>端的に言いますと、たとえ住人のうち一人でも「規制議論をしたい」「申請がしたい」と
>望むものがいれば、それを妨げることは決してできません。
は、たしかにその通りだと思いますけど
>彼の行為を非常識かどうかを判断するのは、申請後の運営者がすることであり、
>我々がすべきことでありません。
ということにはならないと思います。
『彼の行為』にたいするさまざまの判断は、わたしたち住人の一人ひとりにもできます。
判断=実際上の権力の行使ということを言っているのなら、たしかにわたしたち一般の住人は
それを行うことはできないけれど、その事実をもって『彼の行為の判断は運営者がすること』で
かつ『我々がすべきことでありません』と言うことはできないと思います。
わたしたち住人には『彼の行為』にたいして、さまざまなスタンス、とらえ方、判断することの
自由があると思うからです。
(つづき)
わたしは、運営者に「〜してくれー」みたいな結論になってしまうような問題のあずけ方は
哲学徒として恥ずかしいことなのだと思っています。
規制議論においては、規制そのものの意味や意義を問いうる力のあることを存分に示して
みずからは規制から自由でいられることを証明してみせること。
それが哲学徒の、そして哲板のプライドだとわたしは思っています。
わたしたちには、それができていないのではないでしょうか?
じゆんさんの本来の意図もそこに"あった"はずなのです。
だからこそ「議論することそのもの」と「議論が続けられること」に
意義があるのだと言い続けていたのではないでしょうか?
じゆんさんは、哲学徒でもないかもしれない運営者に問題解決の手段を
「〜してくれー」というような形で預けてしまうことの不本意を
みずからが当事者(悪者)になることで主張しているのではないでしょうか?
その志において前回の議論とは決定的にちがうのだとわたしは思っています。
にもかかわらず、前回以上に独断や独善、偏見と排除、運営者への依存的態度が
感じられてしまうのはどうしたことでしょう。
こんな有様ならハルカのように哲板住人の自律意識なんか「こんな程度のもの」
というところからはじめた議論の方がずっと現実的なように思われます。
そして哲学徒が「現実的」にすりよる様は見ていて悲しくなりますし敗北に感じます。