264 :
考える名無しさん:
木田元の文章をのっけるから、みんな考えてみてくれ
『ついでに言うと、こんなふうに文体に慣れるということを通じて、われわれはその哲学者の思
考を追思考し、そうすることによってものを考える習練をするのだと思う。学生運動の最盛期に
大学院の学生たちが、もう西洋の哲学者が昔書いた本を読むなんてことをしている時代ではない、
自分の言葉で自分の思索を展開することこそが哲学だ、と言い出したことがある。こういう主張
は、その後も時折聞く。まだ若かった私は、そう言われるとそんな気もしてきて、一時期好きな
ようにさせてみた。だが、これはまったくダメだった。その連中が言う自分の思索というのは、
人の本のサワリだけ拾ってきて並べる、つまりサワリ集をつくるということでしかなかったので
ある。
ウィトゲンシュタインのような特殊な天才はいざ知らず、普通の人間にとってものを考えると
いうことは、そう容易なことではない。眼をつむって、さて何か考えようと思っても浮かぶのは
妄想のたぐいであろう。ものを考えるには特殊な訓練が必要である。その訓練として私に考えら
れるのは、しつかりとものを考えた思想家の本をはじめから終わりまで読み通し、その文体に慣
れ、その思考を迫思考することである。いろいろ考えてみたが、私には今のところそれ以外の方
法は思い浮かばない。原語で読むに越したことはないであろうが、翻訳でも仕方があるまい(もっ
とも、しつかりした翻訳でなければならない)。そうした本を毎日続けて読んでいると、次第に
その文体に慣れ、そこで言われていることがよく分かるようになってくる。おそらくこれが追思
考するということなのであろう。そうした訓練を重ねることによってはじめて、ものを考えるこ
とができるようになるのである。』
ねえ、創価学会がなんなんだよー!どう柄谷、竹田に関係してるんだよー!
>>264 いいね、ただし竹田読者がそういう努力をしてないと言いたいなら拒否する。
268 :
考える名無しさん:04/03/29 03:35
続き
『私は大学院の指導学生には、徹底してテキストを正確に読む訓練をする。それ以外に哲学の大
学院で教師としてできることはないと思うようになった。はじめは翻訳のあるテキストを使うが、
それが読めるようになると、次には翻訳のないテキストを読ませる。何年もかかる訓練だが、こ
うして本がキチンと読めるようになると、不思議に書く論文も筋の通ったよいものになる。もう
サワリ集のような論文は書けなくなるのである。おそらくこれは、本を正確に読むことによって
追思考し、ものを考える訓練をするからだろうと思う。哲学的思考に習熟する最良の方法は、ま
ず自分の体質に合った思想家を探し、その思想家がもっとも力を入れて書いたテキストを一定期
間毎日つづけて読み、はじめの一頁から最後の一貫まで読み通すことであろう。
もう一つ付けくわえると、学生たちが好んで口にする言葉に「問題意識」というのがある。つ
まり、テキストを正確に読むなんてことよりも問題意識が大事だ。問題意識がなければ、いくら
語学的に正確に本を読んだって仕方がない、というわけである。これは、たしかにそのとおりで
ある。むろん一冊の本を選んで、半年なり一年なり毎日読みつづけるということは、その本に対
するよほど強い興味なり関心なりがなければできるものではない。しかし、興味といい関心とい
っても、当の本をまだ読んではいないのであるから、解説書なり紹介書なりを通じて得た知識に
もとづくまだ漠然とした見当、共感にとどまる。問題意識というのは、どうやらそうした見当や
共感のことを言うらしい。そうした意味での共感は、たしかに重要である。それがなければ、な
にごともはじまらない。しかし、そうした「問題意識」なるものは、自分でテキストを読み通す
ことによって練りなおし鍛え直す必要がある。そうしてはじめてそれは真の問題意識になるので
あり、それをしなければ、それはただの受け売り、ただの見当に終わってしまう。』