つまり、これから起こることの一切の事柄が予め決定しているとしたら、
生きるのは結構苦痛だと思うのYo。自分が選択したと思っても、予め
決定済みのことだったりするとね。それでも生きようとする意志を欲するか?
おそらくニーチェが病弱だったことが関係するんだろうね。常に生と死が隣り
合わせの瞬間を生きていたニーチェだからこそ、考えられたことだと思う。
ニーチェもそうだけど、フーコーとか疑いの眼差しが徹底している人間を見る
と、やはり彼等は反社会的な存在なのだろうね。↓ここにも書いてあるように
ttp://www18.big.or.jp/~novels/works99/reviews/literate.htm 12,本物の書き手は、勤め人とは正反対の生き方をしなければならない。
安定ではなく、不安定、、秩序ではなく混乱、集団ではなく個人、協調で
はなく独行、妥協ではなく反抗、つまり反社会的存在であること。その立場
に立ってこそ普通では目に見えぬものが見え、葛藤生じ、書くに値する、
読ませるに値する火花が飛ぶからだ。
この人の言うこと、極端だし、あまり鵜呑みにはしてないけど(w、それでも
反社会的な存在の視点からは、あらゆることがずれて見えるんだと思うYo。
愛国心も一種の宗教だと思う。まさに時代の変化と、それに対する保守的
な反動という形式ということだね。まあここらへんは、利害関係や快不快で
漏れは捉えてるよ。ある意味、日本人の本質=真理を振りかざすことで、
それを道具にして自分の力を維持しよう、増大させようという意志だとね。
でも、別に何でも革新的なことがいいというわけでもないと思うし、今までの
枠組みで満足できなかったら、自分で新しい道具を創らざるを得なかった人
が現れるだろうし、その人が後に革新的と言われるんじゃないかな。
携帯やサムソンの話を聞く限り、イギリスは日本に比べると遅れてる(?)の
かな(w。勤勉な国民性とは無縁ぽいし、やはりヨーロッパで世界は完結し
ている人がおおいのかもね。アジア、韓国とかどこにあるか知らない人とかい
っぱいいそうな感じがするYo。
国際政治の講義のときに、conflict(闘争)をテーマとした授業
があったのを思い出したよ。
この場合の闘争というのは、戦争や宗教の反発、国同士の利害関係といった
あらゆるものをさすのだけれど、このときに教授が定義した「闘争」というのは、
「新しい概念や世界観、あるいは状態を作り出すプロセス」というものだった。
たとえば、自由主義的な政治思想と社会主義的な政治思想の対立というものがあって、
お互いが別々の未来像を描いて活動して、その結果二つは衝突するわけだけれど。
現実的な政策としては
自由主義は、「税金を安くして、自分たちの世話は自分自身でする。資本主義マンセー」
社会主義は、「税金を高くして、社会保障を重視する。資本主義イク(・A・)ナイ!」
とすると、これらは衝突するわけだけれど。
この議論の結果、お互いのいいとこどりをして、新しく、
「税金を高めにして、社会保障もするけど資本主義もアリよん」
という政策が生むことができる。
自由主義、資本主義という既成の概念を否定する形として生まれたマルクス主義。
それの批判からまた新たな概念が生まれてくる。
こうした繰り返しが哲学なのかなぁ、と少し思った。
漫画「銃夢」の1シーンで、ある脇役が
「俺は自由なんか欲しくねぇ! 犬の鎖が欲しいんだよ!!」
と嘆くシーンがあったんだけれど、あれは印象的だった。
たぶん、あらゆること、たとえば運命だったり善悪の基準だったり、が
あらかじめ決められてたとして、そこに対する反応は一つじゃないかもしれない、
そんなシーンだった。
ある人は、「おれは自分で自分の舵を取りたい」という。
ある人は、「おれは誰かに自分の舵を取って欲しい」と願う。
世界が混沌としていて、そこから何を選んで自分の人生に取り込んでいくのか
分からないとしたら、そこにはそれを祝福する人と嘆く人と二通りいると思う。
同じように、世界が整然としていて、そこから何を選んで生きていけばいいのか
決まっていたとしたら、やはり同じようにそこにはそれを祝福する人と呪う人の
二通りがいるんじゃないかなぁ。
結局のところ、二つの選択は「好き嫌い」なのかも。そう思い始めてきてしまった…_| ̄|○
今朝寝ていたら宗教の人が攻めてきますた。
AntiChristでも、一応カントを尊敬しているのでどんな人でも丁寧に受け答えしますw
で、「神を信じますか」論争を丁寧にするハメに…。うぅ。
きちんと神学をやってる人(っぽい)方々のようで、おれのほうは英語も駄目な寝起き坊主。
あきらかに分が悪いっぽいので、ちょっと興味を持ったフリして一冊本をもらって帰ってもらいますた。
「だれが世界を創造したのか?」という本で、科学を批判しながらソフトに神の存在をアピールしようと
たくらむ本のようです。
まぁ、ニーチェや科学の進歩のなかで、彼らがどういう理論付けでクリスチャンをしているのか、
それくらいは分かるのかもしれません。
140 :
30 ◆oGQ4QcR7RQ :04/04/20 09:43
その教授がいう闘争に近い感じだね。
既得権を手放そうとしない人間にありがちと思われ(w。
まさに「真理」とは、闘争の産物であり、勝利した側が
「真理」になる。「真理」とは何ら絶対的なものではなく、
時代時代の変化、それに伴う要請との間における緊張状態
とその結果……と漏れは捉えているYo。
その自由主義と社会主義の喩えは弁証法だね。
漏れはシステムの弁証法は停止したと思っているんだよね。
システムとは資本主義と民主主義によって、もう達成すべき
ものは達成されてしまったということね。まだまだ弁証法的
なことを続けなければいけない、と個人的には思うが。
イラク戦争みたいな民主化のための戦争とかいう題目を見る
と、つくづくそう思うYo。
今ヴェーバーの解説書読んでて、ニーチェとマルクスの存在
の大きさを見直そうとしてるところです。
自由は難しいよね。多分ね、人間は自由と束縛の両方を
必要とする生き物だと思うのYo。つまり、両方を時と場合
によって使い分けられるのが理想じゃないかな。
真の自由(自然状態)は、人間には重すぎると思うし、逆に
がんじ絡めの状態だと息が詰まってしまうだろうし。
やはりイギリスだと、キリスト教は今でもそれなりに影響力
あるのかな?日本じゃあまり想像できない状況だ。
まあ「誰が地球を想像したのか」は、今のところは誰にも答
えられないからね、それを「神」と言われたら何も言えません。
だけど、やはりそれなりに論理武装してると思うから、読んだ
らそれを教えてください(w。
去年、政治の講義を聞いたとき、こんなことを言っていた先生がいたよ。
「政治とは集団のスケールの対立(disagreement)のことをいう」
お互いの利害関係を、唾を飛ばしながら言い合う政治は、
幸福追求を肯定する資本主義と同じベクトル上にあることは確かだし、
それが強力なシステムであることは間違いないと思う。
ただ、第二次大戦中のドイツや、パレスチナ-イスラエル、それから今のイラクでの
民族の対立、少数民族への迫害や極端なナショナリズムが発生する危険があるという、
民主主義への批判も見逃せないと思う。
今の日本は、あまり民族がごちゃ混ぜになっていないので、政治のレベルで民主主義の
問題点は感じないけれど、たとえば将来、他民族の移民が日本にきて、その人たちが
発言力を持ち始めたらと考えると、こうした危険がないとは言い切れないと思うな。
僕も、弁証的な方法によるシステムの修正はこれからも必要にイッピョー
自由主義の確立者といわれるジョン・ロックの本なんか開いてみると、
最初の行に、「My Load(主よ)」なんて書かれていたり。
たぶん、「神のもとに、人間は自由」なのだというようなニュアンスなのかなと
脳内保管しているんだけれど…。
たとえば自然権なんかの、
「人間の存在の絶対性というのは生まれながらに尊重されるべき」
という考え方も、
「神が人間に与えた、生きるということへの権利」というニュアンスを含んでいるの
ではないかと思うのです。こうした思想の根底にもキリスト教の影響があると考えるのは
穿ちすぎなのかなぁ…、とも思いつつ。
どこか、始まりの一点、あるいは出発点において、ぼくたちは「理屈ではなくそう思う」
というところから始めていたりするんじゃないかなぁ、と最近思わざるを得ないことがあります。
「人間の存在が尊重されるべき」なのはどうしてか?
と問われたときに、「大事なのだと考えているから」というトートロジーを使う以上に、
うまい説明の仕方ってあるのでしょうか?うーん…。
政治家は基本的に二種類、ある特定の団体の利益を代弁する者と
もしくは選挙で当選することを目指す者がほとんどだと思う。
もっと大きな視点で物事を考えている政治家は希少なんだろうね。
財政学という授業で景気循環論とか覚えたのね、選挙前には景気
が回復し、選挙が終わると景気が悪くなるみたいな(w。
ナショナリズムはどうしてもなくならないと思うんだよね。
同一の民族というものを基盤とする近代国家においては、
この危険は常に潜在していると思う。EUでも、極右の政党がある
一定の支持を得ているところを見るとね、そう思うYo。
まあ、日本は徹底的に移民を受け入れない国だからね、
良くも悪くもそれが今の日本の統一性に貢献してると思われ。
おそらく、これから少子高齢化が進むのなら、労働力の確保と
いう点からも、移民を受け入れなければならないだろうね。
My Lordは、個人的には王権神授説と関わってそうだね。
というのも、漏れはロックは余り知らないので、今の浅はかな
知識でもの申すと、ロックとホッブスは自然状態から話しを
始め、なぜ社会状態に入らねばならないのか、に進むはず。
つまりロックの理論は、社会状態に入る(王に従う)ための
理論正当化であるのと同時に、その王が個人の生命と私有財産
を保護してくれない場合は革命と抵抗をする権利がある、という
ことであったと思う。
王は、神の法、自然の法に従った統治をすべきで、その限りに
おいては神≒王であるから、それに従えというニュアンスじゃ
ないと思う。
147 :
考える名無しさん:04/04/23 12:33
おれ哲学から小説の転向組みなんだけど。
やっぱり論文書くより小説書くほうがずっと難しい。
論文はある程度枠組みができてるから、
極力その枠組みにのっとっていけば出来上がるんだけど。
小説はまったくフリーな状態で出発しなきゃなんないからね。
ある意味では恐ろしいよ。なんでもゆるされるってのは。
何を言っているのかね君達は!?
まさか脱構築を行っていないのではないのかね!
いますぐ脱構築をしたまえ!
脱構築だ!脱構築だ!脱構築だ!脱構築だ!
149 :
考える名無しさん:04/04/23 13:03
脱構築自体がもう紋切り型になっちゃてる。
南妙法蓮華経といっしょ。
>>149 だから君は脱構築を行っていないのじゃないのかね!?
まず脱構築せずしてこの板にいる資格などあるものか!
脱構築だ!脱構築だ!脱構築だ!脱構築だ!
151 :
考える名無しさん:04/04/23 13:35
>>150 脱構築だ!脱構築だ!脱構築だ!脱構築だ!
脱構築してみました。
小説を書くのなら、まず、国文法から復習すべし
>>147 キャラクターや設定で制限を付け加えていき、
それを打ち破ろうとする小説内の人物の動きと、
神たる自分の葛藤こそが醍醐味ではないでそうか?
よほど現実離れした世界の物語でない限り、
登場人物と物語が展開する舞台、その世界の秩序の
中で自ずと制限は生まれてくると思いますYo。
>>145 おれもあんまりロックに関して勉強しているわけじゃないのだけれど、
ちらっと調べたあたりだと王権神授説に関してのある種の批判的な立場から
彼の政治への論考があるみたいだね。
The Load(神)と、Kingの立場が対等ではないことと、プロテスタントとカソリックの
対立とかを考えると、「直接的な神との対峙」という個人的な神との繋がり
の構図が関わってくるのではないかなぁ、と思う。
このまえ「パッション」(キリストの最後を描いた映画)を見に行ったり、
クリスチャンが攻めてきたりで、おれも理論武装の必要に迫られて、聖書を買ってみたよ。
うちのまちには「Christian Bookshop」なるものがあって、キリスト教以外の宗教書もあったり
ちょっと便利なものがあるのね。
そこで、6,5ポンド(1200円くらい)で、ケンブリッジが出版してる現代英語訳の聖書があった
から、それをげと。新旧一緒のやつです。
部分部分を読んでみると、たしかに哲学の理論の中にはキリスト教の影響を強くうけている
ものがあるような気がした。たとえば↑のロックや、それからカントの倫理学もそうだと思う。
もちろん、ヒュームやニーチェのように無宗教の哲学もあるわけだけどね。
そうしてみると、まぁ悪くない買い物したかなとちょっと思ったよ。
そういえば、ウェーバーとニーチェも宗教関係で対立したんだっけ?
漏れは、今ロックについて少し勉強しているが、
ロックは徹底的に自然法をベースにしているね。
王権神授説は勿論、父権、トマス・アクィナスの言った自然の
秩序をも退けている。だから、徹底的に社会関係を解体し、
自然状態から出発しているのは非常に重要だと思われる。
ホッブスは自然法のための君主政体をプッシュしているが、
ロックは自然状態から設立された社会体をも人民のコントロール
の元に置こうとしている。
やはり宗教革命後のイギリスというのもポイントだと思われる。
プロテスタンティズムの影響で、個人的な神との繋がりの前に、
今までの地縁的な関係が解体し、孤立した個人が形成されていった
んだろうね。
フーコーやヴェーバー、アダム・スミス、今までの知識の断片が
少しづつ繋がっていっているような気がする今日この頃ですYo。
パッションてあれでそ?見た人がショックのあまり死んじゃうほど
凄い映画(w。漏れも見に行こうと思っているのだが、一応遺書とか
書いて懐に入れていったほうがいいのか、教えてほすぃー。
やはり哲学の理論とキリスト教は切っても切り離せない関係でそ。
本当に神と離れて物事を考えられるようになったのは、結構最近
ではないでせうか。
多分ね、ヴェーバーとニーチェは対立してないんじゃないかな。
漏れはこれからプロ倫を読もうかと思っているが、解説書を読んだ
限りにおいては、大筋はニーチェの思想の系譜に連なる者という
ヴェーバーの自覚が伺えると思われ。どこか一カ所、ニーチェと
相容れない部分があったとも書かれていたのは記憶に残っている
が、それはどこか忘れマスタ。
パッションは、キリストが捕まって十字架刑になるまでの過程を
忠実に再現した映画だったよ。
ただ、残虐な拷問シーンが大半をしめていて、確かに心臓の弱い割に
ヒステリックなアメリカのおばあちゃんとかは危険かも。
あと最初に、突然の大音量にビックリさせるのとか。まぁ普通の人は大丈夫だと…。
ただ、拷問シーンが結構えげつなくて、見ていて鬱になるかも。
棘付の鞭で何十回と裸のキリストを打って、鉤付の鞭に取り替えてさらに何十回…。
十字架刑の描写も見ていて痛ひ…。
内容自体は、その映画の中で「キリストは神の子」になってしまっていて、
彼の「言葉が神足り得る」というわけでなく、「奇跡を起こせる人」として描かれていた点が
おれにはイマーイチ。
奇跡がなきゃキリストを信じないのかよヽ(`Д´)ノ と小一時間…ry
信者でもなければ、あの映画のなかで「なぜキリストが慕われているのか」が
分かりにくいと思った。聖書の全体的な知識がある人専用映画で、エンターテイメントの要素は0。
キリストが傷ついた体で「私は…すべてを新しくしよう」と十字架を背負い立ち上がるシーンで゚チョト(・∀・)イイ
と思ったが、最後の地震で( ゚д゚)ポカーン
「忠実な再現」としてはうまくまとまっているし、聖書に興味を抱かせるきっかけくらいにはなるかも。
あれを見た後だと、新旧含めて聖書が読みやすく感じたかな。
でも、日本で宗教とか真剣に興味がある人以外は、全く面白くないと思われ。
あと、グロな拷問が延々と繰り返される映画なので注意。かな。
159 :
30 ◆oGQ4QcR7RQ :04/05/01 11:47
パッションのレビューTHX。
心臓弱くないと思うから、空いた頃を見計らって見に逝こう
と思ってるYo。
漏れは、今まで隠されていたキリストの真実が明るみに出て、
そのショックで死人が出たと思ったが、ただ単にグロいのね(w。
ヴェーバーとニーチェが対立している点は、ニーチェは宗教を弱者
のルサンチマンと説明している所だと思われ。どうやら「世界宗教
の経済倫理」という本の「序論」でニーチェ批判をしているらしい。
しかし、プロテスタンティズムがここまで近代に関わっているとは
キリスト教と縁がない自分には想像できなかったYo。
初期プロテスタントの純粋に宗教的な言説が、このような結果(現代
のような状況)に至る、と誰が想像できただろうか、と思っている
今日この頃。そう考えると、人間の歴史って面白いね。後から分析
することはいくらでもできるが、当時の人間にとっては「予期せざる
結果」以外の何者でもないのだから。
パッションは、おれも「今まで隠されていたキリストの解釈」か何かがあるのかと
思っていたんだけど、そういう意味では凡庸な作品だった気がする。
ユダヤさんたちには批判の的だったみたいだけれど、キリスト教にとっては
忠実な映画だったと思う。
ニーチェがキリスト教を「弱者の奴隷道徳」と指摘した点は、
最近読んだ、ドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」でも描写されていたよ。
「反逆」と「大審問官」の章でも触れられているみたいで、これがまた難しいので
もうちょっと読み込まないと説明できないのだけれどね…orz
ちょっと気をつけて読み始めると、キリスト教と縁の無いものがないんじゃないかと
思うくらい、その影響力に気づくねぇ。
とはいえ、今のところ、「自由主義」というものは魅力的だしこれに対する強力な
反抗は想像できないと思う。何をソースにしたところで、うまく理論立てて
理論的に発展させれば哲学になる、ということかな。
とはいえ、「信教の自由」を憲法で大々的に保障しながらも
大統領就任演説で聖書に手を当てて行う国もあるのでなんともね。
161 :
30 ◆oGQ4QcR7RQ :04/05/09 10:40
パッションはキリスト教の世界観をそのまま映像化したものと
捉えてよさそうだね。
今、キリスト教の本を読んでいるが、アメリカの独立宣言には
「我々は、すべての人は平等に作られ、造物主によって一定の
奪い難い権利を付与され、その中には生命、自由、および幸福の
追求が、含まれていることを自明の真理であることを、信じる」
のような文章があるね。まさにプロテスタンティズムだと
おもたYo。
>とはいえ、「信教の自由」を憲法で大々的に保障しながらも
>大統領就任演説で聖書に手を当てて行う国もあるのでなんともね。
これはどこの国なの?
大統領演説で聖書を左手に、右手の掌を見せて行うのは、アメリカ合衆国。
白人のプロテスタントしか大統領になれない、と言われることも。
>外国だと「無宗教」というのはいろいろと誤解を招く
このまえクリスチャンが攻めてきたとき、「無神論者」と自称しました
「日本人はだいたい無神論者で、仏教とか神道とか言ってるやつも、ほとんどは
慣習にしたがっているだけで、信仰しているとはいえないよ」と暴言も吐きました(w
すごく驚かれたけど、「無信仰」の人間だって普通なのだと
知って欲しいので、いつもそう言っていますw
(無宗教くらいで軽蔑するような人はクリスチャンなんかじゃないとも思ってますし)
大学では国際政治がメインなので、大学内では「そうなんだ〜」くらいの反応。
可愛いフレンチの子がカソリックだったけど、無信仰ってことで引かれたりとははないかな?(可愛いかは関係ない)
イメージとしては、ヨーロッパよりアメリカのほうがそういうの多そう…
まあ、漏れが本で読んだ範囲で説明すると、
「宗教は阿片である」と言ったのが(本当に言ったかどうか
怪しいらしいが)マルクス。なぜ阿片なのかというと、使用
すれば一瞬の天国を味わうことができるが、地獄の始まりだと。
だから結局は身を滅ぼす毒薬である。宗教が麻薬であるなら、
布教は麻薬を広めることであり、教会は阿片窟で、牧師や神父
は麻薬の密売人である。勿論、そのようなものは潰していいと
いう結論になる。で、スターリンは実際にそれを実行に移し、
教会を潰しまくった。
共産主義は徹底的な無神論で、そこが神の下の平等を前提とする
アメリカなどの自由主義と対立する。キリスト教徒から見て、仏教
やイスラム教の信者であるのはまだ許される。一応神を信じる心が
あるのだから。しかし無神論者というのは神を信じる心もない
恐ろしい人間である。自由主義というのは、その前提に神がいるの
だが、無神論者はそういう前提を認めない人間のように思われる。
神が絶対的に存在するから人間の間の不平等はなくなる、という
のが欧米人の考え方らしい。ここで初めて、平等な人間は何をし
ても自由という、本当の意味での自由が出てくる、と。
また、神様がいると、この人間の命、あるいは生きるという権利は
神様が与えてくれたものだから、他の人間が勝手に奪ったり、奴隷
にしたりすることはできない、という考え方が出てくる、というこ
とらしい。奴隷問題を考えると、皮肉な話だが、一応そういう前提
として欧米人(信仰心が薄いと言われる人でさえも)の心の中に、
それも無意識に近い領域で神は生き続けているということらしい。
漏れが実際に体験した話ではないので、よくわかりませぬが、そう
いうことらしいです(w。
昨日は↓の映画を見たYo。キリストの遺体を巡るストーリーで、
主役のバンデラスがカソリックの神父という設定。キリスト教の
知識が増えている最中なので、面白く見ることができたYo。
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0000896PE/ref=sr_aps_d_3/250-8540039-7879434
なるほど、確かに理屈としてはそういう誤解を生むかもしれませんね。
でも、おれは「もののあはれをしる」人間であるつもりだから、無信仰でもいいかな…w
たとえ自由主義というものが、現代社会にとって尊重されるべきものであったとしても、
それが「神の元に保障された権利」だと考えることは、現代においては否定される
べきものだと思います。
自由主義の始まりにプロテスタントがあったとしても、そこは理論の後付で(おい)、
功利主義のもとに正当化することもできるんじゃないでしょうかw 神がいなくても。
日本人の倫理感を意識したときに、「もののあはれ」というものは仏教とも関わっていると
思うのだけれど、いわゆる「仏教」というものと、おれが意識する「仏教的な考え方」
は、必ずしも一致するものじゃないと思うのです。
「自然や、物事を畏れ敬う心」、
「自分を入れたすべての存在は平等である」という考え方は、
「何かを特別扱いする」ような信仰という動作とは対極にあると思うのです。
むしろ、「無信仰だからこそ」、
「人間も動物も植物も地球も、宇宙の観点からすればちっぽけな存在でしかない」
からこそ、今こうして生きているものたちが、果てしない偶然の産物として生きていることに
価値があると思う。そして、それを尊重したいと思う。
だから、やっぱり無信仰かなぁ…。
…うーん、西洋哲学から離れてしまったかなぁ。
そういえば、梅原猛さんの、「地獄の思想」 というのも面白かったよ。
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121001346/qid=1084234899/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-8461886-2961820 かつての文学者たちの現世との苦闘から、日本人の精神と文学の係わり合いを述べている
のだけど、面白かった。
いあさ、究極の話、社会契約論とかも完璧後付だからね(w。
誰も自然状態になど戻れるはずがないし、理性の側(社会状態)
から一方的に論じたものであり、なぜ人間は平等であるのかを
啓蒙思想家達は理論武装した。
だから、神の下の平等の理論も完璧に後付(w。だけど、ある一定
の合理性の下における解釈として絶対無視できるものではないとも
思われ。
まあ、欧米人は神から離れることはできても、完全に殺すことには
どうしてもためらいがあると思われ。
ホッブスやロックの思想的な意義というのは、社会状態を徹底的に
解体したところから話を進めたことにあると思うYo。
梅原猛は親が全部本もっている。漏れは全然読んでないけどね(w。
ニーチェから入ってハイデガー、そして仏教に傾倒していったらし
い。ニーチェから仏教に行く人はどうやら多いらしい、というのが
漏れの感想ね。
前々から本の量すごいと思ったけど、
梅原猛さん全部読んでるとは、相当好きな人だね。
くわしく仏教について知っているわけではないけれど、
自己の探求という流れを持っている類の仏教は、確かに実存主義の
方向性をもっているのだろうか。
自分の持つ狂気を受け入れ、それと対峙して生きていくという方向性は、
「カラマゾフの兄弟」の「反逆」のシーンでも出てきたけれど。
でも仏教っていろいろあるよね。(大乗小乗だっけ?
東南アジアとかに流れていった宗派(小乗)と、
中国を経て日本へ渡ってきた宗派(大乗)。
個人的には南のほうが好みかな。
権力、これ面白そう。(専攻科目にもちょっとかぶってるし)
あんまり勤勉なほうではないのだけれど、
権力の図式は日に日に複雑になってきているよね。
政府→国民だったものが、
国際組織←→政府
↓↑ ↓↑
→ 国民 →
…みたいな感じになってきているし。(つきつめると、民間組織やらなにやら、いくらでも増えるし)
EUなんかみたいに、国際政府が出現し出し、政府の力も国内で希薄になりつつ、
国民と国際政府や国際機関とのコネクションも現れてきてるし、
ちょっと目が回ってしまう感じ。
でも、結局、今のところアメリカのPower Politicsに世界が突き合わされている
現状もあるから、権力の図式を明確にすることは、権力に対しての自分のアプローチを
意識していく上で便利だね。
抹殺者のほうは、カソリックがメインなのかな。
確かに、キリストの遺体が発見されてしまったらキリスト教の根幹を揺るがす大事件だよね。
うんちくが結構多いのなら確かに勉強になりそう。
いあ、梅原孟は親が好きで家に全部本があるだけ(w。「哲学の創造」という
本は昔読んだことがあって、次は「癒しとルサンチマン」を読むつもり。
梅原孟というと、朝日新聞で一ヶ月に一回ぐらい連載みたいなのやってるんだ
けど、一番新しい回で「神は二回死んだ」って言っているのね。
一回目は明治時代の廃仏毀釈運動、二回目が人間宣言(現人神)ね。
それによって日本の神は二回殺されたと。
今、カンサンジュンの思考のフロンティアシリーズの「ナショナリズム」を読んでいて
かなりかぶっているかな。特に一回目の神殺しと新たに神を創ったところとね。
ナチズムの本とか最近読んだんだけど、なんかやはりナショナリズムは「ルーツ回帰」
の部分を強調するところはどの国でも変わらないんだなと。
ところで、ケイタソの専攻は何なんですか?
権力はね、フーコーは今までの権力観(A→B)に対して、つまり権力は抑圧的
であるとか、搾取や支配という一方的な関係だけに帰せられるものではない、と
いうことを言っている。これは、おそらく他にもフーコーの前に言っていた人間は
いるが、やはりフーコーはそれを体系化し、我々にもわかるように示してくれた功績
は大きいと思う。
なぜ我々は「権力」という言葉を聞くと、すぐに「国家」や「王」という言葉を頭に
浮かべてしまうのだろうか、と。そのような否定的な、抑圧的な、「Nonを言う権力」
ではなく、もっとポジティブな側面を持った権力がある、ということを「性の歴史T
知への意志」で言っているんだよね。
我々がそのように考えてしまうのは、おそらく歴史的なものによるところが大きいだろう
とも言っている。王の時代、権力の言葉は法として、いわば「禁止」の形で現れていた。
また自分達の権力の正当性を主張するためにも、そのようなイメージを作り上げる
ことに腐心してきたともね。
まあ極めて簡略化して言うなら「福祉国家」と言われるようなモデルで、国民の
健康とか公衆衛生とかに気を遣ってくれるような権力だね。
今までの権力モデルは「死の権力」という、君主が臣下の生殺与奪の権を握る
ような権力であったが、近代以降「生の権力」という新たな権力が出現し、
最終的には死を行使するが、「国民の生を増大」するような権力のほうに重心が
シフトしていったと。だから近代以降、死刑の数はますます減っていく傾向にある。
たしかに年々、権力の姿は捉えにくくなっていると思うのね。
でもやはり一個の共同体に最終的に向かうような方向付けは俺はあると思っている。
そこらへんはまさに力関係で、アメリカの行動に対して最終的に制裁を加えることが
できる組織がいないのと同様にね。
でもグローバリズムの影響によって、国境や国民の概念がますます希薄化していく
ような気がする一方で、それを拠り所に遠心的にナショナリズムが高まっていく傾向
は凄いあると思うんだよね。いくらヨーロッパが一体になったところで、4年に一回
否応なしにナショナリズムが盛り上がるイベントが二回(WCとオリンピック)あるし(w。
Nationalism、これも結構好きな話題w
専攻は国際政治なのよ。否が応でもでてくる内容ですよ。
Nationalimというと、根本的な問題は「その人の民族感覚」
たとえば、アメリカ移住した日本人の子供がいたとして、
親は「自分は日本人」だと考えていても、
子供は「自分はアメリカ人」だと考えていることもある。
ナショナリズムはすごく感覚的な問題だと思うのよ。
一般的な政治の本とかでは、ナショナリズムを大きく2つに分けていて、
「Civic Nationalism」と「Ethnic Nationalism」
たとえば、Civicの観点で言えば、「朝鮮半島にいる人」は、
「北朝鮮人」だと自分の民族を語る人と
「韓国人」だと語る人と二つに分けられる。
これは、フランス革命から現れた「ある国家の市民としての自覚」としての
民族感覚。
Ethnicのほうは、「韓国人も北朝鮮人」も、「同じ言語、生活習慣、文化、歴史」を
共有する「朝鮮人」として一つの民族、という感覚。
おそらく、「神」という存在を生み出すというのは、後者の民族感覚を生み出すために
使われるんだろうね。
「自分たちのルーツ」という感覚を生み出すことに成功すれば、
政治家たちは自分たちの政策を効率よく行うことができるんだろうね。
一番良い例はイスラエルとかそうだと思うのだけれど。
宗教を信じて、自分たちのルーツと、その民族の目的が聖書に明確に
記されているから、客観的にみれば馬鹿げた暗殺作戦や抗争なんかも
政治的に正当化されてしまうし、国内では文句がでない。
「日本人は日本人らしく生きるべきだ」
この一言で、一体どのようなことを感じるのかを想像すれば、
この一文がもつ力というものが分かるような気がする。
客観的に見たら「そもそも日本人て何よ」って言いたくなるものだけれど、
普通に何も考えなければ、「そうだよね」って思ってしまう人もいるんじゃないかな。
こうした心理的に簡略な要請って、道具として使うと人を動かすのはたやすいのでは?
「民族的な感覚」からくる、「愛国心」というのは、理屈を超えて行動を起こさせてしまう
時があるから、有効なんじゃないかなと。
ぽじてぶな権力というのは面白いね。
市民化によって、力の方向性が「国民主権」(市民←→国家)になったこと
からくるのだろうね。
人間は生きるうえでの最低限度の生活をおくることが「できる」
確かに、こうした感覚は一般的に感じる「権力」という言葉からちょっと遠い気がするね。
「権利」というのは、「市民が持つ権力」と考えられるね。面白い。
一人一人が「権利→権力」を持って、それを有効に使い始めたら
一体どこに権力があるのかまったく分からなくなる。
「革命」なんかは、市民がそれを究極的に行使した姿なのかもしれないね。
ナショナリズムを利用すれば、一人一人が持つ権力を、一つの方向へ促すことができる。
グローバリズムが激しく動き出した中でEUがどうなっていくのか、
これはナショナリズムとグローバリズムの対立を図る上ですごく興味深いサンプルだよね。
EUほど早く、効率的にグローバリズムが広がる地域は他にはないような気もするけれど
(アラブ国家ってどうなんだろうね)、遠い将来を見据えるとEUの今後は要チェックや!だね。
ただ、ヨーロッパでは広く「同じ歴史を歩んだ」という感覚が少なからずあるらしく、
(たとえば、猛威を振るったドイツ領だった国々とか。あいまいで須磨祖)。
小さな国々なんかも、フランスやドイツと歴史的に協調関係をもって生きてきたから、
ほんのちょっとだけ「ヨーロッパ人」という感覚を持っているんじゃないかな?
ヨーロッパでは、2択が残されていると思う。
ナショナリズムが高まり、反EUの方向へ動くか、
「the United States of Europe」としての意識が新たに生まれるか。(問題なのは言語の壁かな…)
ただ、EUの政策の利便性を考えると、おれは後者よりなきがする。
イギリスは、サッカーWCではEngland Scotland Wales と分かれるし、スコットランド人の
ナショナリズムやレイシズムは酷いと聞くけれど、独立するにはいたってないし…。
日本食ばっかり食べるよりも、イタメシやフレンチやベルギービールやスコッチを
楽しむほうを選ぶ方向に…ならないかなぁw
時を見ないことにはわからないけれど、
人間の本質=「花より団子」におれは( ゚∀゚)ノ イッピョー
明日テストでナショナリズム出る(と思う)から、勉強にナターヨ!!
あげ。
ナショナリズムはね、社会不安の増大との関係性かな、漏れが注目しているのは。
ナチと戦前の日本というサンプルから考えるならばね。よく言われることだが、
ナショナリズム宗教に近いと思うのね。自己の放棄と救済と強烈に結びついている
点も含めて。そしてこれはうまくいっている社会ではなく、何かしらの問題を
抱えている国、また都会よりも外国人と触れ合う機会が比較的少ない田舎のほうで、
高等教育を受けている人間よりも受けていないと言われる人間のほうが、
ナショナリズムに傾倒しがちではないかとね。
「自分達のルーツ」に関して言うなら、というか「近代」という時代を語る上で
「アイデンティティ」を抜きにしては語れないと思うのね。政治家達が自分達の
政策を効率よく行うという面も含めて、社会に有用な人間形成という面でも
これはとりわけ重要な問題だと思うYo。社会とはまさに自分達が所属する「共同体」
のことであり、近代社会を生きる我々は徹底的な「ディシプリン=規律・訓練」が
施されている。日本人なら誰もが逃れられないのが「義務教育」だね。
これによってまさに「日本人のアイデンティティ」が植え付けられる。普段は
顕在化しないだろうが、これは「外部」という存在=鏡をもってして強烈に自己
(=「内部」)を照らし出すと思われ。
EUはね、俺も後者のほうに行くと思うのだが、これは相当時間がかかると思われ。
なぜなら「歴史的なしがらみを超えて」というものではまったくなく、
ただ単に「必要に迫られて」というのがポイントだと思う。EUの国々は、もう一つの
アメリカ、すなわち「近代におけるもう一つの超大国」になろうとしているんだと
思うのYo。
EU内部における人的資源の流動性、経済の内部完結(EU内における「ブロック経済圏」
的なものの確立)を目指しているのは明らかだが、それは「ナショナリズム」勢力の
台頭が双子のように常につきまとう問題だともね。
もう終わっているかもしれないけど、テスト頑張ってね、であ!
テストも架橋に入ってまいりました。
来週まで2ch休みます。
もう吐きそう…。
これが終われば一時帰国だー。がんがりまつ
今は新約聖書物語という犬養道子の本を読んでいます。
これは「見る」という言葉の神学的解釈(「認識する」)とかの解説があって
すごいわかりやすいね。
パッション見たけど、たしかにキリスト教の知識があると楽しめるね。
神殿を三日で立て直すという話や、そういう小ネタが所々にやっとさせる。
マリアと一緒にいるのはヨハネかな、とかそういうこと考えながら見てたYo。
しかし、イエスは神の子だわ。俺はあんなに飲み込みの悪い使徒に対してすぐ
見放してしまうだろうから。「肉」と「霊」、「光」と「闇」の二項対立関係、
聖書は本当に面白いね。旧約の知識がないと新約のほうは楽しめないというのも
わかったかな。徹底的に自分達の教えのほうが「優れている」というプロパガンダ
的なところは大いにあるだろうから。
体に気をつけて試験頑張ってね〜!であ!
テスト終わった〜。
今日から夏休み(早っ)!
なんか、この前は春休みじゃなかったかとか突っ込まれそうだけど。
中旬には、念願の一時帰国ができるからちょっとテンション高いですw
パッション、見に行ったんだね。
おれは聖書の知識ほとんどなしのときに見に行ったから、
今聖書の解説書とかで後手にまわってしまったよ。
最近「偶像の黄昏」を読み始めたのだけど、
キリストっていわゆる「超人」なのではないかなと思い始めています。
たとえ、ニーチェにとって彼の「愛」が人間の真実ではないのだとしても、
一度、既存の道徳観(律法)を打ち壊して、自らの道徳観を
打ち出したキリストは、僕にとっても確かに尊敬に値する人なのだと思います。
キリスト教肯定派とニーチェの関係で、一番親密なのは
どうやらドストエフスキーらしいです。面識はないらしいのだけど、
ニーチェ自身が、
「何週間か前まで、ドストエフスキーという人物を知らなかったのだが、
先日本屋でその機会にめぐまれたとき、本能的な親密感におそわれた」と語ってるみたい。
こうした視点で見てみると、ニーチェとドストエフスキーの考えというのが本当に近い感じがする。
驚きなのは、ニーチェはドストエフスキーの本に出会う前に
「ツアラトゥストラ」「善悪の河岸」などを出版していて、
いかに自然にこの二人の思想が重なったかということ…っておまけページに書いてあったよ。