以前にも立てた気がするのだが持ち前の不精が祟ってすぐに消えてしまった。
暇になって気が向いたのでもう一度立ててみようと思う。
引用(参考)は中央公論刊世界の名著18『禅語録』である。(普通に本屋を
回っても他社刊行のものが見当たらないので…)なお著作権に配慮して引用の
際には文体を多少アレンジします。
本を読めば前々項に禅の歴史背景だのがダイジェスト版で載っているので初心者にも
判り易いです。例えば『禅』という言葉の意味がもともとは古代インド語で“瞑想”
の意味を持ち、元来はもっと神秘的なイメージで伝播していて、現代のような
ストイックな『禅』のイメージはもっと後から成立したものであるなど…
事細かな話は本を読めばいい事であってここでの議題としては『内容が意味する
所は何であるのか?』ということを詰めていくことにする。
思うのだが、私はニーチェがインド(初期)仏教でなく、禅仏教の経典を読んで
いたならば、その後の西洋の思想哲学の流れはかなり違ったものになっていたの
ではないかと思えてならない。彼がニヒリズム的処方箋と理解した東洋的思想が
別の方向性を持ちうることに驚いたのではないだろうか?
例えばツァラトゥストラが『肉体の軽蔑者』で“本来のおのれ”を語るとき、その
口調は禅者の説く『自己の本性』と余りにも近しくはないか?、など…
なお、漢文の邦訳は恐ろしくアバウトな所があり、例を挙げれば『老子道徳経』など
訳者の技量と先入観でまったく違ったテキストになりうることを断っておく。
2、3冊読み比べれば愕然とするほどであるが、大学教授先生がたの訳さえ諸説
ありうるので「原文読めなきゃ話は出来ん」という口煩い方々はスルーします。
堅苦しく枷嵌めてたら書き込む人間なんて1行駄レスかAAコピペだけになるので。
基本的にsage進行で潜伏しますので宜しく。メール欄に半角英数で sage と入力
してから投稿して下さい。
>>1 ここには貴方ほどまともな教養を持った人間は皆無に等しい。
対話を望んでいるとしたら、匿名性の隠れ蓑に縋って無知をひた隠すセコイ連中を
相手にすべきではない。
書く言う俺もニーチェは『反キリスト』と永井の入門書数冊しか呼んでいないため、
貴方のロジックを理解することはあっても対話の相手にはなりえない。
キリスト教に端を発する西洋的道徳観は、主にユダヤ人のルサンチマンをその根拠に置く
巧妙な「僧侶的」逃げ口上であったことは知っている。
ニーチェのニヒリズムは、系譜学的にキリスト教を攻撃し、敵前逃亡(これは俺の言葉w)よろしく
自己欺瞞的なぬるま湯に浸っていた信者たちを叩きのめした。
その後ニーチェはパースペクティブ主義の泥沼に陥り、とうとう「永遠回帰」。
東洋的思想は、ニヒリズムを真正面から受け入れるという点においてニーチェが
到達したこの「永遠回帰」という思想に似ているような、そんな印象を俺は受けた。
ちなみにこの「永遠回帰」だが、俺の頭は理解するが、俺の内官は理解できない。
>>1 すぐdat落ちするだろうがとりあえずがんがれ。
禅問答について
■主と客の出会い四つ 〜臨済録
求道の仲間よ、禅宗の考えというものは、殺すにも活かすにも順序がある。
参禅する者は深く注意しなければならない。例えば、主と客が顔をあわせると、
挨拶のやり取りがある。(中略)
@正直な学生なら、声をあげて怒鳴って、まず膠の壺(罠)を一つ取り出す。
友人はそれが(心を動じさせる)誘いであると見抜けないで、誘いに乗って
型通りに振舞う。学生は怒鳴りつける。向こうはそれでも(心の囚われを)
放そうとせぬ。膏盲の病といって、医者もお手上げというやつである。
これが、客が主にあう場合である。
A次は、友人のほうは何も取り出さない。学生が質問し終わる端からすぐに
(問いの思惑を)取り上げてしまう。学生は取り上げられると、必死に
(心の安定を)放すまいとする。これは、主が客に会う場合である。
Bさらに、ある学生は、一つの清浄な境地を見せて、友人の前に現れる。
友人はそれが(分別懐疑を抱かせる)誘いだと見抜き、彼をひったくって
穴の中に投げ込む。学生は「素晴らしい先生だ」と言う。
友人は、「馬鹿者め、良し悪しも判らずに」と言う。学生は頭を下げる。
これは、主が主に会う場合である。
Cさらに、ある学生が自ら首枷(固定観念)を嵌め、鎖(しがらみ)を
巻いて友人の前に現れる。友人は、もう一つの首枷と鎖(教義や戒律)を
付けてやる。学生は喜んでわけが解らなくなる。これは客が客に会う場合
である。
前文を踏まえて禅問答を読んでみる。
■生き埋め
臨済先生は或る時、僧の皆と畑を耕しておられた。
黄檗師が来るのを見ると、鍬を杖代わりにして立っている。
黄檗、「この男、へたったな」
先生、「鍬もまだ使わぬのに、何でへたるものですかい」
黄檗はすぐに殴りつける。先生は黄檗の棒を受け止めて、一押しに押し倒す。
黄檗は庶務係の僧を呼んで言う。「庶務よ、俺を起こしてくれ」
庶務は進み出て、「師匠、この気狂い男の無礼をどうして見逃せましょう」
黄檗は起き上がると、庶務を殴りつける。先生は鍬で地面を掘って言う、
「よそはどこも火葬だが、俺のところは一緒に生き埋めだ」
譌山が仰山に尋ねた。「黄檗が庶務を殴りつけたのは、いったいどういうつもり
だっただろう?」
仰山、「本物の泥棒は逃げてしまって、後を追う男のほうが棒をくらいました」
飯喰ってくる。
長い飯だね。
悪い、般若湯飲んで寝ちまってダラダラしてたよ。連休だからいいか。
話戻すね。
で、初心者が普通に禅問答の話を読んでも訳解らずに煙に巻かれて挫折するわけだが、
そもそもが話の中の『業界内的セオリー』というか暗黙の了解的にはしょって書かれた
テーゼらしきものが見当付かないことには読んでてもまったく理解出来ないわけだ。
「一休さん以上に複雑な頓知なのか?」ぐらいで本を投げ出して終わり・・・
で、この、基調として流れる『テーゼ』とはいったいどのようなものであろうか?、と
いうのが問題になってくるわけだ。
「しかし、各地の友人(老僧侶)ときたら、真偽のほども心得ず、学生(修行僧)が
やってきて、悟りと寂滅、仏の三身、知恵と境地などについて尋ねると、めくら親爺は
すぐに説明してやる。学生に悪し様に非難されると、棒を握って「貴公は礼節を
知らぬ!」と叩く。(中略)
さらに、ある種の良し悪しも心得ぬ悪僧は、口から出まかせに、よいお天気だ、
よい雨降りだ、よい灯籠だ、よい丸柱だ(日々此れ好日など…)と言いまくる。(中略)
学生は何も知らないで、気がおかしくなって歓ぶ。こんな老僧連中は、てんから
老狐の呆けた怪物だ。
修行者よ、山法師が「“外”に真理は無い」と教えると、学生は解らないで、“内”に
あると考える。すぐに壁に寄り添って座り、舌を口蓋にくっつけ(座禅上の作法)、
ひっそりと動かず、これが禅門の宗旨だと思い込む。とんでもない間違いだ。」
〜臨済録
さて、ここまでくると、今まで『禅』というスタイルを外見のイメージのみで認識してきた
我々には奇異に感ずる。何故なら深い唯識やその他諸々の経典の知識も、悟り
澄ました好々爺の「日々此れ好日」とのたまう底抜けの自由さも、寺に篭り座禅に
励む姿も、どうも『禅』の真髄そのものを体現するものではないらしい…
ではいったい、禅というものは何をめざしているのだろうか?
いや、読者がいるということを示しておきたかった。
最近、哲板らしいスレッドが少ないじゃないか。
期待してるね。
私も弥勒さんに期待している一人です。
興味深くROMっておりますので頑張ってください。
おーい、弥勒さーーん。
56億7千万年も待てないぞー。
■六祖壇経
君たち、ある種の男は人を座らせて、心を見つめ、心の空なるところを
見つけよと教え、動かずにジッと無心でいるように努力させている。
自分を見失った奴は何も知らずにすぐさまそれに取り憑いておかしく
なるのが何百人もいる有様だ。こんな教えはもちろん大間違いである。
自分を見失った男は、ものの形(概念化・観念)に固執して一行三昧
に囚われ、素直な心に腰を据えて動かず、妄念を払い捨てて「心を起こさぬ」
のが一行三昧だと思い込む。
そういうことでは(無機質な)木石になれと教えるのと同じで、かえって道を
妨げる原因である。
心を抑えて座り込んではならぬ。たちまち『無意識』という虚無に落ち込むだけだ。
我々が普通にイメージする禅は、『無念無想』の境地に埋没して座禅を
組み続ける姿であろうが、一般人からすればはたして「それが何になるのか?」
という疑問が浮かぶ。心を殺すことに意味が有るのならば植物人間になるほうが
よほど悟りに近いであろう。だがこのような我々の抱くイメージが間違っていると
断言されるならば、もっと他に座禅の意味と有効性が無ければならないだろう。
いったいそれはどのようなものなのであろうか?
ここで、『迷い』と『悟り』の相違点を明確化しておくほうが理解が早まるだろう。
壇経はこう語る。
一瞬一瞬の心の流れは、どんな時もどんな存在に対しても留まらない。
一瞬でも留まる(こだわる)ならば、心の流れは停滞して、束縛となる。
どんな存在(対象)にも、己の心の流れが留まらなければ、それが束縛の
無いことであり、無住(主観存在の絶対性)がその根本となる。
君たち、外に対していかなる固有の形(固定観念・執着心・偏見・先入観)も
抜け出ることさえ出来れば、我々の“本性”は本質的に清浄である。
つまり、自分を見失った者が、環境に対して固定観念を起こし、その固定観念が
誤った分別心を生み出すから、あらゆる煩悩と妄念がそこに顕われ出るのだ。
しかし、我が法門は、無念を推し立てて宗旨とする。
我々は分別を抜け出ていて、妄心を起こしはせぬ。もし固定観念が無ければ、
無念すら推し立てることはない。
これも同じ要点を語っている。
■無門関 題四十一則
「心が不安で堪らないのです、先生、この苦悩を取り去って下さい!」
「その不安で堪らないという心を、ここに出してみろ。安心せしめてやる」
「出しようがありません…、心には形が無いのです」
「それが判れば安心したはずだ。形が無いものに悩みが在る筈も無い」
(同時進行で)
空の根拠(般若思想あたり…)@
■菩提達磨無心論
真理の世界では何も見ることは無い。『維摩経』にこうある、「悟りは身体で
見ることも出来ないし、心で見ることも出来ない」と。さらに『金剛経』にも
こうある。「どんなにわずかの理法すら見られることは無い。仏たちは、見ることが
出来ぬと見られただけである。」と。
してみると、心が有るから一切が存在するのであり、無心であれば一切が“無”で
あるということが分かる。
「仏たちは、見ることが出来ぬと見られただけである。」という言葉を他の視点で
語ってみたい。
これは『カミュとサルトル―不条理と実存―』での自分の書き込みである。
私たちは『不可知』の世界に生きていると考えます。これは私の判断ですが、
ある対象が【それである】と定義するには、それでない対象や状態から比較
分析しない限り、その対象が【どのようなものであるか】を判断することは
出来ないと考えます。我々は昼の世界と夜の世界を認識していますが、もしも
生まれてから一度も光を見たことの無い暗室で育ったならば、【暗闇】とは
何であるかを認識することは出来ないでしょう。砂糖を甘いと味覚で認識
出来るのは、他の味を認識したうえで、【甘い】味覚とは何かを自分で理解
出来ているからだと考えます。甘味以外に口にしたことが無い人間に、甘味
とは何かを定義しうるかどうかという問題です。
我々はこの世界に『存在』していますが、我々は『非存在』とは何かを
本質的に理解することは不可能です。何故ならすでに“存在”し終わって
いるのだから・・・『非存在』を、存在の立場から触れることは出来ない。
“死”そのものを、生きている状態から触れることは出来ないのと同じです。
(来世とか臨死体験はここでは度外視します。ややこしくなるので・・・)
同じく、我々の主観は「意識そのものが生まれる以前の状態」(無意識の
生まれる以前ですら)を理解することは出来ない。その根源へ到達する
ことは、すでに生成し終わった“意識”からでは到達出来ないのです。
つまり、『存在』とは何かを理解することも、意識の『根源』がどのような
ものであるかをも理解することも出来ない、『不可知』の世界・・・
「知ること能わず」、これは一つの真理である。そう、不可知の世界の中で
唯一確信を持てる不条理な真理である。