「諦めない」的倫理と佛教哲学

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1有漏の無学:04/06/01 16:37
世間常識では「諦めない」「分別」「我慢」等が美徳とせられ、
「諦める」「無分別」「融通無礙」等が悪徳とせられ、
(また、「諸行無常」は「盛者必衰」的に解されます。
また、佛教哲学というと「一期一会」的、またその諸変容である
「オンリーワン」的、「相対評価に対する絶対評価」的に解されています。
つまり、「一切は変異する」故に苦、翻ってそれを超克すると称して、
「一切は変異する」、だからこそ、この瞬間は貴重であるという考です。
相対主義を乱用して哲学を気取る軽薄な人生論や、それと同類の
常識に毛の生えた程度の考によるエンタテインメント作品にも
度々観られる考であります。)
ところが、佛教哲学の真実としては“真逆”であります。
問題は、このような誤用(という表現では足りぬ故に“真逆”
としました)が起るのか、という点であります。
これには、哲学的に深く重き問題があろうかと思われますので、
考察しましょう。
2    :04/06/01 17:40
にげと。わーいわーい
3考える名無しさん:04/06/01 23:19
>>1
>(また、「諸行無常」は「盛者必衰」的に解されます。
極論は同じことを指しませんか?

>「一切は変異する」、だからこそ、この瞬間は貴重であるという考です。
この瞬間を体験することは貴重なことではありますが、少々仏教の真意に反します。
この瞬間を体験するために、仏道を進んでいる訳ではありません。
後生の一大事の解決の為に仏道を歩んでいるのです。

それから、仏道はすべての者が歩むべき道ですので、
すべての者が分かるように話してください。(僕には分からなくはありませんが)
難しい言葉を並べられては分からない人もでてくることでしょう。
少なくとも、絶対と相対の意味は、仏教を聞くまで分かりませんでした。
4考える名無しさん:04/06/01 23:26
ガムスレは?
5考える名無しさん
機械だろ