きいと思うのです。

西洋が一神教なのではなく、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が一神教を採用する宗教
であるだけなのでは。そう言う神の数化を考えるのなら、儒教には神はいない。それじゃ
無(ゼロ)神教なの? って思うわけです。それから神への全一を図るのは禅道でしたっけ。

あと宗教論争は別に西洋だけのものではありませんしね。日本にも、同様のものは常に
繰り広げられていますし。宗教論争や自然への畏敬の念を日本の特別な事情によるもの
だという指摘もなんだかナンセンスですし。むしろそういう主義はフランスの自由主義
から多く採用されていると思うのですがね。

まあ私はまだまだ、無学、無恥のお子様なので、あなたのような意見は単純に嬉しかっ
たりします。どうもありがとうございました。
36考える名無しさん:04/06/17 19:41
>>28-30
「初めにロゴスありき。ロゴスは神とともにあり。ロゴスは神なりき。」
ギリシア哲学の影響をうけて成立したヨハネ福音書の冒頭にそう書かれている。
ロゴス(ことば)は神そのものであり、
西洋における哲学とはロゴスによって世界のすべてを説明しつくそうという試みなのである。
ここからロゴス中心主義が発生する。

現実の世界(自然)は常に変化している。花は咲き、枯れる。
だから、現実を超え、現実の根拠となっている不変の絶対的な原理(イデア)
を中心に思索が進められることとなった。
これが形而上学である。

人と人以外の生物との違いは、ことば(ロゴス)を話すかどうかである。
人は神そのものであることばを扱うことができるから、
他の生物とくらべて決定的に優れているということになる。
ここから人間中心主義(ヒューマニズム)が発生する。
人が、牛や豚を計画的に大量飼育、大量虐殺して、摂取することは当然であるという
恐るべき考えを担保しているのはこの人間中心主義(ヒューマニズム)である。

以上、神=ロゴス中心主義=形而上学=人間中心主義が近代を担保しているのである。
37考える名無しさん:04/06/17 21:02
>>31
合理的にものごとを考え、
それに基づいて自由に行動を選択しようとする精神を近代的精神といい、
近代的精神に基づいて社会制度を構築していくことを近代化という。
合理的にものごとを考えるとは論理的にものごとを考えることである。
論理的にものごとを考えるとはアリストテレスの形式論理学、
およびそこから発展した記号論理学の手続にしたがって考えるということである。
つまり科学的(scientific)にものごとを考えるということである。
したがって、西洋が近代化したのは文芸復興(人間復興)以降のことである。
日本が近代化したのは、欧化政策をとった明治以降である。
だから、日本の場合、近代化=西洋化なのである。
なお、合理的にものごとを考えない人は頭の中身が近代化していないといえる。
日本にはいまでも前近代的な人々が結構たくさんいる。
38考える名無しさん:04/06/17 22:03
>>33
デカルトこそ、神そのもの、あるいは神の分身であるロゴス(ことば、論理、理性)
を用いて、神の存在証明を企てた張本人である。
39終了:04/06/17 22:08
完全な板違い
→宗教板
→お花畑板
40考える名無しさん:04/06/17 22:19
>>32
混同しやすい異なる概念のものを同じことばで表すのはやはり問題でしょう。
西洋のGODの概念と日本の神の概念を正確に把握している人なら、
混乱せずにすむが、それでも別々の概念なのだから別々のことばを付すほうが
理にかなっている。
それに、GODと日本の神の概念をきちんと理解していない者にとっては、
致命的に混乱をまねくことになる。
私もずいぶん混乱し、誤解した。
41考える名無しさん:04/06/17 22:32
ところで、34は1ではありません。
42考える名無しさん:04/06/18 16:41
>>39
君はプレモダン人の典型だな。
いや、原始人とかわりないね。
まず、頭の中身を近代化したほうがいいよ。
43考える名無しさん:04/06/18 20:01
それで、身近で具体的な悪についてはどうなってるの?
44じゆん ◆bYRNL78mlE :04/06/19 16:44
>>36
>人と人以外の生物との違いは、ことば(ロゴス)を話すかどうかである。
細かいようですが私はこれを正確な差異だとは認めません。
人間と動物の違いは言葉(概念、ロゴス)を“使用する”かどうかだと思います。
論理を“使用”して初めて人は論理性をはなれ、論理を俯瞰した合理的判断が
できると思うのです。合理は論理を内在しますが、論理は合理を内在しません。


>>37
だいたい同意しています。論理的に考えることについてはほぼ同意です。
しかしこの部分はどうかなと思いました。
>およびそこから発展した記号論理学の手続にしたがって考えるということである。
>つまり科学的(scientific)にものごとを考えるということである。
論理的であることと、科学的であることは違いますよ。
つねに論理的であるということは、形而上学においてイデアの探求と等しい行為です。
つまりこれはこのような作業を論理が受け持つということです。

愛から勇気を引いたものはなんだろうか? 
慈愛である。

このような形而上的命題は論理を使って産出したテーゼですから
形而上学は論理的であることの証明になろうかと思います。
しかし観念的、非合理的です。

それと反対に科学的であるということは実証性を約束します。
また契機の把握と、事象の再認性によって原因(契機より認識される)または結果
(事象より獲得される)を導き出すことにあります。
45じゆん ◆bYRNL78mlE :04/06/19 16:45
(つづき)

私はこの差異は明確に分けたいと思っています。論理的であることと科学的であることは
おそらくそれは『見る(観る)』という大きな観点の違いがあると思われます。そして論理的
であるということは可相的(想像的)であることに内在するように思われるのです。
つたない知識の私見ですが近代化は文芸復興の人間中心主義より
むしろ自然主義(科学的)へと移行を経て、ようやく加速、つまり連動しているように思われるのです。

そしてパスカルが批判したのは哲学者の論理による神の捏造の企てだったかと思える
のです。そしてそこから自然主義的な観点から導き出されるヒュームの懐疑論、そして
経験実証主義から科学を導き出すための、認識の規範(つまり理性批判)をカントは
作成したのではないでしょうか? ここから科学は神からではなく倫理によって基盤を
為したのではないでしょうか。少なくとも純粋理性批判には神を代行する箇所はありま
せんでした。カントはまさに神(宗教的思いこみ)との決別を図っているのではないでしょうか?

これはあなたへの批判ではなく、共通理解のための補填的作業だと思ってください。
まあ私はあなたから多くの知識を補填させてもらっているわけですけど。(笑)
46じゆん ◆bYRNL78mlE :04/06/19 17:06
>>36
>合理的にものごとを考え、
>それに基づいて自由に行動を選択しようとする精神を近代的精神といい、
>近代的精神に基づいて社会制度を構築していくことを近代化という。

『近代的精神から社会制度の構築される』となっていますが。これは近代化でもなく、
人間中心主義でもなく自由民主主義の方がふさわしいのではないですか?

まあ、近代化には、当然、自由民主主義の観点が含まれるのだとおっしゃるのならそれでも
至極当然それでもいいですが、私はあえてそれを批判させてもらいます。
あなたは民主主義については何も言ってないので。
なぜなら私は政治、思想、歴史を語りに来たのではなく、哲学を語りに来たので。

でここからですが、私はあなたの言う『近代化』の使い方にはどちらかというと、批判的です。
なぜならこれは先ほどの『神』の語彙の意義と反対で、範囲が一義的だからです。あなたの
言う近代化は非常に正しい。教科書ほどに正確で美しいものがあります。しかし近代化は
『過去世代』が『今世代』に『近く』なるという意味があります。それが概念としての『近代化』
の意味です。まあ私の言っている論理性にはかなりの欠陥がありますし、またあなたの次
の批判も想像つきます。もし歴史に精神としての意味をもたせるのなら、歴史はまさに精神
の変遷に違いないからです。

そして日本の状況に戻りますが、欧化政策でも分かるとおり、その西洋化は模倣に過ぎない
のであって近代化の精神が民衆に浸透しているわけではありません。むろん政治家や思想家
たちはその近代化の意味を理解していたのだと思いますが。それは模倣に過ぎないと思うの
です。私が近代化を達成したのは戦後を経てからだと思います。自由主義と合理主義と民主
主義が日本を包むようになりました。そしてこれをあなたは近代化と呼ぶのではないですか?
47じゆん ◆bYRNL78mlE :04/06/19 17:07
(つづき)

とりあえず、批判もおありでしょうがここまでにしましょう。
私は“悪”について考えたいのです。もしくは“悪意”について。私は具体的にこれを論じる
つもりはありませんが、少なくとも悪の構造は理解し論じることはできると考えます。まあこの
“悪”も時代、思想、精神の無意識の要請なのですけどね。悪についてのあなたの考え方
を聞かせてください。もしくは、何か時代要請的なお題を出してくれると助かります。

あ、それともう、自分はコテハンを出します。ちょっと聞きますがあなたは『宗教と決別スレ』
で私と少し議論した方ですよね? 
違ったら訂正してください。私はあの議論の続きでものを考えています。

まあ私の最終的作業としては悪を理解することで善を解体することにあります。
たぶんスレ主さんもそのつもりだったのではないかと思うのです。ついでに言うとここの
スレ主は『宗教に決別スレ』の人じゃないかなあと勝手に思っています。あそこで倫理を語る
のは難しそうなので分けさせてもらいました。以上です。とりとめのない文章ばかりですみません。
あなたの意見の批判はかなり時間がかかるのです。まあその分、力になりますけどね。
それでは。
48考える名無しさん:04/06/20 01:34
>>44
>人間と動物の違いは言葉(概念、ロゴス)を“使用する”かどうかだと思います。

これはもっともな指摘です。“話す”よりも“使用する”のほうがより適切ですね。

>論理的であることと、科学的であることは違いますよ。

科学は演繹法と帰納法をベースにしている。つまり形式論理学の手続きにしたがっている。
49考える名無しさん:04/06/20 01:49
>>45
>パスカルが批判したのは哲学者の論理による神の捏造の企てだったかと思える
のです。

同意。

>少なくとも純粋理性批判には神を代行する箇所はありま
せんでした。カントはまさに神(宗教的思いこみ)との決別を図っているのではないでしょうか?

カントは純粋理性批判のなかで、
私たちの感性は、理念(イデー)や理想(イデアール)の実在を認識することはできないが、
純粋理性は理念や理想(超感性的な範疇)を追い求めると述べている。
この理念(イデー)や理想(イデアール)はプラトンのイデア(神)の言い換えである。
なお、実践理性批判では、純粋実践理性の対象に関しては、
超感性的な範疇の実在を認めることができる、と述べている。
つまり、人間は神になることはできないが、
正しく努力することで神に近づくことができるということなのである。
「信仰に余地を求めるため、知識を除去しなければならなかった」
カントは純粋理性批判執筆の目的をそのように語っている。
50考える名無しさん:04/06/20 01:52
>>46
これは解釈の問題なので、同意もしませんが、反論もしません。
51考える名無しさん:04/06/20 02:01
>>47
>ちょっと聞きますがあなたは『宗教と決別スレ』
で私と少し議論した方ですよね?

いいえ、ちがいます。

>悪についてのあなたの考え方
を聞かせてください。もしくは、何か時代要請的なお題を出してくれると助かります。

近いうちに語ります。今日はもう寝ます。まだアルコールが残っている。
あなたの哲学に対する真摯な態度には感服しています。
 
52じゆん ◆bYRNL78mlE :04/06/25 06:44
どうも、あなたから悪についての考え方が聞けそうもないので、私からお題を出します。

佐世保の少女殺害事件について、あなたはどう思われますか?
殺害した少女Aが悪いのでしょうか?
それとも殺された子が煽ったのが悪いのでしょうか?
ネットのシステムが不完全(悪)なんでしょうか?
共同体が不完全(悪)なんでしょうか?
たまたまなんでしょうか?
目をつぶるべきなんでしょうか?

もし実例を挙げて答えにくいのなら、
ネットの倫理について希釈して答えて頂けたらとも思います。

それと騒ぎ立ててやるつもりはないので、みなさんにはどうかひっそりとsageでお願いします。
みなさんに一番身近で、具体的なネットの悪について。

適度に、熱くならずにいけたらと思います。
これは事件性を追うものではありません。
もしそのような眼に現実に遭ったらどう行動したらいいか、
検討するためのものだとご理解ください。よろしくお願いします。
53考える名無しさん:04/08/23 08:27
久しぶりぶりのレス浮上

>>52
>佐世保の少女殺害事件について、あなたはどう思われますか?
煽られて人を殺すなんてのは、そこいらにいる大人でもやってることなので、
驚くことも騒ぎ立てることも無いですね。子供が子供を殺したからといって
ギャースカ騒ぐ奴等は「幸せの国」で育ってきた「幸せな国民」なのでしょう。

法律でも社会規範でも何でもいいですが、それらによって判別される悪以外に
悪なんてものはありませんよ。
煽った煽られた、殺した殺された。どちらが悪でもないですよ。

リアル世界の規範すら守れない人間がネットで規律を守るとでもお思いか?
54じゅん ◆bYRNL78mlE :04/08/23 12:41
>>53
>ギャースカ騒ぐ奴等は「幸せの国」で育ってきた「幸せな国民」なのでしょう。
理屈が飛躍していますね。妄言とはまさにこのこと。
あなたはアメリカにおける過剰な人権運動はご存じですか?
あなたの理論はまったくあのアメリカの状況と対置していますよ。
あなたのような、分かった振り、知ったかぶりが、
世間の無関心を作成するのです。
いま、佐世保の事件を振り返ってもいいですが、
それほどに、皆が騒いだのでしょうか?
いや、ほとんどのものが沈黙したのではないでしょうか?
テレビのワイドショーや週刊誌をみることで、
世間の人々は落ち着きを取り戻していった。
私の知っている範囲ではそれだけのことしか、
行われていませんでしたけどね。
2ちゃんねるですら、
それほど話題にはならなかったように思います。
むしろ宅間の悪行、そして刑務所での宅間の言説になら、過剰な反応をしめす。
狂気(凶気)への同調を示す。
あなたにも、同様のものを感じる。
それは、うすあまいニヒリズムではないだろうか。
55じゅん ◆bYRNL78mlE :04/08/23 12:44
(つづき)
>法律でも社会規範でも何でもいいですが、それらによって判別される悪以外に
>悪なんてものはありませんよ。
それがなにか?
私はこの問題には留保しておりますが、あなたが言いたい意味が分かりません。

>煽った煽られた、殺した殺された。どちらが悪でもないですよ。
いや、単なる論理盲なのですね。

>リアル世界の規範すら守れない人間がネットで規律を守るとでもお思いか?
むしろネットでなら、それは可能という私の判断です。
ネットは相手の懐を見ます。
また法整備が行き届かないからこそ、
倫理という格率が自然的に生まれやすい。
そのように私は考えています。
肉体への暴力がないからこそ、
言明への過剰な試行錯誤が可能となる。
それらの言葉の生育は、
人格形成のための大きな柱となる。
私は、その理論的支柱をこの哲学板で
ひそかに形成したい、などと考えているのです。(w、半分本気、半分妄言ですが
56じゅん ◆bYRNL78mlE :04/08/23 12:45
そして、もし私とレスを交わしたいのなら、

>法律でも社会規範でも何でもいいですが、それらによって判別される悪以外に
>悪なんてものはありませんよ。
>煽った煽られた、殺した殺された。どちらが悪でもないですよ。
なんて言う、お馬鹿な論理を提出しないでください。
いや即刻、撤回してください。

そういう善悪そのものを問う議論は、
他のスレで立派に行われています。 (「善悪とは何か」スレはご存じですか)
それが是正されない限り、
あなたと議論したいとは思わない。
時間の無駄なのでね。
以上。
57考える名無しさん:04/08/23 17:25
>>1
万引きとか〜
借りパクとか〜
セクハラとか〜
58考える名無しさん:04/10/30 08:08:32
じゅん ◆bYRNL78mlEってやつは馬鹿か?
59考える名無しさん:04/10/31 00:34:17
知性を持つ生き物=悪
60考える名無しさん:04/10/31 01:13:09
>>52
お題をどうも、自分は佐世保の人間ですが、確かに、話題にも成りませんね。
自分の理解では、悪=僭越、と成っているので、怜美という子は、確かに僭越だったと思います。
で、加害者ですが、悪に対する感受性、と言った物は、持ち合せていたと思います。
そう言えば、被害者は、正義感の強い子だったそうですね。
子供の正義感は、兎角、抑圧的なものに(自己抑圧の投影)に成勝ちなのではないでしょうか?
そしてまた、抑圧の抑圧(投影の抑圧)もまた存在します。←稚拙な正義感の克服ですね。
まあ、被害者と、加害者は、ノエシス、ノエマのような依存的な関係性でしょうか?
まあ、加害者は己の悪に耐えきれなかった。と言うか、身近で具体的な正義と言う物の他者性、
その孤独に耐え切れ無かったのではないでしょうか?
61考える名無しさん:04/11/06 05:25:21
>ノエシス、ノエマ

( ´,_ゝ`)プッ
62考える名無しさん:04/11/10 19:13:52
オレが高校を中退してすぐに、
同学年の1人がよそ見をしていて
特急電車で死んだって聞いたけど
オレが高校を辞めなければ
その人は今も生きていたんだろうなぁ
>>ノエシス、ノエマ

>( ´,_ゝ`)プッ

( ´,_ゝ`)プッ
64考える名無しさん
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