<パラダイム>「パレルゴンVS誰か」<おしゃれ>

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880ポール
「我思う、ゆえに我あり」について一言。

デカルトは、「(思考する)我」といった、行為(思考、知覚、意志等)から独立した<私>
という実体を設定しています。
しかし僕は、そのような実体は存在しないと考えます。

僕は、「我思う、それがすなわち我である」ではないかと思います。
同様に
「我知覚す、それがすなわち我である」「我意志す、それがすなわち我である」
と、思考のみならず、知覚、意志等にも言い換えられます。

  「『遠くに山が見えている』その事態がすなわち<私>であり、
   『知人の面影を想いだしている』その事態がすなわち<私>である」

つまり、私が経験している世界が存在していることが<私>が存在
していることです。経験世界こそが<私>、「経験世界=<私>」です。
経験世界を経験する主体を想定すべきではありません。
行為(見る、想いだす)から独立して存在する、行為を為す主体(<私>)を
想定する必要はありません。

たとえそこに、悪魔や(水槽脳を操る)邪悪な科学者が私の経験世界に
影響を与えていようとも、そこで変換された経験世界が<私>です。
そもそも悪魔や科学者でなくとも、他者や経験世界自体が私の経験世界に
影響を与えています。そこに本質的な区別は存在しないと考えます。
881ポール:04/05/19 22:28
経験世界を言語で表現する時、「私−(コップを)見る」というように、
「行為主体(主語)−行為作用(述語)」と分節して表します。

「言語が世界を分節する」といいますが、まさに言語のこの機能により、
「私−世界」の分節という、本来は一体であるべきものが分離してみえる
錯覚が生じるのではないでしょうか?
もともとはこの両者に区別はできないはずです。    

反論求めます。