ウィトゲンシュタイン 2

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477考える名無しさん:04/09/07 19:42
>>476
大月書店からウィトゲンシュタイン全集が出ることはないと思いますw
(ウィトゲンシュタイン自身はソヴィエトにシンパシーを感じてたそうですが)

それはともかくとして、「論理形式について」は、
大修館から出てる全集の第1巻に入っていたと思います。
その論点は単純で、例えば色の体系性といった事柄を考えてみれば、
『論考』で主張されていたような諸事実(あるいは諸事実を表す要素命題)どうしの
独立性は成り立たない、といったことです。
例えば、ある対象Xが赤いという事実があるとすれば、それによって、Xが青いという
事実は排除されてしまう、だから「Xは赤い」という事実と「Xは青い」という事実
は相互に独立したものではない(ウィトゲンシュタイン自身の言い方では
そこには「文法的」な結び付きがある)、というわけです。
478あめたろう:04/09/07 21:16
ものすごく初歩的な質問で済みません。
中期ウィトゲンシュタイン哲学の「文法」という概念がまったく理解できません。
この「文法」とはいったいどういうことなのか、具体例を使って説明してください。お願いします。

ちなみに、論理哲学論考は翻訳書(野矢訳)ですけど読みました。いわゆる「前期」のウィトゲンシュタインの問題意識のイメージもだいたいつかめた感じです。
でも、どうしてもその後の「文法」が理解できません。。。
479考える名無しさん:04/09/07 21:56
>>478
かなりいい加減な説明ですが、『論考』では論理が世界の骨格を形作るものとして
考えられていたとすれば、いわゆる「中期」の時期に論理に変わるものとして注目された
のが文法ということになるのではないかと思います。

この場合、論理と文法の違いは、例えば次のような例で見ることができます。
ある対象xがあるとして、「xが赤いならば、xは赤い」とか、「xは赤いか、
あるいは赤くないかのいずれかである」といったものは、「ならば」とか
「あるいは」といった論理語(論理定項)の意味によって真となるような、
「論理的」真理だと言えます。
(もしxが色を持つような対象だとすれば。)
これに対して、「もしxが赤いならば、xは青くはない」とか「xが赤く、かつ
青いということはない」といったものは、「ならば」「かつ」といった論理定項
に加えて、「赤い」や「青い」といった語の意味によって真となる、
「文法的」な真理ということになると思います。
こうした文法的真理は、言ってみれば色(色彩語)の文法を映し出している
わけですが、これと同様に、「もしxが1メートルの長さであるならば、xは
2メートルではない」といったものは、数の文法を映し出している
と考えられます。
要するに、論理的真理は、必然的(でアプリオリ)な真理であるわけですが、
必然的真理がみな論理的真理とは限らないわけです。

かなり適当な説明ですが、こんなところで『論考』からそれ以降の展開への
一つの理論的動機は大よそつかめるのではないでしょうか。
もっとも、中期への展開には、さらに、検証主義的な意味理論の導入だとか、
一種の現象主義へのコミットメントなど、他にも色々な理論的モチーフが
関わっていると思うので、これほど単純ではないとは思いますが。
480考える名無しさん:04/09/07 22:31
しかして、「何ぞxが1メートルの長さたりなば、xは
2メートルたりへず」といひしけるは、数の文体をば映現せしむる
ものとこそ覚ゆるなりけりぬる。
481考える名無しさん:04/09/08 17:08
 私もウィトゲンシュタイン初学者なのですが、 

「論考」で「要素命題の相互独立性」が中心的なテーマであったという
解説はよく目にします。
 世界と論理の間を言語によってつなぐことが「論考」の狙いであるのでしょうか。

もし論考の狙いがこのようなところにあるとすると>>479さんのいう
「文法」の解説は
(興味深く読ましていただきましたが)
>、『論考』では論理が世界の骨格を形作るものとして
>考えられていたとすれば、いわゆる「中期」の時期に論理に変わるものとして注目された
>のが文法ということになるのではないかと思います。
という部分で、「文法が論理に代わるもの」と つまり
世界、言語、文法という関係を提示されているような印象を受けて少し違和感を覚えます。
482考える名無しさん:04/09/08 17:15
つづき

文法はおそらく言語に含まれていると思うのです。
それゆえ、
>論理に代わるものとして注目されたのが文法
というよりは「世界‐言語‐論理」の構図は維持されたまま
橋渡し役をする「言語」の再検討のうちに「文法」の問題が
出てきたのではないかと思うのですが。
483考える名無しさん:04/09/08 17:24
つづき

ものさしがあてがわれて10のメモリによって示されることは
その対象が10のメモリで示されているという当の事だけではなく、
11のメモリでは示されていない(など)ということも含まれている。

 このように「当のこと」を知るために用意されている「全体」(まとまり)
(10だけでなく11や9やそれ以外)のことを
「文法」と呼んだのではないでしょうか。
484考える名無しさん:04/09/08 18:12
つづき

そして「文法」(規則)がわれわれの規定するものに他ならないにもかかわらず
一方でわれわれの言語活動を規定しているという、循環的な関係に着目していく
ことになり、
このような文脈、考察の中で「言語ゲーム」「規則のパラドクス」「規則に従う」などの
術語が登場するのだと思うのです。
485考える名無しさん:04/09/08 19:02
つづき

 私としては
(この流れがまず大筋で納得されるものであるということが大前提になるのですが) 
「世界‐言語‐論理」の構図は 橋渡し役の言語を分析していくうちに
破綻していくのではないか思うのです。
 「直示的定義はいかなる場合であれ、さまざまに解釈しうる」ゆえに
言語を知るためには すでに世界を知らなければならないのではないか。
だとしたら言語分析によって世界を解き明かそうとする試みは すべからく
失敗を運命付けられているのではないかと私には思えるのです。

 それは「文法」が「言語ゲーム」に先立つ存在でなく「規則に従う」という
行為を通じて「言語ゲーム」が「文法」を規定していくという考えに
当然由来しています。
486つづき:04/09/08 19:06
 私は言語実践=生という構図が、根源的文法の不在という衝撃に
耐えられないのではないかと思うのです。

 なぜなら私たちは「三角形」を見るとき
初見の三角形でも素直に「三角形だ」と思えますし、三つの角に
若干の丸みがあっても、また三つの辺に 多少のゆらぎがあっても やはり
「三角形だ」と思えるからです。これは端的にいって ある種の根源的
形相(本質)があることを示しているのではないかと、私には思える。

であるならば、根源的文法のない言語の分析では 
私たちが何らかの実践の場において、有用な規則に合致するか否か、を
事前に知ることなしに(事後的に知られるものとして)、
ともかく実践してゆく(たとえばブッシュの政策)
という一面を描き出すだろうけれども一方で、「三角形」の場合におけるような
(根拠のあると思われる)一面を描き出すことができないように思うのです。
487つづき:04/09/08 19:08
 いや、もっと平易な言い方をすれば 無根拠な人間の行動、すなわち生を
映じる鏡としての言語では、根拠に向かってゆくような営みを除外すること
しかできないように思うのです。

たとえば「歴史」というものを 恣意的な抽出としてしか捉えられない
ような気がするのです。
たとえば「時として真実の声が小さくなることがあるとしても
偽なる秩序が暴かれ、真なる秩序が現れてくる過程」という「歴史」観の措定を
受け付けないように思えるのです。

キリスト教的歴史観だと批判されても
このような歴史観の措定は「現実」と「仮想的現実」の優劣の関係を規定するために
必要(有用)だと私は思っています。(話はズレますが)
488つづき:04/09/08 19:17
このスレッドがウィトゲンシュタインについてのものであることを踏まえて
書くならば、
ウィトゲンシュタインがたどり着いた地平は言語分析の限界を示すことによって
根拠と無根拠にはさまれたような場に人間が位置し、前者を「語りえぬもの」とし
後者を「語りえるもの(あるいは言語)」として示したのではないかと
思うのです。
489つづき:04/09/08 19:26
ところどころというか、全体にわたってというか議論の展開に
精緻さの欠如や跳躍があるかもしれませんが、何か思うところがあれば
聞かしてほしいです。
(あまりのレベルにあいた口がふさがらないのであれば無視していただいて結構です)

ただこれから少し用事があるので、しばらく返事はできないのですが。
490あめたろう:04/09/08 21:19
上で質問した者です。早々にレスをいただき有り難うございます。
レスを拝読しましたが、私自身が「前期」の哲学すら理解していないことを思い知らされました。


ウィトゲンシュタイン哲学の出発点は思考の限界を定めることにある。
思考の限界は、思考の表現である言語の限界と一致する。
言語の限界は、有意味な命題(語りえるもの)を明らかにすることによって定められる。

ウィトゲンシュタインの「意図」を私はこのように理解しているのですが。
(この時点で間違っているのかもしれませんが)

ウィトゲンシュタインが語りえぬものとしている、たとえば神なんかは、実際どんな姿形をしているのか見たことはありませんが想像することはできます。
想像することと思考することとは違うことなんでしょうか。
ここまで書いて自分でも何を訊きたいのかわからなくなってきましたが。。。
491考える名無しさん:04/09/09 23:42
なぜ New Wittgen を皆読まないのか?不思議でならない。
まさかと思うが・・・日本語だけでウィトゲンを語ってないよね・・・
492考える名無しさん:04/09/09 23:48
493考える名無しさん:04/09/10 00:53
マクダウェルのは古い論文だしなあ
あんまり興味ナッシング
494考える名無しさん:04/09/10 22:30:57
Philosophical Occasions 1912-1951 の翻訳出ないかな
495考える名無しさん:04/09/11 00:47:42
New Wittgenてなんだ?
496考える名無しさん:04/09/11 14:13:12
>マクダウェルのは古い論文だしなあ
>あんまり興味ナッシング
497考える名無しさん:04/09/11 14:55:28
>>496
Mind, Value, and Reality くらいは読んどこうね
498考える名無しさん:04/09/12 20:06:19
>>491
あなたは何が問題だと思っていらっしゃるのですか?
私には>>491の書き込みが
「ウィトゲンシュタインについて知っている」ということを
匂わすことに終始してしまっているようにすら見えます。

私や「あめたろう」さんは、無知であることを告白した上で質問なり
意見を書き込んだのです。
なぜ知っているあなたは 率直に直示的に問題点を示してくれずに
意味深な書き方をするだけなのか。ぜひ本の紹介ではなく
指導を直接的に、あるいは議論(論破)を通じて していただきたい。

知識を深めるために静かに読書をするだけでは少し苦しすぎやしませんか。
何をどこまで知ったかを再確認するためにも、(それを励みにするためにも)
こうゆう場所は利用されて良いのではないでしょうか。
499考える名無しさん:04/09/12 20:11:45
オレは英語の文献も読んでるぜ
って自慢したかったんでしょ。
まあご愛嬌てことで。
500考える名無しさん:04/09/12 20:17:20
哲板ではよくいる知ったか野郎(実は知らないからほのめかしだけ)
の書き込みだよ
501考える名無しさん:04/09/12 21:04:24
>>499-500
レスありがとうございます。
ウィトゲンシュタインは誤解を招きやすいような
ひねくれた書き方をする という風評も聞いたことがあります。
もしかしたらそれに習ったのかもしれませんね。
だとしても指導していただきたいことに変わりはありませんが。
502498:04/09/12 21:05:13
>>490
 上の話とも関連していますがウィトゲンシュタインは難解な言い回しをする上に
特に「論考」においては最終テキストとしての「論考」とそれ以前の
草稿段階のテキストを俯瞰しながらでければ、乱暴に結論だけが書き込まれて
論理の飛躍に見える部分もあると聞きます。
 さらに ウィトゲンシュタインが「後期」の思想に歩みだすことからも分かるように
「論考」には誤りがある(とされている)。
これら三つの要素から考えると「論考」だけに体当たりしていくのは
挫折をしやすいウィトゲンシュタインへのアプローチ方法ではないかと
思います。(491さんも「原典」ではなく「解説書」を勧めていました)

 あめたろうさんの疑問は「語られるもの」と「示されるもの」の区分が
かかわってくると思います。
「論理は語られえないが示されうる」とか言ってませんでしたか。
(かなりの部分忘れてしまっているので細かく指摘できないのが残念です
 おっと、忘れているというよりは理解していないということでしょうが)
503498:04/09/12 21:34:33
>>490
あと「世界の外は存在しない」みたいな話の文脈で
「思考の外にあるものを思考することは出来ない」みたいなことを言っていたように
思います。(もっと含蓄のある方に補足・訂正してもらえると私も嬉しいです)

そのうえで「神」は、少なくともウィトゲンシュタインの捉える「神」は
この思考の外にあるもの、それゆえ思考されえずしかし示されうる存在ではなかったですか。
(思考されえず示されえないものは人間には非存在に等しいものです)
504考える名無しさん:04/09/12 22:26:19
神については、各自の好きなように想像して構わないけれど、
それを他人に対して言語的表現として伝えられるなどと考えてはならない。
神は語ったり示したりするもんじゃなく、
己の信仰(?)に基づいて淡々と生きることの中にしかないんだ。

そんなわけで、漏れは山奥の学校で先生になって淡々と生きることにする。


……っていう感じか、「論考」直後のウィトの「神」ってのは。
505考える名無しさん:04/09/12 22:42:42
>>504
そんな感じなのかもしれないですね。

504さんが指摘されるように「論考」期のウィトゲンシュタインには
「神」の存在が大きかったのでしょうね。
語りえぬものをしめす(つまり語りえるものを示すことで
もう一方の語りえぬものを示す)、という「論考」の中心的テーゼは
その語りえぬものの中に「神」を安置するというもうひとつのテーゼを
導き出すものではないと私は思います。

しかし仮に「神」を安置する場を欲するならば、「語りえぬもの」を
示す必要に迫られるかもしれません。よって より根源的な動機、テーゼは
「神」を「語りえぬもの」として示すことにあったといえるかもしれません。

(語りえぬものを示すことによってそこに神の居場所を見たというよりは
神の居場所として語りえぬものを示そうとしたのではないでしょうか)
506498:04/09/12 22:56:47
あめたろうさんと私の行動時間は違うようですね。
残念です。
507考える名無しさん:04/09/13 15:31:08
論考って書き方が簡潔すぎて初読では意味わからんけど、
すくなくとも最初の部分(番号で言えば1-〜のあたり)は、
「世界」を「可能な文全部の集合」、「事態」とか「事実」を「文」、「論理的」を「分析的」と解釈すると
つじつまがあうということには気づいた。
508考える名無しさん:04/09/20 08:48:17
まず レファレンスブックから初めて概観を知ったほうが
「理解しやすい」と言うことなんだが・・・
509考える名無しさん:04/09/22 17:31:48
510考える名無しさん:04/10/10 12:44:20
>>504
全然違うが
人間がふつう考えているような意味での神なんて
もはや問題ですらない

この世界を有限のものとして考えること
それ以外の世界は端的に思考不可能

これが神秘

511考える名無しさん:04/10/23 23:54:06
解決あげ。
512考える名無しさん:04/10/24 19:28:41
このスレがもっと続きますように  ROM人間より・・・

ウィトゲンシュタイン全集は値段が高いが・・時間が出来れば
読んでいて楽しい。

一生モンの趣味としても成り立つ。
513考える名無しさん:04/10/26 14:55:23
確かに。
514考える名無しさん:04/10/26 22:37:03
従ってこのスレは思考に対して、いやむしろ思考に対してではなく思考の表現に対して
限界を引こうとする
515考える名無しさん:04/10/28 01:23:49
Good
516考える名無しさん:04/10/28 10:18:38
哲学板は「沈んだスレだから」と思ってるといつのまにか
伸びてるから、油断できんなー
517考える名無しさん:04/10/28 10:56:40
そんなのどこの板でも同じ。2chブラウザ使いなさい。
518考える名無しさん:04/10/28 15:23:38
>>517
ここは特に激しい、と思う。Jane使ってるけど、下の方までスクロールするの面倒だし。
519考える名無しさん:04/10/28 15:43:00
最近ギコナビの「未取得」ソートが便利
520考える名無しさん:04/11/01 00:17:11
521考える名無しさん:04/11/09 15:14:57
522考える名無しさん:04/11/10 01:01:33
...
523考える名無しさん:04/11/10 01:28:38
語り得ぬものについての沈黙は続く・・
524考える名無しさん:04/11/12 18:58:26
ドーナツには穴があいている。
はたしてこの穴は「ある」のか?「ない」のか?
525考える名無しさん:04/11/12 22:26:51
ドーナツの生地がなくてドーナツの穴がある
526考える名無しさん
「ある」と考えて開ける世界がある
「ない」と考えて開ける世界もある