悟りたいとか自律したいとか(4)

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774考える名無しさん:04/07/10 10:32
言葉だらけでなに遊んでんの。
死体に鞭打って楽しいの。
言葉の上で胡坐をかいたら仏像になるの。
せいぜいがんばってね。甘えんぼちゃん。ウフ。
775K2:04/07/10 10:56
まあ、そういきりなさるな。朝起きて、夜寝る。それが重要だよ。
自分の中にスペースを作っておく。そうしなければ何も入らない。
そうしていきなり全てが解決されるわけではない。だから日々の
生活の中で、少しずつ自分を変えていくことくらいしか出来ない。
俺は悟りについてだけいっているのでもないよ。文学を書くのも
、経済学を勉強するのも、風俗を変えようというのもみなそう。
一度に成果は来ない。
又それを続けていけるとは限らない。でも、今できることはやると
いうこと。そのために自分にスペースを常にあける努力をすること
、そして毎日の一日をきっちり生きていくこと。これが大事。
776K2:04/07/10 11:01
この自分にスペースを作るというのが難しい。自分はいつも自分の考えで
埋まってしまう。寝るときはその冷えた知識がなかなか寝させてくれない。
自分の中にスペースを作る事が容易ならば悟りは、どんなにやさしかろうか?
777考える名無しさん:04/07/10 11:03
スペースを作るには、坐禅でもすればいいんじゃない?
778K2:04/07/10 11:08
最後に【苦】を消したければ死ねばいいだけのこと。又死ねば【苦】は、
終わるのだから、【苦】については解決策がでている。
だから問題は【苦】ではない。釈迦が輪廻を説いたのは、彼は昔の無知蒙昧
の人間だったからこそ。現代では死はただの無への回帰をもたらす
【個人的には】
779考える名無しさん:04/07/10 11:11
>>778
釈迦は、死後の世界に関しては、認識できない(無記)という
立場だったのではないでしょうか?
輪廻は仏教思想ではなくて、インドに古くから伝わる信仰でしょう。

780K2:04/07/10 11:17
>>777
大当たりですね。でも時間の問題がある。座禅をして10分でスペースが生まれ
ればいいけど、果たしてそんなにうまく行くか?

さて、【苦】については考えたように見える。しかしこれは一つの解決策でしか
なく実際には困難である。それに、問題は【苦】ではない。問題は【生】と
いうこの奇妙なできごと。それは山の中を歩くに似ている。諸法無我など
といって、自我を消し去ったような、状況でボーっとしていられるほど、
人生は楽ではない。だから人は山の中を歩き、自分の限界を知り、その限界
から【自我】を感じねばならない。その【生】の中で生まれる様々な問題、
それを解決する事が問題であり、悟りである。しかし悟りは本来ナンセンス
な問題で、一部の人にしか来ない。
781考える名無しさん:04/07/10 11:24
>座禅をして10分でスペースが生まれ
>ればいいけど、果たしてそんなにうまく行くか?

それはなんとも言えないでしょう。
人生は、自分の力だけでは、どうしようもないことがほとんどですよ。
人事を尽くして天命を待つしかないんですよね。
782K2:04/07/10 11:24
>>779
確かにそうですね。しかし彼は涅槃寂静も説いてしまっている。
これは全ての輪廻転生から解き放たれること。無記の立場とは
矛盾が出ます。もともと彼は方便の人だから矛盾が出て当然で
しょう。


さて、【生】が問題なら、そこには当然【苦】が又でてくる、
死ねばイイと言う解決策はある。しかしそれはおかしい、もはや問題は
【苦】ではなく【生】なのだから、【生きるために】我々は何かを
しなければならない。【苦】はもはや副次的な問題である。
783考える名無しさん:04/07/10 11:30
>【苦】はもはや副次的な問題である

仏教でも、苦からの解脱が中心にはなっていないと思います。
我執によって生じる苦は、なくなったほうが良い。
でも、それでも苦が全くなくなるわけではないから、
その苦を、苦として、あるがままに見、あるがままに受け入れていこう
というのが、仏教の考え方だと思います。
784K2:04/07/10 11:33
では【生】とはなにか? 【生】とは価値や言葉より前にある【存在】
である。我々は動物として、産まれ、数々のライフイベントを行い、
種を残して、又死んでいく。これはもはや決められた【運命】である。
だがしかし、このようにうまく行く人生ばかりではない、時には病気に
なたり、うまく生きれない人間がでてくる。彼らを救ううにはそれなりの
【装置】が必要だ。この恩恵がうまく行けば問題はない。しかし、
うまく行かない。ではどうするか?
785考える名無しさん:04/07/10 11:37
【装置】?
786K2:04/07/10 11:42
>>783
そうですね。でもそうすると結局物事は【生】の問題に戻ってしまった
ということではないでしょうか?

だから私は普通は【留生悟】の世界に生きている。よりよき職をもとめ、
よりよき色をもとめ、よりよき食を求め。よりよき文学を求め、よりよき
共産主義社会を求め、よりよき・・・うんぬん、
だけどもそう言うのは時にすごく疲れる。だから【溶死悟】などがあるとな
ると、それを知りたくなる。私の【溶死悟】への需要はそういうものだ。
787考える名無しさん:04/07/10 11:46
>そうですね。でもそうすると結局物事は【生】の問題に戻ってしまった
>ということではないでしょうか?

どういう方向に人事を尽くすかの問題です。
よりよき○○を求めるという、欲望増大の方向へ人事を尽くすのかどうか・・・

788K2:04/07/10 11:48
>>785
例えば、あなたの言う仏教や、社会福祉政策なども【装置】の一部でしょう。
それに様々なスポーツ・文化・遊び、人がライフイベントだけでは生きていけ
ないからそれを【補完】する【装置】が必要なんです。
789考える名無しさん:04/07/10 11:51
システムということなら、
完璧なシステムなどはあり得ないのだから
そういう完璧なシステムのようなものは想定しないほうがいいでしょうね。
いまよりちょっとは「ましな」システムを模索するしかないのではないでしょうか。
790K2:04/07/10 11:51
>>787
確かにそうですね。私は仕事である研修にでましたが、そこで求められて
いる自己啓発は発展、更なる欲望の増大なんです。それではいけないと思った。
私たちはもっと死ぬ事も学ばなければならないんです。
791考える名無しさん:04/07/10 11:58
>私たちはもっと死ぬ事も学ばなければならないんです。

現代文明は死を切り捨てた生存にだけ価値を置く文明だったのだと思います。
(梅原猛がそう言ってます。あまり好きじゃない人ですが、その点については全く同感)
792K2:04/07/10 12:00
>>789
しかし、そのマシなシステムと言うこと自体が怪しい。
そこは自明じゃないんです。だからみんな苦しんでる。経済なんか
特にそうでしょう。
システムは終わるときもあるし、死についてもっと考なければならない。

さて、話は長くなりますが【生】が有れば【死】もある。これは【生】
の一部(種族としてみれば)何ですが、いずれにせよいずれは自分は
【死】ぬんだとおもって、【死】に対して準備しなければいけない、
これもさっき言った【ライフイベント】の一環です。しかしもちろん
そこから落ちこぼれる者はいるので【ライフイベント補完装置】が
必要です。でも【死】について考えれば我々【人類】にもいずれ【死】
があるんですね。現在の宇宙論だとどう考えても人間の生きていく余地
は無い。だから人類は自らの【死】についても備えなければならないと
思うんです。
793考える名無しさん:04/07/10 12:04
>死についてもっと考なければならない。

それはもちろん。
それを考えるために哲学も宗教も始まったと言えるんじゃないでしょうか。
794K2:04/07/10 12:06
だからといって、私に何かできるわけじゃない。お昼にしましょうか。
人間食べる事も大事だ。
795考える名無しさん:04/07/10 12:18
ただ、死について考えることは重要ではあるけれど
死後の世界とかいう方向に考えが行ってしまうと危ないですね。
そうなってしまうと、そういう認識不可能な問題について、独断的に断言してしまう人が出てくる。
死というものを特別なものと考えすぎることからくる危険ですね。

諸行無常。生あるものはすべて死す。
そのことを、あるがままに見て、あるがままに受け入れられるような方向に
考えるのが良いと思います。


796エヌ ◆XEvUT1ciAM :04/07/10 12:19
久しぶりに来たら、カキコするメンバーも内容も変わってスレは大変身だね。
全部読むのと大変なので、手近なところから・・・

>>786 K2さん
【留生悟】(おそらくハルカ氏の造語)は、よりよき生き方を得ているのであって、
それ以外の「よりよき職をもとめ、 よりよき・・・」などのよりよき云々を求めているのではないのですよ。
よりよき職を求めることもできるし、それに拘らないこともできる。
つまり、こだわりから自由なんですよ。
何か出来事が起こったとする。
その出来事に対して、怒ることもできるし、悲しむこともできるし、喜ぶこともできる
つまり選択できるしそれに拘らないこともできる。
執着を認識しつつ、そこから自由でもある。
それが【留生悟】のことです。
一方、テクニックとかコントロールという言葉が出てくるのは、
心を深く覗きこむ事によって解明した一種のコツのようなものだからです。
797K2:04/07/10 12:29
>>796
外部を求めるのではなく、内部の価値判断に留まるという事ですか?
【留生悟】というのは。
ではわたしのは【生存スキルの外部への発展】とでも名付けておきますか。
798考える名無しさん:04/07/10 12:34
>>796
>つまり選択できるしそれに拘らないこともできる。
>執着を認識しつつ、そこから自由でもある。
>それが【留生悟】のことです。

執着も、執着からの自由も、人それぞれで、程度問題です。
完全な執着も完全な自由もないわけですから。
そういう意味では、悟っていると言えばみんな悟っているし
悟っていないと言えば、誰も悟っていない。
そういうものでしょう。
だから、○○悟とは、こういうものだ、と定義づけることには
あまり意味がないのではないかと思います。
799k2:04/07/10 12:43
うーんこれはハルカ用語だからねえ。俺も詳しくはしらないよ。
だけど彼女はなんらかの言語体系を創った事は麻痺がいない。
俺はそれに強く魅かれるんだ。
800考える名無しさん:04/07/10 13:16
現代文明は「死を忘れた文明」(梅原猛の言葉)で、死が隠されてしまったから、
我々は、死に対する免疫みたいなものを失ってしまっているんですね。
死を自然なものとして受け入れる土壌が失われてしまった。
システムを考えるとすれば、その辺から考える必要がありますね。

理系の人に多い(怒らないで^^)ような、宗教的なものに対する免疫がない人が
信仰宗教にひっかかりやすいのと同じように、
死というものに免疫のない現代人が、死後の世界とか、死を美化した考えに
惹かれるのはわるけど、それはとても危険な傾向です。
801k2:04/07/10 14:04
>>797
そうでしょうか? 種としてのライフイベントの終わりに絶滅があるなら、
当然、それに備えるべき【ライフイベント側の装置】が必要でしょう。
それは別に危険な事では有りません。私はといえば生に魅かれています。
私はいくらでも生きたい。でもそれはかなわぬ事。だから自分の望む
死の形を目指してがんばる。これは死後の世界を信じないものの立場から
見れば当然の考え方です。それはとても社会的な行動で反社会的な行動
ではありません。そもそも社会がいとなまれるのも、その前に、この世の
全てとしてのライフイベントを行い種の繁栄をおこなわなければならない
【端的な運命】があるからです。
802k2:04/07/10 14:06
失礼>>800
でした。

ところでここの過去ログどうやってみるの? 
ギゴナビを使っても見ることが出来ない
803S ◆4Ijqvx1jbw :04/07/10 16:23
>>649 (624さん)

了解です。
804S ◆4Ijqvx1jbw :04/07/10 16:24
>>652 カオルさん

>【自然】
>(1)おのずから存在してこの世界を秩序立てているもの。
>(3)〔哲〕他の力によるのではなく自らのうちに始源をもち生成変化するものの意。
>と、あります。(これってそのまま「神さま」の定義に使えません?w)

はい。 ただ、おのずと存在しているか/否か、自らのうちに始源をもつか/否か
という思惟では捉えられない「そのもの」に、「自然」あるいは「(内在)神」はある
のだと思います。「わたし」の定義する、「わたし」の世界ではないところに。ボク
なりの定義は「自然」も「(内在)神」も「わたし」の世界が未だ始まらず、また、
終わるところ、と思っています。

>「人為によってその秩序が乱されれば人間と対立する存在となる。」
>で、「人間と対立」を「知性と対立」と読み替えてみたら
>人為(知性)による(生への)反乱を阻止するために本能が知性に仕掛けたワナが
>畏れとしての神さま(妄想)の、あるいは倫理の起源である。(たしかこんな風)
>という、ベルグソンの意見が思い出されました。

で、ボクからすると、すでに「わたし」は「自然」を越えていますから、好むと好ま
ざるとに関わらず、>人為によってその秩序が乱され、る関係にあると思うの
です。>本能が知性に仕掛けたワナ、というより、「自然」にぽっかり浮かぶ頼り
ない主体「わたし」の側の発する、対「自然」、対「人間」への不安が「倫理」という
バランス志向を生み出したのではないかと。「自然」も無垢としての人間の「生命」
(=本能、「自然」)も泰然としていて、「わたし」がただ暴れて(自律して)トラブルを
自作自演しているのだと思います。
805S ◆4Ijqvx1jbw :04/07/10 16:25
「わたし」が「わたし」でいることを引き受けること(自己自律)も、「無為自然」になる
こと(悟り)も、「わたし」あっての、「わたし」の自律性に端を発しているのだと思いま
す。「わたし」にならなかった狼に育てられた少女は、言葉を話さず狼として生き、
「悟り」志向にも「自律」志向にも無縁なのですから。
806考える名無しさん:04/07/10 16:57
>>805
>「悟り」志向にも「自律」志向にも無縁なのですから
あんたにそう見えるだけ。
姉の方は言葉も覚え、指導した学者になついた様子も見せた。

人にはいろんな可能性がある。あんたが他人をあんたのやりかたで括るのは自由だが
そいつはあんたの中での話。知りもしないことを例え話に語るんじゃなくて、あんたの言葉で
語れよ。

あんたの預り知らない奴のことをさもわかったように「わたし」にならなかったなどと
こいてる場合じゃないだろ。このスレの主としてがーんとかませよ。
807S ◆4Ijqvx1jbw :04/07/10 19:01
>>806さん

>姉の方は言葉も覚え、

というのが言語によって対象把握できる「わたし」になる過程なのだと思います。
808考える名無しさん:04/07/10 23:09
今マーヤーにいる中で悟ったんだが。私とはなんぞや?私とはちんこと
まんこから出来たものではないか。私は私を既に知っている。いや
私は私なのだ。私がそれを持っているではないか。ちんこを。
遺伝子を。自分で自分を創ってるではないか。
子供は自分ではない。半分は自分だが。男女の意識が融合変化して
子供になっているから私とは全然違う。

私は空想の世界で思いつくもの全てを表せる。この世は、今は、
その空想の世界を実感として、体感するために在るのかもしれない。
肉体に宿っていることもすばらしくもあるが束縛在る故
イメージの世界におった方がさらにいいかと。
しかしイメージも飽きるのでたまには実感したいと思い、
現れる。(生まれる)
そしてこんな世界(悟り)で遊ぼうよ、みんな一緒に、共有しようぜ、
そこに相対性とかはない、とにかく一人よりみんなでしたほうが
おもしろいよ、 とかおもしろくないよとか。
ハルカ様が叱責なされたりしているのもこんな理由?
違うのだったら一人で遊ぶな、混ぜてくれ(導いてください)といいたい。
809考える名無しさん:04/07/10 23:16
この世には何もない。在るのは矛盾だけ。矛盾だらけ。
しかし、その矛盾がこの世を成している。
この矛盾の辻褄合わせを探求しようとしても無意味だ。
矛盾の上で成り立ってる世界なのだから。
810考える名無しさん:04/07/10 23:24
他者がいないとやはり寂しい。しかし、私は空想の中で他者を
存在させれるではないか。空想の世界では全てが可能ではないか。
すばらしい。
肉体ばかりに執着していると可能性を忘れてしまいます。
しかし、空想を創っているのは肉体なのだが。矛盾してるように、
感ずる。聖なる2分法と呼んでいる方がいた。神聖なる2分法。
811考える名無しさん:04/07/10 23:33
なぜ愛がすばらしいとか愛が全てなのか。私たちは愛から生まれてきた者で
あるからだろう。両親の愛から。そうでない人もいるとは思うが、
少なくとも私の場合そうだったのではないのだろうか?憶測なのだが。
愛から生まれてきたから愛を知り愛を求める。みんな愛から生まれた。
人類皆兄弟。
812考える名無しさん:04/07/10 23:40
輪廻転生なんてあるのか?物質面では何かに変わるだろうが。
私も物質ではあるのだが。生まれ変わったら私が私でなくなる。
私でない者に転生したって意味がない。解らない。体感できない。
転生なんてあるとしたら私自身に、私の幻想の中に在るだけではないか。
813考える名無しさん:04/07/10 23:47
悟りを得るためには宗教用語、専門用語、学問的知識が
必要なのか?そんな言葉で表さなくたって出来るよね?私は出来ないが。
なぜそうも難しく語るのだろう?みなさん。私にとっては難解すぎる。
考えれば解るんだろうが、なぜにややこしく語るのだ。
私も含めてみなさんに理解できるよう記してもらいたい。
理解できる人には不要となろうが。
814考える名無しさん:04/07/10 23:51
ああ、そろそろ幻も終わりか、現実に戻ってきた。
くせにならないよう気をつけようっと。
体に悪いからね。
815考える名無しさん:04/07/10 23:57
>>814
薬ですか?
816カオル ◆BBBRv/ousU :04/07/11 01:31
>>484 Sさん
>そもそも「わたし」が成立する以前の赤ちゃんは、自他が未分化な混沌状況に
>あったと想定されるのですが、自他を分化する契機は自ら発するのではなくて、
>他者(他我)との接触により否応なく引き剥がされる形になるのだと思うのです。

はい、そう思います。

>そして例えば狼に育てられた子は、狼という他者に影響されて、狼であるかの
>ように意識するようになると思うのです。

狼には、狼である「自分」を「意識」するための「自分」はないでしょう。
なぜなら、「生きている」ということと「存在している」ということの観念を
持つことができないと思うからです。

>「わたし」は「わたし」自体として「わたし」に成るのではなく、
>その成立から構成する意識内容に至るまですべて他者(他我)に拠る。
>それが内在としての他我ではないか、と思うのです。

はい、そう思います。
この場合の「内在としての他我」は、思考の形式に準拠するところの論理空間に
存在する<わたし>の一側面としての「他我」ということになるのだと思います。
817カオル ◆BBBRv/ousU :04/07/11 01:34

>そうは言っても、他者(他我)を他者(他我)として受容するのは、
>混沌とはしていても赤ちゃんの自我の側ですから、
>先験的に他者(他我)を受容できる働きが、自我にはあるように思います。

個体としての生命として誕生してくる以上、
否応無しに身体的には自他を区別することになるでしょう。
養老さんではないですけど、生物学的には個性の根源は身体ですから。

>こうした、他者(他我)への根源的な受動性が、たとえ「わたし」が成立した後でも、
>「わたし」が独り歩きして構築した合理の底から、「わたし」を「あなた」へ応答させ
>る元となっているのではないか、と思うのです。

なるほど論理としてはストレートで理解しやすい論だと思いますし、
まちがっているとも思わないですけど、これだと応答はできても
理解するとか、わかる、ということまでは論理的に導けないですね。
けれど「わかる」ということには「意味」の理解を超えた何かが
あるように思われてなりません。単に経験による学習効果として、
あるいは、習慣の遺伝としての能力(あるとして)だけで「わかる」
ということが説明できるものなのでしょうか。
818チャナソンクラン:04/07/11 01:41
>>813
>なぜそうも難しく語るのだろう?
今も迷いが多いから、もしくはセンスが悪いから。
迷いから離れてそれなりに噛み砕けた人は
自分の言葉で&簡単な言葉で語れるんじゃないの?
ブッダもすごく簡単な言葉で語っています。

ハルカさんは断言型だけど、あの人、本当は自信がないんだよ。
それかものすごく狭い世界で生きてきた人だと思う。
迷いは悟りの種だけど、人の数だけ迷いの形もあるし、
種の種類が違えば咲く悟りの花の形も違います。
分かりやすい答えは求めないで、ゆっくりゆっくり行きましょう。
自分を導けるのは、自分だけです。

自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか?
自己をよくととのえたならば、得がたき主を得る (ダンマパダ)
819カオル ◆BBBRv/ousU :04/07/11 01:47
>>656 ハルカへ
>納得出来ないのは勝手だけどねー。
>前に『言葉では限界がある』って言わなかったっけ?

はじめにハッキリ言うね。
言葉では限界がある、に逃げるなら哲板で語る意味はまったくないです。
わたしは、まだまだ理論的に整理されていないという指摘をしているのです。

>そして【溶死悟】だ。
>これは『我』を死滅させた後に世界に戻ってきた結果として現れるものだ。
(>>540)

ハルカは、『我』(個体化の原理)に「生命種」も仮定しているのだから、(>>263
肉体的な「死」をともなわない『我』の「死滅」は、(原理的に)ありえないことです。
もちろん、生命を生命たらしめている「原力(ウルクラフト)」の正体はわからないけれど
「生命種」は、そのようなものとして仮説されていることも顧慮してください。

>【生】から【死】へと移行した後に再度【生】に帰還した場合
>―『どうやら生きてしまっているようだ』という状況だ。
>この場合には最早『我』は存在しない。(540)

『どうやら生きてしまっているようだ』という状況・・・は、「存在」しています。
『我』(個体化の原理)は、「存在」するものに働く原理なのだから
『どうやら生きてしまっているようだ』という状況が、「存在」するかぎり
「存在」していることになります。
しかも「個体としての生命」(肉体)が、そこ(空間)に「存在」しているのですから
なおさら、『我』は存在しない、ということにはならないと思います。
820カオル ◆BBBRv/ousU :04/07/11 01:51

>存在しないが故に、既に離れているが故に、『我』を―『二元分別』を纏う事が出来る。
>『正誤』を『真偽』を『善悪』を『遊ぶ』事が出来る。
>この者が得たモノは何もない。(540)

この一文には、「主体」が前提されています。
『二元分別』を纏う・・・の、
あるいは、『正誤』を『真偽』を『善悪』を『遊ぶ』・・・の
「主体」は、どこにいるのでしょう。
どこにいてもかまいませんけど、「いる」のなら「存在」していることになります。

存在しないがゆえに・・・何が存在しないのか?
すでに離れているがゆえに・・・何から、どこから、離れているのか?
(このような問いにたいして、できうるかぎり説明づけたいのです)

かりに、この「主体」を、いわゆる(個別的)「自我」=<わたし>と区別して
たとえば、「形而上学的主体」としての「観念の集合」として仮定してみます。
つまり、「観念」によって「客観的対象」としてとらえられているものこそが
じつは、それ自体として、おのずから「実在」し、生成変化している・・・とか。
ようするに、<わたし>なる「実体」をしりぞけるには、このような手続きが
たとえ、仮定の話しだったとしても必要になってきます。
821K2:04/07/11 02:04
>>カオルさん
あなたはハルカ理論にくわしいようですね。
ならば【溶死悟】について教えていただきたいのですが、
それは一体どのようなプロセスで起こることなのでしょう?
822カオル ◆BBBRv/ousU :04/07/11 02:07

>『失おう失おう』と思えば『我』はますます意識される。(540)

ここでも「意識する」主体が前提されています。
『我』を意識するのは、誰なのでしょう?
もし、それが『私』なのだとしたら
ハルカ論における『我』と『私』の区分は明確でないと思います。

>最早彼には『個』という意味はない。

どのような事態を示すのでしょう?
もし「言語を持たざる者」、たとえば「虫」に「個」という
意味がないのとおなじことなのなら、ハルカ論の『我』には
「言語的」な要素が含まれすぎていると思います。
言いかえるなら、『我』と『私』を区別する理由が不明確です。

わたしは、言語的動物である人間と人間以外の生物の境界を
『我』(個体化の原理)と『私』(言語的精神)の境界にした方が
理論としての整合性がでてくると思います。
823カオル ◆BBBRv/ousU
>>656 ハルカへ
>おいおい。
>何を勝手な解釈をしてるの?
>一体になる対象は『【生】そのもの』じゃなくて『【世界】そのもの』なの。
>だから『【我】と【他】の二元相対が無意味に成る』訳だ。

”おいおい”は、わたしのセリフです。(笑)

>一匹の猫、一匹の虫、一本の樹になる。
>名も無き【そのもの】に成る。
>それが【溶死悟】だよ。

一匹の猫、一匹の虫、一本の樹・・・は、存在してるし生きています。
だから、【溶死悟】は「一匹の虫の生の原理とまったく同じ」といったのです。
そしてそれは「生そのものと一体になる」と表現できてしまうことの指摘です。
もしそうなら、「存在」=「苦」というハルカ論の大前提が崩れてしまいます。
なぜなら【溶死悟】は、いまだ「生」のなかにあり「存在」の肯定だからです。
だからわたしにとっては【溶死悟】も当然「生の倫理」に含まれてしまいます。

もし、存在の仕方(=溶死悟)によって、「存在=苦」の前提がくつがえるなら
ハルカ論における「苦からの脱却」(=解脱)の必要性はどこにあるのでしょう。
いえ、わたしは【悟り】と【解脱】のちがいを明確にして欲しいだけなのですが。