614 :
考える名無しさん:04/04/30 16:24
615 :
考える名無しさん:04/05/05 21:42
現代哲学の主潮流の3巻は、とても分厚い。辞書並みだ。
先験的か後験的か、ということについて。
先験的とは、すべての経験と絶対にかかわりなく成立つ認識のことである。
これに対立するのが、経験的認識であり、経験によってのみ可能な認識になる
後験的なものである。しばしば、先験的な認識は、
経験にまったく依存しない認識であり、後験的な認識は、
何らかの経験に依存する認識である、といわれている。
そして、これに対しよくこういう反論がある。
「それでは、われわれにとって、先験的な認識などあるはずがない。
なぜなら、われわれの認識は、そもそも経験がなくては始らないのだから」
しかし、これはカントにとって気の毒な話である。実際「純粋理性批判」でも
「われわれの認識がすべて経験をもって始るということについては、
いささか疑いのよちもない」
と述べられている。つまり、先験的・後験的という問題は、われわれの認識が
どのようにして獲得されたかではなく、われわれの認識の正当化が
何に訴えることによってなされるかなのである。
[文献]
言語哲学大全 (2) 意味と様相 (上) 飯田隆 勁草書房
617 :
考える名無しさん:04/05/08 16:22
つまり、経験さえすればだれでも哲学できるようになる、という説だな。
読書不要論といってもいいだろう。
いや、そうするのは早急すぎないか。
>>616 認識と経験(体験、と言うべきか)の間に根本的な違いはないんじゃ
ないか? 認識とは知覚器官を通した体験のことで。
>>619 それは無意識と意識の区別がないような。
そういうことでもないか。
その境界は、絶対的なものじゃないだろ。訓練次第で、無意識レベルを
ギリギリまで狭めることは出来るし。
まぁ、
>>620の言う事も分かるが。意識とは何ぞや、という話に
なるか。眠っている時には、普通、人は「意識がない」と言わ
れるが、夢を見てる最中の人に、意識がないと本当に言えるの
か。これは、「意識」という概念の医学的理解と哲学的理解の
違いの問題だな。
意識と無意識の、自覚と無自覚の境界は常に揺らいでいるってことさ。
で、まぁ、「認識」にしろ「体験」にしろ「意識」にしろ、これらの
概念は常に「AがBを**する」という形式で用いられる。つまり、既
にこれらの概念には構造的に主客問題が前提にされているわけだね。
処刑ライダーが女子高生を**する
この例では、「処刑ライダー」は主体として、客体としての
「女子高生」に対して「ア・プリオリ」な立場にある、とい
うわけデスネ・・・
5.135
どのようなしかたでも、ある状態が成立するということから、それとはまったく別種の状態の成立を推論することはできない。
5.136
このような推論を正当化してくれそうな因果関係なるものは、存在しない。
5.1361
将来の出来事を、現在のそれから推論することは、できることではない。
因果関係への信仰は、迷信である。
5.1362
いわゆる意志の自由は、将来の行動を今から知ることはできないという点に成立する。ところで、それを知るということは、因果関係も
論理的推論の必然性と同じように内的に必然的なものであると仮定した場合にのみ、可能なことであろう。そのとき、知ることと知られたものとの連関は、論理的に必然的な連関である。
〔しかしながら、「 A は、 p が起こることを知っている」ということは、 p が恒真命題であるとすれば、当然に無意義なことであろう。〕
5.1363
ある命題が私たちにとって自明なものであるとしても、このことから、それが真であることが帰結しているのではない。
とすれば、自明ということも、命題の真理性に対する私たちの信仰を正当化するものではない。
それまでは純粋な経験則に過ぎなかったものの「メカニズム」が「解明
される」ってのは、哲学的には、どういうことを意味するんだろう?
「メカニズム」、も、それ自体、一つの経験則ではあるな。純粋な経験則と
いうのは、例えば昔の人が、空のちょっとしたきざしから、翌日の天候を
読んだりしたこととか。それに較べると「メカニズム」においては、「因」
が「果」を招くことの必然性が、明瞭である、という風。すると今度は、
その「必然性」の根拠が問題にされる。
もっとも理解しやすい経験則は、先に上げた天気の例など。しかし、
もっと根源的なものは、無意識領域に食い込んで来る。それは「当
たり前のこと」として、意識すらされない。更に進むと、我々の身
体の活動サイクルが地球環境に合わせてほぼ24時間周期になって
いるように、身体の物理構造にまで浸透して来る。
・・・そこでお馴染みなコピペなわけですよ。
われわれの心は、先祖たちにとって、生死に関する問題を解決するために、
自然淘汰によって進化したのであって、正確に言葉を交わすとか、問うことが
できるすべての質問に答えるために進化したのではない。われわれは、短期
記憶に一万語も保持できない。われわれは紫外線を見ることができない。われ
われは四次元の物体を心の中で回転してみることができない。そして多分、
われわれは、自由意志や直覚のような謎を解決できない。
カントと論理実証主義ってどう繋がるの?
>>634 それは「言語哲学大全 (2) 意味と様相 (上)」で詳しく書かれている。
論理実証主義は、論理記号から統一科学をはかろうとしたところから
それに数学や論理学はどう組み込まれるか、というのは当然問われた。
論理実証主義は命題を「分析的命題」と「総合的命題」にわけた。
総合的ってなに? と思うのなら、
>>5のサイトを参照せよ。
カントは、先験的(ア・プリオリ)と
後験的(ア・ポステリオリ)という区別を導入した人物。
これを論理実証主義に対応させると、こうなる。
分析的命題=先験的(ア・プリオリ)
↑たとえば経験によらず必然的に帰結する論理学
総合的命題=後験的(ア・ポステリオリ)
本当に論理学は経験によらず必然的?
637 :
考える名無しさん:04/05/13 20:16
>>636 矛盾律とか経験によって証明できるんかい
638 :
考える名無しさん:04/05/13 20:23
マルクス主義が主流の戦前日本ではほとんどはやらなかったね。
経済学者の森嶋通夫氏は大のマルクス主義者嫌い(マルクス嫌いではない)
で、旧制高校時代には統一科学運動に傾倒したそうだが。
639 :
考える名無しさん:04/05/14 01:51
論理「学」は必然ではないだろうが、論理は必然だと思う。
なんでかというと。。。。。
もったいないから教えない。
それが人間の思考なんだから当然のような…
数学の基礎は
>>612で言われたとおり、無限的構造をもっている。
しかし、数学が先験的でありながら総合的である、とするなら
無限的構造をもつ具体的な対象があらねばならない。
数学の定理が、経験的なものではなく規約によるものでしかないなら
論理学と同様に、先験的で分析的なものとなる。
たしかに無限的構造が実在しないわけではないが、
それを証明するのは困難だ。ただ可能性があるだけだ。
これをどうするか。。
>>641 >数学の基礎は
>>612で言われたとおり、無限的構造をもっている。
そうでない数学もあるけどね。
それに集合論を基礎としない理論構成への試みもある。
もちろん、これまでの集合と写像を基礎とする数学を包含する形でね。
>>642 言語哲学大全には、それも書いてあったが
ちと予備知識がなかったので空集合のことしか
読みとれなかった(´Д`;
644 :
考える名無しさん:04/05/15 10:05
646 :
考える名無しさん:04/05/15 18:48
なんで日本では論理実証主義は嫌われてるの?
647 :
考える名無しさん:04/05/15 19:08
>>646 嫌われているというより、興味をもたれなかったと記憶している。
政治的な事情で。現代では、論理実証主義的科学観って
何も生み出さない学者みたいで、
日本の悪い体質を象徴しているようにも見える。
648 :
考える名無しさん:04/05/15 22:05
何も生み出さないって、科学者に何を産み出す事を期待してるの?
自然科学者は世界的な業績を上げてるし、社会科学者でも論理実証主義
に近い近代経済学や法学はちゃんと成果をあげてるじゃん。
何も産み出してないのはマル経や人文系などのポストモダン相対主義に
汚染された人たちだよ。
青木書店発行の哲学事典とかだと「論理実証主義はブルジョワ哲学」って書いてあったりする。
政治的事情ってそういうことか・・・
(σo ̄)ホォホォ
651 :
考える名無しさん:04/05/16 20:51
現代哲学の主潮流わけわかんね
戦前の軍国主義、戦後のマルクス主義とどっちも論理実証主義とは相容れなかった
からね。
しかし、戦前の哲学思潮の半分は「新実証主義」こと、
新カント主義だったからなぁ。科学主義はそれ自身は
空っぽの入れ物だから、担ぐ人間の思想傾向次第でど
うにでも解決するとか。
ん?新実証主義=新カント主義
なの?
新実証主義って言葉は乱用されてるからよくわからん・・・
いや、論理実証主義も括られるらしいけど。
656 :
考える名無しさん:04/05/26 10:20
>>657 失敬な!
読みやすさこそ小河原先生訳のポパーの一番のよさだよ
「テスト可能性」と「検証可能性」って同じ意味ですか?
テスト可能性=反証可能性か。
汝、神を試みること勿れと言うな。
>>659 テストは反証や検証より弱い概念。
検証可能でなくてもテスト可能、ということはありうる。
反証可能でなくてもテスト可能、ということもありうる。
(・0・。) ほほーっ