<本質について>
私の主観的な考えを述べるならば、実在という言葉には、人間を本質"的"に頽落に
落とし入れる何かが、あるように思われます。それは全てが無時間的な相を所有しており、
物自体としてある真理であるような、科学的真理を主体イメージします。
科学によって語られるもの(述語)が存在の本質という事でよいのでしょうか?
<実存について>
次は、“実存”/(存する)について述べます。 (今までに分かったことを勝手に述べるだけです)
おそらく私の用いる、実存という言葉はサルトルのものとは違います。
いやサルトルの言葉がいまだに理解できないだけです。
実存とは、実在する私が、現となった私を見る/(直観) という、
【私の時間】の"累乗"という形での"自己認識"から、
その【実存する私】が現象するのだと考えます。
そのとき 【実在する私】 と 【私の世界】 の双方の"抵抗"によって
【実存する私】が規定されます。そして【実存する私】は、私の世界にリアリティを
伴った形で触れることができるようになる。
それが【実存する私】の存在論、と申し上げてよいかと思います。
いちおう補足として申し上げると
【私の時間】とは、つまり、一乗な時間、あるいは純粋持続と呼ばれるものです。
まあ、差し支えなければ個我(エゴ)もしくは、コギトと呼んでも良いかもしれません。
「我思う、故に我あり」という言葉は、まさしく【私の時間】の累乗を示したものでしょう。
そして、デカルトが「自然の光」と呼ぶ論理を、所有する言語とは一体なんだろうか、
という問いにもどうやら答えが生じるものと私は考えます。
言語こそ、時間そのものではないでしょうか?
言語は語られることによって、時間自体を時間化するのです。
言語を概念と論理が分節された存在様式としてみるには私には限界がありました。
言語は空間ではなく、時間そのものとして考えたならばどうでしょう。
時間の中で、もう一つの時間を生成することが可能。
言語化とは時間存在の、時間化つまり時間の累乗行為と言えるのではないでしょうか?
そして、時間存在として"実存"する言語存在は、いつのまにか人間を超えて、
神の占める位置に立った。そう考えるとなるほど辻褄が合うのだと考えられるのです。
ハイデッガーが【存在と時間】において時間について語らなかった(語れなかった)のは有名ですね。
おそらく、彼は存在について語るには【私の時間】が必要であるという事を知らなかった。
すでに彼自身が、最初の存在について語るときすでに【私の時間】に依拠していることに
まったく気づかなかったのだと思われます。
私は、彼の「存在と時間」における実存論分析はひどいなあと考えていました。
それは、どうしてだろうか考えました。
まだ曖昧にしか分かりませんが、【私の時間】の主体である身体について、
つまりデカルトに習うはずの【心身二元論】についてまったく無視していたから
ではないかと考えられるのです。
カントでさえ身体の一部である感官を対象にした認識論を考察しているのにです。
いや最近読んだデカルトの「情念論」は面白かったな、それだけのことなんです。
ハイデッガーは【私の時間】について触れていない。
彼が心理学を嫌悪したのも、同一の理由ではないかと勘ぐっています。
いえただの愚痴です。ハイデッガーが時間について書いていたら
どうなっていたのだろうなという。
<存在の累乗について>
もう一つ補足します。
累乗とは、私は私である。という「AはBである」という命題(A×B)の、
A=B AとBが同一のものを指します。
これは論理学的見地において、主語と述語が同一の存在という事を示すものです。
A^2 (A1×A2) 「私は私である。」
これは次のような2つの形で解体されます。
「私は私である。」 = 「私である(私)は、私である」
そしてここにおいて、( ) 【括弧】によって"隠蔽"されていた本来 【無】 である
はずの【完全な他者】 である 【私】 が現象するのではないでしょうか?
A^3 (A1×A2×A3) 「私は"私は、私である"と述べる」
この述べるは単に言語化そのものですから、他の意志に置き換え可能です。
恒常的な現(ダー)を、私を包む容器として考えるならば、「思う」としてもいいでしょうね。
まあ、ここで「我思う故に我あり」と等式が成立するとわかると思われます。