1 :
Rosenberg:
人は必ず死ぬ。
その死に方にはさまざまなものがある
思うに死にも種類があると思う。
寿命による死、事故による死、病死、衰弱死等の不可抗力による死。
信・忠・義・勇・節・智・仁又は愛などのために死を選ぶ目的のための死。
このように死に方は色々あるが、ある死に方を目にした時、そこに差異を感じるのは何故だろう。
死を哲学して見ませんか?
2 :
Rosenberg:04/03/30 01:14
自分では不可抗力による死は意志に基づかない死であり、目的のための死は何らか
の意志に基づいて死ぬという分類をしてみました。
3 :
考える名無しさん:04/03/30 01:15
>このように死に方は色々あるが、ある死に方を目にした時、そこに差異を感じるのは何故だろう。
死に方が色々あるから、じゃ駄目なのか?
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(∴)∴)
明日雨じゃ夜中全裸でナナハン走らせられねーじゃねーかよー
7 :
考える名無しさん:04/03/30 01:16
「何らかの意志に基づいて」の死についてですけど、
そのような意志が必然的になるような状況に至ることはある種不可抗力ではないのでしょうか。
8 :
考える名無しさん:04/03/30 01:17
______
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|:\/∵∴:\_|_/| ドンマイ
|∴∵∴∵∴:\__ノ/
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|∵|∴|
(∴)∴)
13 :
Rosenberg:04/03/30 01:24
マズ私自身哲学の知識が皆さんほどないということは断らせておいてください。
>>3 それじゃぁ哲学ではないと思います
>>7 とても面白いと思います。
しかし何らかの事情であれある意志に基づいて死ぬということは、寿命による
死とは異なるような機がするんですがどう思われますか?
14 :
Rosenberg:04/03/30 01:30
こんな問題提起をするのも「死」というのはどんな人間でも必ず直面することだと思うんですが、
その死に方によって犬死だとか善い死だったとか価値が分かれる局面が出てくると思うんです。
もちろん極端に言えば価値の問題だから相対的なんだという結論にもなると思うんですが、
体系的に考えるとどうなるんだろうと思ってスレを立てました。
15 :
考える名無しさん:04/03/30 01:30
>>13 >それじゃぁ哲学ではないと思います
うん。
でも「このように〜」の文章から論理的にそういう結論が出てしまう。
もっと違う問い方をするべきだね。
>しかし何らかの事情であれある意志に基づいて死ぬということは、寿命による
>死とは異なるような機がするんですがどう思われますか?
・意志に基づいている点
・死を最終的に自分自身で選択した点
あなたはどっちに力点を置く?
16 :
考える名無しさん:04/03/30 01:33
>>14 >その死に方によって犬死だとか善い死だったとか価値が分かれる局面が出てくると思うんです。
それは死の本質と関係のあることだろうか。
例えば、戦争で英雄が国を守るために死を選んだとする。
その時、英雄が属する国では彼の死は美談として語られるだろう。
しかし、戦争相手国にとって彼の死は果たして美談だろうか。
極端に言わなくても、死をどう捉えるかということは、
死そのものではんかう、捉える「私たち」の問題だから、
結局は相対的なんだという結論になるような。
17 :
Rosenberg:04/03/30 01:40
>>15 まず自分がどちらを好むかという意味での質問であれば後者を選択します。
18 :
考える名無しさん:04/03/30 01:41
けど、もしかして死んでないかもしれないよね。
何度も生まれ変わっては死にを繰り返し、人はどこにいくのだろう?
ってことのほうが疑問ちゃー疑問。
19 :
考える名無しさん:04/03/30 01:43
>>17 ということは、あなたが議論したいのは結局のところ自殺を主体とした死一般についての哲学ということになりますね。
20 :
Rosenberg:04/03/30 01:45
>>16 さすが哲板の人はいうことが違いますね
確かにその死を評価する主体によって評価が変わると思います。
しかしそれを体系的に捉えることは出来無いでしょうか。
師曰く、
死因を自覚する暇があったら、
生まれた時の約束を思い出せ。
私曰く、
誰でも殺せるが、誰でもが生まれない。
22 :
Rosenberg:04/03/30 01:48
>>18 それも一つの疑問ですね
>>19 いえそうではありません。形而上のもの、形而下のものを含めて「体系的」に考える
事、つまり構造的に考えることへの試みです。
ぴかぁ〜自演きもすぎ
ぴかぁ〜自演きもすぎぴかぁ〜自演きもすぎぴかぁ〜自演きもすぎぴかぁ〜自演きもすぎぴかぁ〜自演きもすぎ
ぴかぁ〜自演きもすぎ
ぴかぁ〜自演きもすぎぴかぁ〜自演きもすぎぴかぁ〜自演きもすぎぴかぁ〜自演きもすぎぴかぁ〜自演きもすぎぴかぁ〜自演きもすぎぴかぁ〜自演きもすぎ
ぴかぁ〜自演きもすぎぴかぁ〜自演きもすぎ
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ぴかぁ〜自演きもすぎぴかぁ〜自演きもすぎ
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ぴかぁ〜自演きもすぎぴかぁ〜自演きもすぎぴかぁ〜自演きもすぎぴかぁ〜自演きもすぎ
死なないという意思をもっていても必ず死にますよね。
自分自身で選択 といってもそうせざるを得ない環境や状況は自分の意志とは無関係にやってくるのではないでしょうか。
そもそも環境や状況などの不可抗力に左右されない意思があるのでしょうか。
>>22 形而下に死を考えるって具体的にどういうことだ?
27 :
Rosenberg:04/03/30 02:03
>>24 鋭いです。その答えもおいおい模索しながら、又体系図けながら書いていきたいのですが
同じ環境の下でもその人の経験によって違った判断をすることはありうると思うんですが
どうでしょうか。
>>25 形而上の死=すべての死を神によって与えられた死と捕らえる。
形而下の死=意思による死を自己の経験の下に自分の意志に基づき選択する。
という風に整理しているんですがどうでしょうか。
28 :
Rosenberg:04/03/30 02:04
矛盾点はどんどん指摘してください。
29 :
Rosenberg:04/03/30 02:11
>>16 死の本質とはどのようなものだと思っておられますか
「死」を体系的=構造的に考えていきたい、というのが1さんの言いたいことかな。
31 :
Rosenberg:04/03/30 02:15
>>30 ええ、死の種類と死に対する価値・・・今現在どのような形が完成形かは見えていませんが・・・
を体系的に考えたいという主張です。
32 :
考える名無しさん:04/03/30 02:15
>>29 不可避的 交換不可能、一回的、不可知的、まぁそんな言葉が思いつきますねぇ。
個別的な死の評価自体はどこまで行っても相対論的ですよね。
ちょっと聞いてみたいのですが、構造的ー体系的に死を考えてみたいという場合の、
「死」とは自分の死ではなく、他人の死ですか?
33 :
Rosenberg:04/03/30 02:20
自分の死を想定して考えていたと思います。
自分の死と他人の死・・・
そのような分類は考えていませんでした。
現在のところを自分なりに簡単にまとめてみました
自分
死の種類
不可抗力による死(寿命による死、事故による死、病死、衰弱死等)
目的のための死(信・忠・義・勇・節・智・仁又は愛)
死に対する評価基準(本人自身)
原則相対的
他人
死の種類
不可抗力による死。
目的のための死。
死に対する評価基準(他人に対する)
原則相対的
味方
敵
しかし「相対的」という名の下にすべてを放棄するのはどうかと・・・
他人の死と言うが、他人にもいろいろあるよな。
他人Aと他人Bの死をそれぞれ死Aと死Bとおくと、
死Aと死Bは同一のものとして扱っていいのか?
死Aと死Bがあるんだったら、それぞれ独立に分析できる体系を模索したいと思うんだけど
どうかなぁ
死の価値は変化する。
何かの目的を達成する場合、その条件の中に死が含まれて居れば、その死は価値あるものとなる
たとえば、現在、重罪を償うには死をもってしかない。
「罪を償える」方法が「死」でしかないのなら、その死には「罪を償える」という価値が生まれる
だが、遠い未来、重罪が死しても償えないとしたならば、その死は無価値となる。
変化するものに対し、定義する事は不可能ではないだろうか。
ただ、死した先、自分の意思で価値ある行為を行う事は何一つできないので
死はある種無価値とも言える。
寿命で死んだり、忠義のために死んだり、はたまた絶望して死んだとしても
その先には何も為すことはできないので、どんな死に方でも死は無価値かもしれない。
ん〜、やっぱ前述の論を推すかな
>たとえば、現在、重罪を償うには死をもってしかない。
死は重罪を償うことにはならないだろう。
日本の現行刑法に基づいた安易な断定はやめろ。
その人の人格形成を司る環境まで同じというのは考えにくいですが
ではある同一の状況@で 人Aは死ぬことを選び 人Bは死なないことを選んだとします。
「経験によって違った判断をする」のは正に不可抗力なのではないでしょうか。
言い方を代えればそう判断するに至る人格を形成させた環境により
Aは「死なないことを選べなかった」
Bは「死ぬことを選べなかった」
とは言えないでしょうか。
これは人は自分の望む選択をする自由があるが では自分の望まない選択をする自由はあるのかという問題で
僕の好きな話です。スレ違いですみません。
不可抗力に対して目的のための死とありますが
死を選んだ人間に対して死がその本人に提供するものは「無」だけです。
「無」ですからつまり何も提供しない。存在が無くなり 考えることも動くことも出来なくなるだけ。
果たしてそれが目的と成り得るのでしょうか?
本人以外にとっては・・・ それは本人には知る由もありません。
>これは人は自分の望む選択をする自由があるが では自分の望まない選択をする自由はあるのかという問題で
>僕の好きな話です。スレ違いですみません。
俺もこの手の話題は好きだから、むしろこういう方向で考えていきたいと思う。
人がなにがしかの選択をする時に、一見自由に見えていても本当にそれは自由なのか、ってね。
「死を哲学する」のが目的なら、「体系的に=構造的に考えていく」のにはどうも違和感を覚える。
>>1の言うように確かに死をいろいろ分類することは可能だろうが、では果たして死とは何なのか、
そこから考えていくのも大事だと思うね。
>39
すまん、そうだな、刑法上、最高の刑が死刑なだけで、
それで被害者達の怒りや悲しみが消える訳でもないしな。
たとえばのとこはニュアンスだけ解ってくれたら嬉しい
>40
「死ぬ事を選べなかった」は、つまり迷いはしたが
結局その人は「死を選ぶ事しかできなかった」
つまり、その人の経験から未来は決まっていたという事になり得る・・?
てことは「死を選ぶ」も「選ぶ猶予なき死」も全て形而上の死となるのかな
「果たして死とは何なのか」は面白い題だよね
「死を選ぶ」にせよ「死を選ばない」にせよ、その選択自体に自由はあったのかと言われれば、
自由なんて無さそうだね。あくまでもその人の経験や、経験以外のことからも自由は脅かされるわけだ。
全ての結果が原因に起因するのであれば 因が決まった時点で果も決まってしまう?
極端な話ですみませんが 例えば僕はRPGのキャラクターで 自分の意志の自由で杖を装備しているつもりに
なっているけど 実は(上の次元の因・この場合はプレイヤーによって)職業を魔法使いにされているので
最初から剣を装備出来ないと決まっている というような・・・
45 :
考える名無しさん:04/03/31 01:08
全ての事象に原因があるのか、ということ自体がひとつの哲学的問いになってる。
閑散としていますが・・・
スレ主さんと名無しさんの降臨を待ちつつしばらく独り言的に死について考えていきたいと思います。
「死」と「選択」というキーワードに違和感を感じることについて。
死は生の対になるものでしょうか。某有名小説では「対極としてではなく その一部として存在している」とありましたね。
「死を選択する」それは「生」と「死」の二者択一の中から? ではその前に僕は「生」を「選択」したのか?
今の僕の状態は「生」です。いつ選択したのか?していません。僕は前提として「生」だったのです。
僕が混乱するのはここなのですが 「生」は前提として必ず「死」ぬのです。この2つを前提として僕がいる訳です。
選択肢は前提を無視しては成り立ちませんが
@生きる
A死ぬ
選択肢が前提そのもののみ というのがどうしてもうまく納得出来ないのです。
どちらを選んでも前提?それは自分の意志?
良スレ発見。
>1の言う様々な死に方に差異が見られることに対しては、
やはり死に対して忌避しているのか意志的であるのかの差が大きいんじゃないかと思う。
とりあえずその意志的と言うのが有りうるかどうかはひとまずさておき、
そうなると、いわゆる英雄的死と逃避的な自殺との間に、
自分が差異を感じる事がおかしいという事になっちゃうんだよな。
この辺を考えていくと倫理的な問題に突き当たらざるを得ないような気がする。
と、とりあえずこの辺で投げっぱなし。
あと>46で24は凄く面白い事言ってる気がするんだが、
選択肢が前提そのもののみ、と言う事が納得できないってところが今一俺には理解し辛いな。
要するに因果の因の部分→決断→果の部分と言う構造の、
因と果の部分が完全に一致しているのが納得できないって事なんかな?
良かったらもう一度説明して欲しい。頭悪くてすまんね。
選択した訳でも無く 前提としてあるものをさらに「選択する」という事に矛盾を感じるのです。
@生きる = 単に今の状態です。選択しなくても既にその状態です。生きている状態で更に「生きる」を選択すると
なにかあるのでしょうか。 選択肢になり得ないと思います。
A死ぬ = 「死」という状態での存在は有り得ないと思います。生の終わりをそう呼んでいるだけの概念だと考えます。
前提として「生」である必要がありますが上記のように生は選択肢になり得ない。
こんな感じが精一杯なのですが。説明下手ですみません。
この問題は多分に「死を選択」=「自殺」=「ゴチャゴチャ言ってないで自分で青酸カリ飲めばそれが死を選んだって事」
的な方向に進みそうで怖いのですが 今の所僕は
死とは何か 死を選ぶとはどういう事なのか についての「行為」では無く「概念」「観念」について考えたいと思っています。
50 :
考える名無しさん:04/04/11 18:21
自分を感じれるのは自分だけで他人を感じるとはできない。
そしていつか消滅し忘れ去られるわけだが・・・
でもなんで自分を感じることができるのか、そして自分はどこから来てどこへ行ってしまうのか、なぜそのような現実に意味があるのか、そして現実とは何なのかが気になるわけで。
脳はただの感情処理する器官に過ぎないけど、自分の魂は自分の中に存在しているわけで・・・
魂の終焉&現実とは?
51 :
くろしろ@社会学白痴断見教教祖:04/04/11 18:35
断見は限定的生命連続によってその意味を与えられる。
52 :
考える名無しさん:04/04/11 18:36
53 :
考える名無しさん:04/04/11 19:01
でも死がすべてじゃなくていかに幸せに生きるかが自分の価値を決めるんじゃない?
Today is the first day of the rest of your life.
「死」には
@死んでいる状態
A生から死への移行の仕方
と、2つの意味がある。
@には多様性もないし、選択の余地もない。要するに「無」だ。
Aは、厳密には死ではなく「生き方」の問題で、非常に多様であり選択の余地
がある。英雄的死と逃避としての自殺の違いなどは、この問題。
「生」にも
@生きている状態
A死(無)から生への移行の仕方
と2つの意味がある。ただしこれは死とは逆に、@は無限に多様であり絶え間無い
選択の連続。Aは本人の行為ではなく、意志的に選べない。いつどこで誰として
生まれるかは、「運命」として受け入れるしかない。
以上、何かの参考になれば幸い。
55 :
考える名無しさん:04/04/11 21:12
魂の終焉&現実とは?
かなりインスパイアされました。
が 僕は今のところ 死=無 と考えているので 死から生への移行というのがいまひとつ理解出来ません。
本当に無から有が生まれるような事が起こり得るのでしょうか。
>>40にも書いた通り 死が本人に提供するものは存在の消滅だけであり 存在が無である以上何の作用も影響も
受けるものでは無い。 死が何らかの影響を与えるとすれば「生=有であるもの」に対してのみ
つまり他者に対してのみ「死」は意味を持ち 作用・影響を与えるのではないでしょうか。
57 :
考える名無しさん:04/04/11 21:38
206 :くろしろ@社会学白痴断見教教祖 :04/04/06 20:31
>>204 数学的には楽だよ。算数しかでない感じ。
ただ文章は(((( ;゜Д゜)))ガクブル
529 :くろしろ@社会学白痴断見教教祖 :04/03/14 19:57
あ、あと
利潤率低下傾向の式で
M M/V
r=――― =――――――
C+V C/V+1
って式をよく見ますが、
要するにM/(C+V)をVで割っているわけですよね
なのになぜ左辺rはr/Vにならないんでしょう?
すいません。数学リア厨以下なんで。。。
ご説明できる方いれば一つ。
58 :
考える名無しさん:04/04/11 21:43
現在の生が無から移行したもので、生から無にかえることが死ということを言いたいのでは?
それに反する考え方が
>>50の魂の移行(どこからか来てどこかへ行く)であると思います。
59 :
くろしろ@社会学白痴断見教教祖:04/04/11 21:58
はははは必死必死w
60 :
考える名無しさん:04/04/11 22:24
>>57 その529のレスなんか見てるともう悲しくなってくるな・・・
>>現在の生が無から移行したもので
やはり無から移行という意味が解りません。生=有と考えます。有は有からしか生まれません。
僕は両親=生=有から生まれ 現在僕=生=有です。僕が「移行」の意味をとり違えているのかも知れませんが
生は生からのみ移行する?
>>魂の移行(どこからか来てどこかへ行く)
それは「生まれ変わり」 以前誰かの魂であったものが今僕の魂として機能し 僕の死後又誰かの魂になる
ということでしょうか?
そもそも魂とは何なのでしょう?
すみませんお久しぶりです。
本業のほうがかなり予定遅れなもんでなかなか手が離せないんです。
↑私です
>>40−41
大歓迎。
私はあくまで私の視点で行きますが、そんな方向性も面白そうですね。
40(24)、41のように考える人に質問したいんだけど次のような場合どう考える?
つまり、ある人はある日寿命を全うしたい、老衰死したいと考えた。
そこで食べ物、酒、タバコに気を使い、適度な運動を心がけ年齢100歳で老衰死した。
この100歳での老衰死は寿命であったと仮定する。
この場合この人は寿命による死を「意思に基づいて決定した」といえないだろうか。
どう思う?
>>53 死の価値は生き方によって決まると?
なかなか面白いです
客観的な面だけでなく主観的な面からも考察したい(決して私の言うところの
形而上の死を論ずることを否定するものでは無くもっと広く論じたいという
意味で)と思う。
個人的には 「原則的」に(普通一般として) 寿命による死が人の幸せである
と考えるんですが皆さんはどうですか。
ちょっと危険思想かなぁ
67 :
Rosenberg:04/04/13 18:06
名無しさんも意見ちょうだい
君には始まりも終わりもない
死は生であり生は死だ!
未来も過去も意味をもたない
君が見たこともない愛を信じるように
意識は存在する 永遠に…
寿命というのは全て結果論でのみ語られるべきだと考えます。
寿命は「決まっている」 だから寿命が来る前は どんなに不摂生しようが 電車に飛び込もうが死なない。
上記の考えがデタラメであるのは明白でしょう。 つまり寿命は決まってはいないのです。
僕としては
>>64のような人は稀なケースで
多くの人が どんなに健康に気を使っていても癌になって死んだり 用心深くしていても不慮の事故にあって
死んだりしているのを見ると
>>64とは逆に「やっぱり死は意思によってどうこうなるものでは無い」
という印象が強いのですが。
70 :
考える名無しさん:04/04/14 08:41
>>24氏
お久しぶりです。そしてレスありがとうございます。
確かに「
>>64のような人は稀なケース」かもしれません。実際にはほとんど存在しないと言っていいと思います。
ですがこのような純粋に目的を達成した人間と言うのを観念することは大切なことだ、と言うのが私の認識です。
つまりちょうどそれは資本主義を論ずるときに「合理的意思決定をなしうる個人」を描くことと同質だと言う認識です。
資本主義者達は「合理的意思決定をなしうる個人」を想定し、そのことを前提に物質分配の議論を進め、社会契約論で多数可
決されたと言う形に変え、それを憲法として定め、今の実際社会を形成している。
同じような形で考えてみるとどうなるだろうか・・・と言う意識もなくはないのですがどう思われますか。
まぁ私の挙げた例がよかったかどうかは別ですが
71 :
THE グル:04/04/14 09:19
\ │ /
/ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
─( ゚ ∀ ゚ )< ていせつていせつ!
\_/ \_________
/ │ \
∩ ∧ ∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ∩∧ ∧∩\( ゚∀゚)< 定説!定説!定説!
ていせつ〜〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________
________/ | 〈 | |
/ /\_」 / /\」
 ̄ / /
 ̄
皆さんのいう「死は意思によってどうこうなるものでは無い」と言う主張が個人的によく理解でき
ません。皆さんの意見を理解したいので私なりに少しまとめてみますから矛盾点等をご指摘ください。
まず私には皆さんのような考え方が人間の意思を全否定するもののように私には見えます。
この考え方は一種の運命論的な響きに感じます。つまり全てのことは神によって決められた
摂理に従ってあらかじめ決定されているのであり、それはたとえば生まれたときの環境や
遺伝であり、それらによって受けられるであろう教育、そこから得る経験もあらかじめ決まって
いて、さらに生まれたときの両親、出会った友人、それらの人から影響を受ける生活習慣なども
あらかじめ決まっており身につけるべくして実につけた。その結果人は予め定められたままに死ぬ。
と言う主張に聞こえます。
極めていえば人の自由意志を否定しているように聞こえます。
24氏、その他名無しさん
わからずやで申し訳ありません。
皆さんの意見は非常に刺激になっています。
自由意志は
>>68さんのいう愛のように見たことはありませんが、私は存在すると思っています。
そして自由意志が存在する以上死も選択可能であると思います。
「死も選択可能」×
「死の種類は選択可能」○
微妙に問題意識がずれている&しばらく来てなかったから皆さんの考え方についていけていない予感。
もっと読込んでみよう。
トリップをつけました。
人に自由意志は無いと考えています。僕が僕であることから自由になる術を僕は持っていない ということです。
今現在もRosenberg さんの意思を選択出来ずにいる以上 僕に自分の望まない選択をする自由は無いように思えます。
自分という因が導き出す果 つまり意思の自由は持っていると。
ただし
>>72で例えられている 「全てのことは神によって決められた摂理に従ってあらかじめ決定されている」や
もっと極端な因果律論者のように「全ての大元となる因が定まった時点 つまりビッグバンの時点で 全ての果は
決定されている」と思っている訳ではありません。
>>24の補足になりますが 「自分が自分である事から」
「自分の生い立ちの環境」「現在の自分の状況」等から逃れた自由意志は有り得ないのではないか と考えます。
「死は意思によってどうこうなるものでは無い」と言う主張は積極的にそう考えているというよりは
消去法的に「そうなんじゃないかな」と思うようになったんですね。
そう考えるに至った根拠を以下に記します。
まず僕が「死=無」であると考えている事。 自分の死後 自分の死を自分で総括することが不可能である。
生=有である僕が今 将来の死について何らか意思を持って「生きる」のは可能でしょう。
又自殺に失敗した人間が当時を振り返って その時の意志でやっぱりあの時死んでいればと思ったり
今の意志で この幸せを棒に振るところだった 本当に馬鹿な事をしたと思うのか
何れにしても生=有であればこそです。
では本当に死んでしまった人間の死について総括するのは一体誰なのか? 他人ということになります。
>>64のような人が実際にいたとして その死を「意思に基づいて決定した」と言えるのは誰なのか?
生涯を共に生きた人が「正に大往生だ」と言うのか 死後その人の人生を10分くらい聞かされた人が「無様な死だな」
と言うのか 何れにしても(厳しい言い方ですが) 生=有であるものの「勝手な」解釈に過ぎません。
果たしてその人は「本当に」「自分の意志で」「天寿を」まっとうしたのか??
百人百様の勝手な解釈なら問題ありませんが 普遍的に「○○をもって幸せな死」「○○をもって価値ある死」
という考えには大きな抵抗を感じます。
多分に揚げ足とりのようになって申し訳ありません。
「死を思って『生きる』ことについて」であるならば多分Rosenbergさんや
>>70さんの意見に素直に肯ける気がするのですが・・・
自分でもツッコミ所あり過ぎだと思うのですが「死について」
「死とは善悪 優劣 価値の高低 その他一切の評価を超越した 全ての人間に真に平等に与えられた唯一のもの」
どうかツッコミまくって下さい。
申し訳ありません。殆ど答えにも根拠にもなってませんでした。僕ももっと読み込みます・・・
どうも僕は 生の終わりに必ず死がある=死は生の一部であると言える と思いながらも
そうでありながら「死」と「生」は独立したものであると思い込み過ぎていたようです。
死んでいる状態をdeadと言いますが deadが「完全な」「完成された」を意味する形容詞であることを考えると
生きること=死ぬこと どう生きるか=どう死ぬか 生き方の選択=死に方の選択
という考え方が確かに理解出来ます。
僕は死は無であると考えている。死のむこうには何も無い。でも死の先に「何か」があると考えている人も居る。
そういう人達にとって死とは何なのだろう。
僕は死ぬのが怖い。何故だろう?死が無であり その先に何も無いのであるなら 楽しみも無いんだろうけど
少なくとも苦しみも悲しみも無いはずなのに。矛盾している。
僕という存在が無くなる事への恐怖。しかし僕が生まれる前は僕の存在なんて無かった訳だし。
意識。考える事。記憶。それらが無くなる恐怖?
しかし生まれた瞬間の記憶は無いけど存在していた。何を意識していたのだろう。何か考えていたのだろうか。
82 :
THE グル:04/04/19 03:06
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─( ゚ ∀ ゚ )< ていせつていせつ!
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ていせつ〜〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________
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死が無であるのではなく
君達の存在自体がすでに無なんだよ
まあ僕のレーゾンデートルは無なんでしょうが
存在自体が無という事は 僕は存在していないという事でしょうか。それはちょっと困りますね。
確かに存在自体が先か存在を認知する意識が先かという話もあるんでしょうが・・・
85 :
THE グル:04/04/19 18:49
>>83 >>84 いいですか、
根拠が希薄ですね。
存在理由と実存在は別個のモンなんです。
どうかしましたか?
そうですね。前提として存在している訳ですから 理由は後付けですね。
存在自体に理由は要りませんね。存在に理由を求めたがる意識がある訳ですが。
87 :
THE グル:04/04/20 01:11
>>86 いいですか、
その通りなんです。
どうかしましたか?
生と死とは別もの。
なぜなら、生きながら死んでいる生物を考えることなどできないから。
でも、死なき生、生なき死を考えることもできない。
この意味において生と死は同じもの、切り離し得ないもの。
ところで、死が無であるなら、生と同じもの、切り離し得ないものにはなり得ない。
なぜなら、無だから。
もし死が無なら、生は死なき生ということになり、
生には死が訪れないことになる。それだと生は理解不能になる。
とすると、死は無ではないということになる。
では、死とは何なのか。
妄想を書き付けました。
生まれるのは親という有がいるからだっていうのはわかるけども
死=無ってのはなんだろうか
死んだあとだって物質としては残るのだから有じゃないのか?
物質的っていうことじゃなく意識的なものだとしたら生まれる前だって無だと思うのだが
>>88さんと
>>89さんのレスを読んで自分の間抜けさに気付きました。
生=有 死=無 無から有は有り得ない と連呼していながら 有=生から無=死への移行に何の疑問も持たず・・・
確かに僕が死んで 肉体が朽ち果てたとしても 僕の体を構成していた物質が無になるはずもありません・・・
僕は肉体的な死を完全に無視して 死=「精神的な死」「意識の死」と考えていました。根本的にまずいです。考えます。
>>89 >死んだあとだって物質としては残るのだから有じゃないのか?
他人の死ならそう言えなくもないが、自分の死だとそうは言えない気がする。
自分が死んだらそういうことを確認できないから
(確認できたら死んだんじゃなくて、新たな生に移行しただけだろう)。
物質的な死は、一体どの時点で死となるんだろう。
心臓停止や脳死が起きてもまだ細胞は生きているわけで。
あと、脳死は意識の死なんだろうか。
確かに脳死になると身体的な反応はなくなるけれど、それが意識の死なんだろうか。
意識はまだあるけど、その表現手段がないだけってことはないのだろうか。
93 :
考える名無しさん:04/04/21 00:38
老子の言う「無」は、「虚無」の無じゃなくて「無限」の無なのでは?
意識は脳が作っている。今の所そう考えるしかない。脳が今考えている。脳は肉体の一部。物質。
脳=物質が死ねば意識も死ぬ。肉体的な死と意識の死の区別も解らなくなってきた。
死は生の一部なのか独立したものなのか。
僕はどうしても意識に拘ってしまう。
僕は有であり存在している。実存している。形而下にある。それが生か?
僕は無であり存在していない。実存していない。形而上にある。それが死か? 全然違いますね。
もう僕にとって唯一の生の根拠と言っていい「意識」は形而上のものですし。意識があり考えることが出来る。それが生。
でも
>>92さんの言うように意識だけあって 動くことも出来ず 全く何の表現も出来ないと想像したら・・・ もはや森山直太郎の歌・・・
意識は脳が作っているとは思えない、というより科学的には証明できない、と思う。
科学は物質的表現からしかアプローチできない(?)し、
また意識という主観的側面を排除することでやってきたと思うので。
脳という物質的表現は誰でも見ることができるけれども、意識は見えない。
意識が見えたら、それを見る人の意識と見られるところの意識の区別を
どうつけたらよいかわからないということもある。
おそらく科学は脳と意識の対応関係を調べているだけで、
因果関係を解明してるわけでないと思う。
だとすると、脳と意識は対応する関係にあるとは考えられるわけだから、
脳死と意識の死は同時だと言うことができる。
でも脳は全身と繋がっているわけだから、
脳死=人の死になると言ってよいのかがわからない。
というか自分が何を言っているのかがわからなくなったw
という事は 脳の無い生き物の死 (理性的)意識の無い生き物の死 との差異が人の死という事になるのでしょうか。
ごめん、書き方がまずかった。
補足すると、脳死が意識の死と考えれるかどうかがわからない。
というのも、脳は全身の一部だから、意識という機能を脳だけが
担っているとはいえないから。
もちろん、意識と脳は他の身体部分よりもより密接な関係にあると思われるが。
だから、意識という機能を人間だけに限れば、意識のあるなしが
人間であるかどうかの差異になる。
しかし、意識は人間だけにあるのかどうかがわからない、
というよりも意識の定義によってどの生物が意識をもつのかが
変わってきてしまう。
だから、意識の死=脳死とは言えないかもしれない、ということを
言いたかった(のだと思う)。答えになってるかな?
98 :
THE グル:04/04/21 20:26
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 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ∩∧ ∧∩\( ゚∀゚)< 定説!定説!定説!
ていせつ〜〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________
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ごめん、
>>97の答えもまとまってないので考え直します。
僕は今の所は意識の根拠は脳によるものだと考えていますが 95さんの
>>97のレスを読んで思ったのですが
例えば「生」の維持という点では 自律神経のように意識とは無関係に機能する器官がありますよね。
意識自体にも意識とは無関係に機能するものは考えられないでしょうか?日本語としておかしいですね。
無理に言えば「理性的(人間的)意識」と「本能的(動物的)意識」のように。
多くの動物は脳を持ちながらも人間のような思考は出来ないと考えられていますが
(想像として)かれらの意識を「本能的意識」
生まれたばかりの赤ちゃんの意識を見ることが出来れば・・・
こちらも支離滅裂で申し訳ない。
>>100 私も同じように意識には二つの側面があると考え、
意志に従うかどうかで分けてますが、
厳密にははっきりと分けられないとも思っています。
というのも、人は自由であるとともに必然に従っていると
私は考えているからです(意識と物質が対応関係にあることからそう考えます)。
自由と必然は見方の違いから分けられるものと思ってます。
だから、私は赤ちゃんの意識は自己の意識から自由感をなくせば
感じられるんじゃないかと夢想してます。
103 :
THE グル:04/04/22 02:01
>>102 いいですか、
定説です。
どうかしましたか?
定説ってなんだ?
死とからめて論じてちょ。
105 :
THE グル:04/04/22 02:14
>>104 いいですか、
定説とはイコール病気。
定説とはイコールTHE グル。
どうかしましたか?
死と絡まってないないじゃん。
107 :
THE グル:04/04/22 02:19
>>106 いいですか、
エゴを生きると人は病気になるんでして、
苦悩しながら死んでいくんです。
ですから、
人はビジョンを生きなければならないんです。
それがあなたの生きる目的なんです。
これが定説です。
どうかしましたか?
108 :
考える名無しさん:04/04/22 10:26
>>107 いいですか、
>エゴを生きると人は病気になるんでして、
ぷっ。これ、マジで逝ってますか?
どうかしましたか?
それは違いますね
>108
てゆーか「THE グル」と名乗ってる相手に
マジレスすんなや。
なにせ「THE グル」なんだから電波に決まってるw
すみません。皆さんにお聞きしたいのですが、皆さんは生きていますよね?
死んだことはないですよね?
それなのにどうして自分が死ぬと思うのですか?
ここではそもそも人は死ぬという前提で話が進んでいますけど、本当に皆さんはこれから死ぬのですか?
何故死んだことがないのに死ぬと思うのですか?
私は前のほうのレスで自己の消失と他者の消失を分けて書いてあるところがありましたけど、賛成です。
他人を消失することと、自己が消失することは雲泥の差があると思います。
そのうち考えたいのは自己の消失ですが、意見を交換できるのは他者の消失だと思います。(自分は死んだことがないため)
112 :
考える名無しさん:04/04/22 11:52
>>111 あなたは人間じゃないの? 不老不死?
それにやけに個性的な文章だな。
113 :
考える名無しさん:04/04/22 12:36
>>112 不老不死であると言いたいのではなくて、死ぬのかどうかは分からない
ということを言いたいのでしょう。
>>111 >ここではそもそも人は死ぬという前提で話が進んでいますけど、
死体=動かなくなった人はまだ生きているとお考えなのでしょうか。
114 :
孔子の弟子:04/04/22 12:54
まぁ。。食物連鎖で考えれば、、、自分の体は土に返り、その土から養分を吸って草花が芽生え、
その植物を草食動物が食い、、、草食動物を肉食動物が食い、、、その循環が輪廻なんかに例えられるねぇ。
確かに「永久に生き続けている」が、肝心なことが抜けている。
「自分が自分でなくなる」ということ。「自分の意志で動けなくなる」ということ。
それこそが死なんじゃねぇかなと思ってみる昼下がり。皆さん、いかがお過ごしですか?僕は元気です。
>>113 その通りです。死ぬかどうかは分からないといいたいのです。
死体が生きているといっているのではありません。
生きることを定義したいのではなく、そもそも死ぬことが何か疑いませんか?ということや
「人は必ず死ぬ」この一文を疑いませんか?ということです。
私たちは人が死ぬことを了解しています。ですが、自分が死ぬことを了解しているのでしょうか?
自分が死ぬことを前提にしてここで話しをしている人はいるのですか?ということです。
ですからこそ、私たちは他者の消失しか語れないのではないかな?と思ったのです。
116 :
孔子の弟子:04/04/22 15:09
>>115 まぁ1+1は必ず2なわけでして。
1+1だってこ2という答えを観測せん限りは必ずしも2になるとはかぎりません罠。
しかし、みなさんご存知のとおり1+1は必ず2なんですよ。
生き物は死を実感しなくても必ず死ぬんですよ。
>自分が死ぬことを前提にしてここで話しをしている人はいるのですか?ということです。
俺は「死」と言う意味を別の角度から見ています。
「善」の反対が「悪」ではなく「偽善」と言うようにのように、
「生」の反対もまた必ずしも「死」じゃないんじゃないかなぁ、と。
過去レスを読んでいただければ一目瞭然なのですが
僕は「自分が死ぬことを前提にしてここで話しをしている人」です。
確かに自分の死と他人の死は非対称的ですね。
119 :
考える名無しさん:04/04/22 18:38
>僕は「自分が死ぬことを前提にしてここで話しをしている人」です。
そうでない人は挙手!
120 :
THE グル:04/04/22 18:49
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121 :
考える名無しさん:04/04/22 18:52
122 :
THE グル:04/04/22 18:55
>>121 いいですか、
結果的にそうなったんです。
どうかしましたか?
123 :
考える名無しさん:04/04/22 21:43
生と死。
これらの語が一体何を指しているのかを考えているとわけがわからなくなる。
124 :
THE グル:04/04/22 22:13
>>123 いいですか、
「活動」と逆に「停止」でいいんではないでしょうか。
どうかしましたか?
125 :
考える名無しさん:04/04/22 22:17
>>125 確かにそうも言えるのだが、物質的側面のみを考えた場合、
停止している状態と言うのはあり得るのだろうか。
見方によっては常に生々流転してると思うのだが。
126 :
THE グル:04/04/22 22:21
>>125 いいですか、
確かにマクロ的に見ていきますと、
死んでしまった細胞を構成する原子や電子自体は動いているんです。
しかし、
簡単に捕らえる文にはこれで充分だと思いますがね。
無闇に横に広げるなら、
精神は不滅である云々にも行き着いてしまいますからね。
どうかしましたか?
127 :
考える名無しさん:04/04/22 22:26
>簡単に捕らえる文には
それを言っちゃあ・・・。
128 :
THE グル:04/04/22 22:32
>>127 いいですか、
でわ、
「死」とはイコール「経験の中断」
「生」とはイコール「経験の連続」
なんてどうでしょうね。
どうかしましたか?
129 :
考える名無しさん:04/04/22 22:40
>精神は不滅である云々にも行き着いてしまいますからね。
つかこれが正しいんだよ。
130 :
THE グル:04/04/22 22:46
>>129 いいですか、
そうですか、
ではそれで。
どうかしましたか?
「死とは何か」という問いかけは多義的だと思うから少し項目だててみる。
Q前提:死は存在するのか
存在しない
全ては無であるとの主張
存在する
Q死の時期はいつか(いつ死んだと判断できるのか、何を以って死とするのか)
何を以ってよい定義とするかというその人の意識によって違ってくると思う。
例えば整合性、合目性、社会的実在性(普通一般にはどのように用いられるか?これだといったようなもの)、論理性など。
Q死は選べるのか(自由意志によるのか)
自由意志否定
自由意志肯定
Q死の生き方への影響
影響あり(自由意志があることが前提)
全ての死の種類を選択できる
死の種類の一部は選択できる
影響なし(自由意志がないことが前提)
死は選択できない(自由意志がないのであれば選択などない)
*個人的に興味のある範囲
「本能的(動物的)意識」は生を維持するための器官の一部のようなものでしょうか。
人間の肉体には生を維持する事を目的とした様々な器官があり 働きがあります。
精神・意識の中にも 本人の望むと望まざるとに関わらず そのような働きをするものがあるのかも。
しかしそうでない部分の意識も
>>77の繰り返しになってしまいますが
「自由である」又は「自由であると思う」事すら 意識が脳という物質から生まれていること
そして僕が僕であること という因から導かれる果に過ぎないのかも? と思ってしまったり。
確かに今の所僕も厳密には分けられそうもありません。
>>89 >死んだあとだって物質としては残るのだから有じゃないのか?
死んだあとでも物質は有る、意識は無い。
有の対象が違うんじゃないかなぁ。
物質のみを対象とするのであれば生なんてあるはずもないし、生がないんだったら死もないことになると思う。
無と死は何ゆえに関係付けられるのか、なぜ死を考えることと無を考えることが同列なのか?
僕にはわからない。
無=死であって、個々で用いられる無は死を指すんだと思う。
もし死を考えるんだったら「意識」を含む生のみを対象とすれば足りるんじゃないかと思う。
なぜならば物と生物の違いは唯一そこにあるんじゃないかと思うから。
>>133 微妙な時間差・・・すれ違い。
今僕も◆Rfso/Grokoさんに質問しようとメモ帳を開いてまとめていたところですが、
考えがまとまりきらず家に帰ろうと思って更新ボタンを押したところです。
私が自由意思があると主張するところに対する疑問だと思うんですが、私も自由意思が無いということについて
質問してみようと思っていたところです。
今日はちょっと時間が無いので答えることができませんが、近いうちに又書き込みに来ます。
まぁ結論を簡単に言うと私の唯一の動機は神からの逃避、形而上の否定なわけですが、この辺もまとめて
>>133に対する答えと質問を書き込んでみたいと思います。
でもあまり期待しないでくださいね。
突然だが、理性と本能についての俺の私見を述べる。
「戦場のピアニスト」という映画の、囚われたユダヤ人への食糧の配給シーンで、
乞食が老婦の落としたスープを泥土の上で土と一緒に飲み込んでいて、それを
傍らで、じっと見つめてる老婦の沈鬱な表情が印象的だった。老婆は自らの理
性によって乞食から食料を奪い取ろうとはしなかった。
私が理解したのは、理性は、食という本能にやはり勝ってしまうものなのだということだ。
しかしその理性が理性がユダヤ人たちを破滅へと追い込んだのも事実である。
かの強制連行では、ユダヤ人は、反抗しない従順な羊であった。だからこそあれ
だけの数の虐殺が可能だったのだ。ユダヤ人たちによって、ほとんど暴動が起き
なかったのはある意味、異常とも言えよう。少なくともあの映画にはそのような
メッセージ性があった。
いま我々は自らの理性に批判を掛けている。そのみずからの理性的な態度で。
まさに、これが哲学ではないだろうか?
自由と必然とを対概念として考えているようですが、はたしてそうでしょうか。
自由は不自由との対概念であり、必然は偶然との対概念ではないでしょうか。
だから、自由と必然とは互いに排除しあうものではなく、
もしかしたら両立可能なものなのではないでしょうか。
自由とは必然に従わないということではなくて、他の事態を指すのではないでしょうか。
補足。
自由と必然とは見方の違いではなかろうか、
どちらか一方だけが成立するわけではないのではないか、
ということです。
>>135 期待させて下さい。自分自身でも意固地になっている感じがするので 別角度からの考えは大変参考になります。
人間としての理性を失うことは確かに想像しただけで恐ろしいですが
悪意というものは本能には無く 理性の中にだけあるのかも知れませんね。
事象や行為の必然は何となく解る気がするんです。存在の必然がどうも腑に落ちない。
例えば僕の両親にとって僕の存在は・・・ 何と言いますか 生殖行為?によってああなってその後こうなって
つまり僕が生まれた。必然的な感じがしますし 彼らも僕の存在を必然的に受け入れたのかも。
でも僕は気が付いたら僕でしたからね。僕が僕である必然は何なのか?と。誰にとって?何にとっての必然なの?と。
こういう風に考えてしまうからいつまでたっても自由意志の有を疑ってしまうのですね。
今の所僕は必然と偶然は同じものを違う呼び方をしているだけと思っていますが
もし厳密に必然と偶然は違うものであるなら それは誰にとって何にとっての必然なのかと考えてしまう。
>>138仰る通り。両立不能である必然(又だ・・・)はありませんでした。
>>132 >Q死は選べるのか(自由意志によるのか)
>Q死の生き方への影響
なんですが、これら問いには、死は存在するのかしないのか、無であるのかという問いに
答えられないと解決できないと思います。
というのも、もし死=無であるならば、無は存在しないことである以上、存在しない死を選択することなど不可能であり、
また存在しない死が生き方に影響を与えることも〈無い〉ことになるから。
だから、まず死とは何か(生とは何か)という問いについて考えることが必要であると思うのですが。
そうしないと話が広がり過ぎて収拾がつかなくなる。
自由と必然について自分の考えを述べていなかったので、簡単に述べてみます。
自由自体が一つの必然であるといえる。なぜなら、自由が自らに由って何かをすることであると
するならば、この「自らに由って何かをすること」自体は必然であることになるから。
もし自由がこのように考えられるとするならば、自由は必然と対立するのではなく、
むしろ必然を必要としているといえる。
もう一つ。
もしすべてが必然であり、また必然とは自由の否定、不自由であるとすると、
自由は存在しないことになる。しかし、自由が不在なら、必然=不自由も存在しえなくなる、
というのも仮定「必然とは不自由、すなわち自由ではないこと」において自由の存在を
前提にしているから。自由が存在しなければ不自由も存在しない、したがって、
不自由が存在するならば、自由もしなければならないと思う。
詭弁ぽいですが(両方とも仮定に自信がありませんし)、
私はこう考えるので、自由と必然は何らかのかたちにおいて両立すると考えます。
143 :
考える名無しさん:04/04/25 23:04
何で死にたいって思うんだろう?
何で生きたいか以上にそう思うときがやってくる。
そう思えるときはいくらか心が落ち着いている。
むしろさわやかなんだよな。
144 :
考える名無しさん:04/04/25 23:20
>>142 不自由という言葉を使うからそう考えざるを得ないだけでしょ。
自らに従うという行為を自由意志で選択できるなら、それを
必然とは呼べなくなるよ。
とりあえず・・・
「自殺」とは、自分が自分自身の存在に耐えられなくなった時に
自分の存在を消してしまう。ということだと思う。とかいってみるtest
146 :
考える名無しさん:04/04/26 00:10
再生を前提にした破壊願望
>>144 >不自由という言葉を使うからそう考えざるを得ないだけでしょ。
もちろん
>>142で述べていることは、もし仮定が正しければ、
こうなるだろうという話です。
>自らに従うという行為を自由意志で選択できるなら、それを
>必然とは呼べなくなるよ。
このようには考えられないと思います。というのも、
「自らに従うという行為を自由意志で選択できる」ということにおける
「自由意志で選択できる」は「自らに従うという行為」を
言い換えているだけではないでしょうか。
「自由意志で選択できる」ということは
「自らの自由意志に従って選択という行為をする」
ということではないでしょうか。
もしそうならば、やはり「自由意志で選択できる」ということ自体が必然となると
考えられるのですが。自由意志がもし何かを選択することであるならば、
この「自由意志がもし何かを選択すること」という構造からは
離れることができないのではと(しつこいですが)考えられるのです。
私が問題にしているのは意志の内容ではなくて、意志の形式を問題にしているのです。
誤解しているかもしれないので、誤りを指摘していただければ幸いです。
148 :
Rosenberg ◆jMoO35Bg92 :04/04/26 20:15
>>145 僕的にはそれは自分の意思により(平均)寿命より短い死を選んだと表現します。
その動機をどう評価するかは自己と他人で異なり、その評価は何に基づいているのかは現在不明です。
149 :
Rosenberg ◆jMoO35Bg92 :04/04/26 20:16
>>93 >老子の言う「無」は、「虚無」の無じゃなくて「無限」の無なのでは?
東洋的な考え方ではどのように捉えることが可能となりますか。
独り言でも、独断的なものでもいいので聞いてみたいのですが。
>自分が死ぬことを了解しているのでしょうか?
ちめろさん、個人的に非常に興味深いです。
私は人はたとえその人が望もうと望むまいと死を迎えるという考え方でありそのことに揺らぎはないのですが、ではすべての人が
死を意識して生きているのか、というと「そうではない」というのが実際だと思います。
では「人はすべて死ぬ」という事と「すべての人は死を意識しているわけではない」という距離感というか実際をどう説明するか、ここもひとつ興味があるところです。
ちめろさんの言い分の本旨にそぐわない解釈だったらすみません。
>私は前のほうのレスで自己の消失と他者の消失を分けて書いてあるところがありましたけど、賛成です。
>他人を消失することと、自己が消失することは雲泥の差があると思います。
>そのうち考えたいのは自己の消失ですが、意見を交換できるのは他者の消失だと思います。(自分は死んだことがないため)
僕も自己と他者の死についての差については興味があります。
上のほうで結論として倫理的なものに行き当たるという意見もありましたが、だからといって考えるのを放棄する気はありません。
死=無 という言い方は語弊があったかも知れない。自分自身でも疑わしく感じて来た。
死は状態では無く 単純に生が終わるという現象と考える。 この世界には死が存在していますね。溢れている。
この世界が僕の意識の産物で無く 実存しているなら 僕の存在している世界 僕の存在していない世界
どちらも成立する。
しかし僕にしてみれば 僕の意識によってしか世界を捉える事が出来ないので 僕が死という現象を迎えて
僕の意識が無くなれば もう世界を認識することが出来なくなるので 僕にとって僕の存在していない世界というものは存在しないことになる。
そう考えると ああ他人は死ぬけど僕は死なないなという考えも確かに・・・
考えれば考えるほど解らなくなる。
152 :
考える名無しさん:04/04/30 18:15
死が永遠だとして
まぁさほど気にすることでもないだろう
生まれてくる前に戻るだけだ
また生まれてくるかは知らんけど
生きているのは現在の自分だと思われる。
では、過去の自分は生きているのか死んでいるのか、それとも他の仕方で存在しているのか、
はたまた無に帰したのか。
過去の自分 現在の自分 未来の自分 それらが独立した存在だとお考えでしょうか。
時間ネタはそれだけでスレひとつ分(じゃ足りない位)のテーマですね。
>>7は詭弁。そんなことを言ってしまったら、なにもかもが不可抗力、ひいては神のしわざということになる。