901 :
考える名無しさん:
たしかに重要な思想家だ。バタイユを読み込まずして現代哲学の理解はありえない。
902 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 23:51:52 0
>>896 スターリニズムが嫌で共産党に距離置いただけらしいぞ。
903 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 23:56:35 0
最晩年の三島がシンパシーを抱いてたってらしいけど、
片思いなんじゃねえかな。
904 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 23:59:29 0
岡本太郎を引き込んで、反ナチの秘密結社やってたろ。
905 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 00:07:56 0
片思いなんですか?素人ですが三島とバタイユは思考が似ていると思いました
三島由紀夫とGバタイユという本もありますね
906 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 00:15:04 0
バタイユは切腹するようなタイプではないように思うぞ。
それよりも、96年の正月に、部屋でボーっとしてたら、
不吉な破裂音が窓の外から聞こえたのが隕石の破裂
だったんだが、それが岡本の死んだ日だと後で知って、
只者ではなかったと思った。
さすが爆発する人と思って感心した・・・。
908 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 00:43:18 0
ニーチェだって、『ツァラトストラ』みたいに、結局は
中途半端に宗教的メタファに接近して狂ったろ。
ニーチェの偶像化なんてやめた方が良いぞ。
909 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 17:13:11 0
バタイユ『ドキュン』
>>907 おっと!
それに気付いた輩がおったか
あの時は、全く同じ感想を持ったな。
「岡本太郎凄すぎだろw」と。
いぁ、だからなんだってツッコミは無しの方向で。^^;
奇っ怪なオジサンだったが、戦後の良心の一翼を
担ってたのかも知らん。
912 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 03:35:43 0
ハイデガーがフランス最高の頭脳だって言ったとよく聞くけど、ハイデガーの著作でバタイユについて書かれてるものってあるの?
それとバタイユってciniiとかで論文検索したら結構引っかかるよね、最近の論文もあってアクチュアルなんだと感じさせられるよ。
結構、ネグラそうな奴だけどな。
おれは社会学専攻だけどバタイユの哲学・理論って
いまもっともアクチュアルなテーマである資本主義批判に使えそうだもんな。
916 :
考える名無しさん:2010/03/30(火) 01:44:01 0
>>912 ハイデガーはバタイユに言及していない。バタイユは何度かハイデガーを
名指しで批判しているが。ハイデガーは伝統的な大学人なので在野の思想家
は歯牙にもかけなかった。そこがハイデガーの思考の限界であり、バタイユの
可能性でもあるわけだ。
三島とバタイユが似ているってのはわかる。
どちらも俗に聖を見出していた点、
端的に述べると変態趣味において両者は共通している。
政治的な志向は知らないけど。
918 :
考える名無しさん:2010/03/31(水) 22:29:29 0
三島はバタイユの「我が母」を高く評価していたね
919 :
考える名無しさん:2010/04/25(日) 22:57:27 0
世田谷区を仕事柄廻ることが多いんだが、他の区域と比べて、何が原因から分からないが、存在
の適切な速度の忘却を感じるときがある。通俗的にいえば余裕のなさってことになるが、それだけ
でなく、たえずどこか煽られているような、存在速度のなさを感じる。存在速度とは、人が生きる
のに最も支障にならない行為や思考の速度だとする。それがこの町では他の区域に比べ、喪失され
、そのために誤った主体意識、フーコーが指摘したような、〈正常者―病者〉〈常識―非常識〉〈価値―非
価値〉といったような排他的市民意識に陥ってるのではないかと思われる。バタイユはかつて、閉
じた主体を開いて、裂傷を穿ち、絶頂へ向かわせ、解体することを〈好運〉とし、それを渇望する思想
を解いた。世田谷区という町は、バタイユ的な渇望が隠された町だと思う。世田谷一家惨殺事件と
いう事件があり、いまだ未解決だが、真犯人が誰かはともかく、あの事件が他ならぬ世田谷区で起こ
ったことに象徴的な意味を感ずる。あの事件が世田谷区で起こったのは当然なような気がするので
ある。 あそこは、侵犯行為に駈られやすい町だ。町の空気が閉じた主体や排他性を増幅させている
からだ。何故そうかはわからないが、そういう町だ。つまり、〈供犠〉を現実化すことで、人間の全体
性を回復することが促される。あの事件を思い返すと、〈供犠 sacrifice〉としての意味を感じて
しまう。あれがなければ回復されない〈困窮〉があるということ。
920 :
考える名無しさん:2010/04/25(日) 23:32:34 0
昔、村上龍が『共生虫』で小説で、引きこもり少年の連続殺戮を描いたことがあった。あの小説の背
景にあったのは、やはり〈殺戮=悪〉による虚無の現出、そのための〈供犠〉だったと思うのです。殺し
が描かれてはいたけれど、それによる、機能的存在と化した人間に全体を、回復させたいという。
小説の後半で描かれるIT企業の社員とか、仕事の関連でのみ少年と関わろうとする、それがまさに
機能的存在への合一なわけで、それを惨たらしく偶々手に入れた毒ガスで惨殺するわけですね。あ
くまで機能的にのみ関わろうとしてきた彼らに、そのように虚無=死を贈与する。〈供犠〉を執り行う
。やはりそこで、社会の要求する機能主義への反命題として、〈悪=価値に回収されぬもの〉が贈与され
る。されなければならない。〈悪〉の現れ方というのが、投げられ方というのが、手段のようで、手段
ではない。〈悪〉自体が目的なわけです。それによる理性や市民性の突き抜け方である。それは惨たら
しくもあるが、一方それにより主体化が破壊されてもいる、という二面性がある。犯罪だけれど、
そこでのみ総体的人間が回復されている。
どうやったらそんな永田らしい文章を書けるのだ?
922 :
考える名無しさん:2010/05/09(日) 17:32:23 0
デリダのバタイユ論を読んでみたが、相変わらず回りくどい言い回しのオンパレードで、
正しいことを書こうとしているのは分かるが、あの凝り尽くす修辞はバタイユをひたすら読者の
視界から見えなくするだけではないかとの感想を抱いた。エロテイシズムというのは、また、侵犯
行為というのは、それ自体として無の感染を惹き起こすもので、かつ、言語化を逃れ去るものだ。
そのことはなにも批評家が言葉を尽くして説明しなくとも、体験として入ってくる。批評家が難解
な用語を駆使して説明するほどにバタイユの真骨頂―非‐知―から逸れてしまう憾がのこる。デリダ
の細心さを媒介してしまうと、バタイユの思想がアカデミズムの塔に閉じ込められる気がするのだ
。それはハイデガーをデリダが論じているときにも感じたことだが、彼らの思想の根幹にある、
機能的作用に存在が絡めとられることへの拒絶や、生が卑小さに収斂することへの拒絶が素通り
されてしまう。至高性について、たしかにバタイユは言説を費やしているが、その言説はさほど
晦渋ではない。ヘーゲル哲学との関係も述べられているが、重心は<不可能なもの>に到達でき
ない、言い換えれば死に到達しない限り、生産や蓄積に、現在を犠牲に供することに入っていく
しかない、ということにある。デリダはその辺を抉ろうとしたのだろうが、晦渋である。バタイユ
には、思想を物語ることへの空しさがある。人間が頽落する不可避から逃れられないことへの
空しさ。あの狂暴な欲求はそれと表裏にある。だから無へ開かれることを称揚する。バタイユ論が
バタイユ論であることで閉じていくとしたら皮肉である。バタイユが結局壱知識人でしかないなら。
923 :
考える名無しさん:2010/05/22(土) 02:16:11 0
今年はバタイユ論が刊行ラッシュだね。
最近コジェーヴを少しずつ読んでるだけど、
この人もバタイユの社会学研究のメンバーだったんだね
知らなかったよ
バタイユ、レリス、クロソウスキー、カイヨワ、コジェーヴ
この5人組って凄いなw
っていうか悪そうな人ばかり…
肉体のエロティシズム、精神のエロティシズムは意志によらない偶然的なことだと書いてありますが、はたして恋人とは偶然的な存在でしょうか?バタイユ研究者のかたお願いします
926 :
考える名無しさん:2010/05/30(日) 21:07:39 0
バタイユにおいては予定調和への否定性が激しい。エロテイシズムへの嗜好もそれが意識
による統制をはみ出る力をもつからでしょう。恋愛もまた、意識で制御しがたい力をもつ。なんで
あんな奴、と思いながら牽かれていく、というのが恋愛の不可思議さでもある。恋愛が必然である
としても、当人には意識しがたい、というのも事実でしょう。<偶然‐必然>よりも、バタイユだと
<好運 chance>というのが重要な意味だと思います。自分では意識しがたい力が訪れ、翻弄さ
れてしまう、しかし、それがあるから、むしろ人間である、社会的機能に還元されない存在たりえ
るのだ、ということになる。バタイユの場合、徒に偶然が重視されるのではなく、意識の対自性へ
の反命題、それが統制しがたい、ということで、重視される。恋愛が運命的であるとすれば、そこに
も意識の予定調和をこえたものがあるのだから、それもまた肯定されると思いますね。
恋人という必然への幻想を否定しているの。
そういう意味ではヘーゲルが「法哲学」でもごもご言っている
「愛」の発生についてバシッといってるし。
これをニーチェ的ディオニュソス論で補強しているわけだ。
しかし聖なるエロティシズムは必然だと言えるでしょうか?
意志によらないような偶然にはたよらないとありますが、神秘体験は対象が物質としてないのだからそれを感じれるか感じれないかという偶発的な要素がないですか
それと一番聞きたいのは、聖なるエロティシズムとは心情と肉体のエロティシズムの快楽を越えるのでしょうか、私にはどうも恋愛が出来なかったから聖なるもので満足するのではないかと思えてしまいます
たぶん深いことを言っているのにくみ取れていないだけだとは思いますがどうですか
929 :
考える名無しさん:2010/06/01(火) 23:48:01 0
まず、聖なるerotismeと心情的・肉体的erotismeとか別ではないと思います。erotisme
についてもっと言えば、やはりそれは好運 chance のように訪れるもので、いつどう訪れるかは
未知で、つまり、全然好みでないのに、何故かエロテイックな気分になったりもする。何故そんな
気分になったか、自分でも分からなかったりする。バタイユの場合、erotismeは他の至高なもの
と同じく、現在を未来の犠牲にすることなく、制御をはずれて、力を消尽してしまう領野で、そこで
主体が感染し、燃え上がることを聖性としてると思うんです。で、また、その聖性は恋愛が不可能
だから、でもなく、というのも恋愛とerotismeは別物ではないですね。また、別物だと考えない
ほうがいい。エロテイシズムが好運だとすれば、それは偶然的だといえる。しかし、一言いえば、
偶然‐必然のタームで何をバタイユが言いたがっているかが大事なんで、偶然‐必然のタームに
のみこだわるのはおそらく不毛だと思いますね。
バタイユはアルトーに言及してる?
アルトーは常に苦痛と共に生きた人だけど、体験の思想家としてニーチェバタイユと通じるところがあると思う。アルトーにはとても親近感を感じる。バタイユ以上に
931 :
考える名無しさん:2010/06/28(月) 13:00:50 0
バタイユは詩人としての腕はあったの?
932 :
考える名無しさん:2010/08/09(月) 01:28:14 0
バタイユの詩といえば卵を壁にたたきつける村上春樹チックなのがあったなあ
「沈黙の絵画」を読んでからすっかりマネ好きになってしまったんだけど、
バタイユのマネ論ってアカデミック的な評価はどんなもんなんでしょう