論理実証主義とは、1920年代後半、
ウィーン学団による「科学哲学」を提唱する哲学運動である。
それは、伝統的哲学に終わりを告げるものであった。
そのテーマとは「形而上学の除去」である。
論理実証主義とは何だったのか。教えて下さい。
論理実証主義つーのは論理経験主義て風にも言われるわけだけど、
何でそれ以前の経験主義(例えばヒュームの経験主義とかJ・S・ミルの
経験主義)がうまくいかなかったのか考えれ。
3 :
考える名無しさん:04/01/30 01:42
論理実証主義ではいい弁護士にはなれんぞ
4 :
考える名無しさん:04/01/30 01:44
法論理学ってなんですか?
ウイルスダメ
7 :
考える名無しさん:04/01/30 04:13
何か論理実証主義について説明されている
読みやすい本ありませんか?
8 :
考える名無しさん:04/01/30 06:59
論理分析哲学とは、どう関係あるんだ。
とは何ですか?教えてください?どういうことですか?
自分で調べようとする気は無いのかと思われて終わりだ。
質問スレで聞けば良いだけのことだし。問題提起しろよ。
10 :
考える名無しさん:04/01/30 11:46
問題提起は不可能だろ、歴史的にすでに死んでいる活動なんだから。
数学や論理学は、単に経験を最高度にまで井ぅt版かしたもの
つまり存在と思考の最高原則を完全に抽象的に捉え
それを定式化したものだから、帰納的であり
したがって、経験よって否定されることも可能ではないのか。
× 井ぅt版か
〇 一般化
数学の命題と経験が一致しないとしても
数学の命題を誤っていると宣言し
経験にしたがってそれを正すということは
誰にも思い浮かばない。
むしろ、我々は数学の定理を
我々の計算や測定よりも確実だと思っている。
なぜなら、もし数学の定理と合わないものがでたら
我々は測定を十分に正確なものとみなさず
また計算を誤っているものをみなすからである。
> むしろ、我々は数学の定理を
> 我々の計算や測定よりも確実だと思っている。
> なぜなら、もし数学の定理と合わないものがでたら
> 我々は測定を十分に正確なものとみなさず
> また計算を誤っているものをみなすからである。
この部分さぁ「確実だと思っているから、確実だと思っている」
と言っているようなもんじゃないか? 違うか?
ここから数学は、経験から完全に独立したところで
妥当性をもっていることが証明される。
同様に、論理学も経験からは導けない。
なぜなら、論理学は、経験を形成する方法の中に
すでに前提されているからである。
論理学へ新しい経験によって変えられることはない。
発生的には、論理学と数学は
経験や体験の連関に還元できる。
経験に刺激されて、論理学も形成される。
しかし、論理学は完全に独立した体系として
作り上げられており、論理学と数学の妥当性は
完全に経験から独立している。
経験から独立しているならば、
論理学と数学は、ア・プリオリな妥当性を持っているといえる。
>>11-16の考え方は、これまでの経験論に対する
決定的な反論となっており、経験論は維持しがたいものとなった。
そのとき、ウィーン学団は
「経験を放棄するか、論理学と数学を曲解するか」
というジレンマから抜け出す道を
「論理学と数学は、経験可能な実在について何も語ってない」
と結論づけた。
したがって、論理学は、存在の根本法則を示しているのではなく、
思考方式の根源にあるものを示している。
論理的関係は、単なる思考上の関係ということである。
論理的関係は、形式的なものでしかない。
それゆえ、論理的関係は、存在について何も発言することはできない。
論理学は、単に記号体系における法則のみを立てるのであり
経験界の法則の立てるのではない。
数学や論理学は、総合的ではなく、分析的である。
こうして、あらゆる認識と学問を
経験から導きだし、それによって根拠づけるという
経験論のそれまでの要求は放棄される。
すべての総合判断は、経験に基づいてのみ、その妥当性を得る。
よって言明は二つのクラスにわけられる。
一つ目は、経験から独立した必然性をもって妥当とされる分析命題である論理。
二つ目は、経験に基づいてのみ妥当性をもったり取消されたりする総合命題である。
21 :
考える名無しさん:04/01/30 13:32
やっぱり言語には還元できないってところで行き詰まるのか?
22 :
考える名無しさん:04/01/30 13:36
エイヤーの本が良くまとまっているよな
23 :
考える名無しさん:04/01/30 14:03
24 :
考える名無しさん:04/01/30 17:12
だれか、『論考』と『探究』におけるメタ言語の不可能性の条件の差異について述べてくれや。
25 :
☆キキ+キ゚Д゚♪ ◆qpmo.OOqAo :04/01/30 17:14
26 :
考える名無しさん:04/01/30 22:01
メタ言語ってのは、メタリック合金かなんかで出来てるのか。
数学・論理は道具であり、
自然、現象、それらの蓄積である経験は事実と言う問題。
道具を使って問題を解く。
>>27 叩かれそうなので、今のうちに言っておきましょう。
同意。
29 :
考える名無しさん:04/01/30 23:33
哲学板で叩かれるのを恐れてどうする。
30 :
考える名無しさん:04/01/30 23:41
適用する公理系を誤っていたとは考えないのか?
31 :
考える名無しさん:04/01/30 23:44
>>26 接頭語、オルト、メタ、パラ、イソなんての聞いたことない?
>>29 論拠だてて批判されるならともかく
馬鹿だのわかってないだので済まされるのは誰だって嫌だろ。
33 :
考える名無しさん:04/01/31 03:02
論理主義と実証主義がくっついたもの。
自由民主党みたいなもん。
34 :
考える名無しさん:04/01/31 13:44
35 :
考える名無しさん:04/01/31 19:16
科学哲学か
窃盗後、嘔吐、寝た、腹、磯
37 :
考える名無しさん:04/02/01 10:18
頑張ったね
38 :
考える名無しさん:04/02/01 15:55
科学哲学の本でも読めばわかるかな?
39 :
考える名無しさん:04/02/01 15:58
論理実証主義ってすげー間抜け
40 :
考える名無しさん:04/02/01 16:14
でも刺激的でかっこいい
>>39 それいったら何らかの「結論」を下した哲学者は大抵…。
42 :
考える名無しさん:04/02/01 16:47
まあ論理実証主義の真理に対する挑み方は賞賛すべきものがあるな
43 :
考える名無しさん:04/02/01 16:57
なにを実証したんだ?
44 :
考える名無しさん:04/02/01 17:18
論理実証主義は語りえないことをバカゆえに平気で語ったんじゃないの?
ウィト厨来た。
46 :
考える名無しさん:04/02/01 19:46
>44
逆。語りえることを限定しようとたら、本人たちが思っていた以上に限定されて、数学や論理学まで語りえなくなるところだった。
48 :
考える名無しさん:04/02/01 20:38
47がいいこと言った!
どっちにしてもバカだろ。
50 :
考える名無しさん:04/02/02 03:10
バカは君一人で宜しい。
51 :
考える名無しさん:04/02/02 22:23
検証可能性は、経験的検証可能性と、論理的検証可能性に区別される。
検証条件が自然法則と矛盾しない検証は経験的である。
命題構造が論理と言語の規則に矛盾しないとき、その検証は論理的である。
命題の意味は、論理的検証可能性が重要である。
「月の裏側には三千メートルの山がある」という言明を
検証することはできないが、意味がないとはいえない。
これに対し「世界それ自体は存在するが、それは認識不可能である」
という命題は、意味がない。というのは、この命題が
世界が認識不可能であるにも関わらず、この世界が現に存在することが
認識可能であると主張する点において自己矛盾だからである。
意味あるものと、無意味なものの区別は、言明の記述的表現にある。
それゆえ、無意味なものは、単に内容がないことではない。
形而上学は、検証するための手続きが何も与えられず、
それを経験可能なものに還元できない。それゆえ、意味が与えられない。
命題の意味は、検証可能なものにある。経験的事実に関する言明のみが検証できる。
52 :
考える名無しさん:04/02/02 23:53
科学的命題は有意味であり。形而上学的命題は無意味である。
形而上学は、その問いが解決不可能である。
ゆえに、かつての経験論の見解は捨てられる。
しかし、それが原理的に解答不可能という意味ではない。
月の裏面は、地理的な技術上の困難さのために
実際上、答えられないというわけである。
問いには、単に現在答えられないものと、
将来あらゆる時代にわたって永遠に答えられないものがある。
53 :
考える名無しさん:04/02/02 23:58
しかし、検証可能性によって意味を規定することは、別の結果をもたらした。
経験的命題のみが検証可能であることから
経験的命題のみが意味を持つということになる。
それに比べて、数学や論理学の命題は意味を欠くことになる。
数学や論理学の命題は、事実について述べていない。
数学や論理学の命題は、事実の認識ではなく、規則の認識なのである。
論理学の命題は、命題を他の命題へと変形する規則である。
このため、科学論理学の命題は、内容を欠いたものになる。
ウィトゲンシュタインはこう言った。
: 私の命題は、私を理解する者が、それを通って、その上で
: その命題を超えたとき、最後に無意味なものして明らかにされる。
科学論理学の命題は、言語自体において示されているものに視線を向けろ、
という指示なのである。科学論理学は、理論的内容を持ってない。
54 :
考える名無しさん:04/02/03 00:14
しかし、これは哲学的議論の範囲が
耐えられないまでに狭められてしまうことを導いた。
ある問題を無意味な疑似命題として示すことは簡単である。
あらゆるやっかいな問題について、何の意味も見い出すことができないように
意味の概念を十分に狭く捉えさえすればよいからである。
経験科学の問題のみを有意味と認めれば、
意味概念に関する論争はまた無意味となる。
意味を検証可能性によって定義することは狭過ぎる。
55 :
考える名無しさん:04/02/03 00:17
結局論理実証主義は「論考」をどう捻じ曲げたんだ?
57 :
考える名無しさん:04/02/03 00:30
検証の手続きと事実の区別をどうつけたんでしょうか?
58 :
考える名無しさん:04/02/03 00:34
寝るからもういいや
哲学は純粋に事物の問題を取扱うことはない。
これは、専門科学が扱うものだからである。
また、哲学は経験を超越する形而上学的な領域も考察しない。
そこで哲学の問題は、単に論理的問題
つまり科学の論理分析という問題だけを担当する。
カルナップは「哲学のあらゆる有意味な問題は構文論に属している」
という結論に達した。
60 :
考える名無しさん:04/02/03 01:17
雑談放談漫談相談歓談縁談講談
んぞう君の学歴も怪しいぞ!!!!!!!!!!!
62 :
考える名無しさん:04/02/03 01:50
>>59 細かい議論のレベルでは論理実証主義って顧みられないんだろうけど、
分析哲学者の「イデオロギー」ってこんな感じだと思う
63 :
考える名無しさん:04/02/03 02:37
(・0・*)ホ (゚0゚*)ホ----ッ
65 :
考える名無しさん:04/02/04 21:56
>>64 一応
>>5のページに、解説をまとめてはあるのですが
やはり、それでも解きえてない部分がありますな。
67 :
G.W.へーげる:04/02/05 17:57
pgl
しかしウィトゲンシュタインにしろなんにしろ、こいつらすぐ「全ての哲学的問題は結局**に過ぎない」とか言うね。
なーにが「全て」だ、っての。
「過ぎない」んですか、と。
要は哲学が大したものだと考えてることの裏返しじゃねえか?
69 :
考える名無しさん:04/02/07 01:08
ウィト厨襲来!
ところで、哲学って何かの役に立つの?
っていうか、何やってるの哲学の人って。
んー例えばこの世の発展に繋がるの?
前から気になってたのよね。
大昔はホラ、科学みたいなモノがなかった頃「考える」を考えて
「考える方法」を作って科学の原型作って貢献したらしいじゃんよ。
現代はなにして毎日過ごしてんのかなと。
ちなみに理系某板から放浪してきて興味本位できいてみてる漏れです。
論理実証主義って実証史学と関係あります?
>そのテーマとは「形而上学の除去」である。
例えば、量子論が超ヒモ理論や宇宙論とお手手繋いで
ダンスを踊ってるのを見ると(略
ttp://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0157.html この一文がもつ意味をマッハ自身は次のように説明した。
「事実を思考の中に模写するとき、私達は決して事実をそ
のまま模写するようなことはなく、私達にとって重要な側
面だけを模写する」と。また、「われわれは模写するとき
には、いつも抽象しているのだ」と。これはのちにマッハ
が「思考の経済」とよんだ考え方の予告であった。詳しい
ことは『感覚の分析』や『認識の分析』などの感覚論や認
識論を読むことを勧めるが、そこにも述べられたように、
このときすでにマッハの考えはゲシュタルト形態学のエッ
センスに近接していたのである。
>>72 論理実証主義の射程に歴史学は入っているが
実証史学とやらが論理実証主義にかかわってるわけじゃないだろ。
76 :
考える名無しさん:04/02/07 17:11
検証の手続きと事実の区別をどうつけたんでしょうか?
77 :
考える名無しさん:04/02/07 17:16
現在的事実(即ち現実)は自ら自身を開示する。自然科学において検証が
必要なのは、法則性についての問題、史学における検証とは、過去に向かっ
て事実を追跡すること、かな。
79 :
考える名無しさん:04/02/07 19:43
本読んでいる人のコメントきぼんぬ
自分で嫁、ヴォケ
81 :
考える名無しさん:04/02/07 19:57
w
>>76 論理実証主義者ってのはある傾向をもった人たちが集まって
「お互いに」議論する集団「ウィーン学団」の構成員のこと。
だから、人によって違うし、同じ人でも段階によって違う、らしい。
検証方法は二つある。
「経験的検証可能性 (総合命題)」と「論理的検証可能性 (分析命題)」である。
検証が自然法則と矛盾しないものは経験的である。
検証が命題構造が論理と言語の規則のみ矛盾しないものは論理的である。
84 :
考える名無しさん:04/02/08 12:28
>検証の手続きと事実の区別をどうつけたんでしょうか?
だれも答えられないの?
論考を引き合いに出せば、我々の自然法則についての知識が
そもそも経験知であるから、「検証が自然法則と矛盾しない
ものは経験的である。」はトートロジーであるが故に分析命
題としては「真」である、とかナントカ
>>84 区別をつけれない
ウィトゲンシュタインは真である全称命題が自然科学である事は
認めていたけどね
ポパーのような
還元主義的なのはまったく認めていなかったね
可能性というような何かが「ある」という事を
一切口にしなかった
>>71 >ところで、哲学って何かの役に立つの?
役に立つとはどういう意味ですか?
どういう定義をもって役に立つと?
誰にとって、全ての?日本人の?世界の?
地球の?自然の?
>この世の発展に繋がるの?
発展とはなんですか?
一体何と何を比べて発展と言っているのか
いつといつを比べて、どのような事態をもって発展というのか
あー、文系の人ってみんなこういう喋りだよね、定義定義って。
で、ひとつひとつ例を挙げてどうなのって訊くと、その中から適当な言葉見つけて「テイギテイギ」。
答えられませんと言えばいいのに。
それが答えならば。
試しに、
>>86 役に立つ:
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%CC%F2%A4%CB%CE%A9%A4%C4&kind=jn つまり、何か(何でも良い)目的を果たすための道具となりうるの?
発展?
じゃあ、そうだな世界の任意の対象に対しての理解が深まるか?とでもすれば良いか?
所で最近特に文系とディベートをする際に気づかされることがある。
例えば、「何を持って発展とするか?」と疑問を持ち、訊ねる。
これは良いことだ。
しかし、ここで自分は疑問に対しどのような意見を持っているのかを述べない。
これは自身が対話で不利にならないため(ただ言い合いに負けるという低レベルな意味で)、
それだけの理由によると思われる。
そのため議論が膠着状態に陥るので注意が必要であると思われる。
88 :
考える名無しさん:04/02/11 01:36
>真である全称命題が自然科学である事
はあ?なんで科学なんだ?
89 :
考える名無しさん:04/02/12 02:10
間主観的
初期ヴィトに依拠するのはよした方が良い
むしろカルナップかエイヤーを読み直そう。
論集"logical positivism"もいいね。
>>87 例えば、糞ウヨ・バッシングに役に立ってます(笑
んー、初期ヴィト、天才的な閃きの塊だと思うんだけど、俺も確かに
論考の構成に全く不満を感じないわけでもないな。どこが不満なんだ
ろうって探しながら読むのもまた楽し、かな?
>>92 違う違う。文脈嫁。
論理実証主義を初期ヴィトから読みこむのはよせと。
初期ヴィトはマッハなどと関連付けるのが正統。
マッハの実証主義とカルナップやエイヤーのそれって違うの?
ウィーン学団みたいな論理実証主義と、単なる実証主義は区別すべき
なのかな? でも、論考の影響はウィーン学団にも及んではいるよう
だしな・・・。実証主義も、認識論的領域と地続きなのと、そうでない
ものってあるかも知れない。っつか、個人の理解の深さの話になるか。
しかし、ヴィトゲンシュタインなんてドストエフスキーやトルストイ大好きで、
最初から哲学領域から形而上学を排除してるから、文系(?)に無関心な奴に
は、ひょっとしたら理解不能かもな。
97 :
考える名無しさん:04/02/14 02:06
いえてる。
ウイト厨の話にならんところはそこだ。
どうせ、ギリシャ経由の理性信仰の立場で言ってるだけだろ?
スコラ主義ってヤツ。
100 :
考える名無しさん:04/02/14 14:10
(σ・∀・)σ100ゲッツ
101 :
考える名無しさん:04/02/14 15:12
似非命題にとらわれるのは無意味だ(だからやめようよ)って運動じゃないかと思っていました。
102 :
考える名無しさん:04/02/14 15:33
>>101 必ずしも間違いではないだろ。理性は独断論を支持しない、というか。
ファシズムは宣伝工作で偽の現実感覚を構築するな。
106 :
考える名無しさん:04/02/14 21:24
形而上学あぼーん
107 :
☆キキ+キ゚Д゚:04/02/14 21:40
( ゚Д゚)y─┛~~
五日も待ってみたのに。
86さんに逃げられちゃってガッカリです。
暇つぶしできると思ったんだけどナア。
形而上的な問題はアカデミックな領域にあるものではないってことだな。
110 :
考える名無しさん:04/02/15 18:45
思春期の子がヴィトゲンシュタインを読んだら
おのれの形而上学的な問いを解決できると思うんだけど
どう?
俺ならその前に、ドストエフスキー読ませるねw
112 :
考える名無しさん:04/02/15 20:18
(・ロ・)ホ(’ロ’)ホ--ッッ!!!
113 :
考える名無しさん:04/02/15 22:12
僕は形而上学的問いを解決したと思ってたけど、「無を欲すること」を満足していただけみたいです。w・・・・
114 :
考える名無しさん:04/02/16 21:30
それでいいのだ
115 :
考える名無しさん:04/02/17 19:37
科学哲学の全貌について知りたいのですが
何かオススメの本はありませんか?
ジョン・ホーガンの『科学の終焉』と、続編どう?w 純粋な科学論とは
違うけど、現場の一線の科学者たちのリアルな姿が書かれてる。
ホーガンはアメリカン・サイエンス(だったっけ?w 日経サイエンスと
提携)の元ライター。
前編は結構おもしろかったが、
後編は無理からかな。
>>116 自分に都合のいいところだけを切り張りしてる感じがする。
「科学はこんなことも解決できない」みたいな雰囲気だけど、既に全部わかってる学問の方が終ってると思う。
わからないことがあるから発展するのになー。
119 :
考える名無しさん:04/02/17 20:00
半分シャレと考えたほうがいいでしょうね。
俺は後編の方が味わいがあって好きだけど。
続編に収録されている進化心理学者スティーブン・ピンカーの言葉
われわれの心は、先祖たちにとって、生死に関する問題を解決するために、
自然淘汰によって進化したのであって、正確に言葉を交わすとか、問うこと
ができるすべての質問に答えるために進化したのではない。われわれは、短
期記憶に一万語も保持できない。われわれは紫外線を見ることができない。
われわれは四次元の物体を心の中で回転してみることができない。そして多
分、われわれは、自由意志や直覚のような謎を解決できない。
>>118 科学で解明できるものはすべて解明されてしまった。
というのがホーガンの主張
100年以上前にヘーゲルも同じようなことを言ってるけどな。
そこまで断定はしてないだろ。ただ、脳神経学者だったかの言葉を
引用して「長期的には神秘主義(?)が優位になるかも」とは書い
ている。結局、絶対の真理について、科学の側からは不可知論的で
あるべきという、ごく常識的な結論に終わっているだけに見えるが。
そういうことならアリストテレスだって「物自体」の不可知性につ
いて既に述べてる。
世俗的ナショナリズムで体制固めしたい連中には、
信仰の自由を抑圧する科学万能論は都合が良いん
だろうがな。
アリストテレスの「物自体」ってアンタ…
あと、進化論的弱肉強食思想で右翼ナショナリズムの正当化って
御馴染みの論法もあるな。
>>126 さすがに「物自体」とは言ってないけど、クザーヌスの『学識ある無知に
ついて』の冒頭近くに載ってる話。科学哲学から話がズレちまったな。
俺は我流で組み立てたから、科学哲学でこれって書物はあまり知らないな。
ケストラーの『機械の中の幽霊』くらいか(士郎正宗が『攻殻』のネタ
本にした奴)。でも、あれもなかなか鵜呑みにしにくい部分も少なくない
しな。機械論的還元論批判として、それなりに参考にはなるけど。
『機械の中の幽霊』、アニメの世界を期待して読むと、痛い目に逢うw
131 :
考える名無しさん:04/02/18 21:29
ワケワカラソ
132 :
考える名無しさん:04/02/18 21:31
本物のバカがいるな
133 :
考える名無しさん:04/02/18 21:35
ウーン・・・・。
>>87の質問、
>>86さんに答えて欲しかった。
言葉あそびしてえー。
135 :
考える名無しさん:04/02/18 21:37
>>124 誤読していないか?
「科学の終焉」のタイトルの意味の説明であって、
意識論の話じゃないぞ。
>>116はここの受け売りと思われ。
www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/Articles/horgan-rhetoric.html
つーか、この人の言ってることはみんな、何かの受け売りにしか見えない
間違えた。
>>118はここの受け売りと思われ。
www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/Articles/horgan-rhetoric.html
141 :
考える名無しさん:04/02/19 01:43
137=138=139
要は、くだらねえ、ってことだろ
143 :
考える名無しさん:04/02/19 01:46
何だったんでしょうね
今は分析哲学の分野でも、形而上学はばりばり復活してるし
145 :
考える名無しさん:04/02/19 01:50
要は、くだらねえ、ってことだろ
147 :
考える名無しさん:04/02/19 02:33
____
/∵∴∵∴\
/∵∴/∴∵\\
/∵∴< ●●● >.| はあ?
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
\∵ | \◎ノ .|/
/ \|___/\
│ ∴∵━━○━∴│
148 :
考える名無しさん:04/02/19 02:42
>>136 あ、そう。タイトルしか見ないで言ってるわけだね(ゲラ
最近、ポパーの著作が文庫化がどうしたって社会学板で誰か言ってたっけ。
>>143 形而上的なものとは、一般化できないものの謂いである。
名無し仔猫@3周年
余談だけど、ケストラーの還元論批判は鈴木大拙の科学合理主義批判の
影響を暗に受けてると思う。大拙が存命中、ケストラーは大拙の文章を
「年寄りの鼻水みたいな」って罵倒して(日本嫌い)、それを大拙がは
ねつけるような文章を残してるんだが、『機械の中の幽霊』は大拙の死
んだ翌年くらいの著作で。
鈴木大拙の20世紀冒頭の欧米知識人への影響は小さくない
ものがあって、単純な合理主義への深い反省を促しもしたが、
一方でキリスト教的な社会風土を混乱させて反合理主義的風
潮を強めもした、かな。もちろん、大拙本人はナチズムや日
本主義的ファシズムには無縁な気質だったんだが、禅は倫理
規範が曖昧な面があるから。
基本的な知識だが、「形而上学」、「形而下学」というパラダイムは
アリストテレスが自分の学問を便宜的に「フィジクス(自然学)=形
而下学」と「メタ・フィジクス(「自然学の前にあるもの」、或いは
「超・自然学」とでも訳せるか?)=形而上学」と区別したことに由
する。つまり、ある意味、伝統的な区別であって、それなりに合理的
な区別ではあるかも知れないが、必ずしも絶対的な区別ではないって
ことだね。
科学哲学史は良く知らないけど、アリストテレス以降のギリシアの
医学、生物学、天文学はどんどん思弁的な傾向を強めていったようにみえる。
ルネサンス期以後に実験・観察によって否定された概念がいっぱいあるけど、
知識を整理したりするのにはかなり有効だったかも。
実験・観察を度外視すると、論理的にとっても整合性があるんだよね。
これって形而上学的な説明なのかな。
・・・形而上学って何だぁっけ、何だぁっけ♪
つか、形而上学的領域ってのは、実験、観察以前の領域なわけで、
その唯一の根拠は論理的整合性っつか。
>あ、そう。タイトルしか見ないで言ってるわけだね(ゲラ
いや、中身読んでいってるんだが(w
ヴィトゲンシュタイン、TLF/1.13
論理的空間のなかにある事実が、すなわち、世界である。
「命題が真である=同語反復」というありのままの事実空間を
包越するマトリクスってことだね。
「事実空間」、というより「事実世界」と言うべきかな?
>>158 続編読んだ? 技術の進歩や加速器の出力の向上で、理論も
進歩はするだろ。
>>158 別にホーガンは細かいレベルでの科学の進歩が終わったとはいっとらんよ。
大発見がこれからも続いていくということはもうないと言ってるだけで。
あくまでもう大きな発展はない、実質的に科学は終焉した。と言ってるだけ。
>>160 続編に加速器が絡むような話は出てないぞ。
162 :
考える名無しさん:04/02/19 18:11
>>138 論理実証主義って言う哲学史上のことを離してるんだから
解説する人が受け売りになるのは仕方ない。
「論考」はTLPだったな、Fじゃない(恥
>>161 あー、出力上げて先を見るのは、そろそろ限界ってのが正編の
話だったっけ。高エネルギー状態を作れば作るほど、素粒子を
細かく砕けるってのは、砕いているんじゃなしに、エネルギー
を凝縮しているだけに見えないでもないな。根本的な発想の転
換の可能性だって、ひょっとしたらまだまだあるカモ
>>164 論理実証主義の解説をしてるんじゃないのか
ttp://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/7/023363+.html 実在論と科学の目的
■構成 全2巻
カール.R.ポパー
小河原 誠,蔭山 泰之,篠崎 研二 訳
ポパー哲学集大成の書,『科学的発見の論理へのポストスクリプト』第1巻の完訳.
本書では,科学と非科学の境界設定,反証可能性理論のもつ意味といった自らの議
論を再説し,新しい形で展開してゆく.クーンへの応答,フロイト理論,ウィトゲ
ンシュタイン哲学への批判的検討等を通じて,彼の科学哲学の到達点が語られる.
・・・こういうのもあんだな。読みたいが、上下で8000円はイタイな。読んだ人い
ない?w
168 :
考える名無しさん:04/02/20 20:15
クワインでは、だめなのか。
ポパーってば、死海写本の7Q5断片問題にまで名前出て来るしなぁw
おまいらにはガッカソだ
ポパーの本、割と沢山出てんだなぁ。東京の書店でも余り目立たなかった
気がするんだが。
174 :
考える名無しさん:04/02/21 09:32
身体によって受ける限定を無視した思考のことじゃないの?=形而上
ん、まぁ、そういう風だね。ドストの『地下室の手記』の、
「2掛ける2は4だからって何もかも諦めろだと!?」って
のと同じで。
『地下室の手記』では、「思考する」よりも「意識する」だね。
例えば、我々は空想で道具を使わないで空を飛ぶことを考える
ことも出来る。これはしかし、形而上学とは余り関係ない。
「意識する」とは常に何かを意識することいであって、つまり
現在的に実在する対象が前提としてある。
「目の前の現実の何かを意識する」のではない、「目の前にある
もの」は、常に既に意識されてあるもの、かな?
で、そういう意味での「意識」という前提で、「身体によって受ける
限定を無視した意識」とは、どういう意味かってことだが。
179 :
考える名無しさん:04/02/21 17:08
>>173 ああ、その本はすごくいいよ。隠れた名著。
フランスでは大きな影響力をもっているらしい。
日本ではあまり読まれてる感じはしないが。
180 :
考える名無しさん:04/02/21 17:39
つうか、ポパー自体が、科学哲学の世界ではもう死に体だし。
けど、「科学者のロマン」に訴えるのか、現場の科学者の間ではいまだに人気が
衰えない。
不完全性定理みたいな「完全な証明の不可能性」の問題は
基本は変わらないからなぁ。古典として読んで見る価値は
あり、かな?
絶対に確実で、明示しうる知識、すなわちエピステーメー(episteme)という
古い科学の理想は偶像に過ぎないことが判明している。科学的客観性が要請され
る結果、全ての科学的記述はどうしても永遠に暫定的なものにとどまる他はない
ことになる。ある記述は新しい記述によって確証されるかも知れないが、その確
証も他の記述に関係をもっており、しかもそれらすべてがまた暫定的なものなの
である。・・・
これは、ケストラーが『機械の中の幽霊』で引用しているポパーの文章。出典は、
『科学的発見の論理』だと思う。そんな難しい話じゃないね。
没個性化されたコネコは論理実証主義関係のものを何か読んだことがあるのか?
184 :
考える名無しさん:04/02/21 21:59
>>183 猫電波時代にウィーン学団の話をしてたことがあった。
186 :
考える名無しさん:04/02/22 01:22
この掲示板の哲学板に常駐しているようなら毎日辛ぇだろ?
思考力も落ちるだろうし哲学できてねえんじゃないの?
世間に出なきゃそのまま鬱で悶え死ぬんじゃねえのガキとオッサン達?
幼中年ヒキコで2ちゃんで妄想繰り返してりゃ自殺指向になる罠(w
己の考え一編捨てて社会出てから考え直した方がアタマよく回ると思うが
ガキとオッサン達そこまで腹括れるか?
ハッキリ言うが、ここはガキとオッサン達の妄論オナニー道場じぇねぇんだよ。
>1
論理実証主義運動とでもいう思想運動は、当初の動機として形而上学の排除とい
ってしまうより、無意味な命題と有意味な命題との区別を明確にすることによっ
て学問の再構築を目指すという意味合いが強いと思います。つまり、無意味な命
題をもっぱら扱うことの否定=形而上学の排除です。したがって結果として形而
上学は排除されるというような意味合いですね。
思想的背景としては、もう、バリバリの科学主義。自然科学こそが学問の理想で
あり、諸学は自然科学をモデルとして見習うべし、という理想が背景にあります。
そこで、彼らウィーン学団が考えたのは、数学や記号論理学の哲学への導入であり、
科学方法論の構築などでした。もっとも、いわゆる科学万能主義の時代がおわって、
真理における相対主義のようなものが登場するにしたがって、運動そのものは衰退
の一途をたどっていきます。結局ポパーにいたる論理実証主義運動は、その真理が
科学の発展に連動して暫定的であるにせよ、絶対真理存在を前提としているのでしょう。
ポパーとクーンの関係、ラカトシュとファイヤアーベントの論争も真理の絶対性と
相対性の問題にいきつくのではないかと思います。
188 :
考える名無しさん:04/02/22 02:29
形式化された方法で何でもOKなわけはないんだが。
189 :
考える名無しさん:04/02/22 02:44
>>187 (・0・*)ホ,(゜0゜*)ホ--ッッ!!!
>>183 人の書いた本の話ばかりすると受け売りって言われるし、自分の理解で
話すと、本読んだかと聞かれる。
>>184 ポパーは、こうって話。
>>185 俺の論理実証主義は、ヴィトゲンシュタインの論考からの理解。
>>186 それは、一方的な言い分だな。科学主義にしても、その有限性を
正確に把握してこそ有効に利用できるというもので。
「論理実証主義再考」、早く来ないかなー♪
>>191 内容は悪いとはいわんが。
目次すくなくて、長い縦書きだから読むの疲れるよ。
索引もなかったか、あるいはしょぼかった。
>したがって結果として形而上学は排除されるというような意味合いですね。
これには特に不満はないな。「論理実証主義」自体は自然科学ではない、
自然科学における方法論上のガイドラインを用意するものとしての、哲学
かな?
>>190 人の書いた本、って論理実証主義と無関係の本じゃん。
195 :
考える名無しさん:04/02/22 21:09
読書家に嫉妬する馬鹿が一匹常駐してるな。
>>190 >
>>185 >俺の論理実証主義は、ヴィトゲンシュタインの論考からの理解。
ウィーン学団について語ったてたってのは知ったかぶりか(w
でも、ウィーン学団について語るには、そのメンバーの誰かの著作に頼るしかないんじゃない?
ウィーン学団が最終統一見解を出したわけでもなく、やってたことって「運動」というしかないんだし。
知ったかぶり、というよりは、学団の他メンバーの考察でも出してくれたら
ありがたいです。
198 :
考える名無しさん:04/02/22 22:27
読書が哲学だと勘違いしてる馬鹿も条虫している。
それはともかく、ウィーン学団の統一見解というなら、やっぱ「科学的世界把握」という
ことになるでしょ。まあ、その後の展開はズタボロなわけだが。
>>197 いや、ウィーン学団のでない無関係な著作によって語っていて、
解説書すら読んでないようなレスをしてるがゆえに叩かれてるんだろ。
ヴィトの「論考」に頼るのは厨という結論が出ているし
論考は偉大だと思うぞ。
全面的に正しいと盲信できるもんじゃないのは確かだろうが、それは後期の著作も同じ。
ウィーン学団関係は直接読んだことはあまりないけど、それ以降の哲学者が論理実証主義の概念をたたき台にして議論してるのを読むと
馬鹿にできるものではないな、と感じるし。
論考ファンが厨ってのどうかと思う。
202 :
考える名無しさん:04/02/22 22:55
204 :
考える名無しさん:04/02/22 23:14
>>203 ああ、なんだ。ウィトやポパーも含むのかと思ってビックリしたさ。
『論考』は偉大な古典でしょ。
しかし『論考』の断章を持ち出して「自分の」議論を正当化しようとするのは
大半が厨ってことでしょ。
違うよ
何度ループするんだ
「論理実証主義」のテーゼをヴィトから読み取るのが厨。
この違いは
「ドイツロマン主義」とヘーゲルぐらい違うぞ
有名どころの著作から推し量るのはどうかと。
>>206 つまり
ウィトゲンシュタイン>>>>>>>>>>>>>>>>>>論理実証主義
だな
208 :
考える名無しさん:04/02/23 01:06
どうでもいいけど、「科学的世界把握」読んで(どっかに翻訳あったべ)、エイヤーの『言語・論理・真理』
読んでから出直してこい、っつーの。
在庫ぎれ
エイヤーブクオフで見た
300円
211 :
考える名無しさん:04/02/23 03:27
ファイナルファイト・ガイ「エイヤー!」
212 :
考える名無しさん:04/02/23 03:29
213 :
考える名無しさん:04/02/23 04:53
>>206 じゃあ、論理実証主義と前期ウィトゲンシュタインの違いを説明してみそ。
前者がウィトに大きく負っていることは疑いないだろうが。
>>213 形而上学への衝迫。
論理実証主義者はヴィトが葛藤の末提示した諸命題を、
狭義の科学主義テーゼに転用。
ま、そういうことだね。それで、ヴィトゲンシュタイン自身が
ポパー辺りから誤解されたってことかな???
>じゃあ、論理実証主義と前期ウィトゲンシュタインの違いを説明してみそ。
誤解を恐れずに簡単にいってしまうと、前期ウィトゲンシュタインは、言語
によって語りきれるものだけを、その言語によって問題化するという禁欲主義、
もしくは、すべての問題を言語によって語りえるもののみに限定し、すべての
問題を言語によって限界付けて解消しようとしたのだと思います。
結局同じことですが、徹底的に形式化された言語によって語りえるもののみを
問題化し、この問題の解をその言語の形式性のうちに解消するというテーゼは、
容易に科学の客観性の理想と結びつきます。確かに、世界の数量的把握と形式
化による理解、またそれらによる事象の再現をもって、科学的知識の客観性は
保持されるわけで、確かに両者は密接に結びつくと思います。
しかし、両者の決定的な違いは、言語へのスタンスにあるように思うのですが、
論理実証主義の言語観では、私について語ることができない、もしくは私に付
いて語ることを自ら禁欲している言語=記述言語にとどまるという点であると
思いますが、どうなんでしょ?
217 :
考える名無しさん:04/02/24 01:24
>>216 ウィトゲンシュタインの言語観も、私そのものについて語ることを禁じたはずだが。つまり私の限界は言語の限界に等しいとみなしていた。
そう思います…。
私そのものについて語ること=私の限界、言語の限界ではないよね。
220 :
考える名無しさん:04/02/24 04:41
ウィトゲンシュタインは神秘的なものを
完全に払拭するためではなかったが
論理実証主義は完全に払拭しようとした。
論考において「語る」ってのは、メタ言語的に語ることでないの?
つまり「行為としての発語(日常言語)」は「語り得ぬが
示し得ること」の内に入る、・・・かな?
>>220 「神秘主義」が背景にあってこそ成立した体系から、上澄
みだけ剽窃してって、つまり「巨人の肩に乗って」ってこ
とだな。
論理実証主義は実証によって言語の混乱を防ごうとしたけど、そのよってたつ前提条件(言語の限界とかについての答え)
に実証されていない独断(ウィトゲンシュタインは語らなかった)を持ち込んでいた、ということでいいんでしょうか。
語りえない → いらない という独断に基づく飛躍をしてしまったということでしょうか。
ウィーン学団の論理実証主義=ヴィトの論考ではないって話だった
ね。独断とは、普遍妥当な明証の不可能なものを普遍妥当なものと
主張することだな。序文を読めば、彼は自分の著作を全ての人に押
し付けようとはしていないな。それをやったのは、むしろウィーン
学団の方かな?
225 :
考える名無しさん:04/02/24 18:04
論理実証主義は、論考をある程度誤読したかたちで進めてたんやろ。
「神秘主義」つうか、敬虔主義的キリスト教信仰に近いんだろが。
何でも科学が一番ってことになると、人間は思考停止状態になる
からなぁ。
227 :
考える名無しさん:04/02/24 23:40
思考停止でも、ええやんけ。
繰り返し出てくる科学主義のヴァリアントとして興味深い。
>>227 科学万能論の科学者は総じて二流以下だが。
230 :
考える名無しさん:04/02/25 16:25
結局のところ、
境界が引けないがために行き過ぎた科学主義が逆行したとしか俺には思えない
>ウィトゲンシュタイン
231 :
考える名無しさん:04/02/25 17:10
で?
232 :
考える名無しさん:04/02/25 17:13
>231
どいつもこいつも頭の中身は実証主義でしかないということさ
誰もが歴史の従者でしかない
233 :
考える名無しさん:04/02/25 17:40
うちの母と妹がもひどい実証主義者で困ってます。
>>232 事実をありのままに見ることと、伝統主義的であることは
別の問題だろ。厳密な意味での論理実証主義と、世間的に
言われる実証主義は、重なる部分もあるが、別のものだな。
「実証主義的である」ということには二つの意味があると
思う。
一つは、明証不可能なものは実践的判断において重視しな
いという、通俗的科学主義の態度。それから、もう一つが
ヴィトゲンシュタインの論考におけるような、形而上的な
問題は無視しないが、明証可能な強制知ではないという限
定を設ける態度。
ところが実際には、前者の通俗的科学主義にも、あらかじめ
何らかの形而上学的ドグマが採用されているのが普通なわけ
だが。
236 :
考える名無しさん:04/02/25 18:01
おい、通俗的科学主義とそうでない科学主義は何が違うだよ
237 :
考える名無しさん:04/02/25 18:07
しょーがねーな。
例えばよ、帰納法は通俗的科学主義かそうでない科学主義か?
そうでない科学主義は帰納法を使うのか一切使わないのか?ん?
科学主義ってのは、基本的に通俗的だなぁ。カビの生えた
近代合理主義だろw
っつうか、ポパーの「反証可能性」の教義(?w)によれば、
科学的であることは、その条件として、命題の真理性が暫定
的であること、という風だな。ヴィトゲンシュタインも論考
で、今まで毎日、太陽が昇ったからと言って、明日も必ず太
陽が昇るとは限らないと、同じようなことを言ってる。
「明証性」とは何か、自然科学における「確実性」とは?
240 :
考える名無しさん:04/02/25 18:33
>>234 >事実をありのままに見ることと
それもドグマは免れないよ。
事実は既に理論負荷性だから
241 :
考える名無しさん:04/02/25 18:42
>>241 本人の理解の程度の問題かな? 「文系は馬鹿」とか、人間として品性の
ないヤツは駄目だね(笑
>>240 現実の意味することろの内在の問題だろ?
・・・ところ(ゲラ 現象学的問題だな。あるいは形而上学の。
244 :
考える名無しさん:04/02/25 23:41
>>213 『論考』は要素命題が何かなんか定義していないが、論理実証主義ではかってにプロトコル文だのなんだのと決め込んだ
『論考』は真理条件意味論だが、論理実証主義は検証主義意味論にすりかえた
後期ウィトは検証主義に傾いてないか?
確実性の問題とか?
いや、だから『確実性の問題』は原点回帰じゃないの???
>>234 レスありがとん♪
経験科学と形而上学に境界を引くことができるのか・・・・
論理実証主義からの一連の流れにおいて大きく取り上げられた問題だよね
しかし、そもそも、問題は形而上学と経験科学の間に境界を引くことにあるのだろうか・・・・
それにより多くの哲学的問題が解決できると考える脳がすでに実証主義的だなと感じるまで
多分、完全な分離は無理だろうが、経験科学は抽象的一般性を目指すから、
多様な形而上学との連結が可能だな。つまるところ、実証主義的態度にお
ける「実証」は、根本に於いて経験的であり、永遠に暫定的である、とい
うことだったね。
実証可能なものは、ともかくも実証可能である。実証不可能なものについ
ては、自ら十字架を背負わなければならない。・・・とかw
『論理実証主義再考』、来たぞぉ。これが80年の著作か。
ちゃんとマルクスの唯物論との関係まで論じてら。こんな
風だなぁ・・・。
>>240 「理論負荷性」とは、一回的なものとしての事実(現象)を、
経験によって形成された一般的理論(もしくは常識感覚)の
枠組みに当てはめること、つまり「理解する」こと、かな?
>>249 レスサンクス
とても参考になったよ
とても納得できた ついでにいくつか質問してみる
1まず名前について
>>249 >実証主義的態度にお
ける「実証」は、根本に於いて経験的であり、永遠に暫定的である、とい うことだったね。
とあるけど、この永遠に暫定的である、という意味を「実証」と呼ぶのは語弊がありすぎるのではないか?
2、また、>経験科学は抽象的一般性を目指すから、 多様な形而上学との連結が可能だな
とあるが、抽象的一般性を目指すものは経験科学、形而上学を問わずありそうなものである
むしろ、「形而上学は抽象的一般性を目指すがゆえに経験科学と連結可能だ」と言う方がわたしには納得がいく
経験科学を主語に持ってくる必要をあまり感じない
完全に形而上学を抜き去った経験的命題が作成できるのならばともかく・・・
3.>実証可能なものは、ともかくも実証可能である。
とあるが、この文章の意図するところは理解できるが、
文章自体は一般性を目指すことを放棄したかのような印象を受ける
そのような態度でいいのだろうか?
まー「重要なことは立場ではなく解釈だ」という言葉があるから
表現上に関しての意見が多くなるのかも
1・世間的常識と真実の間には、世の人の考えたこともないほど
深い溝があるものだ、ということかな?w
2・「形而上的」とは「一般化できない」ということである、と
いうテーゼがあるんだが。形而上的問題を普遍妥当を目指すもの
としてのアカデミックな学と認識することで中世ヨーロッパのス
コラ主義のような知的全体主義が発生するのだと思う。
3・実存的なものは具体的であり、個別的だ。盲目的な一般化へ
の意志は、ありありとした生の真実から人を遠ざける。
中世スコラ主義は「理性による神の存在証明」、というような
問題にこだわって来たからね。「神の存在」は形而上的(乃至、
神学的)問題だが、それについて理性による論理的な裏付けを
試みたわけだ。デカルトですら、同じことをやってる。
>>251 そうなんだけど、もうすこしラジカル。
その見方から容易に抜け出せないってところに比重がある。
ああ、分かる。しかし、事実を主観的認識と同一化し過ぎると、
独我論的にならないか?
ひょっとすると、ここら辺からヴィトゲンシュタインの
「写像理論」が生じて来るかな?w
>>256 独我論的にもなるし、自己言及のパラドックスやらなんやら出て来て大変。
それに理論の存立に対してある程度の客観性を認めたとしても今度はハイデガーの
批判(現前性、又は現前性の形而上学批判)が待っていたり、今度はデリダ的に批判
出来るし、僕の小さな頭では…
カント(仮象)やポパー(反証可能性)のように理論や観念、あるいは知なんかに対して
多少さめた目で見るようなことしか今のところ対策がないように思う。
あ、もっと単純に「われわれは観測問題から決して逃れられない」、
という言い方も出来るか・・・。
>>259 そういう風にも言えるし、柄谷なんかみたいに「外部」あるいは「他者」なんかを
持ってくるのも可能だと思う。
>カント(仮象)やポパー(反証可能性)のように理論や観念、あるいは知なんかに対して
>多少さめた目で見るようなことしか今のところ対策がないように思う。
芥川龍之介は『侏儒の言葉』で、「いろは」短歌について、「我我の生活に
欠くべからざる思想は或は「いろは」短歌に尽きているかも知れない」と言っ
てるな。
色は匂えど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見し酔ひもせず
芥川はまだ若造だな( ̄ー☆キラリーン
じゃ、これは?w
宮澤賢治・『春と修羅』序
わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです
これらについて人や銀河や修羅や海膽は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
けれどもこれら新世代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一點にも均しい明暗のうちに
(あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を變じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
以下略。
>>253 返答ありがと
1つの回答に的を絞るね
>2・「形而上的」とは「一般化できない」ということである、というテーゼがあるんだが。
>形而上的問題を普遍妥当を目指すものとしてのアカデミックな学と認識することで中世ヨーロッパのス
>コラ主義のような知的全体主義が発生するのだと思う。
とあるが、これに関してわたしは奇妙なズレを感じる
まず「経験科学」と「形而上学」とわたしたちが呼ぶものがあったとして
・経験科学は一般化を目指す→わたしとあなたが共に了承するであろうテーゼ
・形而上学もまた一般化を目指す→わたしが提出したテーゼ
・形而上学は一般化できないという意味をもつ(形而上学は一般化できない?)→あなたが提出したテーゼ
・では、経験科学は一般化できるのであろうか?
あなたは、一般化可能であると答えるかもしれない
しかし、それならば形而上学は一般化不可能なのだろうか?
経験科学が形而上学と連結することができるというのならば、形而上学もまた経験科学と連結できそうなものである
わたしは、線引きの問題は経験科学と形而上学の間ではなく形而上学の内部において引くことで解決可能であると考える
経験科学と切り離された形而上学と経験科学と連結可能な形而上学、という風に
定義上の問題かな。「形而上学とは何か」という議論なら、このスレの
前の方(
>>153-159、
>>174-178)で、若干、やってあるけど。
>わたしは、線引きの問題は経験科学と形而上学の間ではなく形而上学の内部に
>おいて引くことで解決可能であると考える
強いて言えば、論理実証主義は形而上学の内部にされた線引きについての
議論と言っても良いかも。あるいは分析哲学とは、形而下的問題としての経
験科学と形而上的問題との間の関係論である、とか。
ところで『論理実証主義再考』によると、「論理実証主義」は従来の実証
主義に対して「新実証主義」と呼ばれているね。従来的実証主義のマッハは、
ヴィトゲンシュタインと考え方が似ていると思う。
>>174の「身体によって受ける限定を無視した思考」ってのは、
それはそれで良いんだよな。つまり「形而上的問題=生死に関
わること」。
>>269 返答ありがとう
目の覚めるような答えは返ってこなかったけど
> 定義上の問題かな。「形而上学とは何か」という議論なら、このスレの
>前の方(
>>153-159、
>>174-178)で、若干、やってあるけど。
定義問題は無意味だから論じたくはなかったが、そう解釈されるのが落ちか
別に名前にこだわっているわけではないのだが
>、「論理実証主義」は従来の実証 主義に対して「新実証主義」と呼ばれているね。従来的実証主義のマッハは、
>ヴィトゲンシュタインと考え方が似ていると思う。
マッハは読んだことあるけど、ウィトに似ているかなぁ
と言いつつも、ウィトに対する理解は俺はいまいちなんだよね
よく「それは前期ウィトゲンシュタインの立場で後期は違う」とか返される
まーお互いに興味が交差しなかったということで終わりにしときますか
直接関係あるのはマッハの認識論ではなくて力学。
マッハをどう考えるかはウィトの理解の上で重要だよ。これは石黒ひでも
指摘している。ウィトはマッハ読んでいるらしいし、書いたものからそういう
部分も指摘できるし。ではこの辺で。
274 :
考える名無しさん:04/02/27 15:27
ウィトゲンシュタインについて言えば、マッハそのものというよりも、ボルツマンとの間の論争なんかが
大きいんじゃないの?
ウィトゲンシュタインがオーストラリアの大学に行かなかったのも、ボルツマンの自殺があったせいじゃ
なかったっけ?
(ウィーン学団自体は、その沿革からしても、マッハと深いつながりがあるわけだけど。)
>>271 真実は往々にして決まりきった退屈なものだったりする、かな?
お疲れ様。
ふーん、ヴィトゲンシュタインはマッハの文体を「ムカ付く」とか
言ってるらしいなw(ラッセル宛て書簡) ポパーは、敬虔派プロ
テスタントのユダヤ系オーストリア出身。皆、仲が悪いのは潜在的
なライバル意識のせいか?w
>>275 真実かどうかは知らんが、退屈さってのは前進してる感じがせんのでな
>>276 仲が悪いのは彼らの理論が相容れないものだからのような気がする
それで議論が発生するからおもしろいのでもあるけど
言わずもがなのこと言えば、マッハの古典的実証主義のような厳しいガイ
ドラインがあったればこそ、二十世紀の物理学の飛躍的進歩は可能だった
んじゃないかな? そこは今でも変わらないような気がする。彼らが仲悪
いのは、皆、教祖様気質だからじゃね?w
279 :
考える名無しさん:04/02/29 02:49
形而上学は人を不幸にするのか 幸福にするのか
280 :
☆キキ+キ゚Д゚♪ ◆SHOSHINshA :04/02/29 02:56
これもいいな、
>>278 わたしはそのような理解はしていません
マッハはニュートンの批判者としては第一人者の物理学者であり、ニュートン力学を強く批判した人物です
しかし、科学史を振り返ればニュートン力学からもまた多くの科学理論、飛躍的進歩がうまれています
ニュートン自身、万有引力の法則を思いついた時、自分の気がほんとうに狂ってしまったのではないかと疑ったという話は有名です
離れている物体同士に遠隔作用する魔術的力など厳しいガイドラインからは大きくはずれていそうなものです
もし彼の理論が簡単に捨て去られていたのだとしたらこんにちの科学の発展は得られなかったように思われます
科学の飛躍的進歩を促進するのはガイドラインではなく、自らに規律を与える行為であるとわたしは考えます
それは古典的実証主義とはまったく異なるものと思われます
>彼らが仲悪いのは、皆、教祖様気質だからじゃね?w
そうかもしれない
ニュートンの『プリンキピア』はそのままじゃ「使えない」って
話は聞いたが。ボルツマンの自殺はマッハのイジメが原因、と。今
時じゃ考えられない激しさではあるなw
オースト「ラ」リアってあんた。。。
284 :
考える名無しさん:04/03/01 20:06
論理実証主義ってかっこいいな
『再考』読んで、反ファシズム政治運動の側面もあったと
いうことを理解するわけだが。科学万能論を振りかざせば
民族主義的形而上学の亡霊が追い払えるわけでもなかった、
ということだな。むしろ、その徹底した合理主義はルカー
チの指摘するようにナチズムとの潜在的共犯関係にすらあっ
た、と言えないでもない。もっとも、スターリニズムのソ
ビエトの代弁者に説教の資格があるでもなし、か。云々。
>子猫
ちと誤読してすまんね
古典実証主義的態度が科学の発展をもたらしたと読んでしまった
あなたの主張はマッハの厳しい態度がアインシュタインの相対性理論という大きな変革を科学にもたらしたというものだね
アインシュタインはマッハを師とあおぐし、その理論に関しても相対原理に関してマッハから影響を受けているからね
ただ、アインシュタインもマッハの観念論的原子論には抵抗があったみたいで論争も行ってる
そういえばアインシュタインはポパーとも論争を行ってるね、量子力学問題に関して
>>285 ウィトゲンシュタインやポパーにとってもナチズムというのは無視できない問題だったと思う
もちろんアドルノやベンヤミンは言わずもがなだけど
あの時代の哲学では避けて通れないの問題なのではないかな
288 :
考える名無しさん:04/03/02 02:47
この掲示板の哲学板に常駐しているようなら毎日辛ぇだろ?
思考力も落ちるだろうし哲学できてねえんじゃないの?
世間に出なきゃそのまま鬱で悶え死ぬんじゃねえのガキとオッサン達?
幼中年ヒキコで2ちゃんで妄想繰り返してりゃ自殺指向になる罠(w
己の考え一編捨てて社会出てから考え直した方がアタマよく回ると思うが
ガキとオッサン達そこまで腹括れるか?
ハッキリ言うが、ここはガキとオッサン達の妄論オナニー道場じぇねぇんだよ。
またゴキブリが出たな
>>287 ポパーの『確定性の世界』は面白く読ませてもらったけど
科学の実験と重なるとかなり複雑で難しいね
量子論の黎明期の物理学者達は、言葉そのものの意味で、同時に
哲学者でもあった、と言えるのかな? ・・・いや、これも『再考』
の受け売りなんだけどw
>ガキとオッサン達そこまで腹括れるか?
こういう事言うヤツぁ、世の中の厳しさに負けて奴隷になってる馬鹿w
293 :
考える名無しさん:04/03/03 04:32
論理実証主義最高
294 :
考える名無しさん:04/03/03 20:38
再考だろ
ハイデガーの『形而上学入門』、シュリックへの反論でもあったんだな。
『入門』の有名なナチ賛美発言の超近代志向は論理実証主義と同じで自己
撞着みたいな気もするけどw
・・・と、カルナップの間違いw 普通、新カント派で括られるリッケルトも
「新実証主義」と見なされるんだな。ウィーンと関係が深いから西南学派っ
て呼ばれるのかな? 『再考』、勉強になる本だなw
・・・ウィーンはどっちかつうと「東南」か(ゲラ
298 :
考える名無しさん:04/03/06 01:52
アィーン
300 :
300ゲッツ:04/03/07 02:09
>>299 どゆことかわかんないれつ(´・ω・`)ショボーン
>>299 なるほど。
恥、といいますか、そうして成長する人もいるんでしょうね。
そういう意味ではウィーン学団の挫折は繰り返し語られる価値がある。
上から見た物言い失礼しました。
論理実証主義にはナイーヴな誠実さの哀しさを感じる・・・・
302 :
考える名無しさん:04/03/07 02:14
301がいいこと言った!
303 :
考える名無しさん:04/03/07 03:25
そうかな?
304 :
☆キキ+キ゚Д゚♪ ◆ooOooooopo :04/03/07 03:30
たぶんな
>>300 論理実証主義における哲学の立場とは、せいぜい自然科学の太鼓持ちくらい
の意味しかないから、主体的な哲学をすること自体が無理。それをすると、
擬似科学命題で飾り付けた中味のない戯言みたいな文章が山ほど書かれること
になる。それが冷戦終結前後の哲学の、全てではないが、決して小さくもない
風潮だった。あとは「ソーカル」をキー・ワードにして自分で検索して見れ。
もっと分かりやすく言うと、科学万能論的な哲学である論理実証主義は、
哲学の本来の意義である、現実の、生きた人間の心に深く訴えるような
真剣な問題を取り扱うことが出来ないってこと、かな?w
307 :
考える名無しさん:04/03/07 10:56
(* ̄ρ ̄)”ほほぅ…
308 :
考える名無しさん:04/03/07 11:18
何で「検証」という概念が話題になってないんだろ?
309 :
考える名無しさん:04/03/07 11:25
論理実証主義の中心概念は「検証」で、また、その定義が破綻したこと
で論理実証主義は終わった、っていうのが普通の見方でしょ?
310 :
考える名無しさん:04/03/07 11:48
「検証」で最終的基盤を与えられると思うのはおめでたいのでは?
なんたって検証は既に答えを前提にしてるからな。
>>310 んじゃ、最終的でない基盤ならOKなのでは?
検証自体がドグマだからな
313 :
考える名無しさん:04/03/07 12:05
検証を検証しれ
314 :
考える名無しさん:04/03/07 12:09
>>313 だから、検証という概念を検討した結果、それを定義することができな
いことが分かって、論理実証主義が終わった、という歴史的経過がある
わけじゃないですか。いま論理的実証主義を話題にするのなら、当然そ
の経過を前提にして論じているわけでしょ?
315 :
考える名無しさん:04/03/07 12:15
これが馬であることを検証する場合、馬という概念をあらかじめ
知ってないといけない。では馬概念の定義はなにかとなれば、そ
れをどう定義しようが、それは馬概念をあらかじめ知っていない
と定義できない。
316 :
考える名無しさん:04/03/07 12:17
言語ゲームの始まりだな
317 :
考える名無しさん:04/03/07 13:03
検証って間抜けだね
318 :
考える名無しさん:04/03/07 13:06
「それは科学的に検証できない単なる迷信だろ」←つわものどものゆめのあと。
検証の保証する真理性の前提条件は、ポパー先生によると、それが反証可能で
ある(つまり検証結果の保証が常に蓋然的である)こと、だよね。
言語ゲームは永劫回帰を地で行ってるように見える。
321 :
考える名無しさん:04/03/07 13:13
反証可能って間抜けだね
<<322
すんません。
反証可能ってマシだね
324 :
考える名無しさん:04/03/07 13:40
マジだね
「論理実証主義」って、英語だと"logical positivism"になるんだな。
単に"positivism"だと「実証主義」か。言葉の原義との関係がちょっと
興味あるな。単に「証明」なら"proof"、「検証」なら"verification"
だし。
証明
検証
あ、翻訳ソフト用のゴミ残っちゃった(汗
昔、何かの本『マッハとニーチェ』か何かで実証主義がpositivism"と言うには深い歴史があるって読んだ
どういう歴史があったかは忘れた←役立たず
328 :
考える名無しさん:04/03/07 15:54
ポジティブって確実って意味もある
待て、いつの間に検証主義が終わったんだ?
ダメットやパトナムがいるだろ。
330 :
考える名無しさん:04/03/07 16:04
ダメットやパトナムは、たしかに検証主義の立場を取っているかもしれ
ないが、そこでの「検証可能性」というのは、論理実証主義者が求めて
いたものに比べてずっと弱いものだと思うが。
検証主義の強さなんてここじゃ問題になってないだろ。
>>331 おそらくは「検証可能性」という言葉が実証とはほど遠い意味合いになってしまって
当初の目的を果たせていないという意味ではないかと思われ
333 :
考える名無しさん:04/03/07 16:42
>>331 広い意味での検証主義は終わっていないが、論理実証主義者が考える
「検証」は不可能なことがわかって、論理実証主義は終わったという
こと。それとも、あなたはダメットやパトナムが論理実証主義者だと
思うの?
>>333 上であがってる検証批判って論理実証主義のそれに限定できるか?
明証性は evidence だろ
ナルヘソ。
そういや、マッハの感覚論がゲシュタルト心理学に近いってのは、
「ポジティヴィズム」としては象徴的なわけだな・・・。
実証主義は伝統的に経験論的だから、数学や論理学に弱かった。
だからフレーゲ以後の述語論理で基礎を固めて実証主義を行えば最強と考えた。
こういう推論過程の軽い厨っぽさは好きだな、俺。
こいつらがいろいろやったおかげで様々なことが否定的にとはいえ明らかになったから。
340 :
考える名無しさん:04/03/09 03:54
青春だな
341 :
☆キキ+キ゚Д゚♪ ◆ooOooooopo :04/03/09 05:26
あああああああ
マッハ的な現象論の立場と経験的命題の集合である物理学的領域との
整合性をどう整えるかが難しいんだろうな。一枚岩では無理で、位相
を考慮する必要があるってことかな。
否定的に明らかになって便利なこと
哲板には、「なぜ○○は××なのか?」というスレタイが多いが、
中には「○○は××である」が明らかに擬似命題あるいはドグマというものもあるね。
(例:文系は〜とか)
バラバラな前提で発言されて全然議論が噛合わないのは明白。最初からわかるW
でもその手のスレっていくらでも湧いて来るんだよなあ。
そうそう、先験的命題に相当するスレタイは禁止すべきかw
つか、最近はもう、皆、思いつきでスレ立てるからなぁ。
↓糞スレ認定早見表、導入する?w
47 :名無しさん@3周年 :03/08/05 18:12
単細胞宗教アンチ、追加
神が居ても居なくてもどーでもいいんだけど。。
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1060020604/l50 板違い度:★★★
類似スレ乱立度:☆☆★
スレ立て姿勢不真面目度:☆☆★
スレ・テーマ程度低い度:☆☆★
1000まで埋まらない度:☆☆☆
駄スレ
345 :
考える名無しさん:04/03/11 04:50
マッハ555
346 :
考える名無しさん:04/03/11 10:01
>>345 なに?わたしは馬鹿です?
あたりまえだろ
347 :
緊急のお知らせ 七月中部関東に核が襲う:04/03/11 10:05
<< 【緊急】避難しつつ東海原発浜岡の停止に参加・友人に広めデモ参加お願いします >>
チェルノブイリと同様に偏西風に乗って、七月頃中部地区関東地区に核の雨が拡散、風向き次第では関西地区に拡散、何千万人が癌に侵されてしまいます。
●陳情詳細は2チャンネル臨時地震板のトップ・・【東海】原発浜岡なんとかスレ【地震】・・参照して下さい。
トップリンクには・・とめよう裁判の会(訴訟団募集のお知らせ)で訴訟団加入申しこみお願いします
N0. 88には・・メ−ルで国内・外のマスコミにメ−ル攻勢
NO.103には・・メディア偏向報道への怒りメ−ル攻勢
NO.134には・・デモ参加(至急募集)
原告団・メ−ル攻勢・デモにならないと国会も動きません。原告団は300名余、メ−ル数も不足、デモ予定もない
●中国ODAよりも地方へ企業誘致の税源移譲、全国の津波防波堤や原発、石油コンビナ−トも危険整備すべき問題点でメ−ル等に入れてください。
●七月東南海地震、5月か9月関東大震災(火災旋風で首都消滅)NO,35参照、安全圏に避難しつつ攻勢もかけてください。
詳細は世界の地震学者・各新聞社共同制作本 ニュ−トン「せまりくる巨大地震」ご一読を
●ニュ−トンで全国の活断層・過去の2次被害状況把握できます
★日本人の平和・安全・人権・財産・領土を脅かし、他国援助重視の日本政府に断固反対!!
韓国>>>日本亡国! 2チャン廃止追い込む日本政府に反対!!
コペンハーゲン学派の主観主義的物理学は、マッハのウルトラ現象論の
裏返し、と。
349 :
考える名無しさん:04/03/14 07:13
クワインは関係ないんですか
350 :
☆キキ+キ゚Д゚♪ ◆ooOooooopo :04/03/14 07:35
きひゃくろく
351 :
考える名無しさん:04/03/14 07:37
法実証主義との関係はどうなんですか
>>349 クワインの一番、有名な本を挙げて。
>>351 法実証主義
法実証主義(Rechtspositivismus)は、実証主義(Positivismus)を法学に応用
した考え方で、経験的に検証可能な実定法のみを法学の対象と考える。この結果、
正義・道徳といった形而上的な要素を排斥することとなるため、自然法学と対置さ
れる。また、この立場を徹底したのが純粋法学である。法実証主義の立場をとると、
結局のところ、法の善悪を価値的に判断することを放棄することになる点が問題と
され、ヴァイマル共和政期には方法論争がきわめて激しくなされた。
・・・これはこれで興味深い話題だな。
353 :
考える名無しさん:04/03/14 16:30
クワインも知らずに語ってたのか?
論理実証主義が過去のものになったのはクワインの業績なんだが…
それは狭い分析哲学業界を前提にし杉。
分析哲学業界の外で論理実証主義の破綻も何もないだろうに。
論理分析哲学との関係は
359 :
考える名無しさん:04/03/15 08:21
赤ワイン
360 :
☆キキ+キ゚Д゚♪ ◆ooOooooopo :04/03/15 09:16
363 :
考える名無しさん:04/03/15 23:17
影響力があるって名前くらいは聞きかじったことあるが、
物理学者のファインマンみたいな感じだな。レアな政治
的問題には余りコミットしないから、アタマは良いんだ
ろうが、カリスマ性に欠けるというか。ポパーなら『開
かれた社会とその敵』みたいな著作もあるが。
>>362 おまい、馬鹿野郎。フレームだけ作っちゃえば、世界中の
言語で論考を利用可能。
365 :
考える名無しさん:04/03/16 02:26
クワインなんて穏健保守だろ?
戦争中軍属だぜ?
軍産複合体に何の抵抗もなく組み込まれるテクノクラート中心の哲学。
ノージックみたいな元左翼もいるが。
366 :
考える名無しさん:04/03/17 17:11
ウィトゲンシュタインも戦争中軍属
アメリカは大船だからな。
ハイデッガーはどうなる。
中公の解説じゃ、ヴィトゲンシュタインの参戦は自殺願望って
言ってるけどな。
370 :
考える名無しさん:04/03/18 00:41
分析哲学者は国家主義を崩せないよな
ノージックのリバタリアニズムもあるぞ。
最小国家はアメリカでは共和党支持。
哲学が国家従属でしかないのは、
教会に従属していたスコラ哲学と変わらん。
「大陸哲学」の秘教性とやらを叩いているうちに
最も秘教的な哲学に変貌しているし。
実証主義はラディカルになると
ワケがわかんなくなって自滅しちゃう。
存続する実証主義は伝統を重視せざるを得ない。
「トートロジー」という言葉は「検証原理」と並んで
論理実証主義の合言葉の一つだった。
数学をどう経験主義の枠組みのなかに収めるかが
昔からの経験主義のネックだった。
論理的命題はトートロジーである、というウィトゲンシュタインの考えと
数学は論理に還元できる、というラッセルの主張を合わせることによって
この懸案に最終的な解決が与えられたと論理実証主義は考えたのである。
反証不能だって指摘しても、リアル馬鹿の壁には通じなかったわけやね(涙
どうとればいいのかな。
世にはびこる馬鹿の壁を無効にしようと努力して、
当人たち自身が馬鹿の壁をつくってたってこと?
バカの壁なんていう俗語を使うな愚か者め
ナチのイデオロギーを「反証不可能」と退けたところで、連中が
自分達の信条に科学的厳密さなんか求めてなかったら、何も言っ
たことにはならないわけで。
ことあるごとにナチの例出す香具師って思考停止だと思う。
万人の非難に価するという事実にあぐらをかいて、
気に入らない対象と比較することで印象操作を狙う感じ。
ポパーにも残念ながらそういうところがある。
アドルノ等の批判理論に対する揶揄。
最近だと「ポストモダン」思想に対してこういう言い回しをする奴が多いね。
>>380 ポパーは反証可能性を便宜上の科学の境界設定基準として導入したが
意味の境界設定基準にはならないと注釈をつけていたと思う
・・・つか、論理実証主義は、現実に、目の前の、ナチス・ドイツと
戦ってたわけだがな。
啓蒙主義の最も頭が固いヴァージョンじゃん
カッシーラーの方が頑張ったと思うよ
386 :
考える名無しさん:04/03/21 18:22
>>383 左様、日本主義形而上学やナチズムに共鳴するかどうかは純粋に個人の
人間性の問題だということだがな。
左様とか言ってんじゃねーよw
389 :
(゚ε゚)きにしない!!! :04/03/21 18:26
(゚ε゚)きにしない!!!
>>387 たしかにポパーはその選択を個人の決断に委ねたけれど・・・・・
ナチズムや日本主義に傾倒する輩が哲学を本当にしている
か、どうかかな?w
>>391 俺あて?
いやね、ポパーの科学の説明では
科学では理論を1つだけにする必要はないと言ってるよね
例えばニュートン理論が反証の危機にあっても理論を捨てねばならない理由はないってね
ポパーの科学観は批判的多元主義がベースだと思うからさ
んで、それを形而上学の領域でやることはなぜ不可能なのかなと思ってね
393 :
考える名無しさん:04/03/21 18:40
ラカトシュとかも読んだの?
付け加えて
ポパーは反証例となるような経験命題を反証と受け取るかどうかもまた個人の決断だとしているよね
さらに、反証に過敏に反応しすぎるのもよくない、と言ってるよね
>>393 ラトカシュって理論の核とか図を使って説明するやつ?
何だっけ
補助仮説と理論の核と理論の前提条件だっけ?
>>392 反証不可能命題でそれをする必要はそもそもないだろう。
問題は、形而上学的擬似命題を振りかざす輩どもが、彼の
自身の抱いている思想の本質について理解を出来ていない、
ということではないか?
『論考』の本来の意義は、形而上学を否定することではなく、
形而上学を、本来あるべき精神の高みにまで押し上げること
だったわけだが。
くだらねー
↑こういうヤツに必要なのは哲学じゃなくて火かき棒ね(笑
401 :
考える名無しさん:04/03/21 18:52
漏れもくわしいことは忘れちまったが、なんでもポパー哲学の継承者を
期待されていたが、早死にしたんだよな。
>反証不可能命題でそれをする必要はそもそもないだろう。
反証不可能命題って明確に定義できるものだっけ?
理論が反証可能かどうかについて、ポパーは、「論理的に反証可能である」と説明しているけど
これは反証可能性は理論の提出者の態度に依存するということではなかろうか?
>>401 ラトカシュ?
でもラトカシュってポパー学会からは大きく叩かれてるね
前にも言ったが、反証は検証によって行われる。ところが、
検証という営みもまた、その真理性は蓋然的である、とい
うことかな?
>>404 うーん、ポパーの反証主義はその内容のほとんどが
事実に関してというよりは倫理に関してという感じがするんだよね
406 :
考える名無しさん:04/03/21 18:59
ポパーも馬鹿にされてる
ポパーの言う「反証」は経験命題についてだな。つまり、
物理的に再現可能な問題についてのみだ。科学的検証の
真理性を前提にする限りは、反証不可能命題は明確に定
義可能だろう。
>>405 そう、倫理は反証不可能だ。それは人間的な問題であって、
科学から直接学ぶことは出来ない。
>>408 >ポパーの言う「反証」は経験命題についてだな
うん、俺もそう思う
>科学的検証の 真理性を前提にする限りは、反証不可能命題は明確に定義可能だろう。
どのように定義可能なの?
デュエム・クワイン・テーゼのように前提条件か補助仮説を修正すれば理論の核そのものは反証をまぬがれるわけでしょ
ということは理論そのものが経験に対する何らかの禁止を述べている必要があるわけだけど・・・
411 :
考える名無しさん:04/03/21 19:10
ポパーの反証可能性なんて当たり前の話だよ
ごめん
>>410の文章はおかしい
補足
ポパーは「論理的に反証可能」と言ってるから
前提条件+補助仮説+理論の核に関しては反証することができると言っている
ということは、理論が前提条件+補助仮説+理論の核について述べている必要があると思うんだよね
>>410 そりゃ、前提条件を求めりゃねw
ある命題の真理性を証明したければ、公衆の面前で、その命題が
表すところの事実を再現してみることだ。
やれやれ、人を馬鹿にしておいてこの程度ですか?
>>413 俺が言いたいのは、純粋に反証可能な命題というのはあるのかということ?
どのような命題も命題の保持者の態度によっては反証不可能にすることができるのではないか?
世の中、当たり前のことが分からないヴァカが多くてね。
?が変なとこにいった
>あるのかということ?→あるのか?ということ
とりあえず意味の通るように読んでください
418 :
考える名無しさん:04/03/21 19:14
要するにポパーのどこがすごいんだ?
>>415 信じる気のないヤツには、どんな証拠も無意味なのは、
歴史問題についての2ちゃんねるでの口喧嘩を見れば
明らかだな。
>>419 まーそうだけど、
ポパーの反証可能性は倫理の領域において引かれているように思えるんだ
批判に対して開かれているか閉じているかってね
要するに昼行灯はアホということでよろしいですか?
>>421 歴史の問題は充分以上に倫理的問題でもある。
開かれた社会とその「敵」だからな。
ただ科学にとってはこういう考えは必須だが、
政治だとどうだろう?
中東に対するアメリカの敵意のようなものも
ポパーが煽っているような気がする。
425 :
考える名無しさん:04/03/21 19:18
だからポパーがどうしたっていうんだよ?
仕方ない、シカトされたので、以後このスレ荒らしますから覚悟してくださいね〜
>>424 ポパーが京都賞をとった時に
誰かがポパーのことを「開かれた社会の内なる敵」と批判して
ポパーが「あなたにとって内なる敵とは開かれた社会そのものではないのか?!」
と怒ったという話は有名やね
あぼーん
430 :
考える名無しさん:04/03/21 19:22
馬鹿とはなんだ?
それしか言えないのだな
あーあ、良スレが・・・
あぼーん
あぼーん
専門化されるとは対象の細部を描くことであり、
細部を描こうとすれば対象に厳密な定義を与えねばならず、
それが進めば難解な文章になるのは仕方がないかと思います。
435 :
考える名無しさん:04/03/21 19:23
いいぞ、ぴかぁ〜もっと続き書いてくれ。
>>423 俺が問題としてるのはポパーの「合理主義の非合理性」に関してだね
批判的多元主義はそれ自体は閉鎖的にならざるをえないものなのかな・・・・
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
>>438 つまり、ピカみたいな相対主義者に対して科学主義者が議論をしかけることに意味があるのではないかってことだ
あぼーん
あぼーん
ポパーは歴史主義批判もやってたっけな。
444ゲト
死死死
ま、あとはポパースレでやるべきだろうな
明らかにスレ違いだ
見事にはずした昼行灯ですな。
>>444 うん、『ヒストリシズムの貧困』とあと『開かれた社会とその敵』の後半でちょこっと触れてた
暇があればポパースレにアプするよ
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
>>428 内開きか外開きかって問題はあるねw 「満州門戸開放」とか、
実際は単なる侵略行為だったり。
ピカもいい加減やめろよ。
あぼーん
あぼーん
日本の「開国」は内開きだった。その後、反動で徹底して
外開きに転じたが。
あぼーん
あぼーん
>>415 反証可能にしても検証可能にしても、あくまで権利上の規範概念であって、心理的に
成立するかどうかを問題にする事実概念じゃない。
>>418 検証の不可能性を最初に指摘した点。
460 :
考える名無しさん:04/03/24 18:13
エイヤー本500円で売っているのを見た
某大学そばの古書店
>>459 ・・・・・・・・
それは
>>415の主張したかった内容だと思うぞ
( ゚Д゚)y-~~~
F.Stadler, Induction and Deduction in the Sciences, Kluwer。ウィーン学団の末裔による科学方法論。ベイジアニズムと人工知能に焦点を当てているらしい。D.Gabby&F.Guenthner, Handbook of Philosophical Logic, Kluwer。こないだ言及した第二版が出版されました。
ttp://www010.upp.so-net.ne.jp/intruder/diary.htm ウィーン学団の末裔なんているのか。
>>415 チレスだが、新であれ旧であれ、実証主義における「検証」は直感的な認識
だとしたら、主観(主体、"subject")の状態に左右されるのは当然、とい
うことにはなる罠。
464 :
考える名無しさん:04/03/27 12:46
反証は、認識主体がある命題を反証されたと認めたときに生じる心理的権利存在では
なく、ある事実が成立したかそれを認識主体が認識したその際に非認知的に生じる論
理的存在として、考えられているのではないの?
えーと、ポパーの言う「反証」は、経験的命題についてだったな。
個別データから一般則を帰納するという行為における本質的な不
確定性の問題。「反証可能性」に関わる「検証」は、個別の体験を
データ(事実的命題)に移し変える場合、かな。
一般に検証が問題になるのは、事実的命題についてである、と。
しかしながら、データ化された事実が一般則を支持するか否か、
という検証もある。混同しちゃ駄目だね。
>>465は「個別データを一般則へ帰納する」、かな?w
何もないところに個別的データから一般則を「発見する」、
という行為は直感的な作業だな。
えーと、俺に対していくつかのレスがあるので返答すると
俺がここで問題としたのは
子猫さんの
>>380の
>ナチのイデオロギーを「反証不可能」と退けたところで、連中が
>自分達の信条に科学的厳密さなんか求めてなかったら、何も言ったことにはならないわけで。
という文章が発端です
で、ポパー自身は「合理主義は合理的に正当化することができない、それ自体は非合理的な信仰である」とたしか言ってた
だけど、ポパーの反証可能性の理論は非合理主義相手には何も言ったことにならないのかどうか、個人的に疑問に思った次第です
そして
子猫さん
>>397 >反証不可能命題でそれをする必要はそもそもないだろう。
とあるので、反証不可能命題とは、そのような命題が明確に区分できるのではなく、
個人の倫理的態度に由来するのではないかと反論したわけです
ならば「反証不可能命題を相手にする」とは、そのまま「非合理主義を相手にする」ということを意味するのではないでしょうか?
非合理主義が、彼らの独断に気づかず「補強済みのドグマティズム」によって自らを正当化する時
彼らに対して議論をしかけることは無意味なのでしょうか?
「帰納」って、英語だと単に"induction"なんだな。「誘導」とか「導入」とか
いう意味。帰納」という言葉だと、経験則が個別の事実に大してアプリオリな地位
を占めてしまうようで良くないかも。言語論的転回をしてる。
>>468 オカルト番組で、オーツキ教授が何でも「非科学的だ」の一点張りで押し切るのと一緒
だな。擬似命題ですらない、単に「偽」であるに過ぎない命題に対しては無意味とは
言えないだろうが。
>>469 それは、ポパーが非合理主義を相手にした時の態度ということでしょうか?
しかし、ポパーは反証可能性を科学の便宜上の境界とはしましたが、意味上の境界とはしていません
ということは相手に対して「非科学的だが必ずしも無意味ではない」という言い方になるはずです
それはオーツキ教授の態度とは根本的に異なるものに思えます
ポパーはそうかも知らないが、どっかのサイトでカルナップが
ナチのイデオロギーを反証不可能って退けたって書いてあった
からさ。
あぼーん
くだらねえツッコミ入れんな、ヴォケ。テメエにとって聞きかじりの
知識と自分の知識の境界はどこにあんだ?
474 :
THE グル:04/03/28 10:15
>>473 いいですか、
それはサイババの勝手なんですよ。
どうかしましたか?
耳の穴からカニ味噌出てるぞw
476 :
THE グル:04/03/28 10:23
>>475 いいですか、
それはシャクティの影響を最小限に抑えるという理由でいかないんです。
これが定説なんです。
どうかしましたか?
477 :
THE グル:04/03/28 10:24
いいですか、
↑理由でしかないんです
に訂正
どうかしましたか?
その定説は反証可能じゃないな。
479 :
THE グル:04/03/28 10:26
>>478 いいですか、
カニ味噌が出ましたという演出なんです。
どうかしましたか?
それは事実命題であって、定説は経験的命題の範疇に属するわけ
だが?
天の声は先験的命題。
下らないから、そろそろ歴史的事実に関する命題についての検証の
内容吟味に入るか・・・。歴史認識についての論争もしかり、進化論
しかり。
484 :
THE グル:04/03/28 10:34
いいですか、
無「智」集滅道。無智亦無得。以無所得故。ですね。
定説とは、イコール病気。
定説とはイコールTHE グル。
どうかしましたか?
いや、法に触れなければ問題はない。・・・歴史的事実の検証を取り扱う前に、
いかなる事実的命題も、何らかの先験的命題を前提とすることなくしては、
成立しない。
・・・というテーゼを立てて置いた方が良いかな? 理論負荷性の問題は、先
験的命題ではなく、経験的命題を事実命題の前提にしている点で問題がある様
な気がする。ぶっちゃけて言えば、理論にそぐわないデータを前もって排除す
ることになりかねない。
486 :
THE グル:04/03/28 12:59
\ │ /
/ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
─( ゚ ∀ ゚ )< ていせつていせつ!
\_/ \_________
/ │ \
∩ ∧ ∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ∩∧ ∧∩\( ゚∀゚)< 定説!定説!定説!
ていせつ〜〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________
________/ | 〈 | |
/ /\_」 / /\」
 ̄ / /
 ̄
もうすぐ俺はキレるぞ。
488 :
考える名無しさん:04/03/28 13:58
院生や助教授にとってみれば学祭の蚊帳の外にいる人間が大した資料をもたず読書会にも学会にもいることができない人間が言説を唱えるとは不届きなやつだ。少しくらいかじっているくらいのものでもっともらしい仮説建てやがって。
このスレ何が話の主題になっているのかさっぱりわからない。
491 :
考える名無しさん:04/03/28 14:11
まあだがたかだか影響がない一個人の言説がここで語られることになんの厄介があろう?それともやはり聖域の問題かね?日本の知識人の
492 :
THE グル:04/03/28 14:33
>>487 いいですか、
カルシュウム不足ですか、
そうですか。
そら豆食べますか?
どうかしましたか?
>>488 じゃ反論してみたまえ(笑 科学万能論に釘を刺すと、必ず絡んで来る厨が
いるようだな。
事実命題は先験的命題の前提なしには成立しない、というテーゼの
理由を考えていて、認識論の問題にたどり着いたんだが、この道は、
4.1121
心理学は、哲学に対して、他の自然科学以上に親密なものではない。
いわゆる認識論とは、心理学の哲学のことである。
記号言語についての私の研究は、哲学者たちが論理学の哲学にとって
あれほど本質的なものであると考えている思考過程の研究に該当する、
といえないであろうか。ただし哲学者たちは、多くの場合、非本質的な
心理学的研究に迷いこんでいった。そして、私の方法にもまた同じよう
な危険がある。
・・・ということだな。
検証とは自分自身の経験を通じて
命題の真偽を確かめることである。
たとえば、家から外にでて天気を
確かめることは命題の検証である。
論理実証主義は、検証可能な命題のみが有意味である
として、伝統的形而上学を解体しようとした。
そうして、自ら伝統的形而上学の罠に落ちた、だろw
w←は余計だな。
こないだ『終焉』絡みでピンカーについて探してて見つけたサイトは、
理論物理学はそもそも窮屈な分野なんだから、そこをあげつらうのはどう
かって批判してたが、そういう分野であるのは確かなわけだな。
>>491 俺は上昇志向がないから、場末に流される悪いクセが昔からあってねw
499 :
考える名無しさん:04/03/28 23:03
ま、哲学教授というこれ以上ない財宝への可能性の中心についてはわかりえないが是非高みで会わんことを願う。叩かれる場まではちと遠いが
>>471子猫さん
なるほど、反証可能性という言葉でてっきりポパーのことかと思ってました
すみません
論理実証主義のように科学の境界を意味の境界と同一視するならば
疑似科学に対して「非科学」としりぞけたところで、彼らには何も言ったことにはならないでしょうね
検証に関して思うこと
「地球は丸いか平らか」という時に
検証を重んじると「地球は丸ではなく平らである」という信念を形成してしまいそうに思える
( ゚Д゚)y-~~~
502 :
考える名無しさん:04/03/28 23:21
>>502 個人の経験では水平線は水平に見えるからさ
(厳密には水平線は両端が円形になっている、とある漁師たちには地球は球の形をしているという考えもあったそうだ)
( ゚Д゚)y-~~~
504 :
考える名無しさん:04/03/28 23:34
叩かれる方向を向いているのは1。俺は批評家にはなりえないからな。つまり自身でありすぎるから。しかし教授は大変だろう。実力以上にコネ根回しが必要だから。結局それが現実なんだろ。社会とはそういうところだから
ポス毒がルサンチマンを振りまいているのはこのスレですか?
506 :
考える名無しさん:04/03/29 17:24
>>503 だったら、論理的に地球は水平である、とはいえないんじゃないかしら。
むしろ、論理実証主義は、科学と疑似科学の境界線を
論理的にいえるものは何もなくて行き詰まったんじゃないの。
508 :
考える名無しさん:04/03/29 18:16
論理実証主義の見方はいくつかの相互に関連しあった要素がある。
最も重要なのは、科学主義への関連である。
すなわち、科学的知識がすべての知識パラダイムとなるのであり
哲学も、それ自身科学として探究されうる限りにおいて
尊敬に値する活動たりうつ、と考えたのである。
× たりうつ
〇 たりうる
この考えは、科学のすべては物理学に基礎をおく知識体系に
統一されうる、という主張や
物理学が実在の根本的性格であるという見解と統合される。
この立場は、科学の基準を満たさない領域を拒否する。
形而上学、宗教的主張、倫理的、審美的命題は無意味として退けられる。
以上の見解は、語や文の意味は何らかの形で経験との結びつきを含んでいる、
という経験主義的見解を用いて意味論的に基礎付けられる。
511 :
考える名無しさん:04/03/30 02:25
語が、事実を表さないのだとすれば
経験主義は、語から文への転換が必要である。
意味の担い手は、語ではなく文である(言語ゲーム)
文脈が与えられてこそ、語の意味が理解される。
語に結びつけられている像を見出せなくても、それは問題ではない。
言語の把握は、言語を経験と結び付けることである、と考える経験主義者は
我々が、ある表現を理解しているのは、その表現が現れている文を
経験によってどのようにテストするのかを知っているからである、
と主張するだけでよいのだ。
経験主義者は個々の語と経験を合致させる必要はない。
事実というより像か。
>この考えは、科学のすべては物理学に基礎をおく知識体系に
>統一されうる、という主張や物理学が実在の根本的性格であ
>るという見解と統合される。
この考え方は、例えば生物学では、生物と無生物の境界を、何の
議論もなしに打ち消してしまうね。
514 :
考える名無しさん:04/03/31 11:51
そうかな
生物は複雑な有機的メカニズムの集積であって、その点を
除けば、石ころと質的な差はないと主張するのでなければ、
ね。誰か生命論スレ立てれや、生物板にもねぇぞ、ゴルァ
516 :
考える名無しさん:04/03/31 17:33
統一科学を目指しているんだから、んなこたーない。はず。
物理学は物質の運動やエネルギーについての学だろ。
それが科学の分野の全てではないはずだ。物理学は
分子生物学に結びつくが、強いて言えば、それは生
体の物理構造に関する学問であって、生命/非生命の
区別の問題は手付かずだ。
あぼーん
>>506 経験主義の立場に立つ限り、論理的に法則を導き出すことなど到底できそうもないように思えるが
これだけ要約しているんだから厳密な紹介は犠牲にせんとな。
最低限の正確さは必要だろう。
最低限って人によって違うでしょ。
「科学的世界は悪」を旗印に、以下のことを述べた。
哲学における論理実証主義の行動の究極的な目標は、科学の統一である。
その方法は、諸命題の論理学的分析。
すなわち、歴史的な言語の残りかすから解放された記号体系という
諸定式からなる中性的な体系の探究を通じてなされる。
取り除くべき障害は、すべての疑似命題である。
× は悪
〇 把握
「反証主義の問題点」の最後の方、個人的に気に食わんね
特に「ポパーの決断」のところ
ポパーの理論では前提条件も疑うことが可能であるというのが重要なはず
前提条件を決断によって反証不可能なものとするのはポパーの考えとは違うと思う
前提の前提はどうなんの
>>530 何か確立した前提の設定なり、そのようなフレームワークによって自らの理論を閉鎖的にする態度はポパーの立場とは大きく異なるように思われる
ウィーン学団は当時共通に見られた実証主義、経験主義、
反形而上学的な立場から共感を得て、国際的連帯を生じた。
イギリスではラッセルの条件つき賛成を得て、また『言語、
真理、論理』によって論理実証主義の思想をイギリス哲学
の伝統に跡づけ、さらにその骨子を要約したエアを強力な
代弁者とした。また、北欧諸国やポーランド学派と密接な
関係を保ち、数度の国際会議を開催するに
至った。
しかし、ナチスの台頭期に遭遇し、ユダヤ系の多かった当
学団は相次ぐ弾圧を受け、メンバーの多くはイギリス、ア
メリカに亡命し、第二次大戦の勃発と共にヨーロッパでの
その活動は終焉した。大戦中にアメリカに亡命したカルナッ
プらを中心とする活動は続き、論理実証主義は一時期アメ
リカを風靡するかに見えたが、もはやかつての勢いは取り
戻すことはかなわず、学派としての継属的活動も見られな
かった。
その原因は単なる外的事情のみによるのではなかった。強
力な反形而上学と科学主義を打ち出した論理実証主義の思
想がマッハ、ラッセル、前期ウィトゲンシュタインらの思
想をある方向に徹底化したときに生じるラディカルな帰結
であることは明らかであった。しかし一方で、分析的・総
合的判断の峻別の踏襲を一例として、非意図的に伝統形而
上学の図式を引き継ぎ、形而上学否定の形而上学になると
いう皮肉な結果を生み出した。そのうえ、経験命題の検証
理論がイギリス古典経験論以来の難問を抱え、プロトコル
命題などの仮定は独我論を招来する恐れを宿していた。以
上のようにウィーン学団の活動は、得に現大栄米哲学に看
過しえぬ影響を及ぼしながらも、多方面から批判を招き、
変形と収得生を経て後の英米思想の展開に組み込まれて吸
収されて言ったというべきである。
ttp://ningen.hus.osaka-u.ac.jp/kondou/HIS5.htm
論理実証主義はある意味で「統一科学」運動だったとも言える。
彼らが「科学」とか「科学的」ということを標榜したのは、伝
統的に哲学の中心とされてきた形而上学が嫌いだからだ。
しかし、なぜ科学の「統一」なのだろう。これはしかし逆立ち
した問いであるかもしれない。なぜなら、もともと哲学は科学
の外になかったのであって、そうである時には科学も分裂など
していなかったからである。
つまり、そんな時代には科学を統一する必要もなかったのである。
その中で「原理的な」問題を扱う部分が、次第に「哲学」として
独立するようになったのは、逆に「科学」が「個別科学」として
独立して行ったからである。
だから、論理実証主義が「統一科学」を語るとき、彼らこそ最も
「哲学的」だったのである。親離れしていった子供たち(個別諸
科学)に恨みを抱きつつ、無視することしかできなった自称「哲
学=形而上学者」たちは、その意味でもはや「哲学」者ではない。
論理実証主義は極めて正統的で「まともな」哲学運動なのである。
ttp://homepage1.nifty.com/kurubushi/card61717.html
535 :
THE グル:04/04/03 23:12
いいですか、
チンチンシュッシュッ チンシュッシュッ
これが断言できます。
定説なんです。
536 :
考える名無しさん:04/04/05 04:54
538 :
考える名無しさん:04/04/10 07:01
論理実証主義ってかっこいいな
539 :
考える名無しさん:04/04/10 07:57
540 :
考える名無しさん:04/04/10 10:28
>>540 俺もそれもってるけどそれなりには読めたよ
>>541 こんな古いのを持っている君は、ただ者ではないな。
今度、金できたら注文してみるわ。
544 :
考える名無しさん:04/04/12 00:51
言語でもって言語を語ることはできない。
>>544 ステートメントを述べることは誰にでもできる。
問題はお前がどうそれを論証することができるかだ。
546 :
考える名無しさん:04/04/12 05:03
>>544 ウィトゲンシュタインが、そんなこと言ってましたな。
547 :
考える名無しさん:04/04/13 09:42
言語も論理も事実に基づいてないということで破綻したのか?
548 :
考える名無しさん:04/04/13 09:43
>>547 哲学は単なる言葉遊びだったってこと?
そんな事はないでしょ。
549 :
考える名無しさん:04/04/13 10:08
言語記述は科学的ではないが経験的ではある
と思ってるんだが、違うのだろうか。
550 :
考える名無しさん:04/04/13 11:09
何の話をしてるんだ?
何が知りたくて、何がわからない?
552 :
考える名無しさん:04/04/14 12:06
科学的な説明
演繹的説明(事実との一致でその真理性が保証される)
理論による法則の説明(無矛盾性でその真理性が保証される)
疑似命題=真偽の検証が不可能な命題、論理的に矛盾している命題
554 :
考える名無しさん:04/04/14 23:30
誰もいちいち大数学者の定理や予想などきちんと理解する能力もヒマもないのだが、フランスのポストモダン思想家達のもっともらしい、術語に満ちた「哲学」に欺かれても止むを得まい。
しかしソーカルはそれを許さない。いやしくも思想界の旗手たるthinkerたるもの、「メタファー」などという言葉を超拡大解釈して、 それを隠れ蓑にして堂々と嘘をつくなど(実は本人も嘘をついているつもりはなかったりして)、言語道断の仕業なのだ。
「知の欺瞞」はなんの意味も根拠もないことを「ファッショナブル」(聞こえよく)喧伝し、それが如何にも自らのオリジナルな作品であるかのように取り繕うイカサマ思想家たちを糾弾した、優れた書である。
「知の欺瞞」は脱構築であり、ポストモダンである。
理系のソーカル厨うざい。
文系のソーカル厨よりまし。
559 :
考える名無しさん:04/04/15 07:21
>>553 演繹的説明は、要素命題(プロトコル命題)を
直接的な経験と照合することによって検証する(ウィトゲンシュタイン、シュリック)
これに対し、理論による法則の説明は、
要素命題を仮説的に真であるにすぎないと考えた。
つまり、命題の真理は、命題と言語の外側にある世界との関係ではなく
他の命題群との関係によって決定される、というもの(物理主義)
で、ええのかな。
ようそ-めいだい 【要素命題】
ラッセルやウィトゲンシュタインの論理的原子論において、
それ以上分析できない最小単位の命題を指す。
要素命題が論理的に結合されることによって、
複合命題(分子命題)が形作られる。原子命題。
>>558 >299みたいな馬鹿発言は文系のソーカル厨と言える。
何で論理実証主義がファッショナブル・ナンセンスを用意したのよ<w
「無知の知」の自覚を無くして形而上学的命題で議論を凝り固めているところが・・・
では?
無知の知の欺瞞
マッハは、要素と複合体を区別する。¥
要素とは、色彩、音、熱などの質性、空間・時間の経験であり、
複合体は、物体や主観的意識といった諸要素が構成する総体である。
>>561 ソーカルともはや何の関係もない。「ソーカル厨」でさえない。
よって不適。
要素自体は、心理的でも物質的でもない。
机という複合体にある「硬さ」は物質的である。
これに対し、視覚・触覚などの感覚的な要素によって
生じる意識は心理的である。
要素は、主観の一環として現れるとき感覚的印象であり
客観の印象として現れるとき、物質という。
これらは要素がつくりだした別々の複合体であり
根本から実在を意識と物質にわけているのではない。
論理実証主義ってフランス現代思想の対極でしょ
568 :
考える名無しさん:04/04/16 19:39
哲学は活動であり、科学の言語を論理学的に分析することである
と考えたゆえに、それは自然科学ではないにしても科学的である
と言うことができたのだろう。
569 :
考える名無しさん:04/04/16 19:42
(⌒─‐⌒)
((´・ω・`)) マンマー ギャクソーカルジケンマダー
゚し-J゚
570 :
三浦 ◆K8EfEbyWG6 :04/04/16 19:43
脳障害の嫌がらせぐらいは止めさせろよ.
人間じゃねぇよおめぇら,森なんて
いねぇんだからさっさと死ね.
障害者は人殺しだろうが,それほっといて何やってんだよ,ずいぶん善人だな.
あげつらいと聞こえるか,聞こえないかで,何が分かれると思う.
571 :
考える名無しさん:04/04/17 06:49
論理実証主義は、科学的知識の条件を感覚経験に求めた点では
実証主義と同じだが、それを組織する言語形式を
もっぱら記号論理学に求めたところから、論理実証主義とよばれる。
論理実証主義があれば他に何もいらん。
574 :
考える名無しさん:04/04/17 17:06
経験的検証可能性=完全検証可能性
論理的検証可能性=部分検証可能性
なんですか?
還元主義(の論法)ってさ、
要素命題を決定する時点では適用できないよね?
576 :
考える名無しさん:04/04/18 14:06
どうゆうこと
577 :
考える名無しさん:04/04/18 14:33
キキキ
578 :
考える名無しさん:04/04/18 16:47
検証可能性のどこが間違っているのか、わからん!
>>578 検証可能性を科学の境界線引きとすることがなぜ間違っているかということ?
科学理論のほとんどが検証不可能だからだよ
>>579 科学は、すべてに通用せねばならないから
「すべてのカラスは黒い」の「すべて」が証明できないことは
科学理論のほとんどが検証不可能なものである、ということですか。
それはいいのですが「これこれに検証可能性がある・ない」を
どうやって決めるのでしょうか。これは僕の私的な理解ですが、
たとえば経験にもとづく命題だけが有意味であるとしたら
論理学は経験より先天的であるがゆえに、
論理的に検証可能性を導くなんてことは本末転倒になるから
検証可能性は破綻したのだ、と解釈しているのですが、違うのでしょうか。
>>580 たしか要素命題が観察によって検証できないということが致命的な欠陥だったかな
>論理学は経験より先天的であるがゆえに
経験あるところに論理はない。
が、逆に考えて論理なきところに経験はありうるだろうか?
論理を以って説明し得ない経験は経験と呼べるだろうか?
そこにひっかかりを感じる。
>>581 ちょっと文章が理解できん
論理は先験的なものだけど
論理的に正しいということは経験的内容に関しては一切触れていないということ
だから形式的に正しいと言えるわけだけど
論理的に検証可能性を導くことがなぜ本末転倒になるか理解できん
寝起きだからか?!
>論理学は経験より先天的であるがゆえに
経験あるところに論理はない。
が、逆に考えて論理なきところに経験はありうるだろうか?
論理を以って説明し得ない経験は経験と呼べるだろうか?
そこにひっかかりを感じる。
>>584 単に経験に無関係に、先天的に生じている論理を、論理を以って証明する妥当性への疑いを述べてるのでは?
>>583 僕もそう思ってたんだけど、そうではないらしいことも
聞いたから、わけわからなくなったのだ(x_x)
>>584 >論理的に検証可能性を導くことがなぜ本末転倒になるか
論考には「あらゆる有意味は命題は、感覚によって直接に真理が確かめられる命題である」とある。
つまり、命題は検証に基づいて真偽を示すことができるとき、有意味である。
よって、命題の意味は検証方法にある。
ということで、命題は感覚によって経験的に真偽が検証できないとき、無意味である。
論理学は経験より先立っているため、論理的に検証可能性を開くことは
経験的な検証可能性ではないから、形而上学と何らかわりない=破綻、ということです。
>>587 もう下りるけど、そうではないらしいことって、例えば?
>>587 もう下りるけど、そうではないらしいことって、例えば?
すまん、誤爆した
>>588 17+57=71という算術を考えてみよう。
我々は、これが計算によって真であることを納得しているため、
経験や実験がこれに疑惑を及ぼすことがない。
もし、17個と54個をあわせて60個ないし72個を得たなら、
我々はいくつかが消え去ったか、あるいはより多くものが現れたと考える。
要するに、我々は算術の確実性について全く疑いを抱かない。
それは、これらが先天的であるようにみえる。
それらは経験によって否定される危険性をもたず、
経験による支持を必要としないのである。
(言語・経験・実在 クリストファー・フックウェイ 勁草書房)
僕も誤爆。上のは僕です。
>>587 はい、了解しました
ウィトゲンシュタインの名を出してくれたので理解できたよ
>>591 消え去ったか否か、増えたか否かは経験と没交渉に論じられるのか?
経験による指示があるこそ、17+54を71を正当とできるのでは。
ではさよなら。
>>591 消え去ったか否か、増えたか否かは経験と没交渉に論じられるのか?
経験による指示があるこそ、17+54を71を正当とできるのでは。
ではさよなら。
>>594 んーと
論理と経験では論理の方が優先されると思いますよ
例えば17+54≠71ということを示す経験が得られたならば
我々は論理が間違っていると考えるのではなく
論理は正しいから、何かが起きたのだと考えるのでは?
その結果、科学の発展があったのでは?
例えば、二酸化マンガンに過酸化水素水を加えると量が減るわけですが、それを見て数学が否定されたとは思わないわけです
「減ったものはどこに行った?」と考えた結果、酸素として空気中に放出されたとかの発見があるのでは?
論理や数学は経験によって否定することはできませんね
(してもいいけどあまり得策とは思えません)
それただ、論理を通して世界を見ているからじゃないの?
非論理的な思考回路を通して世界をみる精神病の人もいるけど、
彼にとっての世界は彼の中では合理的な世界。
(我々の)論理は経験から導き出された一つのものであって
経験を超えた何かと考える必要はないんじゃないの?
>>597 別にそう考えてもいいとは思うよ
ただ、論理を弁護するならば
論理や数学は経験によっては反証されないけど、他ならぬ論理自身によって反駁される可能性を持つ
数学の内部にパラドクスが発見されたら数学を捨てるよね
だから数学は検証可能ではないけど、非経験的に反証可能なんですよ
対して、非論理的な思考回路というものは反証可能なんでしょうかね
>>598 「そう考えてもいいと思う」とは非論理的な思考をしてもかまわないということ
論理は超経験的であり経験から導き出すことはできないかと・・・・
600 :
考える名無しさん:04/04/19 00:01
論理は超経験的なのではなく、経験を元に導かれたものでは?
「明日は雨が降るか降らないかのどちらかである」とは経験的に
それ以外考えられないからであって、始めに論理ありきではないと思う。
経験なくして存在するものがあるとは思えない。
形式論理ということでいえば、普通の経験や思考の極く一部をなして
いるに過ぎない。
「早く食べなきゃアイスが溶ける」くらいの判断でも結構論理的なわけだが
形式論理がどれほど関与しているというのか?
>>600 >「明日は雨が降るか降らないかのどちらかである」とは経験的に
>それ以外考えられないからであって、始めに論理ありきではないと思う。
それ以外考えることはできませんが、論理的にも必ずどちらかとは限りませんよ
排中律を抜いた論理というのもあります
603 :
考える名無しさん:04/04/20 16:02
数学でいえば、1、2、3などは事実に基づいているが
564+154となると、そうではなくなる。
無理数や虚数も事実に基づいているとは言えないのでは?
はじめに>11-20,51-54,59,376,508,510-511,527,532-534,568
論理実証主義者とは>1,33,83,95,187,193,378,571
論理実証主義の貢献>71
論理実証主義者の長所>343
論理実証主義の哲学観>305-306
論理実証主義と論考>213-216,223,244,398
論理学は先験的か>583,587,591,594,596-604
検証方法>83,85,495,501+503
検証を保証する条件>319
検証の手続きと事実の区別>86
検証可能性の破綻>309-315,581,584,587
形而上学の除去>144,148,150,153,157,159,174
科学的な説明>553,559
科学と疑似科学の境界線>248-249,252,253-254,268-271,500,507
還元主義の問題点>572,575,582
事実は言語に還元できるのか>74
要素命題>560,564
反証可能性>239,402,408,410-415,459,463-471,529
ポパー>392,394,397
本>22,38,130,167,169,173,208,353,536,540,543
解説サイト>5,212,287,354,363,462,522
「数学とは雑多な技法の寄せ集めである」
ウィトゲンシュタインは、数学をとりまく神話的雰囲気を退散させようとした。
数学を、形而上学的に使用するという誤りがそれである。
数学が生み出す哲学的神話といえば、数学的対象からなる領域が存在し
その領域は我々が経験する世界とはまったく隔絶した一世界を構成する
という考えである。これを「数学的プラトニズム」という。
幾何学のみならず、数学が扱う対象は、我々の経験的対象とは異なり
時間と空間のなかにあるものではない、という考えこそ数学的プラトニズムである。
数学を「使う」のではなく、数学をそれ自身として眺めるとき
人はごく自然にこうした考えに導かれる。
「りんごが二個ある」とか「二メートル幅のカーテンが必要だ」という文を
考えている限りは、人は「二」が何を意味するかなど問おうともしない。
しかし「2+3=5」のような純粋数学に属する文の場合、事情が異なる。
ここで主題になっているのは、2や3のような数そのものだからである。
では、数とはどんなものだろうか。
誰も「数2はいつからいつまで存在するか」とか
「数2はどこにあるのか」といった問いが有意味だとは考えない。
それは、数が時間と空間のなかに存在するものではないからである。
三角形や円もまた、時間と空間のなかにはない。
数学的プラトニズムは、経験主義的感性を逆なでするものである。
逆なでは二通りある。一つ目は「常に存在するもの」という
数学の対象の規定に反対することである。
二つ目は、数学が特有の対象にかかわる、ということ自体の拒否である。
ウィトゲンシュタインは後者の立場にあり、数学が学問=知識であることすら拒否する。
たしかに「5+7=12」や「三角形の内角の和は二直角である」といった命題が
何らかの知識を表現しているのなら、それが何についての知識であるか
という問いをさけることはできない。
ウィトゲンシュタインによれば、数学的領域が特別の領域にかかわる知識
を表現すると人々が考えるのは、数学的命題と経験的命題とのあいだの
根本的に異なる役割に目を向けず、ただその命題としての外見上の類似のみに
こだわるからである。数学的命題は、経験的命題とは異なる役割を担うものであり
経験的命題のように何らかの事態を記述するものではない。
したがって、数学的命題が記述する数学的事態や領域というものは存在せず
数学的対象なるものも存在しない。
数学的命題の役割は、記述の枠組を与えることである。
「数学的命題は、何かを記述する命題とは異なり
記述のための規則として働く」(数学の基礎・第七部六節)
数学は、自然数論を基礎にしている。
自然数は、集合論である。
集合論は、空集合が一つ存在する、という前提から出発している。
空集合とは、要素を一つも持たない集合のことである。
空集合?@が、自然数0と定義される。
その0を要素とする集合{?@}を1とする。
0と1を要素するする集合{?@.{?@}}を2とする。
こうして無限個の自然数ができる。
[文献]
論理学入門 推論のセンスとテクニックのために 三浦俊彦 日本放送出版協会
613 :
考える名無しさん:04/04/28 20:54
614 :
考える名無しさん:04/04/30 16:24
615 :
考える名無しさん:04/05/05 21:42
現代哲学の主潮流の3巻は、とても分厚い。辞書並みだ。
先験的か後験的か、ということについて。
先験的とは、すべての経験と絶対にかかわりなく成立つ認識のことである。
これに対立するのが、経験的認識であり、経験によってのみ可能な認識になる
後験的なものである。しばしば、先験的な認識は、
経験にまったく依存しない認識であり、後験的な認識は、
何らかの経験に依存する認識である、といわれている。
そして、これに対しよくこういう反論がある。
「それでは、われわれにとって、先験的な認識などあるはずがない。
なぜなら、われわれの認識は、そもそも経験がなくては始らないのだから」
しかし、これはカントにとって気の毒な話である。実際「純粋理性批判」でも
「われわれの認識がすべて経験をもって始るということについては、
いささか疑いのよちもない」
と述べられている。つまり、先験的・後験的という問題は、われわれの認識が
どのようにして獲得されたかではなく、われわれの認識の正当化が
何に訴えることによってなされるかなのである。
[文献]
言語哲学大全 (2) 意味と様相 (上) 飯田隆 勁草書房
617 :
考える名無しさん:04/05/08 16:22
つまり、経験さえすればだれでも哲学できるようになる、という説だな。
読書不要論といってもいいだろう。
いや、そうするのは早急すぎないか。
>>616 認識と経験(体験、と言うべきか)の間に根本的な違いはないんじゃ
ないか? 認識とは知覚器官を通した体験のことで。
>>619 それは無意識と意識の区別がないような。
そういうことでもないか。
その境界は、絶対的なものじゃないだろ。訓練次第で、無意識レベルを
ギリギリまで狭めることは出来るし。
まぁ、
>>620の言う事も分かるが。意識とは何ぞや、という話に
なるか。眠っている時には、普通、人は「意識がない」と言わ
れるが、夢を見てる最中の人に、意識がないと本当に言えるの
か。これは、「意識」という概念の医学的理解と哲学的理解の
違いの問題だな。
意識と無意識の、自覚と無自覚の境界は常に揺らいでいるってことさ。
で、まぁ、「認識」にしろ「体験」にしろ「意識」にしろ、これらの
概念は常に「AがBを**する」という形式で用いられる。つまり、既
にこれらの概念には構造的に主客問題が前提にされているわけだね。
処刑ライダーが女子高生を**する
この例では、「処刑ライダー」は主体として、客体としての
「女子高生」に対して「ア・プリオリ」な立場にある、とい
うわけデスネ・・・
5.135
どのようなしかたでも、ある状態が成立するということから、それとはまったく別種の状態の成立を推論することはできない。
5.136
このような推論を正当化してくれそうな因果関係なるものは、存在しない。
5.1361
将来の出来事を、現在のそれから推論することは、できることではない。
因果関係への信仰は、迷信である。
5.1362
いわゆる意志の自由は、将来の行動を今から知ることはできないという点に成立する。ところで、それを知るということは、因果関係も
論理的推論の必然性と同じように内的に必然的なものであると仮定した場合にのみ、可能なことであろう。そのとき、知ることと知られたものとの連関は、論理的に必然的な連関である。
〔しかしながら、「 A は、 p が起こることを知っている」ということは、 p が恒真命題であるとすれば、当然に無意義なことであろう。〕
5.1363
ある命題が私たちにとって自明なものであるとしても、このことから、それが真であることが帰結しているのではない。
とすれば、自明ということも、命題の真理性に対する私たちの信仰を正当化するものではない。
それまでは純粋な経験則に過ぎなかったものの「メカニズム」が「解明
される」ってのは、哲学的には、どういうことを意味するんだろう?
「メカニズム」、も、それ自体、一つの経験則ではあるな。純粋な経験則と
いうのは、例えば昔の人が、空のちょっとしたきざしから、翌日の天候を
読んだりしたこととか。それに較べると「メカニズム」においては、「因」
が「果」を招くことの必然性が、明瞭である、という風。すると今度は、
その「必然性」の根拠が問題にされる。
もっとも理解しやすい経験則は、先に上げた天気の例など。しかし、
もっと根源的なものは、無意識領域に食い込んで来る。それは「当
たり前のこと」として、意識すらされない。更に進むと、我々の身
体の活動サイクルが地球環境に合わせてほぼ24時間周期になって
いるように、身体の物理構造にまで浸透して来る。
・・・そこでお馴染みなコピペなわけですよ。
われわれの心は、先祖たちにとって、生死に関する問題を解決するために、
自然淘汰によって進化したのであって、正確に言葉を交わすとか、問うことが
できるすべての質問に答えるために進化したのではない。われわれは、短期
記憶に一万語も保持できない。われわれは紫外線を見ることができない。われ
われは四次元の物体を心の中で回転してみることができない。そして多分、
われわれは、自由意志や直覚のような謎を解決できない。
カントと論理実証主義ってどう繋がるの?
>>634 それは「言語哲学大全 (2) 意味と様相 (上)」で詳しく書かれている。
論理実証主義は、論理記号から統一科学をはかろうとしたところから
それに数学や論理学はどう組み込まれるか、というのは当然問われた。
論理実証主義は命題を「分析的命題」と「総合的命題」にわけた。
総合的ってなに? と思うのなら、
>>5のサイトを参照せよ。
カントは、先験的(ア・プリオリ)と
後験的(ア・ポステリオリ)という区別を導入した人物。
これを論理実証主義に対応させると、こうなる。
分析的命題=先験的(ア・プリオリ)
↑たとえば経験によらず必然的に帰結する論理学
総合的命題=後験的(ア・ポステリオリ)
本当に論理学は経験によらず必然的?
637 :
考える名無しさん:04/05/13 20:16
>>636 矛盾律とか経験によって証明できるんかい
638 :
考える名無しさん:04/05/13 20:23
マルクス主義が主流の戦前日本ではほとんどはやらなかったね。
経済学者の森嶋通夫氏は大のマルクス主義者嫌い(マルクス嫌いではない)
で、旧制高校時代には統一科学運動に傾倒したそうだが。
639 :
考える名無しさん:04/05/14 01:51
論理「学」は必然ではないだろうが、論理は必然だと思う。
なんでかというと。。。。。
もったいないから教えない。
それが人間の思考なんだから当然のような…
数学の基礎は
>>612で言われたとおり、無限的構造をもっている。
しかし、数学が先験的でありながら総合的である、とするなら
無限的構造をもつ具体的な対象があらねばならない。
数学の定理が、経験的なものではなく規約によるものでしかないなら
論理学と同様に、先験的で分析的なものとなる。
たしかに無限的構造が実在しないわけではないが、
それを証明するのは困難だ。ただ可能性があるだけだ。
これをどうするか。。
>>641 >数学の基礎は
>>612で言われたとおり、無限的構造をもっている。
そうでない数学もあるけどね。
それに集合論を基礎としない理論構成への試みもある。
もちろん、これまでの集合と写像を基礎とする数学を包含する形でね。
>>642 言語哲学大全には、それも書いてあったが
ちと予備知識がなかったので空集合のことしか
読みとれなかった(´Д`;
644 :
考える名無しさん:04/05/15 10:05
646 :
考える名無しさん:04/05/15 18:48
なんで日本では論理実証主義は嫌われてるの?
647 :
考える名無しさん:04/05/15 19:08
>>646 嫌われているというより、興味をもたれなかったと記憶している。
政治的な事情で。現代では、論理実証主義的科学観って
何も生み出さない学者みたいで、
日本の悪い体質を象徴しているようにも見える。
648 :
考える名無しさん:04/05/15 22:05
何も生み出さないって、科学者に何を産み出す事を期待してるの?
自然科学者は世界的な業績を上げてるし、社会科学者でも論理実証主義
に近い近代経済学や法学はちゃんと成果をあげてるじゃん。
何も産み出してないのはマル経や人文系などのポストモダン相対主義に
汚染された人たちだよ。
青木書店発行の哲学事典とかだと「論理実証主義はブルジョワ哲学」って書いてあったりする。
政治的事情ってそういうことか・・・
(σo ̄)ホォホォ
651 :
考える名無しさん:04/05/16 20:51
現代哲学の主潮流わけわかんね
戦前の軍国主義、戦後のマルクス主義とどっちも論理実証主義とは相容れなかった
からね。
しかし、戦前の哲学思潮の半分は「新実証主義」こと、
新カント主義だったからなぁ。科学主義はそれ自身は
空っぽの入れ物だから、担ぐ人間の思想傾向次第でど
うにでも解決するとか。
ん?新実証主義=新カント主義
なの?
新実証主義って言葉は乱用されてるからよくわからん・・・
いや、論理実証主義も括られるらしいけど。
656 :
考える名無しさん:04/05/26 10:20
>>657 失敬な!
読みやすさこそ小河原先生訳のポパーの一番のよさだよ
「テスト可能性」と「検証可能性」って同じ意味ですか?
テスト可能性=反証可能性か。
汝、神を試みること勿れと言うな。
>>659 テストは反証や検証より弱い概念。
検証可能でなくてもテスト可能、ということはありうる。
反証可能でなくてもテスト可能、ということもありうる。
(・0・。) ほほーっ