死を哲学する  

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107THE グル:04/04/22 02:19
>>106
いいですか、
エゴを生きると人は病気になるんでして、
苦悩しながら死んでいくんです。
ですから、
人はビジョンを生きなければならないんです。
それがあなたの生きる目的なんです。
これが定説です。
どうかしましたか?
108考える名無しさん:04/04/22 10:26
>>107

いいですか、
>エゴを生きると人は病気になるんでして、
ぷっ。これ、マジで逝ってますか?
どうかしましたか?
109トルサル:04/04/22 10:46
それは違いますね
110考える名無しさん:04/04/22 11:00
>108
てゆーか「THE グル」と名乗ってる相手に
マジレスすんなや。

なにせ「THE グル」なんだから電波に決まってるw
111ちめろ:04/04/22 11:30
すみません。皆さんにお聞きしたいのですが、皆さんは生きていますよね?
死んだことはないですよね?
それなのにどうして自分が死ぬと思うのですか?
ここではそもそも人は死ぬという前提で話が進んでいますけど、本当に皆さんはこれから死ぬのですか?
何故死んだことがないのに死ぬと思うのですか?

私は前のほうのレスで自己の消失と他者の消失を分けて書いてあるところがありましたけど、賛成です。
他人を消失することと、自己が消失することは雲泥の差があると思います。
そのうち考えたいのは自己の消失ですが、意見を交換できるのは他者の消失だと思います。(自分は死んだことがないため)
112考える名無しさん:04/04/22 11:52
>>111
あなたは人間じゃないの? 不老不死?
それにやけに個性的な文章だな。
113考える名無しさん:04/04/22 12:36
>>112
不老不死であると言いたいのではなくて、死ぬのかどうかは分からない
ということを言いたいのでしょう。

>>111
>ここではそもそも人は死ぬという前提で話が進んでいますけど、
死体=動かなくなった人はまだ生きているとお考えなのでしょうか。
114孔子の弟子:04/04/22 12:54
まぁ。。食物連鎖で考えれば、、、自分の体は土に返り、その土から養分を吸って草花が芽生え、
その植物を草食動物が食い、、、草食動物を肉食動物が食い、、、その循環が輪廻なんかに例えられるねぇ。

確かに「永久に生き続けている」が、肝心なことが抜けている。
「自分が自分でなくなる」ということ。「自分の意志で動けなくなる」ということ。
それこそが死なんじゃねぇかなと思ってみる昼下がり。皆さん、いかがお過ごしですか?僕は元気です。
115ちめろ:04/04/22 14:44
>>113
その通りです。死ぬかどうかは分からないといいたいのです。

死体が生きているといっているのではありません。
生きることを定義したいのではなく、そもそも死ぬことが何か疑いませんか?ということや
「人は必ず死ぬ」この一文を疑いませんか?ということです。
私たちは人が死ぬことを了解しています。ですが、自分が死ぬことを了解しているのでしょうか?
自分が死ぬことを前提にしてここで話しをしている人はいるのですか?ということです。
ですからこそ、私たちは他者の消失しか語れないのではないかな?と思ったのです。
116孔子の弟子:04/04/22 15:09
>>115
まぁ1+1は必ず2なわけでして。
1+1だってこ2という答えを観測せん限りは必ずしも2になるとはかぎりません罠。

しかし、みなさんご存知のとおり1+1は必ず2なんですよ。
生き物は死を実感しなくても必ず死ぬんですよ。

>自分が死ぬことを前提にしてここで話しをしている人はいるのですか?ということです。
俺は「死」と言う意味を別の角度から見ています。
「善」の反対が「悪」ではなく「偽善」と言うようにのように、
「生」の反対もまた必ずしも「死」じゃないんじゃないかなぁ、と。
117 ◆Rfso/Groko :04/04/22 17:25
過去レスを読んでいただければ一目瞭然なのですが
僕は「自分が死ぬことを前提にしてここで話しをしている人」です。
11895:04/04/22 18:14
確かに自分の死と他人の死は非対称的ですね。
119考える名無しさん:04/04/22 18:38
>僕は「自分が死ぬことを前提にしてここで話しをしている人」です。

そうでない人は挙手!
120THE グル:04/04/22 18:49
                \ │ /
                 / ̄\  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
               ─( ゚ ∀ ゚ )< ていせつていせつ!
                 \_/  \_________
                / │ \
                    ∩ ∧ ∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ∩∧ ∧∩\( ゚∀゚)< 定説!定説!定説!
ていせつ〜〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ |    / \__________
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              / /\_」 / /\」
               ̄     / /
                    ̄
121考える名無しさん:04/04/22 18:52
>>120>>119に対する挙手か?
122THE グル:04/04/22 18:55
>>121
いいですか、
結果的にそうなったんです。
どうかしましたか?
123考える名無しさん:04/04/22 21:43
生と死。
これらの語が一体何を指しているのかを考えているとわけがわからなくなる。
124THE グル:04/04/22 22:13
>>123
いいですか、
「活動」と逆に「停止」でいいんではないでしょうか。
どうかしましたか?
125考える名無しさん:04/04/22 22:17
>>125
確かにそうも言えるのだが、物質的側面のみを考えた場合、
停止している状態と言うのはあり得るのだろうか。
見方によっては常に生々流転してると思うのだが。
126THE グル:04/04/22 22:21
>>125
いいですか、
確かにマクロ的に見ていきますと、
死んでしまった細胞を構成する原子や電子自体は動いているんです。
しかし、
簡単に捕らえる文にはこれで充分だと思いますがね。
無闇に横に広げるなら、
精神は不滅である云々にも行き着いてしまいますからね。
どうかしましたか?
127考える名無しさん:04/04/22 22:26
>簡単に捕らえる文には
それを言っちゃあ・・・。
128THE グル:04/04/22 22:32
>>127
いいですか、
でわ、
「死」とはイコール「経験の中断」
「生」とはイコール「経験の連続」
なんてどうでしょうね。
どうかしましたか?
129考える名無しさん:04/04/22 22:40
>精神は不滅である云々にも行き着いてしまいますからね。
つかこれが正しいんだよ。
130THE グル:04/04/22 22:46
>>129
いいですか、
そうですか、
ではそれで。
どうかしましたか?
131Rosenberg ◆jMoO35Bg92 :04/04/23 01:21
「死とは何か」という問いかけは多義的だと思うから少し項目だててみる。
132Rosenberg ◆jMoO35Bg92 :04/04/23 01:23
Q前提:死は存在するのか
 存在しない
 全ては無であるとの主張
 
 存在する
 
Q死の時期はいつか(いつ死んだと判断できるのか、何を以って死とするのか)
 何を以ってよい定義とするかというその人の意識によって違ってくると思う。
 例えば整合性、合目性、社会的実在性(普通一般にはどのように用いられるか?これだといったようなもの)、論理性など。

Q死は選べるのか(自由意志によるのか)
 自由意志否定
 自由意志肯定

Q死の生き方への影響
影響あり(自由意志があることが前提)
 全ての死の種類を選択できる
 死の種類の一部は選択できる
影響なし(自由意志がないことが前提)
 死は選択できない(自由意志がないのであれば選択などない)
*個人的に興味のある範囲
133 ◆Rfso/Groko :04/04/23 01:42
「本能的(動物的)意識」は生を維持するための器官の一部のようなものでしょうか。
人間の肉体には生を維持する事を目的とした様々な器官があり 働きがあります。
精神・意識の中にも 本人の望むと望まざるとに関わらず そのような働きをするものがあるのかも。
しかしそうでない部分の意識も>>77の繰り返しになってしまいますが
「自由である」又は「自由であると思う」事すら 意識が脳という物質から生まれていること
そして僕が僕であること という因から導かれる果に過ぎないのかも? と思ってしまったり。
確かに今の所僕も厳密には分けられそうもありません。
134Rosenberg ◆jMoO35Bg92 :04/04/23 02:32
>>89
>死んだあとだって物質としては残るのだから有じゃないのか?
死んだあとでも物質は有る、意識は無い。
有の対象が違うんじゃないかなぁ。
物質のみを対象とするのであれば生なんてあるはずもないし、生がないんだったら死もないことになると思う。
無と死は何ゆえに関係付けられるのか、なぜ死を考えることと無を考えることが同列なのか?
僕にはわからない。
無=死であって、個々で用いられる無は死を指すんだと思う。
もし死を考えるんだったら「意識」を含む生のみを対象とすれば足りるんじゃないかと思う。
なぜならば物と生物の違いは唯一そこにあるんじゃないかと思うから。
135Rosenberg ◆jMoO35Bg92 :04/04/23 02:50
>>133
微妙な時間差・・・すれ違い。
今僕も◆Rfso/Grokoさんに質問しようとメモ帳を開いてまとめていたところですが、
考えがまとまりきらず家に帰ろうと思って更新ボタンを押したところです。
私が自由意思があると主張するところに対する疑問だと思うんですが、私も自由意思が無いということについて
質問してみようと思っていたところです。
今日はちょっと時間が無いので答えることができませんが、近いうちに又書き込みに来ます。
まぁ結論を簡単に言うと私の唯一の動機は神からの逃避、形而上の否定なわけですが、この辺もまとめて>>133に対する答えと質問を書き込んでみたいと思います。

でもあまり期待しないでくださいね。
136考える名無しさん:04/04/23 04:46
突然だが、理性と本能についての俺の私見を述べる。

「戦場のピアニスト」という映画の、囚われたユダヤ人への食糧の配給シーンで、
乞食が老婦の落としたスープを泥土の上で土と一緒に飲み込んでいて、それを
傍らで、じっと見つめてる老婦の沈鬱な表情が印象的だった。老婆は自らの理
性によって乞食から食料を奪い取ろうとはしなかった。

私が理解したのは、理性は、食という本能にやはり勝ってしまうものなのだということだ。

しかしその理性が理性がユダヤ人たちを破滅へと追い込んだのも事実である。
かの強制連行では、ユダヤ人は、反抗しない従順な羊であった。だからこそあれ
だけの数の虐殺が可能だったのだ。ユダヤ人たちによって、ほとんど暴動が起き
なかったのはある意味、異常とも言えよう。少なくともあの映画にはそのような
メッセージ性があった。

いま我々は自らの理性に批判を掛けている。そのみずからの理性的な態度で。
まさに、これが哲学ではないだろうか?
137考える名無しさん:04/04/23 04:53
自由と必然とを対概念として考えているようですが、はたしてそうでしょうか。
自由は不自由との対概念であり、必然は偶然との対概念ではないでしょうか。
だから、自由と必然とは互いに排除しあうものではなく、
もしかしたら両立可能なものなのではないでしょうか。
自由とは必然に従わないということではなくて、他の事態を指すのではないでしょうか。
138137=95:04/04/23 05:03
補足。
自由と必然とは見方の違いではなかろうか、
どちらか一方だけが成立するわけではないのではないか、
ということです。
139 ◆Rfso/Groko :04/04/23 19:04
>>135
期待させて下さい。自分自身でも意固地になっている感じがするので 別角度からの考えは大変参考になります。

人間としての理性を失うことは確かに想像しただけで恐ろしいですが 
悪意というものは本能には無く 理性の中にだけあるのかも知れませんね。
140 ◆Rfso/Groko :04/04/23 19:59
事象や行為の必然は何となく解る気がするんです。存在の必然がどうも腑に落ちない。
例えば僕の両親にとって僕の存在は・・・  何と言いますか 生殖行為?によってああなってその後こうなって
つまり僕が生まれた。必然的な感じがしますし 彼らも僕の存在を必然的に受け入れたのかも。
でも僕は気が付いたら僕でしたからね。僕が僕である必然は何なのか?と。誰にとって?何にとっての必然なの?と。
こういう風に考えてしまうからいつまでたっても自由意志の有を疑ってしまうのですね。
今の所僕は必然と偶然は同じものを違う呼び方をしているだけと思っていますが
もし厳密に必然と偶然は違うものであるなら それは誰にとって何にとっての必然なのかと考えてしまう。
>>138仰る通り。両立不能である必然(又だ・・・)はありませんでした。
141考える名無しさん:04/04/24 02:00
>>132
>Q死は選べるのか(自由意志によるのか)
>Q死の生き方への影響
なんですが、これら問いには、死は存在するのかしないのか、無であるのかという問いに
答えられないと解決できないと思います。
というのも、もし死=無であるならば、無は存在しないことである以上、存在しない死を選択することなど不可能であり、
また存在しない死が生き方に影響を与えることも〈無い〉ことになるから。

だから、まず死とは何か(生とは何か)という問いについて考えることが必要であると思うのですが。
そうしないと話が広がり過ぎて収拾がつかなくなる。
14295:04/04/24 22:58
自由と必然について自分の考えを述べていなかったので、簡単に述べてみます。

自由自体が一つの必然であるといえる。なぜなら、自由が自らに由って何かをすることであると
するならば、この「自らに由って何かをすること」自体は必然であることになるから。
もし自由がこのように考えられるとするならば、自由は必然と対立するのではなく、
むしろ必然を必要としているといえる。

もう一つ。

もしすべてが必然であり、また必然とは自由の否定、不自由であるとすると、
自由は存在しないことになる。しかし、自由が不在なら、必然=不自由も存在しえなくなる、
というのも仮定「必然とは不自由、すなわち自由ではないこと」において自由の存在を
前提にしているから。自由が存在しなければ不自由も存在しない、したがって、
不自由が存在するならば、自由もしなければならないと思う。


詭弁ぽいですが(両方とも仮定に自信がありませんし)、
私はこう考えるので、自由と必然は何らかのかたちにおいて両立すると考えます。
143考える名無しさん:04/04/25 23:04
何で死にたいって思うんだろう?
何で生きたいか以上にそう思うときがやってくる。
そう思えるときはいくらか心が落ち着いている。
むしろさわやかなんだよな。
144考える名無しさん:04/04/25 23:20
>>142
不自由という言葉を使うからそう考えざるを得ないだけでしょ。
自らに従うという行為を自由意志で選択できるなら、それを
必然とは呼べなくなるよ。
とりあえず・・・
 「自殺」とは、自分が自分自身の存在に耐えられなくなった時に
自分の存在を消してしまう。ということだと思う。とかいってみるtest
146考える名無しさん:04/04/26 00:10
再生を前提にした破壊願望
14795:04/04/26 00:57
>>144
>不自由という言葉を使うからそう考えざるを得ないだけでしょ。
もちろん>>142で述べていることは、もし仮定が正しければ、
こうなるだろうという話です。

>自らに従うという行為を自由意志で選択できるなら、それを
>必然とは呼べなくなるよ。
このようには考えられないと思います。というのも、
「自らに従うという行為を自由意志で選択できる」ということにおける
「自由意志で選択できる」は「自らに従うという行為」を
言い換えているだけではないでしょうか。
「自由意志で選択できる」ということは
「自らの自由意志に従って選択という行為をする」
ということではないでしょうか。
もしそうならば、やはり「自由意志で選択できる」ということ自体が必然となると
考えられるのですが。自由意志がもし何かを選択することであるならば、
この「自由意志がもし何かを選択すること」という構造からは
離れることができないのではと(しつこいですが)考えられるのです。
私が問題にしているのは意志の内容ではなくて、意志の形式を問題にしているのです。

誤解しているかもしれないので、誤りを指摘していただければ幸いです。
148Rosenberg ◆jMoO35Bg92 :04/04/26 20:15
>>145
僕的にはそれは自分の意思により(平均)寿命より短い死を選んだと表現します。
その動機をどう評価するかは自己と他人で異なり、その評価は何に基づいているのかは現在不明です。
149Rosenberg ◆jMoO35Bg92 :04/04/26 20:16
>>93
>老子の言う「無」は、「虚無」の無じゃなくて「無限」の無なのでは?

東洋的な考え方ではどのように捉えることが可能となりますか。
独り言でも、独断的なものでもいいので聞いてみたいのですが。
150Rosenberg ◆jMoO35Bg92 :04/04/26 20:17
>自分が死ぬことを了解しているのでしょうか?
ちめろさん、個人的に非常に興味深いです。
私は人はたとえその人が望もうと望むまいと死を迎えるという考え方でありそのことに揺らぎはないのですが、ではすべての人が
死を意識して生きているのか、というと「そうではない」というのが実際だと思います。
では「人はすべて死ぬ」という事と「すべての人は死を意識しているわけではない」という距離感というか実際をどう説明するか、ここもひとつ興味があるところです。
ちめろさんの言い分の本旨にそぐわない解釈だったらすみません。

>私は前のほうのレスで自己の消失と他者の消失を分けて書いてあるところがありましたけど、賛成です。
>他人を消失することと、自己が消失することは雲泥の差があると思います。
>そのうち考えたいのは自己の消失ですが、意見を交換できるのは他者の消失だと思います。(自分は死んだことがないため)
僕も自己と他者の死についての差については興味があります。
上のほうで結論として倫理的なものに行き当たるという意見もありましたが、だからといって考えるのを放棄する気はありません。
151 ◆Rfso/Groko :04/04/29 01:58
死=無 という言い方は語弊があったかも知れない。自分自身でも疑わしく感じて来た。
死は状態では無く 単純に生が終わるという現象と考える。 この世界には死が存在していますね。溢れている。
この世界が僕の意識の産物で無く 実存しているなら 僕の存在している世界 僕の存在していない世界
どちらも成立する。
しかし僕にしてみれば 僕の意識によってしか世界を捉える事が出来ないので 僕が死という現象を迎えて
僕の意識が無くなれば もう世界を認識することが出来なくなるので 僕にとって僕の存在していない世界というものは存在しないことになる。
そう考えると ああ他人は死ぬけど僕は死なないなという考えも確かに・・・
考えれば考えるほど解らなくなる。
152考える名無しさん:04/04/30 18:15
死が永遠だとして
153考える名無しさん:04/05/06 07:17
まぁさほど気にすることでもないだろう
生まれてくる前に戻るだけだ
また生まれてくるかは知らんけど
154考える名無しさん:04/05/07 18:46
生きているのは現在の自分だと思われる。
では、過去の自分は生きているのか死んでいるのか、それとも他の仕方で存在しているのか、
はたまた無に帰したのか。
155 ◆Rfso/Groko :04/05/08 00:16
過去の自分 現在の自分 未来の自分 それらが独立した存在だとお考えでしょうか。
時間ネタはそれだけでスレひとつ分(じゃ足りない位)のテーマですね。
156考える名無しさん
>>7は詭弁。そんなことを言ってしまったら、なにもかもが不可抗力、ひいては神のしわざということになる。