デカルト

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842考える名無しさん
『方法序説』第四部

この地で行った最初の省察について語るべきかどうか、わたしにはわからない。
というのも、それは極めて形而上学的で、普通一般から離れているので、すべての人の好みには合わないかもしれないからだ。
だが、わたしが選んだ基礎が十分堅固であるかどうか判断してもらうため、
それについて語ることは、ある意味わたしの義務であると気づいた。

生き方については、ひどく不確かだとわかっている意見でも、疑う余地のない場合と同じように、
時にはそれに従う必要があると、わたしはずっと以前から認めていた。
これは先にも述べたとおりである。
だが当時わたしは、ただ真理の探究にのみ携わりたいと望んでいたので、
これと正反対のことをしなければならないと考えた。
ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、
その後で、わたしの信念のなかにまったく疑えない何かが残るかどうかを見極めなければならない、
と考えた。
843考える名無しさん:2007/08/30(木) 03:54:46 0
こうして、感覚は時にわたしたちを欺くから、
感覚が想像させる通りのものは何も存在しないと想定しようとした。
次に、幾何学の最も単純な事柄についてさえ、推論を間違えて誤謬推理を犯す人がいるのだから、
わたしもまた他の誰とも同じく誤りうると判断して、以前には論証と見なしていた推理をすべて偽として捨て去った。
最後に、わたしたちが目覚めている時にもつ思考がすべてそのまま眠っている時にも現れうる、
しかもその場合真であるものは一つもないことを考えて、
わたしは、それまで自分の精神のなかに入っていたすべては、夢の幻想と同じように真でないと仮定しよう、と決めた。
しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。
すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。
そして「ワレ推ウ、故ニワレ在リ」というこの真理は、
懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なことを認め、
この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。